JASRAC訴訟その2、生演奏訴訟考 |
(最新見直し2008.3.3日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)と音楽の使用者との間で、著作権を巡る紛争、訴訟が多発している。JASRACは、スナックの場合、「店舗客席の面積に応じて5坪当たり毎月3千500円から50坪まで1万5千円」、生演奏の場合、「客席が30席までの店舗での演奏(月60時間以内)で月額1万3000円、あるいは5分までの曲で1曲90円」という高額の使用料規定を設けている。 「JASRACの金銭暴力」により、カラオケ店、旅館のカラオケサービスが苦境に陥っている、と云う。考えてみれば、数十台ある訳だから、一台ずつ料金取られたら全体でバカでかくなる。実際には何らかの折り合いつけているのだろうが、まともに払っている店があるとすれば素晴らしいという他無い。このせち辛い世の中で、大枚の金を払っている経営者のマジメな感覚が美しい。と思ってみたが、その分利用者に料金負担押し付けられているんだわな。何やら馬鹿らしくなってきたぞ。とにかく人前で歌を歌うとカネが要る時代になったということだな。そういう時代をJASRACが創ろうとしているんだな。 ところで、今の時代、スナックの閉店が相次いでいる。中にはJASRACへの届出忘れの経営者も多いだろう。れんだいこは、気がついた頃に大枚の金を請求されるのではなかろうかと危ぶむ。JASRACが、閉鎖店舗は自動的に停止するというのなら、それはそれで苦しいやり取りの中を漕いでいる現業店にヒルの如くに食らいついている様子が浮き彫りになろう。 2006.4.20日 れんだいこ拝 |
【「ジャズ喫茶スワン訴訟」】(「新潟JAZZ喫茶SWAN」、「JASRACについて考える」) | |||||||||||||||||||||||||||||||
2003.11.19日、日本音楽著作権協会(JASRAC)は新潟地裁に対し、新潟の老舗ジャズ喫茶「スワン」が、店内演奏で使われる曲の著作権使用料五百五十万円余りを支払っていないとして、演奏差し止め、楽器、レコードの差し押さえなどを求める仮処分を申し立てた。同様の請求は他の音楽喫茶に対しても強められている。 2003.12.13日、新潟日報はオピニオン記事でこの問題を取り上げ、「ジャズ文化の灯消さないで 老舗やむなく閉店も 演奏使用料が重圧に」記事を掲載している。これを紹介する。
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![]() いずれ「JASRAC問題」が社会問題になりそうな気配を感じる。多くの者が「全方位的著作権」を認定している故にこういう本末転倒事態が発生する。「全方位的著作権」とは要するに現代の関所税である。その昔、寺社、組合(ギルド)が万能社会を作り出し、戦国武将・織田信長がこれらを撤廃し「楽市楽座制」を導入した。これにより経済の活性化が促されたのは周知のことであろう。これを思えば、「知的関所税」というのは特殊現代の形態であるから、第二の信長が現れないといけないということになる。 「著作権使用料を支払う必要があるのは分るが、収入に応じた算定をしてほしい」などという弱腰ではいずれ、弁護士の口車に乗せられてしまうであろう。弁護士の知性を窺うのに、法哲学的な知性は皆目貧困で、単に法文を職人的技法で操る術師に過ぎない。故に、弁護士に期待してみても何ら事態は変わらないことを知るべきである。むしろ、手前味噌ながられんだいこの観点を援用したほうがよほど賢明である。 この問題は、著作権そのものの認識間違いから発生している。仮にそのような権利が「全方位的著作権」として認められるにしても、肝心な事が前提にされていなければおかしい。肝心な事とは、「全方位的著作権」の適用は少なくとも、「『社会的文化、人民大衆の生活福祉の向上に資するものでなければならないという公理』と抵触せざる限りにおいてである」という法理論との整合性が問われねばならない、ということである。 この弁えが無いから「JASRAC的強権」が罷り通り、音曲産業の保護育成という美名の下での衰退がもたらされ、明らかに利権化し過ぎているというのに、これに誰も抗することができないという没知性的事態に追い込まれることになる。れんだいこに云わせれば、「全方位的著作権そのものがシロアリ理論」なのであり、人民大衆はこれに闘わねばならない。しかしだ、マスコミも都合の良い「ジャーナル著作権」を主張している訳だから、インテリ学会もまた更に輪をかけたような「知的所有権」の主張に血眼(ちまなこ)な訳だから、連中がJASRAC異議を唱えることはできはしない。同じ穴のムジナでしかない。つまり、誰もあてにならない、助けてくれない。 れんだいこは主張する。憲法の空洞化現象に応じて各界が得手勝手な法理論を振り回しており、互いに身動き取れない社会へ突入しつつある。つまり、社会がアノミー化しつつある。こうした折には、今一度国内法の最高規範である憲法から紐解いていかねばならない。文明化という正義美名の実は野蛮知性の振りかざしに対して断固として抗する知性を練磨せねばならない。この視点を失した時、歴史的に形成され最も我々が習性とさせられている辞を低くして哀訴する道しか無くなるであろう。 ちなみに「多くの良心的な人々は著作権者の権利を認め、作曲者に敬意を払い、できる限り穏便に使用許可をしてもらいたいと考えている」云う者があるが、ならばその対価としてJASRACの徴収金の経理明細を求めよ。「著作権者の権利を認める」ことが形態、様式、分野の如何を問わず「あらゆる空間それも末端にまで権利が及ぶべし」ことを論証してみよ。「多くの良心的な人々は全方位全域的著作権を認めている」云々と云い為しているが、「多くの良心的な人々」がどういう人たちのことなのか、「そのどこが良心的なのか」論証してみよ。汝、言葉の独り歩きで酩酊しているその暗愚さを恥じよ。 2004.2.14日 れんだいこ拝 |
【生演奏ピアノ演奏事件判決その1】 | |||
「著作権侵害を継続していた飲食店経営者に懲役10ヵ月(執行猶予3年)の有罪判決」、「ビートルズ演奏で逮捕! なぜだという素朴な疑問、J-CASTニュース」その他を参照する。
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【生演奏ピアノ撤去判決事件】 | |||
「JASRACと音楽の使用者 著作権を巡り紛争「泥沼」、J-CASTニュース」(http://news.livedoor.com/article/detail/3012287/)その他を参照する。
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(私論.私見)