囲碁吉の天下六段の道、棋理論1/囲碁論 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).6.14日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、「囲碁吉の天下六段の道、棋理論1/囲碁論」を書きつけておく。これは平素書きつけていたものを元に、2015年初頭辺りから1局打つごとに気づいたことを書き加え、書き直ししながら現在に至るものである。2015.3月、最近出くわした「囲碁紫煙荘」の「囲碁講座」、「囲碁講座part2」、「革命的格言講座」その他を参照する。以来、一局打つごとに何か教訓を引き出し、該当する箇所の書き直しをしている。これが結構面白くて為になるんだな。途中からプロの碁の対局を見ながら得た感想をも記すことにした。2016年10月、古書店で、菊池康郎(著)「囲碁に強くなる本」を手にいれた。非常に有益なことが書かれてあり、これを取り込むことにする。 ひとたびは思いつくままに書きつけ、後に推敲を加え、次第にいっぱしの囲碁理論にしたいと思っている。囲碁吉が自分の戒めの為に磨きに磨いているものであり、アマの且つそれほど強くもない囲碁吉の囲碁論であるから説得力も権威もない。囲碁吉が今後ひょっと強くなったら、ここに書いたことの値打ちが上がるだろう。今はまだまったくダメですたい。相変わらずアマの県代表レベルに3子、4子(4子、5子かな?)の手合いでしかない。何とかせんととは思っているのだが。いざ出航せん。 最新の方法として、最も肝要と思われる気づきを頭出しにして並べ替えて行こうと思う。 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、碁は神様が作ったゲームなり論】 |
碁について、これを「神様が作ったゲーム」とする見解がある。その通りで、一手、一手の千変万化の面白さ、そのやり取りからくみ出される珠玉の人生指南、同じ人が何度対局しても必ず別の碁になる不思議、プロが打っても然りで、何十年、何百年たっても新しい局面ができる新鮮さ等々の醍醐味は正に神様が作ったゲームとしか思えない。 その昔、岩本薫9段(1902-1999)が本因坊だった時、ファンに「碁は勝負を競うゲームか、それとも芸を競うゲーム以上のものか」と尋ねられ、「碁はゲームです」と答えている。ファンが首を傾げていると、「世界最高の」と付け加えた。岩本のズバリ一言はまだある。昭和16年、本因坊戦が始まるときコミ制を採用するかどうかで揉めた。岩本の兄弟子の加藤信7段(当時)が主催紙に「コミ碁は碁にあらず」を発表したのに対し、岩本は「コミ碁も碁です」と語ったと云う。 |
【棋道論その№、囲碁宇宙論】 | |
囲碁宇宙論についても確認しておく。中山典之氏の「悠久四千年 囲碁の魅力」の冒頭まえがきが次のように記している。味わい深い名言と思うので採録しておく。
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【棋道論その№、世は一局の碁なり論】 |
「世は一局の碁なり」論。古来より囲碁はこのように捉えられており人口に膾炙(かいしゃ)している。有名なのは、土井晩翠(1871-1952)の「三国志演義」の英雄、諸葛亮孔明の生涯を描いた長編叙事詩である漢詩「星落秋風五丈原」にて、「治乱興亡おも(思)はえば、世は一局の碁なりけり」と詠っている。これを「冶乱興亡夢に似て世は一局の碁なりけり」と云い変えたのは、昭和維新の歌を作詞作曲した海軍士官の三上卓で、後に5.15事件の首謀者となる。ちなみに、「星落秋風五丈原」の囲碁記述は三箇所ある。第一が、蜀の劉備が三度(みたび)孔明の庵を訪ねた時の「誰そや碁局の友の身は」。最初に訪ねた時、孔明は碁を打ちに行っており留守だった、とある。次が「世は一局の碁なりけり」で、もう一つは孔明が蜀の丞相(政治軍事のトップ)として劉備に仕える決意を固めたときの「成算胸に蔵(おさま)りて乾坤(けんこん、天と地)。ここに一局碁」である。天下三分の計が成り、一局の碁の如く、乾坤を動かそうとした際の決意である。(「週間碁」2020.1.27号の「一碁一語」参照) 2020.01.31日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、生涯究極の青春趣味論】 |
囲碁は生涯の究極の趣味となる。鍛えた眼力は体力の衰えに比例して衰えることはない。未だ見えぬ頂上を夢見て望めば一生楽しめる。気持ちが若ければ年齢に係らず「青春」であり、盤上の次から次への新しい局面が「青春」を証す。 |
【棋道論その№、囲碁芸術論】 | ||
囲碁芸術論。これもそう。補足すれば、囲碁は石の応答術を見せる芸術である。その芸術性を高める為にはヘボ手を打たないことが肝腎である。一局を通じて一手たりともヘボ手を打たず打ち続けることはできそうでできない。そのヘボ手をできるだけ打たず、逆に最善手を見出してその線に近づいていく技術を高める道のりが囲碁の修行である。これが囲碁芸術の始まりでもある。今はこう書きつけておくだけにする。 2014.09.22日 囲碁吉拝 |
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日本棋院本院(市ヶ谷)の最上室「幽玄の間」に掛かる軸は川端康成の直筆の「深奥幽玄」。川端は「名人」を著わし、21世本因坊秀哉と木谷實が半年がかりで打った秀哉名人引退碁を描写している。その川端は随筆に次のように記している。
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【棋道論その№、囲碁は盤上の思想戦である】 | |
「囲碁は盤上の思想戦である」。囲碁は、範疇としては「頭脳戦スポーツ競技」に入る。囲碁、チェス、ブリッジ、チェッカー(ドラフツ)、象棋(シャンチー)、日本将棋、オセロなどがそうである。但し、日本将棋、オセロは、世界的視野に於いては残念ながら認められていない。いずれ認められるようになるだろう。囲碁は、その「頭脳戦スポーツ競技」の中でも最も深奥な「知恵比べ」であり、頭脳と頭脳が互いの優劣を競う人類が生んだ選り抜きの史上最高の頭脳戦であり且つ思想戦のものではあるまいか。最近ではこの争いに人工知能コンピューター(AI、Artificial
Intelligence。Artificialは「人工的な」、Intelligenceは「知能/知性」)が参入して来ており、人間同士、人間とAI、AI同士の三つ巴戦の戦いを演じるようになっている。こうなると人間のそれを人(ひと)棋戦、AIのそれをAI棋戦と言い換えて識別する必要があろう。あるいは今後、人とAIがペア化し、お互いに人(ひと)がお気に入りのAIを使う棋戦が生まれるかもしれない。 碁ワールドの2008年7月号の「囲碁の素晴らしさの表現」を参照する。凡そ次のように記しているが、それぞれ得心できるであろう。
囲碁の最高の頭脳コンぶりは、囲碁競技中の格別な静寂さの中で垣間見ることができる。これはプロ同士の一対一の対局のみならず、我々レベルでの集団的な囲碁大会でも確認できる。何十面もの碁盤が用意され対局が行われている筈なのに、クラスが上がれば上がるほどシ-ンと静まりかえって、その静けさが風景に溶け込んでいる。もう何度も体験したが、囲碁ならではの味わいではなかろうか。 昨今のテレビ事情を探るのに、クイズ王選手権の人気が高い。中学別、高校別、大学別の選手権。そのオービー達を含めた選手権等々が花盛りである。しかし、囲碁吉が思うのに、その種の知能比べは早晩早急に人工知能(AI)に取って代わられるものであり、故に優秀な頭脳の徒労的消費に過ぎない気がする。何か哀愁が漂っているとさえ思う。それほどに優秀な彼らの頭脳を囲碁、将棋に向けて能力発揮させればどうなるのだろう、その到達点を見て見たい、現下の囲碁将棋のプロの頭脳との遜色を確認してみたいと思う。 2014.09.22日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、碁は主体が格闘技、盤上はチーム競技論】 |
「碁は主体が格闘技、盤上はチーム競技論」。碁を競技主体者の観点から捉えると格闘技的性格が強い。その意味で「碁は盤上の格闘技」足りえている。格闘技には瞬発力芸のものと長丁場芸のものがある。これに照らせば、碁は後者のものである。その違いはあるが相撲、剣道、柔道、空手、合気道、ボクシングと似ている。 中でも碁は相撲と通じている。どちらも国技と云われる所以のものである。相撲は押しと技より成る。相撲はすり足が大事で、この巧拙が基礎能力となっている。碁では石運びという。相撲の技は押しと組から成る。組の基本は「がっぷり四つ」である。勝負は投げ勝ちの場合と怒涛の押しによる寄りきりの場合がある。投げを打つ、あるいはここぞとばかり押しに向かうタイミングが碁のそれに似ている。相撲には大逆転のうっちゃりもある。要は俵にかかと一枚残れば良い。碁にも同様のどんでん返しがある。相撲の同体を碁ではジゴと云う。但し相撲のように取り直しにはせず白の半目勝ちとしている。 碁の勝負判定は柔道に似ている。柔道には一本勝ちと判定勝ちがある。これを囲碁になぞらえると、一本勝ちは中押し、判定勝ちは目数勝ちになる。この判定方式は剣道、ボクシングでもよく似ている。柔道は立ち技(組み技)と寝技に分かれる。立ち技で差し手を争い、小技と大技を掛け合い、時に寝技に持ち込む。これを囲碁になぞらえると、立ち技(組み技)は丁々発止の応酬、寝技は攻め合いに通じている、と思う。 囲碁の序盤は剣道に似ている。剣豪が正眼に構えて対峙している姿を思えば良い。碁の布石は、剣豪が互いに剣先で間合いを測るサマに似ている。さる時、県代表経験者の先輩に「立会いから剣豪のつもりで打っている」と聞かされたことがある。対戦者が相手陣営に踏み込んだ頃、互いの石が接触し始めた頃から中盤に入る。 囲碁の中盤は手数の多さでボクシング、技の多さでレスリングで説明する方が分かり易い。交互に打ち合い投げ合い技を決めあう。この局面で、パンチ力、技の的確さ、切れ味が問われる。あるいは相手の動きを正確に捉え反応する必要があり、パンチ、技をかわす術の質が問われている。これらの攻防優劣で勝負が決まる。 以上、「碁の序盤は相撲、柔道、剣道、中盤はボクシング、柔道、レスリング、終盤は相撲に似る。それらのどれもが「一瞬の隙」を突く張り合いをしている。碁のこの格闘技牲はもっと意識されても良い。 全体的には「陸の王者」と評されているゴルフに似ている。但し、囲碁吉はゴルフをしないので言及できない。格としてゴルフと同等論とする。碁はマラソンにも似ている。登山にも例えられる。 碁を盤上の石の観点から見れば、チーム競技的正確を持つ。着手を野球の投手の球筋で解説することも可能である。即ち、直球一本槍では良くない云々とか。サッカー、テニス、卓球にも似ている。要するに学ぼうと思えば何からでも類推応用的に学ぶことができる。 2014.09.22日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、囲碁は白石黒石のボクシング】 |
碁がボクシングと似ているのは、ボクシングのノックアウトが碁の中押し、ボクシングの判定が碁の地合い計算になぞらえることができることで分かる。攻撃の仕方、防御の仕方、相手の攻撃のかわし方等も参考になる。的を絞らせず、一発を出させない紙一重の見切りも両者に共通している。囲碁吉は、そういう見方もあってボクシング観戦が好きである。 碁との絡みで更に気づくことは、ボクシングに於けるボディ打ちは碁の地取り、顔面パンチが石の殺し合いに通じているのではあるまいかと云うことである。ボクシングに於ける効果的なボディ打ちがやがてノックアウトの下地を作る。碁も然りで、効果的な地取りが相手を追い詰め、やがて無理無謀な戦いを仕掛けさせ最後に玉砕する下地を作るような気がする。だから地取りのない喧嘩碁、厚み碁一辺倒は案外と詰まらない。ジリジリと詰めて行くと云う意味で効果的なボディ打ち地取りにも開眼せねばならないと思う。尤も地取碁に向かえと云う意味ではない。 碁は黒白石のボクシングではなかろうか。本当のボクシングのように絶えず凄まじくはパンチをやり取りしないけれども、石で相手の脳を打ち合っているのではなかろうか。だから序盤、中盤はまだしっかりしているが、終盤になると突如としてポカ手(放心の一手)の失着手が出て負けることがある。「九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠く」がピッタリの負け方をプロの碁でも見る。これは、それまでの脳パンチが効いて起る特殊現象ではなかろうか。碁はそういう格闘技であることを知り、集中力を切らさず終盤に崩れない日頃の稽古を心掛けねばならないと思う。 よく、勝ち碁を落としたと口惜しがる者がいる。この人達は、碁が黒白のボクシングであり、互いの脳打撃によりフラフラの状態で打ち合っていることに対する見識不足であると云わざるを得ない。相手の脳打撃に対応できる棋力を養っておれば防げるのであり、それができていないから失着手で負ける訳である。勝ち碁を落としたと口惜しがるよりも失着手を打つような棋力、集中力のなさを反省せねばならないのではなかろうか。 2015.04.22日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、囲碁は一人駅伝である】 |
碁を駅伝マラソンに例えることもできよう。囲碁のコースが何区間に分かれるのかは分からないが、少なくとも序盤の1区、中盤の2区、終盤の3区、寄せの4区は外せない。他には山登りの区間、山下りの区間、コウの区間、ギアチェンジの区間等が考えられる。これを一人でこなすのが囲碁である。この例え方は囲碁吉が初のものかも知れない。今後は同様の例え方が一般化するのではなかろうか。そういう意味で秀逸な着想であると自画自賛しておく。 2015.04.10日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、囲碁は持久マラソンレースであると心せよ】 |
碁をマラソンに例えることもできる。と云うことは持久戦を意味している。持久戦であれば当然に長丁場を引き受けねばならない。長丁場では息切れせぬように、集中力を切らさないように気をつけねばならない。最初から飛ばし過ぎて後でバテるのは良くなく、序盤から長距離走としてのペース配分を能くして乗り切り、完走することが肝要である。次第に先頭集団が形成され、そのうちに先頭集団内での駆け引きで振るい落としが始まろうが追走せねばならない。最後の詰めがラストスパートで、場合によっては競技場内でのトラック勝負となる。この段階が半目勝負の寄せなのかも知れない。こういう長丁場を乗り切るランナーにならなければならない。 一局の道中、どういう訳か、忙しいところでバタバタ打ちする癖が抜けない。きまってロクなことにならない。後悔頻りである。この癖を直さねばならない。結論として、マラソンでは42.195キロの完走、碁では19×19=361路の完着ができるかどうかが問われている。そういう集中力&持久マラソンであることを承知して、これを制せねばならない。であるとすれば、碁は持久戦的に打つべきで、序々に相手を悪くし序々にこちらを良くするよう打つのが良い。これを「こなす」と云う。この「こなす芸」を磨かねばならない。 坂田名人が、碁をマラソンに例える語録を遺している。曰く、碁は技術だけの争いではなく、人間対人間の人間力勝負でもある。スポーツの中でマラソンが最も孤独なスポーツと評されているが、碁も然りである。勝負師は元来孤独なものだが、坂田名人はその言葉がピッタリで、無理に友人を作ろうとしないし、自分以外に頼るものはない「男一匹」の世界であることを承知して、「それに耐える体質と技術を磨くことが大切だ」と云う。 2016.1.23日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、碁を登山に例えることもできる】 |
碁を登山に例えることもできる。序盤、中盤を上り、終盤を下りと考えると打ち易い。序盤、中盤を下りの要領で打ってはならない、足が遅くなる。逆に終盤を上りのように打ってはならない。要するに正しいギヤチェンジが必要である。 |
【棋道論その№、棋士は盤上の絵師である】 |
碁の性格がそのようなものであるとして、もう一つなぞらえることができる。それは、「棋士は盤上の絵師である」。白黒二色で自由自在に描くと云う意味では水墨画が最も似ているのかも知れないが、上塗りし続ける油絵に似せて考えることもできる。そういう意味で、棋士は自ずと絵画に通じる筆力、審美眼を持っていることになる。それは何も絵画のみならず美術品、工芸品にも当てはまる。碁一局は、美術品、工芸品の作成過程と同じような行程を辿って完成されて行くのではなかろうか。してみれば、先を急ぐ必要は一切ない。じっくりゆっくり完成させていくべきだろう。こう分別するのが肝要と思う 2014.09.22日、2015.04.26日再編集 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、棋士は連続ドラマ小説の執筆家である】 |
碁打ちを連続ドラマ小説の執筆家になぞらえることができる。これはどういう意味か。文章の段落を起承転結で仕分けして一連の物語りにすると云う意味で盤上の執筆家になっていると云う意味である。対局ドラマは、盤上361路を10路着手を一話にすれば36話から成り立っていることになる。どういうドラマにするのか、それは腕次第であろう。この捉え方も珍しいが、これも今後言い伝えられることになるだろう。さて、棋士が小説家であるならば、良い筋書きを書かねばならぬ。これを書き通せた棋譜を好局、名局と云うのではなかろうか。 2014.09.22日、2015.04.26日再編集 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、碁は歌でもある】 |
「碁は歌でもある」。即ち、碁は歌であり、碁打ちは歌手である。歌にはリズムとアクセントをつけねばならない。のべつ大きく歌えば良いという訳ではない。低く歌うところがあって大きく歌うところが盛り上がる。歌意を理解して情感を乗せねばならない。これにより名歌となり名局となる。ここのところを知らねばならない。 |
【棋道論その№、碁は馬術であり、碁打ちは騎手である】 |
「碁は馬術であり、碁打ちは騎手である」。馬が白黒の石である。騎手には白石馬、黒石馬の操作能力が問われている。手綱を締めたり緩めたり、足で腹を蹴って加速させるタイミング、減速させるタイミング等々の馬術が碁打ちの能力と酷似している。第3コ-ナ-を回っての最終の直線での競り合いは囲碁の寄せと酷似している。これらの観点からの囲碁論も必要であろう。 2017.2.8日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、碁は盤上の論理学である考】 |
「碁は盤上の論理学である」。即ち、机上の論理学を盤上に実践して試合を楽しむところに値打ちがある。その様は、実生活と机上の論理学の中間に位置し、両者の仲立ちをしている。ここに碁の魅力がある。碁に夢中になり嵌り虜(とりこ)になる所以がここにある。碁から得た知恵をフィールドバックさせて実生活に役だたせる。これが理想だろう。この観点からの囲碁論も必要だろう。 2017.2.8日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、碁は車の運転になぞえることができる】 |
碁をいろんなものになぞらえてきたが、最後に辿り着いたのが、車の運転と同じという発想である。危険を予知し注意深く回避しながら、集中力を切らさず目的地まで安全運転し続けねばならない。車のタイヤ等の安全チェックをし、交通信号を正しく読み取り、止まるときは止まり、進むときには進まねばならない。適宜に休憩も取り入れリラックスさせねばならない。道中での危険運転、暴走運転が最悪である。云々。 |
(私論.私見)