囲碁吉の天下六段の道/着手論

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6).1.14日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「囲碁吉の天下六段の道/着手論」を書きつけておく。

 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝



【囲碁の神様は簡明な手を好む】
 「囲碁の神様は簡明な手を好む」。「簡明な手」とは「ムダのない手」と同義であり、「急所に石を置く」手なぞが最たるものである。次に良い手を残すような打ち方をするのもこの系列である。これとは逆が、余計なところに石を置く打ち方であり、石の姿がごちゃごちゃしたものになる。これらは要するに、目のつけどころが良いかどうかに関係しており、これができる者は自ずと目が肥えていることになる。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【囲碁の神様はお手伝いの手を打ってはならないと教える】
 「囲碁の神様はお手伝いの手を打ってはならないと教える」。その通りである。これを「囲碁の神様の教え第一とする」。相手の構想を見破り、成算ある場合にはそれに乗るのは良い。反対に、相手にのみ有利に作用する、あるいは相手の方が大きく利する場合、相手の手に合わせてダンスするのは良くない。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【囲碁の神様は愚形を嫌う】
 「囲碁の神様は愚形を嫌う」。その通りである。これを「囲碁の神様の教え第二とする」。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【囲碁の神様は被りの手(屋根重ね)を嫌う】
 「囲碁の神様は被りの手(屋根重ね)を嫌う」。その通りである。これを「囲碁の神様の教え第三とする」。プロの棋譜並べ、プロ対局の観戦の意義は、囲碁の神様に近いところに位置する着手を習うところにある。

 「被りの手」とは「屋根重ね」、「屋上屋を重ねる」と同義であり、要らないところに手を要れる「重複」(石のダブリ)の「不要の一手」を云う。「凝った手」とも云う。碁の神様はこれを嫌う。この感覚も棋力通りのものであるので次第に会得するしか術がない。気持ちが悪いだけで手戻りするその多くの場合が「被りの手」であり、いくら置き石しても間に合わない。

 自陣の石が生きを確保したのに、その石にもう一手かけるのが「屋根重ね」の典型である。生きた石から触手を伸ばして行くのも然り。石の効率が悪い。今度は生きた石の反対側に目を向けるべきであり、そこに侵入の手があり、その手が棋理に適っておれば、形勢に関係なく手をつけるべきである。

 或る箇所の折衝で一段落していれば次の原野に向かうのが良い。一段落していなければ引き続き折衝せねばならない。問題は、一段落しているのに引き続き打つことにある。これも「屋根重ね」、「石のダブリ」と云う。この石数が多くなるほど局勢に遅れを取ることになる。それが否なら、「屋根重ね」、「石のダブリ」を見抜く眼力を磨く以外になかろう。

 仮に中央に厚みとか巨大地ができたとすると、これにブリがついてさらに厚くしたり地を増やしに行くケースが多い。こういう場合、隅、辺に手をつけるのも一法である。その方が賢明なのにさらに中央の巨大地形成に向かうのは、これも一種のダブリであろう。最終的に間に合っておれば良いのだけれども、「巨大一方地」は往々にして僅かに足りないケースが多い。自戒すべきである。

 厚みをダブらせてはいけない。かといって、芯を入れなければならない。芯の箇所、芯を入れるタイミング、これが棋力である。この点でプロはプロの打ち方、アマはアマの打ち方をする。これが棋力の為せる技である。

【石が被る悪い癖を直そう】
 「石が被る悪い癖を直そう」。その通りである。下手ほど石が被る。そのことに自覚がない。上手ほど石が被らない。故に石の効率が良い。「石が被る」とは重複、屋根重ねとも云う。囲碁の神様はこれを嫌う。具体的には、石が連絡しているのにもう一手かける事例、石が生きているのにもう一手かける事例、手つかずの処女地に向かうべきなのに生きている石から触手を伸ばす事例、中央に十分な厚みが形成されているのに中央の周りを打ち続け、中央の厚みを背景にして隅とか辺に手を付けることをしない事例等々がそうである。今後、これを自戒して打つように。

【囲碁の神様はしつこさを嫌う
 「囲碁の神様はしつこさを嫌う」。その通りである。「しつこそ」は「被りの手」と繋がっている。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【囲碁の神様は厚みを囲うな、壁は囲うのではなく働かせるものと教える】
 「囲碁の神様は厚みを囲うな、壁は囲うのではなく働かせるものと教える」。その通りである。これを「囲碁の神様の教え第四とする」。隅、辺の攻防で厚みを構築した場合、その厚みを地にするのは下策である。壁を囲うより攻めに使う方が宜し。

 厚みの本領は勢力の活用にある。これはその通りなのであるが、真の意味でどう了解すべきだろうか。ここをはっきりさせておきたい。
こちらの手番で厚みを活用する場合、次の対応が考えられる。
一、 勢力圏の芯のところへ一手手入れしておき取り敢えず「仮に地を囲う」場合。
二、 「二立三折」、「三立四折」、「四立五折」の延長上の対向線のギリギリのところまで威力を及ぼし、その頃合のところで一着する場合。
三、 厚みの反対の側に掛かり、相手の勢力圏を削る場合。相手は厚みの側に開くことになるが、相手の勢力圏を削りつつこちらの厚みの歩留まりがあると考える。
四、 戦い有利を読み、境界ラインの相手の石にツケるなどして切り結ぶ場合。
五、 厚みを活用して相手の隅や辺に潜入し、中で賢く生きる場合。
六、 厚みを活用して相手の隅や辺に潜入し、千切られても半分を生きる場合。主力を勢力圏内まで連れ戻すことを天秤にして折衝する場合。
七、 厚みを活用して相手の隅や辺に潜入し、千切られても主力を勢力圏内まで連れ戻すことを天秤にして折衝する場合。

 これらの好点を見極めるのが棋力であろう。この好点を見つけることができたとき、このどれを選ぶかがセンスであろう。この判断が囲碁の面白いところではなかろうか。

 相手がこちらの厚みを消してきた場合、次の対応が考えられる。頃合のところへ浅く消して来た場合と、頃合のところへやや深く入って来た場合と、深々と侵入して中で生きようとして来た場合とがある。この三種類のそれぞれに対する受けの好点と攻めの好点を見極めるのが棋力であろう。それぞれの好点を見つけることができたとき、このどれを選ぶかがセンスであろう。

 これらのそれぞれに対して、厚み理論を正しくを適用せねばならない。留意すべきは、「勢力圏の芯のところへ一手手入れしておく」ことの大事さである。巨大地出現に対しては最も適切な時に芯を入れなければならない。この芯の地点は相手がドカンと打ち込んで来たときに最も適切に対応できるヶ所である。これは囲う為のものではなく、ここへ一着入れて相手の侵入を待ち受ける為のものである。これにより強く戦うことができるので、その戦いの歩留まり結果として、できた地、相手の意思の殲滅、コウになり代償として十分のものを得る場合がある。ここを見通しての「厚みを囲うな」であることを知るべきであろう。
  
 2020.2.11日 囲碁吉拝

【囲わされて負けるの愚】 
 「囲わされて負けるの愚」。その通りである。相手が囲え囲えと利かしてきた時、黙考せねばならない。こちらに荒らしの手がある場合、囲い地と荒らし地の目分量が同じぐらいなら荒らしの道に向かうのが賢い場合が多い。そうせずに相手の利かしのままに受けて囲い、終局時に地足らずになるほど愚かなことはない。

【囲碁の神様は打ち過ぎの手、その逆の緩(ゆる)みの手を嫌う】
 「囲碁の神様は打ち過ぎの手、その逆の緩(ゆる)みの手を嫌う」。その通りである。「打ち過ぎ」も「緩(ゆる)み」も形が不自然で見苦しい。普段からの稽古あるのみである。

  「やり過ぎ良くない控えめ宜しい」。これは論理的にもそうなる。即ち、やり過ぎはチャンスを逃すどころか潰すのに対し、控えめは引きつつきチャンスを生かしているからである。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と云われる通りである。普通、これを「度が過ぎることは、足りないことと同じくらい良くないということ」と解しているが、「猶」(なお)が付けられているからにはその意味を解さねばならぬと思う。「猶」には「更に」と云う意味があり、「過ぎたる」は「及ばざる」より「猶(なお)悪い」と解すべきではなかろうか。囲碁を通せば能く分かることである。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【囲碁の神様は利き石の活用を喜ぶ】
 「囲碁の神様は利き石の活用を喜ぶ」。その通りである。利き石を使って捨て石にして更に締めつけで活用するのが石の三段活用で、石の本望にして理想的な使われ方である。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【囲碁の神様は決め過ぎずの味残しの奥ゆかしい手を喜ぶ】
 「囲碁の神様は決め過ぎずの味残しの奥ゆかしい手を喜ぶ」。その通りである。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【千変万化、カン打ち、理詰めの碁を目指そう】
 「千変万化、カン打ち、理詰めの碁を目指そう」。その通りである。「千変万化」とは、局面の変化を恐れるのではなく楽しむ姿勢、態度を云う。「カン打ち」とは、石の勘処(かんどころ)と感覚を磨き、当然に石の形に明るく、石の流れが見える碁を云う。「理詰め」とは、棋理に沿い、手どころでは手筋を使い、ヨセ勘定が上手いことを云う。こういう碁を目指し会得せねばならない。これを第一公理とする。

【仕掛けて薄くなるより極力相手に仕掛けさせる碁を目指そう】
 「仕掛けて薄くなるより極力相手に仕掛けさせる碁を目指そう」。その通りである。「仕掛けて薄くなる」のは実感である。負けるときはこのケ-スが多い。よって、じっくり打ち、「極力相手に仕掛けさせる」のが良い。これを第二公理とする。

【いっぺんに良くはならない悪くもならないの理を心得よう】
 「いっぺんに良くはならない悪くもならないの理を心得よう」。その通りである。要するに、ゆっくりと次第にこんがり焼き上げるのが良く、せいてはことを仕損ずることになる。これを仮に「生かじり兵法」という。生は生きているので、これを抑えるのは大変で、力ずくで押えるよりもゆでガエル式にゆっくりと仕上げるのが良いということになる。これを仮に「ゆでガエル兵法」という。「生かじり兵法」より「ゆでガエル兵法」の方が良い。この理は文化論であり政治論にも通用する。これを第三公理とする。

【大石取った後を雑に打つと逆転されることがある、警戒せよ】
 「大石取った後を雑に打つと逆転されることがある、警戒せよ」。その通りである。「大石取り」後の打ち方が案外難しい。委縮し始めたり、締め付けに使われたり、やけくそパンチをお見舞いされたり、雑な打ち方になったりするからである。「大石取り」後もじっくり確実に仕上げる能力が問われている。

【手抜きの芸を覚えよう】
 「手抜きの芸を覚えよう」。その通りである。これを自覚するようになった頃から天下六段の域に入ったように思う。「手抜きの芸」はそれほど大事な技術+アルファ―なものである。

 これをもう少し説明すると、石の応接で、二目の頭を叩かれる等々形が崩されるので手抜けない箇所がある。こういうところまでは相手の言い分に随い受け太刀せねばならない。問題はその後の応酬である。受けさせようとする相手の注文に対し、それが地的に大きなところではあるが生き死に関係ない場合、あるいは形的に崩される訳でもない場合、ここでは手抜き反発が有効で、相手の最も嫌がるところへ先取せねばならない。これこそが本当の意味での受け太刀、且つ丁々発止である。ここの呼吸が分かり始めれば天下六段間違いなしであろう。

【軽石折衝に手抜きして、先手どりして局面開拓に向かうのが宜しい】
 「軽石折衝に手抜きして、先手どりして局面開拓に向かうのが宜しい」。その通りである。ちなみに、軽石とは要石の逆で、役目が小さかったり、既に用済みになっている石を云う。要石とは、命綱石だったり、その時点で役目が大きい石(着手)を云う。

【局面上どこに意味と意義を感じるのか、その巧拙が棋力である】
 「局面上どこに意味と意義を感じるのか、その巧拙が棋力である」。その通りである。要するに、棋力の通りの適手を打ち進め、それを続けての結果に至る。この道中、低段者になればなるほどさらに棋力以下の手を打つことが多い。これは又別の意味での棋力である。

【攻める石を見つけたら、遠巻きから工作し始めるのが良い】
 「攻める石を見つけたら、遠巻きから工作し始めるのが良い」。その通りである。要するに、直接追わずである。直接追い始める時は既に準備工作が完了しているときである。それまでは遠巻き攻めが肝要である。狙いを定めたら、将来に関係してくるであろう離れた地点で折衝し、地は多少損でも背中を厚くしておく。これを遠巻き攻めと云う。この遠巻き攻めが絡み攻めになるのが理想である。これによって狙いを定めた石団が死ぬ、又は生きんとすれば多大な犠牲がいる局面に導く。これが上手にできるに応じて名人芸になる。

【下手は味悪に打つ、上手は味良しに打つ】
 「下手は味悪に打つ、上手は味良しに打つ」。これが実感である。「味悪」とは「形が崩れているか崩されやすい構えの手」である。「味良し」とは、「形が治まっており、崩されにくい構えの手」である。この差は局面の煮詰まりに応じて露見していくことになる。

【変な手を打つ、あるいは打たされる悪手の累積で負けて行く】
 「変な手を打つ、あるいは打たされる悪手の累積で負けて行く」。これが実感である。「変な手」とは「違和感を感じる手」である。結局、弱い方がこの流れになり自滅していく。

【「自他の手を味わいながら手段するのが碁の冥利である】
 「自他の手を味わいながら手段するのが碁の冥利である」。これができるようになれば天下六段だろう。味わうこと少なく要所でも早打ちマックして勝負を楽しみ何番も打ち続けるのは、上達の道ではない。

【「自他の手の意味、その良し悪し評価を判断しつつ対応すべし】
 「自他の手の意味、その良し悪し評価を判断しつつ対応すべし」。これができるようになれば天下六段だろう。自分の手の評価ばかりで打ち進めるのはまだおぼこい。

【常に形勢判断しながら、着手前後の石の関連性を問いながら着手すべし。これを「碁が明るい」という】
 「常に形勢判断しながら、着手前後の石の関連性を問いながら着手すべし。これを『碁が明るい』という」。その通りである。これが囲碁の基本精神となるべきだと思う。アマはアマなりにプロはプロなりに「明るい碁」を目指すべきで、それが又人の生き方に通ずるようになるべきではなかろえうか。

 2021.11.21日 囲碁吉拝

【「囲碁は着手の感覚を問うゲームではなかろうか】
 「囲碁は着手の感覚を問うゲームではなかろうか」。この着手感覚が個性であり且つ腕芸であって、これを問うなり競うところに病みつきになってしまうほど面白みがあるのではなかろうか。これに気づいてより、只今より着手感覚を磨いていくことにする。

【石に血を通わせる】
 「石に血を通わせる」。史上の名人芸碁を並べて気づくことは、「石に血を通わせる」がピッタリな表現の石運びである。その爪の垢でも煎じて飲むような着手を心がけたい。

【「彼我の石の利き察知能力」を磨こう】
 「彼我の石の利き察知能力を磨こう。この察知能力と対応能力が碁の腕(技量)である」。その通りである。

 2022.6.15日 囲碁吉拝

【腕っぷしの強い碁を打つべし】
 「腕っぷしの強い碁を打つべし」。その通りである。勝負に拘(こだわ)り過ぎて、乱闘の先が読めずにへなへな腰の碁を打つことがあるが、これは能くない。乱闘に棋理上の合理性がある時には乱闘に向い、その応酬を正面から引受ねばならない。勝ち負けはその先の話で良いと思う。負ければ敗着を尋ね、勝てば勝着を確認すれば良い。そういう碁を打たねばならぬと思った。

 2022.6.15日 囲碁吉拝

【受けは味良しが一番】
 「受けは味良しが一番」。その通りである。受けの際には地の得よりも味良し受けが肝心である。なぜなら囲碁にはコウがあり、その他キリ違いなどの手段を使っての捨て身戦法、不利挽回の攪乱戦法がある。その際に丈夫に耐えられる為には「味良し」の方が良い。目先の利益に捉われるのは愚かなことである。

 2022.4.4日 囲碁吉拝

【後先考えるのが囲碁の道。人生、世渡りも然りであろう】
 「後先考えるのが囲碁の道。人生、世渡りも然りであろう」。その通りである。

 2022.4.4日 囲碁吉拝

【「コウを見ながらコウダテを作っておく、増やしておくのが上手である】
 「コウを見ながらコウダテを作っておく、増やしておくのが上手である」。その通りである。

 2022.6.15日 囲碁吉拝

【攻め過ぎず守り過ぎずの塩梅が良くなるほどに天下六段になる】
 「攻め過ぎず守り過ぎずの塩梅が良くなるほどに天下六段になる」。その通りである。

 2022.4.4日 囲碁吉拝

【石の生き死に見ながら確かめながら打つのが基本中の基本である】
 「石の生き死に見ながら確かめながら打つのが基本中の基本である」。その通りである。当然、手前の石然り、相手の石然りである。

 2022.4.4日 囲碁吉拝

【命綱(いのちづな)補給線(路)考】
 「命綱(いのちづな)補給線(路)考」。自分の石の補給線(路)は繋がり、相手の石の補給線(路)は断続しているのが好都合で、相手の石の補給線(路)は断った場合、それは相手も然りであるが、これを取りに行くか、上手に利用するのか二法ある。大抵の場合、上手に利用するのが賢明である。このことを肝に銘じておかねばならない。補足すれば、どう補給するのか、補給させないのかの補給線(路)対応の巧拙が棋力である。名人棋譜並べはそういう意味で必須である。

 2022.4.4日 囲碁吉拝

【大局観が問われている場合、我が道を行く。この姿勢が大事である】
 「大局観が問われている場合、我が道を行く。この姿勢が大事である」。その通りである。

 2022.4.4日 囲碁吉拝

【マイペース、マイウェイ、マイワールドな主義、主張、主体性のある丁々発止の碁を目指そう】
 「マイペース、マイウェイ、マイワールドな主義、主張、主体性のある丁々発止の碁を目指そう」。その通りである。相撲に例えれば「自分の相撲を取る」ことである。これを確認しておく。

 「マイペース、マイウェイ、マイワールド」の識別はさほど意味がない。要するに、それらを総合して、「主義、主張、主体性のある着手をしなさい」ということになる。徒に相手の打つ石音のする方向について行かない主義、相手の意中に添うことを拒否する碁を求めよと云うことになる。「丁々発止」とは、相手の手談意図に逃げず応戦していく小気味良い碁を云う。それは正面から喧嘩を買うばかりを意味するのではない。上手に交わす手も含まれる。要するに「相手の手談意図」に立ち向かう姿勢のことを云う。要するに、相手の着手石の意味を探り、その意図を読み取り手談した後に自分が得心できる着手で返す姿勢の碁を云う。

 碁では局面の見立て方、構想力、打ち回し力が問われている。これは囲碁に限らずかも知れない。かく、自分に相応しい打ち方をするのでなければ打つ意味がない。「碁は自由の天地」、「クリエイティブこそ碁の魅力」、「自分の碁を打て」とも教えられている。但し、マイペース、マイウェイ碁、丁々発止の碁と雖も棋理に即していなければならない。棋理に反する我流は単に下手な碁に過ぎず、未来永劫的に手直しを続けねばならない。その上で、その力量の中でのことであるけれども読みの順序通りに正しく打たねばならない。時に読みの順序と違えて一手飛ばして次の手を打つ失着をすることがあるので気をつけねばならない。この点でプロの冷静沈着的確な打ち回し、石運びの無理のなさが手本になる。

 留意すべきは、「マイペース、マイウェイ、マイワールド」の碁は序盤だけそうであってはならないことである。中盤にも終盤にも終始一貫させねばならない。自戒を込めて云うのだが、良くあるのは、序盤だけ意地のある碁で、後は相手の言いなりに打っているケース、あるいはここ一番の急所で言いなりになっている場合がある。寄せの際も然りである。「マイペース、マイウェイ、マイワールド」の碁は終始一貫させねばならない。こう確認しておく。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【一手の怖さ考】
 「一手の怖さ考/肝心なときの石の一手の方向性の大事さ、一手の怖さを知り、勝負の岐路を正しく御しなさい」。この一手の方向性を間違うと大変なことになる。この手より流れを悪くする。そして優勢な碁を落すことになる。元に戻って、「かの一手」が始まりだったことを後で知ることになる。

 碁の道中にはいろんな魔法が隠されている。一手で流れを良くしたり悪くする分岐点がある。ここで正着せねばならない。逆は真っ逆さまにつるべ落としに遭う。そういう意味で一手が怖い。この理を熟知して打つのが高段者の芸だろうと思う。


 2018.3.5日 囲碁吉拝

【方針の分裂が良くない、正確にはストーリー(物語、脚本)の支離滅裂が良くない】
 「方針の分裂が良くない、正確にはストーリー(物語、脚本)の支離滅裂が良くない」。その通りである。前半の「方針の分裂が良くない」を補足しておけば、方針は硬直であってはならず柔軟でなくてはならないので、原則として方針の分裂は良くないのだが、方針の変更と云うのはあり得るというか付き物と心得たい。これを第一公理とする。問題は、後半の「ストーリー(物語、脚本)の支離滅裂が良くない」である。これはほぼ絶対の要諦で、厳守事項である。第一公理を尊重しつつ流れに合わせて変化せねばならない。その場合でも、ストーリー(物語、脚本)としては合点が続かねばならない。ストーリー(物語、脚本)の破綻が最悪である。これを第二公理とする。

 実例で云えば、中央に厚みが生まれ有利な局勢につつあるとき、「ある一手の対応」で目先の利を追い、これをきっかけにた逆流し始め、「中央の厚み」が消え詰まるところ負けた例がある。敗因は「方針の分裂」であり「ストーリー(物語、脚本)の支離滅裂」である。「中央の厚み」形勢が順調な時は、そのままその流れに乗れば良いのであって、方針の変更をしてはならない。厚みを求め地を求めるのは方針の分裂であって、欲股が裂けることになる。厳に戒めたい。

【石の流れを良くする手、悪くする手考】
 「石の流れを良くする手、悪くする手考。石運びの良い流れ(名調子)を作るのが肝心。チグハグ良くない。石運びの良い流れ(名調子)を逆流させる手を打ってはいけない」。その通りである。この棋理は思っている以上に大事である。部分の得失に拘るのではなく、場合によっては全体の見通しに立って数子(場合によっては数十子)を捨てて流れを良くすることがよほど肝心との意味があり、ある意味では囲碁の極意かもしれない。見た目にも伸びやかな、打ちたいところに打てたら良い流れである。逆は逆である。

 案外と注目されていないが、石の流れの名調子こそ碁の真髄で、個々の折衝での得失よりも全体の石の流れを重視し、良い流れを手繰り寄せることに傾注すべきではなかろうか。「名調子」とは、引くところで引き、押すところで押す、手戻りすべきところで手を戻し、切るべきところで切る、戦いに向かうべきところで戦いに向かい、兵を引き上げるべきところで兵を引く等々リズムの良い碁のことを云う。特に中央と隅との関係で名コンビを作らねばならないところ、チグハグに打つと、さしもの名調子が崩れ悲哀を味わうことになる。この辺りはかなり高度な棋力が必要となる。下手になればなるほどチグハグに打つ。これを言い換えれば、リズムの悪い碁をリズムの良い碁に変えて行く道中こそが上達の道と云うことになる。これの先達がプロであろう。そのプロの碁を見て、あるいは棋譜を並べて、あるいは直接に指導を請うて、次第次第に手直しして行くのが良かろう。現代はパソコンソフトからも習うことができる。要は、意志あるところに道ありだろう。

 囲碁の石の流れは相撲の足運びに似ている。「石運びの良い流れ」を仮に「すり足」、逆を「バタ足」と例えることができる。相撲では足捌きがとても大事で、「すり足」は幸運を呼び、「ドタバタ」は自滅を呼び込む。囲碁も然りで、すり足が良くバタ足が良くない。「石の良い流れ」を作ると好手、妙手が生まれ逆は逆になる。この棋理を踏まえねばならない。これをマラソンや駅伝に例えると、「ペースを掴む」と云う。

 2015.1.10日 囲碁吉拝

【名人の碁には特有のストーリー(物語、脚本)とマイウェイ(石の流れ)、これによるドラマがある。これを見習いたい】
 「名人の碁には特有のストーリー(物語、脚本)とマイウェイ(石の流れ)、これによるドラマがある。これを見習いたい」。その通りである。名人芸の碁は、次の展開がハラハラドキドキ級の興味が湧く流れになっている。直線的な利きに対しては受けるが、対応に幅がある場合にはマイウェイの手を打ち局面を切り拓く。その爪の垢でも煎じて飲んで見習いたいと思うの心。

 2022.4.4日 囲碁吉拝

【息継ぎの手論】
 「息継ぎの手論/息継ぎの手を上手に打てるようになると天下六段間違いなしである」。その通りである。「息継ぎの手」に対する無自覚な者が多い。これは難しい話ではない。歌でも格闘技でもスポーツでも何にでも介在する「息切れに対する補給」のことである。これを上手にできる者が上手いと云われ、逆をヘボと云う。これが碁にもある。要するに「手戻しの手入れ」のことを云う。「手戻しの手入れ」なしに打ち進めると次第にアゴが上がる状態になり腰が高くなる。石がこの姿勢になるとカウンターパンチを貰いやすくなる。初心者は始終これに泣かされており、しかも気づいていない。故に、息継ぎの手が上手く打てるに応じて上達が測られると云っても過言ではない。

 2022.3.23日 囲碁吉拝

【終始棋理に基づく戦略戦術で打ち進める能力が棋力である】
 「終始棋理に基づく戦略戦術で打ち進める能力が棋力である」。その通りである。これの反対が出たとこ勝負着手である。時に勝つこともあるが、理論として獲得されていないと脆い。棋理に基づく着手は不断に研鑽を積み重ねねばならない。これを精進と云う。囲碁に限らず何事もそうだろうと思う。

 2021.6.21日 囲碁吉拝

【「乱れの誘引」/終始打ちたいところに打ち、受けざるを得ないところのみ受ける姿勢が大事】
 「終始打ちたいところに打ち、受けざるを得ないところのみ受ける姿勢が大事」。その通りである。補足すれば、自陣を薄くしながら先へ先へと打つのは良くない。要所に手堅く手戻ししながら打ちたいところに打ち続けるのが良い。辛抱強く打ち進めると、大抵の場合、相手の方からオヤッと思えるような乱れた手を打って来るようになる。これを仮に「乱れの誘引」と名づける。これを活用し戦局を有利に持っていくのが戦略戦術である。これが「戦いの呼吸」である。これを会得できれば天下六段間違いなしだろう。

 2014.12.09日 囲碁吉拝

【「仕掛けの誘引」/持久戦の姿勢が大事で、相手に仕掛けさせ、それを上手に操るのが良い】
 「持久戦の姿勢が大事で、相手に仕掛けさせ、それを上手に操るのが良い」。その通りである。こちらが持久戦方式で打ち続けると、大抵の場合、相手の方から仕掛けて来る。これを仮に「仕掛けの誘引」と名づける。これを活用し戦局を有利に持っていくのが戦略戦術である。これが「戦いの呼吸」である。これを会得できれば天下六段間違いなしだろう。付言すれば、局面はいっぺんには良くならない。粘り強く辛抱強く打ち続けるうちに次第に良くなる。この我慢の道を通らねばならない。悪くなるのは逆に一手で一機になる。人生と良く似ている訳である。

 2014.12.09日 囲碁吉拝

【受ける見込みで打たれたところで読みを入れ、手抜きできれば他の好点に廻るのが賢い】
 「受ける見込みで打たれたところで読みを入れ、手抜きできれば他の好点に廻るのが賢い」。これは井山棋譜、武宮棋譜を並べながら思った感慨である。存外ここの差が大きい。

【捨て石はいざ知らず、本線の石は常に石の生き死にを見て保険を掛けての話し】
 「捨て石はいざ知らず、本線の石は常に石の生き死にを見て保険を掛けての話しである」。その通りである。これが碁の基本である。この当たり前のことを失念して打ち進めている場合が多い。この癖を治すこと、相手のこの癖を衝いて局面を有利に運ぶのが勝利のコツである。

 2014.12.09日 囲碁吉拝

【木を見て森を見ずの愚にならぬよう】
 「木を見て森を見ずの愚にならぬよう」。その通りである。常に局面を広く捉え、この見地から部分の応接に対処する必要がある。これは何にでも通用する戒めであるが碁も又然りである。

 2014.12.09日 囲碁吉拝

【石景色論】
 以上を踏まえれば自ずと「石景色を良くする」ことになる。石の流れを良くすれば石の形の景色が良くなる。これを石の景色論と云う。碁盤を広く見て着手しており、ダブった感じがなく、ゴチャゴチャしておらず全体にバランスが取れているのを景色が良いと云う。「石の流れ」、「石景色」を見れば自ずと強さが分かる。 

 2018.9.22日 囲碁吉拝

【勝ちコース、負けコース考】
 「石の流れを良くする手、悪くする手考」の補足として「勝ちコース、負けコース考」をしておく。着手の要点、潮の流れが変わる分岐点では、次の一着で勝ちコースに乗り、逆に負けコースに入る局面がある。これを仮に「勝ちコース、負けコース」と命名する。「勝ちコース」を打てば次第に良くなり、「負けコース」を打てば次第に悪くなる。こういう手どころで正着できるよう腕を上げねばならない。

 2019.7.8日 囲碁吉拝

【着手の交通信号考】
 「着手の交通信号(赤、黄、青)信号考。着手を交通信号の赤、黄、青になぞらえて、その意味に従え」。その通りである。この真意は、のほほん漠然と着手するのではなく状況を正しく認識して相応しく打てと諭すことにある。これを解説しておく。

 言わずもがなであるが、「囲碁の赤」は、局面が「危険な状態」であることを示唆している。この局面では、立ち止まるべしである。即ち打つのを止めて安全確認し、危険に的確に対処せねばならない。「囲碁の黄」は、局面が「少し危険な状態」であることを示唆している。この局面では、少し立ち止まるべしである。即ち安全確認しながら危険を回避せねばならないことを示唆している。「囲碁の青」は、局面に「危険がない状態」であることを示唆している。この局面では、好調をキープしながら打ち進めるのが良い。囲碁の一手一手にこうした「赤黄青信号」の意味があることを知って着手するのが良い。

 2014.12.09日 囲碁吉拝

【味悪な手を打たぬよう味良し打法に開眼せよ】
 「味悪な手を打たぬよう味良し打法に開眼せよ」。味良し打法とは、手を戻す場合に石の形の急所に手入れして将来に禍根を残さない打ち方を云う。あるいは手を戻さなくて良いような石の形の良い打ち方をしておく着手法を云う。素直になれば味良しの手が打てる。逆は味悪な手であり、打たないに限る。なぜなら不思議と味悪なヶ所周辺に揺り戻しの反動が来るからである。要するに石の良い形、その反対の愚形に明るくなければならない。これが囲碁の心得である。人生の極意であるかもしれない。即ち、囲碁の味良しの打ち方を通じて人生の味良しの生き方を磨くことになる。

 具体的には、陣笠に典型的な愚形、不必要なコスミツケによる相手のタチとの交換、「ケイマの突出し」を思い浮かべればよい。特殊の場合は別として愚形で得することはなかろう。それと、愚形の欠点として、石の形や効率が悪いだけではなく、案外と隙と云うか手の宿題が残っている場合が多く、そこが狙われて逆転される場合が多い。これも自戒せねばならない。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【ダロウの手、勝って読みの手、そそっかしい手良くない】
 「読まず見込みのダロウの手、勝って読みの手、そそっかしい手良くない」。その通りである。

 「ダロウの手」に一言しておく。これは「ダロウ運転」になぞらえられる警句である。読みを入れぬまま読まず見込みの見当の手を打ち失敗する手のことを云う。相手が弱い場合には有効でも上級者になればなるほど通じない。「ダロウの手」を打たないよう着手に必ず読みを入れるよう日頃よりトレーニングせねばならない。日頃より稽古を重ねていないと大事に時に悪い癖が出て臍をかまされることになる。  

 「勝って読みの手」の問題もある。これは、自分にのみ都合の良い読みをしてして打つ手を云う。相手の反発手のことは考えずに打っているので、反撃されて始末に困ることになる。

 「そそっかしい手」とは、読みとしては間違っていなかったのだが、打つ順序を間違えて第二着手にしていた手を先に打ったりする軽率な手を云う。これらの手が悪いのは自明だろう。

 2014.12.09日 囲碁吉拝

【碁を将棋のように打つな、碁は碁のように打て】
 「碁を将棋のように打つな、碁は碁のように打て」。即ち、将棋は相手の王様取りを目的に打つ。碁には将棋の王様のような石はないので将棋の如くな王取り戦略戦術はない。代わりに盤上の支配権を争う。この「盤上の支配権」は、盤上を右辺の上、中、下。中辺の上、中(天元)、下。左辺の上、中、下の9つの領地分割して、それぞれ五分以上の支配権を目指して戦う。ここが囲碁と将棋の違いであるように思われる。実際には全域で優勢になることは無謀で、押すところは押し譲るところは譲り、トータルで優勢を維持するのが理想なのだろう。

 この辺りの差を認識せずに将棋の如くに相手の石を召し取って満足至極したり、ついつい夢中になってもはや肝要でない石を取りに行くなぞは、碁石を使って将棋を指しているのであって未だ碁を打っていない。そうではない、碁は地を求めて地を取らず、石を求めて石を取らず、総合的な領地分け合いを競い、最後に並べてやや厚くコミ残りで半目勝つのが理想である。下手と上手はこの辺りの打ち回しで腕が知れる。

 2019.7.8日 囲碁吉拝

【要石の生き死考】
 「要石の生き死考。常に要石を見定め、その生き死を嗅ぎとりながら打たねばならない」。これが第一要諦である。コウの時などに紛れ分別を失うことがあるので特に要注意である。石は単に競り上げして行けば良いのではない。攻めと守りのバランスを能くし、まずは自石の生き死にの根拠を確かめつつ着手するのが肝要である。

 2016.02.05日 囲碁吉拝

【縦横無尽に中央を厚くする】
 「縦横無尽に中央を厚くする」。その通りである。縦横無尽に中央を厚くするのが良い。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【石は下へ向かわず上へ上へと行くのが良い】
 「石は下へ向かわず上へ上へと行くのが良い」。その通りである。下へ向かう石はそれまでのことで、上へ向かう石は後で利いてくる。これは特に序盤にそうで、ツケは良いとして、相手のハネ受けに対し、これを利かしとみて、ハサミとか他の要所へ向かうのが賢い。今段階ではそう了解している。敗因の研究をすると、序盤での下向打ちに原因があることからそういうことが分かった。

 2018.12.28日 囲碁吉拝

【相手の石は切り離す、当方の石は一つ石を目指すのが良い】
 「相手の石は切り離す、当方の石は一つ石を目指すのが良い」。その通りである。石そのものの形としては、愚形の次に良くないのが「石の裂かれ形」でありポン抜きさせるより悪い。よほどの理由がない限り、この形に誘い誘われてはならない。実戦心理は不思議で、「石の裂かれ形」へわざわざ招くことがある。結果的に碌な結果にならないと心得たい。その反対が「ひとつ石」である。「ひとつ石」は無理矢理に作るのではなく自然にそうなるのが良い。「ひとつ石」の逆が「分裂石」である。盤上で石が5ヶ所以上割れるのは良くないと聞かされている。そうならないよう気をつけよう。「陣地の五箇所以上割れは大抵悪し、一つ石が宜し」。

 石がちぎれる、裂かれることがイジメられる元になる。これを逆に云えば、ひと石系になると最強に強い石になっているのだから、相手の石の切断に向かい、あるいは隅に手をつけて最低限コウに持ち込むなど最強の攻めに転じなければならない。これに格好の次のような西村修語録がある。
「碁はきられたら負け。石を繋がって打てたら負けない」
「一間に飛んでるうちは大丈夫」
「一間の飛びあいは飛ぶのをやめた方が負け。あしたの朝まで飛ぶんや」。

 2019.7.8日 囲碁吉拝

【一路の差で碁形が変わる】
 「一路の差で碁形が変わる」。その差の分かり具合が棋力であろう。初心者はこの辺りが粗い。上達に従いピントが合いだすことになる。ピッタリの手を見つけ着手した時、全体の石が何やら生気を放ち始める。逆は逆である。よって、ピッタリの手を見つける為に苦吟しなければならない。この営為そのものはプロもアマも一緒だろうと思う。

 2015.1.10日 囲碁吉拝

【どこに目をつけるか、どこに手があるのか探す能力が棋力である】
 「どこに目をつけるか、どこに手があるのか探す能力が棋力である」。その通りである。目のつけどころとは、この辺りという見当をつけ、次に相応しい着点を見つけ、そこに正確に着手する一連の過程を云う。下手になればなるほど、「どこに目をつけるか、どこに手があるのか探す能力」が乏しく、プロになればなるほど達者である。プロの棋譜、指導碁はその為の導きである。

 2015.10.05日 囲碁吉拝

【正しい手順、段取り論】
 「正しい手順、段取り論/着手点を見つけたら、正しい手順、段取りで打つのが肝要である。後先の手順が大事。段取りを能くし手順を尽さねばならない。チグハグ手順が良くない」。

 その通りである。まずは着手点を見つけること。次にその着手点をどういう順序で打つのか、どういう段取りで打つのか、その解を求めて打つのが肝要である。同じ狙いでも段取りと手順の間違いで「九仞の功をいっきに欠く」ことになる。後悔遅しの恨み節になる。逆に思惑通りに首尾能く運べば快哉となる。これを上手くできるようになれば天下六段だろう。

 ※「九仞の功(こう)を一簣(いっき)に虧(かく )」とは、「書経/旅獒」に書かれている言葉で、「九仞の高い山を築くのに、最後の一杯の簣(もっこ)の土を欠いても完成しない。転じて、長い間の努力も終わりぎわのわずかな失敗一つで完成しない」の意味である。類語で「画龍点睛を欠く」、「詰めが甘い」がある。 

 2014.12.09日 囲碁吉拝

【情況の正しい認識、解析による石運びが問われている】
 「情況の正しい認識、解析による石運びが問われている」。さらに云うならば、「できるだけ早く正確な認識」が問われている。「木を見て森を見ず」の戒めがある通りで、常に全体を見て着手せねばならないのが鉄則である。石数が増え、石が混み入って来ると、且つ非勢になって来ると、「見れども見えず」の心境に追い込まれことが多い。こうなると、そういう状態にされた時点で負けである。

 これは何も囲碁だけのことではなく諸般に通じている仕事の基本であろう。故にあらゆる職業の者が囲碁に習熟すべきである。囲碁の習熟が仕事に役立つからである。囲碁芸が仕事の段取りと相似形だからである。こういう囲碁の効能につき、世の中には他にも似たようなものがあろうから囲碁が絶対と云う訳ではない。要は、人は自分が夢中になれるものを選び精進すべきである。一芸は万芸に通ずるからである。その結果として、囲碁を選び、これに精進しておれば囲碁の鬼神も喜ぼう。

 2018.3.5日 囲碁吉拝

【厳しい手、急所打ち打法を磨け】   
 「良い手」の親戚に「厳しい手」がある。これは、攻めの絶好点に打って相手の石を浮かせる手のことを云う。序盤に隅に入り込むのはこの原則が貫徹している。生きようとして隅に入るのではなく、相手の石を浮かす為のきっかけにするのが賢い。生きる為に隅に入る手は小さく、序盤での隅や辺の儲けは相手に中原威力を与えることが多く、結果的に劣勢に陥ることが多い。

 「厳しい手」の親戚に「急所の手」がある。相手に打たれて一番困るところが我が身の急所、打たれて相手が一番困るところが相手の急所。ここを探して打てるようになれば天下六段間違いなかろう。教訓はこうなる。攻めの手番の場合には、相手の嫌がるところを探して打て。相手が来ないところは急ぐな。

【違和感を感じるとき熟考せよ】 
 「違和感を感じるとき熟考せよ」。その通りである。打とうとする手に違和感を感じるときがある。こういう場合には適宜に熟考せねばならない。相手の見慣れぬ手、変わった手、勝負手に対しても同様である。

【石音のしない方へ打て。よそ打ちの芸を磨け】  
 「石音のしない方へ打て。よそ打ちの芸を磨け」。石の折衝が相手に都合良く、こちらにはさほどの利がないような見通しになって上手くいかない場合、よそへ打つのが賢い。「一に手抜き。二に手抜き。三、四なくて五に手抜き」(西村修語録)。

【反発と素直の精度を問う駆け引きのゲームである。その適宜さ、その巧拙が大事】
 「反発と素直の精度を問う駆け引きのゲームである。その適宜さ、その巧拙が大事」。

 その通りである。囲碁は着手を盤上に晒しながら対応を窺う興味津々(しんしん)の手談芸である。こう承知して精進するのが上達の道である。


 素直であるべきところでは平明愚直に打ち、反発すべきところでは気合で応戦する石の調子が大事である。その兼ね合いの噛み合い方の上手下手さ加減が棋力だろうと思う。これの熟達度に応じて棋力があると言っても過言ではない。この歯車の調子が良いのを「碁が明るい」、拙いのを「碁が暗い」と云うのではなかろうか。

 下手になればなるほどこの歯車を逆に回し、云うことを聞き過ぎたり無用の反発したりで自滅する。素直にツゲば良いところで反発し、出切りで反発せねばならないところで怯(ひる)み、目をつむって押さえなければならないところで緩みで突き抜けを許したり、ノゾキを利かずに他のところへ打って切断を許すなどもそうである。

 相手が形勢悪しとして紛れようとしてきているのに下手に応戦するのも似た例である。相手が無理に紛れようとしているのなら、咎める意味で正々堂々と切り結ぶのも良いが、簡明な打ち方で引き続き形勢良しなら、味良しのところに補強するなりして腰を落ち着けて対応するのも良い。相手が利かしに来た場合、ツギが有難ければ素直にツいで補強すれば良い。過剰反発癖のある者が手玉に取られる。負け碁ならともかく勝ち碁を落すのは最悪である

 囲碁は素直(平明愚直)のイエス路線と反発のノー路線の兼ね合いを楽しむ応酬ゲームであり、この芸に習熟するところに値打ちがある。これを芸術的にこなすのがプロの技であり、だから味わい深く見て楽しい。下手の碁は逆である故に目を覆う。そういうことではなかろうか。

 2018.12.22日 囲碁吉拝

【無用な反発良くない火傷の元】
 「無用な反発良くない火傷(やけど)の元」。その通りである。反発は、相手の利かしの際に発生することが多い。利かしには賢い手と悪手の二通りある。これを見極め、賢い手の場合には反発するか素直に受けることかを問う。問題は悪手の場合である。この場合に反発するのは無用の反発である。有難く頂戴し受けるのが賢い。その際の受け方に幾通りもある場合には、味良し一番、将来の利きを見るのが二番である。

 無用の反発は悪癖である。形勢が良い時に無用の反発で台なしにすることがある。形勢が良ければイエス路線で味良しにすれば良かろう。欲深く更に儲けに行って失敗するのは愚かであろう。検討すれば、どの手がそうか得心しよう。生きれば勝ちのところでわざと手を抜いて居直り、相手に必死になって攻めさせたところ、頓死させられ負ける場合がある。これも「素直さが足りない」好例だろう。 

 生き死にが絡んでいる場合には辞を低くしてただひたすらに生きなければならぬ。素直とか反発以前の話しと心得、黙って目を持つぐらいが良い。洒落た生き方はコウ材に使われることがあり、そういう意味では、同じ生きるならコウ材に使われことがないように手堅く生きなければならない。

 2018.12.22日 囲碁吉拝

【相手が行き掛けの駄賃の手を打ったときにチャンスがある】
 「相手が行き掛けの駄賃の手を打ったときにチャンスがある」。「行き掛けの駄賃の手」には緩みがある。ここをチャンスと見て、反発した好手を捜さねばならない。仮に、相手が石取り御用の眼潰しノゾキの手を打って来た場合には、安易に継がず、中央平原に顔を出しつつ眼ができる可能性があるなら、中央へ出る手を採用する方が賢い。継いで蓋をされる愚を避けねばならない。 

 「行きがけの駄賃の先手の利かし」は良い。但し、そう思って相手に受けさせるつもり打ったところ、大した手ではなく、相手に手を抜かれ、より急場大場に向かわれ形勢を損じる場合もある。「先手の利かしは思いつきで打ってはいけない。読みを入れねばならない」。これを肝に銘ずることにする。

 2018.4.2日 囲碁吉拝

【「本命、本体、本線、虎の子」路線が肝要と心得て打つ】  
 「本命、本体、本線、虎の子路線が肝要と心得て打つ」。「本命、本体、本線、虎の子」とは本筋ラインの石群のことを云う。このラインが代わることはままあるけれども、この路線を最後まで大事に打ちきることができれば名局となる。凡人はついつい道に迷い、あらぬ所、見かけは大きいが実質は小さいあらぬ所を打ってしまう。道に迷わず、ひたすらに本筋路線に邁進することが肝心である。問題は、これをどうキャッチするかである。これを能くするには明鏡止水の境地が要る。このことを心掛け碁盤の声、石の声を聞き分けすれば良い。

【大仕掛け路線を貫徹せよ】  
 「大仕掛け路線を貫徹せよ」。石は大仕掛けに運ぶのが良い。弱い者ほどこの逆を打つ癖がある。但し、要所への手戻しを省くべからず。

【中庸の心得】 
 「中庸の心得」。囲碁におけるバランスとは単に彼我の中間、その中庸と云う意味ではない。攻め&その逆、引き&その逆の押し、相手の手入れ&こちらも手入れ等々の応酬感覚をバランスと云う。一方に偏してはならない、と云う意味でのバランスである。

【腹七分目路線】 
 「腹七分目路線」。何事も腹七分目が良い。石を取るのも然りで深追いせず要の石を確実に取れば十分である。取られ石を利き石に活用されるのを恐れ、肝腎の石だけ取って他の要所に転じるのが賢い。腹七分目とは「足りることを知る」、「欲深せず」、「稼ぎ過ぎせず」と云うことでもある。足りることを知れば欲深な手を打たなくて済む。大勝ちで投げさせるべく打つのではなく、全体に厚く形勢良しの形で最後まで押し切るぐらいが丁度良い。黒番は10目勝てば良い、白番は5目負ければ良いの心境で打ち進めるのが良いとも聞く。

【当方の愚形化した石に対する相手の攻めには応じず他所を打つのが良い】
 「当方の愚形化した石に対する相手の攻めには応じず他所を打つのが良い」。言葉通りである。面白いことに、そうやって放置していた石に手を差し伸べる機会がやって来ることが多い。繋ぐか捨てるかは別にして、そのように役立てるのが良い。  

 2019.6.5日 囲碁吉拝

【攻め上手、受け上手の賢い碁を打つ】
 「攻め上手、受け上手の賢い碁を打つ。上手は勝つように打ち、下手は負けるように打つ」。その通りである。そういう意味で、攻め上手、受け上手の上手の手を習得せねばならない。

【連絡線の命綱のところは手堅く安全確保しておくのが良い】
 「連絡線の命綱のところは手堅く安全確保しておくのが良い」。その通りである。連絡線命綱のところとは、分離された石の繋ぎの箇所のことであるが、手を入れる機会があれば手堅く繋いでおくのが良い。この箇所は常に狙われるところであり、コウになれば絶対コウ立てにされるところである。ここに味を残さないよう厳重に危機管理しておくが上手であり逆を下手と云う。

 地を稼いだら、稼いだ地の元も子もなくさせられるような急所の箇所の連絡線を補強する。この一連のコンビ手続きが大事である。これが過不足なくできるようになると天下六段ではなかろうか。

【攻守バランス論】
 「攻守バランス論」。囲碁の着手には攻守バランスが必要である。これを攻守バランス論と云う。攻撃は最大の防御と云われるが、攻撃しまくりは滅びの予兆となる。逆に守りが次の攻撃を予定する。この両方の意味を正しく理解して実践せねばならない。

【石の強弱理論】
 「石の強弱理論」。石の強弱に関して感覚を正しくすることが重要である。手を戻したら次は強く戦う。これを仮に強弱理論と云う。この理論を理解するだけで、布石、中盤、ヨセと全ての段階で上達が望める。格言や手筋などの理解にも役立ち、囲碁の根源の一つと言っても過言ではない。「強弱理論」を身につけると、強い石の場所の近くは価値が小さく、反対に弱い石の場所の近くの価値が大きいことが分かるようになる。局面上の有利不利は、相手より陣地が多いことの他に石の丈夫さ加減が要件になる。その強い石を厚みと呼ぶ。味方の強い石の周辺では有利に戦える。つまり、味方の強い石の場所が増えれば優位に立てるということになる。この分別の習熟が上達の道となる。

 格言の「厚みを囲ってはいけない」は「強弱理論」に基づいている。「厚み」は、相手に先に実利を与えたり手番を渡したりすることにより得た代償として手にしている。この「厚み」を活かさないと損だけが残る。「厚み」の攻めへの活用はその帳尻合わせである。厚みの近くに打つのは効率が悪いので、厚みの遠距離側へ出張線を築き、そのライン近辺での応酬如何により得を図ることになる。

 「根拠の確保」も「強弱理論」に基づいている。なぜ根拠をしっかり確保しなければならないのかは、一方的に攻められてしまうと、攻める相手には余得が発生し、こちらは逃げてばかりで損を重ねることになるからである。

 星の一間と小ゲイマ受けの違いについても「強弱理論」で解ける。一間は辺に隙が残っているので、そこからさらに広げる手が大きい。一間受けのある方向からカカリを打たれた際にはハサミが有力になる。それは「強弱理論」によるからである。反対に、小ゲイマは隅を強い石にしようという手なので、そこからさらに広げるのは小さい手と言える。一間は弱みを残す悪い手なのかという疑問が生まれるが、それは違う。小ゲイマが完結型なのに対して一間はその方面の価値を上げる開放型になっている。よって局面によって使い分けるのが良い。


【打ち得の手を逃すな】
 「打ち得の手を逃すな」。その通りである。特に隅がそうで、隅でなくても成立する打ち得の手がある。これをタイミング良く打てるようになると天下6段が近いのではなかろうか。これを仮に「アヤ作り利き石」と命名しておく。「アヤ作り利き石」は、コウ材づくりや相手の石の味悪作りに役立つので打っておくに如かずである。

【石は後から打った方の石が大事の原則を知る】
 「石は後から打った方の石が大事の原則を知る」。その通りである。但し、捨て石の場合は別である。即ち、着手は、どこへ打って良いのか分からない場合、あるいは複数の地点があって迷う場合には、捨て石として働かせようとする場合を外き、新たに始発になる本体本線本命になる地点を見出して、そこへ打つのが宜しいと云うことになる。と云うことは、これを知れば、本体本線本命にならない地点に打つのは間違いと云うことになる。この棋理を知ろう。

【響く石を打たねばならない】
 「響く石を打たねばならない」。その通りである。響く石を打つのが着手のポイントである。対局者は、そういう意味で、自分自身、相手方、碁盤との三者交互作用し合っているのではなかろうか。響くと云う意味では、碁盤に潜む碁神と向き合っているのかもしれない。

 2018.4.2日 囲碁吉拝

【やけにならなければ道はあるもんだ】
 「やけにならなければ道はあるもんだ」。どんなに非勢な局面であっても、やけにならなければ道はあるもんだ。盤は広いので辛抱強く打って行けば挽回のチャンスは訪れる。ここが碁の魅力の一つでもある。相手の気の緩みもある。

 2015.1.19日 囲碁吉拝

【楽して勝てる碁はない】
 「楽して勝てる碁はない」。楽して勝てる碁はない、この言も添えておく。序盤から終局まで粗略なく打ち続けて勝利することができる。これは当たり前の定法である。そういう意味で、粗略なく打ち続けることができる手数と時間の持久力を身につけねばならない。道中、形勢が良くなると浮かれて口に抜け出すようなことでは修行が足りない。

 2015.10.07日 囲碁吉拝

【勝勢になるまではしぶとく大仕掛けに、勝勢後は分かり易く打つのが良い】
 「勝勢になるまではしぶとく大仕掛けに、勝勢後は分かり易く打つのが良い」。これが実践訓である。この教訓は、勝勢後も大仕掛けに打ち進めパンクしたときの反省である。

 2014.11.04日 2015.3.2日 囲碁吉拝

【サバキは軽く。盤全体を大きく読み軽サバキが宜し】 
 「サバキは軽く。盤全体を大きく読み軽サバキが宜し」。その通りである。サバキの石を重くしてはならない。これができるようになるに応じて一人前となり天下6段の扉を開けたことになる。

【相手のキズを咎めるのは良いが仕掛けが早過ぎると自滅の道に入る】
 「相手のキズを咎めるのは良いが仕掛けが早過ぎると自滅の道に入る」。その通りである。

【石を丈夫にさせておけば強く戦うことができる】
 「石を丈夫にさせておけば強く戦うことができる」。これは名人の棋譜を並べながら思った感慨である。

【石の足腰を強くしておけば窮地脱出の手ができて来るものである】
 「石の足腰を強くしておけば窮地脱出の手ができて来るものである」。これは井山棋譜を並べながら思った感慨である。




(私論.私見)