日本囲碁史考4

 更新日/2018(平成30).4.6日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで「日本囲碁史考4」として江戸時代初期の名人碁所誕生から1800年までの囲碁史を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝
 


初代本因坊算砂時代

 1603(慶長8)年
【江戸時代初期、名人碁所の誕生】 
 1603(慶長8)年2月、関ヶ原の合戦から4年目、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた。

 2.12日、日蓮法華宗僧の法名/日海(1559-1623)がお祝いに伏見城に参上して、家康に祝賀を述べた後、五子で対局している。その後、家康の指示で京都寂光寺を法弟の日栄に譲り江戸に出仕し「本因坊算砂」と名乗った。「本因坊」名は、日海が、寂光寺の塔頭(たっちゅう)本因坊に住まいしていたことに由来している。

【家康が征夷大将軍就任の礼に天覧碁を催す】
 4.19日、家康が征夷大将軍就任の礼に、碁好きの後陽成天皇のために当代最高の碁打である本因坊算砂、利玄、仙角(仙也の子)、道石(道碩)の四人を集め宮中で天覧碁を打つ。4局打たれ、天皇が最上座でそのほかの公家などが対局しているスペースを囲んでいたと云う。

 「お湯殿上の日記」(禁裏女房日記)。
 「四月十九日、はるゝ、ゆふふより御申にて、ごうちのほんにんぼう・りげん・せん六・たうせきまいる、くろ戸にて御らんぜらるゝ、十てうまき物くださる、ほんにんぼう、こばん・ごいししん上申、八てう殿・しやうこゐん殿・たけのうち殿なる、くげしうも、しこう、く御あり」。

 慶長日件録(式部少輔舟橋秀賢の日記)。
 「四月十九日、禁中に於て当代上手の碁これ有り。右府(家康)より叡覧に備へらるべきの由、内々に奏聞有りと云々。内々衆十人計り、召しにより伺候す。予も同じく伺候し畢んぬ。碁打四人、本因坊・利玄・仙・道石等也。先づ御黒戸の前に打板をかまへ、其上に畳一帖を敷き座とす。見物の公家衆は、其遶に円座を敷く。巳の刻計りに始む。先づ本因坊・利玄これを打つ、持碁也。次いで仙・道石これを打つ、道石三目勝つ。次いで本因坊・利玄これを打つ、利玄三目これを勝つ。次いで道石・仙これを打つ、仙負く。夜に入り終り、亥の刻に各退出す。碁打四人に一束巻物各これを下さる也」。

 言経卿記(山科言経の日記)。
 「四月十九日、乙巳、天晴る。禁中黒戸へ本音坊・利玄坊・仙・道石等召し了んぬ。棊を御覧也。直綴にて参り了んぬ。仙・道は衣也と云々。四番これ有りと云々。十帖に巻物を四人に下さる也云々。内々の衆少々参らる也と云々。伝聞也」。

 上件の日次記は、いずれも月日の碁打衆の禁裏参内の記録。家康の斡旋で、後陽成天皇は碁打衆を召して囲碁を上覧した。本因坊対利玄、仙対道石(中村道碩)の対局がそれぞれ二局づつ、計局が打たれた。本因坊は碁盤と碁石を献上し、禁裏から巻物が下賜された。後陽成天皇はこの年歳、秀吉時代に即位、聚楽第に行幸するなど武家の朝廷干渉に忍従してきた。この碁打衆の上覧も家康の奏聞によるものとある。家康は、この年月に征夷大将軍と右大臣の宣下を受けて、その礼に宮中に参内している。碁打衆の参内を奏聞したのもその折だったのかも知れない。この日の行事も家康の顔を立てたものともとれるが、ただ天皇は、公家日記の中に多くの囲碁の記事を残す碁好きで、この一日はプロの対局を楽しんだと思われる。お湯殿上の日記に記すごとく、本因坊はほんにんぼうと訓じたと思われる。なお、将棋指しと禁裏との交渉は、この前年・慶長年暮に山科言経の仲介で、大橋宗桂が作り物を禁裏に進上している也。

【日海が本因坊を正式の氏とし算砂と改名、碁所と将棋所に任ぜられる】
 10月、徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた。江戸帰府に際し、日海(2世)に寂光寺を法弟日栄(3世)に譲らせ随行させる。日海ここにおいて本因坊を正式の氏とし、算砂と改名、碁所と将棋所に任ぜられる。「旧坐隠談叢」が次のように記している。
 「日海は家康公の命により、寂光寺を法弟日栄に譲り、隠居して本因坊を氏とす。この時、家康公より棋所(ごどころ=碁打ち衆の総取締役)を命ぜられ、算砂と改名し、常に家康公に持し、江戸に下れり。算砂家康公の高恩に感じ、満腔の熱意を注ぎ経綸の奇才を揮(ふる)い、南光坊天海僧都と艫に御前にありて枢機に参じ、関が原の役、大坂の戦い、共に出陣して弾丸雨飛の間に出入りし、その危うきに臨むも、いまだかって君側を離れず、遂に家康公をして大業をなさしめたり」。
 「家康公は天下静謐に帰し、大業既に成就したるも、なお殺伐残忍の気風は猛将勇士の間に充ち、ややともすれば骨肉の嘆に腕を撫する者あるを憂い、かりそめの遊戯に至るまでに心を用い、囲碁の如きは剛をして柔ならしめ、逆を変じて順ならしむるの徳ありとて、大いにこれを奨励し給いたり。それ、物は人によりて用を異にす。信長公はこれをもって陣中の欝を医し、家康公はこれをもって天下の経営に資せんとす。故にこの時より棋運は俄かに面目を一新し、上は諸侯より下庶民に至るまで大いに流行せり」。
 「坐隠談叢」が次のように記している。
 「徳川幕府に於いて家康の定めたる碁所は、天覧碁の組織、将軍の指南、外人対局の按排(あんばい)、全国棋士の統一及び一般に於ける囲碁の代表者と為って之を司配し、碁士の昇進を検定するが為に設けたるものにして、その将軍指南役たる関係を以って、御城碁の時には止め碁となし、特に命令あるに非ざれば、何人とも対局せざること、猶彼の書所のお止め筆と称するが如し。而して、之に補する者は九段の技量有する名人にして、又名人と碁所とは別物なり。(中略)されば各家元の子弟と雖も、皆な碁所の承諾あるに非ざれば昇進せしむる能わず。且つその昇進に対する免状は、皆な相当の手数料を碁所に納むる掟なれば、碁所以外の家元にありては、その子弟に対しても、頗る窮屈なる傾きありて、自然家元たるの権能を抑制せらるる理なるを以って、その資格上相続上に対して争いを為し、時々争碁を生じたるは之が為なり。而して、幕府が之を補する上に於いては、その名人たるを要するなり。而してこの名人たるは、第一、官命の場合。第二、共同推薦による場合。第三、争碁に勝ちし場合の三項に外ならず。」。

 この頃、家康が子の秀忠の夫人・達子(淀君の妹)に宛てた手紙の一節は次の通り。
 「一身の楽しみの事、人々好き嫌い、得手不得手、有りの事にて候。とかくものの片寄らぬように致させ申す事に候。たとえば四季の花、色々様々咲きて、いずれも眺め有りの候。中にどくだみと申す草花、香りも悪しく、何の役にも立ち申さざる草のように存じ候えども、疥癬の薬に煎じ用いそうらえば妙薬に候。その如く何芸も人の覚えたる事は承りおき候えば、何か入用の事あるものにて候。第一自身に不得手のことは、人の致すも忌み嫌い候えば、また有りの候。それは大名の別して致さぬ事に候」。

 「我ら中年の頃まで碁を一向に存ぜず、人の打つさえ無用の物、気詰まりにて役にも立たぬ事とばかり存じ、人の好み候、うつけ者のように存じ候ところ、近年覚え候えば、雨降り徒然(つれづれ)の慰めにもなり、先だってうつけ者と存じ候者を相手に致しおり候。これにて察しられ候よう、何事も詮なき事は古くより致さぬ事なれば、くれぐれも自分の気に入らぬ者を悪しきと存ぜぬように致す事、専一のことに候。ただ身の知恵の届かぬ事と朝夕に存じ候ことに候」。
 (自分は中年まで碁を知らなかった。人が碁を打っているのを見て、無用のもの、陰気で何の役にも立たないものに興じる者をウツケ者と思っていた。ところが、碁を覚えてからは、雨降りの日の徒然(つれづれ)の慰みにもなり、これまでウツケと思っていた者を相手に打つようになった。これより思案せよ。何事も詮のないことは昔からしない。碁も何かの役に立つから多くの人が好んで打ち継いで今日に至っている。してみれば、自分の得手としないものに興じている者を嫌って遠ざけるようでは浅はかの謗りを免れない。このことを深く知り、我が身の知恵の及ばぬばかりに至らぬことがありはしないかと朝夕に自問することが肝腎である)

 1605(慶長10)年
 玄覚(井上一世因碩、古因碩)が山城で生まれている。本因坊算砂は、囲碁のみならず将棋も能くし、慶長10年には江戸城で宗桂と将棋の対局を行なっている。

 1606(慶長11)年
 12.4日、豊臣秀頼が大阪城で碁会を催す。「梵舜日記」が次のように記している。
 「豊国二位宅の碁会において、本因坊、利玄坊、山内是安、六蔵(一世算哲)、春智、其のほかの本因坊弟子碁衆、十三人同道」。

 1606(慶長11)年
 碁打ち、将棋指し衆の統括者的な地位にあった算砂は両芸に秀で、囲碁は天下無敵。将棋も当時五本の指には入る腕前であった。今日宗桂、宗古との棋譜が残されている。やがて「名人碁所」に任ぜられ、初代本因坊となった。その際に将棋の司を宗桂に譲った。「同一人が囲碁と将棋の双方を束ねるのは、碁界にとっても将棋界にとっても不利益であると判断し、自ら将棋所を退き、宗桂に譲った」と解されている。囲碁界で開祖として尊崇をうける算砂は、将棋界にとっても大恩人と云うことになる。日海はこうして幕府公認のプロ棋士となった。これより以降、幕府が囲碁と将棋の家元に扶持を与え保護育成することになる。 この間、算砂は中村道硯(井上家元祖、二代目名人)、安井算哲(安井家一世)など多くの優秀な弟子たちを育てていった。 

 秀吉の息子である豊臣秀頼も、大阪城にて度々、碁会を開いている。梵舜日記が、この年に行われた碁会について、「豊国二位宅の碁会において、本因坊、利玄坊、山内是安、六蔵(一世安井算哲)、春智、そのほかの本因坊弟子碁衆、十三人同道」と記している。

 1607(慶長12)年、。
 11月、算砂と利玄、大阪城で対局。利玄、先相先で打つ。
 この年、算砂は将棋初代名人の大橋宗桂と将棋の対局をしたことでも有名だが、その宗桂に関する記述が「当代記慶長12年の項」にある。
 「この時の上手、名は宗桂というものなり、是京都町人なり。この宗桂は、信長時代よりの指し手なり、今年五十三歳なり」。
 この年、大阪城で算砂と利玄の対局が行われている。
 1607(慶長12)年、12.15日、算砂が「本因坊碁経」を刊行している。詰碁や手筋などを収録している。これはわが国初の囲碁出版であるとされ現存している。
 この年、徳川家康が駿府に隠居する。

 1608(慶長13)年、大坂城の豊臣秀頼の前で、初代本因坊・算砂が大橋宗桂(初代)と将棋対局している。これが将棋最古の棋譜となっている。 算砂は将棋でも第一人者であった。将棋初代名人大橋宗桂は算砂の弟子のような存在で、二人の将棋の実力は互角だった(ちなみに大橋宗桂の囲碁も算砂と互角だったという説もある)。千利休とも仲がよく、互いに碁とお茶を教えあったとの逸話がある。駿府の家康御前にて本因坊算砂と林利玄の対局が行われている。

 1611(慶長16)年、。
 初代本因坊・算砂が僧侶としての最高位の「法印」に叙せられている。
 この年、杉村算悦(後に2世本因坊)が京都で生まれる。

【徳川家康と浅野長政の碁仇譚】
 1611(慶長16)年、浅野長政が逝去している。長政は家康の碁仇で、長政死後は家康も碁石を手にすることがなかったと云う。家康と長政の次の囲碁逸話が伝えられている。
 「家康と浅野長政は無二の碁がたきで、顔さえ合わせれば碁を打った。或る日、家康が負けこんで、だいぶご機嫌が悪い。何番目かの碁も大石が死に掛かっており、気息奄々である。活きさえあれば勝ちなのだが、どう打てば良いのか分からない。そこへ算砂がひょっこり姿を見せ、盤側に座った。『おお本因坊か。見らるる通り難儀をしているさいちゅうじゃ』。家康は助け舟が現れたのを幸い、同意を求めるように話しかける。『ハネるものか下がるものか、二つの一つだとは思うのじゃが何とも思案に余る』。算砂、答えられるものではない。家康が重ねて云う。『どうじゃ、ハネであろう。ハネならば確かに活きておる。な?』。こうまで云われては、算砂も答えざるを得なかった。『御意。おハネになるがよろしゅうございましょう』。大石は活き、勝った家康はカラカラと笑った。おさまらないのは長政である。退出する算砂を追って出てくると、眉を吊り上げて云った。『こりゃ本因坊。余計なところにでしゃばりおって。お陰でわしの負けになったわ。もし今後もかようなことがあれば、本因坊とて容赦せぬぞ。さよう心得ろ』。この時、長政は脇差に手をかけていた」(田村竜騎兵著「物語り囲碁史」参照)。
 「名将言行録」の「徳川家康は浅野長政を呼んで「賭碁をするぞ」」参照。
 ある雨の日、徳川家康は浅野長政を呼んで「賭碁をするぞ」と言った。「では私が勝ちましたら、本日別室に控えております船越五郎右衛門(景直)の倅を上意をもって召し寄せて下さいませ」。「ほう、それは変わった賭けだな。何か理由でもあるのか?」。「はい。五郎右衛門は戦場での振る舞いは天晴れな武者だ、勇者であると諸卒から大いに賞賛されたものですが、御治世の今では誠に不甲斐ない臆病者と聞こえております。この者は中頃に(秀次事件で)御勘気を蒙り、南部へ遠流させられ、七、八年後に帰参を許されましたが、未だに名跡を継がせる嗣子がおりません。元々、本妻には子がいなかったのですが、蟄居の折、南部で一男をもうけまして、本妻の憤りを恐れて披露できなかったようでして」。「そういう事情ならば賭けには及ばない。その配所での産子を早々に呼び寄せて嗣子とするように」。路次伝馬などについて定めた後、二人は囲碁を始めたという。

【徳川幕府の囲碁、将棋保護政策】
 1612(慶長17)年、2.13日、徳川家康&幕府は、「碁打衆、将棋指衆御扶持方給候事」として、算砂を始めとする碁打ち衆、将棋衆の8名(本因坊算砂、利賢、宗桂、道碩、春知、仙重、六蔵、算碩)に俸禄を与えた。
 「慶長十七壬子年、権現様より下置かれ候御切米御書出しの写碁打衆将棊指衆御扶持方給し候事。一五拾石五人扶持本因坊、一五拾石五人扶持利賢、一五拾石五人扶持宗桂、一五拾石道碩、一二拾石春知、一二拾石仙重、一三拾石六蔵、一二拾石算碩、御切米合弐百九拾石、御扶持合拾五人扶持。右亥年分より毎年京枡を以て相渡し彼衆手形を取置き江戸御勘定相立らるべく候、以上 壬子二月十三日」。

 本因坊算砂/50石五人扶持、鹿塩利賢/50石五人扶持、将棋の大橋宗桂/50石五人扶持、井上(中村)道碩/50石、春知/50石、仙重/20石、安井六蔵(後の安井賛哲)/30石、算碩20石、他に林/50石の俸禄が与えられた。猿能楽の金春安照の500石、絵師の狩野探幽、狩野常信の200石、連歌師の里村紹巴の100石などといった他の遊芸師たちとの俸禄と1対1比較すれば、碁打ちと将棋指しの評価はさほど高いものとはいえないが、囲碁・将棋の場合の俸禄人数を勘案すれば相当な石高になるはずであり、江戸幕府によって囲碁・将棋が技芸として認められ、後の家元制に繋がる基礎が築かれた意義が大きい。以降、上手(7段)以上の棋士によって五百数十局の御城碁が打たれることになった。

 この時、扶持を受けた碁打ち衆のうち、相続をして家を継いだのは本因坊家、安井家(六蔵のちの算哲)、井上家(道碩)、林家(利玄坊の弟子の門入斎)の四家で、囲碁をもって幕府に仕える囲碁の家元となった。幕府と共にその後凡そ230年間続くことになる。本因坊家は50石、本因坊算砂(日海上人、1559~1623)。井上家は50石、算砂の弟子で、のち名人碁所となった中村道碩(1582~1630)。林家は50石、林門入斎(1583~1667)。安井家は30石、安井算哲(古算哲とも、1590~1652)を祖とする。「坐隠談叢」は次のように記している。
 「算砂時代に於ける碁士として著名なる者は、本因坊算砂、鹿塩利賢、中村道硯を第一流として、山内庄林、是*、算哲(六蔵)春智、仙角、門入、樹斎、仙重、徳蔵、覚順、宗数、算悦、算知等之に次ぐ。而して、道硯は井上の祖となり、算哲は安井家を、門入は林家を起したる者なり」。

 安井家の初代・安井算哲は算砂の門人で共に家康に仕えている。算哲の長子が渋川春海(1639~1715)であり、碁方を離れて天文方に転じ、後に安井算哲2世を称すことになる。初代安井算哲は渋川春海が天文方に転じたのを受け、弟子の算知を養子として跡目にした。この安井算知(1617~1703)が安井2世となる。安井家の碁は、本因坊家の本因坊算砂、中村道碩が軽い手筋でサバク手法を好んだのに比して力碁であった。これによりモリモリ打つ手法を安井流と言った。安井家と本因坊家は両家は囲碁の世界の両極をリードし、互いにしのぎを削る厳しい闘いを展開することになった。大坂の陣では叔父の安井道頓が豊臣方にあったが、父・宗順や叔父・定吉を家康に引き会わせ、徳川方の案内者に推挙する。その後は京都に居を構え、毎年3月に算砂らとともに江戸に下った。
 6.7日、算砂が法印に叔せられ、ロ宜案(薄墨の論旨)を受ける。同年、本因坊算砂が将棋所を大橋宗桂に譲る。「坐隠談叢」は次のように記している。
 「算砂は碁将棋共に名人の域に達し、碁将棋所を兼司したりしも。将来一人にして之を兼ねるに足るべき技りょうを有する者を見るは不可能のことにして、之を自然に放任するときは、遂に紛擾争奪を見るに至るべしとて、公許を得て、将棋所を大橋宗桂に譲り、碁所は晩年之を中村道硯に譲りたり。当時の碁所印可状左の如し。『今度我ら永々患候而して快気得ず候就者其の方囲碁秀で諸弟子依無頼家督相譲候 於向後者我らの手合い同前許之候。以上は手相以下の法度可為。その方計者也。*印可状如件 本因坊 元和九亥卯月二十三日 中村道硯 是より以後、碁所将棋所は互いに相扶助し、争議の起りたる場合の如きは、必ず斡旋し合う事となれり」。

【「天下の碁所たる本因坊に対する幕府の待遇」】
 四家元といえども時代により伎倆(ぎりょう)は異なる。本印坊家が碁所の司でありえたわけではない。神技の持ち主と目される名人(9段)の域に達すれば、幕府から碁所(ごどころ)の地位が与えられ、家元四家の上に立って号令できることとなる。碁所には、1・御城碁(江戸城に出仕しての碁の対局)に参加する碁打ち衆を代表する。2・碁打ちの全国的な統一基準を定め、棋力を認定し、免許状を発行する権限が与えられた。免許状は碁所又は宗家の重要な収入源となった。よって、碁所という最高栄誉を勝ち取らんがために、四家、なかでも本印坊、安井、井上の三家の間で激しい烏鷺の争いが展開されて行くことになった。当時、最高位は名人(9段)、次いで準神技級の準名人が8段、その下位の7段を上手と称し、人間技での最高位とされた。
 「天下の碁所たる本因坊に対する幕府の待遇」につき「坐隠談叢」が次のように記している。
 「当時、天下の碁所たる本因坊に対する幕府の待遇は、五十石五人扶持にして、家康は特に算砂の身を終るまで別に三百石を支給したり。而して算砂は、既に権大僧都にして、法印に叙せられたる者なるを以って、総ての取り扱いは他と班を異にし、緋(ひ)の法衣を纏いて、袋入長柄の傘を用いるは勿論、登城の節は、下乗際まで乗輿を許され、その京都に遷る時は、三千貫の旗下格を許され、品川以西の街道を堂々と往来したるものなり」。
 「算砂は常に、京都寂光寺の塔頭本因坊に居住し、次いで之を氏となしたる者にて、毎年三月中旬までに江戸に下り、着到の旨を、月番寺社奉行に届出で、四月朔日を以って他の三家(井上、安井、林)及び御城碁を勤むる者を率いて登城し、奏者番の口上を以って、本因坊碁将棋の者共参上の御目見え申し上げ候と披露に及ぶ。この時、本因坊は御祝儀として、扇子(函入り五本)を献上す。(中略)この式終わりて本因坊は一同を伴い、若年寄、月番寺社奉行等の役宅に就き、今日参上御目見え被仰せに付きありがたき幸せに奉り存じ候 と廻礼して、帰宅休養し、11月17日に至り、定例の御城碁を済まし、12月5日御暇を賜う。この時、本因坊には銀十枚、部屋住みには時服一重(他三家も同様)を賜い、又名人には黄金二枚を下賜せらる。而して、若年寄、月番寺社奉行を廻礼し、45日を経て京都に帰り、休養するものなり」。
 斯波義麿「家元制度についての雑感」を転載しておく。
 江戸時代の日本は、世界に先駆けてさまざまな今日的文明の基礎をなす制度、システムを商習慣や文化事業の中に築いてきました。大坂(今は大阪)の堂島の米相場会所の開設(1730)、これは、”帳合取引”と呼ばれ、現物をまったくともなわない純然たる先物取引の嚆矢として世界商業史に刻まれています。また、識字率の普及は、世界最高水準を誇っていました。木版印刷による”読み本”の出現は、ヨーロッパに先駆けた、大衆出版文化の到来を意味しました。こうした世界水準の最高レベルや”世界初の称号”を冠せられる江戸の文化事業の中に囲碁、将棋の家元制度の確立があります。はじまりを太閤秀吉時代の碁打ち衆(本因坊算砂)への二十石二十人扶持の支給にあるとするこの”専門棋士”の誕生は、徳川家康公が1612年に囲碁、将棋の強者八名に扶持を与え、それぞれ碁打ち衆、将棋衆として召抱えたことによって制度的に確立しました。(詳しくは、Wikipediaの「碁所」、「御城碁」等を参照ください。)囲碁の家元というのは、こうして生まれた「本因坊家」「井上家」「安井家」「林家」の四家を指します。四家の中の筆頭は「本因坊家」であり、幕末にいたるまでほぼ”碁所”すなわち碁打ち衆の”長官”の地位を独占したため、社会的にも”名人”の代名詞のような認識で受け止められてまいりました。厳密には”碁所”=碁打ち衆の長官と九段位=”名人”は同一ではないのですが、それは、よほどの例外なので普通は、碁所=名人=九段位といって間違いありません。今日ではその名跡は囲碁のプロ組織、日本棋院の所有となっています。有名な囲碁のタイトル戦「本因坊戦」はその名跡をめぐって、プロ碁打ちが、しのぎを競うという趣旨の一年任期の選手権戦です。現代でこそチェスの世界選手権戦や各国のプロ碁打ちのトーナメント戦は、当然のように行われておりますが、約四百年前に専門家集団による選手権戦、(碁所=名人位=長官位)争覇をめぐる家元四家による真剣勝負が幕府の庇護のもと、制度化されていた事は、世界文化史上の驚くべき特筆大事と申しても過言ではないでしょう。これは、囲碁を愛した徳川家康公の趣味をそのまま歴代将軍家が踏襲した結果であり、”真剣勝負”の結果を将軍家の御覧に上げる毎年の”御城碁”の日とは、家康公の命日である11月17日に他なりません。この日は、家元・碁打ちにとって、はれの将軍お目見えの特別の名誉の日であり、この儀式が完了するまで、中座したり、途中退席したりすることなどありえません。「碁打ちは親の死に目に会えない」の諺は、この故事に基づくものです。世界文化史上における意義を称え、囲碁を愛した家康公は、2004年に第一回囲碁殿堂入りに選出されました。
 先ほど江戸時代に確立された家元制度のうち、碁打ち衆すなわち囲碁四家の成立事情に関して述べさせていただきましたが、世に家元と名のつく職能家系の多きこと、華道、茶道、礼式、能、狂言、武術等々無知な私が何を”雑感”として述べられましょうか。ただ、自分の趣味である囲碁に関してのみ、少しは、ご報告らしき何かを申せると考えているしだいです。にもかかわらず何ゆえ家元制度についてなどとえらそうな表題を採用したのか、それは、私が愛してやまない囲碁に関して”家元”という言葉が特別なキーワードであると考える理由があり、歴史に関する議論の中で囲碁を論じようとすれば家元制度の性格、意義、存在理由等を考察せずして正しい結論を導くことはできないと考えたからであります。私の囲碁論において家元制度はそれほど重要な位置を占めております。ゆえにこの後半においての”家元論”とは囲碁を論ずるためのツール、補助線的な意味合いで語られる事を先におことわり申し上げ、議論を進めたいと存じます。

 そもそも何ゆえの”歴史コーナー”における囲碁なのか、歴史ファンにとって囲碁など関係ないではないか、と指摘されれば非常につらい面がある事を正直に申し上げて話を進めたいと思います。これに関する私の釈明は、私は、囲碁に関する或る救いを歴史に求めざるをえなかった、ゆえに、私の囲碁論は、そのまま、何らかの意味での広義の”歴史論”に相当するわけであり、”歴史論”ならばこのコーナーに投稿しても許されるであろうと考えたしだいです。しかし、もう、そうとう前置きがながくなりました。以下、本論でございます。

 80年代に「日中スーパー碁」に何度目かの敗北を喫した後、日本囲碁界は、90年代後半からこの21世紀初頭の数年間にかけてアジアのとりわけ韓国の若き天才たちにこてんぱんに打ち負かされ、もはや、彼らは日本の囲碁を学ぶ必要性を認めなくなったかの印象があります。日本の囲碁ファンたちの反応も弱気で彼らのネット上の議論をみれば韓国最強、日本二流という意見が大半のようです。日本のプロ棋士たちも弱気な感想が多い。しかし、私の感想は、異なっています。私は、今でも日本を世界最強の囲碁国家であると考えており、その信念の拠り所が家元制度というしだいです。ところで、GoogleのWikipediaで「家元」を検索してみてください。他の分野の家元(華道や茶道、小笠原流のような礼式)が今も健在であるのに対し、囲碁、将棋は「家元が死滅した」と記されています。これが、世間一般の常識であり、多分、日本の囲碁のプロ棋士たちもそう考えているのでしょう。自分たちが”家元”そのものである、いな、そうあるべきである、という自覚がない。これが、”道場破り”すなわち、東アジアの中韓棋士たちに看板をうばわれて後塵を拝することになった原因の最たるものです。ここで私は、何故、徳川時代に確立された家元制度がすばらしいか、その理由を語りたいと思います。まず、わかりやすい数字から。囲碁に於けるもっとも高い評価を受けている数人の碁打ち、本因坊道策、丈和、秀策、道的、秀和、秀甫、秀栄(丈和以下すべて姓は本因坊)といった天才たちは、皆、江戸時代に生を受け(活躍が明治の棋士もあるが)家元の徒弟制度で修行したという事実です。ところで右の七名の棋士を上回る天才はプロ化した明治以降の近代碁界からは出現していない。贔屓目にみてもかろうじて互角の棋士が十数名といったところでしょうか。選手層の厚さは、大正、昭和、平成を合計すれば、江戸時代の家元四家の総延べ数の数十倍に値する院生、准棋士、見習いを抱えておりながら、数十分の一の江戸時代と同数もしくは、倍ぐらいの天才しか生み出せなかった。この効率の悪さは何か。否、江戸時代の家元四家の異常な効率のよさは何か、これは、統計から導かれた結果なのですから誰も反論できない。すべては、家元制度の一子相伝的な摩訶不思議な密教の奥儀伝承の如き霊的交感がなされた結果としか思えません。もっとも大切なものは、筆授できない(言葉、演繹的論理を駆使しても伝えられない)、このことは、司馬遼太郎氏が、「空海の風景」の中で空海と最澄の密教の奥儀伝承にあたる姿勢の違いを見事に描いておられるので是非ご一読いただきたい。家元制度にはこの超心理学的なテレパシー的な言葉によらない感化という神秘的側面があると私は、推測します。

 私の好きな司馬氏の作品に「京の剣客」という短編があります。ここに表現されている吉岡憲法の姿こそ私が理想とする「家元」そのものです。家元は、在野のプロフェッショナルに負けてはならない。死に物狂いで修行した在野のプロ中のプロを手もなく捻るのが「家元」であるからです。努力は、天才に勝てない、その「天才性」を代々筆授や論理、左脳的人間知によらず、帰納法的な直観的な瞑想的な”霊感”のかたちで一子相伝させるのが(これは、遺伝学的な親子である必要はありません養子がむしろ普通です)家元、日本の家元文化であると私は、信じます。古来、日本の文化はそのようにして、師匠から弟子へと伝えられたのでした。かえりみて日本の近代碁界で最も家元徒弟制度に近かった育成方法をとっておられたのは、木谷実先生でした。木谷門下からは、競馬に例えれば、サンデーサイレンスからダービー馬が何頭も誕生したように多くのタイトルホールだーが生まれました。これをみても家元徒弟制度の如何に優れた教育方法かがわかります。日本のプロ碁打ちの方々は、自分たちが、日本棋院という看板を背負った現代の囲碁の「家元」であり、死に物狂いで武者修行したプロ中のプロである在野の「宮本武蔵」を木っ端微塵に返り討ちする義務があると自覚していただきたいものです。せっかく、家康公が敷いてくれたその伝統のシステムを是非、現代に蘇らせていただきたい。日本の文化の力を結果で証明していただきたい、と深く切に祈るものです。長々とご静聴いただき真に有難うございます。
 09年02月17日「◆国技・1 ◆カムイ◆ 」。
 二代将軍秀忠は、軍事では、優れた資質を見せなかったが、文化面での業績がある。江戸以前の文化芸能は、民間で自然発生し、発展したものが多い。散在する文化を統括し、監督官庁も定めて奨励したのは、秀忠の政治である。新しい制度が出来て、相撲と碁は発展期を迎える。どちらも古くから行われてきたが、専門職としてではなかった。相撲は古代から宮廷で、相撲の節会(せちえ)として、秋に行われていた。武士が政権をにぎり、皇室の力が衰え、源平の戦いがはじまると、承安4年(1174年)を最後として、節会は断絶した。相撲の中心は武士階級に移り、組討の武技として奨励された。戦時だけでなく、平時にも行われた。 曽我兄弟の仇討ちの原因となった、河津三郎と股野五郎の相撲は、源頼朝の前でおこなわれたものである。室町時代には、半職業的力士集団が、投げ銭目当ての辻相撲や、寺社建立の寄付を勧める勧進相撲を行っていたが、後世に名を残すほどの力士はいなかった。これらの相撲は、主に上方で行われていたのである。 すべての芸能が京阪で熟し、江戸に下ってきたように、江戸で勧進相撲が行われるようになった。木戸銭をとって見せる興行である。勧進は、正式に興行許可をとる名目だけとなった。いまも、地方興行の責任者を勧進元とよぶのは、その名残りである。芸能一般は寺社奉行の管轄だが、相撲興行が行われるときは、相撲奉行が特設された。力士が相撲のプロとして公認されたのである。初代横綱が生まれた。明石志賀之助、後世に名が残る力士である。横綱はこの時は、位でなく、最高力士で特に選ばれたものが締めることができる栄誉であった。その格式は、京五条家が許可した。150年後、第四代横綱からは、吉田司家が許可するようになり、今日に至っている。

 碁所が設けられた。 碁打ちの総元締めである。官賜碁所の制度は、豊臣時代に定められたが、昇殿まで許される日海上人が、算砂と名乗り、碁を天職とするようになったのは、このときからである。碁の家元ができた。本因坊家につづいて、安井家、井上家、林家である。家元の中から碁所が選ばれる。最初の碁所は本因坊家である。第一世本因坊算砂は、法印の位をもつ僧侶だが、後に、織田、豊臣、徳川に仕え、指導碁も打った人である。初めての名人(初代名人とは言わない)になった。名人は、最高棋士で特に推薦されたものが称することができる位である。近世、第二十一世本因坊秀哉までに10名を数えるのみ。本因坊家7名、井上家2名、安井家1名である。名人は碁所当主であったように思う。井上家の元祖となった中村道碩は、算砂の門弟、算砂の後の碁所となる。本因坊家を継がず、新しい家元を起こすのは、算砂の意思による。道碩の門弟である井上因碩(古因碩)の名跡を第二世以来、代代襲名することになる。碁所は道碩の後、該当するものがなく、一時欠所となる。横綱、名人、専門力士、専門棋士の誕生は、二代将軍の治世であった。

【「当代記(慶長十八年三月の条)」】
 「当代記の慶長十八年三月の条」に以下のような記述がある。算砂が本職の囲碁以外に将棋を得意としたように、利玄もまた中将棋を得意とし後陽成院と対局する機会がしばしばあったようである。
 「五日、…碁打ちの本因坊、召しにより院参す。碁の儀色々院宣あり。中にも仙人の打ちし碁の作物、直に院作ありて、本因に見せらる。この時の院宣に、碁に別智ありと云ふ事は三家禄と云う書物にこれあり、酒に別腸ありと云ふは知らずと也。和云ふ、これは賓退の禄と云う書物にこれありと承る。この書物さがの妙知院にこれあり。又月合の比、利玄、召により院参す。これへも右の作物同前なり、則ち利玄これを仕る。奇特の由宣下あり。利玄、院、中象碁を遊ばさる。本因、利玄は出家の為によりて也。何も法花宗也。さて右の両人も駿府へ下る。院は中象碁天下一と思召す」。

【道頓堀譚】
 1581(天正9)年、安井定次は信長から久宝寺一円領地たるの朱印をもらい、1584(天正12)年、秀吉から知領安堵の保証を得た。兄の定三の三男定吉を養子とした。定吉が壮年になると遁世し道頓と称した。道頓は大坂南堀(道頓堀安井稲荷のあるところ)に住んだ。1612(慶長17)年、道頓は、豊臣家に願い、自宅付近の東堀から木津川に至る上下28丁の地を買い、これを掘って船の便を拓いた。慶長の末年、豊臣秀頼が兵を集めると聞き、既に定次は死んでいたが、生前の厚誼に報いようと一族の仁兵衛と共に大坂城に入った。道頓は秀頼の近習役になった。秀頼と道頓は碁が強く毎日のように碁を打った。ところで、安井算哲1世は定次の兄の定正の四男宗順の子であった。算哲は家康、秀忠に愛顧され、一族の道頓、仁兵衛が大坂城に入った為に肩身が狭かった。算砂が案じて労をとり、そのとりなしで、算哲の父宗順、伯父の定吉が東軍の道案内者になった。大阪落城により道頓と仁兵衛は戦死した。定吉は、久宝寺、大蓮、渋川三ヶ村の代官となり、一族の私費で掘った南堀を浚渫(しゅんせつ)した。且つ道頓の志を追悼し南堀を道頓堀と命名した。
 大阪歴史博物館 安井家のルーツ」。
 大阪歴史博物館の常設展示室に囲碁史にとっても興味深い展示物がありました。江戸時代の囲碁家元の一つ安井家のルーツが分かる文書が安井家の子孫より寄贈され展示されているのです。安井家初代の安井算哲の息子で初代天文方に就任した渋川春海(二代目安井算哲)が神道を学んだ京都の山崎闇斎を介して大阪の安井九兵衛家へ安井家の系図の調査を行ったやり取りの手紙が展示されています。安井九兵衛家とは初代算哲の叔父で安井道頓の跡を継ぎ大阪の道頓堀を造った安井道卜の家なのです。また、安井家の歴史を調査した渋川春海が作成した家系図も展示されています。

 安井氏は清和天皇の流れを汲む河内守護の畠山氏一族で、河内国渋川郡を領有し渋川氏を名乗ります。つまり、二代目安井算哲が渋川春海と名前を変えたのは先祖の姓に戻したということなのです。その後、渋川氏は播磨国の安井郷に移封されたため、安井氏へと姓を変えます。数代後の安井定重の時に、先祖の居城であった河内国久宝寺城へ移り織田信長に誼を通じますが、信長と対立していた石山本願寺・一向一揆衆によって久宝寺城は陥落。定重も討ち死にします。この定重の弟・定次は信長、そして豊臣秀吉に仕えますが定次の息子が秀吉の命により道頓堀を開削した安井道頓だと言われています。また、安井定重にはもう一人の弟・定正がいて、その息子の一人が安井道卜といって道頓堀開削の道半ばで亡くなった道頓の跡を継ぎ堀を完成させた人物です。そして、安井道卜の甥こそが初代安井算哲なのです。

 大阪歴史博物館:大阪市中央区大手前4丁目1-32


【「家康と算哲の囲碁掛け合い」】
 次のような興味深い「家康と算哲の囲碁掛け合い」が残されている。
 「或る時、算哲が家康と碁を打ちながら云った。『この石は活きているとおぼし召すか、死んでいるとおぼし召すか』。家康は暫く考え込み、『どうも死んでいるように思われる』と答えた。算哲『しからば存分に殺してご覧じませ。それがしは活きてお目にかけませう』。家康がその石を殺しにかかったところ、算哲の応答で造作なく活きた。『なるほど活きたか。死んでいる石とばかり思ったぞ』。算哲『いやいや、まだ決着のところは分明には御座りませぬ。御所様がまこと活きているとおぼし召すなら、それがしが攻めて殺して御目にかけませう』。今度は家康が活きにかかったが、算哲が造作もなく殺してしまった。家康『これは稀代じゃ。活きと死にと、いずれが正しいのじゃ』。算哲『活きると仰せあれば死に、死ぬると仰せあれば活きる。即ち死中の活の妙機秘奥、詳しくは口伝に譲り申し候』」。

 1614(慶長19)年、
 大阪冬の陣。

 1615(慶長20、元和元)年、7.13日、元和改元。
 大阪夏の陣による豊臣家滅亡。
 家康が先の五十石五人扶持のほか、特に算砂に終身三百石を与う。

 【算砂が、加賀藩に招かれ以降2年間、囲碁指南役として過ごす】
 本因坊算砂が、加賀藩3代藩主、前田利常に招かれ、法弟本照坊日至を伴って金沢に赴き、首席家宅・本多邸に滞在する。以降2年間、囲碁指南役として過ごす。1617年(元和3年)、藩の寄進で本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗、金沢、本多)を創建した後、帰洛する。本因坊算砂は、激動する戦国の世を生き抜き、後世の碁界に多くの遺産を残すことになる。

 1616(元和2)年、。
 1月、徳川家康が鷹狩に出た先で倒れた。4.17日、駿府城において死亡した(享年75歳)。

 1617(元和3)年、。
 算砂が前田家の援助により金沢に久遠山本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗)を開基する。直ちに本照坊を2世とし京都に帰る。
 3月、算砂「碁之狂歌」、「将棋之狂歌」各十一首を書き残す。
 この年、安井算知が山城に生まれる。

 1620(元和6)年、 。
 共に算砂の高弟の中村道硯(38歳、後の井上家の始祖)と安井算哲(31歳、後の安井家の始祖)が秀忠公御前で対局している棋譜が残されている。162手までで中村道硯の中押し勝ち。

 1621(元和7)年、。
 中村道硯が算砂より名人の印可状を受ける。

【初代本因坊・算砂が韓人・季約史(りやくし)を3子対局で制す】
 元和年間、朝鮮(韓国)随一の打ち手と云われていた韓人・季約史(りやくし)が来朝し、算砂と3子で対局し忽ちにして失敗し敗る。嘆息して次のように述べている。
 「我れ、本国に於いて久しく碁技を闘わすに未だ敗れたることなし。然るに今かくの如し。(三つも置いて惨敗するとは)実に日本は囲碁の国にして、日海師(算砂)の如きは真に空前の名手なり」。

 外国の名手が日本に来て、日本の名手と対局したのは、これが初めてであった。残念ながら、このときの棋譜は残っていない。季は、帰国して盤石に「乾坤窟」と書した扁額を贈り来る。この算砂と李礿史との三子碁以来、時の最高位者は外人と対局するに三子を置かせて打つのが恒例となる。

 1623(元和9)年、。
 4.23日、算砂が中村道碩に家督を譲り、同じ手合(名人)を許す。手合以下の法度を計らうべき旨の印可状をあたえる。遺言により算砂の養子で当時13歳の算悦を本因坊とし、その後見となって育成することを依頼する。

【初代本因坊・算砂逝去と遺言】
 5.16日(6.13日)、本因坊算砂が京都で逝去する(享年65歳)。墓所は京都寂光寺、示寂、法名日海上人。辞世の句は「碁なりせば  劫(コウ)なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」。「坐陰談叢」は次のように評している。
 「(本朝の千余年の歴史を持つ碁道が応仁の乱で蹂躙されたのを再興し)徳川氏の碁将棋所三百年の基を開きし偉人」。優れた碁技と指導力で碁界の総仕切りをする碁所となり、家元本因坊家の始祖となる。また権大僧都・法印の位も得、棋士として最高の身分をまっとうした」。

 算砂の功績として道碩、本因坊算悦ら多くの弟子を育てたこと、棋譜を残す習慣を定着させたことが挙げられる。棋譜を残すことにより技術的研究ができ、後世に大きな影響を残した。著書として「本因坊碁経」を残している。

【中村道碩(どうせき)が名人に就任】
 本因坊算砂は弟子の中村道碩(どうせき)に名人の印可状を授けた上で後継を当時13歳の算悦(算砂の実子?)とし、その後見を道碩に託した。道碩の実力は師匠の本因坊算砂より上であったと云われている。この頃の対局として、林利玄(算砂のライバル)」、安井算哲1世(兄弟弟子)、算知、林門入因碩1世(林利玄の弟子)との棋譜が残されている。安井算哲1世とは120局打ち80勝40敗で道碩40番の勝ち越しとなっている。道碩は早い碁で算哲は遅かった。道碩は人に、「碁には勝っても、算哲には命をとられる」と述べたと伝えられている。林利玄とも打っているが2局しか棋譜が残されていない。後の本因坊丈和は道碩の棋譜を多く研究したという。

 1624(元和10)年、2.30日、寛永に改元。

 1625(寛永2)年、。

 1626(寛永3)年、。

【お城碁が始まる】
 1626(寛永3)年、9.17日、算砂を継いで名人となった中村道碩と安井算哲による御前御城碁対局「道碩-安井算哲」が二条城の徳川秀忠御前で打たれ、道碩が白番3目負けしている。但しコミのない時代であるから、現代の6目半コミで評すれば少なくとも負けにはならない。これより、寺社奉行の呼び出しによるという形式で家元四家の棋士が毎年1回江戸城の将軍御前にて御城碁が始まる故に、この碁がお城碁の始まりとなる。以来、囲碁は日本の国技として発展していくことになる。1716(享保元)年、徳川吉宗の時代に対局日を家康の命日にちなんで毎月11.17日と決めた。対局は、江戸城中奥書院において、将棋の対局と並んで行われ、11.11-16日までに対局終了し、17日に将軍の前で披露された。対局中の六日間は面会、外出が許されず、打掛けながらとり行われた。御城碁は特別な事情がない限り毎年欠かされることなく続き、幕末の1864(元治元)年に中止となるまでの230年余りに全部で536局対局、出仕した棋士は67名にのぼった。政治が芸能をこれほどに保護した例は世界史上に珍しい。徳川政権の政治の特質を証しているように思われる。

 御城碁出仕は、家元の代表としての真剣勝負となり数々の名局が遺されている。出場資格は、本因坊、井上、安井、林の4家元の当主、届出を済ませた跡目相続人、7段以上の実力者であった。一時、5段にまで資格をさ下げた時期があったが、すぐに7段以上に戻した。その他に外家と言われる他の家人で認められた者もあった。石田芳夫「秀策」13Pは次のように記している。
 「徳川囲碁史を通じて、御城碁こそは最高の公式対局であり、家門の名誉と碁打ちとしての面目をかけた、晴れの舞台だったのである」。

 こうして、毎年一回、江戸城中奥の黒書院で行なわれる御前試合として御城碁が始まった。白書院や帝鑑の間が使われることもあった。出席棋士には銀十枚と、時服、朝夕の食事と茶菓が支給された。碁打ち衆にとって、これに出場することは最高の栄誉であり、ここで四家が家元の面目を賭けて技量を競うことになった。当時は、明け六つ(午前6時)の開門と同時に三つ葉葵の紋のついた駕籠に迎えられた本因坊が江戸城へ登城し、寺社奉行の指図に従って準備を整え対局する。いったん城内に入ったら、どんなことがあっても下城できない。これが「碁打ちは親の死に目にも会えぬ」の語源となる。将軍が出座すれば、終局まで打ち上げ、出座がなければヨセだけ残して出座を待つ。将軍の都合がつかない時は、老中が全員出席して終局を見届けた。その後、本因坊道策の時代の1669(寛文9)年に下打ち制が生まれ、毎年11.6日に四家元が会合し、組み合わせを決めて奉行に届出、許可が下りると11日から16日までの間に対局し、17日当日は将軍の御前で手順を並べて見せることになった。下打ちの6日間は誰との面会も外出も禁じられた。
 「坐隠談叢」は次のように記している。
 「御城碁は幕府が高段の碁士を試むる一種の方式にして、毎年一回の掟にあり。故に、之に列する碁士は、あたかも武士の御前試合と同じく、名誉の岐るるところなりとして、極めて重大視したるものなり。而して、之に列するを得る者は、本因坊、井上、安井、林の各家元及び願い済みの跡目相続人とその他7段以上の技ある者なり。その後家元の願いにより、5段以上の者を列せしめたるも、天明以降は、更に7段以上と限定せり。然るに、その後井上家は嚢に列したる河野元虎、阪口徳の例を引きて、服部因淑、同雄節(共に6段)の二人を之に列せしめたる事あるも、これ以外には特別の命令あるに非ざれば列席するを得ず。尤も高家大名もしくは旗下の士にして碁技を能くする者は、願いにより特別に列席せり。而して、御城碁の期日は、初め確定せず。その後12月に定められ、8代吉宗治世の享保元年に至り、毎年11月17日と定められ、同月初めに月番寺社奉行より、『寛永の御吉例により例年17日を以って御城碁可有之候 寺社奉行』とありて、各家元は輪番に集会して手合いを定め、口上書として寺社奉行にに届出で、当日本因坊は明け六つ時、大手門御開門と同時に登城し、寺社奉行指図の下に、御黒書院に於いて対局したるものなり。後に道悦争碁中、乱雑なる碁に遇う毎に、御老中既に退出の時刻に及ぶも、猶結局に至らざる事あり。かかる場合には、月番奉行の役宅に下り、打ち続きを為したるの不便を生じ、詮議の上向後、御城碁仰せくだされ出で候節は下打候様にと沙汰あり。爾来下打ちするを恒例となすに至りたり。この下打ちとは、毎年11月6日、四家協議の上、手合いを定めて、之を届け出で、故障なきに於いては11日より16日までに対局し、四家は輪番にその席を為すなり。亦この6日間は何人にも面会、もしくは外出を許さず。これ17日に将軍の御覧に供する碁なればなり

 当日、将軍の出座あると否とを問わず、所定の御座には*を敷き、火鉢、刀掛けを備う。而して将軍出座の節は終局まで打ち上げて上覧に供し、出座なき時は、浸分だけを残して出座を待ち、終局を告ぐるも全然出座なき時は、老中に於て御座敷廻りと称し、残らず列席あるを待ちて御持ち成しは、『朝夕二汁五菜の御料理木具にて下置くだされ、御吸物御酒御菓子御茶下置きくだされ候。このことは、権現様御代の格にて御代々変ることなし。碁相済みそれより退出致し、御老中若年寄寺社奉行衆へ、今日所作被仰付難有仕合致候由、申し上げ御礼廻りを致し候』と古書にあり、而して本因坊は宗家として果た碁所なると共に、寂光寺の僧にして、権大僧都法印たるを以って、常に円*衣(れい)なるは勿論なるが、その他の三家及び御城碁に列する者もまた之に倣うて、法体となるの掟ありて、本因坊、井上両家は日蓮宗に属し、安井、林両家は浄土宗に属したり。その後本因坊三世道悦の時に至り、彼の算知と争碁の節、僧服にては都合悪しく、衣の袖を短くし、心静かに手合いに及ばん事を嘆願したるに直ちに許容せられ、遂に袈裟を脱するの例をなし、後には十徳を着するに至りたり。

 本因坊家は京都にあり、毎年4月より12月まで、江戸詰めなるを以って、公儀に於いて詮議の末、本因坊家は日本橋に、林家は鉄砲町に、各1丁四面の屋敷を賜う。然るに当時の江戸は幕府開けたるも日なお浅く、武蔵野の草莽未だ全く*除(さんじょ)さるるに至らず、京橋日本橋の辺りは丘陵起伏して人家極めて少なく、けんか繁茂して行客影を留めず、野狐昼眠りて鴻雁人に驚くの有り様なりしかば、両家は之を開墾し、且つ建築するの困難なるを以って、遂に之を返上し、後に芝金杉に仮屋敷を賜い、之に居住したりしたが、道悦の世に至り、再三屋敷替えを願い、寛文7年極月23日本所町並びに於いて十間に二十間の屋敷を賜い、十年二月十一日より移住せり」。
 御城碁譜整理配布委員会「御城碁譜」(1651年)

【本因坊邸】
 本因坊家は徳川家の吉例として毎年春、京都より出府し、直ちに月番の寺社奉行に参着の届出をする。4月1日に井上、安井、林三家、及び御城碁を勤める全てを引きつれ登城する。その時、殿中奏者番から、棋所本因坊並びに将棋の者どもが参上したと披露する。本因坊は御祝儀として五本入りの扇子箱を献上する。このお目見えの儀式が終わって退出すると、本因坊はその足で若年寄、月番寺社奉行の役宅を順次に回礼する。御城碁は当初、袈裟を着て対局した。算知-道悦の争碁以降、十徳を着るようになった。将軍が出座すると、棋士は頭を垂れ、両手を畳につけねばならないが、この動作の時に袈裟の袖で石が乱れることがあった。それ故、道悦が願い出て十徳を着ることを許された。御城碁は年1回で、期日ははっきり決まっていなかったが、8代吉宗の時から毎年11月17日に決まった。対局期間、棋士には朝夕二汁五菜の料理が木具で出された。御城碁が済むと棋士には銀十枚が支給された。本因坊が賜暇になるのは12月15日、この時、本因坊にはさらに銀十枚、名人なら黄金二枚、時服二かさねがついた。本因坊家の本拠は京都であるが、毎年4月から12月まで江戸にいるので、日本橋に1丁四方の土地が幕府から宛がわれた。後に芝金杉に仮屋敷を貰ったが、道悦の時に屋敷替えを願って本所に十間に二十間の屋敷を貰って移転した。

【手合い割】
 ここで、「手合い割り」について確認しておく。この時代にはハンディとしてのコミ碁が導入されておらず、手合い割りで棋士を番付していた。まず同じ実力の対戦を「互先」(たがいせん)と云い、黒(先番)、白(後番)を交互に打つ。コミなしで十番打ち、4番勝ち越せば手合いが変わる。「互先」に対して実力差が一段違うと「先相先」(先々先)になり、、黒白黒の順に直り、三番勝負のうち二番を黒、一番だけ白を持つ。これに負け越すと二段差の「定先」(単に先)なる。「定先」になると毎局黒をもつ。三段差は「先二」と云い、先の碁と二子の碁を交互に打つ。四段差は「(常)二子」。常に上手に二子を置く。以下同様とする。
 参考までに記すと、以上は家元制下の本職棋士の場合の「手合い割り」である。アマチュアの段級認定、「手合い割り」にはそのままでは使えない。現在ではハンディとしてのコミ碁が導入されており、一見はより精密化しているように思える。但し、「(常)二子=4段差」と認識した方が何やら的確とも思える。即ち6段に2子で勝てない者は4段ではなく2段止まり。あるいはこの6段を8段にすれば4段どまり。10段にすれば6段どまりと云うことになる。互いの棋力を測るのに、昔のこの「手合い割り」による手合い差の方が案外と合理的かも知れない。アマチュアの場合、全国大会優勝レベルの最高位を10段とし、その方との手合い差を序列化した方が却って正確で分かり易いかも知れない。
 「棋士(きし)」の呼称変遷史を確認しておく。室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れた。彼らは「碁打」と呼ばれた。この呼称はずっと続き今日でも通用している。江戸時代に家元制が敷かれ俸禄を受けるようになると、「碁衆」あるいは将棋の家元との区別で「碁方」、「碁之者」などと呼ばれた。後に「碁士」、「碁師」などの呼び方も生れた。明治になると「碁(棋)客」、「碁(棋)家」といった呼び方がされ、また棋戦に出場する者は「選手」とも呼ばれ、大正時代の裨聖会もこの呼び名を使った。日本棋院が設立されると「棋士」を使うようになり、以降の各組織でもこれに倣い現在に至っている。

 1628(寛永5)年、。
 安井算知(12歳)が南光坊天海(1536~1643)の推薦により召し出され一家を成す。安井家は算哲家と算知家の両家を生じるが、碁方としての算哲家は二代算哲が天文方・保井算哲(渋川春梅)となったため絶家する。
 11.17日、江戸城にて、御城碁「中村道硯-安井算哲先番」。算哲の5目勝ち。

 1629(寛永6)年、。
 江戸城で御城碁「中村道碩-安井算哲先番」。道碩が算哲と対局し、白番6目勝ち。道碩と算哲はかなりの数を打っている。時期は不明だが数年間に120番、道碩の40番勝ち越しという記録がある。ということは道碩が80勝40敗と云うことになる。現存する両者の棋譜は今のところ49局で、全て道碩の白番である。ちなみに、道碩の棋譜は現在80局見つかっている。そのうち道碩の黒番は利玄との1局だけである。中村道碩は、「碁には勝っても命は算哲に取られる」と語ったと云われる。

本因坊2世算悦時代

 1630(寛永7)年
 8.7日、算砂が亡くなってから7年後、病に伏した道碩がをしっかりと育て上げた算悦(20歳)に算砂より受けていた印可状を引き渡し上手(名人に先、7段)を認めて幕府へ嘆願した。算悦は30石を賜わり、本因坊家再興を許され本因坊2世となる。こうして算悦が本因坊家の名を継ぎ本因坊家を正式に継承(再興)させた。この時代はまだ世襲制が確立されていなかったため、算砂が亡くなった後算悦が継ぐまで一時本因坊家は中断されていた。これが碁界初の相続例となり家元制を生み出すことになる。弟子の井上因碩(玄覚)も禄を受けることを願い出て家元井上家となった。そのため道碩は井上家の元祖とされている。
 8.14日、肩の荷が下りた道碩が没す(享年49歳)。墓所は京都寂光寺。道碩の弟子に、後に井上家を興すことになる一世井上玄覚因碩がいる。そのため道碩は井上家の元祖とされている。道碩の他の弟子には寺井玄斎、法橋現碩(玄碩)、松原因策がいる。
 この年、「古本因坊定石作物」が出版されている。約60局の棋譜が残されており、そのうち安井算哲との碁が40局ほどを占める。後の本因坊丈和は道碩の棋譜を多く研究したという。

 1631(寛永8)年
 この年以降、徳川実紀に「碁将棋御覧」の記載が多く現われるようになる。1644(正保元)年からはほぼ毎年の10-12月に記載されるようになる。1662(寛文2)年、家綱の時代、碁将棋衆が寺社奉行管轄下となり、寛文4年からは年中行事として毎年の記録が残されている。

 1635(寛永12)年、。
 幕府、寺社奉行を置く(碁将棋方の所属は覚文2年)。これより碁打ち衆が次第に京から江戸へ移住し始める。

 1636(寛永13)年、。
 丹羽道悦(後に3世本因坊)が伊勢松阪(あるいは石見ともいう)に生まれる。

 1637(寛永14)年、。
 秋、九州の島原でキリシタン一揆が起る。原城に立てこもった一揆衆は3万7千、包囲した寄せ手は十万人余。原城が落城したのは翌年の2.28日。生き残りの山田右衛門の話を書き留めた「玉露叢」は次のように記している。
 「或る時、四郎時貞、本丸にて囲碁を打ちて候ところを、鍋島信濃守勝茂の臨楼より、石火矢を打ちかけるが、時貞が左の袂を打ち切って、その弾に四郎が側に罷りあり候男女6、7人打ち殺され申し候。よりて城中の男女、内々は、四郎には名誉の儀あるべきと思い、末頼もしく存ぜしかども、只今の風情は、四郎さえあの如くなれば、末々の儀思いやられて、各々力を落しけるとなん」。

 この年、将棋のお城碁対局も行われるようになった。

 1639(寛永16)年、。
 2代目安井算哲(後に保井、また渋川春海)が1代目安井算哲の子として京都四条室町に生まれる。

 1640(寛永17)年、。
 名人道碩が亡くなって十年、その間「名人」は空位となっていた。この年、幕府が当代の一流棋士を集めて「名人」を決める会議を行った。これが史上初めて「名人碁所」を決めるために行われた会議、世に言う「碁所詮議」である(正確にはこの時代はまだ「碁所」という役職はなく、名人を決めるために開かれた会議で「碁所詮議」とは後世につけられたもの)。集められたのは、この時代を代表する打ち手3名で、安井算哲1世、本因坊算悦2世、井上玄覚因碩1世だった。故・名人中村道碩と兄弟弟子であった安井算哲1世が自薦するが、幕府側に「資格なし」と却下される(「安井算哲(一世)の自薦却下」)。中村道碩の下で共に修行した本因坊算悦2世と井上玄覚因碩1世は名乗りを上げず、結局この時は名人碁所は決まらずに終わった。しかし、この後「名人碁所」を巡り歴史が大きく動き出すこととなる。
 この年、2世林門入が生まれる(推定)。
 覚永年間、「玄玄碁経」(覚永版)が出版されている。

【「名人碁所詮議不調に終る」】
 1640(寛永17)年、。名人道碩が亡くなって十年、その間「名人」は空位となっていた。この年、幕府が当代の一流棋士を集めて「名人」を決める会議を行った。これが史上初めて「名人碁所」を決めるために行われた会議、世に言う「碁所詮議」である(正確にはこの時代はまだ「碁所」という役職はなく、名人を決めるために開かれた会議で「碁所詮議」とは後世につけられたもの)。集められたのは、この時代を代表する打ち手3名で、安井算哲1世、本因坊算悦2世、井上玄覚因碩1世だった。故・名人中村道碩と兄弟弟子であった安井算哲1世が「私が適任」として自薦するが、幕府側に「資格なし」と却下される(「安井算哲(一世)の自薦却下」)。中村道碩の下で共に修行した本因坊算悦2世と井上玄覚因碩1世は名乗りを上げず、結局この時は名人碁所は決まらずに終わった。しかし、この後「名人碁所」を巡り歴史が大きく動き出すこととなる。

【鍋島藩の化け猫騒動】
 「鍋島藩の化け猫騒動」が囲碁に関係しているので、これを確認しておく。肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が光茂の機嫌を損ねたために斬殺された。又七郎の母も飼い猫に悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで鍋島家を苦しめ始める。半左衛門の母が食い殺されたり、光茂の妻が頓死するなど怪事が次々と起こる。さらには光茂の愛妾お豊に化けて光茂をたぶらかしたり、子供をさらって喰うなど暴虐の限りを尽くしたという。やがて光茂が病気にかかる。これを光茂の忠臣・小森半佐衛門と槍術家・千布本右衛門がネコを退治し鍋島家を救うという伝説である。「化け猫騒動」は鍋島氏と龍造寺氏とが元々は「龍造寺氏・主君、鍋島氏・家臣」であったことを踏まえた歴史的遺恨をネコの怪異でデフォルメしたものだとも考えられるが、囲碁絡みのところが興味深い。

【三代将軍家光と伊達政宗の囲碁掛け合い】
 三代将軍家光の囲碁好きぶりにつき「坐隠談叢」が次のように記している。
 「家光の如き頗る碁技を能くし、しばしば伊達政宗と之を囲む。而して政宗の家光と対局するや、その石を包囲し、『それ小石川口から攻めよ、ア、小石川が破れた』と戯(たわむ)れる。当時、小石川は江戸城の要害にして、守備の未だ全からざりしもの、家光三局連敗し、その過言を怒り、却って政宗に小石川の修築を命ず。俗に神田川賃金掴み取りの工事と云うもの之なり」。
 2009.2.24日、「◆国技・2 ◆カムイ ◆」が次のように記している。
 三代将軍家光は碁が好きであった。しばしば伊達正宗と対局した。戯れの舌戦が伊達家に災いをもたらすことになる。”この石を片目にしてくれよう。” ”小石川口から攻めましょう。” 小石川口は江戸城の弱点であった。家光は碁に負けた悔しさに、小石川口の修築工事の幕命が伊達家に下された。伊達家の財政を揺るがす出費となったのである。
 この逸話につき、「江戸城物語」(朝日新聞社編)では次のように記されている。
 概要「外堀工事の最大の難所は本丸の北にあるお茶の水だった。この堀は伊達政宗が元和年間に掘ったものだ。駿河台と本丸の直線距離は約1キロ。攻めるなら当然ここが一つの拠点になる。そこで、政宗、二代将軍秀忠と碁を打った時、秀忠の大石を『政宗にせん』(政宗が片目であることに掛けて目を一つにせんと云う意味になる)」と追いながら、『北から攻めろ』とつぶやいて江戸城の弱点を示した。そしてここの難工事を仙台藩で引き受け、将軍に忠勤を励んだと云う。(以下略)」。

【三代将軍家光の囲碁好き】
 2009.2.24日、「◆国技・2 ◆カムイ ◆」が次のように記している。
 家光は碁所が欠所になっていることを思い、碁所詮議を命じた。本因坊二世算悦、安井一世算哲、井上二世因碩、林二世門入の四家の当主が、老中列座の前で協議したが、この時はきまらなかった。この後、算哲の弟子算知は、算哲の意思を継ぎ、寵好する南光坊天海や松平肥後守等に依頼して、碁所たらんとしたが、ついに、正保元年(1644年)10月5日より、本因坊算悦と9年間に6局を闘うことになった。気の長い勝負だが、この6局は互いに先番勝ちとなり、碁所の欠所は続く。算悦が亡くなり、算知は、好機逸すべからずと、時の権門に嘆願して、寛文8年(1668年)10月18日、ついに待望久しかりし碁所に補せられた。算悦の死後、家督を継いだ本因坊三世道悦は、11年間、一度も対局したことがない算知の碁所に承服し難い思いがあり、跡目道策を伴って幕府に出頭して、争い碁を願い出た。月番老中加賀爪甲斐守は、”算知の碁所の議は上様上意も同然なるに、争い碁を願い出ずるは曲事である。汝敗れなば、遠島に処せられるべし。”と威嚇したが道悦は屈しなかった。”碁院宗家に生まれ、このまま相果てなば、地下の祖先に会わす面目も無之、たとえ勝負の上、武運つたなくして遠島に処せられても寸毫の憾なし。” 必死の思いの嘆願に奉行も拒み得ず、詮議のすえ、一年二十番の割で六十番打つべき旨の沙汰があった。ただし、算知は碁所であるから、道悦が定先の手合いときめられた。算知は高齢であったが、初めは道悦もなかなか勝ち越せなかったが、坊門には天才児道策の囲碁理論が育っていた。安井家伝の接戦力闘に対して、軽くさばく、手割論による捨て石の妙、師を凌ぐともいわれる道策の理論は、道悦を支え、次第に算知を圧倒していった。十五局までで、六局勝ち越し、手合い直りの先相先、その後も四勝一敗とし、算知は番碁取さげと引退を願い出た。道悦も引退して、家督を道策に譲る。本因坊四世道策は名人碁所となった。他家からの異論は無かった。傑出していたのである。この人は、碁の理論が優れていただけでなく、碁界の制度についても考える才能をもっていた。段位制度はこの人の創案である。あらゆる勝負事、芸事に先立ってきめられた。現在では、将棋、柔道、剣道、空手、弓道、アマチュア相撲、書道などに段位制度が使われている。優れた弟子も多くいて、元禄の囲碁隆盛期を迎えた。だが、皆、早世してしまい、碁所の後継者が続かなくなって、囲碁の低迷する時がくるのである。

 1644(覚永21、正保元)年、12.16日、正保改元。

【争い碁が始まる。「本因坊2世算悦-安井家2世安井算知の二十番争碁」】
 1644(正保元)年、 3代将軍家光のとき、寺社奉行が、四家元に大して、名人道碩の死後、空席になっていた名人・碁所の詮議を預けた。本因坊算悦(34歳)は自薦して他は辞退した。但し、安井算知(28歳)が、先代算哲が望んで就くことができなかった名人・碁所に強い執念を持ち、本因坊算悦の碁所就位に賛成しなかった。碁所をめぐって話し合いがつかず、幕府の命によって囲碁で決着をつけることになった。これを「争碁」(そうご、あらそいご)と呼ぶ。幕府は本因坊2世算悦と安井家2世の安井算知の二人に六番碁の争碁を命じた。これが「争碁」の始まりとなる。
 この年、安井知哲(安井算哲一世の三男で、安井算哲二世(渋川春海)の弟)が山城国に生まれる。

 1645(正保2)年、。
 10.16日、「史上初の争碁」となる「本因坊・算悦-安井家2世算知の6番御城碁」の「第1局、算悦-算知(黒先番)」(「本因坊算悦-安井算知(先)」)が始まる。この御城碁での勝敗は、碁所決定をも左右しかねない重大な一戦であった。手合は算知の先番と決まっていた。老中、若年寄、寺社奉行らが息を殺して見守った。算知が先番中押勝ち。
 この年、山崎三次郎(後に4世本因坊道策)が石見国の大田郡馬路村神の前(島根県仁摩町)で生まれる。山崎家は毛利輝元に仕えた武士で、後に庄屋となった旧家である。山崎三次郎は、7歳の時、母親から囲碁の手ほどきを受け、12-3歳頃、本因坊家に弟子入りした。

 1646(正保3)年、。
 11.2日、御城碁「本因坊・算悦-安井家2世算知の6番第2局、算知-算悦(先)」。算悦が黒番9目勝ち。「算知-算悦(先)」。黒番11目勝ち。
 この年、桑原道節(後に井上3世、名人因碩)が美濃国大垣で生まれる。

 1647(正保4)年、。
 御城碁「本因坊・算悦-安井家2世算知の6番第3局、算悦-算知(先)」。算知が黒番6目勝ち。

 1648(正保5)年、2.15日、慶安に改元。
 1648(慶安元)年、御城碁「本因坊・算悦-安井家・算知の6番第4局、算知-算悦(先)」。算悦が先番11目勝ち。

 1649(慶安2)年、2.17日、御城碁「本因坊・算悦-安井家2世算知の6番第5局、算悦-算知(先)」。算知が先番11目勝ち。

 1650(慶安3)年、山崎千松(後に井上因碩2世(道砂)、道策の実弟)、石見国(大田郡。馬路村)で生まれる。

 1651(慶安4)年
 4月、第3代将軍徳川家光が亡くなり、11歳の徳川家綱が新将軍に就任する。この頃、愛棋家でもあった由井正雪らが幕府の政策を批判し、浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛らと共に挙兵し幕府を転覆する計画を立てる。小雪の背後には南海の龍と云われた紀伊大納言頼宣(徳川家康の十男で紀州徳川家の祖)がいたと云う。計画は実行寸前で、密告により露見。正雪は駿府の宿に滞在中、町奉行の捕り方に囲まれ自刃する。この騒動は「慶安の変」または「由井正雪の乱」と呼ばれている。計画が露見したのは、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告によるものと云われている。後に描かれた物語では、その理由として奥村が丸橋忠弥と碁を打っていたときに正雪が色々と口を出したことに腹を立て裏切ったということになっている。由比正雪首塚の脇に正雪の辞世の句碑が建立されている。「秋はただ なれし世にさえ もの憂きに 長き門出の 心とどむな 長き門出の 心とどむな」。(「由比正雪の首塚 菩提樹院」参照)

 1652(慶安5)年
 1.9日、門下の安井算知を養子として家督を譲っていた安井算哲1世が京都で没する(享年63歳)。法号は正哲院紹元。後に長子が2世算哲として安井家を継ぐ。次男の勘左衛門は内藤家家臣となり、三男知哲は算知を継いで安井家3世となる。
 同年9月、「碁経」(碁伝記、二巻)が出版される。版元は京都鳥丸通七観音町、久須見九左衝門。 

 1652(慶安5)年、9.18日(グレゴリオ10.20日)、承応に改元。

 1653(承応2)年
 10.17日、御城碁「本因坊・算悦-安井家2世算知の6番第6局、算知-算悦(先)」。算悦が先番6目勝ち(「185手完の中押し勝ち」ともある)。瀬越名誉9段が次のように評している。
 「本局は近代の打ち碁と云っても首肯されるであろう。布石に進歩が認められ、特に算知の碁才の豊かさが想われる」。

【本因坊算悦-安井算知の対局における松平肥後守の口入れ事件】
 「本因坊算悦-安井算知の対局における松平肥後守の口入れ事件」を確認しておく。
 「まだ下打ちの習慣がなかった頃、本因坊算悦と安井算知が御城碁で対戦した。二人は今や碁界の竜虎として空位の碁所を狙う地位にあり、この御城碁での勝敗は碁所決定をも左右しかねない重大な一戦であった。手合は算知の先番で始まり、老中、若年寄、寺社奉行らが息を殺して見守っていた。将軍はまだ出座していない。そこへ松平肥後守(保科正之)がやってきた。松平肥後守は碁好きで名高い会津藩主で55万石の大々名。算知を贔屓しており、屋敷に住まわせ扶持も与えていた。甲斐守の脇に座って観戦し始めたが、困ったことに一手打つごとに『ふぅん』と首をひねったり『なァるほど』と膝を叩いたりする。算知が打ち込みを敢行した時、『うッ』とうなり声を上げ、『さても妙手。いかな本因坊も、よも勝つ手はあるまい(本因坊の負けと見ゆ)』と口を挟んだ。算悦、これを聞きとがめ、やおら後ずさって盤の前を離れ、無人の将軍御座に向かって一礼した。『本因坊、いかが致したぞ』。問いかける甲斐守に、背を向けたままの姿勢で、『この碁、もはやこれまでにてございます』。『負けだと申すのか』。『そうではありませぬ。打つことができないのでございます』。甲斐守『なんと』。真意を測りかねて絶句した。算悦が言葉を続けた。『私どもは碁打ちにございます。碁をもってお上に仕えております。碁打ちが局に対するのは武人が戦場に臨むのと同じこと。私は本因坊家の当主、天下の上手(7段)として一手一局に命をかけております。その私の碁に関して、横から口挟みがあるようでは打つ訳には参りませぬ』。(中略) 松平肥後守が立ち上がり、御座に向かったままの算悦に正面から相対し、『この通りじゃ本因坊。気分を直し、どうかいい碁を打ってくれい』。算悦『恐れ入ってございます。出過ぎたるふるまい、なにとぞお許し下さいますよう』。一座皆な胸をなでおろし対局が再開された。着手は遅々として進まず、定刻を過ぎ、対局場を甲斐守の役宅に移し、終局は未明に及んだ。結果は算悦の白番1目勝ち。算悦は大いに面目をほどこした」(田村竜騎兵著「物語り囲碁史」参照)。この算悦の態度が、碁家の気節として賞賛されて語り継がれた。

 1653(承応2)年、。
 史上初の争碁の安井算知3勝2敗で迎えた6局目の安井算知/本因坊算悦(先番)。277手完、黒6目勝ち。これで打ち止めとなった。争碁史上もっとも有名な1局。

 両人は、1644(正保元)年10.5日の御城碁を第1回とし、承応2年まで9年がかりで互先で6戦している。3勝3敗の打ち分けのまま(算知が先相先で四勝二敗(互いに得番勝ちとする説もある)、算悦の病死によって終わりを告げ、碁所は一時預かりとなった。

 1655(承応4、明暦元)年、4.13日、明暦改元。

 1656(明暦2)年、。
 宗算が「囲碁十首歌」を出版する。版元は京都五条寺町、中野太郎左衛門。

 1657(明暦3)年、。
 10.24日、2代目安井算哲(渋川春海)が算知部屋住みとして召し出される。

本因坊3世道悦時代

 1658(明暦4、万治元)年、7.23日、万治改元。
 9.16日、本因坊2世・算悦が生没(享年48歳)。道悦(22歳)が後式相続を許され3世本因坊となる。

 1659(万治2)年、。
 2代目安井算哲が算知後見で家督を相続する。
 同年11.24日、本因坊3世道悦、安井算哲(2代目)が御城碁に初出仕する。御城碁「本因坊道悦-安井算哲(2世、渋川春海)」。算哲が黒番4目勝ち。爾後、道悦は延宝3年まで11局、算哲は天和3年まで17局を勤める。 

 1660(万治*)年、。

 1661(万治4)年、。
 1661(寛文元)年、3月、前田入道一乳編「碁経」が出版される。版元は京都鳥丸通下立売下町、野田庄右衝門。

 1661(万治4)年、4.25日、寛文に改元。

【家元4家制度が確立される】
 1662(寛文2)年、10.13日、幕府が、碁将棋衆を正式に寺社奉行の管轄下に置き、幕府から扶持を授けることになる。初代本因坊の役料は朱印地300石、20石10人扶持。これにより家元制度が整備され確立されていった。家元は次の四家である。
本因坊家 (算砂1世)
井上家 (元祖・算砂の弟子の中村道碩)
安井家 (元祖・算砂の弟子の安井算哲1世。古算哲と云われる)
林家 (元祖・林利玄。算砂のライバル)

 本因坊、井上、安井、林の家元四家がそれぞれ優秀な棋士を育て切磋琢磨し碁のレベルを飛躍的に向上させて行くことになる。

 
家元制度が確立され、囲碁が正式に寺社奉行の管轄になっていく上で取りまとめ役が必要になった、その位が「碁所」(ごどころ)である。「名人」でなければ「碁所」を務めることができなかったため「名人碁所」と呼ばれる。「名人碁所」になれば碁界を牛耳ることができ、天覧碁の組織、将軍の指南、免状の発行、全国棋士の統一など囲碁に関する様々な決め事を差配することができた。名人碁所の地位は各家元いずれかの宗家であり、棋力が他を圧倒し、かつ人格的にも他の家元からも認められることが必要とされた。四家の家元制が確立し碁界が組織的に安定してくると碁所をめぐって勢力争いが起こることになる。 (歴代名人就位一覧 歴代家元四家一覧) 
(私論.私見) 徳川幕府の碁将棋衆保護政策考
 「徳川幕府の碁将棋衆保護政策」は思われている以上に意味、意義が高い。そもそもは織田信長の日蓮宗僧侶・日海(後の算砂)に対する「名人」号の授与、 豊臣秀吉による御前試合勝ち抜き者・算砂(日海)に対する官賜碁所の授与、徳川家康の算砂に碁所と将棋所任命、「碁打衆、将棋指衆御扶持方給候事」制定から始まり、引き続く徳川幕府の御城碁、家元4家制、争碁を経て日本囲碁の精華が確立した。いつの日か、この流れを特大級に好評する筆を持ちたいと思う。

 2016.2.5日 囲碁吉拝

 1663(寛文3)年、。

 1664(寛文4)年、。
 10.20日(12.7日)、御城碁「◯(坊)道悦-安井算哲2代(渋川春海)(先)」、道悦が白番中押し。この年以降、原則的に毎年の対局となる。

 
これにつき次のように解説されている。
 「最初の御城碁をどの年の対局とするかはさまざまな議論があるところだろう。当然、非常に興味深いテーマではあるが、本論文ではそのことには深く立ち入らず、便宜上、1664年の道悦・算哲戦を、本論文における御城碁の開始として進めてゆくこととする。この年を便宜上の開始の年とした理由としては、この年以降の対局では原則的に毎年の対局となっていること、この年以前の対局は4年間のブランクがあることなどによる」(「御城碁の対戦組合せに関する研究(一)算知時代・道策時代」)。
 この年、知哲が部屋住みで扶持を受く。

 1665(寛文5)年、。
 10.17日(11.23日)、御城碁「(坊)道悦-◯安井算哲2代(渋川春海)(先)」。算哲が黒番1目勝ち。

 1666(寛文6)年、。
 1.12日、「道策-今泷太郎兵卫(先)」。不詳。5月、「安井知哲-道策(先)」。不詳。7.28日、林門入斎1世(門入)没(享年85歳)。10.20日、「△道悦-△算哲(先)」、ジゴ。道悦が上手(7段)、その後準名人に進む。10.24(11.20日)、御城碁「△(坊)道悦-△安井算哲2代(渋川春海)(先)」。不詳(ジゴ?)。
 この年、星合八碩(道策五弟子の一人)が伊勢(津)に生まれる。

 1667(寛文7)年、。
 1.7日、「道策-安井知哲」、道策の白番10目勝ち。
 同年10.20日、御城碁「◯(坊)道悦-安井算哲(先)」、道悦の白番4目勝ち。御城碁「◯道策-安井知哲(先)」、道悦の白番5目勝ち。
 同年12.5日、本因坊道策、安井知哲が御城碁に初出仕。知哲は1歳年長。爾後、道策は天和3年まで15局、知哲は元禄12年まで20局を勤める。御城碁「道策-安井知哲(先)」(「道策-安井知哲(先)」)。道策の白番5目勝ち。生涯のライバル安井知哲との御城碁である。この時、道策23歳。道策のお城碁の成績は12勝2敗。生涯の対局数は300局余である。「◯道悦・×算哲(先)戦」。

 この年以降、御城碁において複数局打たれる例が始まっている。これを算知時代第1期とする。これにつき次のように解説されている。
 「1664年~1666年の道悦・算哲戦は、以前打たれた算砂・利玄戦、道碩・算哲戦、算悦・算知戦の延長戦上に位置づけられる対局と筆者は考えている。ライバル関係にあると思われる碁打ち同士が呼ばれて対局する形であり、ほぼ対局相手は固定化されているのに近い状態である。このような対局を「同格対局」と便宜的に名付けることにする。必ずしも段位や手合が同じである必要はないが、
そうした点において、1667年の御城碁で従来の道悦・算哲戦だけでなく、道策・知哲戦が打たれていることは画期的なことであるといえる。御城碁において複数局打たれたことは注目に値することで、この年以降の御城碁において、基本的には複数局打たれることになっている」(「御城碁の対戦組合せに関する研究(一)算知時代・道策時代」)。


 ※「安井算哲2代(渋川春海)-道策(先)」、道策の中押し。後に暦学者渋川春海と改名した算哲との対局。

 この年、「道策-安井算哲」。道策の白番中押し勝ち。
 7.28日、林門入斎(一世門入)没(享年85歳)。

 1668(寛文8)年、。
 6.8日、「道策-安井知哲(先)」、道策の4目勝ち。6.18日、「安井算哲-道策(先)」。不詳。6.25日、「安井知哲-道策(先)」、道策の黒番14目勝ち。「道策-安井知哲(先)」、道策の白番2目勝ち。怒涛の追い込み。7.20日、「安井知哲-道策(先)」、道策の黒番17目勝ち。「打ち越し」で足早に打って中央に100目の大地を作った碁。7.26日、「安井算哲-道策(先)」。黒番勝ち。8.2日、「道策-安井知哲(先)」。白番2目勝ち。「安井知哲-道策(先)」。黒番14目勝ち。8.29日、「道策-安井知哲(先)」。黒番5目勝ち。9.23日、「道策-道的(黒)」、道的の黒番勝ち。

【「算知対道悦の争碁」】
 1668(寛文8)年、10.18日、算悦死後10年目、安井家2代・算知が名人の手合に進み碁所に任ぜられた。算知の碁所就任に後援者である保科正之(徳川2代将軍・秀忠の子にして徳川3代将軍・家光の異母弟)の働きがけがあったであろうと云われている。算知の評判が悪く、安藤如意「坐隠談叢」が次のように述べている。
 「算悦の死するにあたり、算知は好機逸すべからずとなし、平素その寵遇を蒙れる松平家を初め、他の権門に哀訴嘆願し、寛文8年10月18日、遂に碁所に補せらるるを得たり。これより先、本因坊家は算悦死後道悦家督を継ぎ、爾来11年間、御城碁に於いて未だ1回だも算知と対局したることなきに、突然、算知名人碁所となり、寺社奉行加賀爪甲斐守より明後日二十日の御城碁には算知に対し、道悦定先の手合いを為すべしとの命を受けしかば、大いに驚き、直ちに之が訴えを起さんと欲したりしが、時あたかも御城碁の期に迫り居たれば、その後に於いて之を為す方穏当なるべしと決心し、その場は御請けを為して帰宅したるに、算知は種々の口実を以って今回の御城碁は定先*に打ちくれとの依頼ありたれば、不本意ながら之を承諾し、当日約の如く*に打ちしなり」。

 算知の名人碁所を不服としたのが算悦跡目の本因坊3世・道悦(32歳)で、将軍の意に反して争碁を申込む。申し立ての理由につき口上書は次のように記されている。
 「名人碁所は、古来その時の最強者が就くべきものである。しかるに算知と自分とは一度の対局もなく、いずれが強者か判定し難いのに、その算知が碁所になった。これは不条理であるから、互先の争碁によって決着をつけさせていただきたい」。
 (「名人棋所は古来、勝ち越しの者をもって充てることになっているのに、天下り的にこれを任ずるのは前例に反する。しかし既に許可された以上、これに違背することはできない。が、せめて自分と対局の許しを得たい」)

 幕府(奉行・加賀爪甲斐守)が、次のように質している。
 「算知碁所の儀は上様上意も同然なるに番数争碁を願い出ずるは曲事である。もし強いて願い出、汝敗れなば遠島に処せらるべし」。

 道悦は次のように返答している。
 「そもそも碁院宗家に生まれながら、もしこのままにて相果てなば、地下の祖先に会わす面目もなし。たとえ勝負の上、武運つたなくして遠島に処せられても寸毫の憾みなし。然るに今もし流刑を恐れてその忍ぶべからざる屈辱を忍ばんか。末代まで恥辱たるべし。旁々勝負差し許されたし」。

 「熱誠面に溢れ、涙を揮て懇願に及びしかば、甲斐守も遂に拒む能力わず」。加賀爪甲斐守は道悦の願いを老中に取り次がざるを得なかった。碁所をめぐる安井家・本因坊家の角逐がここまで凄惨さを帯びていたことが分かる。かく道悦との問答を経た上で、「道悦の先で60番打て」(年に20番、3年で60番)の沙汰が下され争碁が命ぜられることになにった。算悦―算知戦が9年で6番だったのに対して対局数が急増していることになる。結果は、両者20戦して道悦の12勝4敗4ジゴとなったところで対戦が打ち切られ、名人算知が引退を表明する。道悦も「公儀の決定に背いたのは畏れ多い」とし、弟子道策に後を譲って隠居することになる。
 10.20日、御城碁で算知、道悦の争碁が開始する。「寛文の争碁」と云われる「第2世・安井算知-第3世・本因坊道悦」の対局は次の通り。
1668(寛文8)年
10.20日 第1局 「算知-道悦(先)」/ジゴ。
1669(寛文9)年
8.7日 第2局 「算知-道悦(先)」/道悦の先番5目勝ち。
8.28日 第3局 算知-道悦(先)/ジゴ。
.12日 第4局 算知-道悦(先)」/ジゴ。
10.4日 第5局 算知-道悦(先)/道悦の黒番5目勝ち。
10.9日 第6局 「算知-道悦(先)」/算知の白番4目勝ち。
 第6局まで道悦は2勝1敗3持碁と苦戦する。
10.14日 第7局 「算知-道悦(先)」/道悦の黒番2目勝ち。
10.24日 第8局 算知-道悦(先)/道悦の黒番5目勝ち。
1669(寛文9)年
閏10.8日 第9局 算知-道悦(先)」/ジゴ。
閏10.10日 第10局 算知-道悦(先)」/道悦の黒番3目勝ち。
10.20日 第11局 算知-道悦(先)/算知の白番9目勝ち。
第12局 算知-道悦(先)/算知の白番4目勝ち。
1670(寛文10)年
7.21日 第13局 算知-道悦(先)」/道悦の黒番中押勝ち。
7.22日 第14局 算知-道悦(先)」/道悦の黒番6目勝ち。
9.1日 第15局 算知-道悦 (先)」/道悦の黒番12目勝ち。
9.21日 第16局 算知-道悦 (先)/道悦の先番1目勝ち。
 道悦は、第13局から連勝を続けて、ついに第16局目に打ち込みに成功して9勝3敗4ジゴ、6番勝ち越しとなって手合を先相先になおした。
10.17日 第17局 算知-道悦(先)/道悦の黒番9目勝ち。
1671(寛文11)年
10.24日 第18局 算知-道悦(先)/道悦の黒番6目勝ち。
1673(寛文13)年
第19局 道悦-算知(先)」/算知の黒番3目勝ち。
1675(延宝3)年
第20局 算知-道悦(先)/道悦の黒番13目勝ち。

 20番で12勝4敗4ジゴとなった。20局消化したところで争碁は終結した。この時点での手合割は、先相先であり、後世に「算知に一日の長あり」とも評される。安井算知と道悦の二十番争碁において、道策が師・道悦へ意見を述べることあり、第13局からの勝ち続けには弟子の道策の出現が影響しているのではないかと云われる。「算知対道悦の争碁」につき、「坐隠談叢」が次のように評している。
 「算知、道悦の争い碁は我が碁界に於ける古今の大局にして、最も厳格に最も鄭重に執行されたるものなり。家元の定府、御城碁の下打ち等の万般の格式は、皆なこの時に於いて決定されたるものにして、我が碁士たるものの永久(とこしえ)に記憶を要するものとす。しこうして、この20番の対局につき、後世種々の評あるも、要するに算知が道悦の定先を15局まで維持せしめしより推せば、両人の技量は確かに算知一目の長にして、道悦にして准名人の格ありとせば、算知は名人たるべしと云うに帰着せり」。

 道悦と道策の互先対局棋譜が11局残っており、道策先番で5勝、白番で2勝3敗1ジゴとしている。二十番争碁があった寛文年間に道悦道策の師弟対決が集中している。驚くべきことに、師匠の道悦のほうが黒を握った碁も何局か残されている。
 58歳の算知は碁所を返上した。このあと、算知は名人として1696(元禄8)年まで御城碁の立会いに出仕し(対局免除)、1697(元禄9)年に引退し、先代算哲の次男・安井知哲に家督を継がせる。1703(元禄16)年、京都で87歳で死去する。道悦も2年後に隠居し、道策に家督を継がせた。爾後十年間、御城碁に出仕(対局免除)した上、1686(貞享3)年、退隠し、その後は京都で気ままな余生を楽しみ92歳で大往生する。

 「第2世・安井算知-第3世・本因坊道悦」の御城碁20局の多くが一日では終わらなかった。将軍が退座して、老中も退座する時刻が来ても碁が終わらず、仕方なく後は月番奉行の役宅で続行した。この争い以降、お城碁の下打ちが始まり、お城碁の当日は将軍の前で初めから並べると云う体裁になった。下打ちは毎年、11.11日から16日までの間に行われた。この6日間は家人、門生もその席に入れず、棋士はその家から出られなかった。どんな所用ができても外出が許されなかった。碁打ちは親の死に目にも会えないとの諺がこれより出ていると云う。

 1668(寛文8)年、。
 1668(寛文8)年、10.20日、御城碁「安井算哲-道策(先)」。黒番10目勝ち。 御城碁「△算知-△道悦(先)」。ジゴ。10.25日、「安井算哲-◯道策(先)」。道策の先番勝ち。11.22日、「道策-安井算哲(先)」。ジゴ。12.8(18?)日、 「道策-安井知哲(先)」は道策の白番11目勝ち。部分的な競り合いに強い知哲を大局観で制した道策の碁。日にち不詳「道策-(坊)道悦(先)」、は道悦の黒番3目勝ち。師道悦との師弟戦で華やかな攻防が繰り広げられ「玄妙道策」と評されている。この年、「道策-安井知哲」、道策の4目勝ち。

 1669(寛文9)年、。
 1.10日、「板垣善兵卫-道策(先)」。不詳。1.14日、「道策-山崎道砂(黒)」。不詳。 お城碁。「算知-道悦(先)」。算知の白番勝ち。「算哲-道策(先)」は道策の先番13目勝ち、「知哲-門入(先)」。門入の先番勝ち。1.20日、「道策-安井知哲(先)」。白番11目勝ち。2.11日、「(坊)道悦-道策(先)」。黒番1目勝ち。6.19日、「道策-(坊)道悦(先)」は道悦の白番3目勝ち。師道悦との絶品の師弟戦。7.7日、 「道策-安井知哲(黒先)」は道策の白番10目勝ち。薄い大模様を変幻自在に勝局に結びつけた碁。7.29日、「道策-安井知哲(先)」。白番4目勝ち。8.7日、二十番棋第2局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番5目勝ち。8.21日、「安井算哲-道策(先)」。不詳。8.27日、「道策-知哲」、道策の白番4目勝ち。

 8.28日、二十番棋第3局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番勝ち。9.12日、二十番棋第4局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番勝ち。9.22日、「道策-杉村三郎左衛門(先)」は道策の白番6目勝ち。2世本因坊算悦との碁があるほどの大先輩三郎左衛門との対局。「道策-安井知哲(先)」。不詳。10.4日、二十番棋第5局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番5目勝ち。閏10.8日、二十番棋第9局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番勝ち。10.9日、二十番棋第6局「安井算知-(坊)道悦(先)」。白番4目勝ち。閏10.10日、二十番棋第10局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番3目勝ち。10.14日、「道策-安井知哲(先)」は道策の白番4目勝ち。右上へのコウダテから参考になる変化が出来た碁。二十番棋第7局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番3目勝ち。

 閏10.20日、二十番棋第11局、御城碁「◯安井算知-(坊)道悦(先)」。白番9目勝ち。御城碁「安井算哲-◯(坊)道策(先)」、道策の黒番13目勝ち。御城碁「安井知哲-◯林門入(先)」、林の黒番4目勝ち。10.24日、二十番棋第8局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番5目勝ち。11.7日、「道策-安井知哲(先)」。白番4目勝ち。11.13日、「安井算哲-道策(先)」。不詳。
 この年、小川道的(後に道策の跡目となり本因坊姓を名乗る)が伊勢(松阪)に生まれる。

 1670(寛文10)年、。
 3.17日、「道策-菊川友碩(2子)」、勝負は不詳。菊川友碩5段は道策とのこの一局により囲碁史に名を残した。酒井猛九段が、本局について「本局は2子局であるが、すべての着手が感動的であり、道策の作品としては名局中の名局に入ると思う」と評している。

 3.22日、「道策-玄可(2子)」。不詳。7.21日、二十番棋第13局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番中押し勝ち。7.22日、二十番棋第14局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番6目勝ち。8.9日、「道策-安井知哲(先)」は知哲の黒番中押し。知哲の傑作と評されている。8.27日、「道策-安井知哲(先)」。道策の中押し勝ち。9.1日、二十番棋第15局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番12目勝ち。9.18日、「道策-安井知哲(先)」、道策の白番5目勝ち。臥龍昇天の局。9.21日、「道策-安井知哲(先)」。不詳。二十番棋第16局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番1目勝ち。

 9.22日、道悦が16局目に6番勝ち越しとなり、名人算知に対し先々先の手合割りに直る。

【御城碁/本因坊道策-算哲の囲碁史に残る「第一着天元の局」】
 10.17日、御城碁「◯(坊)道策-安井算哲(先相先の先)」。御城碁で「本因坊道策-算哲(2代目安井算哲、後に保井、更に渋川春海)」が対戦した。両者3局目の対戦。この時、道策は三世の跡目本因坊にして7段、26歳。安井算哲は2世にして8段、32歳。算哲が第一着を天元に打った(大極星の発想から生まれた初手天元)囲碁史に残る「第一着天元の局」として知られている。勝負は道策の白番9目勝ち。(光の碁採録名局「道策-安井算哲(先)」)。(11.29日、「道策-安井算哲2代(渋川春海)(先相先の先)」。白番9目勝ち)、御城碁「知哲-門入(先)戦」。門入の先番勝ち。
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 碁の内容は、第一着天元に対し、白は天元の効果をけずることを念頭において全局のバランスを考慮しつつ巧みに打ち回し、黒の気勢をはずして、いたる処に実利を確かめ、100手目の頃には既に細碁、それも白に有利となっている。「春海はこの1局を名残りとし、断然袂(たもと)を払いて棋園を去り、終生また石を手にせず」(旧「談叢」)とある。

 10.17日、御城碁「安井知哲-◯林門入(先)」、林の2目勝ち。10.20日、「道策-安井知哲(先)」。不詳。対局日不明「道策-南里与兵衛(先)」、南里の中押し。大先輩の南里与兵衛が初手天元で道策を破った碁。
 この年、片岡因的(後に因竹、4世林門入、隠居して朴入)生まれる。

 1671(寛文11)年、。
 8.25日、「道策-安井知哲(先)」。不詳。「道策-安井算哲2代(渋川春海)(先)」、道策の9目勝ち。

 10.20日、二十番棋第17局御城碁「安井算知-◯(坊)道悦(先)」、黒番9目勝ち。御城碁「(坊)道策-安井算哲(先)」。結果不明。

 1672(寛文12)年、。
 5.16日、「道策-南里与兵衛(先)」は道策の白番中押し。南里与兵衛は初手を天元に打ち天元2局目になった。勝負は道策が貫禄を示し中押し勝ち。6.1日、「南里与兵卫-道策(先)不詳。9.8日、 「道策-安井知哲(先)」は道策の白番8目勝ち。玄妙不可思議の局(玄妙道策)。

 10.24日、二十番棋第18局御城碁「安井算知-◯(坊)道悦(先)」、道悦の先番6目勝ち。御城碁「◯道策-算哲(先)」は道策の白番10目勝ち。12月、「青木愚硕-道策(先)」。不詳。
 この年、三崎策雲(後に井上因節、四世因碩、系図書き挽え後は五世)が越前に生まれる。

 1673(寛文13)年、。
 1.4日、井上因碩1世(系図書き換え後は2世)が没(享年69歳)。

 1673(寛文13)年、9.21日、延宝に改元。
 同年9.3日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。

 延宝元年12.2日、20番棋第19局御城碁「(坊)道悦-安井算知(先)」、算知の先番3目勝ち。御城碁「安井算哲-道策(先)」は道策の先番12目勝ち。12.18日、山崎道砂が井上因碩の後式を許され井上道砂となる。「(坊)道悦-道策(先)」は道策の先番中押し勝ち。「安井算哲-(坊)道策(先)」は道策の先番12目勝ち。

 寛文年間「道策-安井知哲(先)」。不詳。
道策-安井知哲(先)」。不詳。道策-安井知哲(先)」。不詳。安井知哲-道策(先)」。不詳。道策-安井知哲(先)」。不詳。

 御城碁「道悦-◯算知(先)」。算知の先番勝ち。「安井算哲-◯道策(先)」。道策の勝ち。
 12.18日、山崎道砂が井上因碩の後式を許され井上道砂となる。
 この年、安井仙角が生まれる。寛文年間の道策の碁として他に次の対局がある。
 この年、「碁立」(碁立初心抄)が出版される(京都、菊屋七郎兵衛)。

 1674(延宝2)年、。
 3.18日、井上道砂が二世因碩と改名し御目見得を許さる。
 同年「×春知-◯道砂因碩(先)」。7.21日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。8.22日、「道策-安井知哲(2子)」、ジゴ。8.25日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。8.30日、「(坊)道策-安井知哲(先)」。不詳。9.3日、「道策-安井知哲(先)不詳。9.18日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。9.23日、「道策-安井知哲(先)」。不詳。9.24日、「道策-安井知哲(2子)」。黒番2目勝ち。10.2日、「道策-安井知哲(先)」。黒番6目勝ち。10.22日、「道策-安井知哲(先)」。白番勝ち。11.9日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。11.10日、「道策-安井知哲(先)」。不詳。11.11日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。

 11.24日、道砂因碩と安井春知が初出場している。春知は爾後、貞享3年まで7局を勤める。御城碁「◯道策-安井算哲(先)」は道策の白番6目勝ち。返し技の冴え(玄妙道策) 。御城碁「安井春知-◯道砂因碩(先)」、因硯の先番1目勝ち。

 12.2日、「安井算哲-道策(先)」。黒番12目勝ち。12.7日、「道策-安井知哲(先)」。黒番2目勝ち。12.8日、「道策-安井知哲(2子」。白番勝ち。
 この年、日時不詳「道策-安井知哲(先)」は道策の白番5目勝ち。算知と道悦の争碁のさなかに打たれた一番弟子同士の対局。12.9日、「道策-河井长太夫(2子)」。不詳。日にち不詳「道策-安井知哲(先)」は知哲の先番6目勝ち。道策らしからぬ、中盤、終盤のミスで、序盤の優位を失った碁。日時不詳「道策-安井知哲(2子)」は道策の白番中押し。実戦図がそのまま詰碁になった死活が出来た碁 。日時不詳「道策-福尾玄故(3子)」は福尾の3子局勝ち。石を攻めながら中央を囲った黒が勝った。「道策-安井知哲(先)」。不詳。「道策-安井知哲(2子)」。不詳。

 1675(延宝3)年、。
 8.6日、「道策-安井春知(先)」は道策の白番中押し勝ち。「絶妙の手造り(玄妙道策)」と評されている。(光の碁名局「道策-安井春知(先)」、白中押勝ち)。
 同年10.20日、御城碁「◯道策-安井算哲(先)」は道策の白番16目勝ち。安井家の研究不足を衝いた道策の快勝譜。

 二十番棋第20局御城碁「安井算知-◯(坊)道悦(先)」、道悦の先番13目勝ち。安井算知と本因坊道悦の争碁が終了する(60番の予定なるも20番で打止め)。道悦が20戦12勝4敗4ジゴとなったところで対戦は打ち切られ、安井算知は碁所を返上し引退した。爾後は隠居名人として元禄9年まで20年間出仕する(対局は免除)。

 12.6日、「道策-安井算哲2代(渋川春海)(先)」。不詳。

 1676(延宝4)年、。
 安井算知、碁所を返上。爾後は隠居名人として元禄9年まで20年間出仕する(対局は免除)。
 同年10.24日、御城碁「◯道策-安井算哲(先)」。道策が白番10目勝ち。御城碁「安井知哲-道砂因碩(先)」は知哲の白番2目勝ち。「道策-安井知哲(先)」は道策の白番9目勝ち。盤上の能力者(玄妙道策)。11.22日、「道策-永田寿德(2子)」。不詳。

 11.29日、御城碁「◯安井知哲-井上因碩2世(道砂)(先)」。白番2目勝ち。
 この年、佐山策元(後に道策の再跡目となり本因坊姓を名のる)が生まれる。

【(坊)道悦の囲碁問答「因云碁話」】
 (坊)道悦の囲碁問答「因云碁話」(爛柯堂棊話の改題)。
 「或る人、本因坊道悦と閑話の序(ついで)に、碁の上手名人と云ふには如何やうにしてなるものに侍るやと問ひけるに、道悦答へに、上手名人といふ地位にいたる者は、その人の生得の器用に侍る。大抵十人並の器用の者能く教へ、その身もこの藝にはまりて能く勤め、――数年を経れば上手にふたつまでの碁には修行にてなるものに侍る。何ほど教え、その身もつとめても、上手名人といふには、その器量の生得ならではなるものにてはなし。さるによりてこの藝をたしむもの多くども、上手名人といふは昔より僅かなりといへり」。




(私論.私見)