★囲碁を打つ人、囲碁を話す人は、全世界で数千万名もいるが、囲碁がいつ頃、誰によって始められたか、断定して話すことが出来る人はいない。中国からすでに3千余年の歴史をもった囲碁が、今は欧米各国にまで広がり普及して、今や囲碁文化の全盛期を迎えるように発展している。囲碁の長久な歴史に比べて、その史実を書いた文献は、極めて少ない。ただ、中国の場合、断片的な古碁書はたくさんあるが、歴代の史実を体系的に集大成した書誌は、極めてめったにない。
囲碁に関する中国歴代の史実を抜粋、収録した≪歴朝奕事輯略≫や、日本の史実を集めて書いた≪座隠談叢≫位があるだけで、早くから善碁国として知れわたって来た我が国の囲碁史実は、やっと何行ずつ記録された断片的なもので、あちらこちら散らばっているだけで、韓・中・日三国の囲碁の歴史を体系的かつ正確に集大成することができる時期が、いつ頃になるのかは、遼遠である。
堯舜創始説
囲碁は中国から発生したことが確実としても、いつ、誰が、どこで創案したのかに対しては、探求の糸口さえ知ることが難しい。従来の囲碁史は、大部分その起源を古来の伝説に依存している。その伝説さえも、広く知れわたることはあっても、発生の根拠が不確実である。起源の伝説は、どんな正史でも見つかることが出来ないが、中国の古碁書には多く記載されている。囲碁の発生に関して興味ある点は、中国の古代王朝の創世期神話と深い関連がある点である。中国の晋代の張華が著述した≪博物誌≫に‘堯造囲碁丹朱善之’と記されている。また≪中興書≫には、‘堯舜以教愚子也’という原文がある。
愚子というのは、堯帝の息子である丹朱と舜帝の息子である商均を指すことである。堯舜といえば、誰でもよく知っている古代中国の伝説上の聖帝である。ところが、その息子達は、不肖であったので、帝位を継承するには不適当であると考えられた。こうして堯帝は、臣下中で、東西南北の四諸侯の長である四嶽が推挙した、善良で徳が高い舜に会うことになった。堯帝は自分の2人の王女を舜と結婚させて、2人の婦人をどのように感化させながら暮らすのかを観察するなど、三年間、舜の行跡と品格を注視した。舜こそ聖人君子であり、帝王位を譲ることに十分な人物であると、心を決めて、譲位の意志を固めた。最初、丁寧に遠慮していた舜は、堯帝が死んだ後、王子の丹朱を固く押し立てたが、諸侯達の希望を退くことができなく、天命として受け入れて、61才となる年に、天子に即位するようになったのである。
以上は、≪史記≫に記述されている内容である。紀元前91年漢武帝代に司馬遷が≪史記≫を完成したが、その内容中、何カ所かに囲碁に関する話が記述されているが、堯舜が囲碁を創製したという伝説は、記載されていなかった。一般的に、中国では事物の起源に関して、堯舜聖帝と関連つける場合が多くあるが、漢代の文献には囲碁の起源の伝説を見つかることができない。堯舜による囲碁の創始伝説は、更にその後も脚色された。呉清源棋聖の随筆に記述された内容が面白いので、その一部を紹介する。
堯帝は、今の山西省の太原に都を定めていた。長年の治世を極めたが、晩年に悟りがあり、聖賢を探して帝位を譲ろうと決心した。それで、平素仲良くしていた仙人の蒲伊に会って相談した後に方針を決める考えで、高い山中に住んでいた蒲伊を訪ねて言った。最初には蒲伊に帝王の席を譲位したいことを言ったが、蒲伊はこれを固く拒絶し、深く入り込んでいる田舎で農業を営んでいた舜を暗示的に指目しながら、2人の娘を一緒に舜と結婚させて、帝位を譲るように勧めた。合わせて、堯帝の息子である丹朱の身上に対しても心配しながら、彼の品性に適している奕枰、すなわち囲碁を教えるように、答えたのであ。堯帝がその理由をきくと、仙人蒲伊は、次のように語った。
“万物の数は、一から始まる。盤面には361路の目があり、一という数の根源は、天元から始発して四方を制御する。360という数は、天が一回転する日数を表現し、四隅に分かれている事は、春夏秋冬の四季を意味する。外周の合計が72路であることは、1年を72節候で区分する事と同じであり、360個の碁石が黒白半々であることは、隠か陽を表示しているのである。棋盤の線を枰といい、線と線の間を罫と言う。碁盤は四角く静的であるが、碁石は円形で、動的である。昔から現在に至るまで、無数の囲碁が打たれてきたが、同一な局面の囲碁は、一局も再現できなかった。このことこそ、日日新の意味を含蓄んでいるのである。”
このように話した仙人蒲伊から堯帝が囲碁を習うようになり、これを丹朱に伝授した事が、この世に囲碁が普及するようになった始初だったというのに、仙人がもっと詳しく説くことに、囲碁は発興存亡の技芸である故に、丹朱の品性気質でみて、囲碁に没頭したなら、次々囲碁をうつのに興味を持ち、世の中から蛮勇を使わないようになるだろうと言った。
これに関して、否定論がないこともない。中国の古典の中で≪玄々棊経≫という棋書がある。≪玄々棊経≫は中国の元代の舜帝9年(1349年)に、晏天章と厳徳甫の2人が共同編著した棋書であるが、その序文に次のような文章がある。
“昔に、中国の古代の皇帝堯舜は、囲碁を創案して、彼らの息子にこれを教えたと言う。ある人が疑問を抱き、堯帝の息子丹朱と舜帝の息子商均が、2人とも愚かな者だったと聞いているが、当然、聖君と崇め敬われた堯舜が、息子に仁義礼智の道理を教えつべきであって、どうして暇つぶしの道具を作って教えることによって、その愚かさをもっと助長したのだろうか。そんなはずがない。”と、否定の論理を記述した。そうしながら、≪玄々棊経≫の編者は、囲碁に対して次のように説明した。
“囲碁という物は、その現状で見て、天は天圓、地は四角い模様と似ているように作られていて、黒白の争いには、天地陰陽動静の道理が働くのである。囲碁を打っていく盤面上には、天の星のように秩序整然としていて、局面の推移は風雲の変化のような気運を含蓄している。生きていた碁石が死ぬこともあり、全局面を通して変化して行く流れの様相が、まるで山河の表裡の勢いを現わす調和と同じなので、人間世界の道理や浮沈が、全て囲碁の理致と同じではないものはないのである。”
本来、囲碁の起源が神話的不可思議さを内包しているので、神秘的に思われる事もあるが、≪玄々棊経≫の記録内容と同じ棋理棋法の奥深さが、至極な故に、もっと幽玄の境地を満喫するようになるかも知れない。
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