日本囲碁史考6、徳川時代初期

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).8.30日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
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 2005.4.28日 囲碁吉拝 


【算砂が金沢に久遠山本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗)を開基】 
 1617(元和3)年、算砂が前田家の援助により金沢に久遠山本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗)を開基する。直ちに本照坊を2世とし京都に帰る。
 3月、算砂「碁之狂歌」、「将棋之狂歌」各11首を書き残す。
 この年、安井算知が山城に生まれる。

【棋譜「算砂の高弟の中村道硯と安井算哲」】
 1620(元和6)年、 共に算砂の高弟の中村道硯(38歳、後の井上家の始祖)と安井算哲(31歳、後の安井家の始祖)が秀忠公御前で対局している棋譜が残されている。162手までで中村道硯の中押し勝ち。

【中村道硯が算砂より名人の印可状を受ける】 
 1621(元和7)年、中村道硯が算砂より名人の印可状を受ける。

 李約史(り・やくし)
 朝鮮通信使として来日し、本因坊算砂と対局。これに破れる。算砂の実力に感心して帰国後「乾坤窟」と書いた扁額と磁器製の碁石を送ったとされる。額と碁石は実際に京都寂光寺に保存されている。
【初代本因坊・算砂が韓人・季約史(りやくし)を3子対局で制す】
 元和年間、朝鮮(韓国)随一の打ち手と云われていた韓人・季約史(りやくし)が来朝し、算砂と3子で対局し忽ちにして失敗し敗る。嘆息して次のように述べている。
 「我れ、本国に於いて久しく碁技を闘わすに未だ敗れたることなし。然るに今かくの如し。(三つも置いて惨敗するとは)実に日本は囲碁の国にして、日海師(算砂)の如きは真に空前の名手なり」。

 外国の名手が日本に来て、日本の名手と対局したのは、これが初めてであった。残念ながら、このときの棋譜は残っていない。季は、帰国して盤石に「乾坤窟」と書した扁額を贈り来る。この算砂と李礿史との三子碁以来、時の最高位者は外人と対局するに三子を置かせて打つのが恒例となる。

【算砂が中村道碩に家督を譲る】 
 1623(元和9).4.23日、算砂が中村道碩に家督を譲り、同じ手合の名人を許す。手合以下の法度を計らうべき旨の印可状をあたえる。遺言により算砂の養子で当時13歳の算悦を本因坊とし、その後見となって育成することを依頼する。

【初代本因坊・算砂逝去と遺言】
 5.16日(6.13日)、本因坊算砂が京都で逝去する(享年65歳)。墓所は京都寂光寺、示寂、法名日海上人。辞世の句は次の通り。
 「碁なりせば  劫(コウ)なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」。

 「坐陰談叢」は次のように評している。
 「(本朝の千余年の歴史を持つ碁道が応仁の乱で蹂躙されたのを再興し)徳川氏の碁将棋所三百年の基を開きし偉人」。
 「優れた碁技と指導力で碁界の総仕切りをする碁所となり、家元本因坊家の始祖となる。また権大僧都・法印の位も得、棋士として最高の身分をまっとうした」。

 算砂の功績として道碩、本因坊算悦ら多くの弟子を育てたこと、棋譜を残す習慣を定着させたことが挙げられる。棋譜を残すことにより技術的研究ができ、後世に大きな影響を残した。著書として「本因坊碁経」を残している。
 「信長・秀吉・家康の三人の棋力はほぼ同じレベルで、日海上人に五子局であったと言われている。三人の天下人は、日海上人を個人の趣味的、兵法的、文化的の保護などの理由から、寵愛し、重用した」の記述がある。「信長・秀吉・家康の三人の棋力はほぼ同じレベル」はどうだろう、精査を要すると思われる。

【算悦その後】
 算悦(ほんいんぼう さんえつ)は、本因坊算砂は弟子の中村道碩(どうせき)に名人の印可状を授けた上で後継を当時13歳の算悦(算砂の実子?)とし、その後見を道碩に託した。

【中村道碩(どうせき)が名人に就任】
 道碩の実力は師匠の本因坊算砂より上であったと云われている。この頃の対局として、林利玄(算砂のライバル)」、安井算哲1世(兄弟弟子)、算知、林門入因碩1世(林利玄の弟子)との棋譜が残されている。安井算哲1世とは120局打ち80勝40敗で道碩40番の勝ち越しとなっている。道碩は早い碁で算哲は遅かった。道碩は人に、「碁には勝っても、算哲には命をとられる」と述べたと伝えられている。林利玄とも打っているが2局しか棋譜が残されていない。後の本因坊丈和は道碩の棋譜を多く研究したという。

 1624(元和10)年、2.30日、寛永に改元。

 1625(寛永2)年

 1626(寛永3)年

【お城碁が始まる】
 1626(寛永3)年9.17日、御城碁。
 御城碁第1局。二条城での徳川秀忠御前対局。
1局 中村道碩-(安井算哲初代)古算哲(先)
 古算哲先番3(4?)目勝(道碩白番3(4?)目負)
(道碩/初1局)
(古算哲/初1局)
 算砂を継いで名人となった中村道碩と(安井算哲初代)古算哲による御前御城碁第1局対局「道碩-安井算哲」が二条城の徳川秀忠御前で打たれ、算哲先番3目勝(道碩白番3目負)している。(但しコミのない時代であり現代の6目半コミで評すれば3目半勝ちであるからして、当時の基準では負けであるが歴史的判定としては負けとするには酷と評すべきだろう)

 これより、寺社奉行の呼び出しによるという形式で家元四家の棋士が毎年1回江戸城の将軍御前にて御城碁が始まる故に、この碁がお城碁の始まりとなる。以来、囲碁は日本の国技として発展していくことになる。

 対局は、碁所が出場者と手合いを定め、碁所不在の時は各家元の輪番制で、千代田の江戸城中奥(御黒)書院において、将棋の対局と並んで行われた。当日、将軍出座の時は最後まで打ち上げ、出座がなければヨセだけ残して出座を待ち、まったく出座がなければ老中の列席を待って終局させたと云う。  

 御城碁は特別な事情がない限り毎年欠かされることなく続き、幕末の1864(元治元)年に中止となるまでの「230年余りに全部で536局対局、出仕した棋士は67名」にのぼった。政治が芸能をこれほどに保護した例は世界史上に珍しい。徳川政権の政治の特質を証しているように思われる。

 1716(享保元)年、8代将軍徳川吉宗の時代に対局日を家康の命日にちなんで(大阪冬の陣の吉例によりとの記述もある)毎月11.17日と決めた。この場合、11.11-16日までに対局終了し(これを「下打ち」と云う)、17日に将軍の前で披露された。棋士は対局中の6日間は面会、外出が許されず、打掛けながらとり行われた。

 
 御城碁出仕は、家元の代表としての真剣勝負となり数々の名局が遺されている。出場資格は、本因坊、井上、安井、林の4家家元の当主、届出を済ませた跡目(相続人)、外家ならば7段以上の実力者であった。一時、5段にまで資格をさ下げた時期があったが、すぐに7段以上に戻した。その他に外家と言われる他の家人で認められた者もあった。石田芳夫「秀策」13Pは次のように記している。
 「徳川囲碁史を通じて、御城碁こそは最高の公式対局であり、家門の名誉と碁打ちとしての面目をかけた、晴れの舞台だったのである」。

 こうして、毎年一回、江戸城中奥の黒書院で行なわれる御前試合として御城碁が始まった。白書院や帝鑑の間が使われることもあった。出席棋士には銀十枚と、時服、朝夕の食事と茶菓が支給された。碁打ち衆にとって、これに出場することは最高の栄誉であり、ここで四家が家元の面目を賭けて技量を競うことになった。当時は、明け六つ(午前6時)の開門と同時に三つ葉葵の紋のついた駕籠に迎えられた本因坊が江戸城へ登城し、寺社奉行の指図に従って準備を整え対局する。いったん城内に入ったら、どんなことがあっても下城できない。これが「碁打ちは親の死に目にも会えぬ」の語源となる。将軍が出座すれば、終局まで打ち上げ、出座がなければヨセだけ残して出座を待つ。将軍の都合がつかない時は、老中が全員出席して終局を見届けた。その後、本因坊道策の時代の1669(寛文9)年に下打ち制が生まれ、毎年11.6日に四家元が会合し、組み合わせを決めて奉行に届出、許可が下りると11日から16日までの間に対局し、17日当日は将軍の御前で手順を並べて見せることになった。下打ちの6日間は誰との面会も外出も禁じられた。
 「坐隠談叢」は次のように記している。
 「御城碁は幕府が高段の碁士を試むる一種の方式にして、毎年一回の掟にあり。故に、之に列する碁士は、あたかも武士の御前試合と同じく、名誉の岐るるところなりとして、極めて重大視したるものなり。而して、之に列するを得る者は、本因坊、井上、安井、林の各家元及び願い済みの跡目相続人とその他7段以上の技ある者なり。その後家元の願いにより、5段以上の者を列せしめたるも、天明以降は、更に7段以上と限定せり。然るに、その後井上家は嚢に列したる河野元虎、阪口徳の例を引きて、服部因淑、同雄節(共に6段)の二人を之に列せしめたる事あるも、これ以外には特別の命令あるに非ざれば列席するを得ず。尤も高家大名もしくは旗下の士にして碁技を能くする者は、願いにより特別に列席せり。而して、御城碁の期日は、初め確定せず。その後12月に定められ、8代吉宗治世の享保元年に至り、毎年11月17日と定められ、同月初めに月番寺社奉行より、『寛永の御吉例により例年17日を以って御城碁可有之候 寺社奉行』とありて、各家元は輪番に集会して手合いを定め、口上書として寺社奉行にに届出で、当日本因坊は明け六つ時、大手門御開門と同時に登城し、寺社奉行指図の下に、御黒書院に於いて対局したるものなり。後に道悦争碁中、乱雑なる碁に遇う毎に、御老中既に退出の時刻に及ぶも、猶結局に至らざる事あり。かかる場合には、月番奉行の役宅に下り、打ち続きを為したるの不便を生じ、詮議の上向後、御城碁仰せくだされ出で候節は下打候様にと沙汰あり。爾来下打ちするを恒例となすに至りたり。この下打ちとは、毎年11月6日、四家協議の上、手合いを定めて、之を届け出で、故障なきに於いては11日より16日までに対局し、四家は輪番にその席を為すなり。亦この6日間は何人にも面会、もしくは外出を許さず。これ17日に将軍の御覧に供する碁なればなり

 当日、将軍の出座あると否とを問わず、所定の御座には*を敷き、火鉢、刀掛けを備う。而して将軍出座の節は終局まで打ち上げて上覧に供し、出座なき時は、浸分だけを残して出座を待ち、終局を告ぐるも全然出座なき時は、老中に於て御座敷廻りと称し、残らず列席あるを待ちて御持ち成しは、『朝夕二汁五菜の御料理木具にて下置くだされ、御吸物御酒御菓子御茶下置きくだされ候。このことは、権現様御代の格にて御代々変ることなし。碁相済みそれより退出致し、御老中若年寄寺社奉行衆へ、今日所作被仰付難有仕合致候由、申し上げ御礼廻りを致し候』と古書にあり、而して本因坊は宗家として果た碁所なると共に、寂光寺の僧にして、権大僧都法印たるを以って、常に円*衣(れい)なるは勿論なるが、その他の三家及び御城碁に列する者もまた之に倣うて、法体となるの掟ありて、本因坊、井上両家は日蓮宗に属し、安井、林両家は浄土宗に属したり。その後本因坊三世道悦の時に至り、彼の算知と争碁の節、僧服にては都合悪しく、衣の袖を短くし、心静かに手合いに及ばん事を嘆願したるに直ちに許容せられ、遂に袈裟を脱するの例をなし、後には十徳を着するに至りたり。

 本因坊家は京都にあり、毎年4月より12月まで、江戸詰めなるを以って、公儀に於いて詮議の末、本因坊家は日本橋に、林家は鉄砲町に、各1丁四面の屋敷を賜う。然るに当時の江戸は幕府開けたるも日なお浅く、武蔵野の草莽未だ全く*除(さんじょ)さるるに至らず、京橋日本橋の辺りは丘陵起伏して人家極めて少なく、けんか繁茂して行客影を留めず、野狐昼眠りて鴻雁人に驚くの有り様なりしかば、両家は之を開墾し、且つ建築するの困難なるを以って、遂に之を返上し、後に芝金杉に仮屋敷を賜い、之に居住したりしたが、道悦の世に至り、再三屋敷替えを願い、寛文7年極月23日本所町並びに於いて十間に二十間の屋敷を賜い、十年二月十一日より移住せり」。
 御城碁は全局が「御城碁」に収録されている。
 御城碁譜整理配布委員会「御城碁譜」(1651年)。

【本因坊邸】
 本因坊家は徳川家の吉例として毎年春、京都より出府し、直ちに月番の寺社奉行に参着の届出をする。4月1日に井上、安井、林三家、及び御城碁を勤める全てを引きつれ登城する。その時、殿中奏者番から、棋所本因坊並びに将棋の者どもが参上したと披露する。本因坊は御祝儀として五本入りの扇子箱を献上する。このお目見えの儀式が終わって退出すると、本因坊はその足で若年寄、月番寺社奉行の役宅を順次に回礼する。御城碁は当初、袈裟を着て対局した。算知-道悦の争碁以降、十徳を着るようになった。将軍が出座すると、棋士は頭を垂れ、両手を畳につけねばならないが、この動作の時に袈裟の袖で石が乱れることがあった。それ故、道悦が願い出て十徳を着ることを許された。御城碁は年1回で、期日ははっきり決まっていなかったが、8代吉宗の時から毎年11月17日に決まった。対局期間、棋士には朝夕二汁五菜の料理が木具で出された。御城碁が済むと棋士には銀十枚が支給された。本因坊が賜暇になるのは12月15日、この時、本因坊にはさらに銀十枚、名人なら黄金二枚、時服二かさねがついた。本因坊家の本拠は京都であるが、毎年4月から12月まで江戸にいるので、日本橋に1丁四方の土地が幕府から宛がわれた。後に芝金杉に仮屋敷を貰ったが、道悦の時に屋敷替えを願って本所に十間に二十間の屋敷を貰って移転した。

【手合い割】
 ここで、「手合い割り」について確認しておく。この時代にはハンディとしてのコミ碁が導入されておらず、手合い割りで棋士を番付していた。まず同じ実力の対戦の場合を「互先」(たがいせん)と云い、黒(先番)、白(後番)を交互に打つ。コミなしで十番打ち、4番勝ち越せば手合いが変わる。「互先」に対して実力差が一段違うと「先相先」(せんあいせん)(先々先)になり、下手が黒白黒の順に直り、三番勝負のうち二番を黒、一番だけ白を持つ。これに負け越すと二段差の「定先」(じょうせん)(単に先)なる。「定先」になると毎局黒をもつ。三段差は「先二」(せんふ)(せん二せん)と云い、先の碁、二子碁、先の碁を交互に打つ。四段差は「二先二」((常)二子)」。五段差は「二子」で常に上手に二子を置く。以下同様に、六段差は「二三二」、七段差は「三二三」、八段差は「三子」となる。
 参考までに記すと、以上は家元制下の本職棋士の場合の「手合い割り」である。アマチュアの段級認定、「手合い割り」にはそのままでは使えない。現在ではハンディとしてのコミ碁が導入されており、一見はより精密化しているように思える。但し、「(常)二子=4段差」と認識した方が何やら的確とも思える。即ち6段に2子で勝てない者は4段ではなく2段止まり。あるいはこの6段を8段にすれば4段どまり。10段にすれば6段どまりと云うことになる。互いの棋力を測るのに、昔のこの「手合い割り」による手合い差の方が案外と合理的かも知れない。アマチュアの場合、全国大会優勝レベルの最高位を10段とし、その方との手合い差を序列化した方が却って正確で分かり易いかも知れない。
 「棋士」(きし)の呼称変遷史を確認しておく。室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れた。彼らは「碁打」と呼ばれた。この呼称はずっと続き今日でも通用している。江戸時代に家元制が敷かれ俸禄を受けるようになると、「碁衆」あるいは将棋の家元との区別で「碁方」、「碁之者」などと呼ばれた。後に「碁士」、「碁師」などの呼び方も生れた。明治になると「碁(棋)客」、「碁(棋)家」といった呼び方がされ、また棋戦に出場する者は「選手」とも呼ばれ、大正時代の裨聖会もこの呼び名を使った。日本棋院が設立されると「棋士」を使うようになり、以降の各組織でもこれに倣い現在に至っている。

 1628(寛永5)年

 算知(12歳)が南光坊天海(1536~1643)の推薦により召し出され一家を成す。後に安井算哲1世(古算哲)の養子として安井家を継ぐ。安井家は算哲家と算知家の両家を生じるが、碁方としての算哲家は算哲二代が天文方・保井算哲(渋川春梅)となったため絶家する。

 1628(寛永5)年11.17日(12.12日)、御城碁
 徳川家光の御代、江戸城にて御城碁始まる。算知が召し出され御目付仰せつけられる。翌寛永6年にも道碩と算哲が対局している。
2局 中村道碩-(安井算哲初代)古算哲(先)
 古算哲先番5目勝
(道碩2局)
(古算哲2局)

 1629(寛永6)年

 1629(寛永6)年月日不詳、江戸城で御城碁。
3局 中村道碩-(安井算哲1世)古算哲(先)
 道碩白番6目勝
(道碩〆3局)
(古算哲〆3局)
 道碩と算哲はかなりの数を打っている。時期は不明だが数年間に120番、道碩の40番勝ち越しという記録がある。ということは道碩が80勝40敗と云うことになる。現存する両者の棋譜は今のところ49局で、全て道碩の白番である。ちなみに、道碩の棋譜は現在80局見つかっている。そのうち道碩の黒番は利玄との1局だけである。中村道碩は、「碁には勝っても命は算哲に取られる」と語ったと云われる。 

 9月、徳川三代目将軍/家光(1604-1651)と伊達政宗(1567-1636)の棋譜が残されている。1883(明治16).11.8日の郵便報知新聞に棋譜が掲載されている。「政宗卿は徳川始祖の遺嘱を受け治国の補缺を諾する宿将なれば将軍を視る猶ほ我家の兒孫の如く」、「家光の勝ち」とある。
 江戸時代初期の1629-1634年頃、狩野派絵師説が有力な風俗画(場面は遊郭だと言われている)の見立て絵(琴棋書画)「彦根屏風」(六曲一隻、94×271cm、)が描かれており、今日、彦根城博物館に国宝として保管されている。

本因坊2世算悦時代

 1630(寛永7)年
 8.7日、算砂が亡くなってから7年後、算悦20歳の時、病に伏した道碩がをしっかりと育て上げた算悦に算砂より受けていた印可状を引き渡し上手(名人に先手合いの7段)を認めて幕府へ嘆願した。算悦は30石を賜わり、本因坊家再興を許され本因坊2世となる。

 こうして算悦が本因坊家の名を継ぎ本因坊家を正式に継承(再興)させた。この時代はまだ世襲制が確立されていなかったため、算砂が亡くなった後算悦が継ぐまで一時本因坊家は中断されていた。これが碁界初の相続例となり家元制を生み出すことになる。弟子の井上因碩(玄覚)も禄を受けることを願い出て家元井上家となった。そのため道碩は井上家の元祖とされている。
 8.14日、肩の荷が下りた道碩が没す(享年49歳)。墓所は京都寂光寺。道碩の弟子に、後に井上家を興すことになる一世井上玄覚因碩がいる。そのため道碩は井上家の元祖とされている。道碩の他の弟子には寺井玄斎、法橋現碩(玄碩)、松原因策がいる。
 この年、「古本因坊定石并作物」(じょうせきならびにさくもつ)1冊が出版されている。約60局の棋譜が残されており、そのうち安井算哲との碁が40局ほどを占める。後の本因坊丈和は道碩の棋譜を多く研究したという。

 1631(寛永8)年
 この年以降、徳川実紀に「碁将棋御覧」の記載が多く現われるようになる。1644(正保元)年からはほぼ毎年の10-12月に記載されるようになる。1662(寛文2)年、家綱の時代、碁将棋衆が寺社奉行管轄下となり、寛文4年からは年中行事として毎年の記録が残されている。

 1635(寛永12)年
 幕府、寺社奉行を置く(碁将棋方の所属は覚文2年)。これより碁打ち衆が次第に京から江戸へ移住し始める。

 1636(寛永13)年
 丹羽道悦(後に3世本因坊)が伊勢国松阪(あるいは石見ともいう)に生まれる。本因坊算悦に入門、22歳で家督を継ぐ。安井算知との20番碁が有名。道策の師匠で準名人。1727(享保12)年、没。

 1637(寛永14)年
 秋、九州の島原でキリシタン一揆が起る。原城に立てこもった一揆衆は3万7千、包囲した寄せ手は十万人余。原城が落城したのは翌年の2.28日。生き残りの山田右衛門の話を書き留めた「玉露叢」は次のように記している。
 「或る時、四郎時貞、本丸にて囲碁を打ちて候ところを、鍋島信濃守勝茂の臨楼より、石火矢を打ちかけるが、時貞が左の袂を打ち切って、その弾に四郎が側に罷りあり候男女6、7人打ち殺され申し候。よりて城中の男女、内々は、四郎には名誉の儀あるべきと思い、末頼もしく存ぜしかども、只今の風情は、四郎さえあの如くなれば、末々の儀思いやられて、各々力を落しけるとなん」。
 この年、お城将棋の対局も行われるようになった。「徳川実紀」でも寛永8年(1631年)以降に「碁将棋御覧」の記載が多く現われ、正保元年(1644年)からはほぼ毎年の10~12月に記載されるようになる。家綱の時代、碁将棋衆が寺社奉行管轄下となった1662(寛文2)年の後、寛文4年からは年中行事として毎年の記録が残されている。

 1639(寛永16)年
 1639(寛永16)年、鎖国。
 2代目安井算哲(後に保井、また渋川春海)が1代目安井算哲の子として京都四条室町に生まれる。

 1640(寛永17)年
 名人道碩が亡くなって十年、その間「名人」は空位となっていた。この年、幕府が当代の一流棋士を集めて「名人」を決める会議を行った。これが史上初めて「名人碁所」を決めるために行われた会議、世に言う「碁所詮議」である(正確にはこの時代はまだ「碁所」という役職はなく、名人を決めるために開かれた会議で「碁所詮議」とは後世につけられたもの)。集められたのは、この時代を代表する打ち手3名で、安井算哲1世、本因坊算悦2世、井上玄覚因碩1世だった。故・名人中村道碩と兄弟弟子であった安井算哲1世が自薦するが、幕府側に「資格なし」と却下される(「安井算哲(一世)の自薦却下」)。中村道碩の下で共に修行した本因坊算悦2世と井上玄覚因碩1世は名乗りを上げず、結局この時は名人碁所は決まらずに終わった。しかし、この後「名人碁所」を巡り歴史が大きく動き出すこととなる。
 この年、2世林門入が生まれる(推定)。
 覚永年間、「玄玄碁経」(覚永版)が出版されている。

【「名人碁所詮議不調に終る」】
 1640(寛永17)年、名人道碩が亡くなって十年、その間「名人」は空位となっていた。この年、幕府が当代の一流棋士を集めて「名人」を決める会議を行った。これが史上初めて「名人碁所」を決めるために行われた会議、世に言う「碁所詮議」である(正確にはこの時代はまだ「碁所」という役職はなく、名人を決めるために開かれた会議で「碁所詮議」とは後世につけられたもの)。集められたのは、この時代を代表する打ち手3名で、安井算哲1世、本因坊算悦2世、井上玄覚因碩1世だった。故・名人中村道碩と兄弟弟子であった安井算哲1世が「私が適任」として自薦するが、幕府側に「資格なし」と却下される(「安井算哲(一世)の自薦却下」)。中村道碩の下で共に修行した本因坊算悦2世と井上玄覚因碩1世は名乗りを上げず、結局この時は名人碁所は決まらずに終わった。しかし、この後「名人碁所」を巡り歴史が大きく動き出すこととなる。

【鍋島藩の化け猫騒動】
 「鍋島藩の化け猫騒動」が囲碁に関係しているので、これを確認しておく。肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が光茂の機嫌を損ねたために斬殺された。又七郎の母も飼い猫に悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで鍋島家を苦しめ始める。半左衛門の母が食い殺されたり、光茂の妻が頓死するなど怪事が次々と起こる。さらには光茂の愛妾お豊に化けて光茂をたぶらかしたり、子供をさらって喰うなど暴虐の限りを尽くしたという。やがて光茂が病気にかかる。これを光茂の忠臣・小森半佐衛門と槍術家・千布本右衛門がネコを退治し鍋島家を救うという伝説である。「化け猫騒動」は鍋島氏と龍造寺氏とが元々は「龍造寺氏・主君、鍋島氏・家臣」であったことを踏まえた歴史的遺恨をネコの怪異でデフォルメしたものだとも考えられるが、囲碁絡みのところが興味深い。

【三代将軍家光と伊達政宗の囲碁掛け合い】
 三代将軍家光の囲碁好きぶりにつき「坐隠談叢」が次のように記している。
 「家光の如き頗る碁技を能くし、しばしば伊達政宗と之を囲む。而して政宗の家光と対局するや、その石を包囲し、『それ小石川口から攻めよ、ア、小石川が破れた』と戯(たわむ)れる。当時、小石川は江戸城の要害にして、守備の未だ全からざりしもの、家光三局連敗し、その過言を怒り、却って政宗に小石川の修築を命ず。俗に神田川賃金掴み取りの工事と云うもの之なり」。
 2009.2.24日、「◆国技・2 ◆カムイ ◆」が次のように記している。
 三代将軍家光は碁が好きであった。しばしば伊達正宗と対局した。戯れの舌戦が伊達家に災いをもたらすことになる。”この石を片目にしてくれよう。” ”小石川口から攻めましょう。” 小石川口は江戸城の弱点であった。家光は碁に負けた悔しさに、小石川口の修築工事の幕命が伊達家に下された。伊達家の財政を揺るがす出費となったのである。
 この逸話につき、「江戸城物語」(朝日新聞社編)では次のように記されている。
 概要「外堀工事の最大の難所は本丸の北にあるお茶の水だった。この堀は伊達政宗が元和年間に掘ったものだ。駿河台と本丸の直線距離は約1キロ。攻めるなら当然ここが一つの拠点になる。そこで、政宗、二代将軍秀忠と碁を打った時、秀忠の大石を『政宗にせん』(政宗が片目であることに掛けて目を一つにせんと云う意味になる)」と追いながら、『北から攻めろ』とつぶやいて江戸城の弱点を示した。そしてここの難工事を仙台藩で引き受け、将軍に忠勤を励んだと云う。(以下略)」。

【三代将軍家光の囲碁好き】
 2009.2.24日、「◆国技・2 ◆カムイ ◆」が次のように記している。
 家光は碁所が欠所になっていることを思い、碁所詮議を命じた。本因坊二世算悦、安井一世算哲、井上二世因碩、林二世門入の四家の当主が、老中列座の前で協議したが、この時はきまらなかった。この後、算哲の弟子算知は、算哲の意思を継ぎ、寵好する南光坊天海や松平肥後守等に依頼して、碁所たらんとしたが、ついに、正保元年(1644年)10月5日より、本因坊算悦と9年間に6局を闘うことになった。気の長い勝負だが、この6局は互いに先番勝ちとなり、碁所の欠所は続く。算悦が亡くなり、算知は、好機逸すべからずと、時の権門に嘆願して、寛文8年(1668年)10月18日、ついに待望久しかりし碁所に補せられた。算悦の死後、家督を継いだ本因坊三世道悦は、11年間、一度も対局したことがない算知の碁所に承服し難い思いがあり、跡目道策を伴って幕府に出頭して、争い碁を願い出た。月番老中加賀爪甲斐守は、”算知の碁所の議は上様上意も同然なるに、争い碁を願い出ずるは曲事である。汝敗れなば、遠島に処せられるべし。”と威嚇したが道悦は屈しなかった。”碁院宗家に生まれ、このまま相果てなば、地下の祖先に会わす面目も無之、たとえ勝負の上、武運つたなくして遠島に処せられても寸毫の憾なし。” 必死の思いの嘆願に奉行も拒み得ず、詮議のすえ、一年二十番の割で六十番打つべき旨の沙汰があった。ただし、算知は碁所であるから、道悦が定先の手合いときめられた。算知は高齢であったが、初めは道悦もなかなか勝ち越せなかったが、坊門には天才児道策の囲碁理論が育っていた。安井家伝の接戦力闘に対して、軽くさばく、手割論による捨て石の妙、師を凌ぐともいわれる道策の理論は、道悦を支え、次第に算知を圧倒していった。十五局までで、六局勝ち越し、手合い直りの先相先、その後も四勝一敗とし、算知は番碁取さげと引退を願い出た。道悦も引退して、家督を道策に譲る。本因坊四世道策は名人碁所となった。他家からの異論は無かった。傑出していたのである。この人は、碁の理論が優れていただけでなく、碁界の制度についても考える才能をもっていた。段位制度はこの人の創案である。あらゆる勝負事、芸事に先立ってきめられた。現在では、将棋、柔道、剣道、空手、弓道、アマチュア相撲、書道などに段位制度が使われている。優れた弟子も多くいて、元禄の囲碁隆盛期を迎えた。だが、皆、早世してしまい、碁所の後継者が続かなくなって、囲碁の低迷する時がくるのである。

 1644(覚永21、正保元)年、12.16日、正保改元。

【史上初の争碁/「本因坊2世算悦-安井家2世算知の二十番争碁」】
 1644(正保元)年、 3代将軍家光の時、寺社奉行が、道碩の後継者を決める為に家元四家を集め、名人道碩の死後、空席になっていた名人・碁所の詮議を預けた。

 10.15日、本因坊算悦(34歳)は自薦して他は辞退した。但し、安井算知(28歳)が、先代算哲が望んで就くことができなかった名人・碁所に強い執念を持ち、本因坊算悦の碁所就位に賛成せず「遠島覚悟の争碁」を申し入れた。話し合いがつかず幕府の命によって囲碁で決着をつけることになった。これを「争碁」(そうご、あらそいご)と呼ぶ。幕府は本因坊2世算悦と安井家2世の安井算知の二人に六番碁の争碁を命じた。これが「争碁」の始まりとなる。
 この年、安井知哲(安井算哲一世の三男で、安井算哲2世(渋川春海)の弟)が山城国に生まれる。

 1645(正保2)年

 1645(正保2)年10.16日、御城碁。
 「史上初の争碁」となる「本因坊・算悦-安井家2世算知の争碁6番碁」兼御城碁第1局が仰せつけられ始まる。これが江戸城での御城碁の始まりとなった。この御城碁での勝敗は碁所決定をも左右しかねない重大な一戦であった。手合は算知の先番と決まっていた。老中、若年寄、寺社奉行らが息を殺して見守った。
4局 坊2世)算悦-(安井2世)算知(先)
 算知先番中押勝
(6番碁第1局/算悦0-算知(先)1)
(算悦/初1局)
(算知/初1局)

【本因坊道策の誕生】
 この年、山崎三次郎(後の4世本因坊道策)が石見国の大田郡馬路村神の前で生まれる。山崎家は毛利輝元に仕えた武士で、後に庄屋となった旧家である。道策の出た山崎家は毛利元就配下で1万国を領した松浦但馬守を祖父とし、後に石見国大田村の山崎(現・島根県大田市大田町山崎、島根県邇摩郡仁摩町馬路542番地)に居したことから里人敬して山崎公と呼ばれるようになり山崎姓としたという。その長子善右衛門(山崎七右衛門)は石見国大久保氏に仕え、道策の父となる。母ハマは芸州の出で、元細川越中守綱利の乳人にして賢夫人、賢母の誉れ高い。三男三女をもうける。男子は七右衛門、三次郎、千松。長男七右衛門が山崎家を継ぎ、二男三次郎が後の本因坊道策、三男千松が後の井上因碩道砂で井上家を継いで3世井上因碩となる。同じく算悦門下の囲碁棋士である。山崎家からは後に10世井上因砂因碩が出ている。道策の兄七右衛門の子五郎太夫は祖母の縁で細川家に仕え、従弟の半十郎は道悦が退隠して京都に在した際にその付添人となった。

 山崎三次郎は1651(慶安4)年、7歳の時、母親から囲碁の手ほどきを受け棋道に精進する少年と化した。同地の山崎家には道策が少年時代に愛用したと伝えられる粗末な盤石が保存されている。悪い碁を打った時には母に井戸(いど)に連れていかれ、冷水をかけられたと云われている。12-3歳頃、父に連れられて江戸へ下り囲碁の四大家元の一つ「本因坊家」に弟子入りした。初め安井算知への弟子入りを薦められたが、「本因坊こそ碁の長者であり、斯道の司であるとして坊門を選んだ」と伝わる。1658(万治元)年に本因坊3世を継ぐ道悦が、碁界の宗家である本因坊門の発展のために熱心に三次郎を誘ったとの伝もある。三次郎は天与(てんよ)の才に恵まれて上達が早かったと云う。

 1646(正保3)年

 1646(正保3)年11.2日、御城碁。
5局 (安井2世)算知-(坊2世)算悦(先)
 算悦先番9目勝
 (6番碁第2局/算悦/先1-算知/先1)
(算知2局)
(算悦2局)
 この年、桑原道節(後に井上3世、名人因碩)が美濃国大垣で生まれる。

 1647(正保4)年

 1647(正保4)年、御城碁。
6局 (坊2世)算悦-(安井2世)算知(先)
 算知先番6目勝
 (6番碁第3局/算悦/先1-算知/先2)
(算悦3局)
(算知3局)


 1648(正保5)年

 1648(慶安元)年
1648(正保5)年2.15日、慶安に改元。

 1648(慶安元)年、御城碁。
7局 (安井2世)安井算知-(坊2世)算悦(先)
 算悦先番11目勝
 (6番碁第4局/算悦/先2-算知/先2)
(算知4局)
(算悦4局)

 1649(慶安2)年

 1649(慶安2)年2.17日、御城碁。
8局 (坊2世)算悦-(安井2世)算知(先)
 算知先番11目勝
 (6番碁第5局/算悦/先2-算知/先3)
(算悦5局)
(算知5局)

 1650(慶安3)年
 1650(慶安3)年、山崎千松(後に井上因碩2世(道砂)、道策の実弟)、石見国(大田郡。馬路村)で生まれる。

 1651(慶安4)年
 4月、第3代将軍徳川家光が亡くなり、11歳の徳川家綱が新将軍に就任する。この頃、愛棋家でもあった由井正雪らが幕府の政策を批判し、浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛らと共に挙兵し幕府を転覆する計画を立てる。小雪の背後には南海の龍と云われた紀伊大納言頼宣(徳川家康の十男で紀州徳川家の祖)がいたと云う。計画は実行寸前で、密告により露見。正雪は駿府の宿に滞在中、町奉行の捕り方に囲まれ自刃する。この騒動は「慶安の変」または「由井正雪の乱」と呼ばれている。計画が露見したのは、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告によるものと云われている。後に描かれた物語では、その理由として奥村が丸橋忠弥と碁を打っていたときに正雪が色々と口を出したことに腹を立て裏切ったということになっている。由比正雪首塚の脇に正雪の辞世の句碑が建立されている。「秋はただ なれし世にさえ もの憂きに 長き門出の 心とどむな 長き門出の 心とどむな」。(「由比正雪の首塚 菩提樹院」参照)

 1652(慶安5)年
 1.9日、門下の安井算知を養子として家督を譲っていた安井算哲1世(古算哲)が京都で没する(享年63歳)。法号は正哲院紹元。後に長子が2世算哲として安井家を継ぐ。次男の勘左衛門は内藤家家臣となり、三男知哲は算知を継いで安井家3世となる。
 同年9月、「碁経」(碁伝記、二巻)が出版される。版元は京都鳥丸通七観音町、久須見九左衝門。 

 1652(承応元)年
 9.18日(グレゴリオ10.20日)、承応に改元。

 1653(承応2)年

 1653(承応2)年10.17日、御城碁。
9局 (安井2世)算知-(坊2世)算悦(先)
 算悦先番6目勝
 (6番碁第6局/算悦/先3-算知/先3)
(算知〆6局)
(算悦〆6局)

 史上初の争碁の安井算知3勝2敗で迎えた6局目の対局は本因坊算悦先番277手完で、算悦が先番6目勝ち。史上初の争い碁は1644(正保元)年10.5日の御城碁を第1回とし、承応2年まで9年がかりで6戦して3勝3敗の打ち分け(共に先番で3勝)となり、打ち分けとなったため碁所を決定できず、算悦の急逝病死によって両者の対局が終りを告げ、碁所は一時預かりとなった。

 瀬越名誉9段が次のように評している。
 「本局は近代の打ち碁と云っても首肯されるであろう。布石に進歩が認められ、特に算知の碁才の豊かさが想われる」。

【本因坊算悦-安井算知の対局における松平肥後守の口入れ事件】
 「本因坊算悦-安井算知の対局における松平肥後守の口入れ事件」を確認しておく。
 まだ下打ちの習慣がなかった頃、本因坊算悦と安井算知が御城碁で対戦した。二人は今や碁界の竜虎として空位の碁所を狙う地位にあり、この御城碁での勝敗は碁所決定をも左右しかねない重大な一戦であった。手合は算知の先番で始まり、老中、若年寄、寺社奉行らが息を殺して見守っていた。将軍はまだ出座していない。そこへ松平肥後守(保科正之)がやってきた。松平肥後守は碁好きで名高い会津藩主で55万石の大々名。算知を贔屓しており、屋敷に住まわせ扶持も与えていた。甲斐守の脇に座って観戦し始めたが、困ったことに一手打つごとに『ふぅん』と首をひねったり『なァるほど』と膝を叩いたりする。算知が打ち込みを敢行した時、『うッ』とうなり声を上げ、『さても妙手。いかな本因坊も、よも勝つ手はあるまい(本因坊の負けと見ゆ)』と口を挟んだ。算悦、これを聞きとがめ、やおら後ずさって盤の前を離れ、無人の将軍御座に向かって一礼した。『本因坊、いかが致したぞ』。問いかける甲斐守に、背を向けたままの姿勢で、『この碁、もはやこれまでにてございます』。『負けだと申すのか』。『そうではありませぬ。打つことができないのでございます』。甲斐守『なんと』。真意を測りかねて絶句した。算悦が言葉を続けた。『私どもは碁打ちにございます。碁をもってお上に仕えております。碁打ちが局に対するのは武人が戦場に臨むのと同じこと。私は本因坊家の当主、天下の上手(7段)として一手一局に命をかけております。その私の碁に関して、横から口挟みがあるようでは打つ訳には参りませぬ』。(中略)松平肥後守が立ち上がり、御座に向かったままの算悦に正面から相対し、『この通りじゃ本因坊。気分を直し、どうかいい碁を打ってくれい』。算悦『恐れ入ってございます。出過ぎたるふるまい、なにとぞお許し下さいますよう』。一座皆な胸をなでおろし対局が再開された。着手は遅々として進まず、定刻を過ぎ、対局場を甲斐守の役宅に移し、終局は未明に及んだ。結果は算悦の白番1目勝ち。算悦は大いに面目をほどこした。(田村竜騎兵著「物語り囲碁史」参照)。この算悦の態度が、碁家の気節として賞賛されて語り継がれた。

 1654(承応3)年

 1655(明暦元)年4.13日、明暦改元。

 1656(明暦2)年
 宗算が「囲碁十首歌」を出版する。版元は京都五条寺町、中野太郎左衛門。

 1657(明暦3)年
 10.24日、安井算哲の実子の安井算哲2代目(渋川春海)が算知部屋住みとして新規に召し出される。

本因坊3世道悦時代

 1658(明暦4)年

 1658(明暦4、万治元)年、7.23日、万治改元。

 9.16日、本因坊2世・算悦が生没(享年48歳)。
 道悦(22歳)が後式相続を許され3世本因坊となる。法名は日勝。
 道悦履歴
 1636(寛永13)年、生れる。本姓は丹羽、伊勢あるいは石見国出身。

 碁所の地位を巡って安井算知と二十番碁を打った。
 1677(延宝5)年、道策に家督を譲り、同時に碁所に推挙。ただし道悦は道策の後見、名人格20人扶持として、対局免除の上で御城碁に10年間出仕した。
 1686(貞享3)年、退隠して京都に移り住んだ。

 1727年3.26日(享保12年2.4日)、生没(享年92歳)。歴代家元中最長命。 
 碁盤の寸法は囲碁伝来以来定めがなかったところ、道悦は門下の板垣友仙と吟味し、高さ7寸8分、厚さ3寸9分、長1尺4寸5分、廣1尺3寸5分 と定めた。この標本碁盤と称する。1739(元文4)年、小島道純作の碁盤が京都寂光寺に保存されている。(寸法はその後の代にさらに変更されている)

 1659(万治2)年

 2代目安井算哲が算知後見で家督を相続する。

 1659(万治2)年11.24日、御城碁。
 (本因坊3世)道悦、(安井算哲2代目)渋川春海が御城碁に初出仕する。爾後、道悦は延宝3年まで11局、春海は天和3年まで17局を勤める。(坊3世)道悦の御城碁成績は「(坊3世)道悦の御城碁対局譜」に記す。春海の御城碁成績は「春海の御城碁対局譜」に記す。
10局 (坊3世)道悦-(算哲2代)渋川春海(先)
 春海先番4目勝(道悦白番4目負)
(道悦/初1局)
(春海/初1局)

 1660(万治3)年

 1661(万治4)年
 1661(寛文元)年、3月、前田入道一乳編「碁経」が出版される。版元は京都鳥丸通下立売下町、野田庄右衝門。

 1661(万治4)年4.25日、寛文に改元。

【家元4家制度が確立される】
 1662(寛文2)年、10.13日、幕府が、碁将棋衆を正式に寺社奉行の管轄下に置き、幕府から扶持を授けることになる。初代本因坊の役料は朱印地300石、20石10人扶持。これにより家元制度が整備され確立されていった。家元は次の四家である。
本因坊家 (算砂1世)
井上家 (元祖・算砂の弟子の中村道碩)
安井家 (元祖・算砂の弟子の安井算哲1世。古算哲と云われる)
林家 (元祖・林利玄。算砂のライバル)

 本因坊、井上、安井、林の家元四家がそれぞれ優秀な棋士を育て切磋琢磨し碁のレベルを飛躍的に向上させて行くことになる。

 家元制度が確立され、囲碁が正式に寺社奉行の管轄になっていく上で取りまとめ役が必要になった、その位が「碁所」(ごどころ)である。「名人」でなければ「碁所」を務めることができなかったため「名人碁所」と呼ばれる。「名人碁所」になれば碁界を牛耳ることができ、天覧碁の組織、将軍の指南、棋士昇進の検定(家元四家相談後の認定)、免状の発行、全国棋士の統一、外国人との対局の按配など囲碁に関する様々な決め事を差配することができた。

 名人碁所の地位は各家元いずれかの宗家であり、この碁界の四家元が協議の上、棋力が他を圧倒する最高技両者にして且つ人格的にも他の家元からも認められることが必要とされ、その者を寺社奉行に推薦し、老中から免許の証が下付されるのが原則とした。四家の家元制が確立し碁界が組織的に安定してくると碁所をめぐって勢力争いが起こることになる。 (歴代名人就位一覧 歴代家元四家一覧) 
(私論.私見) 徳川幕府の碁将棋衆保護政策考
 「徳川幕府の碁将棋衆保護政策」は「囲碁をして、治に居て乱を忘れざるの具」として重用し、思われている以上に意味、意義が高い。そもそもは織田信長の日蓮宗僧侶・日海(後の算砂)に対する「名人」号の授与、 豊臣秀吉による御前試合勝ち抜き者・算砂(日海)に対する官賜碁所の授与、徳川家康の算砂に碁所と将棋所任命、「碁打衆、将棋指衆御扶持方給候事」制定から始まり、引き続く徳川幕府の御城碁、家元4家制、争碁を経て日本囲碁の精華が確立した。この流れを特大級に好評する筆を持ちたいと思う。

 2016.2.5日 囲碁吉拝

 1662(寛文2)年

 1663(寛文3)年

 1664(寛文4)年

 1664(寛文4)年10.20日(12.7日)、御城碁。
11局 (坊3世)道悦-(算哲2代)渋川春海(先)
 道悦白番中押勝
(道悦2局)
(春海2局)

 この年以降、御城碁が原則的に毎年恒例の対局となる。これにつき次のように解説されている。
 「最初の御城碁をどの年の対局とするかはさまざまな議論があるところだろう。当然、非常に興味深いテーマではあるが、本論文ではそのことには深く立ち入らず、便宜上、1664年の道悦・算哲戦を、本論文における御城碁の開始として進めてゆくこととする。この年を便宜上の開始の年とした理由としては、この年以降の対局では原則的に毎年の対局となっていること、この年以前の対局は4年間のブランクがあることなどによる」(「御城碁の対戦組合せに関する研究(一)算知時代・道策時代」)。
 この年、知哲が算哲の養子となり、部屋住みで扶持を受けるようになる。

 1665(寛文5)年

 1665(寛文5)年10.17日(11.23日)、御城碁。
12局 坊3世)道悦-(算哲2代)渋川春海(先)
 春海先番1目勝(道悦白番1目負)
(道悦3局)
(春海3局)

 青木愚碩(あおきぐせき)
 加賀の出身。算悦、道悦、道策との対局があるが、内弟子ではないとの記録が見られる。

 1666(寛文6)年

 1.12日、「道策-今泷太郎兵卫(先)」、不詳。
 5月、「安井知哲-道策(先)」、不詳。
 10.20日、「(坊)道悦-算哲(先)」、ジゴ。道悦が上手(7段)、その後準名人に進む。

 1666(寛文6)年10.24日(11.20日)、御城碁。
13局 (坊3世)道悦-(算哲2代)渋川春海(先)
 ジゴ
(道悦4局)
(春海4局)

 7.28日、林門入斎1世(門入)没(享年85歳)。
 この年、星合八碩(道策五弟子の一人)が伊勢(津)に生まれる。

 1667(寛文7)年  

 1.7日、「道策-安井知哲」、道策白番10目勝。

 1667(寛文7)年10.20日(12.5日)、御城碁。
 道策(23歳)、安井知哲(1歳年長24歳)が御城碁に初出仕。この日、4代将軍・家網が御城碁に出座し、稀有なことに「本因坊道策とはどの者であるか」と尋ね、師の道悦が頭をすりつけたまま道策を指したところ、「構わぬ道策、面(おもて)を上げい。そちの碁技、当代無双なりとのうわさ、余の耳にも入っている。今後も倦むことなく、努めて技を磨けよ」の声をいただいている。

 爾後、道策は天和3年まで15局(12勝2敗)、生涯の対局数は300局余である。御城碁年譜は「(坊4世)道策御城碁譜」に記す。 知哲は元禄12年まで20局を勤める。御城碁年譜は「
(安井3世)知哲御城碁譜」に記す。  
 この年より算知、道悦が御城碁を事実上引退状態になっている。算知、道悦は共に長命し、それなりの影響力は保持しているが御城碁での対局はない。この後、道策の対戦相手として算哲と知哲が交互に登場してくる。
14局 (坊3世)道悦-(算哲2代)渋川春海(先)
 道悦白番4目勝
(道悦5局)
(春海5局)

15局 (坊跡目)道策-(安井跡目)知哲(先)
 道策白番5目勝/
(道策/初1局)
(知哲初1局)
 生涯の良きライバル道策/知哲の御城碁。

 この年以降、御城碁において複数局打たれる例が始まっている。これを算知時代第1期とする。これにつき次のように解説されている。
 「1664年~1666年の道悦・算哲戦は、以前打たれた算砂・利玄戦、道碩・算哲戦、算悦・算知戦の延長戦上に位置づけられる対局と筆者は考えている。ライバル関係にあると思われる碁打ち同士が呼ばれて対局する形であり、ほぼ対局相手は固定化されているのに近い状態である。このような対局を「同格対局」と便宜的に名付けることにする。必ずしも段位や手合が同じである必要はないが、そうした点において、1667年の御城碁で従来の道悦・算哲戦だけでなく、道策・知哲戦が打たれていることは画期的なことであるといえる。御城碁において複数局打たれたことは注目に値することで、この年以降の御城碁において、基本的には複数局打たれることになっている」(「御城碁の対戦組合せに関する研究(一)算知時代・道策時代」)。


 ※「安井算哲2代(渋川春海)-道策(先)」、道策中押勝。後に暦学者渋川春海と改名した算哲との対局。
 この年、「道策-安井算哲」。道策の白番中押勝。
 7.28日、林門入斎(一世門入)没(享年85歳)。

 1668(寛文8)年

 「道策-安井知哲」戦が組まれる。
6.8日 道策-安井知哲(先) 道策白番4目勝
6.25日 安井知哲-道策(先) 道策先番14目勝
6.25日 道策-安井知哲(先) 道策白番2目勝
「怒涛の追い込み」。
7.20日 安井知哲-道策(先) 道策先番17目勝
「打ち越し」で足早に打って中央に100目の大地を作った碁。
8.2日 道策-安井知哲(先) 道策白番2目勝
8.2日 安井知哲-道策(先) 道策先番14目勝
8.29日 道策-安井知哲(先) 知哲先番5目勝
 「安井算哲-道策(先)」戦が組まれる。
6.18日 安井算哲-道策(先) 打ち掛け(道策先番優勢)。
7.26日 安井算哲-道策(先) 道策先番中押勝。

【算知が碁所に就任する】
 1668(寛文8)年、10.18日、算悦死後10年目、かつて算悦との6番碁を行った安井家2代・算知が名人の手合に進み、寺社奉行・加賀爪甲斐守より碁所に任ぜられた(3人目)。当時、安井家の名声隆々として他門を圧し、門前は常に車馬で賑わっていた。

【「算知対道悦の争碁」事情】
 算知の碁所就任に後援者である保科正之(徳川2代将軍・秀忠の子にして徳川3代将軍・家光の異母弟)の働きがけがあったであろうと云われている。算知の評判が悪く、安藤如意「坐隠談叢」が次のように述べている。
 「算悦の死するにあたり、算知は好機逸すべからずとなし、平素その寵遇を蒙れる松平家を初め、他の権門に哀訴嘆願し、寛文8年10月18日、遂に碁所に補せらるるを得たり。これより先、本因坊家は算悦死後道悦家督を継ぎ、爾来11年間、御城碁に於いて未だ1回だも算知と対局したることなきに、突然、算知名人碁所となり、寺社奉行加賀爪甲斐守より明後日二十日の御城碁には算知に対し、道悦定先の手合いを為すべしとの命を受けしかば、大いに驚き、直ちに之が訴えを起さんと欲したりしが、時あたかも御城碁の期に迫り居たれば、その後に於いて之を為す方穏当なるべしと決心し、その場は御請けを為して帰宅したるに、算知は種々の口実を以って今回の御城碁は定先*に打ちくれとの依頼ありたれば、不本意ながら之を承諾し、当日約の如く*に打ちしなり」。

 算悦跡目の本因坊3世・道悦(32歳)が、算知の名人碁所を不服とし、跡目の道策を連れて月番奉行・加賀爪甲斐守の役宅へ出向き、将軍の意に反して争碁を申込む。申し立ての理由につき口上書は次のように記されている。
 「名人碁所は、古来その時の最強者が就くべきものである。しかるに算知と自分とは一度の対局もなく、いずれが強者か判定し難いのに、その算知が碁所になった。これは不条理であるから、互先の争碁によって決着をつけさせていただきたい」。
 (「名人棋所は古来、勝ち越しの者をもって充てることになっているのに、天下り的にこれを任ずるのは前例に反する。しかし既に許可された以上、これに違背することはできない。が、せめて自分と対局の許しを得たい」)

 この時、月番奉行・加賀爪甲斐守が次のように質している。
 「算知碁所の儀は上様上意も同然なるに番数争碁を願い出ずるは曲事である。もし強いて願い出、汝敗れなば遠島に処せらるべし」。

 道悦は次のように返答している。
 「そもそも碁院宗家に生まれながら、もしこのままにて相果てなば、地下の祖先に会わす面目もなし。たとえ勝負の上、武運拙(つたな)くして遠島に処せられてももとより寸毫の憾みなし。然るに今もし流刑を恐れてその忍ぶべからざる屈辱を忍ばば末代まで恥辱たるべし。旁々(かたがた)勝負差し許されたし」。

 「熱誠面に溢れ、涙を揮て懇願に及びしかば、甲斐守も遂に拒む能力わず」。加賀爪甲斐守は道悦の願いを老中に取り次がざるを得なかった。碁所をめぐる安井家・本因坊家の角逐がここまで凄惨さを帯びていたことが分かる。安藤如意「坐隠談叢」が続けて次のように記している。
 「甲斐守も遂に拒む能わず老中に執達し、詮議の末、一年二十番の割をもって六十番を打つべき沙汰あり。しかれども手合の儀は算知碁所たるの故をもって道悦定先と定められたり」。

 道悦との問答を経た上で、「道悦の先で年に20番、3年で60番打て」の沙汰が下され争碁が命ぜられることになった。算悦―算知戦が9年で6番だったのに対して対局数が急増していることになる。これが有名な「寛文の争い碁」であり、囲碁史上白眉の争い碁となる。

 両者の争碁は同年10.20日の御城碁を第1局とし、1671(寛文11)年の第16局までに道悦が9勝3敗4ジゴの六番勝越しで先相先に手直りし、さらにその後は道悦の3勝1敗で1675年まで計20番打ち、結果は20戦して道悦の12勝4敗4ジゴとなった。前半はやや苦戦した道悦が後半に勝率を上げたのは、弟子である道策との共同研究によるところがあったと云われる。ここで対戦が打ち切られ、名人算知が碁所を返上、引退を表明して終了した。道悦も「公儀決定に故障を唱えし廉をもって遠慮の意」(「公儀の決定に背いたのは畏れ多い」)とし、弟子道策に後を譲って隠居することになる。

【「算知対道悦の争碁」履歴】
 10.20日、御城碁で算知、道悦の争碁が開始する。「寛文の争碁」と云われる

 「安井算知2世-本因坊3世(道悦)の60番争碁」の対局は次の通り。
1668(寛文8)10.20日 第1局 「道悦(先)」 ジゴ
1669(寛文9)8.7日 第2局 「道悦(先)」 道悦先番5目勝
同8.28日 第3局 「道悦(先)」 ジゴ
同9.12日 第4局 「道悦(先)」 ジゴ
同10.4日 第5局 「道悦(先)」 道悦先番5目勝
同10.9日 第6局 「道悦(先)」 算知白番4目勝
 第6局まで道悦は2勝1敗3持碁と苦戦する。
同10.14日 第7局 「道悦(先)」 道悦先番2目勝
同10.24日 第8局 「道悦(先)」 道悦先番5目勝
1669(寛文9)閏10.8日 第9局 「道悦(先)」 ジゴ
同閏10.10日 第10局 「道悦(先)」 道悦先番3目勝
同10.20日 第11局 「道悦(先)」 算知白番9目勝
第12局 「道悦(先)」 算知白番4目勝
1670(寛文10)7.21日 第13局 道悦(先) 道悦先番中押勝
同7.22日 第14局 「道悦(先)」 道悦先番6目勝
同9.1日 第15局 「道悦 (先)」 道悦先番12目勝
同9.21日 第16局 「道悦 (先)」 道悦先番1目勝
 道悦は、第13局から連勝を続けて遂に第16局目に打ち込みに成功して9勝3敗4ジゴ、6番勝ち越しとなって手合を先相先になおした。
同10.17日 第17局 「道悦(先)」 道悦先番9目勝
1671(寛文11)年10.24日 第18局 「道悦(先)」 道悦先番6目勝
1673(寛文13)年 第19局 「算知(先)」 算知先番3目勝
1675(延宝3)年 第20局 「道悦(先)」 道悦先番13目勝

【「算知対道悦の争碁」顛末】
 20番で12勝4敗4ジゴとなったところで争碁は終結した。この時点での手合割は先相先であり、後世に「算知に一日の長あり」とも評される。対局道中、道策が師・道悦へ意見を述べることあり、第13局からの勝ち続けには弟子の道策の出現が影響しているのではないかと云われる。「坐隠談叢」が次のように評している。
 「算知、道悦の争い碁は我が碁界に於ける古今の大局にして、最も厳格に最も鄭重に執行されたるものなり。家元の定府、御城碁の下打ち等の万般の格式は、皆なこの時に於いて決定されたるものにして、我が碁士たるものの永久(とこしえ)に記憶を要するものとす。しこうして、この20番の対局につき、後世種々の評あるも、要するに算知が道悦の定先を15局まで維持せしめしより推せば、両人の技量は確かに算知一目の長にして、道悦にして准名人の格ありとせば、算知は名人たるべしと云うに帰着せり」。

 この御城碁20局の多くが一日では終わらなかった。将軍が退座して、老中も退座する時刻が来ても碁が終わらず、仕方なく後は月番奉行の役宅で続行した。この争い以降、お城碁の下打ちが始まり、お城碁の当日は将軍の前で初めから並べると云う体裁になった。下打ちは毎年、11.11日から16日までの間に行われた。この6日間は家人、門生もその席に入れず、棋士はその家から出られなかった。どんな所用ができても外出が許されなかった。碁打ちは親の死に目にも会えないとの諺がこれより出ていると云う。

 道悦と道策の互先対局棋譜が11局残っており、道策先番で5勝、白番で2勝3敗1ジゴとしている。二十番争碁があった寛文年間に道悦-道策の師弟対決が集中している。驚くべきことに、師匠の道悦のほうが黒を握った碁も何局か残されている。

 58歳の算知は碁所を返上した。このあと、算知は名人として1696(元禄8)年まで御城碁の立会いに出仕し(対局免除)、1697(元禄9)年に引退し、先代算哲の次男・安井知哲に家督を継がせる。1703(元禄16)年、京都で87歳で死去する。道悦も2年後に隠居し、道策に家督を継がせた。爾後十年間、御城碁に出仕(対局免除)した上、1686(貞享3)年、退隠し、その後は京都で気ままな余生を楽しみ92歳で大往生する。

 1668(寛文8)年10.20日、御城碁。
16局 (安井2世)算知-(坊3世)道悦(先)
 ジゴ/(二十番碁第1局)
(算知7局)
(道悦6局)
17局 (算哲2代)渋川春海-(坊跡目)道策(先)
 道策の先番10目勝
(春海6局)
(道策2局)

 「(算哲2代)渋川春海-(坊跡目)道策」戦が組まれている。
10.25日 (算哲2代)渋川春海坊)道策(先) 道策先番勝
11.22日 (坊跡目)道策(算哲2代)渋川春海(先) ジゴ
 「坊)道策-安井知哲(先)」戦が組まれている。
12.8(18?)日 (坊跡目)道策-(安井跡目)知哲(先)
 道策白番11目勝
(部分的な競り合いに強い知哲を大局観で制した道策の碁)
 (坊跡目)道策-(安井跡目)知哲
 道策白番4目勝
 対局日不詳「坊)道策-(坊)道悦(先)」、道悦先番3目勝。師道悦との師弟戦で華やかな攻防が繰り広げられ「玄妙道策」と評されている。

 1669(寛文9)年

 1.10日、「板垣善兵卫-道策(先)」、不詳。
 1.14日、「道策-山崎道砂(黒)」、不詳。
 1.20日、「道策-安井知哲(先)」、道策白番11目勝。
 「(坊)道悦-道策」戦が組まれている。
2.11日 (坊)道悦-道策(先) 先番1目勝
6.19日 道策-(坊)道悦(先) 道悦白番3目勝
「道策の師道悦との絶品の師弟戦」。
 「道策-安井知哲(先)」戦が組まれている。
7.7日 道策-安井知哲(先) 道策白番10目勝
薄い大模様を変幻自在に勝局に結びつけた碁。
7.29日 道策-安井知哲(先) 白番4目勝
 「安井算知-(坊)道悦(先)」20番碁戦が組まれている。
8.7日 第2局 算知-(坊)道悦(先) 道悦先番5目勝
8.28日 第3局 算知-(坊)道悦(先) 道悦先番勝
9.12日 第4局 算知-(坊)道悦(先) 道悦先番勝
10.4日 第5局 算知-(坊)道悦(先) 道悦先番5目勝
10.9日 第6局 算知-(坊)道悦(先) 算知白番4目勝
10.14日 第7局 算知-坊)道悦(先) 道悦先番3目勝
10.24日 第8局 算知-坊)道悦(先) 道悦先番5目勝
閏10.8日 第9局 算知-(坊)道悦(先) 道悦先番勝
閏10.10日 第10局 算知-坊)道悦(先) 道悦先番3目勝
閏10.20日 第11局 算知-(坊)道悦(先) 算知白番9目勝
 8.21日、「安井算哲-道策(先)」、不詳(道策優勢)。
8.27日 「道策-知哲」 道策白番4目勝
8.27日 道策-安井知哲(先) 不詳(道策の白番優勢)
10.14日 坊)道策-安井知哲(先) 道策白番4目勝
右上へのコウダテから参考になる変化ができた碁。
 9.22日、「道策-杉村三郎左衛門(先)」、道策の白番6目勝ち。2世本因坊算悦との碁があるほどの大先輩三郎左衛門との対局。

 1669(寛文9)年閏10.20日、御城碁。
 林門入御城碁初出仕。
18局 (安井2世)算知-(坊3世)道悦(先)
 算知白番勝(道悦先番9目負)
 (20番碁第11局)
(算知8局)
(道悦7局)
19局 (算哲2代)渋川春海-(坊跡目)道策(先)
 道策先番13目勝
(春海7局)
(道策3局)
20局 (安井跡目)知哲-(林門入2世)門入(先)
 門入先番4目勝
(知哲2局)
(門入1局)

 11.7日、「道策-安井知哲(先)」、道策白番4目勝。
 11.13日、「安井算哲-道策(先)」、不詳(道策先番優勢)。
 この年、小川道的(後に道策の跡目となり本因坊姓を名乗る)が伊勢(松阪)に生まれる。

 1670(寛文10)年、。

 3.17日、「道策-菊川友碩(2子)」、不詳。
 菊川友碩5段は道策とのこの一局により囲碁史に名を残した。酒井猛九段が、本局について「本局は2子局であるが、すべての着手が感動的であり、道策の作品としては名局中の名局に入ると思う」と評している。
 3.22日、「道策-玄可(2子)」、不詳。
 「安井算知-(坊)道悦20番碁」が組まれている。
7.21日 第13局 算知-(坊)道悦(先) 道悦先番中押勝
7.22日 第14局 算知-(坊)道悦(先) 道悦先番6目勝
9.1日 第15局 算知-(坊)道悦(先) 道悦先番12目勝
9.21日 第16局 算知-(坊)道悦(先) 道悦先番1目勝
道悦が16局目に6番勝ち越しとなり、名人算知に対し先々先
の手合割りに直る。
 「安井算知-(坊)道悦(先)」20番碁戦が組まれている。
8.9日 道策-安井知哲(先) 知哲先番中押勝
知哲の傑作譜」。
8.27日 道策-安井知哲(先) 不詳(道策の白番優勢)
9.18日 道策-安井知哲(先) 道策白番5目勝
「臥龍昇天の局」。
9.21日 道策-安井知哲(先) 不詳(道策の白番優勢)。
 9.20日、「坊)道策―安井知哲(先)」、道策の13目勝ち(於/内藤左京殿)

 本局を幻庵が「囲碁妙伝」に採り上げ次のように解説している。
 勝ち負けのみにて強弱を論ずるは愚のはなはだしきなり。諸君子、運の芸と知りたまえ。
 これ道策、知哲の打ち碁なり。図白2の手無理なれども、負けと見て打ちしなるべし。黒3の手打たず、ただ5の所へ打たば必勝なり。(中略)目形は自由にありて、なかなか死ぬるなどということは夢にもなし。かえすがえすも運なり、運なり。

 1670(寛文10)年10.17日(11.29日)、御城碁。
21局 (安井跡目知哲-(林門入2世)門入(先)
 門入先番2目勝 (棋譜不明)
(知哲3局)
(門入2局)

22局 (坊跡目)道策-(算哲2代)渋川春海(先相先の先)
 道策白番9目勝/道策7段、春海8段
(道策4局)
(春海8局)
 囲碁史に残る「第一着天元の局」。

 御城碁で「本因坊道策-算哲(2代目安井算哲、後に保井、更に渋川春海)」が対戦した。両者3局目の対戦。この時、道策は三世の跡目本因坊にして7段、26歳。安井算哲は2世にして8段、32歳(寛永16年生まれ)。算哲は第1世安井算哲8段の長男。その弟が3世安井を継いだ知哲。後世、1世算哲を古算哲と呼んでいる。
算哲が第一着を天元に打った(大極星の発想から生まれた初手天元)囲碁史に残る「第一着天元の局」として知られている。
(光の碁採録名局「
道策-安井算哲(先)」)。
(詳細は「二世安井(保井)算哲の天元の局」に記す)

 10.22日、「安井算知―(坊)道悦」、道悦先番1目勝(於/松平市正宅)。
 対局日不明「坊)道策-南里与兵衛(先)」、南里中押勝。大先輩の南里与兵衛が初手天元で道策を破った碁。
 この年、片岡因的(後に因竹、4世林門入、隠居して朴入)生まれる。

 1671(寛文11)年

 8.25日、「坊)道策-安井知哲(先)」、不詳(道策白番優勢)。 

 1671(寛文11)年10.20日、御城碁。
23局 (安井2世)算知-(坊3世)道悦(先)
 道悦先番9目勝
 (20番碁第17局)道悦6番勝越し算知先々にされる
(算知9局)
(道悦8局)
24局 (坊跡目)道策-(算哲2代)渋川春海(先)
 ジゴ(棋譜不明)
(道策5局)
(春海9局)

 1672(寛文12)年

 5.16日、「坊)道策-南里与兵衛(先)」、道策の白番中押勝。南里与兵衛は初手を天元に打ち天元2局目になった。勝負は道策が貫禄を示し中押し勝ち。南里は明暦頃、山崎源左衛門と称し、万治には山崎無三坊と称すと某書に記述されているとのこと。杉村三郎左衛門とは別人と思われる。
 6.1日、「南里与兵卫-坊)道策(先)」、 道策先番177手中押勝。
 9.8日、 「坊)道策-安井知哲(先)」、道策白番8目勝。玄妙不可思議の局(玄妙道策)。

 1672(寛文12)年10.24日、御城碁。
25局 安井算知-(坊3世)道悦(先)
 道悦先番6目勝
 (20番棋第18局)
(算知10局)
(道悦9局)
26局 (坊跡目)道策-(算哲2代)渋川春海(先)
 道策白番10目勝(棋譜不明)
(道策6局)
(春海10局)

 12月、「青木愚硕-坊)道策(先)」、不詳(道策の先番優勢)。
 この年、三崎策雲(後に井上因節、四世因碩、系図書き挽え後は5世)が越前に生まれる。

 1673(寛文13)年

 9.3日、「坊)道策-安井知哲(2子)」、不詳。
 1.4日、井上因碩1世(系図書き換え後は2世)が没(享年69歳)。

 1673(寛文13)年、9.21日、延宝に改元。

 1673(延宝元)年12.2日、御城碁。
27局 (坊3世)道悦-(安井2世)算知(先)
 算知先番3目勝(道悦白番3目負)
 (20番棋第19局) 
(道悦10局)
(算知11局)
28局 (算哲2代)渋川春海-(坊跡目)道策(先)
 道策先番12目勝
(春海10局)
(道策7局)

 同日、対局の見物は井伊掃部頭、松平美作守と記録されている。勝負がつかなかった場合は、退出して月番奉行の役宅で打ち継ぎ、本局は老中久世大和守殿宅となった。その後、打ち継ぎの煩を避ける為に前もって下打ちすることに定められた。

 12.18日、山崎道砂が井上因碩の跡式を許され井上道砂となる。
 「(坊)道悦-坊)道策(先)」、道策先番中押勝。
 寛文年間「道策-安井知哲(先)」、不詳。
 「
坊)道策-安井知哲(先)」、不詳。
 「
坊)道策-安井知哲(先)」、不詳。
 「
安井知哲-坊)道策(先)」、不詳。
 「
坊)道策-安井知哲(先)」、不詳。
 この年、安井仙角が生まれる。会津の出身。算知、知哲を師とし、元禄5年5段で初めて御城碁に登場し、元禄13年、安井家の当主になる。寛文年間に道策との碁として次の対局がある。(略)
 この年、「碁立」(碁立初心抄)が出版される(京都、菊屋七郎兵衛)。

 1674(延宝2)年

 3.18日、井上道砂が二世因碩と改名し井上家3世として継ぐ。御目見得を許さる。
 3月晦日(みそか)、道砂が因碩と改名。
 「坊)道策-安井知哲」戦が組まれている。
7.21日 坊)道策-安井知哲(2子) 不詳
8.22日 坊)道策-安井知哲(2子) ジゴ
8.25日 坊)道策-安井知哲(2子) 不詳
8.30日 坊)道策-安井知哲(先) 不詳
9.3日 坊)道策-安井知哲(先) 不詳
9.18日 坊)道策-安井知哲(2子) 不詳
9.23日 坊)道策-安井知哲(先) 不詳
9.24日) 「坊)道策-安井知哲(2子) 知哲先番2目勝
10.2日 「坊)道策-安井知哲(先) 知哲先番6目勝
10.22日 坊)道策-安井知哲(先) 道策白番勝
11.9日 坊)道策-安井知哲(2子) 不詳
11.10日 坊)道策-安井知哲(先) 不詳
11.11日 坊)道策-安井知哲(2子) 不詳
12.7日 「坊)道策-安井知哲(先) 知哲先番2目勝
12.8日 「坊)道策-安井知哲(2子 道策白番勝
日時不詳 「坊)道策-安井知哲(先) 不詳
日時不詳 「坊)道策-安井知哲(2子) 不詳
日時不詳 坊)道策-安井知哲(先) 道策白番5目勝
算知と道悦の争碁のさなかに打たれた一番弟子同士の対局。
日時不詳 坊)道策-安井知哲(先) 知哲先番6目勝
道策らしからぬ中盤、終盤のミスで、序盤の優位を失った碁。
日時不詳 坊)道策-安井知哲(2子) 道策白番中押勝
実戦図がそのまま詰碁になった死活が出来た碁。

 1674(延宝2)年11.24日(12.21日)、御城碁。
 (因碩3世)道砂と(安井)春知が初出場している。春知(承応2年(1653年) - 元禄2年3月27日(1689年5月16日))は紀州生まれ、家元安井家の二世安井算知の弟、実子とも ..。爾後、貞享3年まで7局を勤める。
29局 (坊跡目)道策-(算哲2代)渋川春海(先)
 道策白番6目勝
(道策8局)
(春海11局)
「返し技の冴え/玄妙道策」。

30局 (安井跡目)春知-(因碩3世)道砂(先)
 因碩(道砂)先番1目勝
(春知1局)
(道砂1局)

安井仙角-坊)道知(先) 道知先番1目勝
 安井仙角と道知の十番碁始まる。手合いは先相先。その第1局が御城碁「安井仙角-道知(先)」。道知の1目勝ち。仙角は続く2局目も連敗して争い碁に終止符を打った。
 12.2日、「安井算哲-道策(先)」、道策先番12目勝。
 12.9日、「坊)道策-河井长太夫(2子)」、不詳(道策の2子局白番優勢)。
 日時不詳「坊)道策-福尾玄故(3子)」、福尾の3子局勝ち。石を攻めながら中央を囲った黒が勝った。

 1675(延宝3)年

 8.6日、(光の碁名局「坊)道策-安井春知(先)」、道策白番中押勝。「絶妙の手造り/玄妙道策)」と評されている。

 1675(延宝3)年10.20日(12.6日)、御城碁。
31局 (安井2世)算知-(坊3世)道悦(先)
 道悦先番13目勝(算知白番13目負)
(算知〆12局)
(道悦〆11局)
 (20番棋第20局)

32局 (坊跡目)道策-(算哲2代)渋川春海(先)
 道策白番16目勝
(道策9局)
(春海12局)
 道策の快勝譜。

 安井算知と本因坊道悦の争碁が終了する(60番の予定なるも20番で打止め)。道悦が20戦12勝4敗4ジゴとなったところで対戦は打ち切られた。

 1676(延宝4)年

 安井算知が碁所を返上、引退した。爾後は隠居名人として元禄9年まで20年間出仕する(対局は免除)。「坐隠談叢」は次のように記している。
 「ここにおいて算知やむを得ず退隠し道悦次いで碁所となるべきはずなるも、これを公にしてはひとたび公儀決定の碁所に故障を唱えしかどをもって遠慮の意なると、またこれを私にしてはその真意全然碁所の神聖を保維せんと欲するにあって今やすでにその目的を達したるをもって潔く隠居してまた栄辱を顧みず、。道策余慶を以て遂に天下に立つ」。
 「算知、道悦の争碁は我が碁界に於ける古今の大局にして、最も厳格に最も鄭重に執行されたるものなり。家元の定府、御城碁の下打ち等の万般の格式は皆なこの時に於いて決定されたるものにして、我が碁士たるもののとこしえに記憶を要するものとす。しかしてこの二十番の対局につき、後世種々の評あるも、察するに算知が道悦の定先を十五局まで維持せしより推せば、両人の技両は確かに算知一目(一日ではない)の長にして、道悦にして准名人の格ありとせば算知は名人たるべしというに帰着せり」。

 1676(延宝4)年10.24日、御城碁。
33局 (坊跡目)道策-(算哲2代)渋川春海(先)
 道策白番10目勝
(道策10局)
(春海13局)
34局 (安井3世)知哲-(因碩3世)道砂(先)
 知哲白番2目勝
(知哲4局)
(道砂2局)

 11.22日、「(坊跡目)道策-永田寿德(2子)」、不詳。
 この年、佐山策元(後に道策の再跡目となり本因坊姓を名のる)が生まれる。
 この年、道策が名人として寺社奉行へ届け出た手合い組直しの文書に算哲を次のように記している。
 「算哲儀は家と申し、年老と申し、かたがた以て上手並びに仕(つかまつ)り候規模たるべき者と存じ候」。

 算哲に7段の棋力を認め敬重している。これによっても算哲の棋士としての貫禄と技両が非凡だったことが分かる。

【(坊)道悦の囲碁問答「因云碁話」】
 坊)道悦の囲碁問答「因云碁話」(爛柯堂棊話の改題)。
 「或る人、本因坊道悦と閑話の序(ついで)に、碁の上手名人と云ふには如何やうにしてなるものに侍るやと問ひけるに、道悦答へるに、上手名人といふ地位にいたる者は、その人の生得の器用に侍る。大抵十人並の器用の者能く教へ、その身もこの藝にはまりて能く勤め、――数年を経れば上手にふたつまでの碁には修行にてなるものに侍る。何ほど教え、その身もつとめても、上手名人といふには、その器量の生得ならではなるものにてはなし。さるによりてこの藝をたしむもの多くども、上手名人といふは昔より僅かなりといへり」。

 牧野成貞(まきのしげさだ)
 牧野備後守成貞は、徳川綱吉時代の幕府御用人でありながら、本因坊の正式な門下生となるほどの碁好きであった。その実力は、本因坊道悦・道策のいずれに対しても二子で五段を許された。牧野は、あるとき道悦に「お稽古の二子ではなく、自分の本当を教えて欲しい」と尋ねたが、道悦は二子の手合を曲げなかった。牧野は一計を案じ、本因坊家と敵対関係にある安井算知に同じく二子で指導を受けることにした。算知なら本気で負かしに来るだろうと思ったところ、その碁にも2目勝ちし、自信を深めたという。反目していても碁打同士の結束は固く、算知も本因坊の顔をつぶさなかったのだろうという説もあるが、牧野はその後、道悦と先で打った碁もあり実力は決して低いものではなかった。

【(坊)道悦、道策の国事奔走録】
 五代綱吉の時代、大名と雖も江戸、大阪町人たちから何万、何十万もの借金をしないものは稀だった。ここに一つ碁に関して面白い話が残されている。道策と細川家とは主従の関係があったが、綱吉の御代、細川越中守家督の時、「細川家重代の宝物」たる打物と虎の皮鞍覆を紛失したことがあった。これが細川家の存亡に懸かることになり、老臣たちが協議の上、このことを、長岡帯刀をもって本因坊道悦、道策に謀ったところ、幸い両人がお側用人役/牧野備後守の殊遇を受けていることから、両人から牧野備後守に弥縫策を内願し、これにより細川家安泰を得たという逸話が遺されている。

 この時、道策の従弟吉永升庵が伊井候に仕えていたので、道策は伊井にも懇願する等、この間、道悦、道策は全力を尽して細川家救済に骨折りしている。この時の費用について、細川越中守が、かって3200両の用金を道策に依頼し、道策は承諾している。その間、井上家を通じてのいきさつもあるが省略する。この時の細川越中守から道策への書簡が道策の生家の山崎家に遺されている。細川家当主が道策に対してまるで友人の間柄のような感謝の口上を認め末尾に「恐惶謹言」と書いている。この経緯により、細川家は道策に終身五百石、これに繋がる山崎家や井上家にも何百石を与えている。




(私論.私見)