囲碁吉の天下六段の道、棋理論2/上達論 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6).5.12日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、「石好み(3)囲碁上達法1、囲碁吉の天下六段の道編」を書きつけておく。これは平素書きつけていたものを元に、2015年初頭辺りから1局打つごとに気づいたことを書き加え、書き直しして現在に至るものである。2015.3月、最近出くわした「囲碁紫煙荘」の「囲碁講座」、「囲碁講座part2」、「革命的格言講座」その他を参照する。以来、一局打つごとに何か教訓を引き出し、該当する箇所の書き直しをしている。これが結構面白くて為になるんだな。途中からプロの碁の対局を見ながら得た感想をも記すことにした。2016年10月、古書店で、菊池康郎(著)「囲碁に強くなる本」を手にいれた。非常に有益なことが書かれてあり、これを取り込むことにする。 ひとたびは思いつくままに書きつけ、後に推敲を加え、次第にいっぱしの囲碁理論にしたいと思っている。囲碁吉が自分の戒めの為に磨きに磨いているものであり、アマの且つそれほど強くもない囲碁吉の囲碁論であるから説得力も権威もない。囲碁吉が今後ひょっと強くなったら、ここに書いたことの値打ちが上がるだろう。今はまだまったくダメですたい。相変わらずアマの県代表レベルに3子、4子(4子、5子かな?)の手合いでしかない。何とかせんととは思っているのだが。いざ出航せん。 最新の方法として、最も肝要と思われる気づきを頭出しにして並べ替えて行こうと思う。 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝 |
【上達論/ある時一気に棋力が上がるを信じて】 | |
「碁に深みが出る」。
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【上達論/勝負決戦の碁が打てたら天下六段間違いなし】 |
「勝負決戦の碁が打てたら天下六段間違いなし」。上達の為には棋譜取りが有効だが、もっと為になるのは勝負決戦の真剣碁を打つことである。その体験経験の回数を増やすことが肝心である。勝負決戦の真剣碁が打てるようになれば天下六段の証ということになる。天下六段になれば勝負の武者修行に出られる。亦楽しからずやであろう。早くそういう実力と身分になりたいものである。後もう少しの気がする。 |
【上達論/囲碁脳のチャクラを拓(ひら)く】 |
「囲碁脳のチャクラを拓(ひら)く」。これが肝心である。「チャクラ」(英: chakra)とは、霊能系の宗教用語で、サンスクリットで円、円盤、車輪、轆轤(ろくろ)を意味する。ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す言葉として用いられる。輪(りん)と漢訳される。チベット語では「コルロ」という。チャクラは7つあると言われる。第1チャクラは脊柱の基底にあたる会陰(肛門と性器の間)にある。第2チャクラは陰部にある。第3チャクラは腹部の臍下あたりの丹田(たんでん)にある。第4チャクラは胸(心臓)にある。第5チャクラは喉にある。第6チャクラは眉間にある。第7チャクラは頭頂にある。この七チャクラを鍛えるのと同様にして囲碁脳を鍛えるのが理想である。こうして鍛えられたものを仮に「囲碁脳チャクラ」と命名する。この「囲碁脳チャクラ」を拓(ひら)くこと、磨くことが肝心である。 |
【上達論/石の不安定の中に安定が見え始めたら天下六段】 |
「石に不安定の中に安定が見え始めたら天下六段」。その通りである。 |
【上達論/石に粘りとコクが出てくれば天下六段】 |
「石に粘りとコクが出てくれば天下六段」。その通りである。 |
【上達論/囲碁の面白みは道中の手造り、手消しのやり繰りにある】 |
囲碁は19路×19路=361路の領土の経営の仕方を争う遊戯(ゲーム)である。結果的に勝負決着で1局が終わるのだが、囲碁の面白みは勝負だけではない、道中の流れのストーリ-を大事にし、棋理に従い、臨機応変に処し、その正解を求めて苦吟するところに楽しみがある。 相手の石組みの隙(すき)や傷を見つけ、手を見出し、手にする。自分の石の手にされる欠陥箇所を発見し、事前に防御する。これを交互打ちの中で堪能するのが囲碁の魅力である。ともすれば、結果オーライの勝ち負けばかりに拘る向きがあるが、最上の喜びは、局面から匂う手、臭う手を見出して、それをものにして、欲を言えばそrを勝負に結びつけることである。 勝ち負けで云えば、勝ち負けに拘らない囲碁は詰まらないし、相手に失礼でもあるのだが、勝ち負けは結果であって、勝ち負け以前の丁々発止にこそ意味がある。手を見出そうとしない、あるいはそれが弱い勝ち負けだけの拘りは味気ない。よし、今日からこの精神で云ってみようっと。 2022.9.23日 囲碁吉拝 |
【上達論/一局入魂。石に神経を通わせるようになれば天下六段】 |
総じて「入魂の一局」を目指さねばならない。これを上達論第一の公理にしておく。ちなみに「入魂」とは文字通り「魂を入れて込める」という意味である。これを分かり易く云うと、雑に打たない、丁寧に打つ、真剣に打つ、気持ちを込めて打つ、楽して勝とうとするのは本当の碁ではないと云うことであろう。もう一つ、手を捜すと云う意味もある。故に早打ちは良くない。それは碁を打つ喜びを半減させている。以上、これらの意味を込めた「入魂の一局」でなければ何局打っても甲斐がない。 |
【上達論/打ち手と石が繋がっている状態になって初めて天下六段】 |
「打ち手と石が繋がっている状態になって初めて天下六段」である。囲碁上達の要諦は、「石に神経を通わせる」ことにある。これは打ち手と石が繋がっている状態であり、この水準になって初めて天下六段の域にあるということである。心して励めよ。 |
【上達論/心技体】 |
芸事(ごと)にはなべて「心技体」が要求される。「心」は「精神、意思、気力」、「技」は「技術、能力」、「体」は「体力、地力」の簡表現と解することができる。この三者を自在に結合せしめて行くところに上達があると心得るべきだろう。その「心技体」の最初に「心」がある。このことの意味を理解せねばならない。よほど大事と云う意味で解するべきあろう。
2002.2.4日、2015.4.10日再編集 囲碁吉拝 |
【上達論/碁は自分の業との闘いの碁ぅであると心得よ】 |
「碁は自分の『業』(ごう、癖性分)との闘いの『碁ぅ』であると心得よ」。即ち、囲碁を盤上の勝負だけのことにするのは値打ちを下げる。自分の癖、性分、業との闘いにすることによって囲碁の値打ちが輝きを増す。例えば、そそっかしい者は碁を通して自分を見つめ直し正して行かねばならぬ。欲深な者は控えることを覚えねばならぬ。粗雑な者は手順を知り用意周到、丁寧の重要性を悟り正して行かねばならぬという具合に。これが囲碁の味わい方、楽しみ方である。よって、囲碁の達人は本来は本当のという意味での「生き方上手」であらねばならぬと思う。即ち、ゲームであるのだが、単なるゲームではない、生き方に繋がっていることを自覚し、己を磨かねばならないと思う。 |
【棋道論その№、上達論、プロとアマの差論】 | |
上達についていえば、アマにもプロにも上達の道が敷かれている。上達すると違う景色が見えて来る。さらに進むと、また新しい景色が見えて来る。この楽しさは、アマもプロも同じであろう。但し、見えるものがあるいは見どころがアマとプロには違いがあるや思われる。 プロとアマの碁の差は色々ある。石運びの厳しさの違いもそうである。プロの碁は、どちらが攻めているのか分からないほど緊迫した応酬碁になっている。意外性のある着手もプロならではの手であり感心させられる。石をいっぱいに働かせて打つ。逆に力を矯めて打つのもプロらしい。どちらも理に適ったいるところがプロらしさである。 こういうプロの力はどこから生まれているのだろうと考えると、脳の鍛え方の差ではなかろうかと思う。脳に骨とか筋肉、腰があるのかどうか分からないが、あると考えた方が分かり易い。あらゆる競技がいわゆる骨格と筋肉、腰の勝負で決まる。その為に相撲取りには相撲取り用のトレーニングがあり囲碁打ちには碁打ち用のトレーニングがあると心得るべきだろう。 碁打ち用のトレーニングとは思うに古典の紐解きである。それらは詰め碁、手筋の宝庫になっているのだが、それが囲碁頭脳の骨、肉、腰を鍛えていると思われる。囲碁古典の代表的なものとして「玄々碁経」 、「官子譜」(かんずふ)、「発揚論」、「碁経衆妙」の四冊、これに「玄覧」、「死活妙機」の2冊を加える。これを確認しておく。 玄々碁経は1347年に中国宋代の晏天章、厳徳甫により大成され元の至正7年(虞集)に再編された古代の囲碁全書である。 官子譜は1690年に中国明の国手の(その時代の第一人者に与えられた称号)過百齢が集めた囲碁手筋を陶式玉によって編集・完成されたものである。手筋の集大成に特徴がある。 発揚論は1713年に日本の名人4世井上因碩が著した詰碁の本で不断桜(桜を絶やさないほどの名品の意味)とも呼ばれる。難解なものが多い。 碁経衆妙は1811年に林家11世元美が著した書で、内容は全部詰碁で実戦に現れやすい基本的な死活の基本を集めている。易しいのが特徴である。ここまでが古典四書と云われる。 玄覧は、1846(弘化3)年、12世井上節山因碩が赤星因徹(あかぼしいんてつ)の「棋譜玄覧」、「手談五十図」を1冊にして発行したものである。 死活妙機は、1910年、秀哉名人が明治時代の「時事新報」に掲載された懸賞詰碁120題を増補訂正して一巻にまとめ「新案詰碁死活妙機」として刊行したものである。 プロは、幼少の頃よりこれらの古典を毎日咀嚼する。幼児の頃より鍛練せねば消化吸収できない。プロが義務教育さえ煩わしく、小中学校を終えるや高校へ進学せずプロの門を叩くのは、この理由によると考えられる。プロとなると14歳までの入段が大物の条件とされている。ちなみに、石田章9段が著書「囲碁界の真相」の中で、棋士になる条件として次のように述べている。
アマとプロの差はこの鍛錬の差によっているのではなかろうか。子供の頃にそこまで厳しく鍛えられていない者の碁をアマと云うのではなかろうか。この中間の者をセミプロと云うのではなかろうか。即ち、セミプロとは、子供の頃にプロほど厳しく精進していないが、それなりに鍛えており、大人になってから鍛えた者とは自ずから差がある、そういう人種ではなかろうか。これは何も囲碁のみではない、他の何々道に通ずる全てのものの法理ではなかろうか。 プロ同士のトッププロと並のプロとの差の理由までは分からないが、それは恐らく天性のものによっている。そう云えば、将棋でも碁でも院生時代に「将来の大物」と太鼓判押された者がその通りに成長することに驚かされる。彼を認めた評者も認められた者も偉いと思う。 但し、付け加えておかねばならない。上記心得は一般論であって、プロの芸道に関してのものである。これに比してアマの場合にはそう厳しく考えなくても良い。アマは精進する限り上達する延びしろがあるのであり、あきらめない限り囲碁吉のように遅咲きすることができる。囲碁吉は寿命のある限り精進していくつもりなので、どこまで昇れるか興味津々気持ちワクワクで日々経過している。加えて、2016年頃より人工知能囲碁が登場したことにより、プロアマ問わず精進ツールが提供されたことの史的意味が大きい。これの上手な活用によりアマの技能が格段に進歩すると思われる。 プロとアマの差をもう一つ確認しておく。プロとアマの差には早熟な頃からの修行の厳しさの経由があるのかないのかの他に、着手の巧拙差がある。と云うのも、着手毎に優、良、可、不可の四基準評価すれば、プロには可、不可の手は基本的にない。ところがアマの手には可、不可が入る。この手が多いほど低段者、少ないほど高段者と云えよう。即ち、全着手を優、良、可レベルで打ち続けられるのがプロ。可、不可混じりで打ち続けるのがアマ。と云うことになるのではなかろうか。ポカ手はプロにもあるようだが、ない手、無価値な手、自殺手を打つのがアマ特有である。こういう手を一手たりとも打たないように心がけて打つのが天下6段の道である。付加すれば、「アマは自分の手の良し悪しを考える。プロは相手の手を読む」。アマとプロにはそういう差がある、とのことである。 2015.02.23日 囲碁吉拝 |
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以下、「プロ碁とアマ碁の比較」その他を参照する。棋力の差は、蓄積情報量、ヨミの深さ、価値判断にある。1、蓄積情報量とは、主として定石蓄積を云う。次に2、ヨミの深さとは、ヨミの広さ、深さ、速さを云う。3、着手の価値判断とは、次の1手の感覚を云う。王銘エン9段曰く「プロは強くなり過ぎてしまって入門者・初心者の気持ちを理解することは不可能だ」は言い得て妙である。 プロとアマの指導碁手合いを決める場合、プロを12段プラスアルファ―として置き石を設定するのが良い。これによりアマがプロと対局するときは、12段が先、11段段が先&二、10段が二子、9段が二&三子、8段が三子、7段が三子&四子、6段が四子を目安とする。これが平均手合いである。プロがトッププロの場合には13段、14段となる。県大会などの常連クラスのトップアマの場合は、8段格、9段格、10段格、11段格、12段格となる。初段ならば星目が妥当である。 アマ5段が平均的な強さのプロに指導碁を打って貰うとすると5子手合いとなる。大概の場合、アマはプロにコテンパンにやられる。プロに3子で入ればアマ8段に相当する。指導碁の場合、3子までの置き碁が「勝負」に近く、4子以上になると 「稽古」碁の意味合いが強くなる云々。 |
【棋道論その№、誰よりも棋理を愛す】 |
囲碁上達の要諦は、「誰よりも棋理を愛す」ことにある。これに尽きると云っても良い。囲碁、将棋は思われている以上に棋理的即ち理論的である。このことにもっと注意が払われても良いと思う。ならば棋理とは何か。そう問われると、これに一言で答えるのが難しい。これを解析するのに、縦線(経過)では「布石の棋理」、「中盤の棋理」、「寄せ(終盤)の棋理」の三種から成り立っている。それぞれ共通している棋理もあるが、それぞれに独特の棋理もあるように思われる。横線(面)では「定石」、「手筋」、「攻め合い」、「詰め碁」から成り立っているように思われる。棋理とは、その間の盤上の石の呼吸、石の生命、石の躍動、石の組み立て等々を総合したもの、と云えるのだろうか。これを磨き、鍛えることが囲碁の道なのではなかろうか。個々の勝ち負けに一喜一憂するよりも、棋理に適った打ち方を磨き続け、鍛え上げれば天下六段に至るのではなかろうか。 あらゆる芸道がそれぞれの筋とかコツとか理をもっている。これを囲碁に当て嵌めれば棋理と云う。囲碁は棋理を味わいながら打つところに妙味がある。棋理を味わうには相当の賢さを要する。そういう意味では、囲碁は賢さが問われる技芸である。世間で「囲碁は難しい」と評される所以のものが確かにあるように思われる。もっとも、であるが故にこそ奥深さのものを求める人も生まれるのが世の倣いである。この人たちによって競われる日本の伝統的芸道が囲碁、将棋であろう。 棋理を潮流で例えるならば、前半が上げ潮ライン、中半がクライマックスライン、その後が引き潮ラインであろう。この観点も存外と大事で、前半を引き潮、後半を上げ潮で打つのは逆さだろうにそういう打ち方をする例が後を立たない。要するにTPOの問題である。TPO(ティーピーオー)とは、Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合。Opportunityと使われることもある)の頭文字をとった造語で、「時と場所、場合に応じた方法・態度・服装等の使い分け」を意味する和製英語(この概念の発案者は「VAN」ブランドの創始者・石津謙介氏)とのことである。 2015.02.16日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、構想力&構想石】 |
棋理に続いて構想力を重視せねばならない。構想力と棋理は被るところもあろうが一応は別と心得、千変万化の棋理から汲み上げる意思を構想力としたい。要するに構想力は主体性の問題である。但しこれは相手の着手にも影響されるので二人三脚的なシナリオともなる。このシナリオの巧拙が棋力でもある。 ところで、構想力で獲得した地、大事にしてきた石は捨ててはならない。これを仮に「構想石」と命名する。構想石をなぜ捨ててはならないのか。それは、経験則で云えることだが、構想石を捨てた場合には大概負けているからである。してみれば、「構想石」は「目先の損得に馴染まない、目先の損得で捨ててはならない生命線の石と心得るべき」ではなかろうか。これを愚考するのに、構想石地面には宝の山が埋まっており今後の含みが多いからではなかろうか。構想石を局面打開に使うべきであるところ、これを捨てることにより石の全体が萎えてしまう、そういう気がする。これは2015.02.23日のネット戦での経験からの総括である。こう了解し今後に役立ててみたいと思う。問題はどれが「構想石」なのかである。これは打ちながら感じ取るべきだろう。 2015.02.23日 囲碁吉拝 |
【上達論/正々堂々、頭柔らかく発想柔軟に、変幻自在融通無碍(ゆうづうむげ)に闘え】 |
「正々堂々、頭柔らかく発想柔軟に、変幻自在融通無碍(ゆうづうむげ)に闘え」。その通りである。プロの碁では局面がコロコロ変わることが多い。これは囲碁の本質に根ざしており、プロならの芸である。これを融通無碍(ゆうづうむげ)と云う。してみればアマも見習うべきで、それは何よりまずもって硬直的な発想による融通の利かない打ち方を改めるべきであろう。囲碁を学ぶことは究極、この思考、処世法を学ぶことにあり、これが囲碁の真の効用なのではなかろうか。こう合点して着手に反映させるべきであろう。よって、「盤上変化を楽しみ味わうべきである」と云うことになる。 |
【上達論/読みは入念に上下左右、全方位に目配せせねばならない】 |
「読みは入念に上下左右、全方位に目配せせねばならない」。その通りである。「入念に」とき「念には念を入れる」と同義である。その上で、読みは局所に拘り続けるのではなく上下左右、全方位に目配せせねばならない。その際の読みは「相手の読み」を信用してはならない。攻め合いとか、先手後手とかを廻る駆け引きの最中は、必ず「自分の読み」を貫かねばならない。自分の読みを入れぬままに相手の読みに従うのは弱気でありお人好しに過ぎない。それは局面を悪くする。この逆を勝手読みと云う。勝手読みは身の破滅を招く。 とある小さな大会の準決勝戦で、ツケ捌きの予定のところ、急に割込みに旨みを覚え、相手の対応の数種数手を読み、決断して着手したところ、読みを入れていない元からキル手を打たれ、全体を大損してしまい、それまでの優勢碁を失った苦い経験がある。読みは上下左右、全方位に目配せせねばならない。勝手読みは厳禁。これを誓った。 2015.11.21日 囲碁吉拝 |
【上達論/相手の言い分を認めながら「なるほどの手」で応えよう】 |
「相手の言い分を認めながら『なるほどの手』で応えよう」。「石の景色」、「石運び」に加えて「なるほどの手」が肝心である。「相手の言い分を認めながら」とは、相手の打った手の言い分を確認する姿勢を云う。これを侮ったり、馬鹿にしたり、頭から否定するような手は打たぬ方が良い。そもそもこちらに見落としがあるかもしれない。この姿勢は人生全体の呼吸に繋がる。そういう意味で、囲碁は生き方に直結している。いったんは相手の手の言い分を認めた上で、こちらの言い分を打ち出すのが良い。これの巧拙を問うのが手談であり囲碁の妙味面白みではなかろうか。 相手の言い分を認めず、こちらの言い分だけ通そうとするのをゴリゴリ碁と云う。ゴリゴリ碁が通用するのは相手が弱い場合のみである。相手が強いと次第に形勢を損じて行くようになるのが経験則である。 「相手の打った石の後追いをしない」。その通りである。相手の打った石の後追いばかりしていては、相手の意中通りになる訳だから形勢が良くならない。当たり前の話である。止むを得ない手は仕方ないとして、それ以外では得心できる手を打つことが肝心である。これは序盤、中盤、終盤共通である。 2018.11.25日 囲碁吉拝 |
【上達論/正調着手モード論】 |
ここで、「正調着手モード論」を確認しておく。「着手モードには早打ち、普通、小考、長考がある。早打ちはしてはならない、その他は局面に応じて正しく使い分けるべきである」。普通モードとは着手するまでに数秒かけることを云う。盤側に記録係りがいると心得、その記録係も同じように着手を考えることができる間合いと云える。早打ちせず最低でもこの普通モードで打たねばならない。小考は、普通モードよりも少し長い数十秒から1、2分程度の時間をかける間合いを云う。長考は数分から数十分要す着手時間を云う。これより長い長考を大長考と云う。これらは適宜のものであるから良し悪しは別である。
「工夫を凝らした考える碁を打とう」。そもそも、着手に当たっては、分かりきったところでも必ず一呼吸置いて確かめて打つべきである。決して夢遊病者のような手、手拍子の手を打ってはいけない。攻め合いの時はなおさら然りである。正確に打たれれば負けの場合は仕方ないとしても、正確に打てば勝っている場合の寄せ合いの仕方、ダメの詰め方、保険の掛け方等で間違ってはいけない。読みを入れて一手毎に責任を持って打ち、勝つべき流れの碁は勝ちきらねばなりませぬ。 「手拍子打ち、夢遊病者のような手は厳禁である」。その通りである。天下六段の資格の一つに「手拍子忌避」がある。どんな局面であれ着手には「呼吸の整え」を要する。その間合い抜きの手拍子打ちは宜しくない。よしんば着手が決まっていても、「呼吸の整え」を経ての着手を心掛けねばならない。これを仮に「正着」と名づける。その理由は、「正」の字義が「止」(とめ)の頭に「一」を入れているからである。その意味するものは、着手を決めたら、打つ前にいったん「止め」て、今度は相手の側から読んで見落としがあるかないかを調べる為の「一呼吸」置いて、合点してから着手すべしの諭しであろう。この理に照らせば、「手拍子打ちする間は未熟である」と云うことになる。だから、手拍子打ちや夢遊病者のような手は厳禁である。一手ごとに責任を持たねばならない。きっと申し渡しておく。 2020.4.6日 囲碁吉拝 |
【上達論/リズム論】 |
囲碁に限らず万事の法則であろうが「リズムを大事にせねばならない」。囲碁には囲碁の独特のリズムがある。これを踏まえて打つ者と踏まえない者の差は明らかである。 囲碁リズムには、着手前の思考時間のリズム、着手内容のリズムの二通りの意味がある。着手前の思考時間のリズムは、着手に思いを凝らすことから始まる。これより読み筋通りの展開のところは流れで打つ。その流れの要所に至ったときとか相手が読み筋と違う手で応じたときとか考えるべきときに考える。岐路の際に沈潜黙考する。要するに、流れで打つのと立ち止まって熟考してから打つの組み合わせを云う。囲碁リズムは、こういう石運びの流れのことを云う。この石運びのリズムを重視せねばならない。良いリズムが勝利の女神を引き寄せるからである。 早打ち、一呼吸打ち、小考打ち、長考打ちのリズムの取り方で棋力が分かる。考えるべきところで考えず早打ちする者、のべつくまなくの早打ちは単にそそっかしいだけである。早打ちでも構わないところで長考する者、のべつくまなく長考する者は慎重居士過ぎるだけである。こういう者には良智が宿らないので、この種のタイプで強い者はいない。 着手内容のリズムとは、攻めと守り、強手と控えめ手、積極性と忍耐の手を、片方に偏るのではなく交互又は適宜な頃合いに繰り出されるような石のバランスを云う。 2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝 |
【上達論/息遣い論】 |
リズム同様に「息遣いも大事にせねばならない」。囲碁のリズムは囲碁の息遣いと相応している。囲碁に習熟しようとすれば、上達者の息遣いを学べば良い。これは本やネットからでは学べない。実際に人から人へ以心伝心されるべきものであろう。最近ではプロの対局を映像で見ることができるのが有難いが、その際は手を見るだけではなく息遣いも窺えば良かろう。プロの碁を見て分かるが、第一着手より暫し間合いを置き、気息を整えてから打っている。これはプロが「気息を整える」ことが如何に大事かを知っているからであり、我々も習うべきであろう。 息遣いは集中力やバランスに大きく関係している。大事決行前に一呼吸置くこと、その溜めのタイミングが大事である。冷静沈着はこれに関係しているように思う。即ち力み過ぎるのは失敗することが多い。いずれ肩で息をする局面にも出くわす。その際の息の乱れは良いことにならない。この辺りも注意深く観察し学べるところは学ぶべきだろう。 「息の乱れ、息切れ」が良くない。「肩で大きく息を吸う」はそのなれの果てである。「息の乱れ、息切れ」が石の乱れ、石の乱れが「息の乱れ、息切れ」に通じるからである。どちらが先かは分からないが、そういう関係にある。自分に対してそうであれば相手にも言える。と云うことは、相手の「息の乱れ、息切れ」を誘うのも高等な芸である。「息遣い」を馬鹿にしてはいけない。 2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝 |
【上達論/姿勢論】 | ||
対局中の姿勢が大事である。集中力に関係して要請されるのがリズム、息遣いであり、それに続いて姿勢が問題にされる。囲碁吉の例で云えば、ごく最近の2015年4月頃、或る6段の人に「強くなったね」と云われた。私は、向かい合わせに別の人と打っていたのだけれども、何気なく云いたくなったのだろう。恐らく背筋が伸びていて且つ対局に集中するオーラを出していたのではなかろうか。確かに、囲碁吉は2015年春の囲碁大会に2回出場しどちらも負けたのだけれども、あの時の経験を通して一皮剥けたような気がしている。恐らくひょっとすると次の大会辺りで化けるかも知れない。今から楽しみである。これはマージャンの場合もそうだが、卓を囲んだ際に、いつもよりゆったり、どっしりと座れた感じがしたその日、牌運の流れが良く一人勝ちした経験がある。囲碁の場合もそうで、座るなりイス席なりゆったり、どっしりと座ることが肝要ではあるまいか。 なぜ悪姿勢が良くないのか。それは、悪姿勢であればあるほど、局面のどこかで、それも重要な局面のどこかで、ミス手、ポカ手、形勢有利な局面での判断の誤り手を打つ可能性が高くなるからである。これはアマでもプロでも云えよう。従って、「姿勢を見れば強さが分かる」ことになる。 このことに関連する格好のエピソードがある。これを確認しておく。「週間碁」(2018.12.24日号)4pの「秋山賢司/一碁一語№11」を参照する。 「風車」(昭和38年5月号)の「背中」と題する伊藤友恵六段(1907-1987)の随筆「小さな巨人の教え」。登場人物の「清ちゃん」とは伊藤友恵の結婚前の姓名である小田清子を指す。明治末から昭和初めにかけての覇者/本因坊秀哉名人の思い出次のように記している。
2015.4.22日 囲碁吉拝 |
【上達論/仕草論】 |
対局中の仕草も問われる。趣意は姿勢論と同様である。 2015.4.22日 囲碁吉拝 |
【上達論/風格論】 |
「強さは風格に表われる」。姿勢に関連して風格がある。風格とは、いざ手合わせする前にその人から感じる気品、威圧を云う。面相、眼威、体型などの容姿や、風体
風采、仕草、それら全体としての雰囲気などから構成されている。風格は自然と滲み出ているものであるから付け刃ではどうにもならない。風格によって打つ前から気後れさせたりさせられたりすることがあり案外と重要である。対局に入っての手つき、息遣い、着手テンポ、どこで考えどれぐらい考えるか等々も風格になる。これらは自然に生まれるもので真似るだけではどうにもならないが、知る、習うという意味では大いに参考になろう。
2015.4.22日 囲碁吉拝 |
【上達論/貫禄論】 |
「強さは貫禄を生む」。貫禄論についても述べておく。国語辞典には、「
からだつきや態度などから感じる人間的重み、風格、立派さ。身に備わった威厳」とある。思うに、風格に実績と年数の「重み」が加わったものが貫禄ではなかろうか。
2015.4.22日 囲碁吉拝 |
【上達論/囲碁は一手一手対話の手談である】 |
「囲碁は一手一手対話の手談である。手談しない碁は囲碁ではない」。このこと気づき、その芸に上達するに連れて一手一手を大切に慎重に打つようになり、決して手拍子打ちをしなくなるだろう。早打ちの凡ミスや見損じが防げるようになる。能く考えて成るほどごもっともの納得の手を打つことになるだろう。ここに囲碁の魅力があるのだから、この手談芸を磨くべきである。
その際、定石は参考であって、時には定石外れ、定石知らずも辞さない覚悟で臨むのが良い。その試行に於いて自ずと着手が見えて来るようになる。且つ、至らない結果になったことに対して反省し、足らざるところを習わねばならない。その繰り返しである。これを精進と云う。 多くのスポーツ対戦は、決着のつく小刻みの「回」を重ねてトータルポイントで「1ゲーム」とする。ところが、囲碁、将棋の対戦には「回」のような区切りものはない。ひたすら盤面に着手を重ねて決着をつけ「一局」を争うトータルゲームである。そういう意味で、「言うは易く行うは難し」であるけれども、「一手たりとも疎かにしてはならない」、「一手一手に責任を持って打たねばならない」、「その果てに結果としての勝負決着が待っている」。そういう訳で、道中の一手一手を大切にして、総じて「工夫を凝らした考える碁」を打とうと云うことになる。 要するに、「なるほどの賢い碁」を打とうと云うことになる。高段者と低段者との芸の差はここにある。高段者になればなるほど石が落ち着いており、低段者になればなるほど石が踊っている。高段者がプロともなると、その手になるほどと得心させられる賢い手の連発となる。であるが故に盤上に並べ返して楽しい。それを習おうと云うことになる。これを逆に云うと、プロの棋譜にはそういう期待が込められていると云うことになろう。 碁はとりわけて考える芸である。なぜそこに打つのか、着手に意味と意志、意図を付与し、それを確認し得心してから着手せねばならない。当たり前のようでなかなかできない。これさえできておれば粗忽な手を打たずに済むものを。故に対局後の検討でいともたやすく並べ直しができる。並べ直しができないのは、一手毎の意味付与、石の流れのストーリーを作りながら打っていないからである。かく自戒せよ。 手に責任を持つとはどういうことか。それは、着手毎に問題図として出されている局面と受け止め、暫し黙考した上で、意味と得心を付与し、順序正しく着手せねばならないことを意味する。かく了解したい。これは、我が石のみならず相手の着手に対しても同様に然りである。彼が打つ石の意味と意思、意図を見抜き、正しく理解して、相応しく対処せねばならない。この両方向の意思疎通ができれば鬼に金棒であろう。 2020.2.11日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、囲碁の別名「手談」考】 | |
囲碁の別名を「手談」と云う。その意味は、「着手を談義する」であり、手談はその略語であろう。まことに結構な妙訳だと思う。確かに囲碁は「着手で囲碁談義している」からである。よって、手談のない独りよがりの碁は本来の碁ではない、囲碁はかくあらねばならぬとの戒めと悟らせていただく。留意すべきは、手談は相手との手談ばかりではない、自らとの手談でもあることである。盤を間に向かいあって、ひたむきに「自他両面の手談」に興じ没頭することこそ囲碁の醍醐味であろう。こういう碁を味わいたいと思う。問題は、このように手談する碁を打たねばならないところ、意味も意思も不明の着手に出くわすことがある。あるいは手拍子打ちで台なしにすることがある。自戒せねばなるまい。 囲碁を打つ面白味は「手を見つけて石語りすることに」ある。即ち「手を見出し、手を作り、手を味わう碁にせねばならぬ」と云うことになる。「手を見出す」とは、攻めにせよ守りにせよ「秀逸なる手」を見つけることを意味する。「手を作る」とは、手を見出した後の手作りを云う。「手を味わう」とは、手作りの成果を確認、検証することを云う。「手を味わう」にはもう一つ意味がある。分かりきったところであろうが、やはり一呼吸置いて手を味わわねばならぬ。然る後に着手する良い癖をつけねばならない。この味わいも肝要である。 当たり前のことだが、マイペースマイウェイ碁は独りよがりな碁であってはならない。碁のことを手談とも云うように、絶えず常に手談しつつ打ち進めねばならない。これができないうちは碁とは云えない。単なる石並べに過ぎない。よって手談碁を打たねばならない。 「緩急自在に硬軟両様で打ち、時には然らばの気合いで切り結ばねばならない」。これが大事である。手談碁にも質がある。最も上質は丁々発止の碁ではなかろうか。但しそれにも質がある。要するに棋力に応じた、且つ棋力上達を目指す策のある、「意思」のある碁を打たねばならない。 今ふと思うのに、碁石の石は「意思」ではなかろうか。少なくとも「意思」を含意しているのではなかろうか。それほど「意思」が大事な役割を持っているのが碁であると了解すべきではなかろうか。囲碁の手談性につき、張ウ9段が次のように述べている。実にその通りであろう。
2015.10.06日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、「手談」のスケールをとことん大仕掛けにしたらどうなるか】 |
囲碁の「手談」のスケールをとことん大仕掛けにしたらどうなるか。これが2016年11月4日現在の囲碁吉の新たな発見である。考えてみれば、ここにプロとアマの違いがあるのではなかろうか。棋力差とは実はこれの差ではなかろうか。アマは、その重みに耐えられないから分かり易い地に走り、それぞれがこじんまりと纏まり、相手もそうだからそれなりの碁にはなるけれどもプロの碁とは違うものになる。プロの碁も地に走ることはあるが、それは闘い辞さずの硬軟織り交ぜてのそれであり、アマの地走りとは違う。もっとも、アマでも喧嘩碁を得意とする流派もある。但し、プロのそれとアマのそれは質が違う。目の付け所と厳しさが違うのだろうと思う。攻めと云っても、アマのそれはせいぜい肉切りまでで、プロのそれは骨断ちまで行く。いわゆる剣道で使われる 「肉を切らせて骨を断つ」違いの話になるのではなかろうか。 ならば、アマの身分で骨断ち碁に向かえばどうなるのか。これが残された課題である。アマにもそういう碁打ちがいるのだろうが、私もそういう碁が打てるようになるよう挑んでみたいと思う。要するに石の折衝の仕掛けを大きくして、即ち話を大きくして、どこが頭で尻尾だか分からないような混戦に向かって戦線を拡大して行き、頃合加減のところで手打ちし始め、そのカオスから勝利的に抜け出していくような碁を打ちたいと思う。人呼んで「カオス手談」と云われるような碁打ちになりたいふふふ。 そのカオス戦線で仮に不利になったら、道中で用意していた時限爆弾を炸裂させて行けば良い。つまり石を取るのはそれからでも良い。これが本来の私の打ち方で確か勝率が良かったのではなかろうか。 2016.11.4日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、短兵急はダメ&息の長いたんのう碁を目指せ&持久戦を目指せ】 |
「盤上変化を楽しみ味わうべきである」の次に肝要なことは「短兵急はダメ段々良くなる法華の太鼓を目指せ&息の長いたんのう碁を目指せ&持久戦を目指せ」。その通りである。碁の上達度は、どれだけ息長く打てるようになったかが秤(はかり)になる。人生も同じではなかろうか。せっかく覚えた碁を「短兵急に仕掛け」、「早見え過ぎのエイヤートー」で打ち続け、検討せずに一日に何番も打つのは勿体ない。息が短いのは手が見えないからでもあるので、初心者の頃は致しかたない。と云うか、初心者の頃は早打ちで番数をこなしデータ集積するのも一法である。問題は、上達するにつれ局面が広く見え出し、それと共にいろんな手が浮かび、そのどれを選択するのか、全体の石をどう関連づけるのかを思案する構想が必要となる。こうなると自ずと息の長い碁を目指すようになる。これを「たんのう」と云う。漢字で「堪能」、「足納」と表記できるがピタッとこない。そこで平仮名表記にする。「たんのう碁」が打てるようになれば、相手がその逆であればあるほど、中盤過ぎまで案外と拮抗していたように見えるも次第に当方の形勢有利に化し、終盤では怒涛の有利寄せ局面になる。こうなると相手が勝手に転んだり自滅するようになる。故に「たんのう碁、持久戦が宜し」と云うことになる。 |
これを「熟(じゅく)し柿戦法」、「横綱相撲」と言い換えることもできよう。即ち、相手のキズをみつけても直ぐには攻めない、頃合に熟れるのを待つゆっくり攻める戦法を「熟し柿戦法」と云う。相手のキズを横目に見ながら、そのキズを衝く出番を切り札として持ちながら打ち進め、次第に形勢を良くして勝つのを「横綱相撲」と云う。横綱相撲にはキズがない。仮にあっても上手に塞ぐ。故に相手の変則に対応できる。一手一手の相手の主張を読み取りながら、慎重且つ丁寧に時に相手の言い分を認め時に反発の自己主張しつつしっかり且つしなやかに打つ。形勢優勢の局面を迎えた頃合に弱石の補強に向かう。相手の攻めを三つ子をあやすように旨く石運びする。これらは皆な横綱相撲の特質であろう。「攻め過ぎ、狙い過ぎがアマ、プロは遠目の熟し柿戦法で仕掛ける」。その通りである。故にアマの碁はセカセカ、プロの碁はゆったりしているように見える。その違いはここにある。 息の長い碁を打てば、下手の方が勝手に転ぶケースが多い。であるが故に、「上手は下手の失着を待つ持久戦を敷く」。上手は忍耐を能くしがまん汁を飲む。下手はこれができずに自分からこける失着を打つ。これより局面が騒がしくなり下手が不利になる。これが棋理の流れである。この耐久レースに挑まねばならない。これによれば、両者の力が拮抗しているときは、勝負決戦時が中終盤まで持ち込まれることになる。まずはここまで持ちこめられる棋力を養い、次にこの決戦に勝利する棋力を確立せねばならない。 いずれ勝負の決戦の刻が来る。どの時点でゴングの鐘を鳴らすのが良いのかは局面によろうが、相手が格下の場合には、隙を見つけていきなり行くよりも三度目の隙に出会うや容赦なく斬りに行くと云うじっくり戦法が良いと思う。なかなかできない訳だけれども。上手の場合にも原則そうだとは思うが、決行遅れで良いとこなしでやられる場合もあるので、早めの時機を窺うのも一法である。この辺りの呼吸が微妙である。 2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、持時間1時間碁が打てるようになれば天下6段】 |
一局にどれくらいの時間をかけるべきだろうか。思うに、意識的な早打ち碁は別として、持時間1時間碁が打てるようになれば天下6段ではなかろうか。初心者の長考は手が分からないために徒に時間を掛けているに過ぎないので別として、相手が打てば条件反射的に打つような棋力同士の早碁の場合には一局が30分もあれば良い。互いに手どころで考えるようになれば1時間ぐらいは掛かる。しかし、持時間1時間碁が打てるようになるには相当の棋力を要する。当然それ以上の持時間を要するとなると県代表クラス、あるいはプロの域に入る。これにより一局の消費時間を見れば、ある程度の棋力が推定できると云うほど対局時間が重要な要素になっている。願うらくは持時間1時間碁を堪能できるような碁打ちになりたいものである。ところで、アマチュアの全国大会の持ち時間が45分と聞く。大会の運営上の都合でそうされているのだろうが、早急に改善させるべきだろう。運営側の棋譜著作権強権化然り、競技時間45分然り、どちらも邪道だろう。 2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝 |
【上達論/名局を目指せ】 |
「名局を目指せ」。その通りである。その名局とは如何。囲碁の名局とは、打ち手のメンタルが終始乱れず、悪手を一手足りとも打たず、平均点以上の手を打ち続け、中押しもしくは並べて勝ちを得た好局を云うのではあるまいか。これが、できそうでできない。
「プロの指導碁のように余裕でゆったりと打つべし」。その通りである。これが大事である。囲碁チャンネルの置き碁道場を見ながら、そのことに気づいた。プロは、互先から井目までの碁を、それなりにこなす。大概はプロが勝つ。アマは、悪手、凡手、異筋手を積み重ねるに応じて形勢を悪くして自分からこける。プロは、アマがこけるまでを大きく見通しながら明るい手を打ち、無理攻めせずに和戦両様で辛抱強く打ち進める。これがプロの芸である。プロのこの打ち方ができるようになったとき好局が打てるようになるのではなかろうか。好局を自分から壊すような打ち方から卒業できるのではなかろうか。 「碁は棋理の習熟を示し合うゲームと心得よう」。即ち、囲碁を盤上の勝負だけのことにするのは値打ちを下げる。棋理の習熟を示し合うゲームと心得て、これの会得ぶりを人生に活かすことによって囲碁の値打ちが輝きを増す。こう悟って楽しまねばなるまい。よって、囲碁の達人は本来は各界の名士名君とならねばならぬと思う。 「局後に充実感のある碁を打つよう心がけよ」。勝った負けたよりも局後の充実感こそ優先されねばならない。真剣に真剣に手を探して打つ。責任の持てる石を打つ。これが肝心である。これをどこまで持続させて打てるのかが問われている。これを集中力という。 2018.06.27日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、棋譜論】 | |
上達を期す為には棋譜を意識して打つのが有効である。棋譜取りすればなお良い。実際に棋譜とりするのは面倒なので、誰かに棋譜を取って貰っていると想定しながら打つのも良い。これを仮に「棋譜論」と命名する。棋譜論には、棋譜汚しの手を打たないよう戒める意味と対局後の検討に足りる碁を打ての二つの意味、意図があるように思われる。記録採りに値する手を打つと云うことになるので、一手一手に緊張感と印象づけの負荷が掛かり、それが上達に有益と云うことだろう。一手たりとも棋力以下の手を打たないことが肝要である。この心掛けがあれば棋譜は自然と脳内に記録され、後からの棋譜取りに資することになろう。 とはいえ実際には言うは易く行い難しである。以前したことがあるがほんの数手先から棋譜汚しのダメ手を連発しており、保存するに値しなかったので並べ返す意味がなく止めてしまった。先日も、序盤の忙しいときに先手下がりを決めたまでは良いが、続いて意味のないハネツギを打ち、手抜かれて中央に回られ、優勢の局面を振り出しに戻す手を打った。ハネツギなぞ打たずに中央に手を回せば制空圏を握り続けていたのに。こういうところは技術以前の精神性の問題だなとつくづく思う。 もとへ。思うに、最近のパソコン能力によれば簡単に棋譜採り、プリントアウト、棋譜のホームページ掲載ができるのではなかろうか。そういうソフトが欲しいと切に願っているのだが今のところ知らない。どなたかに手を取り足を取り教えてもらいたいと思っている。 棋譜意識の重要性はストーリー&メロディーに結びついている。棋譜がストーリー&メロディー性を強めれば強めるほど鑑賞に堪えられるものとなり逆は逆である。これにつき「元院生の思い出話 橘諒」が次のように述べている。この下りがとても気に入っている。
これによれば、棋譜とは対局者と共同の対局物語であり対局歴史書と云うことになる。且つこの物語は一手毎に主張性、数手毎に思想性、全体の棋譜がストーリー性で繋がっている。こういう自覚で打ち続けてみたいと思う。これを能く為し得た場合が名局で逆は粗局なのではなかろうか。名局はプロの棋譜にしか現れず、よって学ぶに値するものがある。同じ理屈でアマの棋譜には学ぶべきものはない。せいぜい反面教師的に学ぶぐらいのものだろう。それはそうと、筋か良いとか悪いとかは、ここで云うところの対局者との共同の物語であり歴史書であるところの棋譜の筋書きと考えれば良いのではなかろうか。筋が良い手は筋書きを面白くし、悪い手は悪くするのではなかろうか。そういう意味での筋論に通暁しておきたいと思う。 2014.6.9日 2014.12.1日再編集 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、検討論】 |
棋譜論に続いて検討論をしておかねばならない。囲碁に於ける「検討」とは、局後行う棋譜の検証を通じての研究、意見交換を云う。プロの場合には、対局者及び解説者、見届人等を交えて行う。これに熱心なのがプロであり、お互いのそれまでの盤上の丁々発止の激闘がウソみたいに和やかなものに変わり演習し始める。よほど人として素直でなければああはなれないなと感心させられるものになっている。 ここでもプロとアマの違いが見て取れる。プロのそれが感心させられるものであるのに比して、アマのそれは、そもそも検討をしない場合が多い。検討せぬまま「もう一丁」と云う掛け声で次の対局に入る場合が多い。仮に検討するとしても、ここでもプロとアマの差が歴然で、プロの検討は一手の価値判断が正確なのに比して、アマのそれは、勝った方の勝ち意識が勝り、この碁は勝つべくして勝った、最初より優勢であったとのストーリーが脳内に勝手にでき上がり、そのストーリーに基づいた検討になり易い。即ち勝った方の云い勝ちになりやすい。その逆の場合もある。相手が投了すべきところを投げんから嫌になって打っているうちに打ち損じて負けてしまったと恨み節を云うことが多い。ここまでは形勢互角、順当勝ち、逆転勝ちの見極めが拙い。そういう訳で、そういう検討なら入らんわいとして「もう一丁」の対局になるのが落ちである。 この水準を越すのが天下6段以上で、それ以下のレベルではまともな検討にならない。そこで、天下6段以上、あるいはプロの介入が要請される訳である。そういう意味で、「正しく検討する」意義ははかり知れない。上達の近道としての棋譜論、検討論に覚醒したい。どうしても次の対局に入る場合でも、最低限のこととして「どの手が敗因か、又は勝因か。なぜ負けたのか、勝ったのか」の敗因勝因の研究をしておきたい。この積み重ねがやがて大器の片鱗となる。そう心得よ。 2018.9.28日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、大手前棋院の専属棋士、盤上の軍師、経営者になれ】 |
棋譜を意識し始めた頃から、更に上達を目指すならば、本物のプロになるのは無理として、ならば自らの大手前棋院を創設し、その専属棋士、盤上の軍師、経営者になると心がけねばならない。当然、プロ棋士とならば棋譜がついて回る。恥ずかしくない棋譜を遺すよう心掛けて打たねばならない。そういう自覚に立つことから次のステップが始まる。これを本日から実践して行くことにする。 大手前棋院専属棋士・囲碁吉の着手は盤上の龍を目指す。龍は隅より中央へ向けて駆け上がり、盤上を煙を吐きながらうねり回る。そういう龍にあやかる着手の棋譜を遺そうと思う。途中経過ではあるが、何やら成績が良くなった気がする。(と云うつもりなんだけどボソボソ) 軍師であれば怯むことは許されない。そういう意味では、自分は強いという「錯覚」が大切である。この「錯覚」を元手にそのまま強くなってしまう可能性がある。気後れしないで対局できるからである。要するに、へこたれてはいけない。へこむのも良くない。その時点で既に斬られていることになる。“石が張っている”ことが大切である。同時に相手の手を考えて相場を見つける必要がある。一杯にいかず「いなす」着手が時に必要である。 2016.2.18日、12.8日 囲碁吉拝 |
【上達論/真剣勝負の経験を積むこと、碁敵(仇)と切磋琢磨すること】 |
練習対局を数多くこなし、積極的に他流試合や大会などに参加すべし。しかして「言い訳無用の真剣勝負の経験を積むことが大事」である。 「碁敵と切磋琢磨することが最良の上達法である」。その通りである。上達道中の最適同伴者を碁敵(ごがたき)と云う。碁敵との切磋琢磨で上達速度が加速する故に碁敵ほどありがたいものはない。この碁敵を求めて出向き出向かれたりするのが最良の上達法である。この碁敵は常時一人であってはならない。常時複数による入れ替わりが前提になっている。 2015.10.05日 囲碁吉拝 |
【上達論/上達の基本は「実戦」、「詰碁」、「棋譜並べ」】 |
上達の基本(上達に欠かせない3大勉強法)は、「実戦、詰碁、棋譜並べ」である。この3つをバランス良くこなすことができれば間違いなく強くなれる。 |
囲碁の上達には「1・ひと目、2・ひらめき、3・読み」の腕を磨くことが肝心である。これの基礎が詰め碁、手筋であり、それの実戦が本碁である。それはあたかも、諺、格言と人生の関係に似ているのではなかろうか。理論と実践の関係にも似ている。両者共の学び、経験を高めるべきではなかろうか。 囲碁の上達の秘訣は打ちたいところに打つではなかろうか。これは何もヘボな手まで認めようと云うのではない。ここへ打ちたいのだけれども、その先の乱戦が分からない、怖いと云うときに安全策をとることが多いが、打ちたいと思うところ、盤神の囁きがあるところに打つのが一興ではなかろうか。打ちたいと思うところ、囁きがあるところは意外に形の良い手が多い。逆に安全策で仕方なく打とうとするところの手は愚形が多い。こういう場合、まずは思い切って打ちたいところに打つべきではなかろうか。こういう打ち方が上達に繋がるのではなかろうか。何となくそう思う。 読みには「幅広さ」と「深さ」との二種がある。例えば、「ハネ」の着手の際に、ノビたらどうなるか。「キリ」の着手の際に、切らなかったらどうなるのかと、読むのが「幅広さ」の読みである。「ハネ」た場合、相手の応じ手を予想し、それに対する応じ手を考えるのが「深さ」の読みである。上達するには、その双方向の棋力をあげて行かねばならない。 2016.2.18日 囲碁吉拝 |
【上達論/上達の為の四つのキ論、6つの敗因論】 | ||||||
アマ最高峰の菊池氏の「囲碁に強くなる本」によれば、上達の為には「四つのキ」があると云う。即ち、「1・好き、2・やるき、3・根気、4・負けん気」の「キ」。碁が強くなるには次の4つの方法があると云う。即ち、「1・打つ、2・見る、3・教わる、4・本を読む」。概要「上達は年齢ではなく碁に対する姿勢に関係している」とも云う。敗因には次の6つがあると云う。即ち、「1・腕力不足、2・見損じ、3・気合不足、4・打ちすぎ、5・緩着、6・形勢判断の誤り」。それぞれなるほどなと思う心当たりがある。 「本を読む」について確認しておく。囲碁吉は2016.10月頃、県下のトップ10に入りトップを窺う方法としての必須著作を確認した。以下の著作を手垢が染み込み、紙が擦り切れるほどまで少なくとも10回以上読み直しすれば、行けると思う。これは今日から必ず実践する。「囲碁吉2016年10月末日、66歳の誓い」として銘記しておく。
2016.10.31日 囲碁吉拝 |
【着手論/手の四種の神器考】 |
「手の四種の神器考/良い手、普通の手、悪い手、厳しい手」。その通りである。これを仮に「手の四種の神器」と命名する。これを見極め、良い手を打つよう心がけよう。 「良い手」とは、棋理に適う手を云う。攻めるのでもなく逃げるのでもなく且つ局面的に見て味の良い、いわゆる柔らかい手、ふっくらとした手を云う。こういう手が打てるようになると高段者の芸である。これを逆に云うと、初心者ほど狙いが露骨で直線的短絡的な打ち方をしており着手の幅が狭い。 「普通の手」とは、局面上、それほど良いとも悪いともいえない大過ない手を云う。別の意味としては棋力通りの手と云う意味もある。 「悪い手」とは、石の効率を悪くしている手を云う。これは石の形としての愚形からも判断することができる。「手の四種の神器」に続く言葉として「良い手では勝てないが悪い手で負ける」がある。悪手セーブが如何に肝要かと云うことになる。 今日、「手の四種の神器」について感想を得たので書きつけておく。かっての兄弟子格、今は囲碁吉の方が兄弟子格のNさんと打った。特段気負わずに全体に普通の手で打ちまわしコミ3目半貰いの白番で盤面6目残した。本局は普通の手で勝てる好例となった。その要因は、囲碁吉は普通の手、Nさんが悪い手を2、3手打ったことによる。こちらが普通の手でも相手が悪い手を打つことにより勝ちを得るのだなと実感した。考えてみれば、一局を通じて普通の手を打ち続けるのは至難の業である。且つ極力悪い手を打たず、ここ一番のところで良い手を打ったらどうなるのか。これはまだ体験がないので未知数である。こういう碁を打ってみたいと思う。将棋でも同じことが言え、「阿部隆の大局観―良い手悪い手普通の手」なる題名の著書がある通りである。 別の日のこと、順風満帆に石を運び、その流れで相手の隅に手が生じ、挟みツケから行けば良いものを二の2のノゾキから手をつけ、反発されて結果的に何の成果もない持ち込みになってしまった。そもそも挟みつけで中での生きと渡りを見合いにすれば十分なところだった。こういう絶好手があるのに欲張って勝手読みの殺し手を打ち失敗してしまった。あの辺りから流れが変わり最後は大差で負けた。こういう負け方は囲碁の運気を悪くさせる。思えば全体に元の木阿弥に戻ってしまっており、技術論のようで精神論、精神論のようで技術論の、あの初歩からの鍛え直し出直しの必要を感じさせられている。 2014.12.09日 囲碁吉拝 |
【上達論/囲碁のうどんこホウレンソウを理解せよ】 |
囲碁の上達を目指すには、それぞれが大手前棋院の専属棋士、白黒軍の軍師、盤上の経営者になる決心をせねばならない。かく覚悟を決めてよりは、「ホウレンソウうどんこ」を信条とせねばならない。「ホウレンソウうどんこ」とは何か。経営学では「ホウレンソウ」を「報、連、相」と読み解く。「報」は「報告」、「連」は「連絡」、「相」は「相談」を意味している。但し、囲碁では「ホウ」を「法」と読み「定石をこなす」と解く。「レン」を「石の連携」の「連」と解く。「ソウ」を「創造」の「創」と解く。よって囲碁では「法、連、創」と解する。 「うどんこ」は経営学では「運、鈍、根」で、「う」は「うん」の略で「運命」、「幸運」の「運」と解く。「どん」は「鈍」と解く。「鈍いくらいの粘り強さ」を意味する。「こ」は「こん」の略で「根気」の「根」と解く。一局に於いては「盤上の持続的な集中力」、棋道に於いては「愚直な精進」を意味する。 囲碁の「法」、「連」、「創」、「運」、「鈍」、「根」の各項は全体の六分の一の比重を持っている。囲碁は盤上のマラソンレースと心得ればよい。棋士はこのマラソンレースに耐えられる力を身につけねばならない。裏意味として、このマラソンレースの決着を先延ばしして持久戦で勝つよう心がけねばならないということになる。かく心得よ。 「囲碁は盤上のマラソンレース」を指手数で考えれば、19×19=361路を交互に打つので、361÷2≒180となる。これにコウがつくともっと指手が増えるが、それも加味して平均ざっと200手と想定できる。この200手を「次の一手」形式で最善手、良手、普通手を打ち続けることができるかどうかが問われている。実際には悪手、俗手を打ち、それを整形する手などがあり、決して平坦な道にはならない。とはいえ、「囲碁は盤上の囲碁はホウレンソウうどんこ持久マラソンレースであると心せよ」と考え、これを完走できる知力体力精神力が必要である。こう了解する必要があろう。勝負を急がず敢えて先延ばししながら200手まで打ち続ける「持久力レース」と考える必要があろう。暫くこの線で打ってみようと思う。 2016.1.23日 囲碁吉拝 |
【上達論/二通りの囲碁稽古法】 |
囲碁の習い方として二通りの方法があると考えている。例えて言えば富士登山の方法に山梨コースと静岡コースがあるようなものである。どちらがどちらになるのか分からないが、全体を掴む大局観コースと、部分の応接を正確にマスターして行く積み上げコースの二通りがあると思う。囲碁吉は前者派であるが、ようやく積み上げコースへ辿り着いた。当然、積み上げコースから大局観コースへの道順もあると思う。どちらが良いというのではなく、当人の似合いのコースで邁進するのが良かろう。 定石、死活、手筋、手順、布石の習熟の必要については次のように考えている。囲碁は紛れもなく頭脳格闘技である。ならばこれに応じたトレーニングをしておかねばならない。囲碁のトレーニングとは脳筋を鍛えることである。脳に筋肉があるのかどうか分からないが、そう考えた方が分かり易い。少なくとも文学的表現では許されるのではなかろうか。脳筋を鍛えることで読みと感覚が磨かれる。脳筋鍛錬は厳しい道のりであるが、山登りに似たすがすがしさを味わうことになる。ちなみに囲碁が頭脳格闘技だとしても、その他の競技には頭脳が必要でないと云うものではない。全体の割合に於いて体力よりも頭脳勝負の色が濃いぐらいに考える必要がある。 世上の一部で、学者的頭脳を高く評価する向きがあるが机上学的に過ぎておりナンセンスであろう。学者的頭脳は実践で検証されるべきで、実践で試され合格した頭脳をもって高度と受け止める必要があるのではなかろうか。だから、あまりにも天狗の学者には囲碁を覚えさせ、その熟達振りを測って頭脳を測定すれば良い。経験上、「ならばよぅしっ」と引き受けた学者はいないふふふ。 2013.6.3日 囲碁吉拝 |
【上達論/プロレッスン、プロの棋譜並べが良い】 |
上達の近道は、「1・お気に入りプロの勝ち碁の棋譜並べ、2・プロレッスン、3・AI碁研究」である。「お気に入りプロの勝ち碁の棋譜並べ」は漫然とした「プロの棋譜並べ」を工夫したものであり、より有効ではないかと思われる。「勝ち碁」に拘るのは、全局の棋譜並べだと時間が係り過ぎると思うからである。囲碁吉はこれをやる道中で碁仇に自然に勝てるようになった。まだ道中なので、これが終わる頃には2目ほど強くなっているのではなかろうか。そういう予感がする。「お気に入りプロの勝ち碁の棋譜並べ」がなぜ良いのかというと、「お気に入り」の場合、恐らく脚質が同じと云うことであろうから馴染み易い。「プロの碁」は「頭の良い碁」であり、自ずと定石に通じることになり、なるほどこう打つのかと「目からうろこ」で教えられることが滅法多い。もう一つは、何か囲碁の本質と云うか思想と云うか会得せねばならぬものが伝わってくるからである。棋譜並べの道中で不思議に何か頭がスーと爽やかになり賢くなった気がする。これはやった者なら共通して感じることだろう。「棋譜並べ」することにより、どんな局面でも落ち着いて打てるようになった気がする。 付言しておけば、「お気に入りプロ」の対象者は人それぞれであろうが、私が聞いた声として道策、丈和、幻庵、秀和、秀栄、秀策、秀哉、呉清源、武宮、井山等々が挙げられる。今はこれにAIが加わる。棋譜は囲碁の歴史遺産であり、これを学ばぬ手はなかろう。これを学ばずして打つ碁は味気なかろう。これが今のところの気づきである。 |
【上達論/「千局打てば初段」の教え考】 |
囲碁には「千局打てば初段」という教えがある。この教えの意味は、覚えたての頃は徒に長考するよりも、むしろ早打ちでどんどんゲームを消化して石の感覚を磨いて行くのが良い、失敗例と成功例を積み重ねるほどに手筋を覚えて行くのであって、そういう経験を積み重ねるのが良いと云うことだろう。こうして「千局打てば初段」の頃がやって来る。これより先は作法を革めなければならない。他の稽古事共通であるが上達には「反省検討」することが要請される。即ち、打ちっぱなしは良くなく局後に「反省検討」するのが良い。その上で、ライバルと切磋琢磨するのが一番の上達薬になる。ヘボ同士打ちでは上達しにくい。上段者対局の打ち筋を静かに見守りながら覚えるのも良い。 2014.09.22日 囲碁吉拝 |
【上達論/泣きとヤキが入らなければ上達しない】 |
「泣きとヤキが入らなければ上達しない」。要するにそういうことである。何度も泣かされ、転がされ、這い上がって、立ち上がって掴み取った着手は、それ以前のものとは違う丈夫なものになる。自戒を込めて云えば、我々の頭脳はかなり頑固である。この頑固を悔い改めさせるにはよほど悔しい思いをせねば無理である。これを「泣きが入る」と云う。泣きが入らなければ上達が難しい。 その為には自分より強い相手を求めてどんどん「懸かり稽古」すべきである。これを逃げるようではダメ。大会にも極力出て負かされ口惜しがるのが良い。これを「焼きが入る」と云う。囲碁も仕事も何も皆な原理は一緒である。囲碁を鍛えることにより間接的に仕事に向かう姿勢と能力をも鍛える。そこに囲碁の面白みと役割があると思っている。 囲碁に嵌まり過ぎて仕事がそっちのけになると云うこともありがちではあるけれどもふふふ。 この辺りは刀鍛冶の教えが最も的確だろう。そこで解説書を参照すると次のように説明されている。概要「焼が入って硬くないと斬れ味が悪く刃のもちも悪くなる。しかし峰の側まで焼入れすると簡単に折れてしまうため峰の方に焼が入らないように冷却速度を遅らせる必要がある。これが焼刃土である。すると刃の側のみに焼が入る。焼が入ると鋼は膨張するので、結果、刃の側が凸に反った形状になる。焼き入れは、外から光が入ってこない状態で行う必要があるため夜行う。方法は、刀身全体を火炉の中で800度程度まで上げたあと、船という水槽の中に一気に入れ急冷し焼き入れ硬化させるのがコツである。このとき重要なのが温度の見極めである。温度は色で見分けるので夜に作業する必要がある。温度が高すぎると刃切れ(亀裂が入ること)が起こり、低すぎると焼きが入らないので非常に難しい作業である。土置きで刃土を厚く塗った棟側はゆっくりと冷えていくので焼きが入らず、硬くならない。また、ゆっくり時間をかけて冷やされ縮むので反りが生じる。一方、薄く塗った刃側は急激に冷えるので、焼きが入り硬くなる。このように土置きすることで、柔軟性と鋭い切れ味を持った良質の刀を作ることができる。硬度の差が生じることにより、研いだ際に刃紋が浮き上がる。このとき、刀匠独自の美しい模様をつけることができる」云々。 |
【上達論/地力とは】 |
「地力」(じりき)に一言しておく。「地力」とは、「本来持っている力
。そのものに備わっている本来の力。実力」を云う。大相撲における地力が参考になる。大相撲で地力があると言えば、その番付に見合う実力を基準にして、潜在的に番付上位の力量を有しているという肯定的な意味で使われている。実力にキャリアを加味したものが地力だと思えば良い。囲碁でも同様な意味で使われているように思われる。即ち、優勢な碁を優勢なままに打ち進め、非勢な碁を盛り返し、結局は勝ち碁にするのを「地力がある」と云うのではあるまいか。
2015.10.05日 囲碁吉拝 |
【上達論/棋士に問われている諸能力考】 |
囲碁棋士に問われている能力は、局面が呼んでいる手を探し創造的に打つことだろう。これを成り立たせる能力として構想力、発想力、判断力、石の筋と形力、詰碁&手筋力、戦闘力、守備力、調和力、修正力、収束力、集中力、スタミナ、メンタル等が総合的相関的に問われている。これを五角形、六角形の能力表で表すことができよう。例えば、五角形能力表は、構想力、石運び力、戦闘力、守備力、メンタル力を頂点とする図となろう。 2014.09.22日 囲碁吉拝 |
【上達論/目指せ天下六段】 |
今日ふと閃いた言葉。いくら打っても手を学ばねば万年初段。我流で学べば3段。少し学べば5段。一生懸命学べば6段。さらにその向こうに碁の鬼が棲む世界がある。こう思えば良い。この道中で、プロないしはプロ級の人に学べば碁の面白さが教えられ、学ぶ意欲が増す。問題は、この気づきや機会をどのタイミングで得て本気になれるかである。それを得るには能力も運も縁もあろう。要は、なるように成り成らざるも道理と云うことではなかろうか。 囲碁吉の棋道到達点をどの辺りに設定するのか。これについて結論から言えばこうである。囲碁吉の全国碁会所廻りの際、「どのくらい打たれますか」の問いに、ごく自然に「6段です」と言えるようにしたい。これはそれなりの経験と教訓からもたらされている。と云うのも、もう30年以上も前の大昔、業界旅行の際に二次会を抜け京都河原町の碁会所へ行った。入って来た珍客に客の視線が一斉に向く。番台のおばさんに棋力を聞かれて「初段です」と答えると、居合わせた客が途端に向こうを向き直して碁を打ち始めた。その時、初段では相手にされないことを身に滲みて学んだ。この失望から学んだ教訓である。それに何より「6段です」と言えれば格好良いではないか。この域に達する為の精進をこれからも続けて参りたい。 2015.1.11日 囲碁吉拝 |
【上達論/天下六段道上達法】 | ||||||||||||
「囲碁上達研究会/囲碁上達法、入門から初段・高段まで」の「負けず嫌いは碁が強くなる?ならない?」を転載する。
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【上達論/修行(学問、行儀、祈り)に励まねばならない】 |
手を習うのは学問。遺伝子に教え込むのは行儀。運命に影響を与えるのは祈りである。この三法のそれぞれを能く習熟せねばならない。これを修行と云う。囲碁もその他も然り、精魂傾けるものに対してこの修行に励まねばならない。 |
【上達論/全体観&大局観。木を見て森を見ずの愚にならぬよう】 | |
「全体観&大局観。木を見て森を見ずの愚にならぬよう」。その通りである。これは何にでも通用する戒めである。碁も又然りである。囲碁の上達法の第一は大局観である。大局観こそ棋理の命であり全てを睥睨している。 この大局観は二種のものから構成されているように思う。一つはズバリの大局観であり、もう一つは碁形の全体観である。両者は少し違うと思う。囲碁吉の理解によれば、全体観は碁盤全体の全体観(全体の全体)と局所に於ける接触している石の上下左右全体(部分の全体)の二種類から成っている。その全体観から内在的に生み出されるのが大局観である。大局観が要求されるのは局面変化時である。そのまま押し切るなり引くなり転ずるなりの戦略の分かれ道の次の一手を感知し着手する為に必要とされるものである。この大局観が本来の意味での大局観であり、碁形の全体観も踏まえて、さて次にどう着手して行くのかと云う最高度な問いからもたらされるものである。全体観が一服したときに要請されるのが大局観であると云えるのかもしれない。そういう意味では全体観は折衝中の大局観と云うことになるのかもしれない。この両方の「観」を踏まえる必要がある。 この大局観を終始徹底して終局まで貫くことが肝腎であるが実際にはかなり困難でもある。なぜなら、既に対局しているからである。座禅瞑想しながらの平常心のような安穏な環境ではない。対局ともなると必然的に互いの着手で「手談」しつつ打ち進めている。この道中で両者は相当なる感情的な行き掛かりを抱えている。更に対局を進めるうちに局面の難しさが増し、いわゆる手どころを迎え、あるいは次の手どころを迎えと云うように尋常ならざる心境下で打ち進めている。この間を冷静沈着に大局観を失わずに打つことが難しい。 局面が険しければ険しいほど「手どころの慌(あわ)て者」になりがちである。これは自戒を込めて言い聞かせている。これに気をつけるだけで、いわゆるポカ、貪り等はかなり防げる。「手どころのしっかり者」になるだけで戦績が大きく変わる。そういう意味で、初手から大局観に基づき打ち進め、手どころも然りの打ち手になりたいと思っている。肝腎要の手どころで苦しさから逃れるために早打ちする愚を戒めたいと思う。常に己の棋力に相応しい沈着冷静の解を見出し、責任ある石を打ち続けるのが肝要と云い聞かせている。いついかなる時も「大局観こそ命」と肝に銘じて打ちたいと誓っている。 瀬越憲作名誉九段の手談の最終章「碁の妙味」の中に次のように書かれている。味わうべしの名言だと思う。
これによれば、大局観に従い、棋理に合う最善の一手を求めて苦吟していることになる。プロはその最先端最深の囲碁芸人と云うことになるのだと思う。この緊張感の濃密さに基づく一連の着手が絵になるのだと思う。 2013.6.3日、2014.5.25日 囲碁吉拝 |
【上達論/全体観中の複眼思考&鷹の目俯瞰戦法】 |
盤上の局所だけしか見ないようでは良い碁にはならない。着手しようとする石の周囲全体、盤面全体を見て適切な応じ手を繰り出さなければならない。これを複眼思考と云う。 2014.5.25日、禁煙まで誓って挑んだ新聞社主催のとある棋戦の1回戦で敗退した。負け惜しみの弁はしない。この時、今後の打ち方として鷹の目戦法で鍛えていく必要と意義を感じた。これを記しておく。鷹の目戦法とは、盤全体を単に見ると云うだけではなく、鷹の如くに空高く舞い上がり、その高地から盤全体を俯瞰し、彼我の石の長短所を見抜き、彼の石の着手に乱れを感知するやその欠点を鋭く且つ的確且つ効果的に攻め立てる。仮に彼の石に弱点がなければ突いてでも弱点を作る打ち方を云う。部分的観点から攻めず必ず高地から捉えた鷹の目を通して判断し処すると云う作法であり鳥瞰図とも云う。今後はこの技術を磨きに磨いて行こうと思う。これも今までにない発想で、「張栩の眼」を見て思った次第である。 そもそも一局において互いが死力を尽くす訳だから、手合い違いでない限り必ず勝負のアヤがある。沈着冷静に打ち進めるにも拘わらず一局のうちには必ず勝機を損なうような危険を生む事態が生まれる。この時、これをどう防ぎどう纏めて乗り切るのか、逆に相手のそれをどう狙うのかが問われている。これを発見するのが鷹の目戦法である。但し、この鷹の目戦法も感じる力がなければ要するに見れども見れずでどうにもならない。云うは易し行うは難しである。 2013.6.3日 囲碁吉拝 |
囲碁経営学では、「3つの目(鳥の目、魚の目、虫の目)の必要」が云われる。 |
【上達論/石は生き物、渦潮円運動論】 |
囲碁吉は新たに「石は生き物、渦潮円運動論」を構想した。常に盤上の石全体との渦潮円運動を意識した着手を心掛ける。そうすれば自ずと着手点が見えてくる湧いてくる。今後はこれを囲碁吉打法として、選択的に許される限りこういう順序で打ってみようと思う。 2014.4.29日 囲碁吉拝 |
【上達論/六合一石(りくごうひといし)論】 | |
「成り行きで自然に石が繋がる一石碁(ひといしご)が良い」。その通りである。一石碁は当然ながら文様が厚い。死ぬ箇所がない。結果として中押し勝ち、目数でも負けないことが多い。 | |
呉清源が「六合」(りくごう)を重視していたことが知られている。「六合」とは古代中国の言葉で「天地と四方(東西南北と上下)」を指している。この六合を意識して、「碁の一石一石はすべからく六合に、つまりあらゆる方面と調和しピタリとその場に適合するのが望ましい」とするのが六合論である。囲碁吉はこれに「一石(ひといし)論」を加えて「六合一石論」を構想したい。「六合一石論」とは「盤を隅、辺、中央の三域に識別して、それらを意図的有機的に結びつけ一石化せしめようとする打法」を云う。従来こういう発想をしなかったので新たな発見である。これは囲碁吉の師匠筋の方との語らいの中で閃いた。中央の着手の検討で、「この一帯は制空権のあるところ云々」を聞きながら発想した。これを開陳する。 当初は隅、辺、中央を陸海空と例え理論化していたが実践的にはあまり役立たなかった。そこで単にそのまま隅辺央結合理論とする。要するに隅と辺と中央の有機的結びつきを重視する理論である。隅を点、辺を線、中央を面とする捉え方もある。肝要なことは極力「一石」を目指すのが良いと云うことである。と云うことは、相手のノゾキに対しては無用な反発を控え原則的に有難いと思ってツグべしと云うことになる。そう云えば、ノゾキを切らせて無用な苦労をしたことが多い気がする。この辺りは「英明な素直さ」が要るのではなかろうかと思われる。 問題は、こちらは「一石打法」で打ち進めるが、相手は「一石させじ打法」で来ることにある。お互いがそうする訳である。故に、この瞬間の着手であるノゾキ、キリ、コウが非常に重要な分岐点と云うことになる。故にノゾキ、キリ、コウの駆け引きに熟達せねばならないということになる。結論から言えば、自分の石は繋がるように相手の石は切れるように打つのが理想的な石運びではなかろうか。これを「囲碁吉一石打法」としよう。今後はこういう構想力で打ってみようと思う。 以下、「囲碁の大雑把な形勢判断をする方法を知りたいです」を参照する。興味深い内容なので確認しておく。
2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝 |
【上達論/無知の涙。石の生き死に甘いのは良くない】 |
「無知の涙。石の生き死に甘いのは良くない」。石の生き死に敏感でなくてはならない。相手の狙いのある手に対しては、地の損得以前の問題として的確に生きる箇所に手を入れて生きを万全にしなければならない。逆に詰め碁的に取れる石の場合は、それが取るに値する石ならば的確に仕留めなければならない。隅の六目のようなハネて死にの場合には中へ置いていいけない。それはセキになる可能性があり、取れる石をわざわざ取り逃がしていることになる。こういうブザマを演じてはならない。
2018.4.2日 囲碁吉拝 |
【上達論/盤面全体が詰め碁を心掛けよ】 |
囲碁吉の碁は中央に厚い。自然に打ってそうなる。よって相手は必ず入って来る。これをどう迎えるかが囲碁吉の碁である。今日は大成功し、相手の中央の石約30目を撲滅寸前にした。寸前にしたと云う意味は撲滅し損なったと云う意味である。コウの見損じで、本来は二手寄せコウを三手寄せコウと勘違いして手を抜いて逆転負けしたと云うお粗末な次第。それは反省するとして、自信持って良いことは、侵入して来た相手の石を迎えて盤面全体を詰め碁の状態にしたことである。これについてはほぼ成功していたと云う意味で良い碁だったと思う。囲碁吉のこの打ち方は定評のものであり、この作法はもっと磨かねばならないと思う。このところ忘れつつあった囲碁吉打法の復権記念にしたいと思う。 そう云えば、先日も進入して来た石を50数目にさせ、盤面全体を詰め碁の状態にしたのに、途中で尻尾の20数目切り取りに向かい結果的に負けてしまった。検討の時、さらに追撃される方が怖かったとのこと。道中で尻尾切りに向かった時の気持ちが自分でも分からない。こういう意味で技術論プラスアルファーとしての精神論の強化が必要とつくづく思う。 2015.1.10日 囲碁吉拝 |
【上達論/石の心を知り、盤の声、心の声を聞け】 |
「石の心を知り、盤の声、心の声を聞け」。囲碁に対する新たな知見を得たので記しておく。囲碁の着手に必要なことは石の心を知り聞くことである。これを「石心」と云う。これは既に云い慣らされている囲碁名言である。続いて「盤の声」を聞きたい。これを仮に「盤声」と云う。さらに「石の囁(ささやき)き声」もある。これを仮に「石の声」と云う。これを仮に「囲碁の三神」と命名しておく。その理論を仮に「囲碁の三神論」と命名しておく。碁打ちは、「囲碁の三神」(石心の神、盤声の神、石声の神)の啓示に耳を傾けねばならない。その導きを得るために、それ以前の要素として礼儀作法、定石手筋、精神(闘争力、調和力、統合力)、判断(判断力、決断力)があり、これを踏まえた先に「囲碁の三神」が待ち受けているのではなかろうか。この神の眼鏡に適うと「閃(ひらめ)き」が生まれ「神の一手」を授かるのではなかろうか。さしずめ「耳赤の手」なぞはこれではなかろうか。一局のうちにこの「神の一手」を見いだし打てるかどうか、これが囲碁の醍醐味ではなかろうか。 補足しておけば、「囲碁の三神」を降臨させる前提として「頭を常にやわらかく意地を柔らかく持て」の心構えが必要である。盤上の局面がどんどん変わる、その中での次善の手、最善の手を追求するのだが、局面が変わっているのが分かりきっているのに意地になって昔の読み筋を通すと云うような愚かな手を打ってはならない。これは碁以前の精神鍛錬に関係しているのだが、こういう例がままある。 「囲碁の三神論」にはどういう効能があるのだろうか。これは、人間思案では割合早くの手仕舞いで部分部分を解決して行くところ、「囲碁の三神」の啓示を得て、どんどん大きく攻め合い含みまで持って行く。仮に攻め合い負けになっても締めつけになったり、その締めつけが利いて反対側の相手の石が弱くなっており、捕捉することができたりする。 2015.2.20日、今日の碁でそういう局面ができた。最初は気づかなかったが途中で手が見えてきて、その狙い通りに石を運び召し取ることができた。当方の取られた石が20目、後で取った石が15目、但しダメがすごく空いているので却って儲けている。「囲碁の三神」の云う事に謙虚になるのが宜しいと云うことになる。 もう一つ、「ここ打てワンワンの心の声」がある。「ここ掘れワンワン」の囲碁版である。 2014.4.26日 囲碁吉拝 |
【上達論/石の臭い、局面の臭いを嗅げるようになったら一人前】 |
「石の臭い、局面の臭いを嗅げるようになったら一人前」。石とか局面の良い意味での匂い、悪い意味での臭いを嗅げるようになると一人前ではなかろうか。石の匂い、臭いを嗅ぐとは、相手の着手石の意味を知ることであり、意味を知るとは狙いと役割を察知することを云う。これを正しく嗅ぐことにより適切な応酬ができるようになる。これができるようになると天下6段の扉が開いたことになる。これにも早嗅ぎと熟考嗅ぎがあろう。どちらもできるようにならねばならない。 これは割合と新しい発見であり、2017.2.13日の飼い犬の散歩のときに気づいた。愛犬が草花の匂いを嗅いで対話しているように囲碁も然りで石を嗅ぐべきではなかろうかと。これをしない早打ちはメクラ滅法ではないのかと。「手談の裏に石の嗅ぎあり」。これを囲碁吉用語とする。 2017.2.14日 囲碁吉拝 |
【上達論/目を肥やし、ひと目で感知する能力磨くよう】 |
「趙治勲のひと目の詰碁」と云う書籍がある。題名の「ひと目」のところに意味がある。「ひと目で分かる」ことが大事とメッセージしていると拝察すべきである。これは実際その通りで、恐らく囲碁のみならず全般に云えることだと思うが、芸能を磨けば磨くほど「ひと目で分かる」ようになると知るべきだろう。これを逆に云うと「ひと目で分からない」のは精通不足と云うことになる。例えばシチョウがそうだろう。手指で追わなくても「ひと目で分かる」者が強い。そういう意味で、「ひと目で分かる」よう目指すべきである。 囲碁に限らずと思うが「ひと目で感知する能力磨くよう」心掛けねばならない。対局で早打ちの人と熟考型の人が居るが、早打ちの人は慎重さが足りないだけで本来は熟考型の人も着手をひと目で見出しているのではなかろうか。対局上の考慮時間とは、ひと目で感知した着手の是非を総合的に確認する為に要する時間であって、空白の中から着手を探し出す時間ではないのではなかろうか。もっとも大抵の場合はと云う条件付きである。時には難解な局面で適切な着手を見出すのに苦吟する場合もあろう。そういう場合は別にしてである。そういう気づきを得た。 2014.12.07日 囲碁吉拝 |
【上達論/碁の神様考】 |
「碁の神様」につき、これは私の独眼流であるが、囲碁を覚え上達を欲した瞬間に、「碁の神様」が胸中と頭中に住み着いたと思っている。よって、碁打ちの胸と頭には「碁の神様」が宿っていることになる。以来、碁打ちは「碁の神様」と相談しながら打つことになる。但し、「碁の神様」は問えば働き下さるが、碁打ちの棋力と熱意によって応答が増す、逆は逆の関係にあると思われる。 |
NHKの2021年下半期の連続ドラマ「カムカムエブリバディー」の中で、和菓子屋「たちばな」の「小豆(あずき)のおまじない」がしばしば登場する。概要「おいしゅぅなれ、おいしゅぅなれ。その気持ちが小豆に乗り移って甘ぇあんこができあがるのじゃ。小豆の声を聴け。何がしてほしいか小豆が教えてくれる。時計に頼るな。目を離すな。食べる人の幸せそうな顔を思い浮かべぇ」という呪文であるが囲碁にも応用できるのではないか。「どこへ打つべきか教えてくれ。その気持ちが盤上に乗り移ってここへ打てと教えてくれるんじゃ。碁盤の声を聴け。どこへ打って欲しいか囲碁の神様が教えてくれる。目先の利益に頼るな。集中力を切らすな。囲碁の神様が納得するような棋譜を残せよ」。 |
【上達論/神の一手&魂の一手考】 |
ここで「神の一手」について触れておく。「神の一手」とは、打ち手の意識を超えるかの如くの閃きによってもたらされた神の導きの手を云う。対局でこういう手を呼び込み勝着とすることが肝要である。これにつき既に石心、盤声について言及している。ここでは「神の一手」について述べておく。「神の一手」は「絶対の一手」を云う。これとは逆に選択肢を増やし着手に幅を持たせる「神の啓示手」と云うものがあるように思う。この両者を合わせて仮に「神の手」と云う。差し手は19路×19路の361路の球面から汲み出される複数が用意されており、打ち手は、その中の最も相応しいと思える手、あるいは好みの手を判断、感覚、決断することにより選び着手する。これが次から次へと繰り返されて一局となる。この間、留意すべきことの第一は手を戻すべきところは戻すことである。「風格」のところで述べたが先走りし過ぎてはいけない。厚く打つところに神の手が宿る気がする。次に局面でピッタリのところを探して打つ。次に局面から浮き上がる打ちたいところを探し、最高のタイミングで打つように心がける。この流れの中から「神の手」が生まれる気がする。これを関連づけると、普通は選択肢を増やし着手に幅を持たせる「神の啓示手」に導かれ、いざ喫急の時に絶対の着手としての「神の一手」を見いだすと云うことかも知れない。但し、「神の手、神の一手」を強調し過ぎると哲学的、宗教学的な意味で神秘論に入り込むことになる。何事も加減が大事で、囲碁吉は、技術論、修身論の果てに「神の手」があると思っている。故に、技術論、修身論を鍛えた果てに「神の手」を呼び込む祈念をする。現にこういう体験をしているので理屈ではない。 「神の一手」に似たものに「魂の一手」がある。これは、「神の一手」に魂を被せた手ではなかろうか。こういう手を打てるのは相当の高段者であり、天下六段はその始まりの粋かもしれない。 2014.4.26日 囲碁吉拝 |
【上達論/痛恨の一着&虚の一手考】 |
「神の手」の逆は「痛恨の一着」である。不意に手拍子で打つ悪手のそれと熟考の末のポカ手の二通りが考えられる。「神の手」を呼びこめられるか、「痛恨の一着」を防ぐことができるかで二子違うと思う。あるいは勝率が5割方変わると思う。これはプロでも同じであろう。 「虚の一手」もある。形勢5分のまま両者ギリギリの折衝を続けている時、何気なくよそ行きの手を打ってしまうことを云う。それは攻めの急所逃しの手であったり、守りの肝要な手外しの手であったり、戦線逃亡の手であったりする。結局は棋力通りになる訳であるが気をつけねばならない。 ここ一番の肝腎な時に、神の一手が出るか手拍子の悪手が出るか、雲泥の差である。この辺りは平素の稽古により鍛えておく必要があろう。 2014.4.26日 囲碁吉拝 |
【上達論/囲碁体操考】 |
負け怖じしない心地良い緊張感と石心盤声を能くする為には、心と体を柔らかく保持することが肝要である。心と体を柔らかくするとはどういうことか。これは心と脳と体の働きの交互関係を知り、それらのコンディションを良くする為に必要な営為である。心と脳の働きのコンディションを良くする為に特に首周り、肩周り、腰周り、を柔らかくしておかねばならない。これにつき、囲碁吉の実際の経験で、適当なパイプ棒を持って剣道の素振りをした後に対局に臨み思わぬ成果を得たことがある。してみればストレッチ体操なぞも良いのではなかろうかと思われる。食事法と一緒で、各自が相応しく考案されるのが良いと思う。このことに気づいてトレーニングしている者と気づいていない者の差が大きい。そういう観点からプロの生態を窺うと、やはりこちらもプロで、ちゃんと励んで居られる者が多いので感心させられる。 2014.4.26日 囲碁吉拝 |
【上達論/囲碁の味わい方考】 |
囲碁の味わい方には二通りあるように思われる。一つは「下手の横好き」、もう一つは「上達祈願」。この二通りの味わい方のそれぞれを組み合わせて精進するのが理想ではなかろうか。これはアメとムチ、太陽と北風の例え話にも通じている。要するに、厳しいばかりではダメで、かと云って単なる楽しみ碁のような打っただけの碁でもダメで、両者を組み合わせねばならないのではなかろうか。これを上手に為し得てこそ真の囲碁好きと云えるのではなかろうか。 2018.9.1日 囲碁吉拝 |
【上達論/言い訳無用。言い訳する者は強くなれない】 |
勝負の世界では言い訳は無用である。言い訳にどんな理があろうとも聞き苦しいだけである。勝つと負けるので景色が違うことを踏まえ、言い訳無用で次には勝つという作法を鍛えたい。現に言い訳する者の上達は遅い。言い訳せずにむしろ思い切り泣くべきである。言い訳する子は強くなれない、泣く子は強くなると云われている通りである。 2020.2.9日 囲碁吉拝 |
【上達論/視野を広げよ】 |
「視野を広げよ」。その通りである。全局を通じてこれが肝要である。打ち進めるうちにこの戒めを忘れ部分に拘泥するようになる。相手が付き合いしてくれれば良いが、局面のうちの最好点に打たれて愕然とする。後はもがいてみるだけという事例が多い。戒めるべきである。 「手幅が広がる手が良い」。その為にはキチッと守ることが必要である。キチッと守ることにより手幅が広がり楽しみが多くなるからである。守らず先々を急ぐのは自滅の予兆を準備して行く道に過ぎない。 |
【上達論/読みを入れよう、その癖をつけよう】 |
「読みを入れよう、その癖をつけよう」。読みは苦しく面倒なことではあるが、この習慣からしか強くなれない。そういう癖をつけねばならない。 将棋の加藤一二三氏は「直感精読」を宗としている。その意とするところを味わうべきだろう。手どころでは特に「直感精読」せねばならない。手どころで正解手を打つことで流れが良くなる。逆は逆である。「手どころでは念には念を入れよう」、「正念場ではなおさら彼我の着手の意味と意思、意図を反芻確認せよ。座禅を組むくらいの瞑想後の着手を心掛けよ」。相手が応じることなく余所(よそ)へ着手した瞬間、シマッタ、そこへ打つべきだったと後悔するようでは「後悔先に立たず」となる。そういう意味で、手どころの着点は牛のよだれの如く反芻して着手せねばならない。 肝心要の時に、早く応酬の決着を見ないと精神的に落ち着かない故に早打ちする癖のある者が居るが、この時に粘り強く読みを入れる習慣をつけねばならない。これができないと強くなれない。そういうバタバタ打ちはロクなことにならない。この癖を直さねばならない。どうすれば矯正できるのだろうか。「座禅」なるものを一度経験しておかねばなるまい。 2017.2.14日 囲碁吉拝 |
【上達論/おいしい話にご用心、勝手読み錯覚の恐れあり】 |
「勝手読み錯覚のおいしい話にご用心」。その通りである。相手が大石を気前良くくれようとしているように見える事態を前にして、これを喜ぶ前に、その話に乗って良いのかどうか見極めねばならない。タネ石が抜けている場合がある。一種の錯覚であるが、気をつけねばならない。 2017.2.14日 囲碁吉拝 |
【上達論/相手を侮るなかれ。布石の下手をあなどるなかれ】 |
「相手をナメてはいけない、布石の下手をあなどるなかれ」。 |
【上達論/凡ミスせぬようポカせぬよう】 |
「凡ミスせぬようポカせぬよう」。案外と勝負は丁々発止の巧拙よりも凡ミスやポカで決まっているのかもしれない。凡ミスやポカをした方が負け。双方が凡ミスやポカをし合う場合は最後にした方が負け。これが勝負相場になっている気がする。 今日は碁仇の凡ミスを咎めて、序盤の薄みを突いて中央の数子を捉えて優勢となった。後は打つほどに相手が崩れて勝勢となり、局後に「酷い碁だった」と言わしめた。逆の事態にならぬよう自戒せねばなるまい。 |
【上達論/石が要求する着手点を見出し、そこへ打つ。打ちたい所へ打つ】 |
「石が要求する着手点を見出し、極力そこへ打つ」。これが打つコツかもしれない。プロの棋譜を並べながらそう思った。その後の紛糾は承知済みで、まずは石が要求するところへ打つ。石が要求するところと打ちたいところが重なれば申し分ない。実際の着手が石が要求するところと異なる場合、何度も何度も可否確認せねばならない。往々にして、石が要求するところへ打つ方が棋理に適っている場合が多い。 「イメトレで手を翳(かざ)して盤上の熱いところに打つのが良いかも」。その通りである。実際に手を翳すのはマナーが悪いと思われるので、これをイメージトレーニングでやるのが良い。早速、試してみよぅっと。 石はのびのびと打ちたいところへ打たねばならない。そういう箇所が見つかったら駄目元で試してみよう。これは逆の場合にもそう。相手の乱暴な手にひるんではいけない。気合の反発が要件とされる場合にはそのように打ち、局面に正面から立ち向かわなければならない。心せねばならぬことは「相手が打たないところに打つな」、「やれ打つな。たった一つの頓死の手」、「チャリンと音した目の前の100円玉拾いに行って、1万円札を音なしで落としている」(西村修語録)である。 |
【上達論/直線碁は良くない。全体を柔らかく、ふっくらと包み込むようにこねる餅つき碁が良い】 |
「直線碁は良くない。全体を柔らかく、ふっくらと包み込むようにこねる餅つき碁が良い」。その通りである。囲碁の着手感覚として、露骨な手を打たず、全体に縮(ちぢ)こまず、力まず、柔らかく、ふっくらと包み込み、全体に石が繋がるような手が良い。無理な攻め過ぎがいけない。 |
【上達論/囲碁は無理が一番イケナイ】 |
「囲碁は無理が一番イケナイ」。その通りである。「石の景色」、「石運び」、「なるほどの手」の次には「無理をしない」ことが肝心である。諺(ことわざ)の「無理が通れば道理が引っ込む」通りであるが、無理は咎められることが多い。無理の度が強いだけ咎められた時の傷が大きい。時には致命傷になる。そういう意味で、棋理に合う手が求められている。次の戒めとして、無用な反発を御法度とし基本は素直な受けから始めるのが良い。次に攻撃よりも自陣補強を優先させるのが肝要である。これらについては、「棋道訓、囲碁十訣、囲碁十章、囲碁名言」で確認する。 |
【上達論/石の形に通じよう】 |
「石の形に通じよう」。「急場」の次に「石の形」に留意せねばならない。これを「石の形論」と命名する。「石の形」は当然ながら好形と悪形がある。 好形の代表例はノビキリ、千両曲がりである。「ノビノビした手」に好形が多く、草花草木が天に向かってスクスクと成長するように石が無駄なく中央に向かっている。効率が良い。 悪形の代表例は空き三角である。「コセコセした手」に愚形が多く、他に有効な大場があるのに、同じ地点のやり取りを続ける打ち方を云う。見た目の形が悪く働きがなさ過ぎ、石に伸びがない。「凝った手」も愚形であり、石が一箇所にごちゃごちゃ混み合っている石運びを云う。「屋根重ねの手」が典型で、石の働きが重複している。囲碁の神様は石の重複を嫌うので先が良くないことになる。効率が悪い。 「石の形論」はもう一つの意味がある。それは「石の格」に関わっており、叩かせてはならないところについて叩かせないよう黙って下がる手を云う。叩かせてはならないところを叩かせると形勢の流れが悪くなり負けコースに向かっていくことによる。よって、こういうところは甘んじて後手を取り辛抱しなければならない。「天王山の手」も然り。こういうところを見逃してはならない。 2014.09.22日 囲碁吉拝 |
【上達論/石の組み立てセンスを良くしよう】 |
「石の組み立てセンスを良くしよう」。布石による相互の陣地の組み立てを終えると、相手の陣地の削り合いが始まるが、その際、相手の意図を察知して逆利用する裏技をも顧慮せねばならない。例えば、オシでヒキを強要しているとき、ハネて、キラセて、そのキッタ石をしごいて、数石を取らせて、その代わりに反対側に巨地を形成する方法がある。採用するかどうかは別にして考慮せねばならない。 「安普請はダメ、本家普請がマル」。盤上での安普請はいけない。本家普請を目指さねばならない。家に例えればそういうことになる。基礎と柱、屋根、筋交いが正確に組み合わされていなければ能い家にならないと同様の注意力で盤上の石建築に向かわねばならない。これを身体に例えれば、丈夫な身体作りになる。丈夫な身体の基本は腰である。これになぞらえて腰の丈夫な碁を打たねばならない。腰の丈夫な碁とは、厚い碁である。特に中央を厚くせねばならない。稼ぎ過ぎの代価で中央を薄くしていると終盤になってトンデモな寄り付きで逆転されることが多い。 2018.4.2日 囲碁吉拝 |
【上達論/手どころとか大局観が問われる局面で、どこに目が行くが棋力である】 |
「手どころとか大局観が問われる局面で、どこに目が行くかが棋力である」。その通りである。この目線を鍛えるのが芸である。こう承知して精進するのが良い。 2021.1.12日 囲碁吉拝 |
(私論.私見)