囲碁吉の天下六段の道、感想戦編

 更新日/2018(平成30).9.3日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「囲碁吉の天下六段の道、感想戦編」を書きつけておく。 

 2005.6.4日 囲碁吉拝


【棋道論その№、言い訳無用の局後検討、弁解するな論】
 棋譜取りとセットで局後検討をせねばならない。この時、気をつけなければならないことがある。負けた方は弁解してはならない。じっとがまん汁を飲み込んで検討に入らねばならない。この「弁解するな」は茶道の世界でも厳しく教えられるとのことである。

 他方、勝った方が、勝った勢いで「勝てば官軍」になり、戦勝国権利的に云い得云い勝ちするようでは検討にならない。安全無難に押し勝ちしたのならともかく、案外と勝負どころでの相手のミスで逆転勝ちしている場合が多いものである。そういう流れの勝ちなのに勝った特権で初めから優勢だったかの如くに偉そうに検討する。これでは良い検討にならない。そういう意味で「勝って奢らず」でありたい。逆に、対局全体を公平に審判し、手どころでの相手の勝ちのチャンスを見つけて検討するぐらいが良い。プロの「こう打たれていたら困っていました」の弁はこの類のものだろうと思う。負けた方も腐らず、「言い訳無用」で敗因の確認をするのが良い。こういう検討ができれば何がしか有益な検討になろう。相手が「勝って奢る」場合にはなかなかできかねることだけれども。

 局後検討は反省力を生む良さがある。上達の前には反省力の河が流れている。この河を渡らない限り決して強くなれない。人の頭はよほど頑迷で、その場では分かったつもりでも相変わらず同じ間違いをする。そういう人の頭の頑迷さを思えば、間違ったところに焼きを入れ、性根を据えて聞き入れるよう何度も何度も鞭打たねば直らないのではなかろうか。

 2014.6.9日 2015.03.25日再編集 囲碁吉拝

 「将棋コラム」の017年05月03日「感想戦に込められているメッセージとは? 伝え合いともに道を究めようとする日本文化の美学」。
 将棋では、「負けました」という宣言である投了の後に「感想戦」を行います。ついさっきまで火花を散らして戦ってきた一局をビデオテープのように巻き戻すのですが、そこにあるのは反省の気持ちだけではありません。相手とともに一局の最善手を検討していく中で、得られるものは多々あるのです。

 将棋はいかに全力を出すかを競い合う競技

 感想戦は、対局の直後、まだ余韻が残っている中で始められます。負けた方は悔しさに打ち克って、勝った方は嬉しい気持ちを折りたたんで相手の気持ちを察しながら、実戦では現れなかった指し手や敗因となってしまった手、そこでのより良い手など探っていきます。勝者も敗者も関係なく、一緒に行う共同作業です。将棋の対局は、「勝ち」という目標があって、それに向けて対局者は指し手を模索し合います。その最中にも相手との阿吽の呼吸、言葉のないコミュニケーションがなされています。その中で、将棋の本当の目的は相手に勝つことではなく、「自分の心に克つ」ということなのだとわかってきます。対局者の二人が、自分の力を出し切って最善手を模索し合う競技、と言ってもいいでしょう。感想戦は、その精神をはっきりと形に表したものなのです。

 相手とともに道を究めようとする日本文化の美学

 対局では持ち時間が定められていますが、感想戦には時間制限がありません。敗者が納得するまで検討が続けられ、敗者が「ありがとうございました」と言って終了します。勝者の側から「もういいでしょう」と言うようなことは決してありません。勝者と敗者が同じ土俵の上でお互いの読み筋を公開しそれを検証して、納得のいくまで最善手を模索する姿勢からは、伝え合い、ともに道を究めようとする日本文化の美学を感じられます。

 以前、羽生善治名人の対局(2009年の第35期棋王戦本線トーナメント)の感想戦を見せていただく機会がありました。このときの相手は佐藤康光九段でした。対局では長い持ち時間を使い切るまで考えていますから、精も根も尽き果てているはずです。すでに疲れ切っている頭と身体をさらに酷使して感想戦に臨む羽生名人の姿は、勝負に負けた悔しさを超越していると思いました。勝った佐藤康光九段も最善手を模索して、何時間も、深夜に及ぶまで感想戦を続けられていました。私は、そのすごさにただ圧倒されるばかりでした。

 初心者からでも、子どもでも感想戦を体験できる

 感想戦を体験できるのは、プロ棋士だけではありません。初心者でも、子どもたちも、自分たちなりに対局を巻き戻す感想戦を体験することができます。「JT将棋日本シリーズ・テーブルマーク子供大会」の対局を観戦していたときのことです。はっきりと自分の負けを声に出して宣言している子がいて、目を引かれました。感想戦を始めたのでそばによって話を聞いてみると、その負けた子が、さっそく相手に自分の指し手のことを尋ね始めたのです。「ぼくのこの手が悪かったかな」「こう指したらどうだった?」。 相手の意見を積極的に聞いて取り入れ、自分のものにしようとするその言葉は、失敗の反省から学びもう一度チャレンジしようという意欲にあふれていました。

 対局開始当初は、どの子も自分の指し手を信じて力強く指しますが、戦況が進むにつれて、次第に自分の棋力のなさや相手に勝てなさそうだということがわかってきて、元気がなくなってしまいます。悔しさと悲しさが入り混じり、泣きたい気持ちになり、実際に涙がにじみ出てくる子もいます。しかし、負けを毅然と言えたその子は、その悔しさ・悲しさと言った感情を心の中で折りたたむ作業をやり遂げられていたのです。気持ちを切り替え、はっきりと声に出して「負けました」ということが言えたからこそ、感想戦で相手の意見を聞く姿勢になれたのです。この気持ちの切り替え・姿勢の変化が次へのステップとなり、棋力の向上にもつながっていくのです。

 相手と共有してより高みを目指す姿勢へ

 敗者も勝者もなく、もっと良い手を模索してともに一生懸命検討していた二人の子どもの姿勢は、たしかに羽生名人のそれに通じてました。私は心の中で、二人の健やかな成長に感謝しました。失敗してもいい。負けてもいい。失敗や負けの意味を自分で見出し、次への糧とできればいいのです。感想戦という「型」に込められたメッセージを、子どもたちはきちんと受けとってくれているのです。この「型」もまた、将棋のすぐれた教育メソッドのひとつなのです。

 子供たちは将棋から何を学ぶのか
 ライター安次嶺隆幸

 私立暁星小学校教諭。公益社団法人日本将棋連盟学校教育アドバイザー。 2015年からJT将棋日本シリーズでの特別講演を全国で行う。中学1年生のとき、第1回中学生名人戦出場。その後、剣持松二九段の門下生として弟子入り。高校、大学と奨励会を3度受験。アマ五段位。 主な著書に「子どもが激変する 将棋メソッド」(明治図書)「将棋をやってる子供はなぜ「伸びしろ」が大きいのか? 」(講談社)「将棋に学ぶ」(東洋館出版)など。

 「将棋コラム」の2017年05月17日「羽生三冠が相手の得意戦法にあえて立ち向かう理由とは?」。
 将棋は、片方が勝ち、もう一方が負けるという、結果がハッキリと形に現れるゲームです。ともすれば、勝敗の結果だけに注目して一喜一憂してしまいがちですが、勝って学ぶこともあれば、負けから学ぶこともあります。勝敗の結果以上に、長期的な視点で「子どもの成長」を見守っていてほしいものです。

 自分の弱いところを認める勇気を持つ

 将棋では、完全に、完璧に、完封して勝つことはできません。盤上のあちらこちらで起こるすべての戦いを制して、ひとつの駒も失わずに相手の王様を取るなどということは不可能なのです。というより、将棋の目的は相手の玉を詰ますことですから、盤上のすべての戦いを制する必要はないのです。しかし、あの駒もこの駒も取られたくない、盤上のどこの戦いでも負けないぞと意気込んでしまったら、冷静に自分を見られなくなっている証拠です。勝負以前に自分の欲に負けてしまっているのです。

 勝負に勝つためには、自分の弱いところをまず認める勇気を持つことです。 盤面における弱いところや、自分自身の弱点を把握できれば、それに応じた対応を考える足掛かりになります。つまり、弱いところを自分で探し出すことが勝負の神髄とも言えることなのです。

 相手との主張をぶつけ合い、心のキャッチボールを

 相手と一手ずつ交代に指しながら進行していく将棋は、自分の手だけではなく、相手の手の意味も考える必要があります。相手も狙いを持った手を指してきますから、すべて自分の思い通りにすることはできません。ときには、相手の主張を受け入れることも必要です。妥協できる着地点を探しながら、自己主張していくゲームでもあるのです。

 相手の指し手と自分の指し手を重ねていき、一緒に一局を作っていきます。ですから、いくら自分で先の先まで読んでいたとしても、相手が一手でも自分の読みと違う手を指したら、それまでの読みを捨ててもう一度読み直すしかないのです。相手に「ここは、その手じゃないだろう」などと言えるはずはありません。また、対局中に本人は100点の手を指しているつもりでも、実は80点、60点、もっととんでもなく悪い手だったということもあります。しかし、その悪手が相手の悪手を呼ぶこともあるのが面白いところでもあります。将棋では、自分だけ得をしようとか、自分だけよければいいという態度は、ひとりよがりで虚勢を張ったような、弱さの裏返しです。ある部分では自分が折れて、相手の主張を通す。でも、私は別の部分で主張する。そういう無言のキャッチボールが大事なのです。

 自分の弱さを認めることが、弱さを克服することにつながる

 戦法にしても、自分の得意・不得意があることでしょう。相手が得意な戦法においては、素直に相手のほうが上だと認めることができれば、そこでは相手の言い分を聞いてみようという態度で臨めます。感想戦などで、その分野の専門家の声に素直に耳を傾けてみることで、「なるほど」と感じることは多いものです。勝負では負けてしまったとしても、その経験を参考にして、次の機会に自分で応用できればよいのです。自分の弱いところを素直に認める勇気を持つことが、相手の学びから自分も多くを学び取ることにつながり、大きな視点に立ってみれば、自分の弱さを克服することにつながるのです。 

 羽生三冠は、しばしば相手の得意戦法に敢えて立ち向かっていきます。何も戦法を相手に合わせる必要はありませんから、素人考えでは、相手が得意な戦法を避けて、違う戦法で戦えばいいようにも感じられます。しかし羽生三冠は、相手が自分よりその戦法に秀でていると認めているからこそ、言い換えれば、自分の弱さを認識しているからこそ、敢えて相手の得意戦法に挑んでいるのです。相手の学びを自分も学ぼうというその姿勢、その謙虚さ。ひょっとすると、これこそが羽生三冠の強さの秘密なのかもしれません。自分よりもっと上があり、まだまだ学ぶべきことがある。そう思える謙虚さが、学び、成長する原動力になるのです。

 勝ち負けよりも長期的な成長を

 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言いますが、まさにその通りだと思います。人間、偉くなるほどに、徳を積めば積むほどに謙虚になるものだとこのことわざが言うように、将棋も本当に強い人ほど自分の弱さを知り、謙虚になれるということなのでしょう。子どもの将棋の勝ち負けに親が一喜一憂するのではなく、しっかりと負けを認められたこと、感想戦を指せたことを認めてあげましょう。 弱さを認めるということは、学びにもなり、つまるところ本物の強さを育てる道でもあるのです。

 ライター安次嶺隆幸

 私立暁星小学校教諭。公益社団法人日本将棋連盟学校教育アドバイザー。 2015年からJT将棋日本シリーズでの特別講演を全国で行う。中学1年生のとき、第1回中学生名人戦出場。その後、剣持松二九段の門下生として弟子入り。高校、大学と奨励会を3度受験。アマ五段位。 主な著書に「子どもが激変する 将棋メソッド」(明治図書)「将棋をやってる子供はなぜ「伸びしろ」が大きいのか? 」(講談社)「将棋に学ぶ」(東洋館出版)など。





(私論.私見)