本因坊家

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).5.26日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで「本因坊家」を確認しておく。「歴代本因坊家他」、「本因坊」、「本因坊の系譜とその時代~算砂から秀哉まで~」その他を参照する。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【歴代本因坊家】
 「本因坊の読みは、正しくは『ほんにんぼう』、『ほんいんぼうと読むようになったのは昭和以降』とのことである」云々。
 江戸期を通じて囲碁四家元、将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にあった。本因坊家は1世(本因坊算砂名人)から21世(本因坊秀哉名人)まで、再襲2名合わせて19名、跡目のまま没した本因坊道的、本因坊策元、本因坊秀策の3名を合わせて22名。うち1世本因坊算砂名人、4世本因坊道策、5世本因坊道知、9世本因坊察元、12世本因坊丈和、17世(19世)本因坊秀栄、21世秀哉を合わせて名人碁所もしくは名人を7名出している名門である。
 本因坊家の菩提寺/本妙寺

世数 棋士 生年
一世 本因坊算砂  (日海) 1559-1623
二世 本因坊算悦 (杉村) 1611-1658
三世 本因坊道悦 (丹波) 1636-1727
四世 本因坊道策 (山崎三次郎) 1645-1702
跡目 道的 1669-1690
再跡目 策元 1675-1699
五世 本因坊道知 (神谷) 1690-1727
六世 本因坊知伯 1710-1733
七世 本因坊秀伯 1716-1741
八世 本因坊伯元 (小崎) 1726-1754
九世 本因坊察元 (間宮) 1733-1788
十世 本因坊烈元 (山本) 1750-1808
十一世 本因坊元丈 1775-1832
十二世 本因坊丈和 (戸谷松之助)   1787-1847
十三世 本因坊丈策 1803-1847
十四世 本因坊秀和 (土屋俊平、後に恒太郎) 1820-1873
跡目 秀策 (桑原虎次郎)  1829-1862
十五世 本因坊秀悦 (秀和の長男) 1850-1890
江戸幕府滅亡、家元家禄打ち切り
十六世 本因坊秀元 (秀和の三男、百三郎) 1854-1917
十七世 本因坊秀栄 (秀和の次男、平次郎) 1852-1907
十八世 本因坊秀甫 1838-1886
再任十九世 本因坊秀栄 ※本因坊を再襲 1852-1907
再任二十世 本因坊秀元 ※本因坊を再襲 1854-1917
二十一世 本因坊秀哉 (田村保寿) 1874-1940
跡目 秀立 (小岸壮二)
世数 棋士 名人
一世 本因坊算砂  一世名人
二世 本因坊算悦
三世 本因坊道悦 準名人
四世 本因坊道策 四世名人 二代目碁所
跡目 道的 六段
再跡目 策元 六段
五世 本因坊道知 六世名人 六段
六世 本因坊知伯 五代目碁所
七世 本因坊秀伯 八段
八世 本因坊伯元 八段
九世 本因坊察元 七世名人 六代目碁所
十世 本因坊烈元 準名人 八段
十一世 本因坊元丈 準名人 八段
十二世 本因坊丈和 八世名人
十三世 本因坊丈策 七段
十四世 本因坊秀和 準名人 八段
跡目 秀策
十五世 本因坊秀悦 六段
江戸幕府滅亡、家元家禄打ち切り
十六世 本因坊秀元 六段
十七世 本因坊秀栄 九世名人
十八世 本因坊秀甫 準名人 八段
再任十九世 本因坊秀栄 -
再任二十世 本因坊秀元 -
二十一世 本因坊秀哉 十世名人
跡目 秀立

 本因坊家傍流に水谷家がある。水谷家は琢元から始まり、琢順、琢簾、順策、四谷と明治まで続いた。このうち、琢順は元丈の弟子。彦根藩井伊家お抱えの碁士として7人扶持を給せられた。琢簾の没後、丈和の長子道和を乞うて水谷家の養子とする。しかし、丈和が因碩(幻庵)と和解する時、道和は井上家跡目に移籍する。1850(嘉永3)年、孤独のうちに老死したと云う。順策は丈和の実子。琢簾夭折の後、一時期水谷家の養子となった。

1世(開祖) 算砂 (名人) 1559(永禄2)~1623(元和9)年(享年65歳)
 1559(永禄2)年、安土桃山時代中期、京都長者町に生まれ。本姓加納、幼名與三郎。8歳で日蓮宗の京都寂光寺に入り、法名日海。師匠は当時の碁打で最強として知られていた商人の仙也。僧・日海は若くして豊かな才能を示し、20歳のときに仙也の仲介で織田信長に謁見した。信長は「日海こそまことの名人」と褒め、それが「名人」の呼称の起源だとも云われる。日海の碁芸が信長に認められ何度も碁の席に呼ばれるようになる。本能寺の変の直前、信長公御前で日海は利玄(林家の元祖)と対局して3コウ無勝負となったため、3コウは不吉の前兆という伝説がある(但しこれは出来過ぎの作り話かもしれない)。信長に続いて豊臣秀吉にも従い、碁の指南役を務め、家康にも仕えている。信長・秀吉・家康の三者に仕えた政治力が大いに評価されるところである。

 日海は京都寂光寺にある本因坊という塔頭に住んだことから、その名を取って呼ばれたと云われている。1588(天正16)年、秀吉が催した御前試合に優勝した日海に与えた朱印に本因坊と記されている。実際に日海が本因坊を名乗るのは、1603(慶長8)年、家康が江戸幕府を開き、帰府するときに碁の指南役である日海を京から連れ帰った時点という説もある。いずれにしても碁を打つときは本因坊が自然と通り名となり、江戸幕府から禄を賜る時点では自ら本因坊を姓としていたようである。

 江戸時代に入ると、幕府から碁打衆として五十石五人扶持の他、一代限りで三百石を賜る厚遇を受けている。碁打衆と将棋指衆を幕府の公職として認めさせ、それぞれに扶持を賜る家元制度を確立している。その功績は世界史的に意義がある。その際、算砂は本因坊を家元の姓とし、初代本因坊として碁打衆を束ねる"碁所"に就いている。

 将棋指衆の初代名人・大橋宗桂は、算砂の将棋の弟子であったが、算砂一人で碁将棋の両方を束ねるのは権力集中でよくないとして、将棋に関しては宗桂に委ねたという説もある。実際に、宗桂と算砂の将棋平手対局の棋譜も残されている。記録によると宗桂のほうが年長であり、実力的に算砂の弟子というのは考えにくい。名人として江戸幕府から碁打衆を束ねる碁所を賜ったという話も、最近の研究では、碁所は幕府の任命ではなく、碁打衆同士で決定した地位を勝手に名乗り、幕府ないし寺社奉行所も碁打衆を統括させるのに都合がよいので黙認していたらしい。

 算砂がなくなる直前、一番弟子の中村道碩に碁所の全権を譲り、本因坊家は一時断絶。このときはまだ家元の世襲制はなかった。本因坊家は、算砂が後を託した算悦を、道碩が良く鍛え、成長したことによって復活する。

 算砂には残された棋譜が20局程度しかなく、対戦相手は全て利玄に限られている。しかも、最後まで記録されたものは1局だけ、あとはすべて120~130手で記録が終わっている。史上の実力評価は定まっていない。

算砂跡目 算碩(さんせき) (上手) (享年**歳)
 生没年不詳。経歴等は不明だが、1612(慶長17)年、家康が碁将棋衆に禄を与えたという記録のなかで末席に登場する。算砂は、弟子のうち、中村道碩を独立させ算碩を本因坊の後継と考えていた。ところが早逝したために本因坊家を断絶させることになった。

2世 算悦 (上手) 1611(慶長16)~1658(万治元)年(享年48歳)
 京都生まれ、本姓杉村。法名日縁。初代算砂は算碩に本因坊を継がせる予定であったが夭折(ようせつ)した。一門のなかで将来有望と見られる弟子に算悦を認めたが、算砂が没する年には13歳の幼少の身により本因坊を相続させるのに無理があった。そこで、弟子の中村道碩(井上家開祖)に碁所としての全権を譲り、算悦を鍛えてものになるようなら本因坊家を継がせて再興させるよう遺命した。これにより本因坊家は一時途絶えた。道碩は師の遺言を良く守り算悦を育てた。1630(寛永7)年、三十石五人扶持を賜り、本因坊の再興が認められた。こうして本因坊家を復活させた。ここで初めて家元名跡の世襲の先例ができた。

 算砂から道碩に継承された碁所の中村道碩は、遺言状により算悦を7段上手に推薦したが、道碩がなくなるときに継承すべき実力者が居らず為に指名しなかった。道碩は算砂に肩を並べる(あるいはそれ以上の)棋力であったため名人に推され碁所となったが、算悦も成長したとはいえ、まだ碁所につけるには若年すぎたことによると思われる。道碩が亡くなってから10年間、碁所不在の時代が続いた。が、空位の長さに御上から碁所承継が問われ、家元全員出席のうえ詮議となった。当時長老格の安井家一世算哲(古算哲)が「実力はともかく最も年長者である自分に任せてほしい」と申し入れたところ「実力がないものを碁所に就けることはできない」と退けられた。そこで、本因坊算悦と井上因碩で勝負するよう打診されたが、因碩は「算悦は道碩師の同門弟子であり、さらに大師匠算砂の跡継ぎ。勝負は辞退する」と断り、若い算悦も勝負を強く求めなかったため、さらにしばらく碁所の空位が続いた。その4年後の正保2年、算悦と二世安井算知の六番碁により碁所を決定するように沙汰が下り、年に1度の御城碁の勝負で9年(途中3年間御城碁の休止があった)というゆっくりとしたペースで行われた。互いに先番を勝って決着がつかず六番碁打ち分けとなったため碁所は又も持ち越し、その後沙汰止みとなった。
 年に1回の勝負碁という悠長な対局には異説がある。それは、本来御上としては、算砂と道碩の系列である本因坊を碁所に就けたかったが、天海僧正が算知の贔屓であったためになかなか進めることができず、天海が亡くなってからいよいよ算悦を碁所に就けようとしたが、算知とその後援者である老中保科正之らの反対にあった。「ならば一番勝負をしてみよ」と命じ、算知が勝利したために、翌年また翌年と算悦がなんとか勝ち越せないか、と繰り返すことになってしまった。このままでは逆に算知に打ち込まれてしまうと心配して、5局目と6局目の間に休止期間を作り、最後に算悦が勝った時点で碁所の話はなし、ということにしたというもの。こうして算悦は名人碁所に縁がなかった。このときの算知の反対が本因坊家に遺恨を残すことになる。

3世 道悦 (名人格) 1636(寛永13)年~1727(享保12)年(享年92歳)
 伊勢松坂生まれ、本姓丹羽。法名日勝。万治元年、二世算悦が没し道悦が本因坊家を継ぎ碁所を目指した。寛文8年、道悦が本因坊家を継いた10年後、安井算知が幕府の下命により名人碁所に任命された。算知は当時の実力最高位ではあったが、道悦が御城碁に出仕しても算知との対局はなく、道悦の相手はずっと算知の弟子算哲が務めていた。道悦は、本因坊家当主と安井家跡目が対局することに対し本因坊家が一段下に見られているような不満を感じていた。その算知が自分と対局しないまま名人になることを認め難く、各家元の承認もない裡のお上の決定に異議を唱えた。「勝負をさせて欲しい。負ければ幕命に背いたとして流刑になってもよい」の覚悟を示して受け入れられた。

 こうして遠島覚悟の算知との60番碁が始まった。今回は、前のような1年1番などというゆっくりしたものではなく1年に20番ずつ、3年60番碁にて勝負をつけるよう命じられた。算知は名人格に命ぜられているので手合は道悦の先。道悦の目標は六番勝ち越して先互先に手合を直し、「上手の向先を維持できないのであれば名人を退くべし」と主張することにあった。道悦の先で始められた争碁は、定先ならすぐに打ち込んでみせるという意気込みと裏腹に、初めのうちは算知が善戦して最初の年の12番が終わったところで(1年20番のペースは無理があり進行が遅れた)、道悦5勝、算知3勝4ジコとなり、さほどの差はつかなかった。道悦は、最初の20番までに手合が直せなければ「後は打たなくても算知に碁所を任せればよいではないか」という雰囲気に成りかねないと焦りを覚えた。この頃、本因坊家に道策が居り跡目となっていた。道悦は、自分よりも才能があると認めている道策と相談し、道策の手法を採用するようになってから4連勝、16局を終えたところで9勝3敗4ジゴ(道悦の六番勝ち越し、手合直り)となり先相先に打ち込んだ。芸道上の意地を通すことができた道悦は、算知の名人碁所を無理に引きずり降ろさずに、後は算知が自然と退隠するのを待つことにした。

 1676(延宝4)年、20番まで打ち終えたところで、算知が碁所返上した。争碁の評価は、老齢の算知が打ち盛りの道悦の定先を16番まで能く持ち堪えたことにより、算知の方に一日の長があったと云われる。しかし、道悦の後ろに道策がついては算知も太刀打ちできなかった。道悦は、算知が碁所を退いたのを見届けるも、道策が控えていたためと思われるが自らが代わって名人になろうとはしなかった。本来なら道悦が交代で碁所に就くべき方策があるところ、算知を碁所に任命した公儀に対し争碁に持ち込んだことに対する責任から自らも翌年の1677(延宝5)年、道策に家督を譲って潔く引退し本因坊家を四世道策に譲った。但し、退隠はしたが、道策が壮年であることから幕府は引き続き道悦の御城碁出仕を命じ、貞亨3年まで9年間勤めた後、京都に閑居しながら長寿を全うした(享年92歳)。道悦の没年は五世本因坊道知と同年である。

4世 道策 (名人) 1645(正保2)年~1702(元禄15)年(享年58歳)
 名人碁所。元禄年間に活躍。実力十三段といわれた怪物。
 石見国山崎村の生まれ、本姓山崎。法名日忠。幼名を三次郎と言う。碁界不世出の大天才であり、棋理の研究と深い読みは現代をも凌ぎ、碁聖と讃えられている。

 道策は初め安井算知への弟子入りを薦められたが、本因坊道悦が碁界の宗家である本因坊門の発展のために熱心に道策を誘った。師の道悦と算知が碁所をめぐる争碁を打っていた頃、道策の実力は既に道悦と肩を並べるほどであり、師の対局に対して度々批評を加え、道悦も素直に道策の手段を取り入れたために算知との争碁に勝利したと云われる。

 1677(延宝5)年、道悦は争碁のあと道策に家督を譲って引退した。同時に道策を名人碁所に推薦した。その推薦状には他家の主だったものとの対戦成績を記していた。寺社奉行は他家に道策碁所の異議あるものを問うたが、ほとんどの相手を定先から先二に打ち下げており誰一人として反対できるものがなかった。このような抜群の成績から後世「実力十三段」とまでいわれる。道策が名人碁所となってからの期間は、御城碁以外でも家元間の交流対局が盛んになり、道策流とそれに対抗する各家の研鑽によって碁界全体がレベルアップした。


 天和2年、琉球からの使節に随行した親雲上濱比賀に四子置かせて対局し1勝1敗となった。帰国に際して免状を求められて、濱比賀に「上手に対して二子(4段格)』」の免状を与えている。これによると、7段上手さえ道策には2子置くということになり、道策自身11段は自負していたことになる。 

 道策には、「五虎」と呼ばれ、実力的に道策に迫る5人の優秀な弟子(道的、道節、策元、本碩、八碩)がいた。道節は道策と1歳違いの最年長であったため本因坊家の跡目には据えずに井上家を継がせ、道的を坊門の跡目とした。その道的が早逝した。次に再跡目とした策元も同様に早逝した。他の本碩、八碩も20代で亡くなり、道策は有望な弟子をすべて失い、その後は本因坊家の跡継ぎを選ばなかった。元禄15年、死の直前の病床に一門と他家の当主を集めて、「本因坊家を神谷道知に継がせたいので協力を頼む」、井上家を継がせた道節に対して格別に「道知はまだ13歳だが本因坊家を支えるだけの才能がある。将来必ず名人碁所となる器であるので道知の後見人となって鍛え上げてほしい。道節自身は碁所を望まぬように」と遺命し、道節に他家、将棋家を含めた家元衆の前で約束させた。(後に、事情によって遺言は破られることになる。道節を参照)。墓所は本妙寺。
 「手割」の理論的な基礎は道策から始まったと言われる。道策の布石理論、捨石、中盤戦略は、当時どの碁打ちにも見えていなかったものをただ一人理解していたとまで言っても過言でない。その読みの深遠さは現代の一流棋士が観賞しても即座には理解できないほど高度な手筋であふれている。

 吉和道玄、熊谷本碩、星合八碩、秋山仙朴

道策跡目 道的 () 1669(寛文9)~1690(元禄3)年(享年22歳)
 大いに嘱望され、本因坊家第四世道策の跡目となるも夭折。
 伊勢松坂の生まれ、本姓小川。法名日勇。幼くして道策の門下となり、13歳で4段、この頃既に6段格に達していたと云われている。道策の五弟子といわれる五人の高弟の筆頭格であった。14歳のとき、師の道策と互先で白黒2局を打ちどちらも黒の1目勝ちと互角の内容であったと永くその天才が伝えられてきたが、実は道策黒番の碁の方は貞享4年、道的19歳のときものである。16歳の時、既に師の道策に迫る実力を示しており、本因坊家跡目となった。御城碁を打つことになったとき、他家から「段位が低すぎる。実力はもっと上だ」と寺社奉行を通して苦情があったほどの実力があった。本来、他家は昇段に敏感になるもので、低すぎるとクレームするのはよほど異例である。将来は、道策を越えてどこまで強くなるかと将来を大きく期待されながら、胸を患って22歳の若さで他界する。残された棋譜は多くはないが「史上最高の天才棋士」と云われる。墓所は本妙寺。

道策跡目 策元 () 1675(延宝3)~1699(元禄12)年(享年25歳)
 江戸の生まれ、本姓佐山。道策の五弟子の一人。
 四世本因坊道策は、跡目と定めた道的と、星合八碩が続けて没した後、策元の素質を見込んで本因坊家の再跡目に立てた。18歳5段格で御城碁に出仕、安井知哲に先番13目勝ちを収め、以後7局の御城碁を勤めるが、策元も兄弟子たちと同じ結核によって25歳で没した。道策は、二度跡目が早逝した後は新たに跡目を建てようとしなかった。後に五世となる道知が10歳になり、その才能を見てこれに望みを託したものか。

5世 道知 (名人) 1690(元禄3)~1727(享保12)年(享年38歳)
 名人碁所。江戸の生まれ、本姓神谷。
 道知は8歳で碁を覚え、9歳で道策の門下となり、13歳のとき道策の臨終に当たって五世本因坊を継ぐこととなった。道知に対する突然の跡目指名、因碩(道節)に後見を託すなどの優遇は、道知が道策の実子(隠し子)であり、本因坊家は僧籍のために神谷家の戸籍に書き換えたという有力な説がある。道策が二度跡目を失ったあと改めて跡目を立てなかったのは、道知の成長に期待したと考えられること、因碩(道節)に後見を頼み因碩(道節)自身に碁所を望まないように命令し因碩が黙って従ったことなどを考え合わせると、実子説は信憑性がある。

 道知は本因坊家を継いだ最初の年、13歳から御城碁に出仕する。最初4段格として対局し3年間の御城碁を無事に勝利し3連勝している。道知の成長を見た後見人因碩道節は、次の御城碁のとき、対戦相手の四世安井仙角に「道知は非常に腕を上げたので御城碁では同じ6段格として互先で打ってもらいたい」と互先での対局を申し入れ騒動が起きる。 仙角は、「確かに前回負けてはいるが道知は4段、自分は6段であり、1局だけでいきなり互先はないだろう。承服できない」と断る。仙角の意見は正論ではあったが決着は争碁でつけることとなり道知仙角の20番碁が行われる。手合は道知を1段進めて5段格とし先互先で、その年の御城碁を第1局とした。その第1局で、道知は前日からの食あたりで体調を崩したまま勝負に臨んだところ中盤で必敗の形勢となるも、仙角が緩み遂にヨセの妙手で逆転の1目勝ちとなった。仙角は負けが信じられずに3度並べなおして確認したと云われている。その後、2局目道知先番15目勝ち、3局目道知白番3目勝ちと3連勝したところで仙角は降参して争碁を取り下げることになった。道知は6段に上った。続いて7段上手に昇った。当主として一人前になったと見た道節は、この頃に後見を解いた。この時、道知は自分を育ててくれた恩に報いることから道節を名人に推挙する。道節は「師から名人碁所を望むなと命じられている」と辞退するが、「碁所を望むなと言ったのであって、名人になるなとは言わなかった」という道知の言葉に従い、名人井上因碩が誕生した。

 因碩が名人となってから、道策以来の琉球からの来訪があり道知が対局したが、帰国にあたって免状の発行を求められて困ったことになった。先例では道策が官賜碁所として公式の免状を出したが、その時は碁所不在のため、井上家または本因坊家の一門の免状しか発行することができない。然るべき方が碁所に就く必要があり、実力、年齢、人格から道節がなることが自然であったが、道策の遺言に引っ掛かりがあった。そこで、道節が林門入に頼んで道知の了解を取り付けてもらうように頼んだ。道知は、大恩のある道節が碁所に就いて免状を発行するのが最良の方法でしょうと、道策と違約することにも理解を示した。道節は、約束についての当事者の一人である道知が推薦してくれる形をとり、円満に碁所に就任し、また免状発行と授与の手続きが終われば碁所をすぐに退任すると約束して碁所となつた。

 しかし、免状発行後も道節は碁所を退任せず、その後の御城碁の差配や碁打衆の統率など碁所としての職務を続け、亡くなるまでの約10年間、碁所であり続けた。道知は道節の存命中には何も言わなかったが、道節の没後1年になる頃、碁所について何の動きもない他の家元についに怒りを爆発させた。「先代碁所道節の存命中はたとえ約束を違えても恩があったので何も言わなかった。しかし、亡くなって1年も経つのに自分への碁所推薦の約束について何もしないのはなぜか。もしこのまま放置するのであれば、これからの御城碁は本気で打つことにするので、そう心得よ」。実際にこの当時の御城碁で道知の対局は、黒番は全部5目勝ち、白番は1回毎に2目負けと3目負けが交互とすべて結果が揃っていた。談合による対局であることは明らかだった。

 道知に本気で打たれて実力の差が歴然とすることは、他家にとって驚愕だった。三家は慌てて相談し、急いでその年のうちに道知を8段準名人に進め、翌年、名人碁所に推挙した。道知は祝福する門弟に向かって、「退任しない師(道節)のせいで名人碁所が10年遅れた」と云い放っている。とはいえ31歳の時であり、年齢的に遅いとは言えないが当人はそのように認識していたということであろう。道知が最盛期に本気で打った対局が残っておらず、好敵手不在の悲運の棋士となった。名人碁所となった翌年、五世道知の甥である知伯を跡目にしている。道知は、名人碁所就任7年後、突然逝去した(享年37歳)。

 道知の勝敗、目数差まで自由自在に操作する技芸は、当時のほかの棋士たちと大差の実力であったと思われる。同世代に好敵手と呼ぶことのできる相手がおらず、力を入れて打った碁は師の道節と打ったもの、あるいは20歳代の若い時期までで、晩年は力を加減して打たなければならなかった、ある意味不遇な棋士となった。墓所は本妙寺。
 道知は将棋の実力も高かった。将棋所大橋宗桂の跡目宗銀と道知は碁将棋の違いはあっても年齢も近く交友があった。しかし、宗銀は専門の将棋で道知とは平手で五分、いずれ名人となるべきものがこのままでは居れないと、道知に何局も対戦を挑んでいた。あるとき、師・宗桂の旅行中に宗銀は相手を求めて道知宅まで出掛けて何番も将棋を指した。しかし、いつも同じ手順でいつの間にか形勢を損じてしまう。意地になって何番も同じ戦型で挑むが、まったく歯が立たないまま帰宅すると、ちょうど宗桂が旅行から帰った。事情を話して、「どんな将棋だったか並べて見せよ」と言われるままに手順を進めると、ある局面で止めさせて正着を諭される。なるほどと膝を打った宗銀、直ちに本因坊家に取って返し、道知にもう一番!と挑む。件の局面で一呼吸置き、伝授の1手を繰り出すと、道知は意外な顔をしてしばらく考え、顔を上げて「父宗桂殿は旅行から帰られましたか?」と尋ねた。宗銀は知らん顔で「いえ、まだ帰りません」と答えたが、続けて道知「それはおかしい。失礼ながら、この手は宗銀殿には指せない。父上の手と思われる。宗桂殿が相手では平手ではとても、、、」と盤面を崩して終局したという。盤上で宗桂の帰宅を知る道知は、また当時流行った中将棋では第一人者であり、「盤上の聖」と渾名された。

6世 知伯 (六段) 1710(宝永7)~1733(享保18)年(享年24歳)
 武蔵の生まれ、本姓井口。

 五世道知の甥であり、道知が名人碁所となった翌年に跡目と定められた。そのとき、知伯は13歳2段。道知は38歳の若さで突然亡くなり知伯が18歳のとき家督を継ぎ六世本因坊となり6段に進む。しかし、知伯は跡目を定めぬまま突然死した(享年24歳)。本妙寺。 在位7年で、最終段位は六段どまり。実績的には特に見るものがない。知伯-秀伯-伯元の三代は本因坊家の当主としては最も凡庸な時期となる。
 この時代は、碁界全体が完全な衰退期にあった。道知の時代に行われた談合で互いに勝ったり負けたりする御城碁は、各家元の競争意識と向上心を失わせ、また、他家の昇段には妨害が常の足の引っ張り合いの時代となった。

7世 秀伯 (六段)
 1716(享保元)~1741(元文6)年。奥州信夫郡の生まれ、本姓佐藤。法名日宥。本因坊六世知伯の門下。

 知伯が跡目を定めぬまま突然死したため、本因坊家の次の当主は家元の合同会議により決められることになった。かっての道策、道知の弟子で高段に上っている者を本因坊家に呼ぶか、知伯の直門の弟子を選ぶかが争点となった。高段者を充てたいという意見に対して、本因坊家だけは初代以来非直門が相続されたことはないとして、これが採用され知伯の弟子の筆頭と目される佐藤秀伯が選ばれることになった。このとき、秀伯は18歳5段。享保20年、秀伯が6段、若く将来のある高段者は、他に相原可碩が7段にいるくらいであった。その年には五世井上因碩が没し、2年後には四世安井仙角も没したため、碁界の長老は林家隠居の四世門入(朴入)と五世門入(因長)だけとなっていた。

 碁会全体の実力が衰退しているこの時期、秀伯は大きな事件にまきこまる。将棋方により、それまでは碁打将棋指衆の席次は常に碁打が上位となっていたものを、今後は両家元の段位、昇給順の席次にしてほしいと将棋方の席次見直しを請求する事件がおきる。この時期、碁界に比べて、将棋界は史上最年少で名人将棋所となった伊藤宗看を筆頭に大いに盛り上がっていた。その勢いに乗じて古慣習を破ろうとした。寺社奉行直轄の碁打将棋指衆が出仕するときの席次は、常に碁方が上、即ち①碁所②将棋所③碁方家元④将棋方家元の順であった。碁所が不在になるときは碁所の席に本因坊家当主が着くことになっていた。将棋方は、「碁所将棋所を上席におき、各家元は碁将棋を問わず就任の順」とすることを上訴し、碁方は「席順は算砂以来の格式として決まっている」と反論した。上訴の直後に寺社奉行が交代し、先例・格式を重んじる大岡忠相が奉行となり席次は従来通りと沙汰が下され決着した。

 事件の後、秀伯は地位向上のために、元文4年、7段昇段を求めたが、林家五世門入が準名人になっており六世井上因碩を味方につけて碁所を狙っており、本因坊家の要望を容れなかった。席次騒動が治まった翌年、五世林門入が名人碁所を望み運動を起こす。当時ただ一人の準名人であり、年齢的にも家元四家の長老格として自薦していた。井上因碩は同意したものの秀伯と安井仙角が納得せず門入は一旦は碁所をあきらめた。次に、秀伯が7段上手への昇段を望んだとき、門入と因碩が以前の恨みというだけで反対をした。そこで、秀伯は、安井仙角を添願人として門入を相手に二十番碁を願い出て、実力で昇段を果たそうとした。門入は高齢でもあり体力的な不安を感じ六世因碩に代打ちを頼んだ。秀伯と因碩は、元文4年の御城碁から争碁を開始し、翌年6月までに8局を消化したが、第9局を前に秀伯は吐血して倒れる。秀伯は病に倒れた後も争碁を心配し、病状は悪化するばかりであったので、見かねた安井仙角が争碁を和解し中止することで精神的負担を取り除こうとしたが、翌年、自ら再起できないことを悟った秀伯は、他三家に自門下の小崎伯元の跡目を願い、承認されると安心したかのごとく1週間後に没した。秀伯もまた6段止まりで亡くなってしまう。享年26歳。本妙寺。

8世 伯元 (六段)
 1726(享保11)~1754(宝暦4)年。享年29歳。武州幸手郡の生まれ、本姓小崎。法名日浄。

 15歳で、本因坊七世秀伯の門下に入った。翌年、秀伯が病に倒れ、死の直前に他家元を通じて伯元に跡を継がせるよう頼む。伯元は16歳の若さで本因坊を継ぐ。宝暦元年に6段に上った。

 享保3年、五世林門入は、自分の碁所に反対する秀伯が亡くなったことと、伯元の襲位に助力したことで、機は熟したと考え改めて碁所願いを出す。これに対し、伯元は自分が本因坊に就くときに世話になったいたものの師であった秀伯の7段昇段を反対されたことを恨む気持ちが強く、門入の碁所について安井仙角とともに反対の立場をとり、奉行所に「名人碁所は勝負によって決するべき」と願い出て、これを了承されたため、ついに門入の碁所は実現しなかった。

 この時代にも、琉球から棋士の来日があった。名人碁所不在のこの時期、長老格7段の井上因碩が対局の任にあたることになった。かっての道策、道知に比べると明らかに力の劣るものが、国の威信をかけて打った二人と同じ手合で打とうということに無理があり因碩が惨敗した。先例に倣い免状を求められ、因碩は自らを「日本大国手」と称したため以後は琉球側に「日本の名人はこの程度か」と見くびられることになり、この先琉球棋士が来日することがなくなった。

 宝暦4年、伯元は華やかな表舞台にたつような事柄もないまま病気を患い、門下の間宮察元を相続人とするよう願い出るが、時の寺社奉行は「伯元はまだ若いので回復を待て」と差し戻される。しかし、その数ヵ月後に重体に陥り、察元の相続が聞き入れられると、同年、没した(享年29歳)。本妙寺。

9世 察元 (名人)
 (1733~1788)。名人碁所。享年55歳。本妙寺
 三代続いて六段止まりと停滞した本因坊家を継いだ察元に大きな期待が寄せられた。察元は、自らの使命は名人碁所になること、衰退しきった碁界を再び盛り上げることを企図した。その手始めに積極的に対局する姿勢を示して昇段の為の猛烈な運動を展開した。このことが結果的に家元間の競争意識を復活させた。まず7段への昇段を望んだときは、最初「本因坊家は三代続いて不幸続きであり、段位もいずれも6段にとどまっている。是非昇段に同意してもらえないか」と家元会議に持ちかける。しかし、井上家の跡目春達や林家の新しい当主も5段から6段に昇段させて欲しいなどと交換条件を出す。察元は、門入には大差で勝ち越しており、春達は自分との対局を逃げているので一緒にされてはかなわないと逆に断る。難癖をつけて察元の昇段を認めない因碩に争碁を申し込むしかないと迫り、ようやく7段への昇段を認めさせる。7段昇段後は、順調な成績によって7年後に因碩とともに8段準名人に昇格する。このときも、因碩は自分が古参であることを楯にとって同時昇段を承服したくないふうであったが、察元が「実力順では何も問題はない」と押し切っている。

 準名人となってから僅か1年で、察元は念願であった名人碁所を望む。これは、さすがに時期尚早として他家全てに反対される。「実力は認める、しかしまだ若い」という反対の理由に対して、「待つつもりはない。これ以上反対するなら争碁を願い出る」という察元。協議は決裂し、因碩を相手に争碁二十番が行われることになる。因碩は先の秀伯に続いて自身二度目の争碁となる。
察元は端から5連勝し、もう一番勝って打ち込んで勝利宣言をするつもりだったところ、因碩は次の一番を何かと理由をつけて打とうとしない。業を煮やした察元は因碩に負けを認めるように伝えるが、因碩は「まだ六番負け越して打ち込まれたわけではない」と応える。察元はさらに「古くから四連勝した場合は打ち込みとなった例がある」と追求するが、「ならばどうして四連勝の時点でそう言わなかったのか。五局目を打ったのは六番手直りを承知したのではないか」とあれこれ難癖をつける。しかし、因碩が逃げていることは明らかであり、最後の一番を打たないまま勝利宣言が認められて察元は名人位に昇った。但し、力に訴えるやり方が強引過ぎたために、碁所への就任は約3年の調整期間を置いた後になった。

 道知以来の碁所の誕生に、碁界は再び活気を取り戻すきっかけとなった。この点で察元は「碁界中興の祖」として評価される。実際に他家を圧倒的に打ち込んだ実力はもっと見直されるべきだという説もある。察元は、碁所就任を本因坊先祖に墓参して報告するため、江戸から京都寂光寺まで東海道を大名行列並みの豪華さを以って行い、このとき本因坊家の財産の大半を使い果たしてしまったと伝わる。

10世 烈元 (準名人)
 (1750~1808)。享年59歳。本妙寺
 察元によって碁界は活気を取り戻した後は、本因坊の跡を継いだ烈元とその同時代の安井仙知、外家(家元と姻戚等の関係のある系列)から河野元虎、服部因淑など、いずれも華やかな戦いの棋風を持つ棋士が多く、各家ごとにも贔屓筋、後援者の碁会が増えるなど対局の機会が非常に多くなった。烈元は、御城碁の対局数が史上最多の46局あり、毎年「お好み」(正規の御城碁の後に、もう1局指名により対局を組まれる)を行った。察元から烈元までのおよそ30年間のうちに、全御城碁240年約500局のうちの120局が打たれたほどの盛んな時代となった。

 烈元は、59歳で重病に罹り、家督を元丈に譲って隠居しようと考えた。しかし、察元・烈元と2代続けて本因坊家の格式をあげるための出費が多く、お上からもらえる禄はすべてもらっておくという態度だったので、「禄は元丈に渡すが、隠居料を賜りたい」と申し出た。その態度が癇に障ったか、烈元の隠居がなかなか認められず、実際に隠居の手続きが行われるまで5ヶ月間烈元の病死が伏せられた。その反発か、後の元丈は非常な倹約家であったと伝わる。
 河野元虎

11世 元丈
 (1775~1832)。好敵手として安井仙知あり、あえて名人碁所を望まず生涯を終えた。享年58歳。本妙寺
 烈元の跡を継いだ元丈は歴代の名人にも劣らない実力者だった。この時代、元丈と共に名人級と並び称される同世代の安井知得(仙知)がいた。二人は好敵手として80番以上戦いまったくの互角の成績を残している。元丈の華やかで力強い棋風と、知得の渋く地を重視する棋風のぶつかり合いは、好対照を見せながら多くの名局、好局を産んでいる。後世から見て「悪手の見当たらない名局」にあふれている。互いに人格も優れており、「名人は一時代中に抜きん出た第一人者が自然に推挙されるものでなくてはならない」との考えから、どちらも名人になろうという意欲を見せることがなかった。

 元丈は、本因坊家当主を20年勤めた後、家督をあっさりと丈和に譲り隠居する。酒だけを楽しみに、碁界との関わりあいを一切持たなかった。その丈和は名人碁所となるために策略をめぐらせ、知得を巻き込んでいく。知得と終生のライバルであった元丈は、弟子の丈和との争いに何ら口出しをせず、丈和の自由にやらせている。丈和が念願の名人に就いたことを見届けた翌年、世を去っている。
 水谷琢元奥貫智策、外山算節

12世 丈和 (名人)
 (1787~1847)。文政・天保年間に活躍。幻庵因碩との名人碁所を巡っての権謀術策は、幕末の囲碁史を彩っている。享年61歳。本妙寺。生地不詳で、信濃、武蔵国、伊豆、江戸などの説がある。
 江戸時代には棋聖と呼ばれる者が2人いる。前聖が道策、後聖を丈和と云う。丈和が名人碁所を巡る策略や陰謀を用いたことにより、人格高潔で人気のあった秀策の方が人気を得ているが、「碁は戦いである」を地で行く力戦家としての丈和の棋風がもっと評価されるべきであるとするプロ棋士が多い。

 丈和は晩成型の棋士であり、元丈門下には丈和の1歳上に奥貫智策という天才型の棋士がおり、元丈の跡目に目されていた。しかし、跡目に指名される直前、智策は病で没し丈和に跡目がまわってきた。29歳でようやく5段、32歳で跡目となると同時に6段に進み、ようやく遅咲き桜の才能が開花する。丈和41歳の年初、元丈は丈和を7段に進め、その年のうちに隠居届けを出して本因坊家の家督を譲る。翌年の正月に8段準名人に進む。実力的には何ら問題がなかったので他家の異論を挟む余地がなかった。自分の昇段に先立って、数ヶ月前に林元美と井上因碩を7段に推薦していたので、いっそう文句を挟まれるようなことはなかった。

 不幸か幸かこの時代、丈和のライバルに11歳年下の井上因碩(幻庵)がいた。二人の対局は丈和が36歳、まだ跡目のうちの対局を最後として、それ以後はまったく行われていない。丈和が8段への昇段を果たすと、因碩が、自分も8段に上り追いつこうとする。因碩は実父服部因淑を通して丈和に話を持ちかけ、「丈和殿は名門本因坊家の頭領で8段、年齢も脂の乗り切ったところで、いずれ名人碁所を狙うでしょう。林元美は元々同門なので問題ない。しかし安井家は異議を唱えるでしょう。その均衡をなんとかするのは井上家の胸三寸。貴方の地位の足固めとして、因碩の協力を取り付けるために8段に進めてほしい」。丈和は、仙知(知得)の出方がわからなかったが、井上家を敵にまわすよりは良いと考えあいまいに承諾した。因淑は、次に仙知を訪ねて因碩の8段昇段の同意を求める。しかし、仙知は「7段に上ってまだ数ヶ月、その間手合らしい手合は1局も打っていないので賛成しかねる」と返答する。因淑は、「反対されると思ったので争碁の願い書を用意してあります。署名をいただいて、奉行所に提出しましょう」とけしかけたが、これがさらに仙知の逆鱗に触れ、追い帰される。

 丈和は、仙知と因碩が争碁を打って共倒れになればよいと思ったが、因碩の思惑を探ってみると、因碩は仙知と争碁を打つことで勉強をし、老齢な仙知が争碁を打ち切る前に体が参ってしまえば、最高位、最長老の仙知とすすんで争った実績で名人碁所を望もうというものだった。そこで、丈和は仙知と因碩の争碁の前に、林元美を添願人として名人碁所就任願いを提出した。仙知は突然の展開に驚くが、機を見るに敏であった因碩は仙知に相談を持ちかける。「丈和の名人を阻止するには争碁しかない。今、段位で対抗できるのは仙知先生のみ。実力ではまだまだ負けないでしょうが、長い勝負になれば若い丈和の体力にやられてしまうかもしれません。そこで、私が勝負を受けて立って丈和の名人を止めたいと思います。ただ、対抗するためには7段では具合が悪い。対等の8段に昇段させてもらえませんか」。こうして、仙知をうまく話に乗せた因碩は、7段としてほとんど対局せぬままに8段に昇段する。

 いよいよ丈和が碁所就任願いについて碁打衆の会合が行われる。長老格の仙知が、碁打衆全員に丈和の碁所についての意見を求め、内心では因碩が異議を唱えるのを待っていた。しかし因碩は何も言わずにいたため、立腹した仙知は「自分は丈和の名人碁所に承服しかねる。望むなら自分と勝負を打つように」と宣言する。因碩の狙いは、丈和と仙知が身を削る争いで疲れたところで、勝者に勝負を挑み、漁夫の利を得ることでした。寺社奉行から、仙知と丈和の勝ったほうが碁所になることに依存はないかと問われ、因碩は勝ち残ったほうと手合を望むと申し出た。

 しかし、仙知と丈和の対局は凡そ1年間対局日程も決まらずにいた。そこで丈和は因碩に策略の手紙を送る。「このままの状態では、元丈知得時代のようにどちらも名人になれずに終わる。碁界安定のためにも碁所の長期不在を避けようではないか。まず、年長である自分が名人となり碁所に就任し、6年後に因碩殿に譲るという話はどうだろうか。条件としては、自分の名人を推薦する一文を書くこと、名人碁所を譲るときに因碩殿から金二百両を差し出すこと。約束実行のために互いに実子を人質として預けること」。因碩は、二百両の支出は痛いし、6年待つことは自分にとって不利な条件ではあるが、11歳の年齢さはあるし、6年目以降は自分がずっと名人でいられると考え、丈和の申し出を受ける。

 書面による因碩の推薦状を添えて名人碁所を願い出た後、丈和は因碩との人質交換の約束を無視する。丈和に騙されたと気づいた因碩は改めて勝負を挑むが、推薦状を書いたことから丈和に取り合ってもらえなかった。因碩は「推薦状は書いたが、その後自分は腕をあげ、肩を並べる実力をつけた」と主張する。奉行所は長老仙知を呼んで相談する。「二人とも腕は十分といっているのだから、争碁を打たせて決めたらよいでしょう」と、二人にささやかな仕返しをした。丈和は名人になれると思ったところ、また先延ばしにされ、しかも因碩と争碁を打つことになるのは並の苦労ではないと元美に相談する。元美は、「自分は水戸藩の出身で藩には相当顔がききます。隠居翠翁に頼んで口利きをしてもらいましょう。その代わり、名人となったときは自分を八段に昇段させてほしい」と約束し、丈和は争碁を打つことなく名人碁所に就任する。

 丈和が名人となってからも、因碩はだまされた悔しさもあり、なんとか丈和を引き摺り下ろす機会を狙っていた。そこで因碩が一計を案じたのが、碁好きの大名を動かして、各家元総動員で大きな碁会を開催してもらい、その席上で世間の注目する組み合わせとして丈和との対局を組んでもらうことだった。こうして因徹吐血の局として有名な対局が組まれる「松平家の碁会」が催される。

 因碩は松平家の大碁会を前にして、一番弟子の赤星因徹と練習対局をした、因徹の成長が著しく因碩が白を持って大苦戦をするようになっていた。そこで因碩は、今度の碁会で丈和に当たるのは自分ではなく因徹にしようと考えた。おそらく丈和も苦戦するに違いない。8段の自分より7段の因徹に敗れれば「7段の先に完敗するとは名人の資格が問われる」と話を持って行きやすい。こうして、松平の碁会では丈和に因徹があたり、序盤は井上家秘伝の大斜の奇手により丈和が苦戦するが、中盤になって「丈和の三妙手」といわれる好手で逆転。因徹は師の頼みを果たすために難局打開策を練り続け、遂にそれもかなわぬ無念さから盤上に吐血して倒れ、命を落とす。

 因碩を退けたものの、数年して丈和にもうひとつの問題が持ち上がった。自分が名人碁所となったら元美を8段に昇らせるという約束を実行しなかったために、元美は口利きをした水戸藩に面目を失った。元美は碁打衆とはいえ武家の出であり、武士としての恥をそそぐべく、丈和に争碁を申し込む事態となった。丈和は無視を決め込むが、元美から命に代えてもと争碁を申し込まれたり、もともとの強引な名人就任が影響して、早いうちに碁所隠居をしなければならない状況に追い込まれることになった。
 水谷琢順、伊藤松和、水谷琢廉

13世 丈策 (上手)
 (1803~1847)。享年45歳。本妙寺
 丈策は十一世元丈の実子。十二世丈和は歴代の本因坊家の中でも晩成型であり、跡目候補でありながら早逝した奥貫智策の後、多くの弟子の中から自分を見出してくれた元丈に恩を感じていた。それ故に、丈策に自分の後を継がせ、その後に秀和を跡目として据えたのは、本因坊家としての公と、恩返しの私を両立させた最善策であった。丈策は、当時の碁界で人格者として知られていたが、段位は6段程度、本因坊家当主としてお情けで7段に上げられていたという。丈和が隠居したあと、因碩が名人碁所を願い出ることは予想されていたが、そのときに反対して争碁に持ち込むのが当主である自分ではなく、跡目、部屋住みの秀和を当てようとしたところ、秀和の実力を知り、争碁を避けたい因碩に「当然当主が出るべき」と反論され、その重責からか病気と称して引きこもり、後に、秀和に全てを託し引退する。
 宮重策全、勝田栄輔

14世 秀和 (準名人)
 (1820~1873)。享年54歳。本妙寺
 秀和は、因碩の名人願いを阻止し、幕末のあわただしい時期に碁界を維持し、明治になってからは碁打衆の生き残りのために奔走した。そのために、十分な力量がありながら名人となるべき時期を逸してしまう。名人に比肩する力量を持ちながら、名人となるべき時を得なかった元丈、知得、幻庵因碩、秀和は後年囲碁四哲と呼ばれるようになる。

 丈和の隠居後、因碩は直ちに名人願いを提出、誰か一人を指名して因碩と争碁を打たせるよう命じられ、秀和に2ヶ月間に4局の対局が命ぜられた。この争碁第1局は秀和の完勝。因碩は秀和の成長に驚き、また自身も高齢による体力の衰えを感じる。このまま争碁を続けることは得策ではないと思った因碩は、病気を理由にいったんは碁所願いを取り下げ争碁を中止する。その2年後、因碩は体調を回復し再び碁所を狙う。しかし、前回自分から取り下げた願いを簡単に再度出すわけにいかない。親交のある旗本に頼んで碁会を催してもらい、そこで再び秀和と対局する。秀和としても、もしこの碁を負けると、因碩が再び名人就任を申し出ることを予感して対局に臨む。この碁は因碩が秀和に白を持っての名局で、1目及ばないと読んだ因碩が勝負手を放ち、秀和はこれを能く凌いで勝利を収め、二度目の因碩名人願いを阻止する。同じ年の御城碁で因碩と秀和は三度目の勝負を行う。因碩は最近7年御城碁を勤めていなかったが、突如復帰し、正規の対局で算知と打った後、お好みで秀和との対局を望んだ。しかし、この碁も秀和の完勝に終わり、ついに秀和は三度因碩の名人願いを阻止した。名人となる時を得なかった因碩は晩年本因坊家と和解し、跡継ぎのいない井上家のために丈和の実子を養子にもらいうけて自分の跡継ぎとした。

 因碩(幻庵)が没し秀和はいよいよ名人碁所を願い出る。しかし、そのときの老中が井上家の旧主筋であったため結論を先延ばしされ、ついに却下される。その年、秀和は御城碁で十四世因碩(松本因碩、幻庵の二代後)と対局することになり、井上家の反対を沈黙させる絶好の機会を得た。これまでの実績から考えれば秀和が白でも負けるなど考えられない相手であったが、この1局に限って「幻庵が秀和の名人を阻止せんと乗り移ったのではないか」と言われるほどに因碩の出来が良く、ついに1目及ばず、秀和の名人は実現しなかった。

 以降は、幕末の政情不安定な時期に入り、コレラの流行で跡目秀策を亡くし、御城碁も中止となる。秀策を失った痛手は大きかったが、その後に秀甫がいた。秀甫の成長は著しく、これで本因坊家も安泰かと思った矢先、丈和の後妻の口出しにあい、秀甫は本因坊家を出奔する。有望な後継者を失い、秀和は本因坊家の跡目に実子の秀悦をたてる。

 明治維新後、幕府の禄を失った棋院四家は、俄かに窮乏状態となり、本因坊家より出火して周囲数十戸が類焼。失意の秀和は明治6年に没した。

 秀和跡目/秀策
 (1829~1862)。本因坊秀和の跡目となる。秀策流布石を始める。秀和より先に夭折したため本因坊にはなれなかった。享年34歳。本妙寺
 秀和の跡目となりながら、34歳で病死し本因坊を継ぐことができなかったにも関わらず、秀策は歴代本因坊の中で最も著名な棋士である。幼少から碁に関する逸話も多く、泣いても碁石を与えれば泣き止んだとか、折檻で押入れに閉じ込めたら中にあった盤石で棋譜を並べていたというような話が伝わっている。その天才ぶりは事実で、幼くして藩の有力者の後ろ盾を得て本因坊家に入門。隠居していた丈和と入門の3子局を打つ。この碁は打ちかけとなったが、丈和は秀策の才能を見て「これぞ150年来の天才。坊門の勢いは大いに増すだろう」と語ったといわれる。150年来というのは、道策以来だという最大級の賛辞だった。

 期待通り成長した秀策は、秀和が当主に就いた直後に跡目となり、いよいよ御城碁への出仕を果たす。秀策は、13年間に19局の御城碁を打ち全勝するという快挙を成し遂げている。但し、途中林家跡目柏栄との3子局が組まれそうになったときは、柏栄が林家を継いでからにしたいと断るなど、本人も全勝を意識して置碁を避けたフシもある。

 当時秀策が愛用した黒番で堅実な勝ちを目指す布石は秀策流と呼ばれ、庶民にも愛されたが、江戸の大火とコレラの流行によって御城碁は中断、直後に生母を亡くし、失望感を紛らわすかのごとくコレラ患者の看病にあたり、自身も感染して命を落とすことになった。
 小澤三五郎

 15世/秀悦
 享年41歳。
 秀和は、跡目秀策が亡くなったことを大いに悲しんだが、そのころ既に秀甫が著しい成長を見せていたので、改めて秀甫を跡目としようと決めていた。しかし、丈和の未亡人で秀策の義母でもある勢子が秀甫を嫌い、秀和は秀甫跡目をあきらめざるを得なくなった。代わって跡目に付いたのが秀和の長男で14歳3段の秀悦。秀悦は、名門本因坊家の存続のために精進をつづけたが、十五世を継いでから5年、ついに重圧に耐え切れずに精神に異常をきたし、退隠せざるを得なくなった。

 16世/秀元
 (1857~1917)。幕末から明治維新の混乱期に遭遇。囲碁はあまり強くなかったようだが、混乱期に二度のお勤めで本因坊家を守る。享年64歳。本妙寺
 秀悦が急に隠居することになり、秀和の次男で林家養子となっていた秀栄と、三男の百三郎(秀元)が話し合った結果、次の本因坊は秀甫しかいないということになった。そこで、坊門の中で丈和の三男である中川亀三郎を通して秀甫に襲位を打診するように頼むが、亀三郎は、「まだ秀悦が回復しないとは限らない。もしものことがあれば百三郎に継がせればよい」と言って了解しなかった。秀栄は、百三郎をたてて跡目とすることに決めたが、それを推薦した亀三郎が、実は、自分がいずれ本因坊の跡を継ぐ野心を持って秀甫に話を持って行ったと聞いたために憤慨する。亀三郎は前言を翻して、秀甫を跡目にしようと言い訳をするが、それがいっそう秀栄を怒らせる。

 秀甫は、周囲に振り回されて結局は本因坊家を去ることになり、百三郎が秀元を名乗り十六世を継ぐ。しかし、秀元は兄弟のなかでもっとも才能に恵まれず、本因坊となったときは3段。碁会においても、他家の高段者に「お茶を入れてくれ、煙草盆を頼む」と用事をいいつけられて、それを憤慨しても「いや、昔からの癖がでただけだ」などとあしらわれる始末だった。4段から上がることがなかった秀元には本因坊家当主の席は相当の重圧であった。低段の本因坊を見かねた秀栄は、林家を断絶させて本因坊家に戻り、弟の秀元を強的に隠居させて、自分が十七世を継ぐ。秀元は、無理に本因坊に据えられたかと思うと、今度は急に剥奪され、兄の秀栄の身勝手に怒り兄弟はずっと不仲であったという。

 17世/秀栄
 享年56歳。
 秀和には3人の息子がいた。幼少時代、3人が並んで対局しているのを後ろで見ていた秀和に、ある人が問いかけた。「3人の息子の中で誰が一番才能がありますか?」。すると、秀和は黙って次男の秀栄を指差したという。しかし、本因坊家には、秀和の9歳下の跡目秀策、さらにもう9歳下には弥吉(秀甫)がいて、長期安定と思われたため、秀栄を跡継ぎのいない林家に養子に出し、林家十三世を継がせた。

 本因坊秀悦の時代に、秀甫が囲碁研究会「方円社」を設立。研究会という性格から棋院四家も利害関係なく参加した。方円社参加と時期を同じくして、秀悦の精神病により、本因坊交代の必要が生じたが、秀栄が考えたのは、ここで自分が本因坊家に戻ると林家は断絶、家元の減少によって勢力が弱まり方円社に飲み込まれかねないとして、弟の秀元に継がせようとした。しかし、棋力3段の本因坊は他家元から軽んじられ、秀元本人も上昇志向がなく、秀栄に対しては無理に本因坊に就かされた恨みを持っていた。

 秀栄は、いくつかの運動をおこし、江戸時代からの序列に従い、方円社での席次も本因坊を最上席とさせたり、段位の発行は家元の独占とし、方円社には認めないなどを徹底した。秀甫をはじめ方円社の幹部がそれにおとなしく従ったのは、家元の窮乏状態に比べ、方円社は後援者も多く財政的にひじょうに豊かであったため、名を捨てても実を取ったからである。しかし、方円社の手合において段位制、昇段制が表せないことは実際に弊害が多く、後に方円社は免状発行に踏み切る。それも方円社と家元間の仲を裂く一因となった。

 しかし、方円社が多くの後援者を得て発展するにつれ、その運営資金の活用の一切を秀甫が取り仕切ることなどに不満を抱き、両者は分裂する。現実に分裂してみると、本因坊家の窮乏をはじめ、各家元の存亡の危機が迫る。また、林家では先代柏栄の未亡人が財源の一切を押さえており、財産を使い果たしてしまったため、秀栄は林家の断絶を決断して本因坊家に戻り、秀元を半ば強制的に若隠居させて十七世を継いだ。

 本因坊家を継いだといっても、特に復興の手段もない秀栄に、明治維新の影の実力者であった後藤象次郎は、本因坊を再興し存続を目指すなら、実力において時の第一人者に委ねるのが最善であると説得する。さらに井上毅、金玉均らの説得によって、5年ぶりに方円社の手合に参加し、秀甫と和解して対局することになった。

 それから、方円社の定例会で連続して対局(最終的に10番続けられたので、後に「和解の十番碁」などといわれる)。秀栄秀甫の対局は8局目まで秀甫の5勝3敗。このまま秀栄が連敗すると手合直りとなってしまう心配があった。手合を直されたうえに本因坊が移動すると、あたかも力で奪われたかのような印象を与えかねない。8局めを打ったあと、秀栄はしばし期間をあけて、本因坊の座を、実力第一位でる秀甫に譲ることを真剣に検討する。秀栄必死に第9局を勝ち、なんとか打ち込みを逃れた。

 秀栄は、ついに本因坊の禅譲を決意するが、本因坊家の存続と権威の維持を求めて条件をつけた。
1、家元協議による段位制度を、方円社に適用すること
2、方円社の発行する段位免状に、本因坊の署名を必要とすること
3、秀甫の後、本因坊継承者は、血族やしがらみなく、実力において決定すること
また、この3項以外にも、本因坊当主は方円社社長を兼任することを約束し、本因坊家の存続を秀甫に託すことになった。

 秀栄はまず、秀甫の方円社段位である8段を本因坊の名で正式に認め、そのうえで本因坊を譲った。それを受けた秀甫は直ちに秀栄を7段にすすめた。こうして、第10局が打たれたが互いの襲位と昇段の立場を公に披露する形となった。しかし、秀甫が本因坊として対局した碁はこの1局のみで、襲名披露などの会を催す間もなく3ヵ月後に急逝し、秀栄は再び本因坊家再興に立ち上がらなければならなくなった。

 18世/秀甫
 (1838~1886)。享年49歳。本妙寺
 江戸末期、本因坊家に入門し、当主秀和、兄弟子秀策というこれ以上ない環境で秀甫の才能は開花した。「秀和の円熟期に白を持って打ったのは秀甫ただ一人(秀策は先互先の手合となっても白を持つことはなかった)であり、晩年の秀和も「もし秀策が生き永らえたとしても、今の秀甫にはかなわないのではないか」と認めていたという。

 秀策の急死で、坊門を継ぐのは秀甫と自他共に認められるだけの実力を持ちながら、丈和の後妻で秀策の義母でもある勢子に嫌われた為に跡目となることを了解されなかった。秀和はせめて秀甫の不満を和らげようようと、秀悦を跡目に立てるのと前後して秀甫を7段に昇段させる。7段となれば剃髪して御城碁出仕に備えることになるが、御城碁は秀策の存命中を最後についに再開されることはなかった。失意の秀甫は明治維新以後まで何度か放浪の旅にでる。

 明治11年、秀和の跡を継いだ秀悦が精神の病で退隠せざるを得なくなったとき、秀悦の兄弟である秀栄、百三郎(秀元)の間では、改めて秀甫に本因坊を継いでもらうという話が持ち上がった。そのとき秀甫に話を持っていく使者となった丈和の三男中川亀三郎は、自らも本因坊家を狙う野心を持って秀甫に接触したため、これを知った秀栄は百三郎を立てて本因坊を継がせた。

 本因坊の後継の話がありながら、それを反故にされた形になり、秀甫は失望と不信感から本因坊家を出た。秀甫は当時の第一人者としていう自負があり人脈も豊富だったので、後援者を得て囲碁研究会の組織として方円社を設立した。毎月、定例手合を行い、その棋譜を秀甫の解説付きで機関紙「方円新報」に発表するなど一般大衆に広く受け入れられた。

 棋界第一人者である秀甫を中心とした研究会に、棋院四家も利害関係を超えて参加した。しかし、方円社の定例手合を機関紙「囲碁新報」に発表するときになって旧来の席次が守られないことに家元側が難色を示した。序列は江戸時代からの慣習に従い、本因坊家当主を最上席、次に各家元が襲位の早い順、各家元の跡目とするよう要求を呑ませていた。また、段位は家元のみが発行権を持ち、方円社がかってに段位を決定することを許さなかった。秀甫は長年の格式には何のこだわりもなかった。方円社の経営は自分の手にあったので、あっさりとこれに従い、序列の訂正、方円新報には段位を掲載しないこととした。ところが、段位については手合の都合上問題があったため、「今後は段に代えて独自に級位制とする。海外普及をするにも、ナンバーワンというように1が上位とするほうがわかりやすい。従来の初段を9級、名人(九段)を1級とする」級位制度を打ち立てた。

 経営の実権を持つ秀甫の自由な振る舞いに、秀栄を中心とした家元側は方円社から離脱することを決める。方円社には既に秀甫の下で学びたいという俊英が集まっていた。政財界の有力な後援者も得て、家元側の離脱は何の問題にもならなかった。しかし、本因坊家の名を惜しむものから、過去の功績とその延長上に現在の碁界があることを説かれ、家元側との和解を決意する。5年ぶりに方円社の定例碁界に出席した秀栄に、「しばらくぶりであるし第一人者同士として10番ほど続けて打たないか」と持ちかけ、世に言う「秀甫秀栄の和解の十番碁」が打たれることになる。しかし、この十番碁の途中、秀栄は秀甫に定先で勝ち越すことができず、いろいろと悩んだ結果、周囲の勧めもあって本因坊家を存続させるためには碁界の第一人者を充てるべきであるとして、秀甫に本因坊を継いでもらうことを決意する。秀甫は、喜んでこの話を受け、秀栄の提示した条件「方円社の級位制を段位制に戻すこと」、「方円社の発行する免状は本因坊の連名とすること」、「以後、本因坊の継承者は、血縁や私情をなくし、実力第一位のものとすること」を快諾する。もうひとつ、非公式の条件として「本因坊が方円社の社長を兼任する」ことも了解して、秀甫は晴れて十八世本因坊となる。

 本因坊襲位に先立ち、秀栄は十七世本因坊として、秀甫の8段を正式に認めた。十八世本因坊となった秀甫は、秀栄を5段から6段を飛ばして7段に昇段させた。こうして、本因坊の立場が入れ替わって十番碁の最終局が打たれた。しかし、秀甫が本因坊に就いてから3ヵ月後、盛大な襲位式の準備までしていながら秀甫が急死した。秀甫が本因坊として対局したのは結局秀栄との十番碁最終局のみであり、これが秀甫の絶局となった。この急展開に秀栄は混乱のなか再び本因坊家を支えなければならなくなってしまう。

 19世/秀栄
 (1852~1907)。名人の中の名人といわれた。56歳。本妙寺
 (再襲)秀甫の死によって再度本因坊となった当時の秀栄は、再襲ではなく十七世本因坊として事態を収拾して後継者を定める心積もりがあった。碁界の第一人者が本因坊、また方円社社長となることを秀甫と約束したことから、秀栄は方円社の次席である中川亀三郎と勝負碁を打つことを希望した。しかし、中川と方円社側は、勝負碁を打たずに中川亀三郎に全て相続させるべきといい、秀栄と秀甫の和解の労を取った後藤象次郎も方円社の側について秀栄の説得に回った。秀栄はあくまでも勝負によって決めることにこだわり、中川は勝ち味の薄い勝負を避けて方円社社長の地位だけは守ろうとして、自分は本因坊家を継ぐつもりがないと勝負を辞退し、直ちに方円社の2代目社長に就いた。これによって、秀甫と約束した本因坊と方円社の関係は永久に失われることになった。そして正式に秀栄が本因坊を再襲、十九世となった。

 秀栄は秀甫との十番碁を経て才能が開花し、同志と「囲碁奨励会」を発足。その組織を発展させて月例手合と後進の指導を目的とした「四象会」を立ち上げた。すでにこの頃は第一人者となった秀栄の下には多くの弟子が集まっていた。その中にはかっては方円社の塾生であったもの多く、後に21世秀哉となる田村保寿もいた。秀栄は、明治38年に周囲の後援筋の薦めにより名人に推挙された。江戸幕府の碁所と関係のない初めての名人が誕生し、「日本囲棋会」を設立して碁界の統一を目指す。しかし、秀栄も秀甫の死と同じように「これから」というときになって世を去ってしまう。名人就位から7ヶ月後のことであった。晩年は後継者選びに苦慮し、芸の上では田村保寿(後の秀哉)が自分に最も近いと認めながらも、人格面で相容れないものがあり、一番に目を掛けていた雁金準一が、なんとか田村を追い抜いてくれないかと期待していた。後継者を指名しないまま亡くなったことで、また継承者問題が発生することになる。

 20世/秀元
 (1857~1917)。享年64歳。
 (再襲)秀栄が亡くなると、本因坊一門は、秀栄が後を継がせたいと思っていた雁金準一を擁立する「秀栄未亡人まき子派」と、それに反発し実力第一位の「田村保寿派」に分裂する事態となった。収拾がつかなくなった一門を収拾するために、田村に「隠居秀元がいったん跡を継ぎ、本因坊当主の資格をもって田村に譲ればよい」と提案し、納得させる。このとき、雁金は段位の上で6段、田村には及ばないために、すぐに本因坊を継がせること自体に無理があったため、秀元が立てば、秀栄の弟でもあるし誰も反論することができない。秀元自身は、第一人者でないものが本因坊家の当主につくことの不都合を身をもって知っていた。こうして、事態を落ち着かせた後、秀元は改めて自分の意思として、実力の通り田村を次の本因坊に指名した。

 21世/秀哉
 (1874~1940)。名人。彼は本因坊の名跡を日本棋院に寄付し、それ以降、本因坊の称号はタイトルとなった。享年66歳。本妙寺。
 秀哉は、秀栄があらゆる棋士を先二以下に打ち込んだなか唯一定先を維持し、本因坊となってからは勝負碁にことごとく勝ちを収め、不敗の名人と云われている。但し歴代の名人に比べて評価がいまひとつなのは、かつての秀栄が玄人好みの手厚く落ち着いた芸風であるのに対して、力戦派で泥臭い印象があり、孤高の棋士として人当たりが悪かった面があるためかもしれない。

 田村保寿(秀哉)は初めは秀甫の方円社の塾生となった。しかし、方円社ではさしたる実績もなく免状さえ発行されなかった。秀甫が亡くなり、二代目社長中川亀三郎の時代になっても田村は入段も許されず、方円社と家元側の段位(方円社は級位)の食い違いなどを見ていた田村は棋士としての生活に嫌悪感を抱いて方円社を出た。とはいえ、子供のころから囲碁一本の生活をしてきた田村が、いまさら別の生き方ができるわけもなく、かといって飛び出した方円社に戻ることもできなかった。自力で囲碁指南の稽古場を開いたものの、19歳無段の少年棋士に習いにくることもなく、方円社時代に顔見知りとなった金玉均に頼んで秀栄に引き合わせてもらった。秀栄は田村と3子で3番打ち田村が3連勝。手合を直した2子番も勝ちを収めた。田村は秀栄に「何段が欲しいか」と聞かれ、5段が欲しいと言いかけて不遜と思われてはいけないと4段を願い直ちに許された。

 秀栄の晩年、周囲の全てを二子から先二まで打ち込んだなか田村ひとり先で拮抗していた。しかし、秀栄の他の弟子に比べて田村は秀栄との対局が少ないのは、実力的にただ一人自分を追うものだけに段々と気軽に打てるような相手ではなくなってしまったということと思われる。田村は秀栄との対局はなくとも、他の棋士を秀栄と同じように打ち込んでいたので、秀栄が8段となるときに田村を6段に進め、さらに7段にすすめて「田村7段の先を維持できる自分は9段すなわち名人である」と無言の主張をする布石を敷いたと言える。

 最初は、秀栄に目をかけられていた田村は、その性格的な面から次第に疎んじられるようになる。田村は己の利害に正直に従い、自分の力のみを信じ、秀栄の生き方と正反対だったので、実際にその棋力が秀栄に近づいたときに、ときおり見られるようになった驕慢な態度が秀栄には受け入れられなかった。秀栄の目は将来性に期待していた雁金準一に向けられるようになった。雁金は実力で田村に及ばないものの、律儀な態度と礼儀正しさが気に入られた。また、田村の行動は何かと秀栄と衝突した。特に、田村が安井家の養女目当てに頻繁に安井算英の自宅に出入りすることで、田村は本因坊家の跡継ぎとして当てにはできないのではないかと考えるようにもなった。

 秀栄は名人となった年の秋から結核にかかり、跡目の問題が現実味をおびてきた。雁金がなんども見舞いに訪れるのに対して、田村は見舞いも拒否され、秀栄あてに手紙で不満をぶつける。「実力順なら自分が跡目に定められないのはなぜか。自分を見限って、方円社から転じて2年程度の雁金に鞍替えするつもりか」。秀栄自身も、雁金の才能を信じているものの、現状の実力ではまだ田村に及ばないことはわかっていた。死の直前、雁金を6段にまで進めるが、跡目の指名までは躊躇したものか、まもなく秀栄は世を去った。

 ここで跡継ぎについて、秀栄の意向であるとする雁金派と、実力順でなるべきという田村派に分かれ、前述の二十世本因坊秀元を経て、二十一世秀哉が誕生する。秀哉は8段準名人に上り、大正期の碁界で敵するものはすでになかった。しかし、秀哉の最終目標は名人とともに碁界の統一にあった。秀哉に定先を保っていたものは、広瀬平治郎、雁金、内垣末吉の3名。広瀬は健康上の理由で手合を避け、雁金は対局が実現しなかった。内垣一人ががんばって入るけれど、芸で対等に立ち向かえるものがいない以上は、秀哉の名人は誰も妨げることはできなかった。

 秀哉が名人となった当時、林、安井家はすでに断絶し、井上家は関西に移住してかろうじて存続していた。井上家では十五世因碩の没後の跡目に、本因坊を継げず手合から遠ざかっていた雁金を立てようとするが、井上一門の恵下田栄芳が強く十六世を望んでいることを知ると、跡目争いから降りてしまう。しかし、この1件から雁金は手合に戻る気持ちがわいてきた。広瀬平治郎が5代目社長を務める方円社に復帰し、16年ぶりに秀哉と3局の手合が組まれ1勝1敗1打ち掛けとなった。

 秀哉にしてみると、自分を含め修行時代のライバルたちも、すでにうち盛りを過ぎたものの手合よりも、これからのスター候補、鈴木為次郎、瀬越憲作らが後から迫ってくるのをかわすのに苦労、秀哉としては、必然彼らとの対局を避けるようになった。

 鈴木、瀬越に続いて、方円社の広瀬が参加し、彼らが中心となって交流手合は一般的になってきた。若手の彼らは、過去のいきさつにこだわって閉鎖的になっている状態を憂慮し、碁界統一へ橋渡しをしたいと考えていた。刺激を受けて、本因坊家、方円社の若手合同による研究会「六華会」が発足。最初6人から始まったが、最後に日本棋院に参集するさいには22名からなる研究会になっていた。

 大正10年には、秀哉名人を中心に具体的な碁界再統一運動として「日本囲碁協会」案が持ち上がった。しかし、秀哉は別格として、その他のものは手合の成績に関わらず同段は同格という不当に平等な扱いを強いられていたので、一部の棋士が独自の研究会である「裨聖会」が組織された。最初の会員は、雁金、鈴木為次郎、高部道平、瀬越憲作の4名。裨聖会は、総互先制、白番打掛特権の廃止、点数制の採用など、革新的な会とし、秀哉に「逃げずに勝負しろ」と迫った。

 裨聖会に設立は、日本囲碁協会の発足に水を差したが、代わって、裨聖会によって有力会員を失った方円社と秀哉が合同して、「中央棋院」を設立する。しかし、わずが3ヶ月で仲間割れ、方円社側の脱退によって、碁界は本因坊家、方円社、裨聖会の三派に分裂した。

 そこに大正12年関東大震災が起こり、各派は全ての基盤失ってしまう。これを機に、碁を打つことしか知らぬ棋士が生活するためは大きな一つの組織に集合するしかないと、財閥大倉喜七郎男爵に援助を頼み、日本棋院が創立された。

 しかし、創立の直後、規約違反により雁金、鈴木、高部の元裨聖会、それに加藤信、小野田千代太郎が除名される。理由は、日本棋院の棋譜は各新聞者と契約して抽選で配給することにしたのに、そういう統制を不満に思っていた報知新聞社と、積極的に棋譜掲載を望む棋士が合同した。彼らは、報知新聞の後援を得て「棋正社」を立ち上げた。後に加藤、小野田が復帰し、3人となった棋正社は、読売新聞社長正力松太郎を介して、棋正社と日本棋院の対抗戦主催を持ちかける。正力は、新聞の購読部数を伸ばすために一発当てようと思っていたところ、この企画に飛びつき、棋院と棋正社の対抗戦を実現させる。

 院社対抗戦として名高いその緒戦は、いきなりの大将決戦。秀哉と雁金から始められた。秀哉の石取り碁として著名な1局は、専門棋士の碁ではめったに見られない大攻め合いとなった。大一番で秀哉は安全で息の長い勝負を選ばす、猛然と雁金の黒を取りに行き、互いに20目以上の大石が攻め合いとなり、この棋譜を見るために掲載新聞は発行部数を伸ばし、どちらが勝つかが社会的な関心事にまでなった。結果は、攻め合いを制した秀哉が雁金の時間切れで勝利(盤面でも優勢だった)し、2戦目以降は、秀哉は退いて棋院の精鋭代表と棋正社の勝ち抜き戦が行われ、しかも段割りの手合であったために、あきらかに棋院側の若手に分があって、結果は棋正社の惨敗。途中、小野田も棋院に復帰して、棋正社は、雁金一門と高部だけになってしまった。

 棋正社を退けて、日本棋院は囲碁の総本山としての基盤が徐々に安定してきた。昭和2年、従来の定式手合を廃し、朝日新聞をスポンサーとする大手合が始まる。棋士の成績や、誰が昇段するかなど、一般の囲碁ファンに広く目に触れるようになり、木谷、呉清源の新布石や、読売の選手権戦で優勝した呉清源と、秀哉の記念碁(呉が1手目三々、3手目星、5手目天元に打ったことで有名)などをきっかけに、各新聞社は囲碁欄にスペースを割くようになった。

 東京日日新聞は、碁と将棋の両方について名人戦を企画したが、将棋の十三世名人関根金次郎はすぐに時代の流れを感じて納得したが、囲碁界は段位と手合割の格式が厳しく、総互先の選手権には最初納得しなかった。そこで、故意に段割りによる選手権戦を二度開催して、4段と6段の優勝者が出るという現実を見ることによって、「実力第一位を決めるのに、段割りでは上のものが損だ」ということを納得させた。

 しかし、なおも優勝者の称号について秀哉は「名人」ではなく「本因坊」の名跡にこだわった。日本棋院の創立間もないころ、秀哉は跡目にと期待していた小岸壮二を病気で失っていた。小岸亡き後、本因坊の跡目に悩んでいたところに名人戦の話があり、是非、本因坊の名跡を選手権で勝ち抜いた最高実力者に継がせたい。日本棋院の若い棋士はみんな自分の弟子のようなものだ、と考えた。こうして、本因坊の名跡を新聞社が買取り、日本棋院に寄贈しこれを争奪する選手権戦を開催することになり「本因坊名跡争奪全日本専門棋士選手権大手合」と名づけられた。

 選手権戦に先立って世襲制最後の本因坊/秀哉の引退式として記念碁が行われた。引退碁の対局者は選抜戦を勝ち抜いた木谷實7段。持ち時間各40時間、初めて封じ手制度が用いられた。打ち継ぎ15回、途中秀哉の病気入院による3ヶ月の中断もあって6ヶ月にわたる長期対局となった。秀哉は木谷7段の先を向こうにまわして中盤までは形勢不明だったが次第に十分な体調では打てなくなる。そんな中で木谷の封じ手を「時間ツナギの命令手を打って、休みの間に研究しようとした」と決め付け、冷静さを欠いた一手の失着によって形勢を損ねた。昭和13.6月に開始された引退碁は同年12月、木谷7段の5目勝ちに終わった。木谷の消費時間は34時間。秀哉も約20時間を使い、最後の勝負碁で精根尽き果ててしまい、その約1年後、新しい選手権戦による本因坊の誕生を見ることなく世を去った。






(私論.私見)