日本囲碁史考、道策没後から道知後継まで

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.26日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで「日本囲碁史考、道策没後から道知後継まで」を記しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝 


 6.23日、道知(13歳)が、後式(跡式)御目見得を許される。
 7.1日、道知が家督相続を許され五世本因坊に就任した。道策遺言に従い、(井上因碩3世、系図書き変え後は4世)道節が後見人として本因坊家に起居することになった。
 10.1日、三崎策雲が井上因碩(道節)の養子、跡目となり、因節と改める。

 1702(元禄15)年11.24日(翌1.11日)、御城碁。
 道知が因碩の跡目の因節と共に御城碁に初出仕。道知は林玄悦門入に4段格の先で7目勝ちする。以後、享保5年まで7局、因節(4世因碩)は享保17年まで26局を勤める。
94局 (林門入3世)玄悦-(坊5世)道知(先)
 道知先番7目勝
(玄悦6局)
(道知1局)
95局 (安井4世)古仙角-(因碩跡目)(策雲因節)(先) (古仙角14局)
(因節初1局)

【江戸時代中期】
 1800年代に入ると、囲碁界は黄金期を迎える。江戸後期には商業経済の発達によって新しい町人階級から豪商が生まれ、農業でも豪農がでてくる。豪商・豪農はしばしば中央の碁打ちを招待したり、地方在住の碁打ちを優遇した。そのため碁打ちはよく、全国を旅回りした。 落語の「碁打盗人」で有名なように市井でも盛んに打たれていた。一方で地方によっては双六などとともに賭け事の一種と見られて、禁止令が発されることもあった。次のような囲碁史となる。

 1703(元禄16)年

 1703(元禄16)年11.20日(12.28日)、御城碁。
96局 (安井4世)古仙角7段-(坊5世)道知6段(定先)
 道知定先5目勝
(古仙角15局)
(道知2局)
97局 (因碩4世)策雲因節-(林3世)玄悦(先)
 因節白番4目勝
(因節2局)
(玄悦7局)

 (井上因碩3世)道節は道策の遺言を忠実に守り、道知少年の育成に全力をあげた。自らは井上家の当主でありながら住まいを本因坊家に移し、道知と起居を共にした。道知もこれに応え、道節を真の師のように慕い、礼を尽して仕えた。
 元禄年間に「碁経晴鑑」3巻、「碁伝集・碁立指南抄・碁立秘伝抄」5巻、「碁立指南大全」1巻が出版される。

 1704(元禄17)年

 1704(元禄17)年3.13日、宝永に改元。

 1704(宝永元)年11.17日(12.16日)(12.28日)(翌1.11日)、御城碁。
98局 (坊5世)道知-(林3世)玄悦(先)
 道知白番2目勝
(道知3局)
(玄悦8局)
99局 (因碩跡目)策雲因節-(安井4世)古仙角(先)
 古仙角先番14目勝
(因節3局)
(古仙角16局)
100局 (林3世)玄悦-(坊5世)道知(先)
 道知先番7目勝
(玄悦9局)
(道知4局)

 1705(宝永2)年

 10.12日、片岡因的(36歳、7段)が、(井上因碩3世)道節の計らいで(林3世)玄悦の養子となり因竹と改名、跡目を許される。10.15日、御目見得。

 1705(宝永2)年11.24日(12.16日)、御城碁。
 道知(16歳)・仙角(33歳)対局を閲覧に供す。道知の6段昇段に仙角が異議を唱えたため、事実上の争い碁となった。
 林因竹(後に4世門入)御城碁に初出仕。
101局 (安井4世)古仙角7段-(坊5世)道知(先)
 道知先番1目勝
(古仙角17局)
(道知5局)

 この時、安井仙角と本因坊道知の最初の先相先対局があり、(林跡目)因竹が下打ちの際に翌朝の終局まで同席して、道知1目勝の結果を後見の道節に伝える役を果たした。道知が御城碁三連勝を飾り、この実績で道的以来の天才少年の名声を博し、早くも将来の名人と嘱望され、道策の眼に狂いがなかったことが証された。

102局 (井上跡目)因節-(林跡目)因竹(先)
 因竹先番3目勝
(因節4局)
(因竹朴入初1局)

 (林跡目)因竹が井上因節に先番3目勝。爾後、享保10年まで18局を勤める。

 11.25日、本因坊道知、寺社奉行に芸道修業のため仙角と番数(番碁)を打つことを願い出る。幕府、十番碁を命ず。

【「宝永の争碁」】
 1705(宝永2)年、道策の跡目となった本因坊道知、15歳の時、御城碁で6段格の安井仙角との対戦が望まれることになった。両者は、2年前、御城碁でも対戦し4段格の道知が先で5目勝っている。道知は、あの頃からさらに強くなっている。

 10.2日、井上因碩(8段半名人)が将棋方の大橋宗与を使者として、次月の御城碁で道知が安井仙角6段と打つのに際し、道知に「先」(6段格)を許したとして、安井仙角6段に11月の御城碁で互先で打つことを申入れる。この当時、内輪の交渉ごとは他家に仲介を頼み、公式の交渉ごとは碁方なら将棋方を、将棋方は碁方を煩わせるのが慣例で、因碩は大橋宗与に使者を頼んだ。仙角は、概要「一昨年、道知の先で自分は負けているが、まだ一局しか手合いをしていない。一年置いただけで定先から先相先を飛び越えて互先とは、とんでもない。前例のないことだ。(今年直ぐ二段飛んで互先で打てとは)いかに準名人でも不当な申し入れではないか。自分はそういう無理を云われても応じるわけにはいかない」と突っぱねた。道策亡き後、自分が碁界の第一人者と自負している道節は激怒し、強硬に仙角に談判した。


 本因坊家の隠居道悦が京都に居住し70歳になっていたが、出府して来て、自分から出掛けて仙角と面談し、「道知の芸はそう軽く見るわけにはいかない。互先で打つのが至当」と説得している。ところが仙角は聞き入れなかった。

 10.23日、仙角も意地になって、寺社奉行・三宅備前守康雄に対し、因碩指定の御城碁手合割りの不服状を提出した。為に問題が公然化した。

 11.1日、因碩も放置しておくわけにはいかなくなり、月番寺社奉行・本多弾正少弼忠晴に道知・仙角の互先手合直し願嘗を提出。次のような論旨であった。
 「自分が仙角に対して本因坊と互先で打ってほしいと申し入れたのは、家督相続以来三年たち、修行の甲斐あって、格段に進歩したからで、坊門一同大いに安堵している。仙角は一昨年、先で打ったことを楯にとって苦情を云っているが、あれは道知が若年の上に初手合いだったから、年長の仙角に対して、とにかく先で打たせてみただけである。その勝負も幸い道知が勝った。現在では一昨年より一層の上達をしている。それで隠居道悦と自分とで、よく吟味の上、今年は互先で打つのが妥当と結論したのである。仙角は一昨年一局打っただけで互先になるのはおかしいと返事をしてきたが、手合割りというものは必ずしも、手合直りの番数(六番ないし四番)を打たなければ直せぬ、というものではない。例えばこういう前例がある。三代前の算悦が算知と打ったとき、その前に算知が先で負けたにもかかわらず、互先で打てと上意があったので、そのようにして対局した。また近い例では、自分は仙角に二子を置かせ、四番打って一局も負けていないが、仙角も安井家を相続したことであり、上位を認めて先の手合いに直してやれ、という道策の申しつけに従って、言葉の通りに手合いを改めた。こういうふうに、先例では以前置いたことがあっても、順を追って半分ずつとは限らず、そのときの碁格によって、一足飛びに直すこともある。その後、仙角から大橋宗与を通じて、自分を上手並みにしてほしい、そうして道知を六段格にして、半石置かせて打つ先相先の手合いなら承服する、と云って来た。しかし私は碁所の資格を与えられておらず、道策の遺言によって本因坊家を預かるだけの身分で、同門の手合いについては一存で計らい得るが、他門のことまで指図できかねる。元来、仙角の碁は自分に先なのだから、名人には先二というべきである。従って道知がその仙角にさらに先相先で打つようでは、私としては師匠道策から本因坊を家柄相応に取り立ててほしいと頼まれた甲斐がないことになってしまう。この際、きっぱり互先から打ち始めて、勝負次第で互いに手合いを直していったらいいだろう。自分の考えでは、互先で打てないことはないはずである。道知は先師道策も見込んだ後継者である。また隠居道悦は碁所を勤めた道策と互先の御証文をいただいた格であるが、この件は道悦も加わって充分吟味した上である。決して不相応ではない。この点は互先で番数(番碁)を打つよう命じていただければ自然に解決すると思われる。且つそれは所作の励みにもなることで、ぜひこの際、互先で打つよう仙角に命じていただければ、非常に有り難いことである。(以下略)」。

 弾正、前月番の備前守に願うよう指示を与える。結局、折衷案を採り、「先相先の手合割り20番争碁」を裁可した。
 11.20日、「宝永の争碁」と云われる「安井仙角7段(32歳)-本因坊道知5段 (先相先の先番、15歳)」が11.24日に行われる御城碁の下打ちとして将棋方・大橋宗桂宅で行わる。「下打ち」とは、安土、桃山から江戸初期にかけて、上覧碁で一日数番も打つ早碁が多かったところ、寛永以降は碁のレベルが上がり、ことに争碁(あらそいご)が打たれるようになってからは一日で片づかない事例が出て来るようになり、そのため御城碁はあらかじめよそで対局し、御城碁の当日はその対局譜を並べて見せるだけの儀式のようになった。その対局を「下打ち」と云う。その勝負は部外者には秘密にされ、御城碁の日付を対局日として発表されるようになった。

 (「争碁第1局は型通りのもので、第2局が真剣碁になった」との記述があるが、その場合の争碁第1局の対局日が分からないので省く) いよいよ真剣争碁「安井仙角7段-(坊)道知5段 (先相先の先番)」が打たれた。本書ではこれを第1局とする。本因坊家と安井家は、算悦、算知、道悦の争碁以来、陰にこもったものが流れており、両者とも負けられない面目を賭けていた。

 ところがこの時、道知は痢病を患っており体調不良で対局できる状態ではなかった。一門には猶予を願い出た方がいいという声もでてくるほどだったが、道知は全快に至らず衰弱甚だしかったにも拘わらず必ず勝つ、是非打たせてほしいと客家横溢するところを見せた。因碩は、片岡因竹(後に四世門入)、小倉道喜(後に秋山仙朴)、高橋友碩らの弟子たちを従え、少年の井田知碩を道知の看護役として対局場に向かった。


 御城で朝の五つ(8時)から開始された。体調不良のせいか道知の石に序盤から冴えがなく形勢が振るわなかった。道知の石の隙を仙角につかれて劣勢に陥ってしまった。八つ時(午後2時)、後見の因碩は途中で見ていられなくなって席を立ち、本因坊家まで重い足を引きずって帰った。道節の形勢判断では道知の勝ちは見出せなかった。夕刻、友碩も続いて帰宅、因碩と検討したが逆転の手段は遂に見いだせなかった。深夜になっても終局の知らせは来なかった。実際には、終盤戦に入るや道知が好手筋を連発し、鬼気迫る追い込みを見せ碁がもつれにもつれていた。特に黒125、127が後世に有名な妙手となった。「道知のヨセの妙手の局」と云われる。そして遂に1目抜き去った。勝ちと思い込んでいた仙角は負けが信じられず、二度作り直したと云われる。悪条件下の第1局を負けなかったことは道知の地力の証明であり、争碁の行く末を示したものだった。翌朝明け方、「勝った、勝った」と門前で騒ぐ家僕の声があった。因碩は信じられなかったが、追々報じて来る門下の注進により勝ちを信ずるに至った。やがて帰って来た道知の手を取り、あの碁を勝ちにするとは自分にはできない妙技と述べて隠居道悦と共に称賛して止まなかった。
 11.25日、御城碁が終った翌日、道知が寺社奉行に以下の文面を記した願書を差し出した。
 「私議、幼年にして本因坊仰せ付けられ、有難く存じ奉り候。冥加となし、いゆいゆ所作相励み申したく、存じ奉り候。それについては、仙角と番数仕(つかまつ)り候義に仰せ付けられ下され候様、願い奉り候」。

 口上書は次の通り。
 「隠居道悦儀、先年算知と番数一ケ年五十番仕りたくと願い候処、二十番づつ仕り候様にと仰せ付けられ候前例も御座候につき願い奉り候」。

 1706(宝永3)年

 正月 、「因碩(道節)-(坊)道知(先)」、和棋(ジゴ)。
 後見を解く日も近いとみた井上因碩(道節)は、宝永3年の1月から3月までの間、道知の先で10局の手合いを試みている。道知は、仙角との争碁の第1局後、井上因碩(道節)との十番碁を打っている。第2局の直前までに4局が打たれており、跡目と目される道知の技倆が試されている。或いは因碩による力強い指導碁であったかと思われる。
1局 1月 因碩(道節)-道知 道知3目勝
2局 因碩(道節)-道知 ジゴ
3局 2月 因碩(道節)-道知 道節2目勝
4局 因碩(道節)-道知 道節3目勝
5局 3.27日 因碩(道節)-道知 道知8目勝
6局 3.28日 因碩(道節)-道知 道節3目勝
7局 4.6日(2.23日) 因碩(道節)-道知 道節中押勝
8局 4.18日 因碩(道節)-道知 道知4目勝
9局 4.25日 因碩(道節)-道知 道節2目勝
10局 4.27日 因碩(道節)-道知 道節7目勝

 2月~3.15日、道知「先」で3勝6敗1ジゴ。井上因碩(道節)は道知を7段に薦めた。

 1.8日、「因碩(策雲因節)-林門入(朴入)(先)」、門入(朴入)先番3目勝。
 2月上旬、道知、因碩のかねて高橋友碩、掘部因入に委嘱していた古記録「伝信録」成る。

【「道知―仙角」争碁】
 「道知―仙角」争碁が始まる。
2.17日 第2局「安井仙角-(坊)道知(先)」。 道知先番15目勝。
本多邸で打たれる。第1局の経緯(いきさつ)もあり、仙角が
「15目負け候に相違これなく候」と念書を取られる。
6.2日 第3局「(坊)道知-安井仙角(先)」 道知白番3目勝。
寺社奉行・鳥居伊賀守忠救邸で打たれる。

 第1局は道知の逆転1目勝ち。第2局は道知の体調も戻って15目の大勝。

 
*.*日(7.11日)、「(坊)道知-仙角(古仙角)(先)」、道知白番3目勝。第3局も道知の白番3目勝。
 6.3日、道知の3連勝で完敗した仙角は互先手合直りを認め、争碁中止出願を余儀なくされた。因碩は寺社奉行になお十番碁の継続を乞うたが、仙角は手をつくしてこれを回避し、奉行も因碩に争碁願を取り下げさせる。打倒仙角を果たした道知は「上手」に進んだ。後年、道知が将棋も超一流であったことを知った仙角は、「盤上の聖」と道知を称えている。

【(林4世)玄悦隠居、林因竹が林4世になる】
 7.29日、林門入(玄悦)が隠居す。林因竹が家督相続を許され林門入4世となる。

 1706(宝永3)年12.2日(翌1.5日)(翌1.8日)、御城碁。
103局 (坊5世)道知-(安井4世)古仙角(先
 古仙角先番5目勝
(道知6局)
(古仙角18局)
104局 (林4世)朴入-(因碩跡目)策雲因節(先)
 因節先番4目勝
(因竹朴入2局)
(因節5局)
105局 (因碩4世)道節-(林4世)朴入(先)
 朴入先番3目勝
(道節11局)
(因竹朴入3局)

 この年、伊藤春碩(5世井上因碩、世系書き挽え後は6世)生まれる。
 この年、近松門左衛門が「碁盤太平記」を著し、大坂竹本座で上演されている。1702(元禄15).12月の赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件(「忠臣蔵」)の源流となるもので、次のような場面が書かれている。寺岡平右衛門が吉良邸の案内を苦しい息の下から語り、これを大星由良之助が碁盤に石を並べて会得する様子が語られている。
 「白石は塀、黒は館(やかた)と心得よ。ここは東表門、1目を十間づもり、並べし石数14目、百十間これ皆な塀か。折回しに平長屋、西の裏手は長屋か塀、さてはこれも折回しの長屋門。馬屋は西か武具の蔵。さてはここらぞ遠侍、広間はこれよりこれまでな、奥の寝所はここか、かしこか。さればこの間長廊下、この間が泉水広庭ならん。北は空地か碁盤の目」。

 1707(宝永4)年

 因碩が一門を集めて道知と再度十番碁を打ち、その結果によって後見を解くことを発表。7番で打止め、結果と碁譜は秘す。因碩は、前年の十番碁(7番)の結果により道知の後見を解き、本因坊家から別居、井上家の邸に戻る。

 1707(宝永4)年11.17日(12.25日)(翌1.2日)(翌1.5日)、御城碁。
106局 (因碩跡目)策雲因節-(坊5世)道知(先)
 道知先番6目勝  
(因節6局)
(道知7局)
107局 (安井4世)古仙角-(林4世)朴入(先)
 朴入先番5目勝
(古仙角19局)
(因竹朴入4局)
108局 (坊5世)道知-(安井4世)古仙角(先)
 古仙角先番5目勝
(道知8局)
(古仙角20局)
109局 (林4世)朴入-(因碩跡目)策雲因節(先)
 因節先番4目勝
(因竹朴入5局)
(因節7局)

 1708(宝永5)年

 正月、本因坊家恒例の打ち初め式の後、一門揃っての屠蘇(とそ)を酌み交わそうとした時、道節が次のように述べている。
 「亡き師道策先生の遺命により、今日まで6年間、私は道知殿の後見に当って来た。しかしご一同も承知の通り、道知殿は格段の進境を示され、由緒ある坊門の棟梁として恥ずかしからぬ力量を備えられるに至った。新年を迎えたこの機会に私は後見を解こうと思う。どうかご一同、今後も若き当主を盛り立て、いっそう家名を高めていただきたい」。

 因碩4世は、前後17番の試験後の結果、道知の後見を解き、別居して井上家に戻った。道知(19歳)は、道節を名人にするべく要所に運動して奏功させている。道知は、「道策先生の遺言は碁所を望むなであって、名人になるなとは言っていません」と述べ、道節に恩を返した。
 3.3日、寂光寺(京都、寺町通竹島町下東側)焼失。本因坊隠居道悦、庭前に焼け残った白檀で11組の碁笥を製作させる。
 10月、井上因碩(道節、63歳)が名人(9段)に昇格する。

 1708(宝永5)年11.22日(翌1.2日)、御城碁。
110局 (坊5世)道知-(因碩跡目)策雲因節(先)
 因節先番2目勝
(道知9局)
(因節8局)
111局 (林4世)朴入ー(安井4世)古仙角(先)
 仙角先番4目勝
(因竹朴入6局)
(古仙角21局)

 1709(宝永6)年

 相原可碩、坪田翫碩、召出されて御家人となる。

 1709(宝永6)年11.23日、御城碁。
112局 (安井4世)古仙角-(坊5世)道知(先
 道知先番5目勝
(古仙角22局)
(道知10局)
113局 (林4世)朴入-(因碩跡目)策雲因節(先
 因節先番4目勝
(因竹朴入7局)
(因節9局)

 12.21日、井上因碩が碁所を仰せつけられる。

 1710(宝永7)年

 1.1日、「安井仙角-(坊)道知(先)」、道知先番5目勝。
 1.1日、本年11月の琉球朝貢に際し、中山王が、親雲上浜比賀(ペイチンハマヒカ)の道策との対局の前例に倣い、当時15歳ながら琉球では第一の打ち手として名高い屋良里之子(やらさとのし)の本因坊家の第一人者との対局を島津家を通じて乞い、月番寺社奉行の許可を得た。

【本因坊・道知が琉球碁士・屋良里之子(やらさとのし)を3子でこなす】
 11月、琉球の朝貢使節が屋良里之子(やらのさとのし)を同行させて江戸に到着し、九州の島津屋敷に滞在した。藩お抱え棋士の斉藤道暦(六段格)の指導を受けた後、本因坊道知に3子置いて対局することとなった。

 12.1日、島津邸(芝)で、「坊)道知-屋良里之子(琉球棋手) (3子)」、道知3子局中押勝。屋良里之子(やらのさとのし)の3子なら容易に負けないとの思惑が道知の下手ごなしに粉砕され、その力に大いに驚いたという。

【相原可碩が屋良里之子(やらさとのし)と対局(向先)、2目勝つ】
 1710(宝永7)年、12.9日、井上家門人にして屋良と同年代の相原可碩(13歳)が、琉球碁士・屋良里之子(やらさとのし、15歳)と島津邸で対局(互先)、白番で2目勝つ。但し、内容は屋良が押しており、終盤の隅の応接でのツギが見損じでこれを逆側にオサエていたら屋良の勝ちだったという。当日、観戦者がかなりの数に及んだと記されている。

 12.14日、井上因節、高橋友碩、井家道蔵(因長)ら使者となり、「上手(7段)に対して2子」の免状(12.3日付)を島津邸に届ける。この件につき「坐隠談叢」が次のように記している。
 「屋良里之子はその後、今一度本因坊と対局せんことを切望し、使者を以ってこの由を本因坊家に申し込みたるに、本因坊道知は勇気勃々之に応ぜんとするも、老練にして世故に経験ある因硯(4世井上因碩)は深く慮るところありて、今回は道知病気と称し、相原可硯をして代理たらしむべしと言いしかば、道知を始め多くの門人皆な不審に堪えざりしが、一同之に従いその旨を島津家に通知せり。島津家に於いては道知病気を本意なき事に思いしが、可硯代理を勤むると聞き、12月9日を対局の期と定む。時に可硯年甫(はじ)めて13歳。当日、可硯は因硯及び二、三人の門人に伴われ、島津邸にて白番2目の勝ちを得たり。よりて前日の手合いと同じくこの由書面に認め、奉行右京進に届け出、右京進は之を将軍家の上聞に達したるに、殊のほか御喜悦の由にて、真部越前守は13歳の可硯能く屋良に先を打たせて之に勝つ。誠にこれ和国囲碁の誉れなりと寿きを申し上げたりと云う。

 これより前、屋良里之子の薩摩邸に在るや、常に島津家召抱えの碁士斎藤道麿、西俣因悦に就いて道策流の石立てを学び、今や両人に対し二子を置くときは容易に敗を取ることなきに至れり。故に今回江戸に上り本因坊に対するも三子を置けば必勝なるべしと期し居たりしに、事実は予想に反し、中押し負けをとりて一度その非凡に驚きたるに、重ねて13童可硯に先番を取られ、実に遺憾の極みなりと嘆声を発するに至れり。

 碁終えて通弁江田親雲上因碩に語りて曰く、『我かって清国にも往来して彼の国の碁士を見たるに、その業は世襲に非ずしてその人限りとせり。叉碁品は日本に対し先の位なるべし。されば日本は万国に於いて斯道の一位たるべく、彼の可硯君の幼を以ってするもなおかくの如し』と。因碩帰邸後之を語り且つ曰く、『吾の先に本因坊を止めて可碩に代らしめたるは世上本因坊は囲碁の長者にして何人と対局するも必ず勝つものと信ぜり。故に本因坊にして克ち難き碁を勝ちたりとて、左まで賞讃せられざるも、可硯の如き少年をして対局せしめば、譬え負けたればとて別に恥辱と云うべきにも非ず。もし叉勝ちを得んか一層の名誉なりと信じ、かくは為したるに、事果たして予の希望の如かり』と」。

【相原可碩】(「石井恕信見聞記」の記述参照)
 相原 可碩(あいはら かせき)
 (1698(元禄11)年 -1776(安永5)年)
 江戸時代の囲碁棋士。1698(元禄11)年、伊予国生まれ、
井上因碩4世道節門下、七段。琉球碁士との対戦がある他、本因坊知伯本因坊秀伯本因坊伯元の時代に碁界を支えたとも言われる。幼時から井上道節因碩門下となる。12歳の時、徳川家宣に召し出され、切米150俵を賜って、御家人として芝三田に邸宅を拝領した。

 1710(宝永7)年、13歳三段の時、碁の教授のために因碩、跡目因節高橋友碩、可碩が島津邸に招待され出向いている。この時、琉球国中山王の貢使随員で屋良里之子本因坊道知と島津邸にて対局した際に、島津家の茶人児玉可俊と対局して向先で勝。次いで屋良が道知との再戦を申し入れると、因碩は道知病気と称して可碩を屋良と対戦させ、屋良先番で可碩2目勝となった。

 可碩は1720(享保5)年、道知が碁所就位を各家に打診した際には、家元間の使者役を務めた。1735(享保20)年、井上春碩因碩とともに七段に進む。本因坊知伯と4局、秀伯と9局、伯元と6局などの棋譜が残されている。また大斜定石の棋譜として最も古いものを遺している。1763(宝暦13)年、66歳の時、
坂口仙徳との棋譜がある。
 参考文献
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』(新樹社 1955年)
福井正明「囲碁史探偵が行く 31回 碁界の窮地を救った相原可碩」(碁ワールド、2007年7月号)

【因碩(道節)名人の碁所就任事変】
 屋良は、親雪上浜比嘉(べいちん・はまひか)の先例(本因坊道策が許可を与えた)により免状を懇請した。しかし、碁所は空位のままで免状が発行できなかった。名人だが碁所ではなかった因碩(道節)は、先師道策との誓約を破って碁所就位を決意し、林門入に相談した。
 「かって道策の時に、親雲上浜比賀の望みで免状を与えた。我が囲碁史上、外国の者に免状を与えたのはそれが初めてで、斯道の光栄であった。その時の免状の写しを見ると、日本大国手官賜棋所となっている。屋良にも望み通り免状を与えたいが、今、棋所はいない。道知はまだ年少である上に、格7段である。格7段では棋所たるを得ず、自分の地位も准名人である。准名人や格7段の免状を、屋良にやる訳にはいかない。どうしたものだろう」。
 「相談とはそこだ。自分は先師道策の死に際に、棋所の望みは絶対に起きないと誓った。その誓いを破る気はない。が、ここは日本碁界の体面の問題である。一時的に自分が棋所となって、免状を出すのはどうだろう。それなら島津家も喜ぶし、屋良も喜ぶだろう。断っておくが、これは一時的なことだ。免状を出したら、自分は退隠して棋所の地位を返す。そうしなければ先師に対して申し訳ないから」。

 「免状の件が済んだら碁所はお返しする」と公約して林、安井両家にはかって合意を取りつけ、かたがた道知の説得を要請した。林門入が道節の意を道知に伝え、道知も同意し、道知に碁所出願を依頼した。因碩(道節)は直ちに碁所就位を願い出る。
 
 12.5日、幕府が、因碩(道節)名人(65歳)の碁所就位を認可した。因碩(道節)は「日本国大国手」の肩書きで、里之子に「上手(七段)に対して二子」の免状を与えた。


 思えば、道策が期待していた跡目道的は21歳で夭折し、ついで跡目に選んだ策元、八碩、本碩らが皆な夭折して年少の道知を跡目とした。因碩は遺命を守った。ところが、島津家が伴ってきた琉球の棋士屋良里子に免状を授与せんとする事態が因碩を豹変させた。碁所が欠所ではできないこと、道知はまだ若年を理由にして、因碩が名人碁所に任じられた。遺言がえてして死後に守られないことは秀吉が家康に遺言した例を見てもわかる。こうして師命に背く悪名を受けずに、因碩は望みを果たした。

 ところが、「免状の件が済んだら碁所はお返しする」と公約して碁所に就位した因碩(道節)は一向に碁所を返上せずその後も長く碁所を続けた。一説に、琉球人帰国の後は、道節を退位させ、道知を碁所に就かせるという密約が四家元でなされていた。これに道知が燻り続けることになる。結果的に、道節は享保4年74歳で没するまで満9年間碁界を統率した。後年、道知が名人碁所になった時、因碩のため自分の名人碁所が十年遅れたと恨み事を述べている。

 1710(宝永7)年11.3日(12.22日)、御城碁。
114局 (坊5世)道知-(安井4世)古仙角(先
 仙角先番2目勝
(道知11局)
(古仙角23局)
115局 (因碩跡目)策雲因節-(林4世)朴入(先)
 朴入先番3目勝
(因節10局)
(因竹朴入8局)
 この年、春、隠士三徳「囲碁四角妙」2巻出版。
 この年、井口知伯(後に6世本因坊)生まれる。

 1711(宝永8)年

 1711(宝永8)年、4.25日、正徳に改元。

 1711(正徳元)年11.21日(12.30日)、御城碁。
116局 (林門入4世)朴入-(坊5世)道知(先)
 道知先番5目勝
(因竹朴入9局)
(道知12局)
117局 (安井4世)古仙角-(因碩跡目)策雲因節(先)
 因節先番3目勝
(古仙角24局)
(因節11局)
 同年12月、渋川春海(2代目安井算哲)、天文方より引退。

 1712(正徳2)年

 1712(正徳2)年12.16日(翌1.12日)、御城碁。
118局 (坊5世)道知-(林門入4世)朴入(先)
 朴入先番2目勝
(道知13局)
(因竹朴入10局)
119局 (因碩跡目)策雲因節-(安井4世)古仙角(先)
 古仙角先番3目勝
(因節12局)
(古仙角25局)
 「碁立指南大成」6巻出版。

 1713(正徳3)年

 1713(正徳3)年11.16日(翌1.12日)、御城碁。
120局 (因碩4世)策雲因節-(坊5世)道知(先)
 道知先番5目勝
(因節13局)
(道知14局)
121局 (安井4世)古仙角-(林4世)朴入(先)
 朴入先番3目勝
(古仙角26局)
(因竹朴入11局)
122局 (因碩4世)因節-(仙角4世)古仙角(先)
 古仙角先番3目勝
(因節14局)
(古仙角27局)

 この年、「道策本因坊百番碁立」(別名さざれ石、道策の遺著)出版。

【囲碁発陽論が出版される】
 1713(正徳3)年、井上因碩4世著「囲碁発陽論」(「囲碁珍瓏(ちんろう)発陽論」)が出版される。因碩68歳のときに完成したものので、詰碁の本で不断桜(桜を絶やさないほどの名品の意味)とも呼ばれる。玄々碁経、官子譜のものも入っているが、殆どが因碩や当時の棋士たちのオリジナルな名品である。難解のものが多いことで知られている。著者の井上因碩いんせきは囲碁の家元である井上家の4代目である。井上家では、2代目から代々井上因碩を名乗るようになったことから、本因坊秀哉による緒言には「第三世井上因碩」と記されている。「第三世井上因碩」は、1697(元禄10)年に51歳で井上因碩を襲名し、1719(享保4)年に亡くなるまで家元の地位にあった。

 昭和の囲碁棋士である長谷川章は「囲碁の友」誌上に1951.6月から12月にかけて「発陽論について」という連載をし、連載第1回の記事冒頭には、「その規模の雄大な事、着想の非凡にして深遠なことは、只々驚く計りであり」と記している。死活の問題(詰碁)、攻め合いの問題、シチョウ問題、盤中詰碁などで構成され、原本では183題とされるが異本を含めると202題ともされる。生図の部全30題、盤図の部全11題、勝図の部 全32題、夾図の部全8題、点図の部 全14題、追落図の部 全16題 、劫図の部 全27題、飛門図の部 全14題、責合図の部 全17題、門沖図の部 全14題からなる。 

 井上因碩は本書完成後も、井上家門外不出の書とし、門下の者でも容易に見ることはできなかった。因碩死後もその内容は秘されていたが、井上家の火災にあって原本は焼失した。しかし本因坊烈元門下の伊藤子元が入手していたものが人づてに伝わり、1906年に安藤如意が伊藤松和の門人からその存在を聞き、山崎外三郎の未亡人より筆写の許しを得た。これを入手した本因坊秀哉が、15世井上因碩所蔵のものと合わせ、時事新報に掲載し、1904年に秀哉、因碩による解説とともに「囲碁珍朧発陽論」として出版した。写本で現在まで古書として残っているものもある。現在も解説本が出版されており、もっとも難解な詰碁集としてプロ棋士を目指す者にとってのバイブル的な存在となっている。
 「石立ての位は囲碁の陰なり。見分ける手段は陽なり。陰陽協和なき時は全備なりがたし。ここによって手段の筋囲碁に顕るる所の形を考え作すにその数無量にして尽されず。されども一通の手筋を論じて、一千五百余件の中、十が一を摘く一百八十余件を撰述せり。如斯をよく修練せば、手陽発すべし。勿論、石立位陰の修行猶専要なるべし。手段は限りなけれども、これらのよく形を図して有る時は畢竟見へずと云う事なし。手段抜群の人は、形顕れずといへども胸中に形を催して悪を去り好を用ゆ。この如き輩は希にして尤も大功、庸人に踰ゆ。これを真に見ゆる名人と謂ふべし。且つこれらの形に厚薄あり、近き手筋なれども庸手の不附心所を導かむために記せり。又云う、往昔伝わりし囲碁の書に改善をして手筋を人にしらしむる類多し。考うるに作者の書きたるにはあらず。もし筋の改書をあやまらば、誠に本意なかるべし。故にこの書に評を加へん人、必ずその名を記して後世に伝べし。正徳三癸巳年八月十四日 官賜碁所 三世井上因碩」。

 1714(正徳4)年

 1714(正徳4)年12.20日(翌1.2日)、御城碁。
123局 (坊5世)道知-(因碩跡目)(策雲因節)(先)
 因節先番3目勝
(道知15局)
(因節15局)
124局 (林4世)朴入-(安井4世)古仙角(先)
 古仙角先番4目勝
(因竹朴入12局)
(古仙角28局)
125局 (因碩4世)因節-(坊5世)道知(先)
 道知先番5目勝
(因節16局)
(道知16局)

 1715(正徳5)年

 1715(正徳5)年11.14日(12.9日)、御城碁。
126局 (安井4世)古仙角-(坊5世)道知(先)
 道知先番5目勝
(古仙角29局)
(道知17局)
127局 (林4世)朴入-(因碩跡目)策雲因節(先)
 因節先番3目勝
(因竹朴入13局)
(因節17局)

 10.6日、渋川春海没(享年77歳)。

 1716(正徳6)年 

4.11日 服部因淑-中野知得(先) 知得先番中押勝
4.14日 中野知得-服部因淑 因淑先番中押勝

 1716(正徳6)年、6.22日、享保に改元。
 吉宗が8代将軍となる。

 10.15日、「中野知得-宮重元丈(先)」、不詳。
 将軍吉宗が、家康の命日にちなんで(大阪冬の陣の吉例により)、御城碁日を毎年11月17日と定める。徳川吉宗が囲碁の起源に興味を持ち、当時の棋士たちに聞いたところ、神話や伝説を説明した後、「詳しくは知り申さず」を答えたという話が伝えられている。

 1716(享保元)年11.17日(12.30日)、御城碁。
128局 (坊5世)道知-(安井4世)古仙角(先)
 古仙角先番2目勝
(道知18局)
(古仙角30局)
129局 (因碩跡目)策雲因節-(林4世)朴入(先)
 朴入先番3目勝
(因節18局)
(因竹朴入14局)

 1717(享保2)年

 享保年中、「井上春碩-永野快山」、棋譜に残る最初の3コウ無勝負。
 井上春碩は井上因碩6世。春碩は家督相続前の名で、享保11年に跡目、19年に因碩を名乗っている。本局は6段時代の碁と思われる。快山は肥後の人で僧侶、快山坊とも云う。この碁の少し前、本因坊道知と二、三子の手合いで数局打ち、後に6段に昇段している。

 1717(享保2)年11.17日、御城碁。
130局 (因碩跡目)策雲因節-(坊5世)道知(先)
 道知先番5目勝
(因節19局)
(道知19局)
131局 (林4世)朴入ー(安井4世)古仙角(先)
 古仙角先番4目勝
(因竹朴入15局)
(古仙角31局)

 1718(享保3)年

 1718(享保3)年11.17日(翌1.7日)、御城碁。
132局 (坊5世)道知-(林4世)朴入(先)
 朴入先番3目勝
(道知20局)
(因竹朴入16局)

因碩(策雲因節)-(坊)道知(先) ジゴ

 1719(享保4)年

 1719(享保4)年11.17日(12.27日)、御城碁。
133局 (林跡目)玄悦-(坊5世)道知(先)
 道知先番5目勝
(玄悦〆10局)
(道知21局)
134局 (因碩5世)策雲因節-(安井4世)古仙角(先)
 古仙角先番3目勝
(因節20局)
(古仙角32局)

 11.17日、隠居の(林門入2世)玄悦没(享年45歳)。
 旧暦12.7日(新暦翌1.16日)、井上因碩3世(道節)(名人碁所、系図書き換え後は4世)生没(享年74歳)。
 道知は、道節が「国際免状発効後は碁所を返上する」の口約たがえに際して、後見の恩義から敢えて責めなかった。但し、それより10年後の死去に際して他家から何の動きもないため温厚な道知もしびれを切らした。因碩没後、道知が他の三家(安井仙角井上策雲因碩、朴入)に対し、相原可碩を通じて碁所就任の弁を開陳した次のような内容の書面を送りつけている。
 「琉球人帰国の後は道節を退位せしめ、自分を碁所に就かせるというのが神明に誓っての約束であった。そこで問う。第一、道節を碁所のままにしておいたのは違約である。なぜ放置したのか。第二、道節死去し、碁所が空位になったにも拘らず何の沙汰もない。なぜか。第三、もし三家でこのままに過ごすならば、今後の御城碁においては道知一人、一切手加減をせず、力のあらん限り対局する。さよう御了承願いたい」。

 宝永3年から享保4年まで、14年間の道知の御城碁の成績は先番勝ち、白番負けと判で押したように決まっていた。そればかりか、先番なら5目勝ち、白番なら2~3目負けと目数まで揃っていた。既に、三家元の誰も道知に立ち向かえる技量を持った碁打ちはいない。道知が八百長でなく、本気で打ってきたら三家元は惨敗して面目を失うことは明らかだった。三家が鳩首会議を開き次のように回答している。
 概要「第一の点については過ぎ去ったことで、いまさら仕方がござらぬ。第二点については、道節が死んで日も浅いせいである。我々は明日にも運動を起し、貴殿を碁所に推挙するであろう。しかし御城碁の期日も迫っていて、時間的に無理であるから、今年のところはとりあえず半石進めて8段準名人に進んでいただき、来春4月の登城後に改めて名人昇格推薦(碁所推挙)したいと考える。ついては第三の点、本年の井上因碩(5世策雲)との御城碁は、かねての手はず通りジゴに打ってくださるようお願いしたい」。
 
 道知の準名人(八段)昇段を推挙、この際に最年長の朴入が三家の総代として道知に意向を伝えた。道知は、この回答を受け入れたが、ジゴに打つのに道策とその弟子熊谷本碩との稽古碁を用いるという条件を付けた。
 12.27日、井上因節が家督して因碩4世(系図書き替え後は5世)を襲名する。

 1720(享保5)年

 2月、道策の門人であった秋山仙朴(小倉道喜)が大阪で「新撰碁経大全」及び「古今当流新碁経」を出版(田原量)。京都に隠居している道悦から道知に宛てて、書簡と共に2冊の本が届けられた。手紙には次のように認められていた。
 「みだりにかかる書物の出版を許さざるは、そのかみよりの御定め。宗家おいて処置あってしかるべし」。
 10月、本因坊道知、三家に対し「名人碁所」の承認を迫り、無関心を装う態度を難詰。三家、とりあえず「名人上手間の手合」(準名人)に推薦し、明年「名人碁所」に堆挙することで合意をみる。

 1720(享保5)年11.17日、御城碁。
135局 (坊5世)道知-(因碩5世)策雲因節(先)
 ジゴ(先相先)
(道知〆22局)
(因節21局)

 この碁は146手までは「道策-本碩」の対局そのままである。その後を作り替えてジゴにしている。有名な碁を下敷きにすることで、「この碁は八百長である」と後世に知らせているとの評がある。道知が8段として打ったごく少ない碁のうちの一局でもある。
136局 (安井4世)古仙角-(林4世)朴入(先)
 朴入先番3目勝(棋譜不明)
(古仙角33局)
(因竹朴入17局)

 11.18日、高橋友碩が4世因碩(因節)の跡目となり、井上友碩を名のる(同28日御目見得)。
 同日、道知門下の井家道蔵が、林門入(因竹)の養子跡目となり因長と改名(御目見得は友項と同日)する。 
 この年、秋山仙朴著「秘伝首書 新撰碁経大全」(しんせんごきょうだいぜん)3巻1冊刊行。

 1721(享保6)年

 4.10日、4世安井仙角、4世井上因碩(因節)、4世林門入(朴入)の3名が、月番寺社奉行のもとに出頭し、事前約束通り、本因坊道知の「名人碁所」就位を出願した。
 6.8日夜、寺社奉行、本因坊道知に明九日の登城を命ず。同9日、本因坊道知が登城し、先例によって老中はじめ諸役人列座のもとに「名人」の允許状を下附された。道知、時に32歳、史上最年少の名人碁所となった。13歳の時に本因坊家を継いで十年の月日を要した。

 7月、安井仙角、井上因碩(因節)、林門人(朴入)、「名人上手問の手合」(8段)に進む。11月初旬、寺社奉行、道知に「碁所」任命を申し渡す。道知は名人・碁所となった。祝いの言葉をかける門人たちに、「爺さんの為に10年、遅れた」と苦笑いしている。道知亡き後、本因坊家の家元は三代「知伯、秀伯、伯元」にわたり六段止まりで、他の家元にも傑出した棋士は現れず、囲碁界自体も沈滞の時代となった。

 11月、道知が再び寺社奉行に呼び出され、先例に従い、さらに碁所に任ずる旨を申し渡された。以後、道知は、名人碁所の格を以て御城碁を采配し、自身の対局をしなくなった。

 1721(享保6)年11.17日(翌1.4日)、御城碁。
 井上友碩、林因長(5世門人)が御城碁に初出仕。爾後、友碩は享保10年まで5局、因長は寛保2年まで16局を勤む。
137局 (林4世)朴入-(因碩跡目)友碩(先)
 友碩先番4目勝
(因竹朴入18局)
(友碩1局)
138局 (因碩5世)策雲因節-(林跡目)因長(先
 因長先番3目勝
(因節22局)
(因長初1局)
 12.18日、「坊)道知(先)-TsubotaGanseki 」、先番勝ち。

 1722(享保7)年

 6.10日、本因坊道知の甥に当る井口知伯(13歳、後に6世本因坊)が本因坊道知の跡目となる。7.28日、御目見得。

 1722(享保7)年11.17日(12.24日)、御城碁。
 本因坊道知の甥に当る井口知伯(13歳、後に6世本因坊)が本因坊道知の跡目となり御城碁初出仕。
139局 (林4世)朴入ー(安井4世)古仙角(先)
 古仙角先番4目勝
(因竹朴入19局)
(古仙角34局)
140局 (因碩5世)策雲因節-(坊跡目)知伯(3子)
 知伯3子局6目勝
(因節23局)
(知伯1局)
141局 (因碩跡目)友碩-(林跡目)因長(先
 因長先番3目勝
(友碩2局)
(因長2局)

 1723(享保8)年

 1723(享保8)年11.17日(12.14日)、御城碁。
142局 (安井4世)古仙角-(因碩跡目)友碩(先
 友碩先番2目勝
(古仙角35局)
(友碩3局)
143局 (因碩5世)策雲因節-(林跡目)因長(先)
 ジゴ
(因節24局)
(因長3局)
144局 (林4世)朴入ー(坊跡目)知伯(2子)
 ジゴ
(因竹朴入20局)
(知伯2局)

 12.28日、長谷川知仙、上野東叡山崇保院宮のロ添により、星合八碩の前例に則り、40年ぶりに外家として上手(7段)の地位に進む。

 1724(享保9)年

 4.5日?、「井上春碩-永野快山(先)」。92手まで三劫無勝負の珍譜。「三劫」として知られる。

 1724(享保9)年11.24日(翌1.8日)、御城碁。
145局 (安井4世)古仙角-(因碩5世)策雲因節(先)
 因節先番3目勝
(古仙角36局)
(因節25局)
146局 (因碩跡目)友碩-(林4世)朴入(先
 朴入先番5目勝
(友碩4局)
(因竹朴入21局)
147局 (林跡目)因長-(坊跡目)知伯(2子
 知伯2子番6目勝
(因長4局)
(知伯3局)

因碩4世因節-門入4世朴入(先) 朴入先番4目勝

 1725(享保10)年

 この頃、先に「古今当流新碁経」、「当流碁経大全」を出版していた秋山仙朴(小倉道喜)が「新撰碁経大全」三冊を発行した。「新撰棋経」の序は次の通り。
 「囲棋はその来る久しく、古賢之をもてあそぶ者多し。本朝本家深く秘して、その図を出すことを許さず。世に囲碁の書多しといえども取るに足らず。一日門人来たりて懇(ねんごろ)にその図を求む。予、辞するを得ず。策元直伝を以ってこの書を著す。妙術至極に至りては口授にあらざれば喩(たと)ゆべからず。その器によりて更に相伝うべし。この図、本家の直伝なれば、みだりに他見あるべからざるものなり。享保十乙巳年盆夏吉旦」。

 冒頭第一葉の欄外は次のように記していた。
 「右八所の角、外打手無之可知、是本因坊道策家伝也。今、道策流を学ぶ者は自分の他にない。後世のため、このことを書きおくことにする」。

 「坐隠談叢」は次のように評している。
 「当時、碁道の隆盛なるにつれ、動(ややと)もすれば各家元の衝突を生じ易く、従って各家元に於いては些些(ささ)たることをも相秘し、その技芸に対しても彼の専売特許の如く秘伝口授と称し、たとえ同門の者と雖も他見他言せしめざるの風あり。これが為、地方に於いては師とすべき著作もなく、遠隔の者は空しく偉材を抱きて草莽に埋没せらるるの幣兆を生じ、志ある者をして妄りに遺憾の念に堪えざらしむ。秋山仙朴これを嘆き、ここに当流新碁経2巻を著して之を公にし、今又新撰碁経を公にす。けだし仙朴は道策の門人にして小倉道喜と称し、当時既に高段の技を有したるも、性磊落不羈にして細節を省みず。道策死し、道知継いで後幾ばくならず破門せられて、帰参を願わず。江湖に漂遊して一生をたく仙に擬する者、この著の如き敢えて自己の利名を貪るの挙に非ざるが如し」。

 10月、本因坊道知が、林門入、道策の遺弟などを集めて協議のうえ、寺社奉行・小出信濃守英貞に「新撰碁経大全の自己宣伝のために不要な言辞を弄し、家元側を傷つける個所あり」と訴え出、秋山仙朴(小倉道喜)を告訴した。これより少し前、伊藤宗印の弟子・原喜左衛門が本を出版し、伊藤家の出訴によって絶版されており、この流れが継承されたのかもしれない。告訴状は次のように書かれている。
 序文「囲碁はその来る久しく、古賢これを学*ぶ者多し。本朝本家深く秘してその図を出す事を許さず、世に囲碁の書多しといへども取るに足らず。一日門人来りて懇(ねんご)ろにその図を求む。予、辞するを得ず。策元直伝を以てこの書を著わす。妙術至極に至りては口授にあらざれば、喩(おし)ゆべからず。その器によりて更に相伝うべし。この図本家の直伝なれば、猥(みだ)りに他見有るべからざるものなり」。
 「恐れながら書付を以て願い奉り候覚え 一、私儀、師匠本因坊道策跡式、冥加至極、ありがたき仕合せに存じ奉り候。然る処、この夏、秋山仙朴と申す者、大阪に於いて新撰碁経大全と申す書三巻、編集開板致し候。その中に、いま道策流を学び候者、予より他にこれなく、と書き申し候。当時、私碁所仰せ付けなされ、相勤め罷りあり候処、かように法外なる碁の書、世上に流布仕り候てし、差し置く難く存じ奉り候。なにとぞ御威光を以て御吟味のうえ、右仙朴儀、不届きの段、急便(きっと)なされ、仰せ下され候様、願い奉り候。願いの通り仰せつけなされ下され置き候はば、ありがたき仕合せに存じ奉るべく候」。

 1725(享保10)年11.20日(12.24日)、御城碁。
148局 (林跡目)因長-(安井4世)古仙角(先)
 仙角先番5目勝
(因長5局)
(古仙角37局)
149局 (因碩5世)友碩-(坊跡目)知伯(先)
 友碩白番1目勝
(友碩5局)
(知伯4局)
150局 (因碩5世)策雲因節-(林4世)朴入(先
 朴入先番4目勝
(因節26局)
(因竹朴入〆22局)

 1726(享保11)年

 幕府が、囲碁、将棋事績調査のため、まず各家元の住所、年齢等を届けさせる。
拝領地 現住本所 名跡
相生町2丁目 同所 本因坊(道知)
芝金杉片町 新銭座松平肥後守屋敷内 安井仙角
南八丁堀 同所 林門入
新銭座 井上因碩

 1726(享保11)年11.17日(12.10日)、御城碁。
151局 (安井4世)古仙角-(林跡目)因長(先)
 因長先番3目勝
(古仙角38局)
(因長6局)
152局 (因碩5世)因節-(坊跡目)知伯(先)
 ジゴ
(因節27局)
(知伯5局)

 12.19日、林門入4世が隠居して朴入と号す。林因長が家督を継ぎ門入5世となる。
 この年、井上家跡目の井上友碩7段没(享年46歳)。
 幕府は、将棋の先例に倣って道知の主張を認め、同書及び「当流碁経大全」の出版を禁止し、仙朴に10日間の戸閉めの判決を下す。戸閉めとは、閉門、逼塞、遠慮、押込と共に自宅に籠居させる自由刑の一つで、入り口の戸に釘付けにされる重い方の刑だった。これより約30年間、碁書出版は家元の特権となる。これを「新撰碁経訴訟」と云う。新「談叢」は次のように記している。
 「当時、幕府の棋道における格別なる保護は、漸く範囲を脱出せんとするものの如く、その奨励保護の結果は、単に家元の保護奨励をなすのみとなりて、即ち家元の権利を極端に保護せんが為に棋道に忠であつた仙朴は却ってその犠牲となった」。

 1727(享保12)年

 1.29日、寺社奉行より碁将棋事蹟調査。本因坊道知、林朴入と計って答申する。
 2.4日(3.26日)、本因坊隠居(3世)道悦が京都で没する(享年92歳)。歴代家元中最長命だった。本姓は丹羽、伊勢あるいは石見国出身、本因坊算悦門下、準名人。碁所の地位を巡って安井算知と二十番碁を打った。法名は日勝。
 5.28日、長谷川知仙(45歳)が安井仙角(4世)の跡目となる。但し早世し翌13年没。
 6.10日(新暦7.28日)、本因坊五世(道知)が急逝する(享年38歳)。本妙寺に葬られた。「道策、道知没して棋道中衰し、寥々として聞くなし」(三好紀徳)。

 道知の生国は江戸。本姓は神谷。本因坊道策門下、名人碁所。法名は日深。道知は道策の実子であったという説もある。将棋も強く、6段と言われ、7段の因理という者に香落ちで勝った際には、その場にいた大橋宗桂、安井仙角らから「盤上の聖」と讃えられたと云う。

 6.11日、安井知仙、代理で道知死亡届を出す。同時に知伯を相続させたいとの道知の遺書を提出。9.4日、跡目本因坊知伯が家督を許され本因坊6世となる。

本因坊6世知伯時代

 7.28日、伊藤春碩が井上因碩4世(因節)の再跡目となる。

 1727(享保12)年11.17日(12.29日)、御城碁。
 知仙、春碩が初出仕。
153局 (安井4世)古仙角-(坊6世)知伯(先)
 ジゴ
(古仙角39局)
(知伯6局)
154局 (因碩5世)策雲因節-(安井跡目)知仙(先)
 知仙先番3目勝
(因節28局)
(知仙1局)
155局 (林5世)因長-(因碩跡目)春碩(先)
 春碩先番1目勝
(因長7局)
(春碩1局)

 1728(享保13)年

 1728(享保13)年11.17日(12.27日)、御城碁。
156局 (林5世)因長ー(坊6世)知伯(先)
 知伯先番2目勝
(因長8局)
(知伯7局)
157局 (安井4世)古仙角-(因碩跡目)春碩(先)
 ジゴ
(古仙角40局)
(春碩2局)

 安井知仙
 この年、安井知仙、没(享年46歳)。豊前国小倉の生まれ。井上道節因碩門人となって五段に進んだ後、本因坊道知の門下となって6段まで進み、小倉藩領主の小笠原右近将監に召し抱えられる。上野宮祟宝院宮の碁の相手を務めて寵愛され、宮は知仙を上手(7段)に進めることを道知ら家元衆に思し召したが、当時は外家に上手を認めることはなかった。1723(享保8)年、外家としては吉和道玄以来の上手が認められた。また安井仙角に跡目候補がなかったため1727年に上野宮に乞い家元安井家の四世安井仙角の跡目・安井知仙に就任した。7段となり同年の御城碁に出仕し御城碁1局を務め「井上策雲因碩-安井知仙」戦に先番3目勝ちした。互先から五子局までの置碁の布石に関する二巻本を著し上野宮に奉じている。1753(宝暦3)年、「碁立絹篩宝暦本」として売本された。一時期道知との共作と誤認された。

 1729(享保14)年

 1729(享保14)年11.17日(翌1.5日)、御城碁。
158局 (坊6世)知伯 -(因碩跡目)春碩(先)
 春碩先番4目勝
(知伯8局)
(春碩3局)
159局 (林5世)因長-(因碩5世)策雲因節(先)
 因節先番5目勝
(因長9局)
(因節29局)

 1730(享保15)年

 1730(享保15)年11.17日(12.26日)、御城碁。
160局 (因碩5世)策雲因節-(安井4世)古仙角(先)
 古仙角先番4目勝
(因節30局)
(古仙角41局)
161局 (林5世)因長-(因碩跡目)春碩(先)
 ジゴ
(因長10局)
(春碩4局)

 1731(享保16)年

 1731(享保16)年11.17日(12.15日)、御城碁。
162局 (因碩跡目)春碩-(坊6世)知伯(先)
 知伯先番3目勝
(春碩5局)
(知伯9局)
163局 (安井4世)古仙角-(林5世)因長(先)
 ジゴ
(古仙角42局)
(因長11局)

 1732(享保17)年

 1732(享保17)年11.17日(翌1.2日)、御城碁。
164局 (坊6世)知伯-(因碩跡目)春碩(先)
 春碩先番4目勝
(知伯10局)
(春碩6局)
165局 (因碩5世)策雲因節-(林5世)因長(先)
 門入先番3目勝
(因節〆31局)
(因長12局)

 1733(享保18)年

 8.3日、佐藤秀伯、生国奥州に帰省。

本因坊7世秀伯時代

 8.20日、本因坊知伯急逝(享年24歳、法名、日了)。同日、家元会議により佐藤秀伯を後式と定め、井上因碩より寺社奉行・松平玄蕃頭忠暁に出願。玄蕃頭、知伯の死因に疑惑を抱き、役人・依田清左衛門を判元見届けとして派達し、また医師・正因より病症書きを徽す。

 8.23日、奥州の秀伯に知伯急逝の急使を出す。9.8日、秀伯、江戸に帰着。


 11.6日、老中・松平伊豆守信祝、秀伯と因碩を呼出し、秀伯の本因坊家家督相続の件、聞き届ける旨を達す。秀伯5段(18歳)が本因坊7世となる。11.15日、本因坊秀伯、御目見得を許され、回礼。

 1733(享保18)年11.17日(12.22日)(翌1.2日)、御城碁。
 秀伯、御城碁に初出仕。爾後、元文4年まで7局を勤める。
166局 (安井4世)古仙角-(坊7世)秀伯(2子)
 秀伯2子局5目勝
(古仙角〆43局)
(秀伯1局)
167局 (因碩跡目)春碩-(林5世)因長(先)
 因長先番4目勝
(春碩7局)
(因長13局)

 この年、後の本因坊・察元が武蔵野国(現在の埼玉県幸手市平須賀)に生まれている。本姓は間宮、父は又左衛門。

 1734(享保19)年

 1734(享保19)年11.17日(12.11日)、御城碁。
168局 (因碩跡目)春碩-(坊7世)秀伯(先)
 秀伯先番2目勝
(春碩8局)
(秀伯2局)

 12.23日、井上因碩4世(因節、世糸書換え後は5世)隠居。井上春碩の家督相続が聞き届けられ、春碩が因碩5世(世系書換え後は6世)となる。

 1735(享保20)年

 3月、先代(隠居)因碩(因節)没(享年64歳)。4世安井仙角(古仙角)が、田中春哲(後に仙角5世)を再跡目に願い出て許される。
 井上因碩、相原可碩は7段、本因坊秀伯は6段に進む。

 1735(享保20)年11.17日(12.8日)(12.30日)、御城碁。
 安井春哲、御城碁に初出仕。爾後、明和8年まで32局を勤める。
169局 (坊7世)秀伯-(安井跡目)春哲(先)
 春哲先番2目勝
(秀伯3局)
(春哲1局)
170局 (安井跡目)春哲-(坊7世)秀伯(2子)
 秀伯2子5目勝
(春哲2局)
(秀伯4局)
171局 (林5世)因長-(因碩6世)春碩(先)
 因碩(春碩)先番3目勝
(因長14局)
(春碩9局)
172局 (因碩6世)春碩-(坊7世)秀伯(先)
 秀伯先番2目勝
(春碩10局)
(秀伯5局)

 1736(享保21)年

 1736(享保21)年、4.28日(グレゴリオ暦6.7日)、桜町天皇即位のため元文に改元。
 この年、 岡田門利が林門入五世(因長)の跡目となる。

 1736(元文元)年11.17日(12.18日)、御城碁。
 林門利が御城碁に初出仕。爾後、延享元年まで6局を勤める。
173局 (坊7世)秀伯-(林6世)門利(2子)
 門利2子局6目勝
(秀伯6局)
(門利初1局)
174局 (因碩6世)春碩-(安井跡目)春哲(先)
 ジゴ
(春碩11局)
(春哲3局)
175局 (因碩6世)春碩-(坊7世)秀伯(先)
 秀伯先番2目勝
(春碩12局)
(秀伯7局)
176局 (坊7世)秀伯-(安井跡目)春哲(先)
 春哲先番2目勝
(秀伯8局)
(春哲4局)
177局 (林6世)門利-因碩5世(春碩)(先)
 春碩先番3目勝
(門利2局)
(春碩13局)

 1737(元文2)年

 1737(元文2)年11.17日(12.8日)、御城碁。
178局 坊7世)秀伯-(安井5世)春哲(先)
 春哲先番1目勝
(秀伯9局)
(春哲5局)
179局 因碩6世春碩-(林6世)門利(2子)
 門利2子局7目勝
(春碩14局)
(門利3局)

 この年正月4日、安井4世仙角(古仙角)没(享年65歳)。安井春哲が家督相続を許され、5世仙角となる。

碁将棋名順訴訟事件1738(元文3)年?
 5月、碁将棋名順問題起きる。将棋方の伊藤宗看が、慣習的な格式だった碁将棋名順の不当を寺社奉行・井上河内守正之(将棋五段)に上書出訴し、碁方不利となる。一時、碁方が窮地に陥った。9.17日、寺社奉行井上河内守(将棋5段)急逝し、碁将棋名順訴訟は大岡越前守忠相の係となる。
 10月、大岡は碁将棋名順は従来通りで差しつかえなしとし、以下の順位を確認す。「一/本因坊、二/伊藤宗看、三/林門入、四/井上因碩、五/安井仙角、六/大橋宗桂、七/大橋宗*(現)、八/林門利、九/伊藤宗寿」。「大岡裁定」は、碁方が上席、中でも本因坊家が他の家元三家及び将棋所より席次が上で、碁所が他家から出た場合のみ、その下になるとした。

 1738(元文3)年

 8月、5世林門入(因長)名人碁所を望む。井上因碩5世(春碩)を通じて本因坊秀伯に碁所就位につき協力を要請するも秀伯はこれを拒絶。

 1738(元文3)年11.17日(12.27日)、御城碁。
180局 (因碩6世)春碩-(坊7世)秀伯(先)
 秀伯先番4目勝
(春碩15局)
(秀伯10局)
181局 (安井5世)春哲-(林5世)因長(先)
 春哲白番3目勝
(春哲5局)
(因長15局)

 1739(元文4)年

 本因坊7世秀伯(24歳)が7段昇段を志し、安井仙角5世をして林門入5世と井上因碩5世を説かしめたが、両人は承知せず。秀伯は仙角を添願人として門入と一年二十番の争碁を出願。門入(50歳)は病気を理由にこれを忌避し、代打ちとして因碩(春碩、32歳)が秀伯と争碁を打つこととなる。

 1739(元文4)年11.17日(12.17日)、御城碁。
182 因碩(春碩)-坊)秀伯(先相先) (春碩16局)
(秀伯11局)
 秀伯先番4目勝
(春碩、生涯二度の争碁の8番争碁第1局)

183局 (坊7世)秀伯-(因碩6世)春碩(先)
 春碩先番2目勝
(秀伯12局)
(春碩17局)
184局 (安井5世)春哲-(林6世)門利(先)
 門利先番5目勝
(春哲6局)
(門利4局)

 1740(元文5)年

 7.29日、隠居の(朴門入)朴入(ぼくにゅう)逝去(享年71歳)。林家代々に同じく浅草誓願寺快楽院に葬られた。
 (「ウィキペディア(Wikipedia)林朴入門入」その他参照)
 (朴門入)朴入(ぼくにゅう)
 1670年(寛文10年) - 1740年8月21日(元文5年7月29日)

 江戸時代の囲碁棋士で、家元林家の四世林門入7七段。本因坊道策門下、元の名は片岡因的、林家跡目となって林因竹。隠居後に朴入を名乗り、後世には朴入門入と呼ばれる。
 井上因碩(春碩)と本因坊秀伯の争碁は6月までに8局まで進み、秀伯が4勝3敗1持碁の成績で勝ちこすも吐血して病床に臥す。家元会議により〃中間扱い〃として争碁を中止せしむ。
 この年、小崎伯元(後に8世本因坊)が本因坊秀伯の門に入る。

 1740(元文5)年11.17日(翌1.4日)、御城碁。
185局 (因碩6世)春碩-(安井5世)春哲(先)
 春碩白番1目勝
(春碩18局)
(春哲7局)

本因坊8世伯元時代

 1741(元文6)年

 2.4日、本因坊秀伯、重病に陥り再起不能を自覚。各家元を枕辺に請じ、後継者を小崎伯元とすることの諒解を求め、後事を託す。安井仙角、本因坊秀伯の代理人となり、小崎伯元(16歳)の本因坊跡目を寺社奉行・山名因幡守豊就に出願、異議なく許可される。
 2.11日、7世本因坊秀伯、没(享年26歳)。法名は日吉。

 1741(元文6)年、2.27日、寛保に改元。

 5.3日、7世跡目・本因坊伯元(16歳、5段)が家督相続を許される。
 5.15日、8世本因坊伯元が御目見得。

 1741(寛保元)年11.17日(12.24日)、御城碁。
 7世跡目・本因坊伯元(16歳、5段)が御城碁初出仕。
186局 (安井5世)春哲-(坊8世)伯元(先)
 ジゴ
(春哲8局)
(伯元1局)
187局 (因碩6世)春碩-(林6世)門利(先)
 門利先番1目勝
(春碩19局)
(門利5局)

 1742(寛保2)年

 1742(寛保2)年11.17日(12.13日)、御城碁。
188局 (因碩6世)春碩-(坊8世)伯元(2子)
 春碩白番4目勝 
(春碩20局)
(伯元2局)
189局 (林5世)因長-(安井5世)春哲(先)
 因長白番13目勝
(因長〆16局)
(春哲9局)

 この年、公事方定書を定める。

 1743(寛保3)年

 10月、林門入5世(因長)が、井上因碩(春碩)の賛同を得て碁所(名人)の出願をするも、本因坊伯元と五世安井仙角の反対により寺社奉行・大岡越前守忠相の係りで裁判の結果、争碁によるべしと裁決され、 願を取り下げる。
 11月、5世林門入が隠居を願い出る。
 12月、門入の隠居と跡目。門利の家督相続を聞き届けられる。林門利が門入6世となり7段に進む。

 1743(寛保3)年11.17日(翌1.1日)、御城碁。
190局 (安井5世)春哲-(坊8世)伯元(先)
 伯元先番2目勝
(春哲10局)
(伯元3局)
191局 (因碩6世)春碩-(林6世)門利(先)
 ジゴ
(春碩21局)
(門利〆6局)

 1744(寛保4)年

 1744(寛保4)年、2.21日(グレゴリオ暦4.3日)、讖緯説に基づく甲子革令に当たるため延享に改元。

 1744(延享元)年11.17日(12.20日)、御城碁。
192局 (坊8世)伯元-(林6世)門利(先)
 門入先番1目勝
(伯元4局)
(門利7局)
 この年、井上因碩(因達)が吉益東洞広島にて誕生する(「玄人素人囲棋新撰」による)。1747年説もある。

 1745(延享2)年

 1745(延享2)年11.17日(12.9日)、御城碁。
193局 (坊8世)伯元-(安井5世)春哲(先)
 春哲先番4目勝
(伯元5局)
(春哲11局)

 11.2日、隠居門入(因長)生没(享年56歳)。

 1746(延享3)年

 正月29日、林門入6世(門利)が生没(享年推定38歳)。実子の林転入(16歳)が家督相続を許され、門入7世となる。

 1746(延享3)年11.17日(*日)、御城碁。
194局 (安井5世)春哲-(坊8世)伯元(先)
 伯元先番3目勝
(春哲12局)
(伯元6局)

 1747(延享4)年

 1747(延享4)年11.17日(*日)、御城碁。
195局 (因碩6世)春碩-(坊8世)伯元(先)
 春碩白番16目勝
(春碩22局)
(伯元7局)

 田原橘二(吉益姓ともいう、後の井上因碩7世(因達)、世系書換え後は8世)生まれる(安芸国佐伯郡己斐村)。

 1748(延享5)年

 1748(延享5)、7.12日、寛延に改元。

 1748(寛延元)年、原仙哲初段(堆定15歳)、仙角5世の跡目となる。

 1748(寛延元)年11.17日(翌1.5日)、御城碁。
 安井仙哲(5世跡目)御城碁初出仕、爾後跡目時代に33局、家督相続後は6局(最終は安永7年)、計39局を勤める。
196局 (因碩6世)春碩-(安井跡目)仙哲(3子)
 仙哲3子局3目勝
(春碩23局)
(仙哲初1局)

【三度目の琉球棋士来日、初の白星を飾る】
 1748(寛延元)年、12.23日、琉球貢使随員として田頭親雲上(たがみぺいちん)及び与那覇里之子(よなわさとのし)の両棋士が、島津家を通じて井上家に指導対局を要請して来た。今回で三度目となるが、前の二回は道策、道知の黄金時代であった。今回は低迷不振の時代で指導碁を打てる棋士がいなかった。そこで井上因碩6世(春碩)7段が引き受けることになった。

 12.25日、井上因碩(春碩)が、島津家の薩摩藩邸で道策、名人因碩以来3回日の琉球棋士との国際手合を行う。田頭が3子、与那覇は因碩の弟子・岡田春達に4子で対局し、いずれも先番中押勝となった。

 田頭は「上手に定先」(5段)の格に進められんことを願ったが井上因碩(春碩)が拒絶し、寺社奉行及び碁方と謀って「上手に先二」(4段)を許すこととし、名人因碩の先例に倣い「日本国大国手」の肩書を用いて免状を与えた。琉球からの対局希望は、これを最後に途絶えた。与那覇は後に棋力大いに進み、中国に渡って名手と云われる人たちと碁を打ち歩いている。帰国後、「中国第一流の棋士は日本の名門道策にも劣るまい」との言を遺している。

 1749(寛延2)年

 1.1日、御城碁「」、先番3目勝。
 9月、「本因坊道知四十番碁諺解」(写本、井田道祐。標註)成書。

 1749(寛延2)年11.17日(12.26日)、御城碁。
197局 (坊8世)伯元-(安井跡目)仙哲(先)
 伯元白番5目勝
(伯元8局)
(仙哲2局)
198局 (因碩5世)春碩-(安井6世)春哲(先)
 ジゴ
(春碩24局)
(春哲13局)

 1750(寛延3)年

 6月、岡田春達(23歳)が井上因碩5世の跡目となる。

 1750(寛延3)年11.17日(12.15日)、御城碁。
 林門入7世(転入)、井上春達(五世跡目)が御城碁に初出仕。門入は宝暦五年まで6局、春達は天明2年まで38局を勤める。
199局 (坊8世)伯元-(林7世)転入(2子)
 ジゴ
(伯元9局)
(転入1局)
200局 (因碩6世)春碩-(安井跡目)仙哲(2子)
 仙哲先番2目勝
(春碩25局)
(仙哲3局)
201局 (安井5世)春哲-(因碩跡目)春達(先)
 春達先番4目勝
(春哲14局)
(春達初1局)
 この年、山本烈元(十世本因坊、江戸)生まれる。

 1751(寛延4)年

 1751(寛延4)年、10.27日、宝暦に改元。

 1751(宝暦元)年11.17日(翌1.3日)、御城碁。
202局 (因碩6世)春碩-(坊8世)伯元(先)
 伯元先番3目勝
(春碩26局)
(伯元10局)
203局 (安井5世)(春哲)-(林7世)転入(2子)
 転入先番1目勝
(春哲15局)
(転入2局)
204局 (因碩跡目)春達-(安井跡目)仙哲(先)
 ジゴ
(春達2局)
(仙哲4局)

 1752(宝暦2)年

 1752(宝暦2)年11.17日(12.22日)、御城碁。
205局 (坊8世)伯元-(安井跡目)仙哲(先)
 伯元白番1目勝
(伯元11局)
(仙哲5局)
206局 (因碩6世)春碩-(林7世)転入(2子)
 ジゴ
(春碩27局)
(転入3局)
207局 (因碩跡目)春達-(安井5世)春哲(先)
 春哲先番2目勝
(春達3局)
(春哲16局)

 1753(宝暦3)年

 8月、京都の安田嘉兵衛が「玄々碁経俚諺鈔」3巻(河北鳴平縮)を出版。

 1753(宝暦3)年11.17日(12.11日)、御城碁。
208局 (因碩跡目)春達-(坊8世)伯元(先)
 伯元先番3目勝
(春達4局)
(伯元〆12局)
209局 (安井5世)春哲-(因碩5世)春碩(先)
 春碩先番5目勝
(春哲17局)
(春碩28局)
210局 (安井跡目)仙哲-(林7世)転入(先)
 転入先番2目勝
(仙哲6局)
(転入4局)

 この年、中国元朝の厳師(字は徳甫)と晏天章は「玄玄碁経」の改編版「玄玄棊経俚諺抄」(げんげんごきょうりげんしょう)3巻が出版されている。

 1754(宝暦4)年

 4月、本因坊伯元が病に倒れ、井上因碩(春碩)が代理で間宮察元6段を跡目に願い出る。
 8.20日、間宮察元6段が老中松平左近將監より8世本因坊跡目を許される(22歳)。

本因坊9世察元時代

 9.26日、伯元生没(享年29歳)。
 12.3日、因碩に伴われ登城し、老中松平右近将監より8世跡目本因坊察元(21歳)の家督相続を許され9世本因坊となった。道知の後、碁所が再び欠所となる中、本因坊家は6世知伯、7世秀伯、8世伯元の三代にわたって棋力6段どまりが続き、それぞれ三十有余歳で若死にし本因坊家は上手(7段)すら出ないまま30年が過ぎていた。この間、他の三家も優れた人材はなく囲碁界全体が低調な時代であった。四家間に厳しい対立も生まれず歴史に残る逸話も残されていない。囲碁界が小康を得た二十年間となったが、伯元の後継として九世本因坊察元が家督を継いだ六段の頃から、囲碁界が再び活況を呈することになった。何より察元が他に懸絶した技量をもち、名人碁所を志したのも一因だろう。

 1754(宝暦4)年11.17日(12.30日)、御城碁。
211局 (安井5世)春哲-(林7世)転入(先)
 ジゴ
(春哲18局)
(転入5局)
212局 (因碩跡目)春達-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番4目勝
(春達5局)
(仙哲7局)

 1755(宝暦5)年

 1755(宝暦5)年11.17日(12.19日)、御城碁。
 9世本因坊察元が御城碁に初出仕する。
213局 (因碩6世)春碩-(坊9世)察元(先)
 察元先番4目勝
(春碩29局)
(察元初1局)
 両者は爾後、天明4年まで26局を勤める。
214局 (安井5世)春哲-(因碩跡目)春達(先)
 春達先番3目勝
(春哲19局)
(春達6局)
215局 (林7世)転入-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番2目勝
(転入6局)
(仙哲8局)

 1756(宝暦6)年

 4月、察元は死に物狂いで修行し、古今の棋譜をすべて調べ尽し、誰にも負けぬ自信を持った。上手(7段)昇格運動を起こす。安井仙角5世春哲は了承したが、井上因碩6世春達7段と林門入7世転入6段が反対し果さず。察元は同じ6段の門入に6局で5番勝ちであることを主張してまた争碁を迫り、因碩、門入の同意を得た。

 1756(宝暦6)年11.17日(12.8日)、御城碁。
216局 (坊9世)察元-(安井5世)春哲(先)
 春哲先番3目勝
(察元2局)
(春哲20局)
217局 (因碩6世)春碩-(安井跡目)仙哲(先)
 春碩白番2目勝
(春碩30局)
(仙哲9局)

 1757(宝暦7)年

 4.7日、本因坊察元、争碁を振りかざして井上因碩5世(春碩)と林門入を説き、上手(7段)昇格を承認させる。
 9.23日、7世林門入(転入)没(享年堆定27歳)。井田道祐の長子、祐元、後式相続を許され、林門入8世となる。

 1757(宝暦7)年11.17日(12.27日)、御城碁。
218局 (坊9世)察元-(因碩跡目)春達(先)
 春達先番3目勝
(察元3局)
(春達7局)
219局 (因碩6世)春碩-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番6目勝
(春碩31局)
(仙哲10局)

 1758(宝暦8)年

 正月、寿玉堂が平井直興編「耶鄲亦寝夢」全5巻発行(版元は江戸、升屋忠兵衝。升屋忠兵衛と平井直興は同一人物)。

 1758(宝暦8)年11.17日(12.17日)、御城碁。
 (8世林門入)祐元が御城碁に初出仕。爾後、天明7年まで31局を勤める。
220局 (坊9世)察元-(安井跡目)仙哲(先)
 察元白番2目勝
(察元4局)
(仙哲11局)
221局 (因碩6世)春碩-(林8世)祐元(2子)
 祐元2子局5目勝
(春碩32局)
祐元初1局)
222局 (因碩跡目)春達-(安井5世)春哲(先)
 春哲先番4目勝
(春達8局)
(春哲21局)

 囲碁人名録として「邯鄲亦寐夢」中の「囲碁人名録」(1758年出版)が遺されている。これの上位者を確認しておく。
九段 名人 [備中三田村]田嶋源五郎
八段 半名人 [大坂万喜平八事]斎藤治左衛門
七段 上手 [京都]小嶋登曽之進
[濃州北方]渡辺孫左衛門
上手並 [江戸]武井粂右衛門
[高野、少弁事]密文坊
[備中三田村、三松事]難波源作
[加州今江戸]快全坊
[備中蔵敷]大熊源四郎
[江戸、駿河忠治事]小倉松山
[豆州、三島長五郎事]吉田清右衛門
六段之部 [備前]田中千之助
[肥前今江戸]鬼塚茂七
[大坂 ]斎藤忠次郎
[江戸、志田事]森田文治
[芸州広島]上宇年名
[伊与松山]伴千右衛門
[江戸]高原勘八
[備後三原]脇加藤次
[尾張名古屋]都筑伊助
[江戸]片山与吉
[大坂]備前屋新四郎
[薩州]林武右衛門
[大坂]桃井中書
[飛州]飛騨吉郎次
[播州]志原弥三右衛門
[備中口村]田中丹治
[尾州名古屋]伊部源四郎
[駿州蒲原]草谷留右衛門
 宝暦、明和、安永の頃、家元衆の不振と裏腹に素人碁客が大いに活躍した。次のような記述がある。
 「宝暦明和に至りて、賭け碁渡世の者、間に聞くことあり。備中に源五郎という者出て、諸州を遊歴し、賭け碁にて凡そ三千両の金子を勝ち得たりという。その金にて田畑等を買い、豊富に家を興せし者ただ一人也。その後、尾張の徳助、阿波の半蔵等も三千両ばかり勝ちたりという。然れども皆な皆な酒食遊女等に遣い果し、終わりを能くする者を聞かず」。

 田島源五郎は素人番付の横綱で、打ち盛りの時には全国に敵する者がなかったという。村井治助は芸州の人で、近国に敵なしの剛腕だったが、源五郎には一敗地にまみれた棋譜が遺されている。

 1759(宝暦9)年

 1759(宝暦9)年11.17日(1.4日)、御城碁。
223局 (坊9世)察元-(林8世)祐元(先)
 ジゴ
(察元5局)
(祐元2局)
224局 (因碩6世)春碩-(安井5世)春哲(先)
 春哲先番3目勝
(春碩33局)
(春哲22局)
225局 (安井跡目)仙哲-(因碩跡目)春達(先)
 春達先番5目勝
(仙哲12局)
(春達9局)

 1760(宝暦10)年

 1760(宝暦10)年11.17日(12.23日)、御城碁。
226局 (坊9世)察元-(因碩6世)春碩(先)
 春碩の先番5目勝
(察元6局)
(春碩34局)
227局 (安井5世)春哲-(因碩跡目)春達(先)
 春達先番4目勝
(春哲23局)
(春達10局)
228局 (林8世)祐元-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番4目勝
(祐元3局)
(仙哲13局)

 1761(宝暦11)年

 1761(宝暦11)年11.17日(12.12日)、御城碁。
229局 (因碩6世)春碩-(坊9世)察元(先)
 察元先番5目勝
(春碩35局)
(察元7局)
230局 (安井5世)春哲-(林8世)祐元(先)
 祐元先番2目勝
(春哲24局)
(祐元4局)
231局 (因碩跡目)春達-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番4目勝
(春達11局)
(仙哲14局)
232局 (お好み) (坊9世)察元-酒井石見守(4子)
 酒井4子局11目勝
(察元8局)
(酒井初1局)

 この年、河野元虎が大坂で生まれる。
 この年、服部因淑(後の「鬼因徹」)が美濃国江崎村に生まれる。幼少の頃、故郷の寺僧に教えられたのがきっかけで碁に精進し、郷党の庇護を得て江戸に上り、7世井上因碩(春達)の門に入る。26歳で5段に昇る。当時の名は因徹。鬼と呼ばれるほどの強豪ぶりを発揮し、服部因淑を名乗る。鬼因徹と称されその名碁界に轟く。後年は井上家の監督をしながら同門の子弟養成に当たる。名伯楽になり幻庵、雄節、正徹を育てている。

 1762(宝暦12)年

 この年5月、石井恕信「石心随筆/石井恕信見聞録」(写本)成書。鈴木知昌「因云棋話」。本因坊道知門下の著者が伝聞・実見からまとめた棋界エピソードと棋士列伝。原本(写本)の所在は不明で、さまざまな写本で今に伝わる。写本名として、石心随筆、名人碁伝(国立公文書館蔵)、本因坊伝書、碁家譜、碁家系譜(国立国会図書館蔵)、碁所由来聞書、碁所諸向記録、石井恕信見聞記、本因坊家略伝(古事類苑)など。現代の校訂版として増田無扇『囲碁 碁園』所収「名人碁伝」がある。

 1762(宝暦12)年11.17日(12.31日)(翌1.4日)、御城碁。
233局 (因碩6世)春碩-(安井跡目)仙哲(先)
 ジゴ
(春碩36局)
(仙哲15局)
234局 (林8世)祐元-(因碩跡目)春達(先)
 春達先番3目勝
(祐元5局)
(春達12局)

 1763(宝暦13)年

 1763(宝暦13)年11.17日(12.21日)、御城碁。
235局 (因碩6世)春碩-(林8世)祐元(先)
 ジゴ
(春碩37局)
(祐元6局)
236局 (因碩跡目)春達-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番1目勝
(春達13局)
(仙哲16局)
237局 (因碩6世)春碩-酒井石見守(4子)
 酒井4子局3目勝
(春碩38局)
(酒井2局)
238局 (安井5世)春哲-(林8世)祐元(先)
 祐元先番12目勝
(春哲25局)
(祐元7局)

 山本源吉(道佐)が浜松に生まれる。

【相原可碩(あいはらかせき)】(1698(元禄11)~?)
 伊予の出身。幼くして井上因碩4世の門下となり、12歳のときに「技量優秀な少年の育成のため、百五十俵を下賜し御家人とする」と記録されている。数え13歳のとき、琉球人屋良里之子来日の折り、本因坊道知との対局に続いて可碩が互先で戦い勝利収める。後年、上手にまで進み、1763(宝暦13)年に坂口仙徳との棋譜があり、このとき66歳。没年は不明だが、当時としては長命を保ち、本因坊5世知伯、7世秀伯、8世伯元とも対局しており、その時代の碁界に貢献したものと思われる。

 1764(宝暦14)年

 1764(宝暦14)年、6.2日、明和に改元。

 1764(明和元)年、本因坊9世察元(32歳)、井上因碩5世(春碩)が共に准(半)名人(8段)に昇格した。

 1764(明和元)年11.17日(12.9日)、御城碁。
239局 (坊9世)察元-(因碩跡目)春達(先)
 ジゴ
(察元9局)
(春達14局)
240局 (因碩6世)春碩-(安井5世)春哲(先)
 ジゴ
(春碩39局)
(春哲26局)
241局 (安井5世)仙哲-(林8世)祐元(先)
 祐元先番4目勝
(仙哲17局)
(祐元8局)

 この年、浜口仙知(大仙知)が武蔵国に生まれる。

 1765(明和2)年

 6月初め、本因坊察元が伊香保温泉に入湯、近在の碁打ちを集めて稽古碁を指導している。この時の写本に伊香保腐斧(20局、棋譜のみで写譜年不記)、伊香保棋譜(信州松本の折井家蔵、26局、参加人名録23名)、伊香保碁譜(29局、信州小県郡の塚田家蔵)が遺されている。

 1765(明和2)年11.17日(12.29日)、御城碁。
242局 (因碩6世)春碩-(坊9世)察元(先)
 察元先番5目勝
(春碩40局)
(察元10局)
243局 (林8世)祐元-(安井5世)春哲(先)
 春哲先番3目勝
(祐元9局)
(春哲27局)
244局 (安井跡目)仙哲-(因碩跡目)春達(先)
 春達先番3目勝
(仙哲18局)
(春達15局)
245局 (坊9世)察元-酒井石見守(4子)
 酒井石見守4子局勝  
(察元11局)
(酒井3局)

 1766(明和3)年

【「明和の争碁」】
 明和の頃の碁界につき、「坐隠談叢」が次のように記している。
 「門入の碁所運動は遂にその効を奏するに至らず、碁所は依然中絶の姿なりしが、その碁所の空位は、各家元をして鋭意研鑽せしめ、何れも中原の鹿を追うの姿となりて、斯界漸く活躍を見るに至れり。殊に明和の初めにありては、本因坊察元既に8段の技を有し、且つ人となり卓落不羈にして、ほとんど一世を睥睨するの概あり。加えるに、将軍家治自ら碁を好みて之を能くし、将棋の如き8段の技を有したるを以って、年々の御城碁には一度も欠席せられたることなく、自然的に各棋士を奮発せしめたるを以って、往年の衰兆はこの時に至り、全然挽回せられて、一般に復興熾盛となれり」。

 5.17日、察元が名人碁所と欲する旨を林門入に説きて、添願人たらしめ、更に門入をして井上因碩に交渉させた。

 7.14日、本因坊察元が、本因坊道知門下であった林祐元門入を添願人として名人就位を願い出る。これに井上因碩と仙角が反対したため、因碩と二十番の争碁を打つことになる。これにつき、山田覆面子の「名勝負は教える」34Pが次のように記している。
 「元来名人になるには、第一官命、第二四家の共同推薦、第三争碁と、この三つの場合があるわけだが、徳川幕府で例えば本因坊なら本因坊家の者を名人に任命しても、他の三家がそのままかしこまつて受けることもあれば、あれは気に食わぬ、俺はあれより強いから争い碁を打たしてくれと根い出ると、お上は渋々ながらでも許している。この辺り、封建の世にも碁の世界だけは案外民主的だったことが分かる」。

 10.8日、寺社奉行。久世出雲守広明より察元、因碩両人に碁所任命に関し二十番の勝負碁を命ずる。(春硯因碩、生涯二度の争碁・その二) 

 1766(明和3)年11.17日(12.18日)、御城碁。
 「(坊)察元-井上因碩5世(春硯)」の20番碁(互先)が開始される。こうして春碩生涯二度目の争碁が始まった。「明和の争碁」として知られる。但し、1局目はその年の御城碁で、御城碁における恒例の儀礼によりジゴとした。2局目から6局目まで察元が5連勝する。内訳は次の通り。争碁第2局は「井上春碩-(坊)察元(先)」、察元が先番8目勝。同年、第3局、察元が白番2目勝。
246局 坊9世)察元-(因碩6世)春碩(先)
 ジゴ
(察元12局)
(春碩41局)
247局 (安井5世)春哲-(林8世)祐元(先)
 祐元先番10目勝
(春哲28局)
(祐元10局)
248局 (因碩跡目)春達-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番8目勝
(春達16局)
(仙哲19局)

 1767(明和4)年

 第4局、察元が先番13目勝ち。同年、第5局、察元が白番2目勝ち。

 3.28日、第6局、察元が先番11目勝ち。察元完勝の5連勝であった。察元は手合直りを申し入れたが春碩は拒否した。承諾すれば九段・名人を認めたことになる。春碩は、打ち込みは古来から六番手直りがしきたりだと云い、では一番打とうと言えば病気だと言って逃げた。察元は奉行に直談判することになる。
 5月、察元が、「自分の手合を進めるよう」(名人に昇格させる意味)、寺社奉行に願い出る。

 9.12日、幕府、察元(35歳)に9段(名人)昇格を許す。察元は6世井上春碩因碩との争碁に勝って本因坊道知以来の名人となった。法名は日義。但し、「碁所」には任命せず預かりとされた。察元の碁所就位は認められなかった(3年後の明和7年、碁所となる)。

 1767(明和4)年11.17日(翌1.6日)、御城碁。
 将軍家治の上覧があり、察元に対して将棋について尋ねられ、将棋2段と答えたという。
249局 (坊9世)察元-(林8世)祐元(2子)
 祐元2子局4目勝
(察元13局)
(祐元11局)
250局 お好み (因碩6世)春碩-酒井石見守(3子)
 酒井3子局2目勝
(春碩42局)
(酒井4局)

 1768(明和5)年

 井上家、火災のため伝来什器の多くを失う。
 10月、林門入より察元の碁所許可を願い、察元もまた11月、自ら願書を土屋能登守に持参し、之を願い、叉一面因碩、仙角に向かって道理と事誼とを説き、以ってその執拗を解かんことを試みたるも、何れも要領を得なかった。

 1768(明和5)年11.17日(12.25日)(1.6日)、御城碁。
251局 (坊9世)察元-(因碩跡目)春達(2子)
 春達2子局2目勝
(察元14局)
(春達17局)
(向二子で2目負としたこの碁は察元一生中の出来として有名である)

252局 (因碩6世)春碩-(安井5世)春哲(先)
 ジゴ
(春碩43局)
(春哲29局)
253局 (林8世)祐元-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番12目勝
(祐元12局)
(仙哲20局)
254局 お好み (坊9世)察元-酒井石見守(4子)
 酒井4子局6目勝
(察元15局)
(酒井5局)
255局 お好み (林8世)祐元-津軽良策(5子)
 津軽5子局中押勝
(祐元13局)
(津軽初1局)
256局 お好み (因碩6世)春碩-(因碩6世)春達(先)
 春碩白番4目勝
(春碩〆44局)
(春達18局)
257局 お好み (安井5世)春哲-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番5目勝
(春哲30局)
(仙哲21局)
258局 (坊9世)察元(林8世)祐元(先)
 祐元先番4目勝
(察元16局)
(祐元14局)

 1769(明和6)年

 本因坊察元、前年より碁所拝命をしばしば願い出る。因碩と跡目の春達、仙角と跡目の仙哲らは再度の争碁を求めて、それぞれ幾度も願書を提出して争う。

 1769(明和6)年11.17日(12.14日)、御城碁。
259局 (安井跡目)仙哲-(因碩跡目)春達(先)
 春達先番4目勝
(仙哲22局)
(春達19局)
260局 お好み (坊9世)察元-酒井石見守(4子)
 察元白番1目勝
(察元17局)
(酒井6局)
261局 お好み (安井跡目)仙哲-津軽良策(5子)
 津軽5子局4目勝
(仙哲23局)
(津軽2局)
262局 お好み (因碩跡目)春達-中坊金蔵(7子)
 中坊7子局中押勝
(春達20局)
(中坊初1局)

 この年、本因坊察元(37歳)が名人昇段。山本烈元(21歳)が本因坊家跡目となる。
 この年、四宮米蔵(しのみや よねぞう)が、淡路国津名郡上畑村(現兵庫県淡路市木曽上畑)で誕生した。

 1770(明和7)年

【本因坊察元名人(38歳)が「碁所」に任命される】
 閏6.23日、幕府(老中列席の下で寺社奉行・土屋能登守)が本因坊察元名人(38歳)を「碁所」に任命した。この間、因碩等と十数度の文書合戦あるも、察元は他家を力でねじ伏せて久々の名人・碁所に就任した。本因坊道知以後は名人碁所は空位となっていた上に、本因坊家も三代続いて7段に達することがない碁道中衰の時代と言われたが、察元の名人碁所就位により本因坊家中興の祖のみならず棋道中興の祖と呼ばれる。また安井家7世安井仙知(大仙知)も華麗な棋風で活躍し後世に大きな影響を与えた。

 「坐隠談叢」が次のように記している。
 「察元は実に明和3年、名人碁所の願書を出し、翌閏9月、名人となり、同7寅年6月に至り碁所を得たり。この間4年、種々の故障難題に遇い、言うべからざるの辛酸を嘗め、ようやくこの証書を得たるにありて、その喜び実に察するに余りあり。叉この時の争碁ほど紛擾を極めたるは、けだし古今その比を見ざるところなり」。

 察元の名人碁所就位経緯は次の通リ。
 1756(宝暦6)年、察元が七段昇段を目論むも、安井春哲仙角は了承したが因碩と林転入門入が反対した。察元は同じ六段の門入に6局で5番勝ちであることを主張してまた争碁を迫り因碩、門入の同意を得た。1764(明和元)年、因碩とともに八段準名人に進む。1766(明和3)年、本因坊道知門下であった林祐元門入を添願人として名人就位を願い出る。これに因碩と仙角が反対したため因碩と二十番の争碁を打つことになる。1局目はその年の御城碁で、因碩先番ジゴ、2局目から6局目まで察元が5連勝し、察元は手直りを申し入れ、寺社奉行に認められて名人就位を果たす。但し碁所就位は認められなかった。その後、察元は碁所就位を求め、因碩と跡目の春達、仙角と跡目の仙哲らは再度の争碁を求めて、それぞれ幾度も願書を提出して争う。1770(明和7)年、老中列席の下で寺社奉行土屋能登守より遂に碁所に任ぜられた。
 「再度の争碁をと願い出る井上家。その資格ある者なしとし、碁所をも併せ仰せ付けられたしと要請する察元。この両派から奉行に出された願書、口述書は二十通にも及ぶ。紛糾の末、察元の碁所就位が叶った」。

 察元の名言として碁盤の裏書「知るは好に如かず、好むは楽しむに如かず」が知られる。この碁盤は日興証券創業者にして木谷實後援会会長を長らく務めた遠山元一氏が愛蔵し、遠山氏没後は長男の遠山一行氏に引き継がれ、一行氏没後は夫人の遠山慶子氏が所蔵し、2015.10月、日本棋院に寄贈された。遠山慶子氏は2021(令和3).4.29日逝去。この碁盤は日本棋院殿堂資料館で見ることができる。
 この経緯が次のように記されている。
 この当時、将軍上覧のお城碁はあらかじめ下打ちして、将軍の前でそれを今打っているように並べて御覧に供していたが、下打ちの時、話し合いで勝負の均衡がとれるようにしていた風があった。八百長であるが、察元は、自分の昇段に異議を唱える井上因碩、林門入に、話し合い勝負に応ぜず真の実力でお相手すると宣言する。安井仙角の助力もあり、疾風の如くに準名人(八段)まで駈け上がった。さらに、宿願の名人碁所を願いでた。拒まんとする六世井上因碩と争い碁となる。因碩は高齢でもあり察元の敵でなかった。五勝一敗と連破し名人碁所となった。察元の遺憾とするところは、同時代に好敵手がいなかったことである。碁界もまた低調な時代であった。

 6.27日、山本烈元6段(21歳)が本因坊9世跡目を許される。
 7.1日、烈元が御目見得。
 本因坊察元が、名人・碁所就位を開祖算砂に報告するため、跡目烈元を従え、京都の寂光寺に墓参した。法印(法眼)の格式で大々的派手な行列を組み、江戸から京都の寂光寺まで練り歩いた。百人にも及ぶ大パレードは莫大な費用を要し本因坊家の蓄財を蕩尽したが、碁界に本因坊家ありと天下に示し本因坊家の威光を示すことになった。安永一「囲碁名勝負物語」が次のように記している。
 「かくて本因坊家は察元の努力による明和の中興を経て、時代は察元から弟子烈元、元丈と常に四家の優位を保ちながら、化政から天保へ、即ち丈和、秀和の時代に移行するのである」。

 1770(明和7)年11.17日(翌1.2日)、御城碁。
 本因坊烈元、御城碁に初出仕する。爾後、文化元年まで46局を勤める。
263局 (安井5世)春哲-(坊9世)察元(先)
 察元先番3目勝
(春哲31局)
(察元18局
264局 (坊9世)察元-(安井5世)春哲(先)
 春哲先番3目勝
(察元19局
(春哲32局)
265局 (林8世)祐元-(坊跡目)烈元(先)
 烈元先番4目勝
(祐元15局)
(烈元初1局)
266局 (因碩跡目)春達-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番3目勝
(春達21局)
(仙哲24局)
267局 お好み (林8世)祐元-(因碩跡目)春達(先)
 春達先番11目勝
(祐元16局)
(春達22局)
268局 お好み 坊9世)察元-酒井石見守(4子)
 酒井4子局7目勝
(察元20局
(酒井7局)
269局 お好み (坊跡目)烈元-津軽良策(5子)
 津軽5子局4目勝
(烈元2局)
(津軽3局)
270局 お好み (安井跡目)仙哲-中坊金蔵(7子)
 中坊7子局5目勝
(仙哲25局)
(中坊2局)

 1771(明和8)年

 10.27日、於田沼能登守殿。「本因坊烈元-坂口仙徳(先)」。仙得先番中押勝。烈元21歳、仙徳33歳。外回りに石が向かい、大模様を築く。黒19、27のカケが仙徳流大模様の序奏。黒51、53と中を止めて、黒65から一気に押し切って迫力満点。模様一辺倒ならば黒73ではD-13だが、硬軟両用の仙徳流か。黒79のキリから89まで黒の気迫は横溢。黒101となって巨大な地模様が出現した。仙徳完勝の一局。「大位の新流」と呼ばれ、仙徳の棋風は実子大仙知により昇華され、元丈、丈和、幻庵へと受け継がれ、やがて木谷・呉の新布石革命へと向かった。

 1771(明和8)年11.17日(12.22日)(翌1.2日)、御城碁。
271局 (因碩跡目)(春達)-(安井5世)春哲(先)
 春哲先番3目勝
(春達23局)
(春哲33局)
272局 (安井跡目)仙哲-(坊跡目)烈元(先)
 仙哲白番7目勝
(仙哲26局)
(烈元3局)
273局 お好み (坊9世)察元-(安井5世)春哲(2子)
 春哲2子局中押勝
(察元21局
(春哲34局)
274局 お好み (安井跡目)仙哲-(林8世)祐元(先)
 祐元先番10目勝
(仙哲27局)
(祐元17局)
275局 お好み (因碩跡目)春達-(坊跡目)烈元(先)
 烈元先番9目勝
(春達24局)
(烈元4局)
276局 お好み (坊跡目)烈元(先)-津軽良策(4子)
 烈元白番4目勝
(烈元5局)
(津軽4局)

 「(坊)烈元-坂口仙徳」。古宇宙流、当時にあっては異色の位の高い大模様を展開。「大位の新流」として知られる。
 12月、井上因碩5世(春硯、65歳)隠居。井上春達(44歳)が同日付けで家督を許され井上家当主を継承し井上因碩7世となる。

 1772(明和9)年

【「玄人素人囲棋新撰」の冒頭に「明和九年囲碁番付」】
 「明和九年囲碁番付」(2011.5.29日付けブログ「『玄人素人囲棋新撰』について(ニ)~明和九年囲碁番付」参照)。

 「玄人素人囲棋新撰」の冒頭に「明和九年囲碁番付」が書かれている。本因坊察元が1766年に35歳で名人に、1770年に38歳で碁所に就任した時期に当たる。先行する囲碁人名録として「邯鄲亦寐夢」中の「囲碁人名録」(1758年出版)があるので14年の開きがあることになる。「囲碁語園」によると、五段以上62人、四段83人、三段169人、二段311人、初段362人、合計1177人となっている。1805年の「一話一言」の「文化二年囲碁名人名」がある。「玄人素人囲棋新撰」とは33年の開きがあることになる。「文化二年囲碁名人名」には、本因坊家33名、安井家14名、井上家15名、林家3名、無段5名の計70名が載せられている。これらは、その後各地で作られた囲碁番付の先駆となるものといえる。

 「明和九年囲碁番付」原文は次の通り。
明和九年囲碁番付 明和九年辰仲秋
東方
大関 信州 折井勘五郎
関脇 越後 越前屋彦左エ門
小結 賀州
[当時江戸]
快全坊
前頭 上州 庄田政五郎
豆州 三嶋清右衛門
江戸 □形恵二
上州 小名坂文平
江戸 鬼塚宗助
江戸 大禾大記
駿州 芝田祐右衛門
参州 吉田立朝
越後 桂六郎左衛門
信州 黒田九助
信州 宝栄寺
勢州 千賀嶌
越後 神田理惣治
津軽 浅利又市
東ノ中 京都 山形八郎衛門
越後 池祐蔵
岡文右エ門
濱松 帯刀
枩前ノ九郎
濃州 □喜理平
[同] 佛心寺
泉州 佐忠太
京都 本田金蔵
直江屋六郎衛門
郡山ノ五助
仙臺 柳原瀬エ門
上州 侭田又エ門
江戸 松前屋市エ門
尾州 小越与四郎
大坂 □□郎
[当時大坂] 嶌田六三郎
大坂 □吉
紀州 三之烝
京都 孫右衛門
〆三十七人 頭取 小嶌道和
西方
大関 尾州 和泉屋太蔵
関脇 美濃 渡辺孫左衛門
小結 紀州高野 密門坊
前頭 土佐 安岡周平
京都 道和養子17才
小嶌大六
大坂 斎藤忠治
播州 □木伊兵衛
[同] 表屋忠五郎
備中 大熊源四郎
尾州 續源之烝
[同] 同伊助
若州 藤田源四郎
雲州 当時江戸十兵衛事]芝田歸一
阿波 孝麿
伊予 伴仙右衛門
京都 三井三郎左衛門
備前 通麿
西ノ中 播州明石 東光寺
[同 ] 志賀宕信
[同] 牛谷五郎九郎
林屋熊太郎
讃州 □碩
丹後 由良屋庄兵衛
丹後 平太夫
防州 九郎兵衛
[丹波ノ]文助
薩摩 新兵衛
藝州 [御家中]片嶌周助
[後入棋云]備前ノ元七
備中 理□太
肥後 和助
備後三原 和木志藤治
石州 恒松和惣太
備前 快道
雲州 鍛治恵吉
因州 七郎
長崎 文郎
〆三十七人 頭取 備中源五郎

 掲載者は頭取も含めると76名となる。その内訳は、東西とも頭取1名、大関1名、関脇1名、小結1名、前頭14名、十両20名の計38名となっている。東西の振り分けについては同格者同士の出身地によって振り分けているようである。そのため、東方では越後、江戸、京都(頭取の小嶋道和も含む)各4名、信濃、上野、大坂各3名、美濃2名、加賀、伊豆、駿河、三河、伊勢、津軽、浜松、松前、和泉、郡山、仙台、尾張、紀伊各1名、不明2名という分布であり、西方では播磨5名、尾張、備中(頭取の田嶋源五郎も含む)、備前各3名、京都、出雲、丹後各2名、美濃、紀伊、土佐、大坂、若狭、阿波、伊予、讃岐、周防、丹波、薩摩、安芸、肥後、備後、石見、因幡、長崎各1名、不明1名という分布になっている。
 1772(明和9)年、察元は蓄財の才もあった。この年、飢饉、大火、疾病に民百姓は苦しめられた。明和九(めいわく)と読み方が通じるとの理由で安永と改元した。こんな時世に察元は京寂光寺へ参拝し、大名行列にも劣らぬ共揃えを構えて、東海道を下っている。貯えた富を派手に散財している。察元が碁界に投じた一石は、二・三代後に開花する。

 1772(明和9)年11.16日、安永に改元。

 1772(安永元)年11.17日(12.11日)、御城碁。
 阪口仙徳7段(5世安井仙角の弟子、推定35歳)が、外家なるも星合八碩の先例を以て御城碁に初出仕する。爾後、1781(天明元)年まで16局を勤める。
277局 (因碩6世)春達-坂口仙徳(先)
 仙徳先番13目勝
(春達25局)
(阪口仙得1局)
278局 (坊跡目)烈元-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番6目勝
(烈元6局)
(仙哲28局)
279局 お好み (因碩7世)春達-(林8世)祐元(先)
 祐元先番5目勝
(春達26局)
(祐元18局)
280局 お好み (坊跡目)烈元-坂口仙徳(先)
 仙徳先番中押勝
(烈元7局)
(阪口仙得2局)

 12月、穏居井上春碩(5世因碩、世系書き換え後は6世、準名人)没(享年66歳)。

 1773(安永2)年

 3月、田原橘二6段(28歳)が、井上因碩6世(春達)6段の跡目となり井上因碩7世(因達)に改名(春達)する。

 1773(安永2)年11.17日(12.30日)、御城碁。
281局 (林8世)祐元-(安井跡目)仙哲(先)
 ジゴ
(祐元19局)
(仙哲29局)
282局 坂口仙徳-(坊跡目)烈元(先)
 烈元先番5目勝
(阪口仙得3局)
(烈元8局)
283局 お好み 坂口仙徳-酒井石見守(2子)
 仙徳2子局白番8目勝
(阪口仙得4局)
(酒井8局)
284局 お好み (坊9世)察元-(因碩7世)春達(先)
 察元白番中押勝
(察元22局)
(春達27局)
285局 お好み (安井跡目)仙哲-(坊跡目)烈元(先)
 烈元先番中押勝
(仙哲30局)
(烈元9局)

 この年、斎藤正次「奔正通徴補」(明。ヨウ(くさかんむり+雍)燥如。原著の改編)を京都で出版。

 1774(安永3)年

 1774(安永3)年11.17日(12.19日)、御城碁。
 (井上因碩跡目)因達が御城碁に初出仕、爾後、文化元年まで28局を勤める。
286局 (因碩7世)春達-坂口仙徳(先)
 仙徳先番14目勝
(春達28局)
(阪口仙得5局)
287局 (坊跡目)烈元-(安井跡目)仙哲(先)
 仙哲先番6目勝
(烈元10局)
(仙哲31局)
288局 お好み (坊9世)察元-(坊跡目)烈元(2子)
 烈元2子局6目勝
(察元23局)
(烈元11局)
289局 お好み (安井跡目)仙哲-(因碩跡目)因達(先)
 因達先番中押勝
(仙哲32局)
(因達初1局)
290局 坂口仙徳-(因碩跡目)因達(先)
 仙徳白番3目勝
(阪口仙得6局)
(因達2局)

 12.27日、本因坊(跡目)烈元に新規十人扶持下賜の申し渡し。
 この年、佐藤春策(幼名は知夫、父は三世佐藤久兵衛、後の8世井上因碩。世系書き換え後は9世。備後国深津郡市村)生まれる。

 1775(安永4)年

 正月20日、旧臘御扶持方の証文下附。
 同月、本因坊察元、跡目烈元の序列を碁将棋方跡目の筆頭とすることを願い出る(聞き届けられず)。

 1775(安永4)年11.17日(12.9日)、御城碁。
 林門悦初段(推定19歳、後に9世)、実父8世門入(祐元)の跡目となり、御城碁に 初出仕する。爾後、文化9年まで42局(うち寛政4年と同7年の寺社奉行役宅で行われた準御城碁2局を 含む)を勤める。
291局 (林8世)(祐元)-坂口仙徳(先)
 祐元白番1目勝
(阪口仙得7局)
(祐元20局)
292局 (安井跡目)仙哲-(因碩跡目)因達(先)
 因達先番10目勝
(仙哲33局)
(因達3局)
293局 (坊跡目)烈元-(林跡目)門悦(3子)
 門悦3子局9目勝
(烈元12局)
(門悦初1局)

 12.12日、5世安井仙角(春哲、65歳)が隠居する。安井仙哲が安井家当主を継承し安井6世となる。
 12.17日、「安岡周平-横関伊保女(2子)」、打ち掛け。

 横関伊保(よこぜきいほ)
 1762年~?。おそらく日本で始めて棋譜の記録が残された女流棋士。13歳のとき、当時の賭け碁打として知られた安岡周平との2子局がある。安岡は、二、三段くらいの力があった(当時はプロアマの区別はない)。坐隠談叢にも棋譜が残されており、17歳で初段に上っている。

 この年、宮重楽山(後の11世本因坊元丈)(1775-1832)が徳川家三卿の一の清水家物頭役/宮重八郎左衛門の四男として江戸で生まれる(跡目願いのおり公儀に提出した書類には本国山城、生国武蔵とある)。5人の兄姉妹があり、長兄/作十郎は大御番/小笠原近江守の組与力を勤めた。兄三人の下が姉で元丈は5番目、下に妹が居る。元丈の幼名は分からないが、烈元の跡目となるまでは宮重楽山と名乗っている。

 1776(安永5)年

 1776(安永5)年11.17日(12.27日)、御城碁。
294局 (因碩7世)春達-(林跡目)門悦(3子)
 門悦3子局中押勝
(春達29局)
(門悦2局)
295局 (安井6世)仙哲-(坊跡目)烈元(先)
 烈元先番3目勝
(仙哲34局)
(烈元13局)
296局 (因碩跡目)因達-坂口仙徳(先)
 仙徳先番9目勝
(因達4局)
(阪口仙得8局)
297局 お好み (林8世)祐元-(因碩7世)春達(先)
 春達先番中押勝
(祐元21局)
(春達30局)
298局 お好み 坊9世)察元-(因碩跡目)因達(2子)
 因達2子局中押勝
(察元24局)
(因達5局)
299局 お好み (安井6世)仙哲-(林跡目)門悦(3子)
 門悦3子局中押勝
(仙哲35局)
(門悦3局)
300局 お好み (坊跡目)烈元-坂口仙徳(先)
 仙徳先番3目勝
(烈元14局)
(阪口仙得9局)
 (因碩)因達の御城碁は「(因碩)因達の御城碁譜」に記す。

 この年、中野知得(後の八世安井仙知)が駿河(伊豆国三島)の漁師中野弥七の子として生れる。幼名は磯五郎と思われる。幼時に七世安井仙知に入門し、24歳で跡目、文化11年39歳で家督を継ぐ。中野知得と名乗る。2歳年長の元丈と終生のライバルとなった。棋力は名人の力量を持ちながら、「名人は斯道の最長者が古今に卓絶した神技と威望をもってしなければならぬ」として、元丈と共に譲り合った。

 1777(安永6)年

 5月―11月、「烈元-小松快禅(先)」十番棋戦が組まれている。
5.21日 第1局「烈元-小松快禅(先) 小松先番勝
6.11日 第2局「烈元-小松快禅(先) 烈元白番勝
6.22日 第3局「烈元-小松快禅(先) 烈元先番9目勝
10.3日 第4局「烈元-小松快禅(先) 小松先番17目勝
10.21日 第5局「烈元-小松快禅(先) 烈元白番勝
11.2日 第7局「烈元-小松快禅(先) 小松先番勝
11月 烈元-小松快禅(先) 烈元白番中押勝

 1777(安永6)年11.17日(12.16日)、御城碁。
301局 (安井6世)仙哲-(因碩7世)春達(先)
 春達先番3目勝
(仙哲36局)
(春達31局)
302局 (坊跡目)烈元-(因碩跡目)因達(先)
 烈元白番4目勝
(烈元15局)
(因達6局)
303局 坂口仙徳-(林跡目)門悦(2子)
 仙徳2子局白番11目勝
(阪口仙得10局)
(門悦4局)
304局 お好み (林跡目)門悦-酒井石見守(若年寄)(先)
 ジゴ
(門悦4局)
(酒井9局)
305局 お好み (坊9世)察元-坂口仙徳(2子)
 仙徳2子局中押勝
(察元25局)
(阪口仙得11局)
306局 お好み (坊跡目)烈元-(因碩7世)春達(先)
 烈元白番8目勝
(烈元16局)
(春達32局)
307局 お好み (因碩跡目)因達-(安井6世)仙哲(先)
 仙哲先番18目勝
(因達7局)
(仙哲37局)
 碁所本因坊察元が御城で阪口仙徳と御好みを打つ。

 1778(安永7)年

 横関伊保(16歳、17歳という説もある)、女流初の入段。
対局日不明 第8局「烈元-小松快禅(先) 小松先番3目勝
8.15日 第9局「烈元-小松快禅(先) 烈元白番勝

 1778(安永7)年11.17日(12.24日)(翌1.4日)、御城碁。
308局 (林8世)祐元ー坂口仙徳 (先)
 仙徳先番5目勝
(祐元22局)
(阪口仙得12局)
309局 (因碩7世)因達-(坊跡目)烈元(先)
 烈元先番中押勝
(因達8局)
(烈元17局)
310局 (安井6世)仙哲-(林跡目)門悦(2子)
 仙哲2子局白番8目勝
(仙哲38局)
(門悦5局)
311局 お好み 坊9世)察元-津軽良策(6子)
 津軽6子局4目勝
(察元26局)
(津軽5局)
312局 お好み (安井6世)仙哲-(林8世)(祐元)(先)
 祐元先番中押勝
(仙哲〆39局)
(祐元23局)
313局 お好み (因碩7世)春達-(林跡目)門悦(2子)
 門悦2子局16目勝
(春達33局)
(門悦6局)
314局 お好み 坂口仙徳-(坊跡目)烈元(先)
 烈元先番17目勝
(阪口仙得13局)
(烈元18局)
315局 (因碩7世)春達-本因坊烈元
 烈元先番中押勝
(春達34局)
(烈元19局)
 この年、舟橋源治寛度(後の11世林元美)が水戸に生まれる。元丈の3歳下になる。本因坊列元に師事し、12歳で初段を許されている。後に元丈を師とし、1819(文政2)年、林家に請われ11世を襲名する。

 1779(安永8)年

 山本源吉が出府し本因坊察元に入門、2段を許される。

 1779(安永8)年11.17日(12.24日)、御城碁。
316局 (因碩7世)春達-(林8世)(祐元)(先)
 祐元先番12目勝
(春達35局)
(祐元24局)
317局 (坊跡目)烈元-(因碩跡目)因達(先)
 因達先番中押勝
(烈元20局)
(因達9局)
318局 坂口仙徳-(林跡目)門悦(2子)
 仙徳2子局白番中押勝
(阪口仙得14局)
(門悦7局)
319局 (林8世)祐元-坂口仙徳(先)
 仙徳先番5目勝 
(祐元25局)
(阪口仙得15局)

 1780(安永9)年

 2.1日、「烈元-小松快禅(先)」、快禅先番11目勝。
 7.4日、安井仙哲6世7段が生没する(享年推定47歳)。

 先代以来の門下、安井家の外家坂口家の祖である坂口仙徳の長子として生まれ、若くから才を認められて安井仙哲の養子に迎えられていた阪口仙知2段(17歳)が仙哲死去により後式相続を許され安井家当主を継承、安井仙知7世(大仙知)となる。

 1780(安永9)年11.17日(12.12日)、御城碁。
 安井仙知7世(大仙知)が父仙徳とともに御城碁に初出仕する。爾後、文化7年まで28局を勤める。
320局 (林8世)祐元-(安井7世)大仙知(2子)
 大仙知2子局中押勝
(祐元26局)
(大仙知初1局)
321局 (因碩跡目)因達-(林跡目)門悦(2子)
 因達2子局白番7目勝
(因達10局)
(門悦8局)
322局 (坊跡目)烈元-坂口仙徳(先)
 烈元白番3目勝
(烈元21局)
(阪口仙得16局)
323局 お好み (坊9世)察元-酒井石見守(3子)
 察元3子局白番中押勝
(察元27局)
(酒井10局)
324局 お好み (坊跡目)烈元-(林8世)祐元(先)
 祐元先番3目勝
(烈元22局)
(祐元27局)
325局 お好み (因碩7世)春達-(因碩跡目)因達(先)
 ジゴ
(春達36局)
(因達11局)
326局 お好み (安井7世)大仙知-(林7世)門悦(先)
 大仙知白番2目勝
(大仙知2局)
(門悦9局)

 この年、4月、金子正玄編「碁道奥秘録」()出版。

 1781(安永10)年

 1781(安永10)年、4.2日、天明に改元。
 江戸時代の光格天皇の代の年号。1789(天明9)年1.25日に寛政元年となる。いわゆる天明の飢饉があり、打ちこわし、一揆が続発した。将軍は徳川家治家斉。出典は「書経‐太甲上」の「先王顧二諟天之明命一」。

 1781(天明元)年11.17日(12.12日)、御城碁。
327局 (林8世)祐元-(因碩跡目)因達(先)
 因達先番中押勝
(祐元28局)
(因達12局)
328局 坂口仙徳-(坊跡目)烈元(先)
 烈元先番4目勝
(阪口仙得〆17局)
(烈元23局)

(坊)烈元-坂口仙徳(先) 烈元白番3目勝
(御好み)「(坊)烈元-林(祐元)(先) 祐元先番3目勝
(御好み)「(坊)察元-林(祐元)(先) 察元白番4目勝

 1782(天明2)年

 安井仙知7世(大仙知)ず4段に昇段する。

 1782(天明2)年11.17日(12.12日)、御城碁。
329局 (林8世)祐元-(因碩7世)春達(先)
 祐元白番中押勝
(祐元29局)
(春達37局)
330局 (安井7世)大仙知-(林跡目)門悦(先)
 大仙知白番2目勝
(大仙知3局)
(門悦10局)
331局 (坊跡目)烈元-(因碩跡目)因達(先)
 烈元白番1目勝
(烈元24局)
(因達13局)
332局 お好み (坊9世)察元-(林8世)祐元(先)
 察元白番4目勝
(察元28局)
(祐元30局)
333局 お好み (因碩7世)春達-(林跡目)門悦(2子)
 門悦2子局13目勝
(春達〆38局)
(門悦11局)
334局 お好み (坊跡目)烈元-(安井4世)大仙知(2子)
 大仙知2子局中押勝
(烈元25局)
(大仙知4局)

仙角大仙知-林門悦(先)  大仙知白番中押勝
 この年、阪口仙徳7段没(享年45歳)。

 1783(天明3)年

 4月、本因坊察元、古例(星合八碩と阪口仙徳=前者は当時5段、後者は7段上手)により外家の弟子/河野元虎(推定23歳)の新鋭召出しを願い出る。5.6日、元虎、5段にもかかわらず願いの通り新規召出され、御目見得を許される。
 10月(推定)、7世安井仙知が5段に進む。   

 1783(天明3)年11.17日(12.10日)、御城碁。
 河野元虎が5段で御城碁に初出仕。爾後、寛政6年まで13局(ぅち寛政4年の1局は寺社奉行役宅・脇坂淡路守安董の邸で行われた準御城碁)を勤める。
335局 河野元虎-(安井7世)大仙知(先)
 大仙知先番3目勝
(元虎初1局)
(大仙知5局)
336局 (因碩跡目)因達-(林跡目)門悦(先)
 因達白番中押勝
(因達14局)
(門悦12局)

 1784(天明4)年

 井上因達(42歳)が家督を許され7世因碩(世系書き換え後は8世)となる。

 1784(天明4)年11.17日(12.28日)、御城碁。
337局 (坊跡目)烈元-(安井7世)大仙知(先)
 大仙知先番12目勝
(烈元26局)
(大仙知6局)
338局 河野元虎-(林跡目)門悦(先)
 ジゴ
(元虎2局)
(門悦13局)
339局 お好み (坊9世)察元- (安井7世)大仙知(2子)
 大仙知2子局中押勝
(察元〆29局)
(大仙知7局)
340局 お好み (坊跡目)烈元-(林跡目)門悦(2子)
 門悦2子局6目勝
(烈元27局)
(門悦14局)

 この年12月、井上因碩6世(世系書き換え後は7世)(春達)没(享年57歳)。
 この年、山崎因砂(後に9世井上因碩、石見国仁摩)生まれる。
 この年、信州松代藩藩士/関山仙太夫が信州松代に生まれる

 1785(天明5)年

 正月、鈴木順清が5段に進む。

 1785(天明5)年11.17日(12.18日)、御城碁。
341局 (林8世)祐元-河野元虎(先)
 ジゴ
(祐元31局)
(元虎3局)
342局 (因碩8世)因達-(安井7世)大仙知(先)
 大仙知先番17目勝
(因達15局)
(大仙知8局)
343局 (坊跡目)烈元-(林跡目)門悦(2子)
 門悦2子局3目勝
(烈元28局)
(門悦15局)
344局 お好み (林8世)祐元-(坊跡目)烈元(先)
 烈元先番3目勝
(祐元32局)
(烈元29局)
345局 お好み (安井7世)大仙知-河野元虎(先)
 元虎先番中押勝
(大仙知9局)
(元虎4局)
346局 お好み (因碩7世)因達-(林跡目)門悦(先)
 因達白番9目勝
(因達16局)
(門悦16局)

 井上因達(42歳)が家督相続し、井上因碩(因達)と改名する。
 この年、晩歓「古今菓経抜拳」4巻、「当流碁経類緊」3巻出版(育黎閣)。

 1786(天明6)年

 1786(天明6)年11.17日(翌1.6日)、御城碁。
347局 (安井7世)大仙知-河野元虎(先)
 元虎先番中押勝
(大仙知10局)
(元虎5局)
348局 (坊跡目)烈元-(林跡目)門悦(2子)
 ジゴ
(烈元30局)
(門悦17局)

 この年10月、鈴木順清没。  
 この年、奥貫智策が武州幸手(さって)で生まれる。丈和より1歳年長になる。
 この年、玄々斎主人著「当流碁経類聚」(とうりゅうごきょうるいじゅう)3巻3冊が刊行される。

 1787(天明7)年
 松平定信が老中となる。

 5.11日、「(坊)烈元-仙角(大仙知)(先)」、大仙知先番13目勝。「共に後年準名人に進んだ二人の双方見損じとして知られる一局」。

 この当時、列元は跡目の7段くらい。仙知は5段くらいか。仙知は2段で家督相続し、引退してから仙角と号したので大仙知ないしは仙知(仙角)と呼ばれる。

 1787(天明7)年11.17日(12.26日)、御城碁。
349局 (坊跡目)烈元-(林8世)祐元(先)
 祐元先番2目勝
(烈元31局)
(祐元〆33局)
350局 (安井7世)大仙知-(林跡目)門悦 (先)
 大仙知白番中押勝
(大仙知11局)
(門悦18局)
351局 (因碩8世)因達-河野元虎(先)
 元虎先番14目勝
(因達17局)
(元虎6局)

 この年、「秦立網備」()8巻出版(青黎閣)。
 この年、山本嘉六著「碁立絹篩」(ごだてきぬぶるい)2編7巻7冊。

【丈和誕生】
 この年、後の12世本因坊にして最後の碁所名人となる丈和(1787~1847) が生まれる。生地は明らかでなく、信濃(信州水内郡)、武蔵国(武州本庄)、伊豆(伊豆国君沢郡気負村、現在の沼津市)、江戸などの説があるが伊豆説が有力。丈和の幼名は本姓/葛野(跡目のときは戸谷戸谷)幼名/松之助。父は旅商人で江戸を往来し、本庄(埼玉県北部)で塩物類の仕入れをしていた。丈和は幼時から碁を好み、ある年に父に従って江戸に出て、本庄の富豪・江原勘六の邸に宿泊し、碁才を認められ、その周旋で本因坊家(十世烈元)の弟子となり、その後11世元丈の門下となる。16歳で初段。1807(文化4)年6月、21歳の時、山形鶴岡の庄内藩士長坂猪之助と一年間に留って21番碁を打ち(丈和定先)、12局目まで8勝4敗で先相先とした。文化5年暮れに烈元が死去し、急遽江戸に戻る。翌年春、元丈が当主となる。当時元丈の跡目には丈和の1歳上の奥貫智策が据えられていたが、智策は1812(文化9)年に27歳で夭逝する。7年後の1819(文政2)年6月、丈和が跡目となる。その後33歳で6段。 1827(文政10)年、40歳の時、七段。11月の御城碁で安井算知に定先五目勝ち。1828(文政11)年、42歳の時、元丈の跡を継ぎ12世本因坊となる。そして名人碁所に就く。丈和の御城碁 の対局数は十年間で9局(7勝2敗)、意外と少ない。伝えられる丈和の風貌が「短躯肥大、眉太くして従容(しょうよう)迫らず眼光は犯すべからざる風あり」と評されている。四世本因坊道策が「前聖」、丈和が「後聖」と呼ばれる。江戸時代最後の名人碁所であり、それまでの碁技を集大成して新たな道を後進に示している。丈和と幻庵因碩の名人碁所争い暗闘によって丈和のイメージが傷つけられているが、碁質の評価は別の物差しで測らねばならぬと思う。(「最後の碁所名人・本因坊丈和」参照)
 談叢に後進の為の訓戒としてのべられている一節「それ蛮棋に三法あり。石立、 分かれ、堅めなり」、「およそ三十手、或いは五十手,百手にして勝負を知るを第一とす」。(中盤戦を「分かれ」と表現しているところが丈和らしい)「地取り、石とり、敵地深入りし、石を逃げる、みな悪し。それ地取りは隙なり、石取りはむりなり、深入りは欲心なり。石を逃げるは臆病なり。故に地と石とを取らず、深入りせば、石を捨て打つべし。地を取らざるは堅固、石を取らざるは素直、深入りせざるは無欲なり。とかくわが石を備え堅むるを第一とし、次に敵の隙間に打つべし」。

本因坊10世烈元時代

 1788(天明8)年

 正月23日、碁所・本因坊9世察元が生没した(享年56歳)。

 4.8日、察元の跡目/烈元が家督を許され本因坊10世となる。
 10.3日、「元丈-中野知得(先)」。知得先番中押勝。本局が両者の初対局となる。元丈14歳、知得13歳。

 1788(天明8)年11.17日(12.14日)、御城碁。
352局 (因碩9世)因達-(坊10世)烈元(先)
 烈元先番9目勝
(因達18局)
(烈元32局)
353局 河野元虎-(林跡目)門悦(先)
 門悦先番1目勝
(元虎7局)
(門悦19局)

 この年、舟橋源治(後の林元実)が父に伴われて出府し、本因坊烈元に入門する。
 この年、「秦経手談」出版。

 1789(天明9)年

 1789(天明9)年、正月25日、寛政に改元。
 1789年、フランスでフランス革命。

 この年、船橋源治入段。

 1789(寛政元)年11.17日(翌1.2日)、御城碁。
354局 坊10世)烈元-河野元虎(先)
 ジゴ
(烈元33局)
(元虎8局)
355局 (因碩9世)因達-(林跡目)門悦(先)
 門悦先番3目勝
(因達19局)
(門悦20局)
356局 お好み (坊10世)烈元-(因碩8世)因達(先)
 因達先番3目勝
(烈元34局)
(因達20局)

 12.16日、隠居安井仙角5世(春哲)没(享年79歳)。 
 寛政時代の碁運につき、「坐隠談叢」が次のように記している。
 「一般囲碁はこの(寛政)間にありて、幾多の文人墨客を吸収し、名人察元の死したるあるも、烈元8段を以って之が後継となり、漸進の気運に乗じて大いに之を鼓舞したり。されば、顕門高家にしてその技を能くする者少なからず。即ち、井上因硯の門に京極周防守を出し、安井仙角の門には仙石大和守、吉田土佐守等を出す。皆なこれ段以上の碁品にして、その他、松平、黒田、細川、戸田、堀田、牧野の諸侯は、従来の縁故を以って克くこれと追随し、酒井石見守、中坊河内守、小笠原若狭守、船越駿河守、駒井但馬守、本庄甲斐守、本多伊予守等また之に和し、各定日を設けて碁客を聘し、奨励切磋を怠らず、その他諸侯旗下にして斯道に出入りする者枚挙に遑(いとま)あらず。而してこれ等の諸侯旗下の牛耳を執るべき専門家にしては、先ず本因坊烈元あり、安井仙角あり、井上因硯、林門悦之に亜ぎ、伊藤周助、水谷琢元、同琢順は坊門の三傑を以って目せられ、鈴木順清、同知清、石原是山は安井家の三幅対と称せられる。而して林寒入、河野元虎、若山立寛、片山知的、服部因淑、青木元悦等は六龍の姿を為して散地に睥睨し、宮重楽山、中野知得、奥貫知策、林鉄元及び因硯跡目に春策等は将来の重鎮として各大器を擁し、虎視眈々として風雲を叱咤せんとするの概ありて、只管機会の到来を待つ者の如く、互いに励琢磨してあるいは自ら月桂冠を獲んとし、あるいは己の奉ずる家元を以って将来の碁所ならしめんと欲するが如し。むべなるかな、文化、文政の交更に囲碁の隆盛を来したるその原因は、全くこれ等の人材の益々頭角を現し、奮闘活躍したるにある而巳」。
 「嚢に、道策の碁勢を一変せしめて以来、世上道策流を称揚するに方り、一方古風の者に算知流の名称を附するに至り、各家元は猥りに秘伝口授と称して、之を門外の者に移さざるの風を生ず。彼の秋山仙朴の当流碁経大全を著すや、本因坊道知之を遮り、遂に公の沙汰としてその原版を没収し、且つ十日間戸締りの刑を課したる如き、唯単に家元の権利のみ尊重して、世上一般の便益を無視したる幕府の保護は、遂に門外の者にして全く碁経編纂の念を絶しむるに至れり。而して、当時これ等の著述頗る少なく、遠隔の有志は、空しく英器を擁して余師なきに苦しみ、例えば芝蘭空しく荊棘の裡に枯れ死するが如く、之を誘出扶植すべき方便なく、従って大いに地方に於ける発展の気勢を泪止せしめたり」。
 「京都聖護院の碩学畠中哲斎、之を憾とし、己れ林元美の門人として碁を好み、且つ文人として追随する者頗る多く、極めて便利なる地位と閑暇とを利用し、各世碁鑑を著し、対勢碁鏡を編して一般自修の便に供し、大いに地方の渇望を得たり。初め林元美の京に遊ぶや風流を以って哲斎と交わり、哲斎亦元美の尋常碁客の比に非ざるを嘉し、遂に門に入りて碁を学び、交情益々親善なりし。当時、元美は多年の工夫を以って碁の活字を発明し、之を木製して既に奥坊主役の間に頒ち、奥坊主は之を用いて御城碁を謄写し、以って特志の諸侯に配布しつつあり。更にその全部を仕上げて之を哲斎に示したるに、哲斎は頻りにその便利なるを称揚し、之を借りて当代諸家の打ち碁を印刷し、自ら当世棋譜と題し、知人旧故に配附せり。その自序の冒頭、『碁之為害也大牟』とあるを以って、安井仙知之を遮り、且つ各家元の打ち碁を無断にて掲載したるは容易の者に非ずとて、家元の集会を催し哲斎に対してその不都合を責め、謝罪状を出すの外当世碁譜全部を差し出すべしと厳談したるに、哲斎は之に答えて、序文の冒頭は文法の抑揚に出でたるものにして、結論に至りて之を慫慂し居るを知らざるは、各家元の無学文盲り致すところ、自分に於いては決して之に応ずべき理由なし、と抗拒したるを以って、各家元は遂に連署を以って寺社奉行松平右近将監に訴え出で、哲斎遂に揚屋入を申し付けられたり。当時幕府より設置したる碁所及び各家元に対し、訴訟抗拒するはその理否の如何に拘らず、総て曲事たるべしと定められたる傾あるを以って、哲斎も遂に斯厄を免がる々能わざりし。しかれども心中豪も怯避するところなく、各家元の愚昧専横と、幕府の措置を痛罵して止まず、折柄林元美はその親善の間柄なるを以って非常に憂慮し、且つこれ等の個とより延て各家元の内情を暴露せしめん事を憂い、種々奔走尽力し、三日間にして赦免せられ、漸く事なきを得たると同時に、幕府及び各家元に於いても多少反省するところあり。爾来数年間、これ等取締りの大いに緩うせられたるもの、全然哲斎著述の賜と云わざるべからず」。

 1790(寛政2)年

 4.25日、八世林門入(祐元)隠居。同日、跡目林門悦が家督を許され、林9世となる。
5.14日 「元丈-中野知得(先)」
(安井仙知宅に於いて対局)
元丈白番中押勝
8.13日 元丈-中野知得(先) 知得先番中押勝
8.21日 元丈-中野知得(先) 元丈白番中押勝

 1790(寛政2)年11.17日(12.22日)、御城碁。
357局 (坊10世)烈元-(林9世)門悦 (先)
 烈元白番1目勝
(烈元35局)
(門悦21局)
358局 (安井7世)大仙知-河野元虎 (先)
 元虎先番5目勝
(大仙知12局)
(元虎9局)

 1791(寛政3)年

4.11日 元丈-中野知得(先) 知得先番中押勝
6.15日 元丈-中野知得(先) 知得先番中押勝

 1791(寛政3)年11.17日(12.12日)、御城碁。
359局 (安井7世)大仙知-(因碩8世)因達(先)
 ジゴ
(大仙知13局)
(因達21局)
360局 河野元虎-(林9世)門悦(先)
 門悦先番1目勝
(元虎10局)
(門悦22局)

 「素人名手。秦経遺集」3巻(青黎閣)出版。

 1792(寛政4)年

 「元丈-安井仙知(中野知得)」戦が組まれている。
1.19日 中野知得-元丈(先) 知得白番中押勝
2.14日 元丈-中野知得(先) 知得先番中押勝
3.9日 元丈-中野知得(先) ジゴ。
9.6日 中野知得-元丈(先) 元丈先番1目勝
 
 両者は生涯のライバルであった。元丈は、厚く打って攻めを得意とし、知得は、堅実でシノギを得意とするヨセの名手であった。本因坊丈和は、「二人の対局は、全く名人の所作というべきもの、17局に及ぶ」と述べている。

 1792(寛政4)年11.17日(12.21日)、御城碁。
 「11.8日、寺社奉行脇坂淡路守邸にて打ち掛け、同23日、同所。同24日、大橋宗佳宅にて打ち継ぐ」。
361局 (安井7世)大仙知-(坊10世)烈元(先)
 大仙知白番中押勝
(大仙知14局)
(烈元36局)
362局 因碩8世因達-(林9世)門悦(先)
 門悦先番1目勝
(因達22局)
(門悦23局)
363局 お好み (坊10世)烈元-(林9世)門悦(先)
 門悦先番10目勝
(烈元37局)
(門悦24局)
364局 お好み (安井7世)大仙知-河野元虎(先)
 仙角白番中押勝
(大仙知15局)
(元虎11局)

 仙知は2局とも勝ち、まさに油が乗り切っていた。瀬越健作は、この碁での仙知の打ちぶりを「奇正変幻不可端倪」と称えている。50年後、本因坊秀和が「当代華やかなる碁を推さんには、7世仙角の右に出る者なかるべし」と評している。当時斬新な、近代碁の鼻祖と呼ぶ人もあるほど中央感覚に優れ、「新布石」を打ち出した木谷実も影響を受けたという。

 河野元虎
 京都の人。1783(天明3)年から5段で御城碁に出場している。見損じが多いことでも知られる。
 この年、「古今名人。養経選粋」4巻(青黎閣)出版。

 1793(寛政5)年

 4.8日、「安井仙知-(坊)烈元(先)」、ジゴ。

 1793(寛政5)年11.17日(12.19日)、御城碁。
365局 (坊10世)烈元-(因碩8世)因達(先)
 烈元白番10目勝
(烈元38局)
(因達23局)
366局 河野元虎-(安井7世)大仙知(先)
 大仙知先番15目勝
(元虎12局)
(大仙知16局)

 この年、日置源二郎生れる。
 この年春、玄々斎主人編「囲碁定石集/石立局機」(いごじょうせきしゅう)4巻(春黎閣)出版。
 「囲碁妙石」2巻(青黎閣)出版。

 1794(寛政6)年

 6.18日、「中野知得-元丈(先)」、元丈先番2目勝。
 8月、佐藤春策4段(21歳)が因碩(因達)の跡目となり井上因碩7世(因達)と名乗る。
 山本源吉出府し、河野元虎、宮重楽山(後の本因坊元丈)、中野知得らと対戦し、それらの実績を認められて4段に進む。

 1794(寛政6)年11.17日(12.9日)、御城碁。
 井上春策が御城碁に初出仕する。爾後、文化6年まで16局(御城碁には異例として寛政8年5月、寺社奉行役宅。板倉周防辛勝政邸で打掛け、翌9年10月に井上因碩宅で打たれたものがくわえてある)を勤める。
367局 坊10世)烈元-(林9世)門悦(先)
 門悦先番1目勝
(烈元39局)
(門悦25局)
368局 (安井7世)大仙知-(因碩跡目)春策(2子)
 大仙知2子局白番2目勝
(大仙知17局)
(春策初1局)
369局 河野元虎-(因碩8世)因達(先)
 因達先番3目勝
(元虎13局)
(因達24局)

 河野元虎と元丈の対局が寛政3年から同6年まで8局の棋譜を遺している。元丈の先で6勝1敗1ジゴ。当時6段の元虎に20歳の元丈が先相先に追い上げる勢いを示している。

 1795(寛政7)年

 6.14日、「服部因徹(34歳)-宮重元丈(21歳)(先)」、元丈先番7目勝。

 ちなみに、元丈と因徹(鬼因徹)との対戦成績は、寛政6年、元丈先番4勝2敗。白番1勝2敗。寛政7年、元丈先番3勝、白番1敗。文化12年、元丈の白番打ち掛けとなっている。(元丈の先相先で寛政6年から7年に於いて11局、文化12年の元丈白番1局があり、結果は元丈の6勝5敗1打ち掛け、白番は1局も入っていないとする解説もある)
 8.26日、烈元が跡目に目していた河野元虎が郷里大阪で没(享年35歳)。

 1795(寛政7)年11.17日(12.27日)(翌1.3日)、御城碁。
 11.24日、寺社奉行板倉周防守邸で打ち掛け、翌年5.14日、打ち継ぐ。
370局 坊10世)烈元-(因碩跡目)春策(2子)
 春策2子局11目勝
(烈元40局)
(春策2局)
371局 (安井7世)大仙知-(林9世)門悦(先)
 大仙知白番中押勝
(大仙知18局)
(門悦26局)
372局 (坊10世)烈元-(林9世)門悦(先)
 烈元白番3目勝
(烈元41局)
(門悦27局)

 この年、神沢杜口が死去(享年86歳)。

 1796(寛政8)年

 服部因徹(その後「因淑」と改名する)が6段に進む。この頃には元丈、知得にも互角の戦績で、鬼因徹と呼ばれた。
 2.29日、「安井仙知-中野知得(先)」、ジゴ。
 4月、7世井上因碩が公儀に弟子服部因淑の新規召出し(御城碁出仕)を願い出る。このときは聞き届けられず、文政2年(1819年、7段)に至って召し出される。
 5.22日(6.27日)、「仙角7世(大仙知)-因碩8世(春策)(先)」、大仙知白番中押勝。

 1796(寛政8)年11.17日(12.15日)、御城碁。
 5.22日、寺社奉行板倉周防守邸で打ち掛け、翌年10.20、21日に井上因碩邸にて打ち継ぐ。
373局 (因碩8世)因達-(坊10世)烈元(先)
 烈元先番3目勝
(因達25局)
(烈元42局)
374局 (林9世)門悦-(因碩跡目)春策(先)
 春策先番7目勝
(門悦28局)
(春策3局)
375局 (安井7世)大仙知-(因碩跡目)春策(先)
 大仙知白番中押勝
(大仙知19局)
(春策4局)

 この年、5月、「素人名手。秦経拾遺」(3巻)出版(青黎閣)。

 1797(寛政9)年

 この年、関山仙太夫、出府し、坊門の水谷琢元に師事する。

 1797(寛政9)年11.17日(翌1.3日)、御城碁。
376局 (安井7世)大仙知-(因碩跡目)(春策)(2子)
 春策2子局2目勝
(大仙知20局)
(春策5局)
377局 (因碩8世)因達-(林9世)門悦(先)
 門悦先番1目勝
(因達26局)
(門悦29局)

 1798(寛政10)年

 この年、関山仙太夫、水谷琴花の紹介により改めて(坊)烈元に入門する。翌年、水谷琢元の紹介により改めて本因坊烈元に入門。
 3.22日、隠居門入(林家8世、祐元)没(享年推定65歳)。

 7.20日、(坊)烈元が宮重楽山5段(24歳)を跡目とすることを願い出る。(坊)烈元は河野元虎を跡目候補に目していたが1795(寛政7)年に没し、宮重楽山5段(24歳)が跡目に就任することになった。

 8.27日、松平周防守(すぼうのかみ)康定より聞き届けの旨を達せられ、宮重楽山が烈元の跡目弟子たるを許される。9月朔日、楽山が初登場、白書院にて扇子献上、御目見得する。10月、楽山が本因坊元丈と改名する。「坐隠談叢」が次のように記している。
 「寛政10年7月20日、烈元、宮重楽山を以て跡目とせんと欲し、月番の奉行松平右京亮に願い出づ。8月27日、聞き届けの旨、松平周防守より達せられ、翌9月朔日、楽山初めて登城、白書院に於いて扇子献上、名披露の式と共に、御目見仰せつけられ、同年10月、許可を得て元丈と改名す」。

 1798(寛政10)年11.17日(12.23日)、御城碁。
 元丈が御城碁に初出仕する。爾後、文政7年まで22局を勤める。
378局 (坊10世)烈元-(因碩8世)因達(先)
 烈元白番4目勝
(烈元43局)
(因達27局)
379局 (安井7世)大仙知7段-(坊跡目)元丈8段(先)
 
元丈先番5目勝/仙知35歳、元丈24歳。
(大仙知21局)
(元丈初1局)
380局 (林9世)門悦-(因碩跡目)春策(先)
 春策先番3目勝
(門悦30局)
(春策6局)

 安井仙知は1764(明和元)年生れ。6世安井仙哲の養子となり、後に家督して仙角となる。中野知得がこの仙知の家督を継いで8世安井仙知と名乗ったことから、識別する意味で7世仙知を大仙知あるいは仙知(仙角)と云う。寛政11年、中野知得を跡目とし、文化11年に引退。
 この年、橋本方義(後の幻庵因碩)が生まれる。

 1799(寛政11)年

 1799(寛政11)年11.17日(12.13日)、御城碁。
381局 (坊10世)列元7段-(安井7世)大仙知6段(先)
 大仙知先番4目勝
(烈元44局)
(大仙知22局)
382局 (坊跡目)元丈-(因碩跡目)春策(先)
 元丈白番5目勝/元丈25歳、春策26歳。
(元丈2局)
(春策7局)

 元丈と春策の対局は、記録から見ると1799(寛政11)年から1805(文化2)年にかけての28局。元丈の白番13勝6敗。ジゴ2局、打ち掛け5局。他に春策二子番で春策2勝。御城碁は本局の他に文化2年にも打たれており、元丈白番ジゴ。春策は本姓佐藤、1774(安永3)年、備後国生れ。寛政6年、11歳の時、8世因達因碩の跡目となり、同10年、十人扶持を給せられる。文化2年、8世因碩の死去に伴い、家督して9世井上因碩学を名乗った。春策は御城碁を16局勤め、文化7年、37歳の若さで逝去している。

 小倉道喜/秋山仙朴(あきやませんぼく)
 年齢、出身地不詳。初めの名を小倉道喜といった。本因坊道悦に入門し、後に道策の弟子となった。道知の時代に本因坊家でも古参のはずであったが、酒を好み品行に問題があったため、当時道知の後見人として本因坊家に入っていた井上因碩(道節)が素行を責めることとなり本因坊家を出て大阪に移り住んだ。

 それから10年ほど後、名を秋山仙朴と改め、「古今当流新碁経」という道策とその門下の打碁集を出版した。当時、京都に隠居していた三世道悦から道知にあてた手紙で、「勝手にこのような書物を出版している。なんとかせよ」と指摘されたが、道知は先輩である仙朴のこと、黙殺した。

 すると、仙朴は再び「当流碁経大全」を出版し、その序文で「今の家元は秘密主義で、研究を外にださないため、世にある書物は見る価値がない。この実情を憂えて道策直伝を著す。今、道策流を知るのは自分だけである」と自賛した。道策流を知るのは自分だけという文章を本因坊家として黙殺できず訴え、書物絶版、仙朴10日間戸締めに処せられた。




(私論.私見)