秀次の死から9カ月後、秀頼の初参内などのセレモニーによってようやく事件は終息したが、豊臣家と政権は大きなダメージに苦しむことになる。なかでも重大なのは、豊臣家と政権の次代を担うはずだった唯一の成人男子・秀次とその子どもたちを一挙に失ってしまったことだった。豊臣家には老いた秀吉と幼い秀頼だけが残された。このことが、もう一人の実力者/徳川家康に政権奪取のチャンスを与えることになる。秀頼の傅役・前田利家の死と関ヶ原合戦を経て、豊臣家は大坂夏の陣で滅亡する。秀次の死からわずか20年の出来事で、秀次切腹事件がなければ豊臣政権の方向性は大きく異なっていた、日本の歴史も違った道を歩んだ可能性もある。「豊臣秀次切腹事件」とは、それほどまでに重大な事件だった。