ハンドルネーム匿名挨拶是非考

 (最新見直し2006.9.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2006.9月現在何度も体験した事をこの辺りで検証してみたい。それは、れんだいこというハンドルネームに起因しているのであるが、仮にれんだいこが著作権がらみの挨拶でメールを送った場合に、相手から、「名を名乗れ」と難詰されることがしばしばある。こちらは何も、相手先に売り込みしようとしている訳ではない。最近の著作権論に拠ると、被引用、被転載者に対して承諾取り付けることが望ましいとのことであるので、れんだいこの考えは違うが無用な摩擦を避けるために挨拶メールを送っているというのが実際である。好意的に紹介している場合もあれば逆の場合もある。文面は決して失礼なものではない。

 ところが、承諾云々の前に「名を名乗れ」とくる。どうやら、「実名告知」がこれまた要件になっているらしい。これをクリヤーすると、はたまた何ぞのハードルが待ち受けているのか知らん。気難しい者は、一つハードルを越せば次のハードルを設け、どんどん小難しくしていくのだろう。そうして自縄自縛に陥るのだろう。れんだいこには容易に見えることである。

 「実名を名乗れ」は果して正当な要求だろうか、これを本サイトで検証してみたい。

 2006.9.19日 れんだいこ拝


【ハンドルネーム考】
 ごく普通に考えて、ハンドルネームというのはどういう意味目的で使われているのだろうか。恐らくそれは、インターネット通信媒体の性質機能を踏まえて生まれているのではないかと考えられる。即ち、見ず知らずの者が、互いに氏名、身分、身元確認なしに情報交差の遣り取りそのことに意味を見出して、利用しあおうとするところからハンドルネームが生まれているのではなかろうか。インターネット通信はこれに打ってつけの媒体である。2チャンネル当りで「名無しさん」が共有されているのは、こういう事情によるのではなかろうか。

 れんだいこは「名無しさん」を使うことは無いが、それが良いとも悪いとも思わない。誰がよりも何をを重視する情報共有の仕方だろう。れんだいこはハンドルネームを当初「れんだいじ」と名乗った。或る時、「れんだいこ」も面白いと思い、今は「れんだいこ」で通している。別に「れんだいじ」を捨てた訳ではない。ヤフー囲碁の場合、ハンドルネームは確か5つまで認められている。たくさん持つことで悪用される場合も有るが、善用もあり、一概に良し悪しは云えない。いずれにせよハンドルネームを持つことは楽しいことであって逆ではなかろう。

 ハンドルネームの他にも芸名とかペンネームというのがある。本名が親から貰ったものに比して、ハンドルネーム、芸名、ペンネームの場合には自分が納得して使用し始めたものだから、これはこれで本名と又違う愛着がある。れんだいこはそのように考えている。

 ところで、実名とハンドルネーム、芸名、ペンネームの使い分けは、その人の自由、自主、自律的基準に任されていると云うべきではなかろうか。仮に挨拶メールを送るとして、要件だけ記す場合もあれば、メールを送るに至った事情まで記す場合もあろう。それは、送り手の自由采配のことで、送られた側が何かと要求すべきことであろうか。れんだいこの場合、知らぬ者から長々としたメール文送られてくるのは迷惑な場合さえある。簡潔に要点を記したもので十分で、双方が更に交流しようとすれば、それから追々自己紹介していけば良いのではなかろうか。その方がよほど実践的と思っている。
 以上を踏まえて、以下の考察に入る。れんだいこは、掲示板でもメールでも、やりとりりする場合にハンドルネームで行って悪いとは少しも思わない。ところが、「私の本命は誰兵衛で、凡その素性はかくかくしかじか」と名乗れ、非礼であると云う者がある。しかし、そういう事を要件とすべし論を唱える者は、インターネット通信媒体の性質機能を弁えない、むしろこっちの方が失礼者ではなかろうか。次のように云う。
 「まず、あなたはいったい何者なのですか? わたしは長年ジャーナリズムに携わってきた人間として、基本的に匿名者を信用しません。まじめに論じようと思うな ら、みずからの素顔を明らかにすることが最低の初歩的前提だと思います。匿名というお面の陰に隠れていたのでは、まじめにお相手することはできません。こんにちの日本には、まだ匿名でなければ論じられないような危険はありません」 。
 「私信ならばお名前ぐらい明かしたらいかがですか 。闇から鉄砲を撃つような人とつきあってられません」。
 
 云っている本人がマジメにそう云っているだけに始末が悪い。共通して気難し屋で自惚れがあるのではないかと思っている。れんだいこに云わせれば、当人はいっぱしのジャーナリスト気取りであるが、それほどの者では有るまい。既成のジャーナリズムが貧困すぎる故にれんだいこ的活動が必要となっている訳で、そのれんだいこの眼から見てなるほどのジャーナリストがそう多く居る訳ではない。むしろ全く貧困である。

 ここを弁えず、何やら偉そうにするから、本旨より形式を、本音より建前を重視するから余計におかしくなっているだけのことではないのか。そういう連中が左派気取りで弁論界に陣取っているから、ジャーナリズムの質が向上しないのではないのか。もっとも、左派のみならず右派にも中間派にもどこにでも居るでは有ろう。要するに、気難し系の論法であるということである。

 当人は、手前の主張が気難し系特有の論法であることを知らずに常識ぶるから始末が悪い。それにしても、全域全方面著作権論がかような「ハンドルネーム批判」にまで立ち入ろうとしている実態を知った。「通知、承諾要す論」の背後にある際限の無い制限を知ったことになる。漬ける薬が無いとはこのことだろう。

 2006.9.19日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)