「道に死す心」昭和40年 7.12.(第13期王座戦準決勝 対坂田栄男)
どうしてこのような好局が打てたのか。僕が坂田に対し、いや局に際して邪念さらに なく、心清らかに、あせるところなく、得をしようとかどうしようという野心なく、正しく打とう、大法にかなうべくと心がけた結果か。いかに坂田とて大法にはどうにもなるまい。まるで道案内されるように、前途が明るく、次から次と妙手が浮かんだ。それは始めからの考えよりも、事態の変化にともなって浮かんでくる。
自分にことだけを考えてはいないだろうか。物欲につかれて貪ってはいないか。欲望はないか。邪念はないか。心は清く正しくあるか。偉大なる愛の心であるか。悪い心は出てないか。禅法呼吸臍下丹田に腹考し、大儀心に徹して、道に死す心である。たとえ一歩たりとも前進、進歩の心である。第一、碁をうまく打とうなどと思ってはならない。ひたすらに道、大法である。僕は神の心にこそ添うべきで、人人の言葉に耳を貸すことはないのである。
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[注]囲碁ゲームで、石の配置と手順の違いによる着手可能数(可能な対局パターン数)は、原理的には361!(階乗)通りある。コウもあり、取り跡にも置けるので、それ以上である。361!は 10750 以上になる。石をどこに置いてもよいとして全ての可能性を尽くせば、場合の数はこうなるが、実際上は、初手から盤端や隅に置くことはないし、最後まで盤面を埋め尽くすこともない。だから、コウや取り跡に打ったとしても、長くても350手ほどで終局となる。それゆえ、大目に見積もっても300!程度であろう。それでも10600以上になる。この数がいかに多いかは、宇宙の中の全原子核(素粒子でもほぼ同じ)の数がわずか1080であることと比較すれば一目瞭然である。超天文学的数などという生やさしいものではない。したがって、囲碁の着手変化を尽くすコンピューターメモリーも、必勝の囲碁ソフトも作りえない。それゆえ、この数は有限確定であるが、人間にとっては事実上無限大である。 |
半田は「名棋譜は造るものでなく自然に出来るものであるから、それにこだわることはないが、努力を重ねることがいかに大事か・・」と書いた。半田はベストを目指す自己実現としてこう言っている。最善手は天地の理にしたがえば自ずから成る。「勝負を離れて名棋譜を残す。そこに棋士の使命がある。名棋譜は造るものでなく自然に出来るものであるから、それにこだわることはないが、努力を重ねることがいかに大事か。(「神の心を犯した」より)。」 |
「碁がわからない」(昭和39.1.19)より抜粋:
古碁、秀策を並べているうちに、ふと思った。一体自分はどういう心で碁を打っているのか。一般には個性がはっきり打ち出されているのが良いといわれる。個性というのは自分である。自分を打ち出して強ければもちろん良いのにきまっている。しかし自分を打ち出すということは人の心を認めないということにもなる。自分本位の名作となる。碁において、相対性において、自分の意のとおりになにごともなるようになれば、まさに人間として不可能な神技である。ために道の最高に神技と冠せられる、果たして自分たちが最高のレベルなのかと思えば、慄然とする。絵とか書とかのように一人ですることでなく、相手があって、共にベストを尽くし、心力、体力のあらんかぎり、生命をかけて相争うのである。それは一種の宿命である。僕はどういう心で対せばよいのであろうか。碁、三百六十一路をどう考えてよいのであろうか。囲碁は地の多い方が勝ちであるが、地をどういうふうに取ればよいのか、地を取るべき心で体すべきか。碁というものはそれほど簡単なもの、単なる競技であろうか。もし簡単な競技なら、何十年とこの道に研究、務めていてその実体を知りえない今日の自分はなんなのであろうか。 |
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「神の心を犯した」 (昭和38.7.8)より抜粋:
一番恐ろしい欠点は、思いつくとすぐ打つ、これである。鋭い頭ではない。読み不足で、後で気のつく方なのに、そんな癖を出しがちである。手どころでは慎むべきである。洋洋たるところではまたどうにでもなるが、手どころではなかなかそうは行かない。読みの裏付け、確かめを充分にすることである。二度三度、そして打つ前にまた確かめて打つこと・・。(そうでないと天理=神の心を犯すことになる。)僕はこれまでも手どころは実に不安であり、無理がある。また必要以上に恐れたり、いうなれば心が定まっていないのである。囲碁の天理に目覚め、天理において着手を定めることである。自然にまかす心でないと進歩がない。進歩がなければ無意味である。天理(自然心)を信じ、十九路の石の心である。形にとらわれるのは僕の悪癖である。自己の信念において試みたいこと、やるべきと思うことは、天の理なれば好む好まぬでなくやるべきである。道はその中にある。(すでに天の理を感じたのか?) |
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「神の意を認知した」(昭和38.10.9)より抜粋:
神の子の意をこのたび思う。世の中はとても我らの予測出来がたいものである。ただ一筋に心力をもって生命の炎を燃やしてベストを尽くす以外にない。実に勝敗はそこに起こる自然の現象である。しかし、ただ傍観して得られるものではない。もっとも自然に適す、神の子である自覚を深めることである。自分で自然だと、神の意だと思っても、実際はさからっている人間の心である。恐れとか、不安とか、読み不足とか、怠惰とかによって、味ある、生命力のある手がはっきりわからない。石の理はこうだというところがあるはずである。我等は実に神の意によって生活している、ということをつくづく知った。自分は神と共である。自分一人と思うなよ。
昭和38年10月9日、神の意なるもの、世の中はそうであるということを認知した。心力を初めて揮毫した。自分を捨て、悪くなってからの僕のファイトのものすごさは我ながら驚きである。坂田ほどの者を相手にしてである。(坂田栄男との十段戦)
人はいろいろにいう。神はなにもいわない。しかし、善悪ははっきりとつけてくれる。それが神である。自然もやはり何もいわない。自然法則に則して動き結果を出す。それが「成るようにしてなる」であろう。人はそれをいろいろ解釈し、理論をつくる。 |
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「囲わず、守らず、攻めず」 昭和40年11.13.
僕は目下修行中なり。大家然たることなく、表に出たい心起こすべからず。我の心生じれば広大無辺の心滅す。ものにこだわれば自然の心を失う。自然とは我もなく、また人もなく、物事に平然としていっさいを思わず、こだわらず、無に帰する心である。物にこだわれば自然の心を失う。修業とは心の安定を得るもの、迷わぬこと、乱れぬことである。
三法とは
碁は囲わず、守らず、攻めずを三法とする。知、動作、心を三法となす。恐れず、侮らず、怠けずが三法。貪らず、焦らず、踊らずが三法である。その一石が囲いともなり、守りともなり、攻めともなるなどが働き、活用であって、そのいずれにも属さない境地が求められることはいうまでもない。そうして彼我競うおり、摩擦が起きる場合に、大事なのはその心身の柔軟さである。囲わず、守らず、攻めずとはどうであるか。囲わずとは地域である。守らずとは我が石である。攻めずとは相手の石である。相手に散石があるとする。それが我が方の布石に迫る時どうあるべきか。地を守るべくそれを受ければ、かえって乗じられて、散石を勢力として活用される。また、一たび受けると相手を堅め留ことになる。散兵を攻めるか、それは我が方の地域を蹂躙される憂いがある。実にそのおりがむずかしいのである。囲うはぬるく、攻めは早計となる。攻める場合はそれだけの覚悟が必要である。死に物狂いの相手は恐ろしい。攻めて、うまく逃げてくれればいいが、そうとは限らない。そのための備えがなければ石は攻めるべからず、攻める場合は時期である。囲うはぬるし。石の活用はそれのみでは効力薄しである。攻める石はさわらぬこと、しかしまた重くしておくことも大事である。そうでないと捨てられる。常に次への準備工作である。準備工作に石の働きがないと相手は逃げてもくれないし、かえって乗じられるのである。石の活用こそ、囲わず、守らず、攻めずの三法、大盤石の境である。確信をもって打つべし。 |
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「ほしければ取れよ」(昭和38.11.22)より抜粋
小さいところを争わず、大所に立って寛容の心で対すべきである。ああかわいいやつよ、その石がほしいか、地がほしいか。ほしければ取れよ、そんなものは、やがては石ころである。真に大事な宝は心であるぞ。 |
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苑田の「攻めず守らず」
半田道玄の囲碁哲学の精神を受け継ぎ、それを判りやすく解説し、さらに敷衍したのは関西棋院の苑田勇一九段である。囲碁雑誌「囲碁梁山泊」に連載の「神がかり講座-攻めず守らず」には、半田の囲碁観と自然観が感じ取れる。彼は「武宮の東の宇宙流に対して、苑田は西の宇宙流」ともいわれる。しかし、苑田自身は、武宮の宇宙流とは一味違う独自の囲碁観と論理をもっていると思っているようだ。半田囲碁哲学がその基礎にあるからだろう。武宮とは異なる意味のロマンのある苑田流は、「自然流」とでもいえるだろう。素人の私にもそう思える。この「神がかり講座」は、半田の三法「囲わず、守らず、攻めず」の精神を詳細かつ具体的にアマチュアにも分かりやすく解説してくれている。曰く「活きている石の近くは小さい」、「美人は追わず(弱い石を追いかけるな)」などはそのエッセンスである。 |
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「滾滾(こんこん)として尽きぬ心力」(昭和40.2.24)より抜粋
(十段戦5局目、対藤沢朋斉戦)初めまねられたおりに動揺した。まね碁についてうっかりしていた。今思えば、同じことを打ってくるのと別ので来るのとのちがいであって、形が同じであるからまちがえない、大勢を見るにも楽である。というだけで、その内容に何らの変動もない。それは、そうした点、碁は相対的であるという認識によって生まれた理論である。チャンスというものは我が方ばかりでなく、それがまた相手のチャンスともなる。それは応手の心である。駆け引きによる。彼の鋭さにまさる受けを案出する。それは大海をのみほす精神力によって可能になる。彼にまさる精魂である。滾滾として尽きぬ心力である。全智全能をふりしぼり、我が力だけにとどまらず、全宇宙の神、それは皆我が友なり、宇宙は正しいものである。一厘一毛も狂わぬように打って行けば宇宙にかなうのである。宇宙は正しく、正しいものが真実である。 |
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