日本囲碁史考6、徳川時代初期 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).8.30日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで「日本囲碁史考6、徳川時代初期」の囲碁史を確認しておく。 2005.4.28日 囲碁吉拝 |
【算砂が金沢に久遠山本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗)を開基】 |
1617(元和3)年、算砂が前田家の援助により金沢に久遠山本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗)を開基する。直ちに本照坊を2世とし京都に帰る。 |
3月、算砂「碁之狂歌」、「将棋之狂歌」各11首を書き残す。 |
この年、安井算知が山城に生まれる。 |
【棋譜「算砂の高弟の中村道硯と安井算哲」】 |
1620(元和6)年、 共に算砂の高弟の中村道硯(38歳、後の井上家の始祖)と安井算哲(31歳、後の安井家の始祖)が秀忠公御前で対局している棋譜が残されている。162手までで中村道硯の中押し勝ち。 |
【中村道硯が算砂より名人の印可状を受ける】 |
1621(元和7)年、中村道硯が算砂より名人の印可状を受ける。 |
李約史(り・やくし) | |
朝鮮通信使として来日し、本因坊算砂と対局。これに破れる。算砂の実力に感心して帰国後「乾坤窟」と書いた扁額と磁器製の碁石を送ったとされる。額と碁石は実際に京都寂光寺に保存されている。 | |
【初代本因坊・算砂が韓人・季約史(りやくし)を3子対局で制す】 | |
元和年間、朝鮮(韓国)随一の打ち手と云われていた韓人・季約史(りやくし)が来朝し、算砂と3子で対局し忽ちにして失敗し敗る。嘆息して次のように述べている。
外国の名手が日本に来て、日本の名手と対局したのは、これが初めてであった。残念ながら、このときの棋譜は残っていない。季は、帰国して盤石に「乾坤窟」と書した扁額を贈り来る。この算砂と李礿史との三子碁以来、時の最高位者は外人と対局するに三子を置かせて打つのが恒例となる。 |
【算砂が中村道碩に家督を譲る】 |
1623(元和9).4.23日、算砂が中村道碩に家督を譲り、同じ手合の名人を許す。手合以下の法度を計らうべき旨の印可状をあたえる。遺言により算砂の養子で当時13歳の算悦を本因坊とし、その後見となって育成することを依頼する。 |
【初代本因坊・算砂逝去と遺言】 | |||
5.16日(6.13日)、本因坊算砂が京都で逝去する(享年65歳)。墓所は京都寂光寺、示寂、法名日海上人。辞世の句は次の通り。
「坐陰談叢」は次のように評している。
算砂の功績として道碩、本因坊算悦ら多くの弟子を育てたこと、棋譜を残す習慣を定着させたことが挙げられる。棋譜を残すことにより技術的研究ができ、後世に大きな影響を残した。著書として「本因坊碁経」を残している。 |
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「信長・秀吉・家康の三人の棋力はほぼ同じレベルで、日海上人に五子局であったと言われている。三人の天下人は、日海上人を個人の趣味的、兵法的、文化的の保護などの理由から、寵愛し、重用した」の記述がある。「信長・秀吉・家康の三人の棋力はほぼ同じレベル」はどうだろう、精査を要すると思われる。 |
【算悦その後】 |
算悦(ほんいんぼう さんえつ)は、本因坊算砂は弟子の中村道碩(どうせき)に名人の印可状を授けた上で後継を当時13歳の算悦(算砂の実子?)とし、その後見を道碩に託した。 |
【中村道碩(どうせき)が名人に就任】 |
道碩の実力は師匠の本因坊算砂より上であったと云われている。この頃の対局として、林利玄(算砂のライバル)」、安井算哲1世(兄弟弟子)、算知、林門入因碩1世(林利玄の弟子)との棋譜が残されている。安井算哲1世とは120局打ち80勝40敗で道碩40番の勝ち越しとなっている。道碩は早い碁で算哲は遅かった。道碩は人に、「碁には勝っても、算哲には命をとられる」と述べたと伝えられている。林利玄とも打っているが2局しか棋譜が残されていない。後の本因坊丈和は道碩の棋譜を多く研究したという。 |
1624(元和10)年、2.30日、寛永に改元。 |
1625(寛永2)年 |
1626(寛永3)年 |
【お城碁が始まる】 | |||
1626(寛永3)年9.17日、御城碁。 | |||
御城碁第1局。二条城での徳川秀忠御前対局。 | |||
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算砂を継いで名人となった中村道碩と(安井算哲初代)古算哲による御前御城碁第1局対局「道碩-安井算哲」が二条城の徳川秀忠御前で打たれ、算哲先番3目勝(道碩白番3目負)している。(但しコミのない時代であり現代の6目半コミで評すれば3目半勝ちであるからして、当時の基準では負けであるが歴史的判定としては負けとするには酷と評すべきだろう) これより、寺社奉行の呼び出しによるという形式で家元四家の棋士が毎年1回江戸城の将軍御前にて御城碁が始まる故に、この碁がお城碁の始まりとなる。以来、囲碁は日本の国技として発展していくことになる。 対局は、碁所が出場者と手合いを定め、碁所不在の時は各家元の輪番制で、千代田の江戸城中奥(御黒)書院において、将棋の対局と並んで行われた。当日、将軍出座の時は最後まで打ち上げ、出座がなければヨセだけ残して出座を待ち、まったく出座がなければ老中の列席を待って終局させたと云う。 御城碁は特別な事情がない限り毎年欠かされることなく続き、幕末の1864(元治元)年に中止となるまでの「230年余りに全部で536局対局、出仕した棋士は67名」にのぼった。政治が芸能をこれほどに保護した例は世界史上に珍しい。徳川政権の政治の特質を証しているように思われる。 1716(享保元)年、8代将軍徳川吉宗の時代に対局日を家康の命日にちなんで(大阪冬の陣の吉例によりとの記述もある)毎月11.17日と決めた。この場合、11.11-16日までに対局終了し(これを「下打ち」と云う)、17日に将軍の前で披露された。棋士は対局中の6日間は面会、外出が許されず、打掛けながらとり行われた。 御城碁出仕は、家元の代表としての真剣勝負となり数々の名局が遺されている。出場資格は、本因坊、井上、安井、林の4家家元の当主、届出を済ませた跡目(相続人)、外家ならば7段以上の実力者であった。一時、5段にまで資格をさ下げた時期があったが、すぐに7段以上に戻した。その他に外家と言われる他の家人で認められた者もあった。石田芳夫「秀策」13Pは次のように記している。
こうして、毎年一回、江戸城中奥の黒書院で行なわれる御前試合として御城碁が始まった。白書院や帝鑑の間が使われることもあった。出席棋士には銀十枚と、時服、朝夕の食事と茶菓が支給された。碁打ち衆にとって、これに出場することは最高の栄誉であり、ここで四家が家元の面目を賭けて技量を競うことになった。当時は、明け六つ(午前6時)の開門と同時に三つ葉葵の紋のついた駕籠に迎えられた本因坊が江戸城へ登城し、寺社奉行の指図に従って準備を整え対局する。いったん城内に入ったら、どんなことがあっても下城できない。これが「碁打ちは親の死に目にも会えぬ」の語源となる。将軍が出座すれば、終局まで打ち上げ、出座がなければヨセだけ残して出座を待つ。将軍の都合がつかない時は、老中が全員出席して終局を見届けた。その後、本因坊道策の時代の1669(寛文9)年に下打ち制が生まれ、毎年11.6日に四家元が会合し、組み合わせを決めて奉行に届出、許可が下りると11日から16日までの間に対局し、17日当日は将軍の御前で手順を並べて見せることになった。下打ちの6日間は誰との面会も外出も禁じられた。 |
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「坐隠談叢」は次のように記している。
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【本因坊邸】 |
本因坊家は徳川家の吉例として毎年春、京都より出府し、直ちに月番の寺社奉行に参着の届出をする。4月1日に井上、安井、林三家、及び御城碁を勤める全てを引きつれ登城する。その時、殿中奏者番から、棋所本因坊並びに将棋の者どもが参上したと披露する。本因坊は御祝儀として五本入りの扇子箱を献上する。このお目見えの儀式が終わって退出すると、本因坊はその足で若年寄、月番寺社奉行の役宅を順次に回礼する。御城碁は当初、袈裟を着て対局した。算知-道悦の争碁以降、十徳を着るようになった。将軍が出座すると、棋士は頭を垂れ、両手を畳につけねばならないが、この動作の時に袈裟の袖で石が乱れることがあった。それ故、道悦が願い出て十徳を着ることを許された。御城碁は年1回で、期日ははっきり決まっていなかったが、8代吉宗の時から毎年11月17日に決まった。対局期間、棋士には朝夕二汁五菜の料理が木具で出された。御城碁が済むと棋士には銀十枚が支給された。本因坊が賜暇になるのは12月15日、この時、本因坊にはさらに銀十枚、名人なら黄金二枚、時服二かさねがついた。本因坊家の本拠は京都であるが、毎年4月から12月まで江戸にいるので、日本橋に1丁四方の土地が幕府から宛がわれた。後に芝金杉に仮屋敷を貰ったが、道悦の時に屋敷替えを願って本所に十間に二十間の屋敷を貰って移転した。 |
【手合い割】 |
ここで、「手合い割り」について確認しておく。この時代にはハンディとしてのコミ碁が導入されておらず、手合い割りで棋士を番付していた。まず同じ実力の対戦の場合を「互先」(たがいせん)と云い、黒(先番)、白(後番)を交互に打つ。コミなしで十番打ち、4番勝ち越せば手合いが変わる。「互先」に対して実力差が一段違うと「先相先」(せんあいせん)(先々先)になり、下手が黒白黒の順に直り、三番勝負のうち二番を黒、一番だけ白を持つ。これに負け越すと二段差の「定先」(じょうせん)(単に先)なる。「定先」になると毎局黒をもつ。三段差は「先二」(せんふ)(せん二せん)と云い、先の碁、二子碁、先の碁を交互に打つ。四段差は「二先二」((常)二子)」。五段差は「二子」で常に上手に二子を置く。以下同様に、六段差は「二三二」、七段差は「三二三」、八段差は「三子」となる。 |
参考までに記すと、以上は家元制下の本職棋士の場合の「手合い割り」である。アマチュアの段級認定、「手合い割り」にはそのままでは使えない。現在ではハンディとしてのコミ碁が導入されており、一見はより精密化しているように思える。但し、「(常)二子=4段差」と認識した方が何やら的確とも思える。即ち6段に2子で勝てない者は4段ではなく2段止まり。あるいはこの6段を8段にすれば4段どまり。10段にすれば6段どまりと云うことになる。互いの棋力を測るのに、昔のこの「手合い割り」による手合い差の方が案外と合理的かも知れない。アマチュアの場合、全国大会優勝レベルの最高位を10段とし、その方との手合い差を序列化した方が却って正確で分かり易いかも知れない。 |
「棋士」(きし)の呼称変遷史を確認しておく。室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れた。彼らは「碁打」と呼ばれた。この呼称はずっと続き今日でも通用している。江戸時代に家元制が敷かれ俸禄を受けるようになると、「碁衆」あるいは将棋の家元との区別で「碁方」、「碁之者」などと呼ばれた。後に「碁士」、「碁師」などの呼び方も生れた。明治になると「碁(棋)客」、「碁(棋)家」といった呼び方がされ、また棋戦に出場する者は「選手」とも呼ばれ、大正時代の裨聖会もこの呼び名を使った。日本棋院が設立されると「棋士」を使うようになり、以降の各組織でもこれに倣い現在に至っている。 |
1628(寛永5)年 |
算知(12歳)が南光坊天海(1536~1643)の推薦により召し出され一家を成す。後に安井算哲1世(古算哲)の養子として安井家を継ぐ。安井家は算哲家と算知家の両家を生じるが、碁方としての算哲家は算哲二代が天文方・保井算哲(渋川春梅)となったため絶家する。 |
1628(寛永5)年11.17日(12.12日)、御城碁 | |||
徳川家光の御代、江戸城にて御城碁始まる。算知が召し出され御目付仰せつけられる。翌寛永6年にも道碩と算哲が対局している。 | |||
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1629(寛永6)年 |
1629(寛永6)年月日不詳、江戸城で御城碁。 | |||
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道碩と算哲はかなりの数を打っている。時期は不明だが数年間に120番、道碩の40番勝ち越しという記録がある。ということは道碩が80勝40敗と云うことになる。現存する両者の棋譜は今のところ49局で、全て道碩の白番である。ちなみに、道碩の棋譜は現在80局見つかっている。そのうち道碩の黒番は利玄との1局だけである。中村道碩は、「碁には勝っても命は算哲に取られる」と語ったと云われる。 |
9月、徳川三代目将軍/家光(1604-1651)と伊達政宗(1567-1636)の棋譜が残されている。1883(明治16).11.8日の郵便報知新聞に棋譜が掲載されている。「政宗卿は徳川始祖の遺嘱を受け治国の補缺を諾する宿将なれば将軍を視る猶ほ我家の兒孫の如く」、「家光の勝ち」とある。 |
江戸時代初期の1629-1634年頃、狩野派絵師説が有力な風俗画(場面は遊郭だと言われている)の見立て絵(琴棋書画)「彦根屏風」(六曲一隻、94×271cm、)が描かれており、今日、彦根城博物館に国宝として保管されている。 |
本因坊2世算悦時代 |
1630(寛永7)年 |
8.7日、算砂が亡くなってから7年後、算悦20歳の時、病に伏した道碩がをしっかりと育て上げた算悦に算砂より受けていた印可状を引き渡し上手(名人に先手合いの7段)を認めて幕府へ嘆願した。算悦は30石を賜わり、本因坊家再興を許され本因坊2世となる。 こうして算悦が本因坊家の名を継ぎ本因坊家を正式に継承(再興)させた。この時代はまだ世襲制が確立されていなかったため、算砂が亡くなった後算悦が継ぐまで一時本因坊家は中断されていた。これが碁界初の相続例となり家元制を生み出すことになる。弟子の井上因碩(玄覚)も禄を受けることを願い出て家元井上家となった。そのため道碩は井上家の元祖とされている。 |
8.14日、肩の荷が下りた道碩が没す(享年49歳)。墓所は京都寂光寺。道碩の弟子に、後に井上家を興すことになる一世井上玄覚因碩がいる。そのため道碩は井上家の元祖とされている。道碩の他の弟子には寺井玄斎、法橋現碩(玄碩)、松原因策がいる。 |
この年、「古本因坊定石并作物」(じょうせきならびにさくもつ)1冊が出版されている。約60局の棋譜が残されており、そのうち安井算哲との碁が40局ほどを占める。後の本因坊丈和は道碩の棋譜を多く研究したという。 |
1631(寛永8)年 |
この年以降、徳川実紀に「碁将棋御覧」の記載が多く現われるようになる。1644(正保元)年からはほぼ毎年の10-12月に記載されるようになる。1662(寛文2)年、家綱の時代、碁将棋衆が寺社奉行管轄下となり、寛文4年からは年中行事として毎年の記録が残されている。 |
1635(寛永12)年 |
幕府、寺社奉行を置く(碁将棋方の所属は覚文2年)。これより碁打ち衆が次第に京から江戸へ移住し始める。
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1636(寛永13)年 |
丹羽道悦(後に3世本因坊)が伊勢国松阪(あるいは石見ともいう)に生まれる。本因坊算悦に入門、22歳で家督を継ぐ。安井算知との20番碁が有名。道策の師匠で準名人。1727(享保12)年、没。 |
1637(寛永14)年 | |
秋、九州の島原でキリシタン一揆が起る。原城に立てこもった一揆衆は3万7千、包囲した寄せ手は十万人余。原城が落城したのは翌年の2.28日。生き残りの山田右衛門の話を書き留めた「玉露叢」は次のように記している。
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この年、お城将棋の対局も行われるようになった。「徳川実紀」でも寛永8年(1631年)以降に「碁将棋御覧」の記載が多く現われ、正保元年(1644年)からはほぼ毎年の10~12月に記載されるようになる。家綱の時代、碁将棋衆が寺社奉行管轄下となった1662(寛文2)年の後、寛文4年からは年中行事として毎年の記録が残されている。 |
1639(寛永16)年 |
1639(寛永16)年、鎖国。 |
2代目安井算哲(後に保井、また渋川春海)が1代目安井算哲の子として京都四条室町に生まれる。 |
1640(寛永17)年 |
名人道碩が亡くなって十年、その間「名人」は空位となっていた。この年、幕府が当代の一流棋士を集めて「名人」を決める会議を行った。これが史上初めて「名人碁所」を決めるために行われた会議、世に言う「碁所詮議」である(正確にはこの時代はまだ「碁所」という役職はなく、名人を決めるために開かれた会議で「碁所詮議」とは後世につけられたもの)。集められたのは、この時代を代表する打ち手3名で、安井算哲1世、本因坊算悦2世、井上玄覚因碩1世だった。故・名人中村道碩と兄弟弟子であった安井算哲1世が自薦するが、幕府側に「資格なし」と却下される(「安井算哲(一世)の自薦却下」)。中村道碩の下で共に修行した本因坊算悦2世と井上玄覚因碩1世は名乗りを上げず、結局この時は名人碁所は決まらずに終わった。しかし、この後「名人碁所」を巡り歴史が大きく動き出すこととなる。 |
この年、2世林門入が生まれる(推定)。 |
覚永年間、「玄玄碁経」(覚永版)が出版されている。 |
【「名人碁所詮議不調に終る」】 |
1640(寛永17)年、名人道碩が亡くなって十年、その間「名人」は空位となっていた。この年、幕府が当代の一流棋士を集めて「名人」を決める会議を行った。これが史上初めて「名人碁所」を決めるために行われた会議、世に言う「碁所詮議」である(正確にはこの時代はまだ「碁所」という役職はなく、名人を決めるために開かれた会議で「碁所詮議」とは後世につけられたもの)。集められたのは、この時代を代表する打ち手3名で、安井算哲1世、本因坊算悦2世、井上玄覚因碩1世だった。故・名人中村道碩と兄弟弟子であった安井算哲1世が「私が適任」として自薦するが、幕府側に「資格なし」と却下される(「安井算哲(一世)の自薦却下」)。中村道碩の下で共に修行した本因坊算悦2世と井上玄覚因碩1世は名乗りを上げず、結局この時は名人碁所は決まらずに終わった。しかし、この後「名人碁所」を巡り歴史が大きく動き出すこととなる。 |
【鍋島藩の化け猫騒動】 |
「鍋島藩の化け猫騒動」が囲碁に関係しているので、これを確認しておく。肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が光茂の機嫌を損ねたために斬殺された。又七郎の母も飼い猫に悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで鍋島家を苦しめ始める。半左衛門の母が食い殺されたり、光茂の妻が頓死するなど怪事が次々と起こる。さらには光茂の愛妾お豊に化けて光茂をたぶらかしたり、子供をさらって喰うなど暴虐の限りを尽くしたという。やがて光茂が病気にかかる。これを光茂の忠臣・小森半佐衛門と槍術家・千布本右衛門がネコを退治し鍋島家を救うという伝説である。「化け猫騒動」は鍋島氏と龍造寺氏とが元々は「龍造寺氏・主君、鍋島氏・家臣」であったことを踏まえた歴史的遺恨をネコの怪異でデフォルメしたものだとも考えられるが、囲碁絡みのところが興味深い。 |
【三代将軍家光と伊達政宗の囲碁掛け合い】 | |
三代将軍家光の囲碁好きぶりにつき「坐隠談叢」が次のように記している。
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2009.2.24日、「◆国技・2 ◆カムイ ◆」が次のように記している。
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この逸話につき、「江戸城物語」(朝日新聞社編)では次のように記されている。
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【三代将軍家光の囲碁好き】 | |
2009.2.24日、「◆国技・2 ◆カムイ ◆」が次のように記している。
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1644(覚永21、正保元)年、12.16日、正保改元。 |
【史上初の争碁/「本因坊2世算悦-安井家2世算知の二十番争碁」】 |
1644(正保元)年、 3代将軍家光の時、寺社奉行が、道碩の後継者を決める為に家元四家を集め、名人道碩の死後、空席になっていた名人・碁所の詮議を預けた。 10.15日、本因坊算悦(34歳)は自薦して他は辞退した。但し、安井算知(28歳)が、先代算哲が望んで就くことができなかった名人・碁所に強い執念を持ち、本因坊算悦の碁所就位に賛成せず「遠島覚悟の争碁」を申し入れた。話し合いがつかず幕府の命によって囲碁で決着をつけることになった。これを「争碁」(そうご、あらそいご)と呼ぶ。幕府は本因坊2世算悦と安井家2世の安井算知の二人に六番碁の争碁を命じた。これが「争碁」の始まりとなる。 |
この年、安井知哲(安井算哲一世の三男で、安井算哲2世(渋川春海)の弟)が山城国に生まれる。 |
1645(正保2)年 |
1645(正保2)年10.16日、御城碁。 | |||
「史上初の争碁」となる「本因坊・算悦-安井家2世算知の争碁6番碁」兼御城碁第1局が仰せつけられ始まる。これが江戸城での御城碁の始まりとなった。この御城碁での勝敗は碁所決定をも左右しかねない重大な一戦であった。手合は算知の先番と決まっていた。老中、若年寄、寺社奉行らが息を殺して見守った。 | |||
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【本因坊道策の誕生】 |
この年、山崎三次郎(後の4世本因坊道策)が石見国の大田郡馬路村神の前で生まれる。山崎家は毛利輝元に仕えた武士で、後に庄屋となった旧家である。道策の出た山崎家は毛利元就配下で1万国を領した松浦但馬守を祖父とし、後に石見国大田村の山崎(現・島根県大田市大田町山崎、島根県邇摩郡仁摩町馬路542番地)に居したことから里人敬して山崎公と呼ばれるようになり山崎姓としたという。その長子善右衛門(山崎七右衛門)は石見国大久保氏に仕え、道策の父となる。母ハマは芸州の出で、元細川越中守綱利の乳人にして賢夫人、賢母の誉れ高い。三男三女をもうける。男子は七右衛門、三次郎、千松。長男七右衛門が山崎家を継ぎ、二男三次郎が後の本因坊道策、三男千松が後の井上因碩道砂で井上家を継いで3世井上因碩となる。同じく算悦門下の囲碁棋士である。山崎家からは後に10世井上因砂因碩が出ている。道策の兄七右衛門の子五郎太夫は祖母の縁で細川家に仕え、従弟の半十郎は道悦が退隠して京都に在した際にその付添人となった。 山崎三次郎は1651(慶安4)年、7歳の時、母親から囲碁の手ほどきを受け棋道に精進する少年と化した。同地の山崎家には道策が少年時代に愛用したと伝えられる粗末な盤石が保存されている。悪い碁を打った時には母に井戸(いど)に連れていかれ、冷水をかけられたと云われている。12-3歳頃、父に連れられて江戸へ下り囲碁の四大家元の一つ「本因坊家」に弟子入りした。初め安井算知への弟子入りを薦められたが、「本因坊こそ碁の長者であり、斯道の司であるとして坊門を選んだ」と伝わる。1658(万治元)年に本因坊3世を継ぐ道悦が、碁界の宗家である本因坊門の発展のために熱心に三次郎を誘ったとの伝もある。三次郎は天与(てんよ)の才に恵まれて上達が早かったと云う。 |
1646(正保3)年 |
1646(正保3)年11.2日、御城碁。 | |||
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この年、桑原道節(後に井上3世、名人因碩)が美濃国大垣で生まれる。 |
1647(正保4)年 |
1647(正保4)年、御城碁。 | |||
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1648(正保5)年 |
1648(慶安元)年 |
1648(正保5)年2.15日、慶安に改元。 |
1648(慶安元)年、御城碁。 | |||
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1649(慶安2)年 |
1649(慶安2)年2.17日、御城碁。 | |||
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1650(慶安3)年 |
1650(慶安3)年、山崎千松(後に井上因碩2世(道砂)、道策の実弟)、石見国(大田郡。馬路村)で生まれる。 |
1651(慶安4)年 |
4月、第3代将軍徳川家光が亡くなり、11歳の徳川家綱が新将軍に就任する。この頃、愛棋家でもあった由井正雪らが幕府の政策を批判し、浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛らと共に挙兵し幕府を転覆する計画を立てる。小雪の背後には南海の龍と云われた紀伊大納言頼宣(徳川家康の十男で紀州徳川家の祖)がいたと云う。計画は実行寸前で、密告により露見。正雪は駿府の宿に滞在中、町奉行の捕り方に囲まれ自刃する。この騒動は「慶安の変」または「由井正雪の乱」と呼ばれている。計画が露見したのは、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告によるものと云われている。後に描かれた物語では、その理由として奥村が丸橋忠弥と碁を打っていたときに正雪が色々と口を出したことに腹を立て裏切ったということになっている。由比正雪首塚の脇に正雪の辞世の句碑が建立されている。「秋はただ なれし世にさえ もの憂きに 長き門出の 心とどむな 長き門出の 心とどむな」。(「由比正雪の首塚 菩提樹院」参照) |
1652(慶安5)年 |
1.9日、門下の安井算知を養子として家督を譲っていた安井算哲1世(古算哲)が京都で没する(享年63歳)。法号は正哲院紹元。後に長子が2世算哲として安井家を継ぐ。次男の勘左衛門は内藤家家臣となり、三男知哲は算知を継いで安井家3世となる。 |
同年9月、「碁経」(碁伝記、二巻)が出版される。版元は京都鳥丸通七観音町、久須見九左衝門。 |
1652(承応元)年 |
9.18日(グレゴリオ10.20日)、承応に改元。 |
1653(承応2)年 |
1653(承応2)年10.17日、御城碁。 | ||||
史上初の争碁の安井算知3勝2敗で迎えた6局目の対局は本因坊算悦先番277手完で、算悦が先番6目勝ち。史上初の争い碁は1644(正保元)年10.5日の御城碁を第1回とし、承応2年まで9年がかりで6戦して3勝3敗の打ち分け(共に先番で3勝)となり、打ち分けとなったため碁所を決定できず、算悦の急逝病死によって両者の対局が終りを告げ、碁所は一時預かりとなった。 瀬越名誉9段が次のように評している。
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【本因坊算悦-安井算知の対局における松平肥後守の口入れ事件】 | |
「本因坊算悦-安井算知の対局における松平肥後守の口入れ事件」を確認しておく。
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1654(承応3)年 |
1655(明暦元)年4.13日、明暦改元。 |
1656(明暦2)年 |
宗算が「囲碁十首歌」を出版する。版元は京都五条寺町、中野太郎左衛門。 |
1657(明暦3)年 |
10.24日、安井算哲の実子の安井算哲2代目(渋川春海)が算知部屋住みとして新規に召し出される。 |
本因坊3世道悦時代 |
1658(明暦4)年 |
1658(明暦4、万治元)年、7.23日、万治改元。 |
9.16日、本因坊2世・算悦が生没(享年48歳)。 道悦(22歳)が後式相続を許され3世本因坊となる。法名は日勝。 |
道悦履歴 |
1636(寛永13)年、生れる。本姓は丹羽、伊勢あるいは石見国出身。
碁所の地位を巡って安井算知と二十番碁を打った。 |
碁盤の寸法は囲碁伝来以来定めがなかったところ、道悦は門下の板垣友仙と吟味し、高さ7寸8分、厚さ3寸9分、長1尺4寸5分、廣1尺3寸5分 と定めた。この標本碁盤と称する。1739(元文4)年、小島道純作の碁盤が京都寂光寺に保存されている。(寸法はその後の代にさらに変更されている) |
1659(万治2)年 |
2代目安井算哲が算知後見で家督を相続する。 |
1659(万治2)年11.24日、御城碁。 | |||
(本因坊3世)道悦、(安井算哲2代目)渋川春海が御城碁に初出仕する。爾後、道悦は延宝3年まで11局、春海は天和3年まで17局を勤める。(坊3世)道悦の御城碁成績は「(坊3世)道悦の御城碁対局譜」に記す。春海の御城碁成績は「春海の御城碁対局譜」に記す。 | |||
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1660(万治3)年 |
1661(万治4)年 |
1661(寛文元)年、3月、前田入道一乳編「碁経」が出版される。版元は京都鳥丸通下立売下町、野田庄右衝門。 |
1661(万治4)年4.25日、寛文に改元。 |
【家元4家制度が確立される】 | ||||||||||||
1662(寛文2)年、10.13日、幕府が、碁将棋衆を正式に寺社奉行の管轄下に置き、幕府から扶持を授けることになる。初代本因坊の役料は朱印地300石、20石10人扶持。これにより家元制度が整備され確立されていった。家元は次の四家である。
本因坊、井上、安井、林の家元四家がそれぞれ優秀な棋士を育て切磋琢磨し碁のレベルを飛躍的に向上させて行くことになる。 家元制度が確立され、囲碁が正式に寺社奉行の管轄になっていく上で取りまとめ役が必要になった、その位が「碁所」(ごどころ)である。「名人」でなければ「碁所」を務めることができなかったため「名人碁所」と呼ばれる。「名人碁所」になれば碁界を牛耳ることができ、天覧碁の組織、将軍の指南、棋士昇進の検定(家元四家相談後の認定)、免状の発行、全国棋士の統一、外国人との対局の按配など囲碁に関する様々な決め事を差配することができた。 名人碁所の地位は各家元いずれかの宗家であり、この碁界の四家元が協議の上、棋力が他を圧倒する最高技両者にして且つ人格的にも他の家元からも認められることが必要とされ、その者を寺社奉行に推薦し、老中から免許の証が下付されるのが原則とした。四家の家元制が確立し碁界が組織的に安定してくると碁所をめぐって勢力争いが起こることになる。 (歴代名人就位一覧、 歴代家元四家一覧) |
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「徳川幕府の碁将棋衆保護政策」は「囲碁をして、治に居て乱を忘れざるの具」として重用し、思われている以上に意味、意義が高い。そもそもは織田信長の日蓮宗僧侶・日海(後の算砂)に対する「名人」号の授与、 豊臣秀吉による御前試合勝ち抜き者・算砂(日海)に対する官賜碁所の授与、徳川家康の算砂に碁所と将棋所任命、「碁打衆、将棋指衆御扶持方給候事」制定から始まり、引き続く徳川幕府の御城碁、家元4家制、争碁を経て日本囲碁の精華が確立した。この流れを特大級に好評する筆を持ちたいと思う。 2016.2.5日 囲碁吉拝 |
1662(寛文2)年 |
1663(寛文3)年 |
1664(寛文4)年 |
1664(寛文4)年10.20日(12.7日)、御城碁。 | ||||
この年以降、御城碁が原則的に毎年恒例の対局となる。これにつき次のように解説されている。
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この年、知哲が算哲の養子となり、部屋住みで扶持を受けるようになる。 |
1665(寛文5)年 |
1665(寛文5)年10.17日(11.23日)、御城碁。 | |||
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青木愚碩(あおきぐせき) |
加賀の出身。算悦、道悦、道策との対局があるが、内弟子ではないとの記録が見られる。 |
1666(寛文6)年 |
1.12日、「道策-今泷太郎兵卫(先)」、不詳。 |
5月、「安井知哲-道策(先)」、不詳。 |
10.20日、「(坊)道悦-算哲(先)」、ジゴ。道悦が上手(7段)、その後準名人に進む。 |
1666(寛文6)年10.24日(11.20日)、御城碁。 | |||
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7.28日、林門入斎1世(門入)没(享年85歳)。 |
この年、星合八碩(道策五弟子の一人)が伊勢(津)に生まれる。 |
1667(寛文7)年 |
1.7日、「道策-安井知哲」、道策白番10目勝。 |
1667(寛文7)年10.20日(12.5日)、御城碁。 | ||||||||
道策(23歳)、安井知哲(1歳年長24歳)が御城碁に初出仕。この日、4代将軍・家網が御城碁に出座し、稀有なことに「本因坊道策とはどの者であるか」と尋ね、師の道悦が頭をすりつけたまま道策を指したところ、「構わぬ道策、面(おもて)を上げい。そちの碁技、当代無双なりとのうわさ、余の耳にも入っている。今後も倦むことなく、努めて技を磨けよ」の声をいただいている。 爾後、道策は天和3年まで15局(12勝2敗)、生涯の対局数は300局余である。御城碁年譜は「(坊4世)道策御城碁譜」に記す。 知哲は元禄12年まで20局を勤める。御城碁年譜は「(安井3世)知哲御城碁譜」に記す。 |
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この年より算知、道悦が御城碁を事実上引退状態になっている。算知、道悦は共に長命し、それなりの影響力は保持しているが御城碁での対局はない。この後、道策の対戦相手として算哲と知哲が交互に登場してくる。 | ||||||||
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この年以降、御城碁において複数局打たれる例が始まっている。これを算知時代第1期とする。これにつき次のように解説されている。
※「安井算哲2代(渋川春海)-道策(先)」、道策中押勝。後に暦学者渋川春海と改名した算哲との対局。 |
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この年、「道策-安井算哲」。道策の白番中押勝。 | |
7.28日、林門入斎(一世門入)没(享年85歳)。 |
1668(寛文8)年 |
「道策-安井知哲」戦が組まれる。
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「安井算哲-道策(先)」戦が組まれる。
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【算知が碁所に就任する】 |
1668(寛文8)年、10.18日、算悦死後10年目、かつて算悦との6番碁を行った安井家2代・算知が名人の手合に進み、寺社奉行・加賀爪甲斐守より碁所に任ぜられた(3人目)。当時、安井家の名声隆々として他門を圧し、門前は常に車馬で賑わっていた。 |
【「算知対道悦の争碁」事情】 | ||||||
算知の碁所就任に後援者である保科正之(徳川2代将軍・秀忠の子にして徳川3代将軍・家光の異母弟)の働きがけがあったであろうと云われている。算知の評判が悪く、安藤如意「坐隠談叢」が次のように述べている。
算悦跡目の本因坊3世・道悦(32歳)が、算知の名人碁所を不服とし、跡目の道策を連れて月番奉行・加賀爪甲斐守の役宅へ出向き、将軍の意に反して争碁を申込む。申し立ての理由につき口上書は次のように記されている。
この時、月番奉行・加賀爪甲斐守が次のように質している。
道悦は次のように返答している。
「熱誠面に溢れ、涙を揮て懇願に及びしかば、甲斐守も遂に拒む能力わず」。加賀爪甲斐守は道悦の願いを老中に取り次がざるを得なかった。碁所をめぐる安井家・本因坊家の角逐がここまで凄惨さを帯びていたことが分かる。安藤如意「坐隠談叢」が続けて次のように記している。
道悦との問答を経た上で、「道悦の先で年に20番、3年で60番打て」の沙汰が下され争碁が命ぜられることになった。算悦―算知戦が9年で6番だったのに対して対局数が急増していることになる。これが有名な「寛文の争い碁」であり、囲碁史上白眉の争い碁となる。 両者の争碁は同年10.20日の御城碁を第1局とし、1671(寛文11)年の第16局までに道悦が9勝3敗4ジゴの六番勝越しで先相先に手直りし、さらにその後は道悦の3勝1敗で1675年まで計20番打ち、結果は20戦して道悦の12勝4敗4ジゴとなった。前半はやや苦戦した道悦が後半に勝率を上げたのは、弟子である道策との共同研究によるところがあったと云われる。ここで対戦が打ち切られ、名人算知が碁所を返上、引退を表明して終了した。道悦も「公儀決定に故障を唱えし廉をもって遠慮の意」(「公儀の決定に背いたのは畏れ多い」)とし、弟子道策に後を譲って隠居することになる。 |
【「算知対道悦の争碁」履歴】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10.20日、御城碁で算知、道悦の争碁が開始する。「寛文の争碁」と云われる 「安井算知2世-本因坊3世(道悦)の60番争碁」の対局は次の通り。
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【「算知対道悦の争碁」顛末】 | |
20番で12勝4敗4ジゴとなったところで争碁は終結した。この時点での手合割は先相先であり、後世に「算知に一日の長あり」とも評される。対局道中、道策が師・道悦へ意見を述べることあり、第13局からの勝ち続けには弟子の道策の出現が影響しているのではないかと云われる。「坐隠談叢」が次のように評している。
この御城碁20局の多くが一日では終わらなかった。将軍が退座して、老中も退座する時刻が来ても碁が終わらず、仕方なく後は月番奉行の役宅で続行した。この争い以降、お城碁の下打ちが始まり、お城碁の当日は将軍の前で初めから並べると云う体裁になった。下打ちは毎年、11.11日から16日までの間に行われた。この6日間は家人、門生もその席に入れず、棋士はその家から出られなかった。どんな所用ができても外出が許されなかった。碁打ちは親の死に目にも会えないとの諺がこれより出ていると云う。 道悦と道策の互先対局棋譜が11局残っており、道策先番で5勝、白番で2勝3敗1ジゴとしている。二十番争碁があった寛文年間に道悦-道策の師弟対決が集中している。驚くべきことに、師匠の道悦のほうが黒を握った碁も何局か残されている。 58歳の算知は碁所を返上した。このあと、算知は名人として1696(元禄8)年まで御城碁の立会いに出仕し(対局免除)、1697(元禄9)年に引退し、先代算哲の次男・安井知哲に家督を継がせる。1703(元禄16)年、京都で87歳で死去する。道悦も2年後に隠居し、道策に家督を継がせた。爾後十年間、御城碁に出仕(対局免除)した上、1686(貞享3)年、退隠し、その後は京都で気ままな余生を楽しみ92歳で大往生する。
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1668(寛文8)年10.20日、御城碁。 | ||||||
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「(算哲2代)渋川春海-(坊跡目)道策」戦が組まれている。
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「坊)道策-安井知哲(先)」戦が組まれている。
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対局日不詳「坊)道策-(坊)道悦(先)」、道悦先番3目勝。師道悦との師弟戦で華やかな攻防が繰り広げられ「玄妙道策」と評されている。 |
1669(寛文9)年 |
1.10日、「板垣善兵卫-道策(先)」、不詳。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.14日、「道策-山崎道砂(黒)」、不詳。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.20日、「道策-安井知哲(先)」、道策白番11目勝。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「(坊)道悦-道策」戦が組まれている。
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「道策-安井知哲(先)」戦が組まれている。
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「安井算知-(坊)道悦(先)」20番碁戦が組まれている。
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8.21日、「安井算哲-道策(先)」、不詳(道策優勢)。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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9.22日、「道策-杉村三郎左衛門(先)」、道策の白番6目勝ち。2世本因坊算悦との碁があるほどの大先輩三郎左衛門との対局。 |
1669(寛文9)年閏10.20日、御城碁。 | |||||||||
林門入御城碁初出仕。 | |||||||||
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11.7日、「道策-安井知哲(先)」、道策白番4目勝。 |
11.13日、「安井算哲-道策(先)」、不詳(道策先番優勢)。 |
この年、小川道的(後に道策の跡目となり本因坊姓を名乗る)が伊勢(松阪)に生まれる。 |
1670(寛文10)年、。 |
3.17日、「道策-菊川友碩(2子)」、不詳。 菊川友碩5段は道策とのこの一局により囲碁史に名を残した。酒井猛九段が、本局について「本局は2子局であるが、すべての着手が感動的であり、道策の作品としては名局中の名局に入ると思う」と評している。 |
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3.22日、「道策-玄可(2子)」、不詳。 | ||||||||||||||||||||
「安井算知-(坊)道悦20番碁」が組まれている。
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「安井算知-(坊)道悦(先)」20番碁戦が組まれている。
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9.20日、「坊)道策―安井知哲(先)」、道策の13目勝ち(於/内藤左京殿) 本局を幻庵が「囲碁妙伝」に採り上げ次のように解説している。
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1670(寛文10)年10.17日(11.29日)、御城碁。 | ||||||||
御城碁で「本因坊道策-算哲(2代目安井算哲、後に保井、更に渋川春海)」が対戦した。両者3局目の対戦。この時、道策は三世の跡目本因坊にして7段、26歳。安井算哲は2世にして8段、32歳(寛永16年生まれ)。算哲は第1世安井算哲8段の長男。その弟が3世安井を継いだ知哲。後世、1世算哲を古算哲と呼んでいる。算哲が第一着を天元に打った(大極星の発想から生まれた初手天元)囲碁史に残る「第一着天元の局」として知られている。 (光の碁採録名局「道策-安井算哲(先)」)。 (詳細は「二世安井(保井)算哲の天元の局」に記す) |
10.22日、「安井算知―(坊)道悦」、道悦先番1目勝(於/松平市正宅)。 |
対局日不明「坊)道策-南里与兵衛(先)」、南里中押勝。大先輩の南里与兵衛が初手天元で道策を破った碁。 |
この年、片岡因的(後に因竹、4世林門入、隠居して朴入)生まれる。 |
1671(寛文11)年 |
8.25日、「坊)道策-安井知哲(先)」、不詳(道策白番優勢)。 |
1671(寛文11)年10.20日、御城碁。 | ||||||
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1672(寛文12)年 |
5.16日、「坊)道策-南里与兵衛(先)」、道策の白番中押勝。南里与兵衛は初手を天元に打ち天元2局目になった。勝負は道策が貫禄を示し中押し勝ち。南里は明暦頃、山崎源左衛門と称し、万治には山崎無三坊と称すと某書に記述されているとのこと。杉村三郎左衛門とは別人と思われる。 |
6.1日、「南里与兵卫-坊)道策(先)」、 道策先番177手中押勝。 |
9.8日、 「坊)道策-安井知哲(先)」、道策白番8目勝。玄妙不可思議の局(玄妙道策)。 |
1672(寛文12)年10.24日、御城碁。 | ||||||
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12月、「青木愚硕-坊)道策(先)」、不詳(道策の先番優勢)。 |
この年、三崎策雲(後に井上因節、四世因碩、系図書き挽え後は5世)が越前に生まれる。 |
1673(寛文13)年 |
9.3日、「坊)道策-安井知哲(2子)」、不詳。 |
1.4日、井上因碩1世(系図書き換え後は2世)が没(享年69歳)。 |
1673(寛文13)年、9.21日、延宝に改元。 |
1673(延宝元)年12.2日、御城碁。 | ||||||
同日、対局の見物は井伊掃部頭、松平美作守と記録されている。勝負がつかなかった場合は、退出して月番奉行の役宅で打ち継ぎ、本局は老中久世大和守殿宅となった。その後、打ち継ぎの煩を避ける為に前もって下打ちすることに定められた。 |
12.18日、山崎道砂が井上因碩の跡式を許され井上道砂となる。 |
「(坊)道悦-坊)道策(先)」、道策先番中押勝。 |
寛文年間「道策-安井知哲(先)」、不詳。 「坊)道策-安井知哲(先)」、不詳。 「坊)道策-安井知哲(先)」、不詳。 「安井知哲-坊)道策(先)」、不詳。 「坊)道策-安井知哲(先)」、不詳。 |
この年、安井仙角が生まれる。会津の出身。算知、知哲を師とし、元禄5年5段で初めて御城碁に登場し、元禄13年、安井家の当主になる。寛文年間に道策との碁として次の対局がある。(略) |
この年、「碁立」(碁立初心抄)が出版される(京都、菊屋七郎兵衛)。 |
1674(延宝2)年 |
3.18日、井上道砂が二世因碩と改名し井上家3世として継ぐ。御目見得を許さる。 3月晦日(みそか)、道砂が因碩と改名。 |
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「坊)道策-安井知哲」戦が組まれている。
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1674(延宝2)年11.24日(12.21日)、御城碁。 | ||||||||
(因碩3世)道砂と(安井)春知が初出場している。春知(承応2年(1653年) - 元禄2年3月27日(1689年5月16日))は紀州生まれ、家元安井家の二世安井算知の弟、実子とも ..。爾後、貞享3年まで7局を勤める。 | ||||||||
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安井仙角と道知の十番碁始まる。手合いは先相先。その第1局が御城碁「安井仙角-道知(先)」。道知の1目勝ち。仙角は続く2局目も連敗して争い碁に終止符を打った。 | |||
12.2日、「安井算哲-道策(先)」、道策先番12目勝。 | |||
12.9日、「坊)道策-河井长太夫(2子)」、不詳(道策の2子局白番優勢)。 | |||
日時不詳「坊)道策-福尾玄故(3子)」、福尾の3子局勝ち。石を攻めながら中央を囲った黒が勝った。 |
1675(延宝3)年 |
8.6日、(光の碁名局「坊)道策-安井春知(先)」、道策白番中押勝。「絶妙の手造り/玄妙道策)」と評されている。 |
1675(延宝3)年10.20日(12.6日)、御城碁。 | ||||||||||
安井算知と本因坊道悦の争碁が終了する(60番の予定なるも20番で打止め)。道悦が20戦12勝4敗4ジゴとなったところで対戦は打ち切られた。 |
1676(延宝4)年 |
安井算知が碁所を返上、引退した。爾後は隠居名人として元禄9年まで20年間出仕する(対局は免除)。「坐隠談叢」は次のように記している。
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1676(延宝4)年10.24日、御城碁。 | ||||||
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11.22日、「(坊跡目)道策-永田寿德(2子)」、不詳。 | |
この年、佐山策元(後に道策の再跡目となり本因坊姓を名のる)が生まれる。 | |
この年、道策が名人として寺社奉行へ届け出た手合い組直しの文書に算哲を次のように記している。
算哲に7段の棋力を認め敬重している。これによっても算哲の棋士としての貫禄と技両が非凡だったことが分かる。 |
【(坊)道悦の囲碁問答「因云碁話」】 | |
坊)道悦の囲碁問答「因云碁話」(爛柯堂棊話の改題)。
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牧野成貞(まきのしげさだ) |
牧野備後守成貞は、徳川綱吉時代の幕府御用人でありながら、本因坊の正式な門下生となるほどの碁好きであった。その実力は、本因坊道悦・道策のいずれに対しても二子で五段を許された。牧野は、あるとき道悦に「お稽古の二子ではなく、自分の本当を教えて欲しい」と尋ねたが、道悦は二子の手合を曲げなかった。牧野は一計を案じ、本因坊家と敵対関係にある安井算知に同じく二子で指導を受けることにした。算知なら本気で負かしに来るだろうと思ったところ、その碁にも2目勝ちし、自信を深めたという。反目していても碁打同士の結束は固く、算知も本因坊の顔をつぶさなかったのだろうという説もあるが、牧野はその後、道悦と先で打った碁もあり実力は決して低いものではなかった。 |
【(坊)道悦、道策の国事奔走録】 |
五代綱吉の時代、大名と雖も江戸、大阪町人たちから何万、何十万もの借金をしないものは稀だった。ここに一つ碁に関して面白い話が残されている。道策と細川家とは主従の関係があったが、綱吉の御代、細川越中守家督の時、「細川家重代の宝物」たる打物と虎の皮鞍覆を紛失したことがあった。これが細川家の存亡に懸かることになり、老臣たちが協議の上、このことを、長岡帯刀をもって本因坊道悦、道策に謀ったところ、幸い両人がお側用人役/牧野備後守の殊遇を受けていることから、両人から牧野備後守に弥縫策を内願し、これにより細川家安泰を得たという逸話が遺されている。 この時、道策の従弟吉永升庵が伊井候に仕えていたので、道策は伊井にも懇願する等、この間、道悦、道策は全力を尽して細川家救済に骨折りしている。この時の費用について、細川越中守が、かって3200両の用金を道策に依頼し、道策は承諾している。その間、井上家を通じてのいきさつもあるが省略する。この時の細川越中守から道策への書簡が道策の生家の山崎家に遺されている。細川家当主が道策に対してまるで友人の間柄のような感謝の口上を認め末尾に「恐惶謹言」と書いている。この経緯により、細川家は道策に終身五百石、これに繋がる山崎家や井上家にも何百石を与えている。 |
(私論.私見)