囲碁発祥譚考その1、発祥諭

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.12日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、囲碁の発祥史、及び発祥元とされる中国囲碁発祥史を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【囲碁の起源考】
 囲碁の発祥は神秘のベールに包まれている。囲碁は昔から古代中国の堯舜時代に発明されたという説、チベットを起源とする説など諸説があるが、正解は誰にも分からない。堯舜起源説によると、囲碁の年齢は4000年を超える。

 中国説では、古代中国最初の夏王朝が始まる前の三皇五帝時代に、聖人と称えられた堯、舜が囲碁を創ったという伝承が残されている。「堯造囲棊、丹朱善之」(「博物誌」)、「堯、舜教兎子也」(中興書)。但し、夏王朝も三皇五帝も神話、伝説の類のものなので、実際のところは実はよく分かっていない。歴史時代になって、史記の春秋戦国時代の列伝には囲碁に関する記述がかなり出て来るので、その前の周末期頃から親しまれるようになったと考えられている。
 中国の夏の時、「*王の臣、賭博囲碁を作る」(和漢三才図絵)。
 金トミエ(上級班)の「囲碁の起源(바둑의 기원)」を転載する。
 ★囲碁を打つ人、囲碁を話す人は、全世界で数千万名もいるが、囲碁がいつ頃、誰によって始められたか、断定して話すことが出来る人はいない。中国からすでに3千余年の歴史をもった囲碁が、今は欧米各国にまで広がり普及して、今や囲碁文化の全盛期を迎えるように発展している。囲碁の長久な歴史に比べて、その史実を書いた文献は、極めて少ない。ただ、中国の場合、断片的な古碁書はたくさんあるが、歴代の史実を体系的に集大成した書誌は、極めてめったにない。

囲碁に関する中国歴代の史実を抜粋、収録した≪歴朝奕事輯略≫や、日本の史実を集めて書いた≪座隠談叢≫位があるだけで、早くから善碁国として知れわたって来た我が国の囲碁史実は、やっと何行ずつ記録された断片的なもので、あちらこちら散らばっているだけで、韓・中・日三国の囲碁の歴史を体系的かつ正確に集大成することができる時期が、いつ頃になるのかは、遼遠である。

 堯舜創始説

 囲碁は中国から発生したことが確実としても、いつ、誰が、どこで創案したのかに対しては、探求の糸口さえ知ることが難しい。従来の囲碁史は、大部分その起源を古来の伝説に依存している。その伝説さえも、広く知れわたることはあっても、発生の根拠が不確実である。起源の伝説は、どんな正史でも見つかることが出来ないが、中国の古碁書には多く記載されている。囲碁の発生に関して興味ある点は、中国の古代王朝の創世期神話と深い関連がある点である。中国の晋代の張華が著述した≪博物誌≫に‘堯造囲碁丹朱善之’と記されている。また≪中興書≫には、‘堯舜以教愚子也’という原文がある。

愚子というのは、堯帝の息子である丹朱と舜帝の息子である商均を指すことである。堯舜といえば、誰でもよく知っている古代中国の伝説上の聖帝である。ところが、その息子達は、不肖であったので、帝位を継承するには不適当であると考えられた。こうして堯帝は、臣下中で、東西南北の四諸侯の長である四嶽が推挙した、善良で徳が高い舜に会うことになった。堯帝は自分の2人の王女を舜と結婚させて、2人の婦人をどのように感化させながら暮らすのかを観察するなど、三年間、舜の行跡と品格を注視した。舜こそ聖人君子であり、帝王位を譲ることに十分な人物であると、心を決めて、譲位の意志を固めた。最初、丁寧に遠慮していた舜は、堯帝が死んだ後、王子の丹朱を固く押し立てたが、諸侯達の希望を退くことができなく、天命として受け入れて、61才となる年に、天子に即位するようになったのである。

 以上は、≪史記≫に記述されている内容である。紀元前91年漢武帝代に司馬遷が≪史記≫を完成したが、その内容中、何カ所かに囲碁に関する話が記述されているが、堯舜が囲碁を創製したという伝説は、記載されていなかった。一般的に、中国では事物の起源に関して、堯舜聖帝と関連つける場合が多くあるが、漢代の文献には囲碁の起源の伝説を見つかることができない。堯舜による囲碁の創始伝説は、更にその後も脚色された。呉清源棋聖の随筆に記述された内容が面白いので、その一部を紹介する。

堯帝は、今の山西省の太原に都を定めていた。長年の治世を極めたが、晩年に悟りがあり、聖賢を探して帝位を譲ろうと決心した。それで、平素仲良くしていた仙人の蒲伊に会って相談した後に方針を決める考えで、高い山中に住んでいた蒲伊を訪ねて言った。最初には蒲伊に帝王の席を譲位したいことを言ったが、蒲伊はこれを固く拒絶し、深く入り込んでいる田舎で農業を営んでいた舜を暗示的に指目しながら、2人の娘を一緒に舜と結婚させて、帝位を譲るように勧めた。合わせて、堯帝の息子である丹朱の身上に対しても心配しながら、彼の品性に適している奕枰、すなわち囲碁を教えるように、答えたのであ。堯帝がその理由をきくと、仙人蒲伊は、次のように語った。

“万物の数は、一から始まる。盤面には361路の目があり、一という数の根源は、天元から始発して四方を制御する。360という数は、天が一回転する日数を表現し、四隅に分かれている事は、春夏秋冬の四季を意味する。外周の合計が72路であることは、1年を72節候で区分する事と同じであり、360個の碁石が黒白半々であることは、隠か陽を表示しているのである。棋盤の線を枰といい、線と線の間を罫と言う。碁盤は四角く静的であるが、碁石は円形で、動的である。昔から現在に至るまで、無数の囲碁が打たれてきたが、同一な局面の囲碁は、一局も再現できなかった。このことこそ、日日新の意味を含蓄んでいるのである。”

このように話した仙人蒲伊から堯帝が囲碁を習うようになり、これを丹朱に伝授した事が、この世に囲碁が普及するようになった始初だったというのに、仙人がもっと詳しく説くことに、囲碁は発興存亡の技芸である故に、丹朱の品性気質でみて、囲碁に没頭したなら、次々囲碁をうつのに興味を持ち、世の中から蛮勇を使わないようになるだろうと言った。

これに関して、否定論がないこともない。中国の古典の中で≪玄々棊経≫という棋書がある。≪玄々棊経≫は中国の元代の舜帝9年(1349年)に、晏天章と厳徳甫の2人が共同編著した棋書であるが、その序文に次のような文章がある。

“昔に、中国の古代の皇帝堯舜は、囲碁を創案して、彼らの息子にこれを教えたと言う。ある人が疑問を抱き、堯帝の息子丹朱と舜帝の息子商均が、2人とも愚かな者だったと聞いているが、当然、聖君と崇め敬われた堯舜が、息子に仁義礼智の道理を教えつべきであって、どうして暇つぶしの道具を作って教えることによって、その愚かさをもっと助長したのだろうか。そんなはずがない。”と、否定の論理を記述した。そうしながら、≪玄々棊経≫の編者は、囲碁に対して次のように説明した。

“囲碁という物は、その現状で見て、天は天圓、地は四角い模様と似ているように作られていて、黒白の争いには、天地陰陽動静の道理が働くのである。囲碁を打っていく盤面上には、天の星のように秩序整然としていて、局面の推移は風雲の変化のような気運を含蓄している。生きていた碁石が死ぬこともあり、全局面を通して変化して行く流れの様相が、まるで山河の表裡の勢いを現わす調和と同じなので、人間世界の道理や浮沈が、全て囲碁の理致と同じではないものはないのである。”

本来、囲碁の起源が神話的不可思議さを内包しているので、神秘的に思われる事もあるが、≪玄々棊経≫の記録内容と同じ棋理棋法の奥深さが、至極な故に、もっと幽玄の境地を満喫するようになるかも知れない。

 2011.8.26日、朱 新林(浙江大学哲学系 助理研究員)「【11-08】黒白の碁石に古くからの情を思う」の「一、中国と囲碁」は次のように記している。
 「囲碁は人類史上最も長い歴史を持つ盤上遊戯の一つであり、漢民族の伝統文化における精華である。囲碁は中国に始まり、古代には弈と称され、4000年の歴史を有し、夏王朝末期には存在したと伝えられる。囲碁は当初は占星術や算術の手段であったが、後に遊びや知恵比べの道具へと変わっていった。春秋戦国時代の古書『世本』によれば、囲碁は堯により創造された。晋代の学者、張華も『博物誌』の中で『子の商均が愚かだったため、舜は囲碁を創りこれを教えた』と記述している。一方、唐代の皮日休は『原弈』の中で『囲碁は戦国時代に始まり、縦横家 の創造による』としており、『囲碁は有害な欺き・争い・偽りの道である』という説を根拠としている。このように、現存する文献を見ても囲碁は具体的に誰が作ったのかを知ることはできないものの、歴史の長さを伺うことはできる」。
 日本人として、最初のノーベル文学賞を受賞した川端康成が、1953年呉清源棋聖と三日間寝食を共にしながら、囲碁に関する対談を通して、呉清源棋聖の囲碁哲学と見解を探索した後、「呉清源棋談」を著述した。当代の屈指の文学家と棋聖との出会いだったので、囲棋文化の真髓を探求した内容が、一句一句意味深長であるばかりである。「呉清源見解」が次のように解説されている。
 「呉清源棋聖の想像であるが、彼の見解では、囲碁の構成が当初には、天文学を研究する道具だったという考えである。堯帝が息子である丹朱に一種の遊びの道具ではなく、天文を研究する道具として囲碁を教えてあげたということである。囲碁を勉強して、易や祭礼に関する教養を分かるようにするという意味で、教えてあげたという話である。呉清源棋聖の想像では、囲碁を堯帝が創製する前に、既に天文や易の道具に使用していたということである。

 囲碁を漢字で棊、又は奕と書くが、奕・易・医は中国の発音で、‘イ’と読み、暦は‘リ’と発音するので、殆ど似ていたということである。遠い昔、中国の統治概念は、祭政一致が基本であったために、易や天文や天命、すなわち神の命令や暗示と深い関係があると考えるということである。

従って、囲碁板をもって、天文を伺い、易を調べたと見て、堯帝が丹朱に囲碁を教えたことも、祭政の中から、祭の方を任せるようにしたのだという見解が、呉清源棋聖の想像である。伝説は幻想的であり、美しいものである」。

 呉清源の「呉清源棋談」は次の通り。
 「よく人から棋道の上達法、研究方針を質問されますが、私は碁の修行には二つの途があり、それを併用してこそ、初めて優曇華(うどんげ)の花が咲くと信じております。昔から志は大きく持てと云います。棒ほど願って針ほど叶うのが又世の常ですから、私も無論大名人を目指して361路の精進を続けておるのですが、大名人たる為には、これから述べる修行の二途を措いては他に術がないような気がします。

 その二途とは、第一が手段の研究、第二が精神(こころ)の修行であります。第一の手段の研究は今更申すまでもなく、全ての専門家が夜を日に次いで没頭しつつあるところのもので、定石の解剖、新手の発見等々、詰碁の究理から対局の実戦熟練まで、これ皆な一つとして尊い踏み石ならざるはないのであります。これを鏡に例えれば、手段の研究はこの鏡の面に溜まった埃を一つ一つ払い去って行く工作でありませう。一歩一歩撓(たわ)みなき努力が払われねばならぬのは云うまでもないのであります。

 しかし、この手段の研究だけでは、大名人になれないのであります。何故なら盤上は変化無窮なのでありますから、経験の蓄積たる第一の研究法のみでは、臨機の慧(恵)光が閃かぬのです。『玄玄碁経』によりますと、8段を坐照としてあります。坐照の註に曰く、不労心思、神遊カツ内と。カツとは方寸の意です。又、名人を入神としてあります。神とは孟子にいわゆる、『聖而不可知之謂神』とある通り、その手段に至っても無にして而して有なるものでなければならないのです。

 ですから、この境地は、実に第二の精神の修養によって、やっと到達すべきところのものなのでありませう。精神の修養、これを鏡に例えてみますと、前者が表面の埃を拭い取る工作だったのに比して、これは鏡を奥底から、真底から光らせる作業なのであります。

 私は次のように考えております。即ち天地は春から夏にかけて力を出し、秋から冬にかけて力を養っているのだと。人間の腕でもそうです。グ-ッと伸び切る時が力を出す時、屈する時が力を養う時なのでありませう。従って棋士も力を出すばかりではなく力を養って行かねばならないのではないでせうか。そしてその養力は、前述の鏡を真底から光らせる作業だと信じます。

 宗教にも色々あります。例えば儒教は第一の方法たる鏡の表面の埃を一つ一つ拭って行くもののようであります。忠孝はその重要なる定石でありませう。これなれば間違いなく、又一歩は一歩と確実に前進改良されて行くのであります。これに対して仏教は神の如く悠然として悟りに入るもので、良知良能はかくてこそ達し得られるのではないでせうか。鏡を真底から光らせるのはこれだと思います。(以下略)」。
 「大昔には、ご承知のように、文字はありませんでした。しかし、文字ができる前から、天文の研究はおこっていたと思います。堯帝の時代になると、その研究がかなり進んでいたらしく、天文学は帝王の学問とでも言いますか、要するにそれによって、人々に時を授けるのですね。いつ種をまいたらいいかというようなことです。堯舜に天下を譲った時にも、天の暦数は汝の身にあり、と言っています。これには運命という意味もあるでせう。昔の中国では、天は神意や人間の運命を示すと考えられていましたが、もう一つは暦のことで、天の運行によって暦を教えられたのです。大昔の人間の生活、殊に農業は、季節や天候に左右されたものです。帝王は暦を知って、暦を知らない人々に、時を授ける、つまり、種をまく時とか刈り入れる時とかを示すのが、大切なことだったでせう」。
 「ところが、文字のできたのは殷の時代ですか。殷の前からあったとしても、非常に少なかったでせう。例えばいろいろの形に結んで、その形を文字の代わりの符号にしていた時代もあるようです。また文字ができた始めは、誰でも読めるという訳にはまいりません。とにかく、まだ文字がないか、少しはあっても不自由な時代は、天文を研究するにも、今日のように書物や記録によることはできません。そうすると、何によって研究したかというと、今の碁盤ですね。今の碁盤のように線を引いて、白墨で陰陽の動きを知る。天体は360ですから----。おそらく碁盤の目と白黒の石とは、勝負を争うものではなく、天文を研究した道具だったろうと、私は思っています」。

 呉清源が次のように述べている。
 「碁は中国神代の時からあったらしい。神技とは、まことにこのことをいうのであろう。邃遠幽玄、覗けば覗くほど天地下は広く深い。私ら、凡庸の頭からすれば碁は神が創造したとしか考えられないのである」。
 「碁というものは中国の哲学であるところの三百六十の陰陽-つまり天文学に関係しておこったものではないかと思います。碁盤の目は三百六十一、そして天体は三百六十から成っていますね。碁は最初は勝負事ではなかったのではないでしょうか。天文を研究する道具じゃなかったのでしょうか」。
 「碁盤の中央、天元(太極)の一点は数の始めであり万物の根源とみなす。三百六十は太陽が天をまわる日数を象(かたど)っている。また、盤を四分して一隅の九十路は四季それぞれの日数を表し、外周の七十二路は七十二候、そして白黒の石三百六十は陰陽にのっとっている」。
 幸田露伴「囲碁雑考」を転載する。  
 棊は支那に起る。博物志に、尭囲棊を造り、丹朱これを善くすと云ひ、晋中興書に、陶侃荊州の任にある時、佐史の博奕の戯具を見て之を江に投じて曰く、囲棊は尭舜以て愚子に教へ、博は殷紂の造るところなり。諸君は並に国器なり、何ぞ以て為さん、といへるを以て、夙に棊は尭舜時代に起るとの説ありしを知る。然れども棊の果して尭の手に創造せられしや否やは明らかならず。猶博物志の老子の胡に入つて樗蒲を造り、説文の古は島曹博を作れりといふが如し。これを古伝説と云ふべきのみ。
 但し棊の甚だ早く支那に起りしは疑ふべからず。論語に博奕といふ者あらずやの語あり。孟子に奕秋の事あり。左伝に太叔文子の君を視る奕棊に如かず、それ何を以て免れん乎の語あり。特に既に奕秋の如き、技を以て時に鳴る者ありしによれば、奕の道の当時に発達したるを察知するに足る。仮令尭の手に成らずとするも、奕は少くも周もしくはその前に世に出でたるものなること知るべし。 
 棊の由つて来ること是の如く久しきを以て、もし棊に関するの文献を索めんには、厖然たる大冊を為すべし。史上に有名なる人物の棊に関する談は、費と来敏との羽檄交馳する間に於て対局したるが如き、王粲が一局の棊を記して誤らざりし如き、王中郎が棊を座隠といひ、支公が手談と為せる如き。袁が棊を囲みながら、殷仲堪の易の義を問ふに答へて、応答流るゝが如くなりし如き。班固に奕旨の論あり。馬融に囲棊の賦あるが如き。晋の曹、蔡洪、梁の武帝、宣帝に賦あるが如き。魏の応に奕勢の言あり。梁の沈約に棊品の序あるが如き。唐より以下に至つては、詩賦の類、数ふるに暇あらざらんとす。
 然れども梁に棊品あるのみ、猶多く専書有る無し。宋の南渡の時に当つて、晏天章元棋経を撰し、劉仲甫棋訣を撰す。これより専書漸く出づ。明の王穉登奕史一巻を著はして、奕の史始めて成る。明の嘉靖年間、林応竜適情録二十巻を編す。中に日本僧虚中の伝ふる所の奕譜三百八十四図を載すといふ。その棋品の高下を知らずと雖も、吾が邦人の棋技の彼に伝はりて確徴を遺すもの、まさにこれを以て嚆矢とすべし。予の奕に於ける、局外の人たり。故に聞知する少しと雖も、秋仙遺譜以下、奕譜の世に出づる者蓋し甚だ多からん。吾が邦随唐に往来するより、奕を伝へて此を善くする者また少からず。伝ふるところの談、雑書に散見するもの亦多し。
 本因坊あつて偃武の世に出づるに及び、蔚然一家を為し、太平三百年間、雋異の才、相継で起り、今則ち禹域を圧すといふ。奕譜も亦甚だ多し。然れどもその図譜以外の撰述に於ては甚だ寥、彼と我とを併せて、棋経十三篇に及ぶものなし。十三篇は蓋し孫子に擬する也。中に名言多きは、前人既にこれを言ふ。棊有つてより以来、言を立て道を論ずる。これに過ぐる者有る無し、目して棋家の孫子と為すも、誰か敢て当らずとせんや。棋は十三篇に尽くといふも可ならん。杜夫子、王積薪の輩、技一時に秀づと雖も、今にしてその観るべきなきを憾む。棊の大概、是の如きなり。
 一 棋経妙旨
○古より今に及ぶまで、奕者同局なし。伝に曰く、日※(二の字点、1-2-22)に新なりと。故に宜しく意を用ゐる深くして而して慮を存する精に、以てその勝負の由るところを求めば、則ちその未だ至らざる所に至らん。
○棋者正を以てその勢を合し、権を以てその敵を制す。戦未だ合せずして而して算す。戦つて勝つ者は、算を得る多き也。戦つて勝たざる者は算を得る少き也。戦已に合して而して勝負を知らざる者は算なき也。兵法に曰く、算多きは勝ち、算少きは勝たずと。(多算勝、少算不勝は孫子の語)
○近きも必ずしも比せず、遠きも必ずしも乖かず。比は輔くる意。乖くは相及ばざる也。
○博奕の道、謹厳を貴ぶ。高き者は腹にあり、下(ひく)き者は辺にあり、中なる者は角にあり。法に曰く、寧ろ一子を輸くるも、一先を失ふ勿れ。左を撃たんとすれば則ち右を視、後を攻めんとすれば則ち前を瞻る。先んじて後るゝあり、後れて先んずるあり。両つながら生けるは断つ勿れ、皆な活けるは連なる勿れ。闊きも太だ疎なるべからず、密なるも太だせまるべからず、その子を恋ひて以て生を求めんよりは、之を棄てゝ勝を取るにしかず。その事なくして而して強ひて行かんよりは、之に因りて而して自から補はんにしかず。彼衆(おほ)くして我寡くば、先づその生を謀り、我衆くして彼寡くば、努めてその勢を張る。善く勝つ者は争はず、善く陣する者は戦はず、善く戦ふ者は敗れず、善く敗るゝ者は乱れず。それ棋は始は正を以て合し、終は奇を以て勝つ。凡そ敵事なくして自から補ふ者は、侵絶の意ある也。小を棄てゝ救はざる者は、大を図るの心ある也。手に随つて下す者は、無謀の人也。思はずして応ずる者は、敗を取るの道也。
○それ奕棋は、緒多ければ則ち勢分る、勢分るれば則ち救ひ難し。棋を救ふには逼る勿れ、逼れば則ち彼実して而して我虚す。虚しければ則ち攻められ易く、実すれば則ち破り難し。時に臨みて変通せよ、宜しく執一なる勿れ。
○それ智者は未だ萌さゞるに見、愚者は成事を睹る。故に己の害を知りて、而して彼の利を図る者は勝つ。以て戦ふべきと、以て戦ふべからざるとを知る者は勝つ。衆寡の用を識る者は勝つ。虞を以て不虞を待つ者は勝つ。逸を以て労を待つ者は勝つ。戦はずして人を屈する者は勝つ。
○それ奕棋の勢を布くは、相接連するを務む。始より終に至るまで、着※(二の字点、1-2-22)先を求めよ。局に臨み交※(二の字点、1-2-22)争ひ、雌雄未だ決せずば、毫釐も以て差(たが)ふべからず。局勢已に羸(つか)れなば、精を専にして生を求めよ。局勢已に弱くば、意を鋭くして侵し綽(と)けよ。辺に沿ひて而して走れば、その生を得る者と雖も敗る。弱くして而して伏せざる者は愈(いよいよ)屈し、躁いで而して勝を求むる者は多く敗る。両勢相囲まば、先づその外に促れ。勢孤にして授寡ければ、即ち走る勿れ。是故に棋に走らざるの走あり、下さゞるの下あり。人を誤る者は多方にして、功を成す者は一路のみ。能く局を審にする者は則ち多く勝つ。下は子を下すをいふ。
○棋の勝負は、得て先づ験すべし。曰く、それ持重して而して廉なる者は多く得、軽易にして而して貪る者は多く喪ふ。争はずして自から保つ者は多く勝ち、殺すを務めて顧みざる者は多く敗る。敗れたるに因つて而して思ふ者は、その勢進み、戦勝つて而して驕る者は、その勢退く。己の弊を求めて人の弊を求めざる者は益す、その敵を攻めて而して敵の己を攻むるを知らざる者は損す。目一局に凝る者は、その思周く、心他事に役せらるゝ者は、その慮散ず。行遠くして而して正しき者は吉、機浅くして而して詐る者は凶。能く自ら敵を畏るゝ者は強く、人を己に若く莫しと謂ふ者は亡ぶ。意旁通する者は高く、心執一する者は卑し。語黙常あれば、敵を使て量り難からしめ、動静度なければ、人に悪まるゝを招く。意旁通するとは、対ふところのみに心の滞らずして、思慮の左右前後に及ぶを言ふ也。心執一するとは、心の一に執着して、他面に及ぶ能はざるを言ふ也。
○兵は本(もと詐謀を尚ばず。譎道を言ふ者は、乃ち戦国縦横の説なり。棋は小道と雖も、実に兵と合す。故に棋の品甚だ繁くして、奕の旨一ならず。品の下なる者は、挙に思慮なく、動には則ち変詐す。或いは手を用ゐて以てその勢を影にし、或いは下さんと欲して而して復止み、或いは去らんと欲して去らず、或いは言を発して以てその機を洩す。品の上を得る者は、則ち是に異なり。皆沈思して而して遠慮し、神は局の内に遊び、意は子の先にあり、勝を無朕に図り、行を未然に滅す。豈言辞の喋※(二の字点、1-2-22)と手勢の翩※(二の字点、1-2-22)とを仮らんや。
○凡そ棋は之を益して而して損する者あり、之を損して而して益する者あり。之を侵して而して利ある者あり、之を侵して而して害ある者あり。左に投ずべきものあり、右に投ずべきものあり。先着すべき者あり、後着すべき者あり。緊※[#「山/辟」、110-4]すべき者あり、慢行すべき者あり。子を粘ぐは前なる勿れ、子を棄てば後を思へ。始め近くして而して終り遠き者あり、始め少くして而して終り多き者あり。外を強くせんと欲すれば先づ内を攻め、東を実せんと欲すれば先づ西を撃つ。路虚しくして眼なければ、則ち先づ※(「虎+見」の「儿」に代えて「助のへん」、第4水準2-88-41)ひ、他棋に害なければ則ち劫を做す。路おほければ則ち疏すべく、路を受くれば則ち戦ふ勿れ。地を択んで而して侵し、碍なければ則ち進む。これ皆な棋家の幽微、知らざるべからざる也。
○奕は数※(二の字点、1-2-22)するを欲せず、数※(二の字点、1-2-22)すれば則ち怠る、怠れば則ち精ならず。奕は疎なるを欲せず、疎なれば則ち忘る、忘るれば則ち失多し。数※(二の字点、1-2-22)するとは対局すること繁多なる也。疎なるとは対局することなくして歳月を経る也。
○勝つて言はず、敗れて語らず、謙譲を崇ぶ者は君子也、怨怒を起す者は小人也。高き者も亢ぶる勿れ、卑き者も怯なる勿れ。気和して而して意舒ぶる者は、その将に勝たんとするを喜ぶ也。心動いて而して色変ずる者は、その将に敗れんとするを憂ふる也。赧は易ふるより赧なるは莫く、恥は盗より恥なるは莫し。妙は鬆を用ゐるより妙なるは莫く、昏は劫を覆すより昏なるは莫(な)し。
 二 奕旨  後漢  班固
○北方の人、碁を謂つて奕と為す。之を弘め之を説いて、大略を挙げん。この数句一篇の文字の序分なり。班固は支那有数の史家にして、卓絶せる文人也。
○局必ず方正なるは、地則に象どる也。道必ず正直なるは、明徳を神にする也。局は碁盤なり。古は地を以て方となせり、故に地則に象どるといふ。道は碁盤上の線道なり、明徳は即ち正直也。
○棊に白黒あるは、陰陽分る也。駢羅列布するは天文にならふ也。棊は碁に同じ、棊は即ち棊子にして、本来一字にて足る也。白は陽、黒は陰也。駢羅列布は白黒の棊子の散布せるさまをいふ。これを天上星辰の羅列に比して言ふ也。
○四象既に陳す、之を行ふは人にあり。蓋し王政也。四象は地則、明徳、陰陽、天文なり。碁の事既に陳在すれば、之を行ふは人にあり。その行ふところは蓋し王政なり、覇道の騙詐暴力を主とするにあらずの意。
○或いは虚しく設け予め置き、以て自から衛護す。蓋し庖犠網罟の制に象どる。庖犠は伏羲氏なり、網罟を創めたるの人。この段に至りて始めて碁の情を言ふ。虚設予置、以自衛護の八字、下し得て甚だ妙なり。碁の頭初の布局まことに網罟に似たり。
※(「こざとへん+是」、第3水準1-93-60)防周起し、障塞漏決す。夏后治水の勢に似たるなり。夏后は禹、洪水を治めたるの人。※(「こざとへん+是」、第3水準1-93-60)防周起は※(「虫+偃のつくり」、第4水準2-87-63)蜒として勢を成すの状。障塞は己を衛るを云ひ、漏決は患を去るを云ふ。
○一孔とゞむるあるも、壊頽振はず。瓠子汎濫の敗に似たるあり。閼は遏に通ず。一孔を遏むるも、敵勢洪大なれば、壊頽して救ふべからず、大勢を如何ともする能はざるを言ふ。瓠子は即ち瓠子口にして、黄河の水を塞ぐの処、濮陽県の南にあり。漢武帝の時、黄河大に漲り、瓠子を決して、鉅野に注ぎ、淮泗に通じたることあり。我が陣将に敗れんとして、其命縷の如き時、死戦して緊防すれども、敵軍浩※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)たるに当つて終に敗るの状、真にこの句の如きことあるなり。
○伏を作し詐を設け、囲を突いて横行す。田単の奇。兵を伏せて敵を誘ひ、奇を以て勝を制し、重囲を突破して、千里に横行する、痛快無比の状を叙せり。田単は斉の名将。重囲に陥りて屈せず、火牛の謀を以て燕の大軍を破り、日あらずして七十余城を回復せる也。
○厄を要してあひおびや[#「去+りっとう」、112-11]かし、地を割かしめて賞を取る。蘇張の姿。厄は急厄なり、死生の分るゝ処即ち厄也。厄を要して※[#「去+りっとう」、112-12]かせば、敵其の死せざらんことを欲して、地を割くを辞せず、是相闘はずして能く奪ふもの也。蘇張は蘇秦張儀、皆兵馬を動かさず、弁舌を以て功を成せるもの。
○参分まさる有つて、而して誅せず。周文の徳。参分勝るあるは天下を三分して其二を保有するを言ふ。周の文王、既に天下の実権を有して、而して敢て紂王を誅せず、益※(二の字点、1-2-22)徳を修めて自から固うす。碁の道、善く勝つ者、毎※(二の字点、1-2-22)是の如きの態ある也。
○逡巡儒行し、角を保ち旁により、却て自から補続す、敗るゝと雖も亡びず。繆公の智、中庸の方なり。逡巡は進まざるの貌、儒行は敢行勇為せざるなり。角を保ちは碁局の角を保つをいひ、旁に依りは碁局の辺旁に依るをいふ。大に覇を争はざるも、是の如くにして自から補続すれば、既に必ず死せざるの勢あるを以て、敗ると雖も亡びざる也。繆公は秦の繆公、西陲に拠有して、漸く其大を成せり。中庸の方は上智英略あらざるものの方策なるを言ふ也。
○上に天地の象有り、次に帝王の治あり、中に五覇の権有り、下に戦国の事有り。其の得失を覧れば、古今ほゞ備はる。碁の道、局道棊布、天地の象あり。次に虚設予置するところ、古帝前王の治の如し。後に互に雄略大志あるところ、五覇の権有りといふべく、終に攻撃戦闘する、戦国の時の事の如し。故に其の得失の状を覧れば、古今の情状略具備すといふ也。
 三 囲棊賦  後漢 馬融
○略囲棊を観るに、兵を用ゐるに法る。馬融は博学能文の大儒にして、盧植、鄭玄皆なその徒なり。
○三尺の局を、戦闘の場と為す。士卒を陳し聚めて、両敵相当る。三尺の局、今に比すれば大に過ぐ。又惟大概をいふのみ、深く怪むに足らず。
○怯者は功なく、貪者は先づ亡ぶ。怯者は惟守る、守れば則ち足らず。貪者は必ず昧し、昧ければ則ち禍を惹く。二句実に不磨の金言なり。
○先づ四道に拠り、角を保ち傍に依り、辺にり列を遮り、往※(二の字点、1-2-22)相望む。四道は四方と云はんが如し。碁局は四分すべき形勢あり。黒白各先づ四道に拠るをいふ。保角依傍は前に出づ。辺に縁るは字の如し、列を遮るは敵の列を遮る也。往※(二の字点、1-2-22)相望むは、敵と我と往※(二の字点、1-2-22)相対して同一形勢を取り、子と子と相望むが如き状あるをいふ。相莅むにはあらず、相望見する也。往※(二の字点、1-2-22)相望むの一句四字、無限の情趣あり。
○離※(二の字点、1-2-22)たる馬目、連※(二の字点、1-2-22)たる雁行。※(「足へん+卓」、第4水準2-89-35)度間置し、徘徊中央す。離※(二の字点(踊り字)、面区点番号1-2-22、114-11)※(二の字点(踊り字)、面区点番号1-2-22、114-11)の二句、棊子の布置羅列の状をいふ。※(「足へん+卓」、第4水準2-89-35)度間置は棊子の相接せずして相助くるをいひ、徘徊中央は棊子のたゞ雌伏するのみならず、却て雄飛せんとするをいふ。二句妙致あり。
○死卒を収取し、相迎へ使むるなし。食むくして食まざれば、反つてそのわざはひを受く。当に食むべきを食まざれば、敵の死者復活きんとす。天の与ふるを取らざれば、反つてその殃を受く、この古語を一転して用ゐたり。
○雑乱交錯し、更に相度越す。雑乱は旗幟紛※(二の字点、1-2-22)として彼我酣闘する也。交錯は敵反つて吾が後を襲ひ、我反つて敵の後に出づるが如きをいふ也。度越は河を渡り塹を奪ひ、吶喊叱咤して戦ふ也。交相の二字、甚だ力あり、奮戦力闘の状、睹るが如きを覚ゆ。
○規を守る固からざれば、唐突する所と為る。陣営は厳密、まさに周亜父細柳の如くなるべし、然らずんば敵の猛將の奇襲突破するところとならん。
○深く入りて地を貪れば、士卒を殺亡す。長駆深入すれば、一旦糧竭き変生ずるの時、多く士卒を亡ふをいふ。
○狂攘して相救へば、先後并に没す。戦の危機は多し、就中吾が一支軍を救はんとする時、最も危機多し。救ひ得て善ければ勝ち、救ひ得ざれば乱る。狂攘して相救へば、前軍後軍、相倶に覆没す。将軍深謀妙計なかるべからざるの処たり。
○功を計りて相除し、時を以て早く訖る。功を計るは戦の応に終るべきを考ふる也、相除するは其の終をくすることを為す也。時を以ては其の当に然るべきの時を以て也。早く訖るは智者之を能くす、昧者は終るところを知らず、此を以て其の訖るや彼の訖るところとなつて纔に訖る、悲むべき也。
○事留まれば変生ず、棊を拾ふすみやかならんことを欲す。事遅留すれば変意外に生ず、故に疑似するところあるは、疾く之を収むるを要するなり。
○営或は窘乏するも、詐をして出でしむるなかれ。計営窘蹙困乏するも、卑劣なる奸詐の事を為す勿れと也。奕は小道なりと雖も、君子の此を玩ぶや、おのづから応に君子の態度あるべき也、小人の心術に出づるなかるべき也。
○深く念ひ遠く慮れば、勝乃ち必すべし。深念遠慮の四字、一篇を収拾し、勝乃ち必すべしといふ、結束し得て高朗。この篇囲棊の賦中の最古にして最妙なるもの。
底本:「日本の名随筆 別巻1・囲碁」作品社
   1991(平成3)年3月25日第1刷発行、1992(平成4)年4月20日第5刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十九巻」岩波書店 1951(昭和26)年12月
入力:渡邉つよし、校正:門田裕志
2001年7月26日公開、2009年2月26日修正

【囲碁のはじまり】
 「1、囲碁のはじまり」、「囲碁の起源」その他を参照する。
 囲碁の始まりにつき、「坐隠談叢」は次のように記している。
 「碁技の原始に対しては、世間何人と雖も之を断定すること能(あた)わざるも、その錯然として発生したる諸説の年所と、孔子のいわゆる『以奕為為之猶賢乎己』の如き、はたまた孟子の『奕之為数小敷也不専心致志則不得也』との如きを知照して、殷周以前に発明せられたるものたるは、争うべからざるなり」。

 囲碁の歴史起源ははっきりとは判っていない。通説として四千年ぐらい前の中国で始まったと云われている。インドに始まりインドから中国に入ったとの説もある。書経によれば、「昔、中国の王様(尭・舜帝)が、囲碁を創って子どものしつけのため教えた」と記している。春秋左氏伝(左丘明)の襄公25年(紀元前548年)の条に、「君を視ること奕棋に如かず」とある。紀元前91年、漢武帝代に司馬遷が完成させた「史記」に「堯舜の囲碁創始説」が記されている。その内容中、何カ所かに囲碁に関する話が記述されている云々。但し、堯舜が囲碁を創製したという伝説は記載されていないとの評もあり定かではない。中国の晋代の張華が著述した「博物誌」に「堯造囲碁丹朱善之」、「中興書」に「堯舜以教愚子也」と記されていると云う。

 堯舜神話の一節に「堯舜の囲碁創始説」がある。その伝説は次の通り。呉清源棋聖の随筆「囲碁の起源」等々を参照する。
 概要「古代中国の伝説上の聖帝である堯帝が今の山西省の太原に都を定めていた。長年、治世に当ったが、晩年に悟りがあり、息子達を帝位を継承するには不適当な愚子であるとして、聖賢を探して帝位を譲ろうと決心した。そこで、平素仲良くしていた仙人の蒲伊に会って相談した後に方針を決めようとした。高い山中に住んでいた蒲伊を訪ねて言った。最初は蒲伊に帝王の席を譲位したいと云った。蒲伊はこれを固く拒絶し、深く入り込んでいる田舎で農業を営んでいた舜を暗示的に指差しながら、2人の娘を一緒に舜と結婚させて、その成り行き具合によって帝位を譲るのが良かろうと勧めた。合わせて、堯帝の息子である丹朱の身上に対しても心配しながら、彼の品性に適している奕枰、即ち囲碁を教えるように答えた。堯帝がその理由をきくと、仙人蒲伊は次のように語った。

 『万物の数は1から始まる。盤面には361路の目があり、1という数の根源は、天元から始発して四方を制御する。残りの360という数は、天が1回転する日数を表現する。1月は30、1年は12月。これにより1年の日数は360であり、碁盤の360はこれを表象している。碁盤は四隅に分かれている。これは1年の季節である春夏秋冬の四季を意味している。外周の合計は72路であるが、これは1年を72節候で区分することに通じている。360個の碁石の黒白半々は陰、陽を表示している。棋盤の線を枰といい、線と線の間を罫と言う。碁盤は四角で静的であるが、碁石は円形で動的である。昔から現在に至るまで、無数の囲碁が打たれてきたが同一な局面の囲碁は一局も再現できなかった。このことこそ日日新の意味を含蓄んでいるのである』。『囲碁は発興存亡の技芸である故に、丹朱の品性気質でみて、囲碁に没頭したなら、次々囲碁をうつのに興味を持ち、世の中から蛮勇を使わないようになるだろう』。

 堯帝が仙人蒲伊から囲碁を習うようになり、これを丹朱に伝授したことが、この世に囲碁が普及するようになった始初となった。堯帝は、舜が、王女をどのように感化させながら御していくのか三年間観察し、その行跡と品格を見定めた上で、舜こそ聖人君子であり帝王位を譲ることに十分な人物であると心を決めて譲位の意志を固めた。舜は丁寧に遠慮し、堯帝が死んだ後は王子の丹朱を押し立てた。その後、諸侯達の懇望を天命として受け入れ、61才となる年に天子に即位した」。
 中国の元代の舜帝9年(1349年)に、晏天章と厳徳甫の2人が共同編著した中国古典棋書「玄々棊経」の序文に次のような文章があるとのことである。これを確認しておく。
 意訳概要「昔、中国の古代の皇帝堯舜は、囲碁を創案して、彼らの息子にこれを教えたと言う。ある人が疑問を抱き、次のように記した。“堯帝の息子丹朱と舜帝の息子商均が、2人とも愚かな者だったと聞いているが、当然、聖君と崇め敬われた堯舜が、息子に仁義礼智の道理を教えつべきであって、どうして暇つぶしの道具を作って教えることによって、その愚かさをもっと助長したのだろうか。そんなはずがない”。そういう囲碁観は間違いである。正しくは次のように了解するべきである。“囲碁という物は、その現状で見て、天は天圓、地は四角い模様と似ているように作られていて、黒白の争いには、天地陰陽動静の道理が働くのである。囲碁を打っていく盤面上には、天の星のように秩序整然としていて、局面の推移は風雲の変化のような気運を含蓄している。生きていた碁石が死ぬこともあり、全局面を通して変化して行く流れの様相が、まるで山河の表裡の勢いを現わす調和と同じなので、人間世界の道理や浮沈が、全て囲碁の理致と同じではないものはないのである”」。

【囲碁の起源考】
 2013/2/3日、「囲碁の起源主張して世界中から軽蔑される」を転載し、これにコメントしておく。(読み易くするため、文意を変えない条件下での表記替えをしている)
 「囲碁」の起源主張して世界中から軽蔑される日本人

 世界の反応を紹介する翻訳サイトで見つけました 。「現在も日本人はプレーしてるの? 囲碁 海外の反応」。囲碁の起源主張をする日本人に「これは日本のゲームじゃない。 中国の物。日本人は囲碁の王者じゃないしね。韓国人が30年もの間勝利し続けている」と、厳しい突っ込みの意見がありました。とても恥ずかしいです。日本人は歴史を知らないと世界の人は思っています。このカテの人で囲碁は日本起源だと思っている人はいますか?

 補足サイトのリンク先を添付するの忘れてた
 http://jipangnet.blog.fc2.com/blog-entry-224.html

 ベストアンサーに選ばれた回答、2013/2/4
【1】  まず第一に、日本で販売されているどの棋書を見ても、囲碁の起源は、原則として「中国」となっています。逆に「日本起源説」を吹聴する日本の棋書があるなら、中韓の方は、具体名をあげてを紹介すべきです。
【2】  現在のゲーム性の高い「自由布石」という仕組みは、日本人が開発したとするのが通説です。それまでは「事前置碁制」でした。日本には、平安時代に囲碁が紹介されたようです。源氏物語や枕草子にも出てくるので、かなり流行ったのでしょう。(れんだいこ注/囲碁の日本伝来平安時代説を説いていることになるが、首肯し難い)

 「事前置碁制」だったと思われます。室町時代になり、碁打ちが公家や武将に招かれるなど「専業化」が進み、よりいっそうゲーム性が向上する「自由布石」が生まれました。と同時に、新定石、布石構想、序盤優位性・・・といった概念も発達しました。1900年代初頭(明治)、高部道平4段が中国、朝鮮、台湾を訪問しました。当時中国は、黒白2子ずつを盤上に置き対局開始する「事前置石制」でしたが、高部4段が、初手から自由に着手する、日本式の「自由布石」を伝えました。この時から、中国でも「自由布石」が取り入れられました。以上、囲碁史における「日本の貢献度」がゼロだとは言わせません。特に自由布石は、現代囲碁においては「絶対必須」の手法だからです。それでもまだ中韓があれこれいうのなら、日本発の「自由布石」は一切やめ、中韓のみ「事前置石制」で打つべきです。
【3】  世界中で「囲碁は日本発祥のゲーム」だと思われていいるのは、日本人棋士が、数多く世界各国に出向き、指導したことによります。当時、囲碁は「日本の伝統文化」として紹介されたかもしれませんが、「日本発祥」だなどと紹介した棋士は、一人もいないはずです。ほかにも、来日した欧米人が日本で囲碁を学び、中韓とは無関係に、それを本国に持ち帰って、広めた例が多数あります。アメリカ人であるマイケル・レドモンド9段が、日本で棋士になったのも、そうした歴史的影響下にあると思われます。これらは、日本人として誇れる囲碁史ですが、いまさら「我が国が!自分たちが!」と声高に主張する必要はないですね。
【4】  「本因坊秀策の再来」と言わた天才少年・呉清源は14歳で来日し、日本で囲碁を極め、囲碁界の世界的功労者になりました。その資質を見出したのは、師匠となった昭和の大棋士・瀬越憲作らでした。ちなみに、中国で呉清源少年の「囲碁力」を育んだのは、高部道平4段から「自由布石」を教わった中国人たちだと言われています。呉清源少年は日本の『敲玉余韵』(本因坊秀策の棋譜集)で勉強していました。台湾の天才少年だった林海峰は1952年10歳の時に来日し、呉清源に師事して大成し、数々の棋戦を制覇して一時代を築きました。近年、タイトルを総なめした張栩9段も台湾出身です。10歳で来日した天才少年は林海峰9段に師事し、トップに上り詰めました。日本が誇る囲碁界のスーパースター・趙治勲9段(韓国)は9歳で来日し、木谷実9段の木谷道場で学びました。金寅は、木谷道場に囲碁留学して学び、のちに韓国国手となり、その後多くの棋士を育てました。大棋士・瀬越憲作先生の門下で、韓国囲碁界の重鎮となった曺薫鉉もいます。曺薫鉉が育てあげたのが韓国囲碁界の至宝、李昌鎬9段です。ちなみに、趙治勲、金寅、曺薫鉉らを日本に囲碁留学させた趙南哲もまた、木谷道場の門下生であり、趙治勲9段の叔父です。趙南哲は、朝鮮戦争ののち、日本棋院を範として、韓国棋院創設に力を尽くしました。藤沢秀行名誉棋聖は、日中友好の証しとしてなんども中国の青少年に囲碁指導に行きました。中国の常昊は藤沢秀行の碁に感銘を受け、来日後は秀行塾で学び、帰国して中国のトッププレーヤーになりました。また、中韓の古い棋書では、日本の古碁や1960~1980年代の日本のプロの碁が多数掲載されています。詰碁本や手筋本なども、かなり日本の棋書をパクッています。中韓の人は、それで囲碁を勉強していたのは事実です。ただ、それも歴史の一コマであり、とやかく言うつもりはありませんが、すくなくとも、そうした歴史的事実は無視しないでほしいと思います。
【5】  「韓国人が30年もの間勝利し続けている」なんて歴史の歪曲です。2003年「三星杯」 =趙治勲9段(日本)が優勝しています。2005年「テレビ囲碁アジア選手権」 =張栩9段が優勝しています。2005年「LG杯」 =張栩9段優勝しています。2005年「農心杯」 =6勝4敗で「日本チーム」が優勝しています。2011年「博賽杯金佛山国際囲碁超覇戦」 =井山裕太9段が優勝しています。しかもこの時は、世界最強とうたわれる、あの李世石(韓国)や古力(中国)を破っての優勝です!
【6】  以上、日本の囲碁が恥ずかしいなんてことは、決してありません。自信を持ってください。
(私論.私見)
 「【1】まず第一に、日本で販売されているどの棋書を見ても、囲碁の起源は、原則として中国となっています。逆に日本起源説を吹聴する日本の棋書があるなら、中韓の方は、具体名をあげて紹介すべきです」なる回答について意見申し上げておく。かくなる回答、ないしは態度をもってすれば悶着は起こらないであろうが、但し、そのことと歴史的真実とは別である。この回答者は、日本起源説を否定して中国起源説を断定することが正義のように吹聴しているが、こういう耳目に入りやすい態度をとるのも一法ではあるが、歴史的真実は尋ね続けて行かねばならない。必要なことは、囲碁の起源国を主張する者があれば、それを証明させることであり、それを互いに検証することである。必要なのはこの作業ではないだろうか。この検証抜きの日本起源説論も中国起源説論も採るべき態度ではないと思う。「今となっては不詳未解」、これが我が輩の執る態度である。

 したがって、次のような「囲碁の発祥・歴史は、少なくとも2000年以上前までに遡ることができます。そして、古代インドから発祥し、東アジアを中心に発展してきました」との仏教伝来説を髣髴とさせられる解説も、耳目には入り易いが我が輩の執る態度ではない。

 2018.5.21日 囲碁吉拝

【将棋の起源考】
 チャトランガは古代インドで5世紀ころ発生したらしいということが最近のチェス史の研究で明らかになっている。日本将棋の資料は、1993年、奈良の興福寺で発見された1058年の年号が入った木簡と共に10点以上の日本将棋の駒を嚆矢とする。日本の将棋がいつどのようにして伝わったのか。最初日本に伝わった将棋はどのようなものだったのか。日本将棋特有の持ち駒使用のルールはいつごろできたのか。日本将棋の根幹に関わるこのようなことは依然として分かっていない。日本将棋のルーツはチェスと同じく、古代インドのチャトランガで、日本には遅くとも平安時代に伝わったとされているが、これも囲碁同様に正しくは不詳未解というべきだろう。

 日本将棋には世界のほかの将棋類とは違った特徴がいくつかある。持ち駒使用がその代表で、他にも双方が全く同じ駒を使うこと(だから、取った駒の再使用がしやすい)。木片五角形の駒に文字を書いて使うなどの特徴がある。これによれば、日本に伝わった将棋は日本独自の社会や文化の中で、かなりルールや形態が変わっていったと考えられる。

 初代宗桂と本因坊算砂の一戦。算砂と宗桂をつなぐキーワードは徳川家康。16世紀後半、太閤秀吉が天下を取っていた時代、徳川家康は五大老の筆頭としてナンバーツーの座にあった。その家康が大名や公家、上級武士などをもてなすと同時に政治的な情報を集めるため、囲碁と将棋の会を頻繁に催した。その会に算砂と宗桂は講師として常に招かれていた。そうした縁が長く続き、やがて家康が天下を取ったとき、算砂や宗桂には俸禄(ほうろく)が与えられることになり、それが囲碁家元、将棋家元の誕生へとつながっていく。




(私論.私見)