日本囲碁史考4 |
更新日/2018(平成30).4.6日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで「日本囲碁史考4」として江戸時代初期の名人碁所誕生から1800年までの囲碁史を確認しておく。 2005.4.28日 囲碁吉拝 |
初代本因坊算砂時代 |
1603(慶長8)年 |
【江戸時代初期、名人碁所の誕生】 |
1603(慶長8)年2月、関ヶ原の合戦から4年目、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた。 2.12日、日蓮法華宗僧の法名/日海(1559-1623)がお祝いに伏見城に参上して、家康に祝賀を述べた後、五子で対局している。その後、家康の指示で京都寂光寺を法弟の日栄に譲り江戸に出仕し「本因坊算砂」と名乗った。「本因坊」名は、日海が、寂光寺の塔頭(たっちゅう)本因坊に住まいしていたことに由来している。 |
【家康が征夷大将軍就任の礼に天覧碁を催す】 |
4.19日、家康が征夷大将軍就任の礼に、碁好きの後陽成天皇のために当代最高の碁打である本因坊算砂、利玄、仙角(仙也の子)、道石(道碩)の四人を集め宮中で天覧碁を打つ。4局打たれ、天皇が最上座でそのほかの公家などが対局しているスペースを囲んでいたと云う。 |
「お湯殿上の日記」(禁裏女房日記)。
慶長日件録(式部少輔舟橋秀賢の日記)。
言経卿記(山科言経の日記)。
上件の日次記は、いずれも月日の碁打衆の禁裏参内の記録。家康の斡旋で、後陽成天皇は碁打衆を召して囲碁を上覧した。本因坊対利玄、仙対道石(中村道碩)の対局がそれぞれ二局づつ、計局が打たれた。本因坊は碁盤と碁石を献上し、禁裏から巻物が下賜された。後陽成天皇はこの年歳、秀吉時代に即位、聚楽第に行幸するなど武家の朝廷干渉に忍従してきた。この碁打衆の上覧も家康の奏聞によるものとある。家康は、この年月に征夷大将軍と右大臣の宣下を受けて、その礼に宮中に参内している。碁打衆の参内を奏聞したのもその折だったのかも知れない。この日の行事も家康の顔を立てたものともとれるが、ただ天皇は、公家日記の中に多くの囲碁の記事を残す碁好きで、この一日はプロの対局を楽しんだと思われる。お湯殿上の日記に記すごとく、本因坊はほんにんぼうと訓じたと思われる。なお、将棋指しと禁裏との交渉は、この前年・慶長年暮に山科言経の仲介で、大橋宗桂が作り物を禁裏に進上している也。 |
【日海が本因坊を正式の氏とし算砂と改名、碁所と将棋所に任ぜられる】 | |||
10月、徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた。江戸帰府に際し、日海(2世)に寂光寺を法弟日栄(3世)に譲らせ随行させる。日海ここにおいて本因坊を正式の氏とし、算砂と改名、碁所と将棋所に任ぜられる。「旧坐隠談叢」が次のように記している。
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この頃、家康が子の秀忠の夫人・達子(淀君の妹)に宛てた手紙の一節は次の通り。
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1605(慶長10)年 |
玄覚(井上一世因碩、古因碩)が山城で生まれている。本因坊算砂は、囲碁のみならず将棋も能くし、慶長10年には江戸城で宗桂と将棋の対局を行なっている。 |
1606(慶長11)年 | |
12.4日、豊臣秀頼が大阪城で碁会を催す。「梵舜日記」が次のように記している。
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1606(慶長11)年 |
碁打ち、将棋指し衆の統括者的な地位にあった算砂は両芸に秀で、囲碁は天下無敵。将棋も当時五本の指には入る腕前であった。今日宗桂、宗古との棋譜が残されている。やがて「名人碁所」に任ぜられ、初代本因坊となった。その際に将棋の司を宗桂に譲った。「同一人が囲碁と将棋の双方を束ねるのは、碁界にとっても将棋界にとっても不利益であると判断し、自ら将棋所を退き、宗桂に譲った」と解されている。囲碁界で開祖として尊崇をうける算砂は、将棋界にとっても大恩人と云うことになる。日海はこうして幕府公認のプロ棋士となった。これより以降、幕府が囲碁と将棋の家元に扶持を与え保護育成することになる。
この間、算砂は中村道硯(井上家元祖、二代目名人)、安井算哲(安井家一世)など多くの優秀な弟子たちを育てていった。 秀吉の息子である豊臣秀頼も、大阪城にて度々、碁会を開いている。梵舜日記が、この年に行われた碁会について、「豊国二位宅の碁会において、本因坊、利玄坊、山内是安、六蔵(一世安井算哲)、春智、そのほかの本因坊弟子碁衆、十三人同道」と記している。 |
1607(慶長12)年、。 | |
11月、算砂と利玄、大阪城で対局。利玄、先相先で打つ。 | |
この年、算砂は将棋初代名人の大橋宗桂と将棋の対局をしたことでも有名だが、その宗桂に関する記述が「当代記慶長12年の項」にある。
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この年、大阪城で算砂と利玄の対局が行われている。 | |
1607(慶長12)年、12.15日、算砂が「本因坊碁経」を刊行している。詰碁や手筋などを収録している。これはわが国初の囲碁出版であるとされ現存している。 | |
この年、徳川家康が駿府に隠居する。 |
1608(慶長13)年、大坂城の豊臣秀頼の前で、初代本因坊・算砂が大橋宗桂(初代)と将棋対局している。これが将棋最古の棋譜となっている。 算砂は将棋でも第一人者であった。将棋初代名人大橋宗桂は算砂の弟子のような存在で、二人の将棋の実力は互角だった(ちなみに大橋宗桂の囲碁も算砂と互角だったという説もある)。千利休とも仲がよく、互いに碁とお茶を教えあったとの逸話がある。駿府の家康御前にて本因坊算砂と林利玄の対局が行われている。 |
1611(慶長16)年、。 |
初代本因坊・算砂が僧侶としての最高位の「法印」に叙せられている。 |
この年、杉村算悦(後に2世本因坊)が京都で生まれる。 |
【徳川家康と浅野長政の碁仇譚】 | |
1611(慶長16)年、浅野長政が逝去している。長政は家康の碁仇で、長政死後は家康も碁石を手にすることがなかったと云う。家康と長政の次の囲碁逸話が伝えられている。
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「名将言行録」の「徳川家康は浅野長政を呼んで「賭碁をするぞ」」参照。
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【徳川幕府の囲碁、将棋保護政策】 | ||
1612(慶長17)年、2.13日、徳川家康&幕府は、「碁打衆、将棋指衆御扶持方給候事」として、算砂を始めとする碁打ち衆、将棋衆の8名(本因坊算砂、利賢、宗桂、道碩、春知、仙重、六蔵、算碩)に俸禄を与えた。
本因坊算砂/50石五人扶持、鹿塩利賢/50石五人扶持、将棋の大橋宗桂/50石五人扶持、井上(中村)道碩/50石、春知/50石、仙重/20石、安井六蔵(後の安井賛哲)/30石、算碩20石、他に林/50石の俸禄が与えられた。猿能楽の金春安照の500石、絵師の狩野探幽、狩野常信の200石、連歌師の里村紹巴の100石などといった他の遊芸師たちとの俸禄と1対1比較すれば、碁打ちと将棋指しの評価はさほど高いものとはいえないが、囲碁・将棋の場合の俸禄人数を勘案すれば相当な石高になるはずであり、江戸幕府によって囲碁・将棋が技芸として認められ、後の家元制に繋がる基礎が築かれた意義が大きい。以降、上手(7段)以上の棋士によって五百数十局の御城碁が打たれることになった。 この時、扶持を受けた碁打ち衆のうち、相続をして家を継いだのは本因坊家、安井家(六蔵のちの算哲)、井上家(道碩)、林家(利玄坊の弟子の門入斎)の四家で、囲碁をもって幕府に仕える囲碁の家元となった。幕府と共にその後凡そ230年間続くことになる。本因坊家は50石、本因坊算砂(日海上人、1559~1623)。井上家は50石、算砂の弟子で、のち名人碁所となった中村道碩(1582~1630)。林家は50石、林門入斎(1583~1667)。安井家は30石、安井算哲(古算哲とも、1590~1652)を祖とする。「坐隠談叢」は次のように記している。
安井家の初代・安井算哲は算砂の門人で共に家康に仕えている。算哲の長子が渋川春海(1639~1715)であり、碁方を離れて天文方に転じ、後に安井算哲2世を称すことになる。初代安井算哲は渋川春海が天文方に転じたのを受け、弟子の算知を養子として跡目にした。この安井算知(1617~1703)が安井2世となる。安井家の碁は、本因坊家の本因坊算砂、中村道碩が軽い手筋でサバク手法を好んだのに比して力碁であった。これによりモリモリ打つ手法を安井流と言った。安井家と本因坊家は両家は囲碁の世界の両極をリードし、互いにしのぎを削る厳しい闘いを展開することになった。大坂の陣では叔父の安井道頓が豊臣方にあったが、父・宗順や叔父・定吉を家康に引き会わせ、徳川方の案内者に推挙する。その後は京都に居を構え、毎年3月に算砂らとともに江戸に下った。 |
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6.7日、算砂が法印に叔せられ、ロ宜案(薄墨の論旨)を受ける。同年、本因坊算砂が将棋所を大橋宗桂に譲る。「坐隠談叢」は次のように記している。
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【「天下の碁所たる本因坊に対する幕府の待遇」】 | ||
四家元といえども時代により伎倆(ぎりょう)は異なる。本印坊家が碁所の司でありえたわけではない。神技の持ち主と目される名人(9段)の域に達すれば、幕府から碁所(ごどころ)の地位が与えられ、家元四家の上に立って号令できることとなる。碁所には、1・御城碁(江戸城に出仕しての碁の対局)に参加する碁打ち衆を代表する。2・碁打ちの全国的な統一基準を定め、棋力を認定し、免許状を発行する権限が与えられた。免許状は碁所又は宗家の重要な収入源となった。よって、碁所という最高栄誉を勝ち取らんがために、四家、なかでも本印坊、安井、井上の三家の間で激しい烏鷺の争いが展開されて行くことになった。当時、最高位は名人(9段)、次いで準神技級の準名人が8段、その下位の7段を上手と称し、人間技での最高位とされた。 | ||
「天下の碁所たる本因坊に対する幕府の待遇」につき「坐隠談叢」が次のように記している。
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斯波義麿「家元制度についての雑感」を転載しておく。
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09年02月17日「◆国技・1 ◆カムイ◆ 」。
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【「当代記(慶長十八年三月の条)」】 | |
「当代記の慶長十八年三月の条」に以下のような記述がある。算砂が本職の囲碁以外に将棋を得意としたように、利玄もまた中将棋を得意とし後陽成院と対局する機会がしばしばあったようである。
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【道頓堀譚】 | |
1581(天正9)年、安井定次は信長から久宝寺一円領地たるの朱印をもらい、1584(天正12)年、秀吉から知領安堵の保証を得た。兄の定三の三男定吉を養子とした。定吉が壮年になると遁世し道頓と称した。道頓は大坂南堀(道頓堀安井稲荷のあるところ)に住んだ。1612(慶長17)年、道頓は、豊臣家に願い、自宅付近の東堀から木津川に至る上下28丁の地を買い、これを掘って船の便を拓いた。慶長の末年、豊臣秀頼が兵を集めると聞き、既に定次は死んでいたが、生前の厚誼に報いようと一族の仁兵衛と共に大坂城に入った。道頓は秀頼の近習役になった。秀頼と道頓は碁が強く毎日のように碁を打った。ところで、安井算哲1世は定次の兄の定正の四男宗順の子であった。算哲は家康、秀忠に愛顧され、一族の道頓、仁兵衛が大坂城に入った為に肩身が狭かった。算砂が案じて労をとり、そのとりなしで、算哲の父宗順、伯父の定吉が東軍の道案内者になった。大阪落城により道頓と仁兵衛は戦死した。定吉は、久宝寺、大蓮、渋川三ヶ村の代官となり、一族の私費で掘った南堀を浚渫(しゅんせつ)した。且つ道頓の志を追悼し南堀を道頓堀と命名した。 | |
「大阪歴史博物館 安井家のルーツ」。
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【「家康と算哲の囲碁掛け合い」】 | |
次のような興味深い「家康と算哲の囲碁掛け合い」が残されている。
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1614(慶長19)年、 |
大阪冬の陣。 |
1615(慶長20、元和元)年、7.13日、元和改元。 |
大阪夏の陣による豊臣家滅亡。 |
家康が先の五十石五人扶持のほか、特に算砂に終身三百石を与う。 |
【算砂が、加賀藩に招かれ以降2年間、囲碁指南役として過ごす】 |
本因坊算砂が、加賀藩3代藩主、前田利常に招かれ、法弟本照坊日至を伴って金沢に赴き、首席家宅・本多邸に滞在する。以降2年間、囲碁指南役として過ごす。1617年(元和3年)、藩の寄進で本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗、金沢、本多)を創建した後、帰洛する。本因坊算砂は、激動する戦国の世を生き抜き、後世の碁界に多くの遺産を残すことになる。 |
1616(元和2)年、。 |
1月、徳川家康が鷹狩に出た先で倒れた。4.17日、駿府城において死亡した(享年75歳)。 |
1617(元和3)年、。 |
算砂が前田家の援助により金沢に久遠山本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗)を開基する。直ちに本照坊を2世とし京都に帰る。 |
3月、算砂「碁之狂歌」、「将棋之狂歌」各十一首を書き残す。 |
この年、安井算知が山城に生まれる。 |
1620(元和6)年、 。 |
共に算砂の高弟の中村道硯(38歳、後の井上家の始祖)と安井算哲(31歳、後の安井家の始祖)が秀忠公御前で対局している棋譜が残されている。162手までで中村道硯の中押し勝ち。 |
1621(元和7)年、。 |
中村道硯が算砂より名人の印可状を受ける。 |
【初代本因坊・算砂が韓人・季約史(りやくし)を3子対局で制す】 | |
元和年間、朝鮮(韓国)随一の打ち手と云われていた韓人・季約史(りやくし)が来朝し、算砂と3子で対局し忽ちにして失敗し敗る。嘆息して次のように述べている。
外国の名手が日本に来て、日本の名手と対局したのは、これが初めてであった。残念ながら、このときの棋譜は残っていない。季は、帰国して盤石に「乾坤窟」と書した扁額を贈り来る。この算砂と李礿史との三子碁以来、時の最高位者は外人と対局するに三子を置かせて打つのが恒例となる。 |
1623(元和9)年、。 |
4.23日、算砂が中村道碩に家督を譲り、同じ手合(名人)を許す。手合以下の法度を計らうべき旨の印可状をあたえる。遺言により算砂の養子で当時13歳の算悦を本因坊とし、その後見となって育成することを依頼する。 |
【初代本因坊・算砂逝去と遺言】 | |
5.16日(6.13日)、本因坊算砂が京都で逝去する(享年65歳)。墓所は京都寂光寺、示寂、法名日海上人。辞世の句は「碁なりせば 劫(コウ)なと打ちて
生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」。「坐陰談叢」は次のように評している。
算砂の功績として道碩、本因坊算悦ら多くの弟子を育てたこと、棋譜を残す習慣を定着させたことが挙げられる。棋譜を残すことにより技術的研究ができ、後世に大きな影響を残した。著書として「本因坊碁経」を残している。 |
【中村道碩(どうせき)が名人に就任】 |
本因坊算砂は弟子の中村道碩(どうせき)に名人の印可状を授けた上で後継を当時13歳の算悦(算砂の実子?)とし、その後見を道碩に託した。道碩の実力は師匠の本因坊算砂より上であったと云われている。この頃の対局として、林利玄(算砂のライバル)」、安井算哲1世(兄弟弟子)、算知、林門入因碩1世(林利玄の弟子)との棋譜が残されている。安井算哲1世とは120局打ち80勝40敗で道碩40番の勝ち越しとなっている。道碩は早い碁で算哲は遅かった。道碩は人に、「碁には勝っても、算哲には命をとられる」と述べたと伝えられている。林利玄とも打っているが2局しか棋譜が残されていない。後の本因坊丈和は道碩の棋譜を多く研究したという。 |
1624(元和10)年、2.30日、寛永に改元。 |
1625(寛永2)年、。 |
1626(寛永3)年、。 |
【お城碁が始まる】 | ||
1626(寛永3)年、9.17日、算砂を継いで名人となった中村道碩と安井算哲による御前御城碁対局「道碩-安井算哲」が二条城の徳川秀忠御前で打たれ、道碩が白番3目負けしている。但しコミのない時代であるから、現代の6目半コミで評すれば少なくとも負けにはならない。これより、寺社奉行の呼び出しによるという形式で家元四家の棋士が毎年1回江戸城の将軍御前にて御城碁が始まる故に、この碁がお城碁の始まりとなる。以来、囲碁は日本の国技として発展していくことになる。1716(享保元)年、徳川吉宗の時代に対局日を家康の命日にちなんで毎月11.17日と決めた。対局は、江戸城中奥書院において、将棋の対局と並んで行われ、11.11-16日までに対局終了し、17日に将軍の前で披露された。対局中の六日間は面会、外出が許されず、打掛けながらとり行われた。御城碁は特別な事情がない限り毎年欠かされることなく続き、幕末の1864(元治元)年に中止となるまでの230年余りに全部で536局対局、出仕した棋士は67名にのぼった。政治が芸能をこれほどに保護した例は世界史上に珍しい。徳川政権の政治の特質を証しているように思われる。 御城碁出仕は、家元の代表としての真剣勝負となり数々の名局が遺されている。出場資格は、本因坊、井上、安井、林の4家元の当主、届出を済ませた跡目相続人、7段以上の実力者であった。一時、5段にまで資格をさ下げた時期があったが、すぐに7段以上に戻した。その他に外家と言われる他の家人で認められた者もあった。石田芳夫「秀策」13Pは次のように記している。
こうして、毎年一回、江戸城中奥の黒書院で行なわれる御前試合として御城碁が始まった。白書院や帝鑑の間が使われることもあった。出席棋士には銀十枚と、時服、朝夕の食事と茶菓が支給された。碁打ち衆にとって、これに出場することは最高の栄誉であり、ここで四家が家元の面目を賭けて技量を競うことになった。当時は、明け六つ(午前6時)の開門と同時に三つ葉葵の紋のついた駕籠に迎えられた本因坊が江戸城へ登城し、寺社奉行の指図に従って準備を整え対局する。いったん城内に入ったら、どんなことがあっても下城できない。これが「碁打ちは親の死に目にも会えぬ」の語源となる。将軍が出座すれば、終局まで打ち上げ、出座がなければヨセだけ残して出座を待つ。将軍の都合がつかない時は、老中が全員出席して終局を見届けた。その後、本因坊道策の時代の1669(寛文9)年に下打ち制が生まれ、毎年11.6日に四家元が会合し、組み合わせを決めて奉行に届出、許可が下りると11日から16日までの間に対局し、17日当日は将軍の御前で手順を並べて見せることになった。下打ちの6日間は誰との面会も外出も禁じられた。 |
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「坐隠談叢」は次のように記している。
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【本因坊邸】 |
本因坊家は徳川家の吉例として毎年春、京都より出府し、直ちに月番の寺社奉行に参着の届出をする。4月1日に井上、安井、林三家、及び御城碁を勤める全てを引きつれ登城する。その時、殿中奏者番から、棋所本因坊並びに将棋の者どもが参上したと披露する。本因坊は御祝儀として五本入りの扇子箱を献上する。このお目見えの儀式が終わって退出すると、本因坊はその足で若年寄、月番寺社奉行の役宅を順次に回礼する。御城碁は当初、袈裟を着て対局した。算知-道悦の争碁以降、十徳を着るようになった。将軍が出座すると、棋士は頭を垂れ、両手を畳につけねばならないが、この動作の時に袈裟の袖で石が乱れることがあった。それ故、道悦が願い出て十徳を着ることを許された。御城碁は年1回で、期日ははっきり決まっていなかったが、8代吉宗の時から毎年11月17日に決まった。対局期間、棋士には朝夕二汁五菜の料理が木具で出された。御城碁が済むと棋士には銀十枚が支給された。本因坊が賜暇になるのは12月15日、この時、本因坊にはさらに銀十枚、名人なら黄金二枚、時服二かさねがついた。本因坊家の本拠は京都であるが、毎年4月から12月まで江戸にいるので、日本橋に1丁四方の土地が幕府から宛がわれた。後に芝金杉に仮屋敷を貰ったが、道悦の時に屋敷替えを願って本所に十間に二十間の屋敷を貰って移転した。 |
【手合い割】 |
ここで、「手合い割り」について確認しておく。この時代にはハンディとしてのコミ碁が導入されておらず、手合い割りで棋士を番付していた。まず同じ実力の対戦を「互先」(たがいせん)と云い、黒(先番)、白(後番)を交互に打つ。コミなしで十番打ち、4番勝ち越せば手合いが変わる。「互先」に対して実力差が一段違うと「先相先」(先々先)になり、、黒白黒の順に直り、三番勝負のうち二番を黒、一番だけ白を持つ。これに負け越すと二段差の「定先」(単に先)なる。「定先」になると毎局黒をもつ。三段差は「先二」と云い、先の碁と二子の碁を交互に打つ。四段差は「(常)二子」。常に上手に二子を置く。以下同様とする。 |
参考までに記すと、以上は家元制下の本職棋士の場合の「手合い割り」である。アマチュアの段級認定、「手合い割り」にはそのままでは使えない。現在ではハンディとしてのコミ碁が導入されており、一見はより精密化しているように思える。但し、「(常)二子=4段差」と認識した方が何やら的確とも思える。即ち6段に2子で勝てない者は4段ではなく2段止まり。あるいはこの6段を8段にすれば4段どまり。10段にすれば6段どまりと云うことになる。互いの棋力を測るのに、昔のこの「手合い割り」による手合い差の方が案外と合理的かも知れない。アマチュアの場合、全国大会優勝レベルの最高位を10段とし、その方との手合い差を序列化した方が却って正確で分かり易いかも知れない。 |
「棋士(きし)」の呼称変遷史を確認しておく。室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れた。彼らは「碁打」と呼ばれた。この呼称はずっと続き今日でも通用している。江戸時代に家元制が敷かれ俸禄を受けるようになると、「碁衆」あるいは将棋の家元との区別で「碁方」、「碁之者」などと呼ばれた。後に「碁士」、「碁師」などの呼び方も生れた。明治になると「碁(棋)客」、「碁(棋)家」といった呼び方がされ、また棋戦に出場する者は「選手」とも呼ばれ、大正時代の裨聖会もこの呼び名を使った。日本棋院が設立されると「棋士」を使うようになり、以降の各組織でもこれに倣い現在に至っている。 |
1628(寛永5)年、。 |
安井算知(12歳)が南光坊天海(1536~1643)の推薦により召し出され一家を成す。安井家は算哲家と算知家の両家を生じるが、碁方としての算哲家は二代算哲が天文方・保井算哲(渋川春梅)となったため絶家する。 |
11.17日、江戸城にて、御城碁「中村道硯-安井算哲先番」。算哲の5目勝ち。 |
1629(寛永6)年、。 |
江戸城で御城碁「中村道碩-安井算哲先番」。道碩が算哲と対局し、白番6目勝ち。道碩と算哲はかなりの数を打っている。時期は不明だが数年間に120番、道碩の40番勝ち越しという記録がある。ということは道碩が80勝40敗と云うことになる。現存する両者の棋譜は今のところ49局で、全て道碩の白番である。ちなみに、道碩の棋譜は現在80局見つかっている。そのうち道碩の黒番は利玄との1局だけである。中村道碩は、「碁には勝っても命は算哲に取られる」と語ったと云われる。 |
本因坊2世算悦時代 |
1630(寛永7)年 |
8.7日、算砂が亡くなってから7年後、病に伏した道碩がをしっかりと育て上げた算悦(20歳)に算砂より受けていた印可状を引き渡し上手(名人に先、7段)を認めて幕府へ嘆願した。算悦は30石を賜わり、本因坊家再興を許され本因坊2世となる。こうして算悦が本因坊家の名を継ぎ本因坊家を正式に継承(再興)させた。この時代はまだ世襲制が確立されていなかったため、算砂が亡くなった後算悦が継ぐまで一時本因坊家は中断されていた。これが碁界初の相続例となり家元制を生み出すことになる。弟子の井上因碩(玄覚)も禄を受けることを願い出て家元井上家となった。そのため道碩は井上家の元祖とされている。 |
8.14日、肩の荷が下りた道碩が没す(享年49歳)。墓所は京都寂光寺。道碩の弟子に、後に井上家を興すことになる一世井上玄覚因碩がいる。そのため道碩は井上家の元祖とされている。道碩の他の弟子には寺井玄斎、法橋現碩(玄碩)、松原因策がいる。 |
この年、「古本因坊定石作物」が出版されている。約60局の棋譜が残されており、そのうち安井算哲との碁が40局ほどを占める。後の本因坊丈和は道碩の棋譜を多く研究したという。 |
1631(寛永8)年 |
この年以降、徳川実紀に「碁将棋御覧」の記載が多く現われるようになる。1644(正保元)年からはほぼ毎年の10-12月に記載されるようになる。1662(寛文2)年、家綱の時代、碁将棋衆が寺社奉行管轄下となり、寛文4年からは年中行事として毎年の記録が残されている。 |
1635(寛永12)年、。 |
幕府、寺社奉行を置く(碁将棋方の所属は覚文2年)。これより碁打ち衆が次第に京から江戸へ移住し始める。
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1636(寛永13)年、。 |
丹羽道悦(後に3世本因坊)が伊勢松阪(あるいは石見ともいう)に生まれる。 |
1637(寛永14)年、。 | |
秋、九州の島原でキリシタン一揆が起る。原城に立てこもった一揆衆は3万7千、包囲した寄せ手は十万人余。原城が落城したのは翌年の2.28日。生き残りの山田右衛門の話を書き留めた「玉露叢」は次のように記している。
この年、将棋のお城碁対局も行われるようになった。 |
1639(寛永16)年、。 |
2代目安井算哲(後に保井、また渋川春海)が1代目安井算哲の子として京都四条室町に生まれる。 |
1640(寛永17)年、。 |
名人道碩が亡くなって十年、その間「名人」は空位となっていた。この年、幕府が当代の一流棋士を集めて「名人」を決める会議を行った。これが史上初めて「名人碁所」を決めるために行われた会議、世に言う「碁所詮議」である(正確にはこの時代はまだ「碁所」という役職はなく、名人を決めるために開かれた会議で「碁所詮議」とは後世につけられたもの)。集められたのは、この時代を代表する打ち手3名で、安井算哲1世、本因坊算悦2世、井上玄覚因碩1世だった。故・名人中村道碩と兄弟弟子であった安井算哲1世が自薦するが、幕府側に「資格なし」と却下される(「安井算哲(一世)の自薦却下」)。中村道碩の下で共に修行した本因坊算悦2世と井上玄覚因碩1世は名乗りを上げず、結局この時は名人碁所は決まらずに終わった。しかし、この後「名人碁所」を巡り歴史が大きく動き出すこととなる。 |
この年、2世林門入が生まれる(推定)。 |
覚永年間、「玄玄碁経」(覚永版)が出版されている。 |
【「名人碁所詮議不調に終る」】 |
1640(寛永17)年、。名人道碩が亡くなって十年、その間「名人」は空位となっていた。この年、幕府が当代の一流棋士を集めて「名人」を決める会議を行った。これが史上初めて「名人碁所」を決めるために行われた会議、世に言う「碁所詮議」である(正確にはこの時代はまだ「碁所」という役職はなく、名人を決めるために開かれた会議で「碁所詮議」とは後世につけられたもの)。集められたのは、この時代を代表する打ち手3名で、安井算哲1世、本因坊算悦2世、井上玄覚因碩1世だった。故・名人中村道碩と兄弟弟子であった安井算哲1世が「私が適任」として自薦するが、幕府側に「資格なし」と却下される(「安井算哲(一世)の自薦却下」)。中村道碩の下で共に修行した本因坊算悦2世と井上玄覚因碩1世は名乗りを上げず、結局この時は名人碁所は決まらずに終わった。しかし、この後「名人碁所」を巡り歴史が大きく動き出すこととなる。 |
【鍋島藩の化け猫騒動】 |
「鍋島藩の化け猫騒動」が囲碁に関係しているので、これを確認しておく。肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が光茂の機嫌を損ねたために斬殺された。又七郎の母も飼い猫に悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで鍋島家を苦しめ始める。半左衛門の母が食い殺されたり、光茂の妻が頓死するなど怪事が次々と起こる。さらには光茂の愛妾お豊に化けて光茂をたぶらかしたり、子供をさらって喰うなど暴虐の限りを尽くしたという。やがて光茂が病気にかかる。これを光茂の忠臣・小森半佐衛門と槍術家・千布本右衛門がネコを退治し鍋島家を救うという伝説である。「化け猫騒動」は鍋島氏と龍造寺氏とが元々は「龍造寺氏・主君、鍋島氏・家臣」であったことを踏まえた歴史的遺恨をネコの怪異でデフォルメしたものだとも考えられるが、囲碁絡みのところが興味深い。 |
【三代将軍家光と伊達政宗の囲碁掛け合い】 | |
三代将軍家光の囲碁好きぶりにつき「坐隠談叢」が次のように記している。
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2009.2.24日、「◆国技・2 ◆カムイ ◆」が次のように記している。
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この逸話につき、「江戸城物語」(朝日新聞社編)では次のように記されている。
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【三代将軍家光の囲碁好き】 | |
2009.2.24日、「◆国技・2 ◆カムイ ◆」が次のように記している。
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1644(覚永21、正保元)年、12.16日、正保改元。 |
【争い碁が始まる。「本因坊2世算悦-安井家2世安井算知の二十番争碁」】 |
1644(正保元)年、 3代将軍家光のとき、寺社奉行が、四家元に大して、名人道碩の死後、空席になっていた名人・碁所の詮議を預けた。本因坊算悦(34歳)は自薦して他は辞退した。但し、安井算知(28歳)が、先代算哲が望んで就くことができなかった名人・碁所に強い執念を持ち、本因坊算悦の碁所就位に賛成しなかった。碁所をめぐって話し合いがつかず、幕府の命によって囲碁で決着をつけることになった。これを「争碁」(そうご、あらそいご)と呼ぶ。幕府は本因坊2世算悦と安井家2世の安井算知の二人に六番碁の争碁を命じた。これが「争碁」の始まりとなる。 |
この年、安井知哲(安井算哲一世の三男で、安井算哲二世(渋川春海)の弟)が山城国に生まれる。 |
1645(正保2)年、。 |
10.16日、「史上初の争碁」となる「本因坊・算悦-安井家2世算知の6番御城碁」の「第1局、算悦-算知(黒先番)」(「本因坊算悦-安井算知(先)」)が始まる。この御城碁での勝敗は、碁所決定をも左右しかねない重大な一戦であった。手合は算知の先番と決まっていた。老中、若年寄、寺社奉行らが息を殺して見守った。算知が先番中押勝ち。 |
この年、山崎三次郎(後に4世本因坊道策)が石見国の大田郡馬路村神の前(島根県仁摩町)で生まれる。山崎家は毛利輝元に仕えた武士で、後に庄屋となった旧家である。山崎三次郎は、7歳の時、母親から囲碁の手ほどきを受け、12-3歳頃、本因坊家に弟子入りした。 |
1646(正保3)年、。 |
11.2日、御城碁「本因坊・算悦-安井家2世算知の6番第2局、算知-算悦(先)」。算悦が黒番9目勝ち。「算知-算悦(先)」。黒番11目勝ち。 |
この年、桑原道節(後に井上3世、名人因碩)が美濃国大垣で生まれる。 |
1647(正保4)年、。 |
御城碁「本因坊・算悦-安井家2世算知の6番第3局、算悦-算知(先)」。算知が黒番6目勝ち。 |
1648(正保5)年、2.15日、慶安に改元。 |
1648(慶安元)年、御城碁「本因坊・算悦-安井家・算知の6番第4局、算知-算悦(先)」。算悦が先番11目勝ち。 |
1649(慶安2)年、2.17日、御城碁「本因坊・算悦-安井家2世算知の6番第5局、算悦-算知(先)」。算知が先番11目勝ち。 |
1650(慶安3)年、山崎千松(後に井上因碩2世(道砂)、道策の実弟)、石見国(大田郡。馬路村)で生まれる。 |
1651(慶安4)年 |
4月、第3代将軍徳川家光が亡くなり、11歳の徳川家綱が新将軍に就任する。この頃、愛棋家でもあった由井正雪らが幕府の政策を批判し、浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛らと共に挙兵し幕府を転覆する計画を立てる。小雪の背後には南海の龍と云われた紀伊大納言頼宣(徳川家康の十男で紀州徳川家の祖)がいたと云う。計画は実行寸前で、密告により露見。正雪は駿府の宿に滞在中、町奉行の捕り方に囲まれ自刃する。この騒動は「慶安の変」または「由井正雪の乱」と呼ばれている。計画が露見したのは、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告によるものと云われている。後に描かれた物語では、その理由として奥村が丸橋忠弥と碁を打っていたときに正雪が色々と口を出したことに腹を立て裏切ったということになっている。由比正雪首塚の脇に正雪の辞世の句碑が建立されている。「秋はただ なれし世にさえ もの憂きに 長き門出の 心とどむな 長き門出の 心とどむな」。(「由比正雪の首塚 菩提樹院」参照) |
1652(慶安5)年 |
1.9日、門下の安井算知を養子として家督を譲っていた安井算哲1世が京都で没する(享年63歳)。法号は正哲院紹元。後に長子が2世算哲として安井家を継ぐ。次男の勘左衛門は内藤家家臣となり、三男知哲は算知を継いで安井家3世となる。 |
同年9月、「碁経」(碁伝記、二巻)が出版される。版元は京都鳥丸通七観音町、久須見九左衝門。 |
1652(慶安5)年、9.18日(グレゴリオ10.20日)、承応に改元。 |
1653(承応2)年 | |
10.17日、御城碁「本因坊・算悦-安井家2世算知の6番第6局、算知-算悦(先)」。算悦が先番6目勝ち(「185手完の中押し勝ち」ともある)。瀬越名誉9段が次のように評している。
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【本因坊算悦-安井算知の対局における松平肥後守の口入れ事件】 | |
「本因坊算悦-安井算知の対局における松平肥後守の口入れ事件」を確認しておく。
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1653(承応2)年、。 |
史上初の争碁の安井算知3勝2敗で迎えた6局目の安井算知/本因坊算悦(先番)。277手完、黒6目勝ち。これで打ち止めとなった。争碁史上もっとも有名な1局。 両人は、1644(正保元)年10.5日の御城碁を第1回とし、承応2年まで9年がかりで互先で6戦している。3勝3敗の打ち分けのまま(算知が先相先で四勝二敗(互いに得番勝ちとする説もある)、算悦の病死によって終わりを告げ、碁所は一時預かりとなった。 |
1655(承応4、明暦元)年、4.13日、明暦改元。 |
1656(明暦2)年、。 |
宗算が「囲碁十首歌」を出版する。版元は京都五条寺町、中野太郎左衛門。 |
1657(明暦3)年、。 |
10.24日、2代目安井算哲(渋川春海)が算知部屋住みとして召し出される。 |
本因坊3世道悦時代 |
1658(明暦4、万治元)年、7.23日、万治改元。 |
9.16日、本因坊2世・算悦が生没(享年48歳)。道悦(22歳)が後式相続を許され3世本因坊となる。 |
1659(万治2)年、。 |
2代目安井算哲が算知後見で家督を相続する。 |
同年11.24日、本因坊3世道悦、安井算哲(2代目)が御城碁に初出仕する。御城碁「本因坊道悦-安井算哲(2世、渋川春海)」。算哲が黒番4目勝ち。爾後、道悦は延宝3年まで11局、算哲は天和3年まで17局を勤める。 |
1660(万治*)年、。 |
1661(万治4)年、。 |
1661(寛文元)年、3月、前田入道一乳編「碁経」が出版される。版元は京都鳥丸通下立売下町、野田庄右衝門。 |
1661(万治4)年、4.25日、寛文に改元。 |
【家元4家制度が確立される】 | ||||||||||||||||
1662(寛文2)年、10.13日、幕府が、碁将棋衆を正式に寺社奉行の管轄下に置き、幕府から扶持を授けることになる。初代本因坊の役料は朱印地300石、20石10人扶持。これにより家元制度が整備され確立されていった。家元は次の四家である。
本因坊、井上、安井、林の家元四家がそれぞれ優秀な棋士を育て切磋琢磨し碁のレベルを飛躍的に向上させて行くことになる。 家元制度が確立され、囲碁が正式に寺社奉行の管轄になっていく上で取りまとめ役が必要になった、その位が「碁所」(ごどころ)である。「名人」でなければ「碁所」を務めることができなかったため「名人碁所」と呼ばれる。「名人碁所」になれば碁界を牛耳ることができ、天覧碁の組織、将軍の指南、免状の発行、全国棋士の統一など囲碁に関する様々な決め事を差配することができた。名人碁所の地位は各家元いずれかの宗家であり、棋力が他を圧倒し、かつ人格的にも他の家元からも認められることが必要とされた。四家の家元制が確立し碁界が組織的に安定してくると碁所をめぐって勢力争いが起こることになる。 (歴代名人就位一覧、 歴代家元四家一覧) |
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「徳川幕府の碁将棋衆保護政策」は思われている以上に意味、意義が高い。そもそもは織田信長の日蓮宗僧侶・日海(後の算砂)に対する「名人」号の授与、 豊臣秀吉による御前試合勝ち抜き者・算砂(日海)に対する官賜碁所の授与、徳川家康の算砂に碁所と将棋所任命、「碁打衆、将棋指衆御扶持方給候事」制定から始まり、引き続く徳川幕府の御城碁、家元4家制、争碁を経て日本囲碁の精華が確立した。いつの日か、この流れを特大級に好評する筆を持ちたいと思う。 2016.2.5日 囲碁吉拝 |
1663(寛文3)年、。 |
1664(寛文4)年、。 | |
10.20日(12.7日)、御城碁「◯(坊)道悦-安井算哲2代(渋川春海)(先)」、道悦が白番中押し。この年以降、原則的に毎年の対局となる。 これにつき次のように解説されている。
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この年、知哲が部屋住みで扶持を受く。 |
1665(寛文5)年、。 |
10.17日(11.23日)、御城碁「(坊)道悦-◯安井算哲2代(渋川春海)(先)」。算哲が黒番1目勝ち。 |
1666(寛文6)年、。 |
1.12日、「道策-今泷太郎兵卫(先)」。不詳。5月、「安井知哲-道策(先)」。不詳。7.28日、林門入斎1世(門入)没(享年85歳)。10.20日、「△道悦-△算哲(先)」、ジゴ。道悦が上手(7段)、その後準名人に進む。10.24(11.20日)、御城碁「△(坊)道悦-△安井算哲2代(渋川春海)(先)」。不詳(ジゴ?)。 |
この年、星合八碩(道策五弟子の一人)が伊勢(津)に生まれる。 |
1667(寛文7)年、。 | |
1.7日、「道策-安井知哲」、道策の白番10目勝ち。 | |
同年10.20日、御城碁「◯(坊)道悦-安井算哲(先)」、道悦の白番4目勝ち。御城碁「◯道策-安井知哲(先)」、道悦の白番5目勝ち。 | |
同年12.5日、本因坊道策、安井知哲が御城碁に初出仕。知哲は1歳年長。爾後、道策は天和3年まで15局、知哲は元禄12年まで20局を勤める。御城碁「道策-安井知哲(先)」(「道策-安井知哲(先)」)。道策の白番5目勝ち。生涯のライバル安井知哲との御城碁である。この時、道策23歳。道策のお城碁の成績は12勝2敗。生涯の対局数は300局余である。「◯道悦・×算哲(先)戦」。 この年以降、御城碁において複数局打たれる例が始まっている。これを算知時代第1期とする。これにつき次のように解説されている。
※「安井算哲2代(渋川春海)-道策(先)」、道策の中押し。後に暦学者渋川春海と改名した算哲との対局。 この年、「道策-安井算哲」。道策の白番中押し勝ち。 |
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7.28日、林門入斎(一世門入)没(享年85歳)。 |
1668(寛文8)年、。 |
6.8日、「道策-安井知哲(先)」、道策の4目勝ち。6.18日、「安井算哲-道策(先)」。不詳。6.25日、「安井知哲-道策(先)」、道策の黒番14目勝ち。「道策-安井知哲(先)」、道策の白番2目勝ち。怒涛の追い込み。7.20日、「安井知哲-道策(先)」、道策の黒番17目勝ち。「打ち越し」で足早に打って中央に100目の大地を作った碁。7.26日、「安井算哲-道策(先)」。黒番勝ち。8.2日、「道策-安井知哲(先)」。白番2目勝ち。「安井知哲-道策(先)」。黒番14目勝ち。8.29日、「道策-安井知哲(先)」。黒番5目勝ち。9.23日、「道策-道的(黒)」、道的の黒番勝ち。 |
【「算知対道悦の争碁」】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1668(寛文8)年、10.18日、算悦死後10年目、安井家2代・算知が名人の手合に進み碁所に任ぜられた。算知の碁所就任に後援者である保科正之(徳川2代将軍・秀忠の子にして徳川3代将軍・家光の異母弟)の働きがけがあったであろうと云われている。算知の評判が悪く、安藤如意「坐隠談叢」が次のように述べている。
算知の名人碁所を不服としたのが算悦跡目の本因坊3世・道悦(32歳)で、将軍の意に反して争碁を申込む。申し立ての理由につき口上書は次のように記されている。
幕府(奉行・加賀爪甲斐守)が、次のように質している。
道悦は次のように返答している。
「熱誠面に溢れ、涙を揮て懇願に及びしかば、甲斐守も遂に拒む能力わず」。加賀爪甲斐守は道悦の願いを老中に取り次がざるを得なかった。碁所をめぐる安井家・本因坊家の角逐がここまで凄惨さを帯びていたことが分かる。かく道悦との問答を経た上で、「道悦の先で60番打て」(年に20番、3年で60番)の沙汰が下され争碁が命ぜられることになにった。算悦―算知戦が9年で6番だったのに対して対局数が急増していることになる。結果は、両者20戦して道悦の12勝4敗4ジゴとなったところで対戦が打ち切られ、名人算知が引退を表明する。道悦も「公儀の決定に背いたのは畏れ多い」とし、弟子道策に後を譲って隠居することになる。 |
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10.20日、御城碁で算知、道悦の争碁が開始する。「寛文の争碁」と云われる「第2世・安井算知-第3世・本因坊道悦」の対局は次の通り。
20番で12勝4敗4ジゴとなった。20局消化したところで争碁は終結した。この時点での手合割は、先相先であり、後世に「算知に一日の長あり」とも評される。安井算知と道悦の二十番争碁において、道策が師・道悦へ意見を述べることあり、第13局からの勝ち続けには弟子の道策の出現が影響しているのではないかと云われる。「算知対道悦の争碁」につき、「坐隠談叢」が次のように評している。
道悦と道策の互先対局棋譜が11局残っており、道策先番で5勝、白番で2勝3敗1ジゴとしている。二十番争碁があった寛文年間に道悦道策の師弟対決が集中している。驚くべきことに、師匠の道悦のほうが黒を握った碁も何局か残されている。 58歳の算知は碁所を返上した。このあと、算知は名人として1696(元禄8)年まで御城碁の立会いに出仕し(対局免除)、1697(元禄9)年に引退し、先代算哲の次男・安井知哲に家督を継がせる。1703(元禄16)年、京都で87歳で死去する。道悦も2年後に隠居し、道策に家督を継がせた。爾後十年間、御城碁に出仕(対局免除)した上、1686(貞享3)年、退隠し、その後は京都で気ままな余生を楽しみ92歳で大往生する。
「第2世・安井算知-第3世・本因坊道悦」の御城碁20局の多くが一日では終わらなかった。将軍が退座して、老中も退座する時刻が来ても碁が終わらず、仕方なく後は月番奉行の役宅で続行した。この争い以降、お城碁の下打ちが始まり、お城碁の当日は将軍の前で初めから並べると云う体裁になった。下打ちは毎年、11.11日から16日までの間に行われた。この6日間は家人、門生もその席に入れず、棋士はその家から出られなかった。どんな所用ができても外出が許されなかった。碁打ちは親の死に目にも会えないとの諺がこれより出ていると云う。 |
1668(寛文8)年、。 |
1668(寛文8)年、10.20日、御城碁「安井算哲-道策(先)」。黒番10目勝ち。 御城碁「△算知-△道悦(先)」。ジゴ。10.25日、「安井算哲-◯道策(先)」。道策の先番勝ち。11.22日、「道策-安井算哲(先)」。ジゴ。12.8(18?)日、 「道策-安井知哲(先)」は道策の白番11目勝ち。部分的な競り合いに強い知哲を大局観で制した道策の碁。日にち不詳「道策-(坊)道悦(先)」、は道悦の黒番3目勝ち。師道悦との師弟戦で華やかな攻防が繰り広げられ「玄妙道策」と評されている。この年、「道策-安井知哲」、道策の4目勝ち。 |
1669(寛文9)年、。 |
1.10日、「板垣善兵卫-道策(先)」。不詳。1.14日、「道策-山崎道砂(黒)」。不詳。 お城碁。「算知-道悦(先)」。算知の白番勝ち。「算哲-道策(先)」は道策の先番13目勝ち、「知哲-門入(先)」。門入の先番勝ち。1.20日、「道策-安井知哲(先)」。白番11目勝ち。2.11日、「(坊)道悦-道策(先)」。黒番1目勝ち。6.19日、「道策-(坊)道悦(先)」は道悦の白番3目勝ち。師道悦との絶品の師弟戦。7.7日、 「道策-安井知哲(黒先)」は道策の白番10目勝ち。薄い大模様を変幻自在に勝局に結びつけた碁。7.29日、「道策-安井知哲(先)」。白番4目勝ち。8.7日、二十番棋第2局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番5目勝ち。8.21日、「安井算哲-道策(先)」。不詳。8.27日、「道策-知哲」、道策の白番4目勝ち。 8.28日、二十番棋第3局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番勝ち。9.12日、二十番棋第4局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番勝ち。9.22日、「道策-杉村三郎左衛門(先)」は道策の白番6目勝ち。2世本因坊算悦との碁があるほどの大先輩三郎左衛門との対局。「道策-安井知哲(先)」。不詳。10.4日、二十番棋第5局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番5目勝ち。閏10.8日、二十番棋第9局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番勝ち。10.9日、二十番棋第6局「安井算知-(坊)道悦(先)」。白番4目勝ち。閏10.10日、二十番棋第10局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番3目勝ち。10.14日、「道策-安井知哲(先)」は道策の白番4目勝ち。右上へのコウダテから参考になる変化が出来た碁。二十番棋第7局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番3目勝ち。 閏10.20日、二十番棋第11局、御城碁「◯安井算知-(坊)道悦(先)」。白番9目勝ち。御城碁「安井算哲-◯(坊)道策(先)」、道策の黒番13目勝ち。御城碁「安井知哲-◯林門入(先)」、林の黒番4目勝ち。10.24日、二十番棋第8局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番5目勝ち。11.7日、「道策-安井知哲(先)」。白番4目勝ち。11.13日、「安井算哲-道策(先)」。不詳。 |
この年、小川道的(後に道策の跡目となり本因坊姓を名乗る)が伊勢(松阪)に生まれる。 |
1670(寛文10)年、。 |
3.17日、「道策-菊川友碩(2子)」、勝負は不詳。菊川友碩5段は道策とのこの一局により囲碁史に名を残した。酒井猛九段が、本局について「本局は2子局であるが、すべての着手が感動的であり、道策の作品としては名局中の名局に入ると思う」と評している。 3.22日、「道策-玄可(2子)」。不詳。7.21日、二十番棋第13局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番中押し勝ち。7.22日、二十番棋第14局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番6目勝ち。8.9日、「道策-安井知哲(先)」は知哲の黒番中押し。知哲の傑作と評されている。8.27日、「道策-安井知哲(先)」。道策の中押し勝ち。9.1日、二十番棋第15局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番12目勝ち。9.18日、「道策-安井知哲(先)」、道策の白番5目勝ち。臥龍昇天の局。9.21日、「道策-安井知哲(先)」。不詳。二十番棋第16局「安井算知-(坊)道悦(先)」。黒番1目勝ち。 9.22日、道悦が16局目に6番勝ち越しとなり、名人算知に対し先々先の手合割りに直る。 |
【御城碁/本因坊道策-算哲の囲碁史に残る「第一着天元の局」】 | ||
10.17日、御城碁「◯(坊)道策-安井算哲(先相先の先)」。御城碁で「本因坊道策-算哲(2代目安井算哲、後に保井、更に渋川春海)」が対戦した。両者3局目の対戦。この時、道策は三世の跡目本因坊にして7段、26歳。安井算哲は2世にして8段、32歳。算哲が第一着を天元に打った(大極星の発想から生まれた初手天元)囲碁史に残る「第一着天元の局」として知られている。勝負は道策の白番9目勝ち。(光の碁採録名局「道策-安井算哲(先)」)。(11.29日、「道策-安井算哲2代(渋川春海)(先相先の先)」。白番9目勝ち)、御城碁「知哲-門入(先)戦」。門入の先番勝ち。
10.17日、御城碁「安井知哲-◯林門入(先)」、林の2目勝ち。10.20日、「道策-安井知哲(先)」。不詳。対局日不明「道策-南里与兵衛(先)」、南里の中押し。大先輩の南里与兵衛が初手天元で道策を破った碁。 |
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この年、片岡因的(後に因竹、4世林門入、隠居して朴入)生まれる。 |
1671(寛文11)年、。 |
8.25日、「道策-安井知哲(先)」。不詳。「道策-安井算哲2代(渋川春海)(先)」、道策の9目勝ち。 10.20日、二十番棋第17局御城碁「安井算知-◯(坊)道悦(先)」、黒番9目勝ち。御城碁「(坊)道策-安井算哲(先)」。結果不明。 |
1672(寛文12)年、。 |
5.16日、「道策-南里与兵衛(先)」は道策の白番中押し。南里与兵衛は初手を天元に打ち天元2局目になった。勝負は道策が貫禄を示し中押し勝ち。6.1日、「南里与兵卫-道策(先)」。 不詳。9.8日、 「道策-安井知哲(先)」は道策の白番8目勝ち。玄妙不可思議の局(玄妙道策)。 10.24日、二十番棋第18局御城碁「安井算知-◯(坊)道悦(先)」、道悦の先番6目勝ち。御城碁「◯道策-算哲(先)」は道策の白番10目勝ち。12月、「青木愚硕-道策(先)」。不詳。 |
この年、三崎策雲(後に井上因節、四世因碩、系図書き挽え後は五世)が越前に生まれる。 |
1673(寛文13)年、。 |
1.4日、井上因碩1世(系図書き換え後は2世)が没(享年69歳)。 |
1673(寛文13)年、9.21日、延宝に改元。 |
同年9.3日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。 延宝元年12.2日、20番棋第19局御城碁「(坊)道悦-安井算知(先)」、算知の先番3目勝ち。御城碁「安井算哲-道策(先)」は道策の先番12目勝ち。12.18日、山崎道砂が井上因碩の後式を許され井上道砂となる。「(坊)道悦-道策(先)」は道策の先番中押し勝ち。「安井算哲-(坊)道策(先)」は道策の先番12目勝ち。 寛文年間「道策-安井知哲(先)」。不詳。「道策-安井知哲(先)」。不詳。「道策-安井知哲(先)」。不詳。「安井知哲-道策(先)」。不詳。「道策-安井知哲(先)」。不詳。 御城碁「道悦-◯算知(先)」。算知の先番勝ち。「安井算哲-◯道策(先)」。道策の勝ち。 |
12.18日、山崎道砂が井上因碩の後式を許され井上道砂となる。 |
この年、安井仙角が生まれる。寛文年間の道策の碁として他に次の対局がある。 |
この年、「碁立」(碁立初心抄)が出版される(京都、菊屋七郎兵衛)。 |
1674(延宝2)年、。 |
3.18日、井上道砂が二世因碩と改名し御目見得を許さる。 |
同年「×春知-◯道砂因碩(先)」。7.21日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。8.22日、「道策-安井知哲(2子)」、ジゴ。8.25日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。8.30日、「(坊)道策-安井知哲(先)」。不詳。9.3日、「道策-安井知哲(先)」。不詳。9.18日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。9.23日、「道策-安井知哲(先)」。不詳。9.24日、「道策-安井知哲(2子)」。黒番2目勝ち。10.2日、「道策-安井知哲(先)」。黒番6目勝ち。10.22日、「道策-安井知哲(先)」。白番勝ち。11.9日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。11.10日、「道策-安井知哲(先)」。不詳。11.11日、「道策-安井知哲(2子)」。不詳。 11.24日、道砂因碩と安井春知が初出場している。春知は爾後、貞享3年まで7局を勤める。御城碁「◯道策-安井算哲(先)」は道策の白番6目勝ち。返し技の冴え(玄妙道策) 。御城碁「安井春知-◯道砂因碩(先)」、因硯の先番1目勝ち。 12.2日、「安井算哲-道策(先)」。黒番12目勝ち。12.7日、「道策-安井知哲(先)」。黒番2目勝ち。12.8日、「道策-安井知哲(2子」。白番勝ち。 |
この年、日時不詳「道策-安井知哲(先)」は道策の白番5目勝ち。算知と道悦の争碁のさなかに打たれた一番弟子同士の対局。12.9日、「道策-河井长太夫(2子)」。不詳。日にち不詳「道策-安井知哲(先)」は知哲の先番6目勝ち。道策らしからぬ、中盤、終盤のミスで、序盤の優位を失った碁。日時不詳「道策-安井知哲(2子)」は道策の白番中押し。実戦図がそのまま詰碁になった死活が出来た碁 。日時不詳「道策-福尾玄故(3子)」は福尾の3子局勝ち。石を攻めながら中央を囲った黒が勝った。「道策-安井知哲(先)」。不詳。「道策-安井知哲(2子)」。不詳。 |
1675(延宝3)年、。 |
8.6日、「道策-安井春知(先)」は道策の白番中押し勝ち。「絶妙の手造り(玄妙道策)」と評されている。(光の碁名局「道策-安井春知(先)」、白中押勝ち)。 |
同年10.20日、御城碁「◯道策-安井算哲(先)」は道策の白番16目勝ち。安井家の研究不足を衝いた道策の快勝譜。 二十番棋第20局御城碁「安井算知-◯(坊)道悦(先)」、道悦の先番13目勝ち。安井算知と本因坊道悦の争碁が終了する(60番の予定なるも20番で打止め)。道悦が20戦12勝4敗4ジゴとなったところで対戦は打ち切られ、安井算知は碁所を返上し引退した。爾後は隠居名人として元禄9年まで20年間出仕する(対局は免除)。 12.6日、「道策-安井算哲2代(渋川春海)(先)」。不詳。 |
1676(延宝4)年、。 |
安井算知、碁所を返上。爾後は隠居名人として元禄9年まで20年間出仕する(対局は免除)。 |
同年10.24日、御城碁「◯道策-安井算哲(先)」。道策が白番10目勝ち。御城碁「安井知哲-道砂因碩(先)」は知哲の白番2目勝ち。「道策-安井知哲(先)」は道策の白番9目勝ち。盤上の能力者(玄妙道策)。11.22日、「道策-永田寿德(2子)」。不詳。 11.29日、御城碁「◯安井知哲-井上因碩2世(道砂)(先)」。白番2目勝ち。 |
この年、佐山策元(後に道策の再跡目となり本因坊姓を名のる)が生まれる。 |
【(坊)道悦の囲碁問答「因云碁話」】 | |
(坊)道悦の囲碁問答「因云碁話」(爛柯堂棊話の改題)。
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(私論.私見)