カタカムナ文字の歴史的意義考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.3.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 どうやら、カタカナどころではなく現代日本語そのもののルーツがカタカムナ文字であるらしいということに気づいた。ここで、カタカムナ文字の歴史的意義を確認しておく。

 れんだいこが、カタカムナ文字及びその哲理、文明に関心が向かうのは、現代世相批判をバネにしている。どういうことかというと、現代に於ける知識人と自惚れている連中の知性が少しもらしくなく、逆に著しい退行現象を見せているのではないかと窺う。この原因を訪ねるのに、彼らが学んだものはいわゆるネオシオニズム系のユダ邪学であり、そのテキストを鵜呑みにしたものに過ぎず、それは決して知性を磨くものではなかったということになるのではなかろうか。ネオシオニズム系のユダ邪学に汚染される前の日本人は上手に齢を重ね、学成り難しとはいえ、加齢と共にそれぞれの能力に応じた知識を究めていたのではなかろうか。それは、江戸期幕末の頃まで漸進的ながらも自生的且つ高度な社会を形成しつつあったのではなかろうか。その彼らが依拠していたのは、古来よりの日本的哲理に基く知性だったのではなかろうか。これがカタカムナ学である。

 れんだいこは今、無性にカタカムナ学が恋しくなった。そういう事情で、この知性の界に分け入ることにする。合点の者よ列なれ。

 2009.3.22日 れんだいこ拝


【神代文字の更なる母語としてのカタカムナ文字】
 カタカムナ文字は、現代物理学が解明しつつある世界事象に於ける原子の働きを哲理して48文字で表象した世界に例のない独特なものとなっている。これをいつの時点で獲得したのかは分からないが、日本史上の縄文時代あるいはそれ以前に遡ることができるようである。いずれにせよ、古代日本語は、この48音を文字的に創造することにより同時期の叉はそれ以降の他の諸国の言語と比肩して何ら遜色のない否最も秀でた言語的地位を獲得することに成功したように思われる。

 カタカムナ文明の存在を指摘したのは楢崎皐月氏である。楢崎氏は、1950(昭和25年)頃、兵庫県六甲山系の金鳥山(きんちょうさん)山中で、平十字(ひらとうじ)と名乗る人物からカタカムナ文献を見せられ、その筆者が許され、後日公開されて知られるようになった。平十字はカタカムナ神社の宮司と称し、文献は「カタカムナの御神体」として秘匿されてきたものであったと云う。楢崎氏はカタカムナ文献を解読した結果、これは太古の日本列島に棲息していた上古代人が書き残した超古代科学書であるとの見解に至った。

 その楢崎氏は次のように原日本人を定義している。
 「エネルギー準位の高い日本に住み、この国土で採れた食物を食べ、コトダマのサキアフ日本語を話すことによって、そのココロが自ずから日本人のココロになる。そのココロを身に付けた人が、即ち本当の意味での日本人なのである」。

(私論.私見)

 この日本人論は興味深い秀逸な論ではなかろうか。

【カタカムナ文字とホツマ文字の通底性考】
 日本古代の神代文字の数々が確認されているが(「日本語上古代文字(神代文字)考」参照)、いずれもアイウエオを母音とする48文字を基本にしているところに特徴が見られる。これは試論であるが、れんだいこが思うのに、カタカムナ文字がどうやら原日本語である可能性が強い。カタカムナ文字を原基として様々な神代文字が登場したように思われる。ということは、カタカムナ文字こそが神代文字の母語的地位を占めているのではなかろうかとの推測を可能にする。

 なお、図象的に見て、カタカムナ文字はホツマ文字との関連が特に深いように思われる。神代文字を分類すると、哲理文字、図形(象形)文字、線系文字、草文字に識別できるが、カタカムナ文字は哲理文字の範疇のものであり、その哲理性を継承しているのがホツマ文字であるように思われる。このことは、ホツマ文字は、カタカムナ文字の発展系ではなかろうか、叉は同一系文化圏の後継文字ではなかろうかとの推測を可能にする。この両者が共に和語叉は大和言葉と云われているように思われる。そういう訳で、ここでは、カタカムナ文字とホツマ文字系譜を一体と見て、その意義を確認することにする。

【カタカムナ文字の歴史的生命考】
 注目すべきは、この48音古代日本語が哲理文字式開放系の構造になっていることにより、その後の漢語、梵語、アルファベット語との遭遇時に徒に対抗するよりも48音古代日本語をベースにして咀嚼吸収して行ったという経緯を見せたことにある。

 日本古代史上の最大政変である国譲りで、渡来系(自称天孫族高天原王朝)は、在地系国津族の出雲王朝から豊葦原瑞穂国の統治支配権を奪った。続いて神武東征に至り、「高天原王朝『主』、出雲王朝『従』」とする新王朝たる大和王朝を創建した。これは歴史的経緯の荒スケッチであるが、これに「神代文字和語」の帰趨が大きく関係している。即ち、この時既に、支配権を奪われた方の出雲王朝側は、カタカムナ文字より発祥するホツマ文字叉は出雲叉はその他の「神代文字和語」(叉は大和言葉とも云う)を確立していたように思われる。但し、当時の文書が散逸しており、これを確かめる術はない。しかし、こう考えないと辻褄が合わなくなる。こう仮定する論者が少な過ぎる。この「神代文字和語」が国譲り政変でどういう運命になったのだろうか。

 驚くべきことに、高天原王朝は大和王朝創建によって豊葦原瑞穂の国の統治支配権を得たが、出雲王朝御代に確立されていた言語、習慣、思念、宗教(古神道)までは奪うことはできなかった。むしろ、渡来系天孫族は武力では征服者として君臨したものの、国津族に逆同化されてしまう。日本歴史は以降、このことが火種となり地下暗闘を繰り広げていく展開を見せることになる。

 その大和王朝の御世、渡来系(自称天孫族高天原王朝)は、国津族の言語、習慣、思念、宗教(古神道)に対向すべく、大陸文化とも云うべき中国システムを導入敷設して行った。この流れで、「神代文字和語」に対向すべく漢字の輸入を図った。この時、国津系は、漢字を用いるに当たって世界史上に類例のない手法を用いた。即ち、中国読みをそのままに用いず、和音に合わせて同じ語音の漢字を捜して当て字するという万葉仮名を生み出すことで対応した。

 続く奈良時代、平安時代にかけて、漢字がますます公文書化して行った。この時、国津系は、どう対応して行ったか。何と、万葉仮名の表音的当て字の限界を突破して、漢字の表意を汲み取った上で更に和音との語音をも合わせるという芸当で、むしろ咀嚼吸収して行った。これを「訓読み」と云う。これとは別に、漢音をそのまま受け入れ日本語化して行った漢字もある。これを「音読み」と云う。以降、この処方による漢字吸収史が続いて行くことになる。

 この流れに応じて平仮名、カタカナが創造された。和語は、平仮名、カタカナ、訓読み漢字の中に生き延びた。同時に音読み漢字をも違和感なく日本語の中に吸収咀嚼して行くことになった。これはまさに言語革命であった。この言語革命を成功裡に導くことで日本語が豊かに成育し、はるけき今日の現代日本語まで辿り着いているという歴史が認められる。これを思えば、カタカムナ文字はそもそも、その哲理文字という性格によって、なお且つ48文字の開放系構造と云う特異傑出性により、これを可能にする稀有な文字であったことになる。

【カタカムナ文字の旧神道との同衾考】
 更に注目すべきことがある。このカタカムナ哲理に基く思想こそが古神道の、即ち原日本人のメンタリティーの故郷であるように思われる。れんだいこは、古代出雲王朝、そこから先のアイヌ文明へと向かい、遂にカタカムナ文明にまで辿り着いた。これらのいずれもが古神道の故郷であるように思われる。古神道に注目する所以は、古い神道に対する郷愁が単に回顧的なものでではなく真に優れて尊いものであり、現代に繋がっていると思うからである。

 そういう背景を持つ日本語論を学問的に為すとすれば、その発生過程を確認せねばならないのは自明である。ところが、ここができていない。これまで数多くの国語学者が居た筈であるが、どのように取り組んだのであろうか。れんだいこは、発生過程を問わないままの日本語観を物差しにして、漢字、アルファベット文字その他との優劣を比較し、場合によっては日本語廃止論にまで至る見解を愚劣とみなしたい。

 言語こそは民族のアイデンティティーそのものであり、続くのが生活習慣、宗教、風俗なのではなかろうか。そういう意味で、日本人から日本語を取り外さんとするのは暴挙以外の何ものでもない。理屈上は、既に数多くの言語が淘汰されており、日本語が同じく淘汰されても致し方ないとする態度も成り立つが、日本語の発生過程と原理を紐解けば、この人類史的秀逸遺産をそのような目に遭わしてはならない見解に至るであろう。まず、このことを指摘しておく。

 ところで、日本語のルーツを訪ねるのに諸説あるようである。れんだいこは、外来言語との類似性を問うのもやぶさかではないとするが、その前に自生的に発生した面が有りやなしやの検証に向かいたい。この観点から辿り着くのが、カタカムナ48音である。我らの祖先は、何時ごろカタカムナ48音を発明したのだろうか。日本語の秘密のキーは優れてここにある。日本人は、カタカムナ48音を早期に獲得したことにより、朝鮮文明にも漢文明にもインド文明にも西欧文明にも堂々と対峙し異種文明の果実を咀嚼吸収してきたような気がしてならない。

 れんだいこは、ここ最近、日本語音のルーツとしてのカタカムナ言語に辿り着いた。どうやら日本語は、このカタカムナ言語を通して確固とした和語を形成し、その秀逸性により今日まで延々と維持保全してきているのではなかろうかと思っている。ちなみに、カタカムナ言語の優秀性とは、自然界の物理事象を解析し、その働きに対応する48音を創造し、その48音の組み合わせで言語を組み立て、人間社会間のコミュニケーションと自然事象の認識に資させていることにある。

 つまり、日本語は、アルファベット文字的な記号の集合言語ではない。漢字的な意象文字ではない。敢えて云うなら哲理文字とも云うべき性格を備えている。しかして、その哲理が深く、近現代科学がお辞儀をせざるを得ない代物となっている。それ故、日本語は言霊(ことだま)文字とも云われている。日本語の中に生命の本質に対する洞察が宿されているからである。

 思えば、ひらがな、カタカナの創造は日本語のエートスであるが、ひらがな、カタカナ創造の背景にはカタカムナ言語の哲理が蔵されていたからではなかったか。言語学者はかく問い、日本語の祖語とも云うべきカタカムナの文字、言語、哲理、科学、社会の解析に向かうべきであった。実際には一部で為されているのかも知れないが、漏れ伝わるところの現象は反対である。日本語軽視、英語礼賛の風潮下に屈服する御用学者の生態を垣間見るばかりである。

 以上を構図として、以下、カタカムナ言語の解析に入る。
 「土蜘蛛正統記」の「百万人の歴史1、倭人の登場」は、「カタカムナ人の「カタカナ語」とアイヌの「夷語」との関係を 検討する必要ありと思う」と指摘している。

Re::れんだいこのカンテラ時評552 れんだいこ 2009/03/26
 【カタカムナ学研究者・関川二郎氏の名言】

 関川二郎氏の著作「潜象道シリーズ」(博進堂、1997.4.30日初版)のbV「道徳と価値論」の前書きが内容のある提言をしている。但し、部分的に首肯し難い箇所があるので、同意できる部分を抜き出し、多少アレンジし次のようにれんだいこ言葉で語ることにする。

 「私たちの社会秩序は、いわゆる常識によって支えられている。常識、あるいは定説と云われるものは、その時代の社会通念として誰もが心得、誰もが行動の基準とする最大公約数である。従って、この常識に外れた考えや行為は『非常識』として非難され、場合によっては法律的叉は社会的制裁を受けることになる。

 ガリレオは当時の常識である天動説に逆らって地動説を唱えた為に処刑された。しかし、常識は常に正しいとは限らない。全ての人がこの常識に満足していたら世の進歩は有り得なくなる。進歩は今の常識に疑いを抱き、これを超越するところから始まる。

 『常識のウソ』という言葉があるように、世間の常識には仔細に検討するといかにも論理的に矛盾がないように見えても、それが必ずしも真実を正しく反映しているとは限らない。『論理の無矛盾性は必ずしも真理を証明するものではない』という言葉の示すように、実は自己の主観に都合の良い事象のみを抽出して、一見矛盾のない論理の体系を完結することは至って簡単なことなのである。しかし、たいていの人はこの論理の無矛盾性に幻惑されて、それがあたかも絶対の真理だと思い込み、それがいつの間にか常識として定着してしまう。

 私たちの身の回りの常識と称するものに、少しも疑いの念を持たないことは、ある意味では大変危険なことである。常識の変遷は、日進月歩する科学技術の世界だけではなく、万古不変のものと誰でもが信じて疑わなかった論理や道徳の分野でも存在するのである。常識は常に変化するものである。今日の常識は必ずしも昨日の常識ではない。同時に明日の常識であるとは限らない。日本の常識が世界の非常識であることも有り得るのである。

 私達は、今の常識が常識として定着するまでの歴史的必然性あるいは作為性を考察し、その中に潜在する矛盾あるいは詐術を捉えて、その発展あるいは仕切り直しの方向性を予察し、かく対処する知恵を持たなければならない。今の常識に拘泥せず、これを超えたあるいは打ち破る発想を常に心掛けなければ、世の中の進歩に寄与することは不可能であると確信する」。

 2009.3.26日 れんだいこ拝




(私論.私見)