日本囲碁史考4、豊臣秀吉時代

  更新日/2019(平成31、5.1栄和改元).5.18日 

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 2005.4.28日 囲碁吉拝 


【秀吉履歴/山崎の戦い】
 1582.6.2日、京都の本能寺で、信長が明智光秀に襲撃され死亡した。秀吉は、黒田官兵衛の励ましを受けて立ち直り信長の仇討ちをすることを決意した。毛利氏とは信長の死を隠したまま交渉し、数カ国を織田方に割譲することと、清水宗治が切腹することで決着をつけ、4日の正午過ぎ、水上での切腹を見届けると、6日には敵軍の撤退を確認して、秀吉は抑えの兵を残して急ぎ姫路城へと撤退した。この時、柴田勝家は、敵側の上杉の城を落とした直後で動けず、関東方面軍の指揮をしていた滝川一益は、信長の死を知った北条軍の急襲に応戦して敗北するなど、本能寺の変の直後には動くに動けない状態だった。
 軍をまとめた秀吉は、京都を占拠している明智光秀を討つため軍を進発させ、「中国大返し」で京都に向かった。道中、各地の信長家臣の大名たちと連絡をつけ、味方を増やしていった。明智光秀は「娘の玉(ガラシャ)を嫁がせて縁戚関係にある細川忠興とその父藤孝や、池田恒興や丹羽長秀、寄騎であった中川清秀、高山右近、筒井順慶なども味方せず孤立した。信長の仇討ちという正義を得た秀吉は、池田恒興や丹羽長秀といった武将たちの支持を得て、大軍の編成に成功した。こうして6.13日、京都付近の山崎で行われた戦いでは4万対1万6千という情勢になり、その戦力差を活かして秀吉は明智光秀に圧勝し、当代随一の実力者として名のり出ることになった。光秀は落ち武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。

【秀吉履歴/清洲会議】
 1582.6.27日、織田信長の後継者問題、遺領の分割、領地再配分を決める清洲会議(きよすかいぎ)が開かれた。会議の結果、信長の跡継ぎの地位には秀吉が推す孫の三法師がつくことになった。三法師は信長の嫡男にして本能寺の変の際に光秀に討ち取られた信忠の遺児で、この時はまだ幼い子どもだった。織田家重臣の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推した。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師の後見人を信孝とするという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。

 信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張国、織田信孝が美濃国、織田信包が北伊勢と伊賀国、光秀の寄騎であった細川藤孝は丹後国、筒井順慶は大和国、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江国の滋賀郡・高島郡15万石の加増、池田恒興は摂津国尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政は近江国佐和山を与えられた。勝家も秀吉の領地であった長浜12万石が与えられた。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国(公式には秀吉の養子で信長の四男の羽柴秀勝に与えられた)や山城国・河内国を増領し、28万石の加増となった。これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになった。

 秀吉は織田家内部の勢力争いに勝ち、幼子の後見役として権力を手中にした。一方、織田家の重鎮であった柴田勝家は秀吉の権勢に反発し、両者は対立関係になった。秀吉と敵対したのは、柴田勝家の他、信長の三男・織田信孝や滝川一益といった面々だった。柴田勝家は北陸に領地を持っており、冬の間は雪に阻まれて進軍が難しい状況にあった。秀吉はこの敵の弱点を利用し、冬の間に美濃の織田信孝と、伊勢の滝川一益を攻撃した。織田信孝の城はすぐに攻め落とせたものの、戦上手である滝川一益の軍には苦戦し、戦況が膠着した。これを受け、柴田勝家はまだ冬であったにも関わらず進軍を開始し、3万の大軍を率いて近江北部に着陣した。これを受けて秀吉も、軍勢を美濃や伊勢から近江に向かわせ、両者は主力決戦を行うことになった。 

【秀吉履歴/信長の葬式】
 この年の10月11日、秀吉は、京都の大徳寺において、17日間にわたる大がかりな信長の葬式を行っている。さらに、大徳寺の中に総見院という寺を建て信長と信忠の墓を設けた。柴田勝家はこの葬式には現れていない。

【井上家の元祖(世系書き換え後は1世)中村道石(道碩)誕生】
 この年、後の井上家の元祖(世系書き換え後は1世)中村道石(道碩)が京都で生まれている。

【秀吉履歴/信孝打倒の兵を挙げる】
 秀吉は山崎に宝寺城を築城し、山崎と丹波国で検地を実施し、さらに私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったため、柴田勝家との対立が激しくなった。

 1582(天正10).10月、勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。 10.15日、秀吉は養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行う。同年10.20日付堀秀政宛の秀吉書状の宛名には、羽柴の名字が使用されており、すでに秀吉による織田家臣の掌握が始まっていることが分かる。 10月28日、秀吉と丹羽長秀、池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議の決定事項を反故にし、信雄を織田家当主として擁立し主従関係を結ぶ。ただし、これは三法師が成人するまでの暫定的なものであった。

 12月、越前国の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師を安土に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。12.9日、秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて宝寺城から出陣し、12.11日、堀秀政の佐和山城に入り、柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため秀吉の調略に応じて降伏し、秀吉は長浜城を獲得した。

 12.16日、美濃国に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。


【秀吉履歴/反秀吉派掃討戦】
 天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破った。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。また、秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷細川忠興山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、優勢であった。

 2.28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3.9日、自ら3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江国に戻り、3.11日、柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4.13日、秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑した。はじめは勝家方が優勢であった。


【秀吉履歴/賤ヶ岳の戦い】
 1583(天正11)年、賤ヶ岳の戦い。柴田勝家の重臣・佐久間盛政が、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃国に赴いた隙を突いて、秀吉が着陣する前に先制攻撃をしかけるべきだと主張し、独断でこれを実行し、秀吉旗下の大岩山砦の中川清秀を討ち取るなどして戦況を有利にした。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4.21日、中国大返しと同様に急遽美濃から駆けつけた(美濃大返し)秀吉軍の攻撃を受け撤退した。これに追撃を加えた秀吉と迎え撃った柴田勝家の間で戦いが始まった。始めは互角に戦況が展開していたが、柴田勝家の後備に控えていた前田利家が突然撤退を始め、その結果、戦況が不利なのかと他の柴田方の諸将たちが誤認し、動揺した柴田軍は総崩れとなり、秀吉が勝利をおさめ。これを「賤ヶ岳の戦い」と云う。4.24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。5.2日(異説あり)、織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。

 賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別なく被せて回り、「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」とも評価される(賤ヶ岳合戦記)。また賤ヶ岳の戦い後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。

 秀吉はさらに加賀国、能登国、越中国も平定し、戦後に前田利家を配下に加え、元々の領地である能登国に加えて加賀と能登の国を与えている。佐々成政には越中国の支配をこれまで通り安堵した。こうして強敵を打倒した秀吉が織田家筆頭の立場を獲得し、表面上は三法師を奉りつつ実質的に織田家中を差配することになり、織田信長の継承者となることを決定づけた。
 6月、北条氏と徳川氏との婚姻成立に危機感を抱いた関東の領主たちから書状が送られ、関東の無事を求められる。10月末、徳川家康に関東の無事が遅れていることについて書状で糺した。

【秀吉履歴/大阪城築城始まる】
 1583(天正11).9.1日、大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大阪城築城始まる。その直前に秀吉が大阪城普請総奉行の黒田官兵衛(後の如水)に宛てた石運びの掟書きというのが残っている。その掟書きは、秀吉の城普請の経験(横山城,長浜城,姫路城,山崎城等)を反省材料としてチェックした五箇条に渡っている。特に石運びに限定して5項目で黒田官兵衛に覚え書きを渡している。その3条目に、「それまで石垣を運ぶ人たちが、石垣を積みに行く人と、積み終わって戻ってくる人とが、一本の道でぶつかっては不都合である、これからは片に下りて通るべし」。つまり片側に降りて通ればぶつからないといった規定を出している。大坂城を訪れた豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。

【秀吉履歴/織田信雄の反発】
 1584(天正12)年、信長の次男の織田信雄が秀吉に反発した。やがて秀吉に利用されているだけだと気づき、秀吉から年賀の挨拶に来るようにと呼びつけられたことに反発し対立するようになった。3.6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時、岡田重孝、津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき、信長の盟友で、天正壬午の乱を経て東国における一大勢力となった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。

 これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに去就を注目されていた美濃国の池田恒興(勝入斎)をも、尾張国と三河国を恩賞にして味方につけた。3.13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢国においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。

【秀吉履歴/小牧―長久手の戦い】
 秀吉は10万という大軍を織田信雄の領地である尾張・小牧方面に向かわせた。羽柴軍と織田(信雄)・徳川連合軍の戦いとなった。家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出て、羽黒に布陣していた森長可を破った(羽黒の戦い)。さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3.21日、大坂から出陣し、3.27日、犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した(小牧の戦い)。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。 そのような中、森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である羽柴信吉(豊臣秀次)を総大将に擁して4.6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし作戦は失敗し、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死した(長久手の戦い)。

 こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀野井城など、信雄の本領である美濃、北伊勢の諸城を次々と攻略して行った。この戦いを小牧・長久手の戦いと云う。秀吉軍は長久手の局地戦で徳川家康に敗れるなどして苦戦し戦況が膠着した。秀吉はこれを受け、織田信雄の領地に攻撃を加えて各地を奪い取り、その経済力を弱めるなどして締め付けを図った。また、徳川家康の領地はこの時期に災害に見舞われ、こちらも戦費の調達が難しくなっていった。

 11.11日、危機感を覚えた信雄が秀吉と講和した。こうして秀吉は、軍事的にも身分的にも織田信雄を超えることで、織田政権の一角から、豊臣政権の長へと君臨することになった。大規模な合戦は行われないままに織田信雄・徳川家康の連合軍は秀吉と和睦した。徳川家康は戦後に次男の於義丸を秀吉に人質として差し出しており、秀吉の優勢勝ちに終わっている。

【秀吉履歴/上官位賜り公卿になる】
 10.15日、この戦いの最中、秀吉は初めて従五位下左近衛権少将に叙位任官された。秀吉は官職でも、順次主家の織田家を凌駕することになり、信雄との和議後は自らは「羽柴」の苗字を使用しなくなった。なお、その後も家臣となった有力大名に対する「羽柴」の苗字下賜は続いており、例えば前田利家は1586(天正14).3月.20日に左近衛権少将に任じられた時に秀吉から「羽柴」の苗字と「筑前守」の受領名を与えられており、秀吉のかつての名乗りであった「羽柴筑前守」が利家によって名乗られることになる。
 1584(天正12).11.21日、秀吉が従三位権大納言に叙任され、これにより公卿となった。この際、将軍任官を勧められたがこれを断っている。
 1585(天正13).3.10日、秀吉は正二位内大臣に叙任された。

【秀吉履歴/雑賀党撃破】
 同年3.21日、紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破っている(千石堀城の戦い)。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで紀伊国を平定した(紀州征伐)。

【秀吉履歴/雑賀党撃破】
 同年6月、四国を統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将、黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んでその平定に臨んだ。毛利輝元や小早川隆景ら有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には元親の抵抗も歯が立たず、7.25日、降伏。元親は土佐一国のみを安堵されて許された(四国攻め・四国平定)。

 秀吉は、敵対勢力であった紀州の豪族連合を攻めてこれを滅ぼし、長宗我部元親が支配する四国も制した。そして畿内の付近から敵をすべて駆逐し、天下人にふさわしい実力を備えた。

【桃山時代前半】

【広田】
 1583(天正11)年、家忠日記。家忠日記は、徳川三河衆で、関が原で戦死した松平家忠の日記。碁うちひろ田は不詳。
  「十二月九日、丁巳、持寄の連歌三光院に而候、竹のや金左、碁うちひろ田こし候」。
 「八月九日、辛未、竹のや金左衛門尉、碁うちひろたこし候」。

【羽柴秀吉の愛棋家ぶり】
 1583(天正11)年、6.2日、秀吉は京都徳大寺で信長の1周忌の法会を営む。秀吉は碁を有用有益な遊戯として、また兵家の作戦に役立つ道具として愛好した。当時の高手を集めて碁会を開催している。

 その年から大坂に城を築き、11月にはそこへ移り、その間の8月、織田信長から名人という称号を許されていた日海(後の本因坊算砂)を呼び寄せ、今昔を語り合い信長の非業の死を慨嘆した。その翌日、算砂は、碁の技を秀吉に披露したと伝えられている。以降、しばしば碁を楽しんだ、5子の手合いだったと伝えられている。


 秀吉が、「わしだって碁は打てる。先をもてば恐らく本因坊に負けないだろう」と言ったので、対局したところ、秀吉は第一着手を天元に打ち、その後は真似碁(本因坊が打つ手の対象点に打つ)を続けたので、本因坊も打つ手がなくなり、投了したとの言い伝えがある(俗説とも)。この逸話により、マネ碁のことを太閤碁とも云う。

 秀吉は伊達政宗家臣鬼庭綱元との賭け碁や、龍造寺政家をとても巧妙に負かしたので政家は敗因を考え込んでしまい帰る秀吉の見送りをし忘れたなど、真偽はとにかくエピソードがいくつか残っているほど、碁はかなり強かったらしい。

 寂光寺の発行している小冊子「碁道の精神」は次のように記している。
 概要「天正11年、秀吉公参議となり、8月頃、本因坊を召して二十石を賜り、碁道指南とせり」。

 「坐隠談叢」は次のように記している。
 「本能寺の変、ひとたび中国に達するや、秀吉結束して起ち、まず毛利と和し、東上して山崎に戦い、一撃光秀を倒して織田氏の祀を存して復京を出でず。天正11年8月、初めて日海を引見す。当時、日海は、信長の薨去(こうきょ)以来、幽閉蟄居して門を出でず、念仏三昧の身なりしも、秀吉の招きに応じて出仕し、秀吉と共に、今昔を語りて変遷を嘆じ、同夜はその邸に当直し、翌日初めて碁を勤めたり。これ日海の再び碁技を以って、遂に天下に立つに至りし動機なり。而して秀吉の慧敏なるその微賎より起りて、何ら素養なきも、翻海覆山の才気、何事と雖も出入りせざるはなく、殊に碁、将棋の如きは一局の裡治乱興廃の跡を寓し、*略玄機のよって岐るるところ、大いに武人の賞玩に適すとなして、日海に師待し、遂に信長と同様、日海に対し五子の技に達し、その愛好益々深く、天正13年、関白となるに及んで、悉く天下の碁士を招集して勝負を決せしめたるに、日海大いに勝ち越したり。これを中昔に於ける午前試合の嚆矢とす」。
 「秀吉の囲碁を奨励するは、又彼の尋常ぐわんこの流に非ず。直ちに之を以って、攻城野戦の要諦となし、自然、自分の之を嗜好したるのみならず、靡下(きか)の諸将を奨励して一般に之を学ばしめたるものなれば、本朝囲碁の著しき生面を開きたるも、亦当然の理勢なりしが如し。即ち、彼は之を以って、高尚なる遊戯として之を嗜好したるも、猶進んで兵家実用の具となし、以って研鑽を怠らざりしが、従って当時の人心に浸潤したる囲碁の概念も亦、容易に察知し得べきなり」。
 「豊臣氏碁所の制を創めて以来、本朝の碁界は俄然生面を開きたるものの如く、之を嗜好する者、益々多きを致し、いわゆる天下蒼然として将に之に向かわんとす」。

 「秀吉は大阪城を訪ねた大名たちと碁を打ったり、算砂ら碁打ちを呼び対局を観戦した。展覧試合を始め勝者の算砂に録を与えたり、他の大名にも碁を奨めたりと囲碁会に多大なる貢献を行っている」。

【林門三郎(一世門入、門入斎)誕生】
 1583(天正11)年、林門三郎(一世門入、門入斎)が伊賀で生まれている。

【宣教師ルイス・フロイス報告書に見る秀吉評】
 1584年、本能寺の変の2年後、宣教師ルイス・フロイスが本国に送った報告書には次のように書かれている。
 「信長の家臣中甚だ勇猛で、戦争に熟練な人・羽柴筑前殿」、「彼は畏怖せられ、また、一度決心したことは必ずこれを成し遂ぐるのが例である」。

 1586年、秀吉が、信長遺臣の1人、柴田勝家を滅ぼした頃の報告書には次のように語られている。
 「富みにおいては、日本の金銀及び貴重なる物は皆掌中にあり、彼は非常に畏敬せられ、諸侯の服従を受けている」(「豊臣秀吉のすべて」より)

【秀吉履歴/関白就任】
 1585(天正13)年、本能寺で信長を憤死させた明智光秀を討ち天下人となった豊臣秀吉が、四国討伐の最中、朝廷を二分して紛糾していた二条昭実近衛信輔との間で関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、これを利用して7.11日、自身が関白の地位につくことに成功した。
 権大納言藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまわ)るに、万機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣をして関白にせしむべし者(といえり)。天正13年7月11日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉(うけたまわ)る
 関白辞令の詔書

 詔(みことのり)して、庸(ひととなり)を質(もち)いて金鏡に当て、政績(せいせき)通三(つうさん)に妥(やすん)ず。愚昧(ぐまい)を以て瑤図(ようず)を受け、徳耀(とくよう)明一を増す。夢良弼(りょうひつ)を見(あらわ)れざれば、誰か能く諫言を納れむ。内大臣藤原朝臣、名は朝(みかど)を翼翔(よくしょう)し、威霆(いてい)世に驚かす、禁闕の藩屛を固くし、忠信私無し、藤門の棟梁に居(すわ)りて、奇才惟(ただ)異にす。夫(そ)れ万機巨細、百官を己(みずから)惣(す)べ、皆先んじて関(あずか)り白(もう)す。然る後、奏下すること一(もっぱ)ら旧典の如く、庶(もろもろ)五風十雨の旧日に帰す。専ら一天四海の艾寧(がいねい)を聴(はか)り、遐邇(かじ)に布(し)き告げて朕の意を知ら俾(し)めよ、主者施行(しゅしゃしぎょう)せよ。 天正13年7月11日

 関白は天皇の代理として政務を見るという地位であり、これを得たことで、秀吉は天下人としての名分を得ることになった。翌1586年、朝廷から豊臣の姓を賜り、最高位の官職である太政大臣にも就任した。これにより、秀吉の政権が樹立され、天下に号令する権限を得た。さながらの出世魚となった。
 関白就任後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げた。飼育係は、打ち首覚悟で秀吉に隠さずに報告したところ、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したという。

【秀吉履歴/秀吉の内政的諸政策】
 天下統一後、秀吉は太閤検地、刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。

【秀吉履歴/佐々成政降伏】
 8月、前年の小牧・長久手の戦いを機に反旗を翻した越中国の佐々成政に対して討伐を開始したが(富山の役)、ほとんど戦うことなくして成政は8.25日、剃髪して秀吉に降伏している。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。こうして紀伊・四国・越中が秀吉によって平定された。また年末、天正地震が中部を襲った。

【秀吉履歴/秀吉の仲裁】
 閏8月末、家康が真田領に侵攻したが、10月、秀吉が仲介に入り和睦した。
 同年秋、秀吉は金山宗洗を奥羽の諸領主間の和睦と調査のために派遣した。宗洗はその後、1586(天正14)年末から15年春と1587(天正15)年末から16年秋の3回にわたって奥羽入りし奥羽諸領主との折衝に当たった。

【秀吉履歴/秀吉の厳罰所信】
 この年に家臣の脇坂安治宛の書状で、追放した者を匿うことのないよう警告として「追放した者を少々隠しても信長の時代のように許されると思い込んでいると厳しく処罰する」としている。

【秀吉が本邦初の囲碁御前試合を催し日海が優勝】
 1585(天正13)年、秀吉が関白となる。
 1585(天正13)年11月、治安の回復を待って日海を呼び寄せ、碁打衆を集めて本邦最初の囲碁御前試合を催す。今でいう全国大会を催し、御前試合を行い日海が優勝した。この時の次の一文が遺されている。
 「碁打ちどもこと、互先あまたあるに聞かれたるにつき、勝負相たださるるため、このたび御前において鹿塩利玄、山内庄林らを召し出され、打たされ候ところ、本因坊これに勝ち候については、右の者ども今後(本因坊に)定先たるべき由、仰せつけられ候。この旨、相守り、碁の法度申しつくべき候。ご褒美のため毎年米二十石ずつ、二十人の扶持御扶助なさるに及ぶなり。但し仙也は師匠のことゆえ互先たるべし」。

 日海が、同月2日付けで山城国一乗寺内で禄米四石をあたえる旨の朱印を受ける。豊臣秀吉が千利休に授けた碁盤が現存している。利休が育った堺は他の文化とともに碁が発達した都市であった。

 この時代の或る時、日海が秀吉、徳川、前田その他の諸将皆な列席のところ出仕し、次のように囲碁講義している。
 「囲碁は己を守り、彼を攻むるにありて、大観に達するこそ、その本旨に候。事は戦いにあるも、績(目的)は治国平天下に存すれば、智仁勇の三徳は碁の本体なり。(中略)兵は機なり、権なり。権機は詐謀にあらず。道に従って変化し、勢いに順うて通ずるを云う。されば道に逆らい、勢いに抗する者の滅びべく申すは、その例多くござ候。その昔、播州三日月の地を浮田殿にお任せになり給いしは、攻めるように見せて攻めず、取るように見せて取らず、これを好餌に響きをお打ちになりしは、恐れながらまことに妙手と存じ奉り候。右幕下の鳴海表御かせぎの折、鷲尾丸根に兵を籠め給いしは、分兵の策に勢子を削ぎて厚からざるに、嵩にかかって勝負を見給いしものか。所詮は敵地に足溜りの石を置くも、攻めるの便宜なるべし。その取るべきは取るも強いて取らんとせば、多く味方を損す。堅くして抜くべからざると見れば、之を囲みて外に働かしめざるこそ変の通と存じ奉る云々」。(「坐隠談叢」参照)
 日海が当時の手合割について算砂日記に次のように記している。
 「利玄と19年以前、備前岡山において、互先に直り、その後方々にて都合19局打ち、このうち13番勝ち、利玄5番、1番はジゴ。樹斉と互先で2局、日海勝ち。定先で4局、日海3局勝ち。山内是安とは6連勝。その他の上手衆とは定先20局ぐらい打って14、5番勝ち」。

【秀吉履歴/四国攻め】
 1585(天正13)年、四国攻め。出陣前に秀吉が急に病気になり、秀吉の代わりに秀長が四国に渡る。

【秀吉履歴/徳川家康融和策を講じる】
 1586(天正14).5月、秀吉49歳のとき、徳川家康に対して融和策に転じ、妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせ家康の正室にする。同年9月、母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促した。家康はこれに従い、上洛して大阪城にて秀吉に謁見、家康が秀吉への臣従を誓った。但し、家康は北条氏との婚姻同盟関係は継続し、北条氏と秀吉の間では依然として中立の立場を保持した。これが為、秀吉は、徳川氏の軍事的協力と徳川領の軍勢通過の許可がない限りは北条氏への軍事攻撃は不可能になった。そのため、秀吉は東国に対しては家康を介した「惣無事」政策に依拠せざるを得ず、西国平定を優先する政策を採ることになった。

【秀吉履歴/正親町天皇から豊臣の姓を賜る】
 同年9.9日、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、12.25日、太政大臣に就任し、ここに豊臣政権を確立させた。

【秀吉履歴/島津氏攻略、九州平定】
 その頃、九州では大友氏、龍造寺氏を下した島津義久が勢力を伸ばしており、島津氏に圧迫された大友宗麟が大坂まで来て、秀吉に助けを求めた。秀吉は、島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令を発したが、九州制圧を目前にしていた島津氏はこれを無視したので、秀吉は島津を討伐することを決めた。

 1586(天正14).12月、まず大友義統への増援として、仙石秀久を軍監とした長宗我部元親、長宗我部信親十河存保らの四国勢が派遣され、豊後戸次川(現在の大野川)において島津家久と交戦したが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして敗戦を喫した(戸次川の戦い)。

 1587(天正15)年、秀吉50歳の時、大友氏滅亡寸前のところで豊臣秀長の軍勢が豊前小倉においた先着していた毛利輝元、宮部継潤宇喜多秀家らの軍勢と合流し豊臣軍の総勢10万が九州に到着。 同年4.17日、日向国根城坂で行なわれた豊臣秀長軍と島津義久軍による合戦(根白坂の戦い)においては、砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を守備。 最終的に島津軍を降伏させる。


【秀吉履歴/バテレン追放令発布】
 1587(天正15)年、九州平定後、秀吉はキリシタン勢力と対峙することとなった。秀吉は当初は好意的であった。しかし宣教師による強制的なキリスト教への改宗、キリシタンによる神道・仏教への迫害、神社仏閣の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食、日本人婦女を奴隷として売買するなどが発覚し、秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めた上で、6.19日、博多において伴天連追放令(バテレン追放令)を発布した。但し、この時の布告は強制的な禁教を伴うものではなく、宣教師たちも依然として日本国内で布教活動を継続することが可能で、キリシタンの活動そのものは黙認されていた。

 この間、同年5.9日、書状「かうらい国へ御人」。6.1日、書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」 。


【秀吉履歴/北野大茶湯会】
 同年10.1日、京都にある北野天満宮の境内と松原において千利休を主管、津田宗及、今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催した(北野大茶湯会)。茶会は一般庶民にも参加を呼びかけた結果、当日は京都だけではなく各地からも大勢の人が参加し、会場では秀吉も参加して野点が行われた。また、黄金の茶室も披露されている。
 利休が秀吉から拝受した碁盤が現存している。利休には「囲碁の文」もあり、同じく堺の伝説的な碁師の林利玄が対局する碁会に参加したこともわかっている。

【秀吉履歴/関東と奥羽の諸大名に惣無事令を発令】
 12月、秀吉は伊達氏、最上氏、後北条氏など関東と奥羽の諸大名に惣無事令を発令した。

【本因坊】
 1587(天正15)年、当代記(寛永年間成立、松平忠明編)が次のように記している。創業記考異(三)(寛永年間成立松平忠明編考証書)。
 「天正十五年閏十一月十三日、碁打の本因坊新城へ下る。亭主九八郎信昌(奥平信昌)、この夏京都に於て碁の弟子と為すの間此の如し。則ち同心せしめ駿河へ下さる。家康公囲碁を数寄給ふ間、日夜碁あり(日海は駿河(するが)に入り徳川家康のもとに伺候。家康は囲碁を好み、連日連夜打った云々)。翌春に帰京せしむ。…翌年囲碁の勝負あり、自余の上手に先強く、本因坊を天下一とし給ふ」。

 この年、奥平信昌が京で本因坊の碁の弟子となった、それで本因坊は奥平の居城・新城に下り、奥平は本因坊を駿河の家康のもとに伴い碁を披露させた云々と読める。日次記録の一級資料ではないが、家康の囲碁記事の初出と思われる。奥平信昌は家康の女亀姫の婿でもあり、ありうる逸話とも思われるが、天正15年とある年代には疑問がある。すなわち、右記事の天正十五年閏十一月という暦日には間違いがある。この前後の閏月は、天正13年(8月)と15年(6月)で、当年には閏月はない。なお、11月が閏月に当たるのは、下って1601(慶長6)年である。奥平が長篠の戦功により新城に築城したのは天正4年で、天正18年に上州宮崎に移っているから、この年に奥平はたしかに新城にいる。一方、家康が駿府城を築いて浜松から移るのは天正年で、右の年代とは合わない。

【日海、駿河に下り、家康のもとに伺候】
 1587(天正15)年、「閏11月、碁打ちの日海、駿河に下る。家康公ものもとに伺候する。囲碁を数寄り給う。間日夜碁あり」。(「創業記考異」)

【桃山時代その後】

【秀吉履歴/聚楽第完成】
 1587年、107代後陽成帝の天正15年、平安京大内裏跡(内野)に朝臣としての豊臣氏の本邸を構え「聚楽」と名付ける(フロイス「日本史」、「時慶記」)。この屋敷はやがて敬称を付して「聚楽第」(じゅらくだい・じゅらくてい)、あるいは謙遜の意を付して「聚楽亭(じゅらくてい)」などと記述されることになる。 千利休が聚楽第内に屋敷を構え、築庭にも関わり、禄も3千石を賜わるなど、茶人参謀として名声と権威を誇った。
 「聚楽第と囲碁」を転載しておく。
 「天下人となった豊臣秀吉は大阪城にて政務を行っていましたが、関白に就任し九州征伐を行った後に、京都に新たな政庁兼邸宅である「聚楽第」を建設します。一年半を費やし、天正15年(1587)に完成した聚楽第は平安京大内裏跡に建築され、規模は現在の二条城より大きかったそうです。金箔瓦が使われるなど絢爛豪華な屋敷では天正16年(1588)に後陽成天皇の行幸が行われるなど、正に豊臣政権絶頂期に秀吉が過ごしていた場所でした。囲碁好きの秀吉ですから聚楽第でも当然、碁会が催されています。天正16年に上洛した毛利輝元は聚楽第に秀吉を訪ねると碁会を観戦するよう秀吉に言われ観戦後、同席していた豊臣秀長と徳川家康の案内で聚楽第の座敷から台所まで残らず見学して廻ったことが家臣の記録に残されています。なお、この碁会には本因坊算砂や利玄も参加しています。

 天正19年(1591)に秀吉が関白職を甥の豊臣秀次に譲ると、聚楽第は秀次の邸宅となります。秀次も囲碁や将棋が好きで、算砂とも親しかったといい、引き続き聚楽第でも碁会が行われていたようです。しかし、秀吉に息子の秀頼が生まれると、秀吉は文禄4年(1595)に秀次が謀反を企てたとして高野山に追放し切腹させます。秀次の居城であった聚楽第も解体され、僅か8年でその役目を終えたのでした。聚楽第の遺構は僅か8年で破却されたためほとんど残っていません」。

 1587年、秀吉がキリスト教禁止。


【諸将の秀吉忠誠誓詞】
 1588(天正16).4.14日、秀吉51歳のとき、聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応し、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。

【秀吉が、再度御前試合を催す】
 1588(天正16)年5月18日、秀吉が、再度御前試合を催す。日海勝ち、賞として毎年碌米20石、再10人扶持を与えられる。(「坐隠談叢」)

 閏5.18日日付けで、秀吉が本因坊(日海)に朱印を与えている。主旨は、師の仙也を除く碁打衆(鹿塩、利玄、樹斎、山内、庄林の5名)はすべて本因坊に定先たるべきこととし、本因坊に碁打衆の法度を申しつけることとした。

【茶々が秀吉側室になる】
 同年、後に豊臣家の政権を握ることになる茶々が秀吉側室になる。

【毛利輝元が上洛し完全に臣従】
 同年、毛利輝元が上洛し、完全に臣従した。

【秀吉の碁の相手仙也、法(本)因坊、理玄、少林】
 1588(天正16)年、天正記(毛利輝元の家臣・平佐就言が輝元の上洛に随行した日記)。
 「八月四日、乙酉、天晴、辰の刻に関白様より御鷹進ぜられ候。富士巣の鷂也。口羽伯耆守に御請取せ成され候。御使に御太刀一腰、御帷子二、五百疋進ぜられ候也。巳の刻に勧修寺殿へ御出で候。御取肴にて御酒進ぜられ候事。午の刻に聖護院殿御請待。(座配図、略)未の刻に此所より御鷹御拝領の御礼として、聚楽へ御参成され候。折節関白様碁を遊ばさる半ばに御対面成され候。碁の御相手仙也、法(本)因坊、理玄、少林以下也。御覧有るべきの由上意に付て、一番の間御祗候候也。申の刻に直様又聖門様へ御出で成され候。御鞠これあり」。

【刀狩令、海賊停止令発布】
 同年7.8日、刀狩令発布。ほぼ同時に海賊停止令も発布。全国的に施行した。

【琉球王国、朝鮮へ入朝要求】
 同年8.12日、島津氏を介し琉球王国へ服属入貢を要求。以降、1590(天正18).2.28日、琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求 。1591(天正19).10.14日、島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求。

 1590(天正18).11月、朝鮮へ征明を告げ入朝要求。

【「イエズス会日本報告集」記述】
 イエズス会宣教師たちの「イエズス会日本報告集」に次のように記されている。
 「(天正16年の段階で)この暴君はいとも強大化し、全日本の比類ない絶対君主となった」、「この五百年もの間に日本の天下をとった諸侯がさまざま出たが、誰一人この完璧な支配に至った者はいなかったし、この暴君がかち得たほどの権力を握った者もいなかった」。

 これによると、秀吉は、天正16年段階ですでに日本国の完璧な支配を達成していたとしている。

  フロイス日本史に「300名の側室を抱えていた」と記している。伊達世臣家譜には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。歴史学者の桑田忠親は、秀吉の正式な側室は20人足らずだと推定している。

 池享は前年に九州を平定し、後陽成天皇の聚楽第行幸を成功させた天正16年に秀吉は「事実上の国王」になったとしている。また堀越祐一はそれまで秀吉直臣系や旧織田系の大名のみに与えられていた羽柴氏・豊臣姓の付与が天正16年頃から毛利氏、島津氏、大友氏、龍造寺氏ら秀吉に臣従した大名たちにも与えられるようになることを重要視し、この時期に豊臣政権は成立したとしている。奥羽仕置後に伊達氏。最上氏、宇都宮氏にも氏姓が与えられることになるが、これらはすでに確立していたシステムを東国に適用したに過ぎないとしている。

【秀吉の御前囲碁試合で算砂が優勝、官賜碁所を与えられる】
 1588(天正16)年、5月、関白になっていた豊臣秀吉御前で、碁打ちの名手として名高い算砂(日海)、利賢(利玄坊)、鹿塩、樹斉、山内正林ら数名の碁打衆が召し出されて対局する御前試合が開催された。算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられる。秀吉が次のように申し渡ししている。
 「(本因坊に負けた)右の者どもは、向後、定先で打つこととす。但し、仙也は師ゆえに互先とする」。

 同時に碁の法度を申しつけられる。秀吉は算砂(日海)に碁の役職(官賜碁所)を与えた。この時の書状に「碁之法度可申付候」とあるのを碁所(ごどころ)の開始とする説もある(「座隠談叢」)。

 林元美著「爛柯堂棊話」が次のように記している。
 「碁所の始祖、本因坊算砂、法印日海、豊臣太閤の御時、天下の上手ども数輩の試みの碁手合わせ仰せつけられ候ところ、本因坊、諸人に勝ち越し候に付き、初めて碁所に仰せ付けられ、手合わせ以下の法度(とりきめ)申し付くべき旨、御朱印御証文、これを成し下さる。時に御下恩など拝領す。天正十六年閏五月十八日なり」。
 「豊太閤、碁処を設け給いし事、吾が邦、初めてなり。これより日本の囲碁、異国に勝(すぐ)れたり」。
 秀吉が碁の戦略機略を武人の嗜みとして推奨したことから多くの武将が碁を打つようになった。徳川家康は前年の1587(天正15)年頃より囲碁を愛好し始めている。それを裏付ける記述が1612(慶長17)年2月に宛てた秀忠夫人(お江与の方)宛の手紙で「囲碁は中年になるまで知らなかった。人生に役に立たないものだと思っていたから…」と書き送っていることで判明する。1542年生まれの家康は時に45歳。遅くして囲碁の面白さ、深さに目覚めたことになる。秀吉は本因坊算砂を囲碁の師とし、五子で対局したと伝えられている。秀吉には囲碁の戦略的思考が垣間見える。例えば、「戦は六、七分の勝ちを十分とする」も然り。
 この年、徳川家康が、豊臣秀吉の向うを張って「全国大会」を開催し、囲碁の師匠である日海が優勝している。

【秀吉が算砂に朱印状を与える】
 1588(天正16)年、伝信録(本因坊道知編家元伝書)。
  「元祖本因坊算砂京都久遠院寂光寺為住職、天然依囲碁名人と為す。太閤御所、御前に於て時の上手と勝負を決む。算砂諸人勝越し候により初て太閤御所より本因坊へ碁所仰付られ候御朱印の写し、碁打どもの事、互先余多有之由聞し召さるに付て為可被相二糺勝負一、今度於御前、鹿塩利賢樹斎、山内庄林召し出され打ち候のところ、本因坊盤数勝ちし候。しかれば右の者ども向後可為定先の由仰せ出され候条相守り、この旨碁之法度申し付け候。為御褒美毎年米弐拾石宛併拾人之扶持方被成御扶助、但仙也儀者師匠之事候間可為互先也。閏五月十八日御朱印 本因坊」。

 伝信録は年に世本因坊道知(当時歳)の編んだ家元伝書。その冒頭の初代本因坊算砂の伝に、1588(天正16)年、秀吉から請けたとする朱印状の写なるものを載せている。秀吉が算砂に朱印状を与えたという記録が見えるのは伝信録が最も古い。それ以前やこの当時の文献類の中には記されていない。この朱印状のことは、江戸時代を通じて囲碁界では定説として語り継がれた。ところが、囲碁歴史研究家の香川忠夫氏は、この朱印状は偽書だと結論づけて、家伝書による創作が伝説化されて定説のように受け入れられてきたものとの見解を発表している。なお、伝信録に載る碁打衆の山内について、関節蔵は日本囲碁史綱で山内、其名を是安といふ事は、算砂自筆帳に依つて明白である、梵舜日記の是は無論同人の事と認める、と考証している。
 江戸時代末期年に刊行された林元美の爛柯堂棊話が次のように記している。(古作登「本因坊算砂の人物像と囲碁将棋界への技術的功績を再検証する」)
 「碁所の始祖、本因坊算砂、法印日海、豊臣太閤の御時、天下の上手ども数輩の試みの碁手合わせ仰せつけられ候ところ、本因坊、諸人に勝ち越し候に付き、初めて碁所に仰せ付けられ、手合わせ以下の法度(とりきめ)申し付くべき旨、御朱印御証文、これを成し下さる。時に御下恩など拝領す。天正十六年閏五月十八日なり」。

【茶人利休と囲碁と秀吉】
 1588(天正16)年、利休消息(茶人利休の書簡)。
  「閏五月二十四日、一、りけん(利玄)も御前一段可然候、碁之事先に成り候て、早つゝけて二番りけんかちにて候。碁も唯二番にて候。かしほつけて四番まけられ候、今八郎殿へ御成にて参候間、閣筆(擱筆)候。恐惶謹言、壬(閏)五廿四日り(花押)(添え書)利休のふみ、囲碁の席には世に比なき奇品、称美するに堪たり。その道を嗜み、その道を業とする人の所蔵すべきもの也。因碩(花押)」。
 (添え書)利休のふみ、囲碁の席には世に比なき奇品、称美するに堪たり。其道を嗜み、その道を業とする人の所蔵すべきもの也。因碩(花押)

 茶人・千宗易利休の書簡(後半末尾部分の断簡)と伝えられる。この記録については、昭和年、日本棋院主催の囲碁史展に出品され、同年の日本歴史に桑田忠親の論考もある。直訳すると次のごとくになる。利玄も秀吉公の御前のおぼえ一段とよく、まず囲碁ということになり、早くつづけて二番勝った。碁は二番でおわったが、( かしほつけての意不明、鹿塩と係わりあるか)四番まけられた。利休はこの年歳、囲碁にかかわる逸話などは未見で、利休が囲碁を打ったかどうかは不知。なお、茶会に碁打衆が呼ばれる記録は、日次記録にも多出する。また、茶会の座敷飾りに碁盤が用意される次第は、君台観左右帳記ほかの故実書にも書かれている。

【本因坊、利玄、小林、寿斉】
 1588(天正16)年、天正記。
  「八月七日、戊子、天陰ル、卯の刻に宗易(千利休)へ御茶の湯に御出で成され候。宗易自分給仕也。(茶会の次第、中略) この日尾州内大臣殿(織田信雄)、駿河大納言殿(家康)、大和大納言殿(豊臣秀長)、御出で有るべき御内儀に付て、御一献御支度仰せ付けられ候へども、関白様御碁遊ばされ候間、御参候て御覧有るべきの由仰せ出され候に付て、未の刻に聚楽へ御出頭候。碁御覧成され、それ以後御座席、台所迄残りなく見せ参らせられ候。駿河大納言殿、大和大納言殿、御案内者也。関白様も姫子御抱き成され、共に御出で候て、御雑談などこれ有り。隆景様、広家様も御同前也。碁の御相手仙也・本因坊・理玄・寿斉・少林也。酉の刻、御宿妙願寺へ御帰り成され候事」。

 天正記は別名輝元公上洛日記ともいい、毛利輝元の家臣・平佐就言が天正年輝元の上洛に随行した日記。月日・同日の両日、聚楽第に秀吉を訪ねた折、碁打の本因坊・理玄(利玄)・寿斉(樹斉)少林(松林、庄林)も呼ばれていた。秀吉が対局したのかどうかは分からない。なお、この年月日には、秀吉は禁裏に参内し囲碁披露の接待を受けている。

【惣無事令実施】
 同年又は1588年12月、惣無事令実施(関東・奥羽地方)。

【宗和】
 1589(天正17)年、北野社家日記(北野天満宮宮司官の歴代日次記)。
 「八月三日、天気吉、晩に少し降る。今日かわや宗和来候に碁二番打ち候。打てかやしに五ツ置き候て打ち候。天下一に二ツの碁也。又観音寺(見海)煩を見舞に参り候」。

 天下一に二ツと評される宗和は、後の茶道宗和流の祖とされる金森長近と思われる。武人で茶を利休に学び秀吉、家康に仕えた人物である。

 1589(天正17).5.27日、秀吉53歳の時、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名する。


【秀吉履歴/小田原征伐】
 1589(天正17)年、後北条氏の家臣・猪俣邦憲真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野名胡桃城を奪取したことをきっかけとして北条氏征伐に向かう。

 1590(天正18).2月、秀吉54歳の時、20万の大軍で関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。後北条氏の支城は豊臣軍に次々と攻略され、本城である小田原城も3か月の篭城戦の後に開城された。秀吉は黒田孝高と織田信雄の家臣である滝川雄利を使者として遣わし、北条氏政北条氏直父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放となった。名実ともに秀吉の天下統一が成った。

【秀吉履歴/奥羽仕置、奥羽再仕置】
 秀吉が東国へ出陣すると最上義光伊達政宗ら奥羽の大名も小田原に参陣し、奥羽両国の平定も大きく前進した。小田原開城後の7.26日、秀吉は下野宇都宮城に入り、奥羽の領主に対する仕置を行った。葛西氏、大崎氏など小田原に参陣しなかった領主は改易され、総無事令を無視して蘆名氏などを攻めた伊達政宗には減封の処分が下され、最上義光ら小田原に参陣した領主は所領を安堵された。政宗から召し上げた所領の内、旧蘆名領は蒲生氏郷に(蘆名義広は佐竹氏与力とされた)、葛西・大崎領は木村吉清に与えられた。
 1590(天正18)年、陸奥の葛西・大崎、和賀・稗貫、出羽の仙北・由利・庄内の国衆たちは豊臣政権の仕置に反発して一揆を起こした。このうち出羽の一揆は同年中に鎮圧され、津軽氏ら出羽の大小名らは上洛し、秀吉から領地安堵の下知を受けた。しかし陸奥の葛西大崎一揆は翌天正19年(1591年)になっても続き、更に南部信直との関係が悪化した九戸政実も武装蜂起し騒乱が収まることはなかった。
 1591(天正19).6月、豊臣秀次を総大将とする総勢6万の大軍を奥羽に派遣し鎮圧に当たらせた。この再仕置軍は秀次を筆頭に徳川家康蒲生氏郷佐竹義重上杉景勝伊達政宗宇都宮国綱らを主力とし、蠣崎氏も蝦夷から参陣した。蠣崎氏と蒲生氏の軍勢のなかには毒矢を射るアイヌ兵も含まれていた。奥羽に到着した再仕置軍は9月1日九戸攻撃を開始し4日には平定を完了させた。

【秀吉履歴/天下統一】
 全国を平定し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。しかし毛利氏、長宗我部氏、島津氏といった有力大名を滅ぼすには至らなかった。徳川氏は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった。

【日海(後の算砂)が京都寺町通竹島町に寂光寺を移転】
 1590(天正18)年、2月、秀吉の援助により日海(本因坊)が京都寺町通竹島町に寂光寺を移転する。 

 1591(天正19).2月、秀吉により都の町割りが進められ、日海(後の算砂)は寺格が認められた寂光寺を再建した。八つある塔頭(たっちゅう)の一つが本因坊(ほんいんぼう)と呼ばれた。算砂は師の日淵(本因坊日雄)の跡を継ぎ、寂光寺2世、本因坊算砂を名乗った。その120年後、寂光寺は、京の都の大火で類焼、1708年(宝永5年)、東山に再建(3度目、左京、東山仁王門)され、現在に至っている。

【安井六蔵(後の安井家1世算哲)誕生】
 この年、安井六蔵(後の安井家1世算哲)が河内で、安井忠右衛門宗順の第二子として生まれる。幼時より囲碁を学び、算砂の弟子とも伝えられる(「爛柯堂棋話」)。

【松林(庄林)、宰相、利玄、鹿塩】
 1590(天正18)年、小早川家文書(小早川家伝存古文書)。
 「碁打庄林入道、同鹿塩、并樋口石見守帰京候、路次中伝馬三疋、留々賄等可被申付候也、七月十五日(秀吉朱印) 羽柴筑前侍従とのへ 羽柴新庄侍従とのへ」。

 秀吉が小早川隆影にあてた朱印状(手紙) 葉(この手紙に年度は記されていないが、天正年と考証されている)と、つの日次記。いずれも小田原包囲戦の参陣中の消息で、陣中慰問におもむいたのであろう、碁打の名がみえる。秀吉朱印状に見える碁打は庄林入道、同鹿塩。家忠日記は奥平九八郎(信昌)陣屋の碁で、碁打ちは京都松林と上方宰相りけんかし本とある。松林に宰相と利玄、かし本はあるいは鹿塩だろうか。宰相は算砂のことと思われる。

【松林】
 家忠日記(徳川の臣・松平家忠の日記)。
 「三月十三日、乙卯、奥平九八郎所へ越候。京都松林と申す碁うち越し候て、碁を見物し候」。
 「六月四日、甲戌、夜雨降る。初なすひ天野清兵へ同心よりこし候。奥平九八郎所に上方宰相、りけん、かし本、碁見物にこし候」。

【禰宜の上手】
 多聞院日記(興福寺多聞院の日次記録)。
  「五月十一日、神人孫左衛門死了んぬ。六十六才と。近年大納言殿の御意に叶ふ。御神供以下職満ち足りて了んぬ。みちればかくる習也。囲碁の上手、うたい芸能すぐれて一段祢宜には惜き仁也。橋本の左馬と云祢宜も、先段若き者也。不思議の病煩て死了んぬ。是は神道を究たる仁と也。是又神人には惜き事也と云々。芸能才覚も福有も入らざる事也。生者必滅、勿論々々」。

 興福寺多聞院の記録で、*歳で死んだ禰宜を追悼する記事。生前は囲碁の上手で大納言すなわち家康にも寵されていたとする。

 1590(天正18)年、「7月7日丙午、七遊御会あり。まず楽、次に和歌。(中略)次に蹴鞠(けまり)囲碁貝覆、揚弓、香等云々」。(「続史愚抄」) 


 1591(天正19).正月22日、秀吉55歳の時、大和郡山で100万石を領有して豊臣政権の屋台骨の1本になっていた秀長が病死する。後継者に指名していた鶴松も相次いで病死した。


 この年、京都の四周を取り囲む御土居を構築した。これは京都の防衛のためだったとも、或いは戦乱のために定かでなくなっていた洛中と洛外の境を明らかにするためだったともされる。


 同年、身分統制令制定。


 同年3.3日、天正遣欧少年使節が聚楽第において秀吉に西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏。


【秀吉の大アジア共栄圏構想】
 1591(天正19).7.25日、ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求した。同年9.15日、スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求し、翌1592(天正20).5.18日、関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした。秀吉自身は北京に入ったあと、天竺(インドのこと)征服のために寧波に移るとしていた。

【仙也、仙六、かしを、しやう林、せい庵】
 1591(天正19)年、言経(ときつぐ)卿記(公家山科言経の日記)。
  「十月廿七日、己未、晴陰、晩小雨。…夕過テ梅庵(大村由己)へ罷り向く。薄暮に成了んぬ。来る客衆、宇喜多安津(忠家)・仙也・同仙六・かしを・しやう林・せい庵等、碁・将棊これ有り。見物し了んぬ。次いで小これ有り。夜半過に帰宅し了んぬ。その後聯句十句これあり」。

 秀吉伽衆・大村由己の碁会。参会者の中に仙也・同仙六・かしを・しやう林・せい庵とあるのは碁・将棋の上手たちであろう。仙也は多出するが、仙六は仙也の縁者か弟子のごとくに読める。この後仙仙角という碁打ちの名がみえるが同一人物で仙(せんろく) が正しいと考える。かしをは鹿塩であろうか。なお、年当代記には、鹿塩仙[是仙也子、当春筑紫に於て喧嘩して死すとあり、この鹿塩仙は一人なのか二人の名なのかに説が分かれるようである。なお、記者の山科言経は言継の子。、天正年間から慶長年まで多くの囲碁の記録をみる。言経は多趣味の人物で医の心得もあり、謡本の校注を通じて本因坊算砂との交渉もある。勅勘を受けていた期間に秀吉・家康・秀次の知遇を得ている。故実知識の伝授役だった様子で、家康から五人扶持を受け、さらに後に石を得ている。

【千利休切腹事件】
 1591(天正19)年、大友宗麟が大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告されたほど重用されてい茶人・千利休が突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという(千利休切腹事件)。この事件の要因を廻って諸説がある。

【関白辞任】
 1591年、54歳のとき、関白職を辞任。甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤(前関白の尊称)とよばれるようになる。但し、秀吉は全権を譲らず、実権を握り二元政を敷いた。関白とは天皇の後見役ともいうべき官職であり、本来、「摂関家」と呼ばれる近衛・九条・二条・一条・鷹司の5家のみが就くことができた。秀吉は近衛家の猶子となって「藤原秀吉」として関白に任じられたが、直後の豊臣姓下賜により新たな「摂関家」として豊臣家を立ち上げることに成功した。秀吉は、豊臣家が織田・徳川ら他の大名たちとは「格が違う」ことを明らかにした。そして、関白の座を秀次へと継承することで、秀吉は豊臣政権の永続性と正当性を担保しようとした。

 1592(天正20、文禄元)年、12.8日、文禄改元。
 この年、日海(算砂)が、厳大僧都に任ぜられ、昇殿を許され、御座所に於て碁技を天覧に供し奉れり。近衛公より、賞として唐桑の盤を下賜せらる。(「坐隠談叢」)

【文禄の役】
 1591(天正19).8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始める。

 1592(天正20).3月、文禄の役。明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。初期は日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となった。1593(文禄2)年、明との間に講和交渉が開始された。
 1592(天正20).7.21日、スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に対し、約を違えた朝鮮を伐ったことを告げ服属要求。

【文禄の役の時の逸話】
 1592(文禄元)年、文禄の役での囲碁に纏わる次のような逸話が頼山陽の日本外史に記されている。秀吉の朝鮮出兵による文禄の役の時、まず海を渡ったのは浅野長政、黒田孝高(よしたか)の両将であった。或る日、軍議のために三奉行(石田三成、増田長盛、大谷吉隆)が日本から派遣されてくると知らされた浅野と黒田は碁盤を囲みながら三奉行の到来を待ち受けていた。ところが三奉行が到着しても囲碁を止めず、再三の督促にも応じない二人の態度に憤然とした石田は席を蹴った。帰国後、ことの次第をつぶさに太閤殿下にぶちまけた。この石田の短慮を、浅野と黒田の息子、幸長、長政が恨んだという。後の豊臣軍の分裂の要因の一つとして伝えられている。(「烏鷺の争い、関ヶ原決戦」参照)。

 日本外史の記述は次の通り。
 「文禄の役に、三成、長盛、吉隆、朝鮮にあり。浅野(長政)、黒田(孝高)、来ると聞きて、つきて軍事を議す。両人、方(まさ)に碁を囲み、三成等を顧みず。三成等怒りて出づ。両人、局を収め、侍者に問いて曰く、『三奉行、何ぞ来らざる』と。侍者、故を告ぐ。すなわち人をして呼びて之を返さしむ。三成等、肯(がえん)ぜず、悪言を為して去る。終に両人を秀吉に悪(あく)す(悪く云う)。両人の子(浅野幸長、黒田長政)深く之をふくむ(うらみ怒る)」。
 【黒田官兵衛】と【囲碁&将棋

 現在、放送されている大河ドラマ軍師官兵衛も後半戦に突入です。この官兵衛と囲碁には、あるエピソードがありました。秀吉の始めた文禄の役(朝鮮出兵)は、黒田官兵衛が予想した通り、明が南下し、戦況が激化してきました。豊前で静養中の官兵衛に秀吉は命じ、文禄2年(1593年)2月に再度朝鮮に渡ります。秀吉の命は、『せめて南朝鮮の領有くらいははっきりさせて来い!』という具体的なものでした。官兵衛は現地に着き、そのことを伝えたかったのですが、各奉行、各隊長がそれぞれの思惑で動いていたため、秀吉の意を伝えるだけでもかなりの日数がかかってしまいました。官兵衛は意欲を削がれ、同行していた浅野長政と囲碁を始めます。そこに、石田三成、増田長盛、大谷吉継の三奉行がやってきました。官兵衛にとってその面々は、日頃から気に入らぬ面々だったので、構わず囲碁を打ち続けます。ドラマの中では、急用ではないのでまた出直すと三成らがいった為、話をしなかったと官兵衛は言っていました。しかし無視された事に石田三成が怒り、あまりに無礼と、名護屋の秀吉に使いを立てました。秀吉の返答は、「官兵衛は人を人と思わぬことで軍師が務まっているようなものだ。あとでよく咎めておく」というもので、今回は堪忍してやれというものでした。ドラマの中では、三成のこの二枚舌の為、危うく命の危険にさらされた官兵衛でした。これまでの官兵衛の働きを考えれば、さすがに囲碁くらいでは首は刎ねらないのでした。やがて、明との停戦協定が一旦結ばれ、文禄の役は終結しました。 

 【官兵衛の出家】

 文禄2年(1593年)8月、官兵衛は出家し、「如水」の号を授けられ仏門に入りました。出家後の号をとった黒田如水(くろだじょすい)の名も、黒田官兵衛と同じくらい広く知られています。文禄2年(1593年)6月、宇喜多秀家が率いる4万2000の軍勢が「もくそ城(晋州城)」を囲み、黒田長政・加藤清正の活躍により、もくそ城(晋州城)を攻め落としました。日本軍が「もくそ城(晋州城)」を攻め落とした後、黒田官兵衛は石田三成ら三奉行が豊臣秀吉に囲碁の一件を讒訴していたことを知り、豊臣秀吉の許しを得ずに帰国し、豊臣秀吉に面会を求めた。しかし、豊臣秀吉は明の勅使が来ないことに大いに怒っていたので、豊臣秀吉は黒田官兵衛が無断帰国したことに激怒、登城を指し止めと切腹を言い渡します。これに驚いた黒田官兵衛は、出家して剃髪し、「如水円清」と名乗り、蟄居謹慎して、正式に切腹の命令が下るのを待った。如水円清とは、「水は方円の器に随ふ」「身は褒貶毀誉(ほうへんきよ)の間にあるも、心は水の如く清し」という古語から取ったものである。さて、切腹を覚悟した黒田如水(官兵衛)は、遺書を書き、遺書を朝鮮に居る黒田長政の元に届けさせました。黒田如水は蟄居謹慎していたが、遺書を受け取って驚いた黒田長政が父・黒田如水に変って豊臣秀吉に申し開きをしたため、豊臣秀吉は黒田長政の功績に免じて黒田如水を許し、黒田如水は切腹は免れた。ドラマの中では、小早川隆景や福島正則や、茶々こと淀の方までが、官兵衛の助命嘆願書を秀吉に送っていました。このとき、黒田長政は父・黒田如水を切腹の危機に追いやった石田三成ら三奉行を激しく恨み、後々まで遺恨を残しました。

 さて、黒田如水は処分を免れたが、大友義統・島津忠辰・波多親(はたちかし)の3人は、朝鮮出兵(文禄の役)で臆病を働いたため、領土没収の処分を受けていました。大友義統は小西行長を助けずに敵前逃亡した為、「朝鮮の卑怯者」と言われ、領土の豊後を没収されます。石田三成は黒田如水と仲が悪かったが、後に関ヶ原の乱(関ヶ原の戦)を起こす時の為に、黒田長政に「我と和睦すれば、豊臣秀吉に言って豊後を拝領できるようにしよう」と持ちかけた。しかし、黒田長政は「大国を得られるとしても、父・黒田如水と仲の悪い人(石田三成)と和睦することは本意にあらず。大国を得たとしても、父の心を失うのは不孝の至りなり」と言い、石田三成との和睦を拒否したのであった。黒田官兵衛が囲碁事件を起こしたのは文禄2年(1593年)、黒田官兵衛が48歳、黒田長政が26歳の事であった。 

 “将棋の戦い”の如し官兵衛の戦術

 戦いには大きく分けて城攻めと野戦。

 官兵衛の戦いぶりを見てみると 城攻めでは、まず説得工作、相手が応じない時に初めて攻撃する。その場合でも四方のうち一方を開けておき、逃げ口を設ける。城全体を囲み、敵の逃げ場をなくすと全力で戦いを挑んできて、敵味方 多くの犠牲者がでるからである。これは孫子の兵法「囲師必闕((いしひっけつ)」である。相手を全滅させるのではなく、敵将を降参、逃亡させ、味方の戦力の消耗を抑えて戦いを終え、次に備える。播磨の佐用城攻め、明智方との山崎の勝龍寺城攻めで「囲師必闕」を用い、敵の兵を逃がし落城させます。また、城を周りから威嚇、兵糧攻め、水攻めを行ったりして圧力を加え降伏を勧める。四国の岩倉城攻めでは、材木を高く組みその上に大鉄砲を据えて城中に打ち込み、また鬨(かちどき)の声をあげて威嚇 降伏に追い込んだ。ご存知のように 備中高松城は周囲を沼に囲まれ難攻不落であったが、堤防を築き水を引き入れて水攻めにより落城させます。このような攻めは日数と費用がかかるが、味方の犠牲は少なくなる そして官兵衛は敵方の兵を次戦で味方として使います。命を救われた兵は、官兵衛の元 喜んで働きます。次第に軍勢が大きく強くなっていきます。敵将打ち取り、とった駒(兵)を味方として使うと言う点は、正に将棋の戦術と言うべき戦いぶりです。


【人掃令(ひとばらいれい)制定】
 1592(文禄元)年、人掃令(ひとばらいれい)制定。関白豊臣秀次の名で出された朝鮮出兵のための法令。人別改めとも云う。全国の戸口調査を命じ、一村単位の家数、人数、男女、老若、職業などを明記した書類を作成して提出させたもの。目的は豊臣秀吉の文禄・慶長の役による、朝鮮出兵のための兵力把握や人夫の動員可能数の把握と言われているが、結果として兵農分離の一因ともなった。そのため、兵農分離の一連の流れと朝鮮出兵の流れの両方として評価されている。

 史料の吉川家文書には1591(天正19)年と記されているが、最近の研究においてはこの日付には否定的で翌年の1592年(文禄元年)の誤りではないかとする説が有力である。また、この1591年に豊臣秀吉によって出された身分統制令の中にも人掃令と共通する項目があり、その方針の更なる徹底を図ったのが翌年の人掃令発令の意図とする見方もある。


【秀頼誕生】
 1593(文禄2).8.3日、秀吉56歳のとき、側室の淀殿が秀頼を産む。8月、秀吉は新築されたばかりの伏見城に母子を伴って移り住んだ。当初、秀吉は聚楽第に秀次を、大坂城に秀頼を置き、自分は伏見にあって仲を取り持つつもりであった。山科言経の言経卿記によると、9.4日、秀吉は日本を5つに分け、その内4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると言ったそうである。 また駒井重勝の駒井日記によると、10.1日、将来は前田利家夫妻を仲人として秀次の娘と秀頼を結婚させて舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせるのが、秀吉の考えであると木下吉隆が言ったという。ところが、秀頼誕生に焦った秀次は「関白の座を逐われるのではないか」との不安感で耗弱し、次第に情緒不安定となって行く。

 1593(文禄2)年、高山国(台湾国)に対し、約を違えた朝鮮を伐ち明も和を求めているとして服属入貢を要求した。


【桃山時代後半】
 1594(文禄3)年、本因坊の名が本格的に登場する。本能寺の変から12年後のこと。徳川家康が京都三条の茶人・広野了頓宅を訪れたとき、一日中、碁や将棋を楽しんだとある。その中に本因坊の名が見られる。
 利休が秀吉から拝受した碁盤が現存している。利休には「囲碁の文」もある。堺の伝説的な碁師の林利玄が対局する碁会に参加している。「茶の湯」と囲碁が絡んでいたことがわかる。

【秀次が碁の上手達を集め大囲碁会催す】
 1594(文禄3)年、言継卿記(ときつぐきょうき)を著した山科言継の息子である山科言経の日記「言経卿記」(ときつねきょうき)の1594(文禄3)年5月11日の記事に、「碁打本胤坊(ほんいんぼう)」という記述がみられる。本因坊が記録に現れた最初とされており、これ以後、言経卿記には本因坊の名がしばしば登場するようになる。京都の公家や僧たちの間で、囲碁が普及し楽しまれていたことがうかがえる。
  「五月十日、江戸亞相(家康)へ罷り向く。碁を見物し了んぬ。夕を相伴し了んぬ」。
 「五月十一日、江戸亞相、了頓[三条田町、]へ御出之間、参るべき由兼日相催之間罷り向了んぬ。朝・夕種々丁寧也。戌刻に帰宅し了んぬ。人数、亞相・予・藤方勘右衛門尉・古田織部・本胤坊[碁打、]其外七八人これ有り。晩に及て景諷これ有り。終日碁・将棊也」。
 「五月十五日、癸巳、殿下(秀次)へ参り、朝の相伴、一昨日より殿中に於て碁の上手達を集め打たさる。本胤坊、利玄坊、寿斎、宗具、仙角、山之内入道、イン斎、生林、仙也、仙長、四郎四など也」。
 「六月廿六日、癸酉、天晴る。一、江戸亜相御振舞、建仁寺内常光院にて有之、内々来るべき由有之間、早朝より乗物にて罷向ひ了んぬ。人数は亜相・柳原・勧修寺亜相・予・吉田三位(兼見)・同弟シンレウ院・相国寺蕣首座(藤原惺窩)・浅野弾正忠、磯部古田綾部・フナコシ、この三人は太閤衆なり。その外碁打衆、本因坊・利玄坊・仙也・仙長・将棊指宗桂など也。その外碁打・将棊サシ大勢有之、以上相伴衆三十六人有之」。
 「十月廿四日、戊辰、天晴る。江戸亞相へ予・冷・阿茶丸(記者の子)等、罷り向ふ之處に、細川幽斎へ御出也と云々。直に幽斎へ罷り向ひ了んぬ。碁これあり。見物し了んぬ。夕これあり。相伴の衆、亞相・予・冷泉・阿茶丸・幽斎・紹巴・本因坊・利玄坊・宗具、其外これ有り。暮々に亞相御帰之間、供をせしめ罷り向き了んぬ。碁を見物し了んぬ。暮過て帰り了んぬ」。

 山科言経の日記。月日には家康が茶人広野了頓宅へ臨み、記者・山科言経も招かれた。参会者に本胤坊とある。本因坊の名はこれまでの記録はいずれも伝記類で、日次記録の中に本因坊として名の見えるのはこれが初出である。この年、算砂は既に才になっている。月日は、豊臣秀次の殿中で、碁打衆を集めて三日つづきの碁会があったとする。碁打衆として本音坊、利玄坊、寿斎、宗具、仙角、山之内入道、イン斎、生林、仙也、仙長、四郎四と人の名を列記する。月日は細川幽斎の第。これら日記にみえる碁打の名には、初出のものもある。宗具もその人、後の大坂冬の陣で、家康に堺の世情を注進する棋士を柏尾宗具とするが、同一人物だろうか。この頃、京都の公家や僧たちの間で囲碁が普及し楽しまれていたことが窺える。

【本因坊、利玄】
 1595(文禄4)年、言経卿記(山科言継の息子である山科言経の日記)。
 「三月廿六日、己亥、雨、…殿下より依仰謡の本注可仕の由有之間、相国寺鹿苑院保長老にて各来集、予南禅寺三長老・相国寺兌長老・泉長老・東福寺哲長老・澄西堂・建仁寺雄長老・稽西堂等也、又殿下御内鳥養道晰・謡衆四人等也、座敷替て知恩寺長老・日蓮薫久遠院・本音坊・要法寺・世雄坊等也、少々紹巴へ申遣了、種々穿鑿也、早朝より罷向了、予飯後罷向了、夕有之、謡有之、十番目取了、高砂一番相済清書也、中書出来了、保長老、殿下持参可有之由被申了、天竜寺彰西堂は依所労不出了。今日沙汰の本、高砂・うのは(鵜羽)・忠のり・西行桜・楊貴妃・うき舟・関寺小町・江口・さねもり(実盛)・源氏供養、以上十一番也」。
 「四月一日、甲辰、天晴る。江戸亞相へ暮々に罷り向き対顔し了んぬ今日謡之本注之事雑談し了んぬ。本音(因)坊・利玄坊と碁これ有り。大勢見物し了んぬ。伊達と暫し雑談せしめ了んぬ」。
 「5月11日の記事に、「碁打本胤坊(ほんいんぼう)」という記述がみられる。以降、言経卿記に本因坊の名がしばしば登場するようになる。京都の公家や僧たちの間に囲碁が普及し楽しまれていたことがうかがえる」

 月日の日記は、謡本の校註の記事。豊臣秀次は謡本の注釈書謡抄の編纂をしており、記者の山科言経も校注者の一人に任ぜられていた。その校注者のメンバーには、五山の長老たちや連歌師紹巴などとともに本因坊も加えられていた。なお、秀次はこの年月に秀吉から謀反の嫌疑をかけられ聚楽第を追放されて高野山に自害する。謡抄は死後の年に刊行された。本因坊の余技としては、椿花の栽培がある。月日は家康を訪ねた記事。本因坊と利玄の碁を見物し、政宗と雑談。この日も今日謡之本注之事、云々とみえる 。

【算砂が後陽成天皇の御前試合】
 1595(文禄4)年、算砂が後陽成天皇の前で碁を打ち、権大僧都に叙せられている。

【豊臣秀次切腹事件】
 1595(文禄4)年、豊臣秀次(秀吉の同母姉・ともの長男)切腹事件。6月、秀次に謀反の疑いが持ち上がった7.3日、聚楽第の秀次のもとへ石田三成、前田玄以増田長盛宮部継潤富田一白の5名が訪れ秀次を詰問した。謀反の疑いにより五箇条の詰問状を示して清洲城に蟄居することを促したが、秀次は出頭せず誓紙により逆心なきことを誓った。7.8日、再び使者が訪れ伏見に出頭するよう促され、秀次は伏見城へ赴くが、引見は許されず木下吉隆邸に留め置かれた。その夜、秀次が高野山に向かい、高野山青巌寺に流罪・蟄居の身となった。「秀次は元結をお切りになった。高野山にお住まいになるため、ということを申してきた」(兼見卿記)。「秀次は伏見へ赴いたものの秀吉と義絶し、夕刻に遁世して高野山に向かった」(言経卿記)。「関白が高野山へ元結を切って御出奔なさった」、「関白は逐電なされ」(大外記中原師生母記)。7.12日、 「秀次高野住山」令が出される。7.13日、 「秀次切腹命令」が出される。7.15日、秀次の許へ上使の福島正則、池田秀雄、福原長堯が訪れ、賜死の命令が下ったことを伝えた。同日、秀次は高野山で切腹し、小姓や家臣らが殉死した。禁中に仕える女性たちが記した輪番日記/御湯殿上日記には秀次切腹の翌7月16日条にこのように記している。「くわんはくとのきのふ十五日のよつ時に御はらきらせられ候よし申、むしちゆへ、かくの事候のよし申なり」。 従来、この記述は「秀次は昨日15日の四つ時に、(本来なら打首獄門となるところ、)無実なので切腹させられた」と解釈されてきた。しかし、助動詞「せられ」には〈尊敬〉の意味がある。これに沿って現代語訳すると、「関白秀次殿は昨日15日の四つ時に御腹をお切りになったということを(高野山が)申してきた。無実であるから(その証明のために)このようなことになった」という意味になる。 8.2日、京都の三条河原に秀次の首は晒され、秀次の首が据えられた塚の前で、秀次一族(正室、側室、秀次の遺児4男1女、侍女ら)39名を処刑する。

 秀次の死から9カ月後、秀頼の初参内などのセレモニーによってようやく事件は終息したが、豊臣家と政権は大きなダメージに苦しむことになる。なかでも重大なのは、豊臣家と政権の次代を担うはずだった唯一の成人男子・秀次とその子どもたちを一挙に失ってしまったことだった。豊臣家には老いた秀吉と幼い秀頼だけが残された。このことが、もう一人の実力者/徳川家康に政権奪取のチャンスを与えることになる。秀頼の傅役・前田利家の死と関ヶ原合戦を経て、豊臣家は大坂夏の陣で滅亡する。秀次の死からわずか20年の出来事で、秀次切腹事件がなければ豊臣政権の方向性は大きく異なっていた、日本の歴史も違った道を歩んだ可能性もある。「豊臣秀次切腹事件」とは、それほどまでに重大な事件だった。


【サン=フェリペ号事件】
 1596(文禄5).10月、土佐国にスペイン船が漂着し、サン=フェリペ号事件が起きる。奉行・増田長盛らは船員たちに「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。

 同年12.8日、秀吉は再び禁教令を公布した。秀吉が決定的に態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件からのことである。幕末以降の歴史書・研究史においては、秀吉は宣教師の行いを通じてスペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していたということが強調されている。イエズス会宣教師による日本征服計画があったのは確実である。

 1596(文禄5、慶長元)年、10.27日、慶長改元。

【細川幽斎、洛中の碁打衆を集めて碁会を催す】
 1596(慶長元)年、11.18日、細川幽斎、洛中の碁打衆を集めて碁会を催す。本因坊、仙也も参加。

【利玄、本因坊】
 1596(慶長元)年、舜旧記(神龍院住職梵舜吉田家当主兼見の弟の日記)。
 「一月十日、御斎衆守禅庵[柿一把・大栗廿]持参也、妙心院面甫・祖貞、各依相違此衆迄也、次本能寺衆利玄[昆布一束]全隆坊[串柿一把]持参也、予及面羹御酒之を勧む也、次いで新造に於て両人衆へ晩の振舞之れあり」。
 「一月廿日、雨降る。本因坊[二十疋、扇二本]来る也」。
 「一月廿四日、雪降る。大蔵少輔へ見舞を為す。錫双・食籠、持参せしむ也。本因坊[貳十疋、筆三対]遣はす也」。

 舜旧記の記者・梵舜は吉田家当主・兼見の弟、吉田社の氏寺神龍院の住職で当年才。神道家として家康の信を得、その死去に際しては久能山で神式葬祭をとりしきった人物。この年をはじめとして、日記には囲碁と将棋の記事が多くみえる。記事ともに年礼の贈答記録で、囲碁上手の利玄と本因坊が顔をみせている。

【本因坊、せんや】
 1596(慶長元)年、玄与日記(島津藩士黒斎玄与の上洛日記)。
  「十一月十八日、十七日近衛殿へ伺候す。十八日吉田へかへり侍りぬ。その日幽斎老碁の会を興行す。京中の碁打皆々参られ候。本因坊など也。せんやも参られ候」。

 細川幽斎の碁会に本因坊・仙也など京中の碁打皆々参られ候とある。この年月の舜旧記にも、吉田社の碁会に京中の碁打衆を招いての興行を記している。

 1596(文禄5)年、秀吉59歳のとき、慶長の役。明との講和交渉が決裂した。秀吉は作戦目標を「全羅道を悉く成敗し、忠清道・京畿道にもなるべく侵攻すること、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を定め、その他の諸将は帰国させる」として再出兵の号令を発した。


【慶長の役】
 1597(慶長2)年、秀吉61歳の時、慶長の役。小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2か月で慶尚道、全羅道、忠清道を制圧。京畿道に進出後、日本軍は作戦目標通り南岸に撤収し文禄の役の際に築かれた既存の城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築いて城郭群を補強した。このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受けたが、日本軍が明・朝鮮軍を大破する(第一次蔚山城の戦い)。城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を在番として拠点となる城郭群に残し防備を固めさせる一方、7万余の将兵を本土に帰還させ慶長の役の作戦目標は完了した。その後、第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いにおいても日本軍が防衛に成功した。秀吉は慶長4年(1599年)にも再出兵による大規模な攻勢を計画しており、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように命じていたが、計画実施前に秀吉が死去したため実施されることはなかった。

【フランシスコ会信徒26名処刑】
 1597(慶長2)年、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。2.5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。
 同年7.27日、スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に対し、日本は神国でキリスト教を禁止したことを告ぐ。

【利玄】
 1597(慶長2)年、舜旧記(神龍院梵舜の日記)。
  「正月十四日、伏見へ内府家康へ礼也、[扇廿本]月斎[江弐十疋・帯壱筋]善阿弥陀仏[二十疋]遣る也、…次いで大東院に於て夜十種香興行也、本能寺之内僧利玄房扇子[二本]胡斎[五両]住光坊[扇三本]持参也、対面に及び振舞申付け了んぬ」。
 「四月九日、天晴る。祇園梅坊に於て碁を興行す。利玄坊、同道せしむ也。終日之遊び也」。

 前年につづき本能寺之内僧利玄房が、吉田社に年礼に訪れている。

【本音坊(本因坊)、利玄、仙也、仙角】
 1597(慶長2)年、言経卿記(山科言経の日記)。
  「五月七日、丁酉、晴陰。吉田二位(吉田兼見)ヘ内府御出之間罷り向き了んぬ。乗物令小者・西御方下部等これを雇ふ。先づ神龍院(梵舜)ヘ罷り向き休息し了んぬ。次いで衣裳を改め了んぬ。吉田二位ヘ罷り向く之処に、碁・中・少将棊等これ有り。終日之儀也。内府・予・外記・極・碁打本音坊(本因坊)・利玄坊、幽斎細川、其外将棊指宗桂、其外二十四五人これ有り。八つ時分まで種々之事これあり。丁寧之儀也。八つ時分に神龍院ヘ極を同道し罷り向き宿し了んぬ。雇衆はやがて返し了んぬ」。言経卿記。「九月十二日、庚子、雨。江戸内府南禅寺三長老(霊三)へ早朝に御出也。予又乗物にて罷り向き了んぬ。…朝栗粉・ウトン、夕種々丁寧也。相伴の衆二十四五人これ有り。予・吉田二位(兼見)・水無瀬右兵衛尉入道(親具)・極・幽斎(細川藤孝)・その外碁打衆の本音(因)坊・利玄坊・仙也・仙角、其外大勢也。将碁指宗桂(大橋)等也。薄暮に帰宅し了んぬ」。

 吉田社と南禅寺の碁会。いずれも家康や公家を招き、碁・将棋衆を接待に呼んでもてなしている。

【本印坊、利元、宗具】
 1597(慶長2)年、鹿苑日録(相国寺鹿苑院主の日記)。
  「九月廿四日、早朝太閤発象馭於大谷刑部少輔華第。刑少は久しく所労也。悪疾の為を以て、五六年出でず。養子の大覚介、出で迎ふ。先づ数奇屋に於て御茶。御相伴は江戸内府・富田左近・有楽也。御茶の已後広間に到る。広間に於て、御太刀・御馬の金鞍皆具・御腰物・火段子御小袖二十・銀子百枚・綿子百把を進物す。…秀頼様、政所様、北政所様、逐一御服など進物有り。刑少は一分の領知六万石か。過分の進上也。午の刻御膳。内府・拙也。其の外七八人御相伴也。本印坊と利元棊を囲む。本印の先、利玄が九目輸す。太閤と宗具の棊、晩に及ぶ。又御小漬、昏黄に還御す。御普請場より名護屋丸に到り、夜に入り寺に帰る」。

 秀吉が大谷刑部を見舞い、大谷家は碁会を用意して接待した。秀吉と対局した宗具は、先の年細川幽斎の碁会にも名がある。

【算砂「本因坊定石作物」(写本)を編纂】
 1597(慶長2)年11.15日、算砂が「本因坊定石作物」(写本)を編纂する。

【本因坊、利玄、小性竹、利玄の師匠】
 1598(慶長3)年、言経卿記。
 「七月廿九日、壬子、天晴る。早朝に伏見へ冷を同道し発足し了んぬ。かご也。旅宿にて衣裳を改め、内府へ罷り向き了んぬ。朝これ有り。次いで対顔し了んぬ。牛玉清心円三十粒給り了んぬ。内々約束也。次いで碁これ有りて見物也。本音坊・利玄坊等也。見物衆あまたこれ有り。八つ時分に退下し了んぬ」。
 「十一月廿五日、丁未、天晴る。伏見へ発足す。全阿弥へ罷り向き了んぬ。昆布二束遣はし了んぬ。休息し了んぬ。次いで衣裳を改め、安部伊予守ヘたら五もたせ罷り向き了んぬ。預け置き了んぬ。次いで内府へ罷り向き対顔し了んぬ。夕を相伴し了んぬ。十余人斗りこれ有り。黄昏に及びて益田右衛門尉(増田長盛)へ内府御出の間、同道すべき之由これ有る間、罷り向き了んぬ。済々の振舞也。二十人斗り相伴し了んぬ。本因坊、利玄と棊これ有り。次いで利玄と小性竹[下京集、十四五才也、]これ有り。四つ時亥の下刻に帰られ了んぬ。予全阿に宿し了んぬ」。

 家康と増田長盛を訪い、本因坊と利玄の対局を観賞する。小性竹という少年の碁打が初出する。

【神龍院の碁会に利玄と利玄師匠】
 1598(慶長3)年、舜旧記。
 「十月十八日、雨降る。雷響く。当院に於て碁を興行せしむ。利玄坊来る、同蝋燭[十疋、]を持参す。利玄師匠[栢一包・堺塩、]梅坊[昆布一束、]法哲[油二挺、]同道五六人来る。暮に及びて帰る也」。

 神龍院の碁会に利玄と利玄師匠がくる。その師匠の手土産に堺塩あり、居所を暗示する。

【醍醐の花見】
 1598(慶長3).3.15日、秀吉62歳の時、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。この頃、洛中の屋敷として御所近くに京都新城を構えたが、参内の宿所として使用したのみでついに移居することはなかった。

【秀吉が病床に就く】
 5月、秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった。5.15日、『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康、前田利家、前田利長、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以、長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。秀吉は他に、自身を八幡神として神格化することや、遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言した。太政大臣辞職。
 7.4日、自分の死が近いことを悟った秀吉は、居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。8.5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8.17日に信濃へ向けて京都を出発している。

【秀吉死す】
 1598年、61歳のとき、秀頼を五大老に託す。8.18日、秀吉は伏見城にてその生涯を終えた。死因については「脚気」や「胃がん」など諸説諸説あり定かではない。辞世の句は、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」。
 秀吉の死はしばらくの間は秘密とされることとなったが、情報は早くから民衆の間に広まっていたと推察され、後に豊国社の社僧となる神龍院梵舜は梵舜日記8.18日条で、秀吉の死を記している。秀吉の遺骸はしばらく伏見城中に置かれることになった。9.7日には高野山の木食応其によって方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に寺の鎮守と称して、八幡大菩薩堂と呼ばれる社が建築され始めた(義演准后日記の慶長3年9月7日条)。1599(慶長4).4.13日、伏見城から遺骸が運ばれ阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬された(義演准后日記、戸田左門覚書)。4.18日、遷宮の儀が行われ、その際に「豊国神社」と改称された。翌1599年、朝廷より豊国大明神の神号を与えられ豊国廟に祀られる。これに先立つ4月16日、朝廷から「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号が与えられた(義演准后日記)。これは日本の古名である「豊葦原瑞穂国」を由来とするが、豊臣の姓をも意識したものとの見方がある。4.19日、正一位の神階が与えられた。神として祀られたために葬儀は行われなかった。 1915(大正4).11.10日、贈正一位。





(私論.私見)