【日本古代史とカタカムナの接点考】 |
(最新見直し2009.3.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
【土蜘蛛正統記第四部】の【百万人の歴史2】の【日本語とカタカナ語】を転載しておく。言及が多岐にわたっており、素読では理解が難しい。これを分解して有益なところを取り込むことにする。 2009.3.19日 れんだいこ拝 |
紀元前219年、秦の始皇帝による中国統一のわずか数年前に(前221年)、徐福船団が来日している。その渡来後の各地の伝説事跡によれば、唯の一箇所も「争闘」を感ずる伝説がない。これは、徐福一団と当時の弥生人(カタカナ人)が友好的な折り合いをつける能力を持っていたことを語っている。徐福の来島目的については、諸説があるが、始皇帝の命のみによるものか、春秋時代末期から統一前の難を逃れてのものなのか、何れにしても征服意欲からではないようである。 |
徐福船団来日当時の日本原住民としてアイヌ人の可能性が看過得られる。アイヌ人の歴史は遠く広く、そして独自の文化を築いているようである。アイヌ人はアイヌ語を持っていたと考えられる。これにカタカナ語がどう関係するのか定かではない。アイヌ語とカタカナ語を比較した場合、重なることがなく直接の繋がりは認められない。 但し、ただ一つ「カムイ」については些か通ずるものがある。「カムイ」とは「神」であるが、このアイヌ語をカタカナ語(カタカムナ文献)で解読すると、「カ」=充実した最高のカ(チカラ)。あらゆる現象を発現させる根源のチカラ。潜象であるが確かに存在する量だから、人間にも感受される。「ム」=無、目に見えない状態。「イ」=陽から陰へ消えて行く、という意味になる。カタカナ語のカミは、「カ」の力に「ミ」=実が合わさったもので、「充実したチカラ」、「究極的な本質」を意味する。 「カタカムナ文献」で「カムイ」「カミ」を解読すると、「究極的な本質」として目に見えない状態にあるが、最高の「チカラ」を持っている、となって、ある程度の一致点は感じられる。アイヌ人は「カムイ」と言葉に出す時、如何なる意味を込めて、「神」というのだろうか。同じ「カミ」という発音でも、その心情、意味が同じか否か、ここが問題となろう。誠に言葉というものは、同民族でない限り、その意味の疎通は困難なものである。記紀において、太朝臣安萬侶が「カタカナ語」の表音に苦慮したことが同情できる。世界の民族語は複雑多岐なものであって、その民族を象徴している。 |
「日本」という国号は、7世紀後半、持統天皇時代に定められたとされている。これは自称国名である。それまでの他称国名は「倭国」であった。その前は「何国」と称していたのだろうか。 少数民族の言語を研究する者たちは、英語を「殺し屋の言語」とよんでいる。「アイルランド語は英語に殺された」というのは、かれらのなかでは合言葉になっている。これによれば、言語の変遷は「民族の消長」に根本的影響を与えていることが明瞭に窺がえることになる。こういう立場から」「アイヌ語」や「カタカナ語」の歴史を探求することは、民族の存続の根本問題に迫るものであることが分る。 「日本語」につき、国語大辞典は次のように記している。
「和語(日本固有の語)」につき、国語大辞典は次のように記している。
これによれば、和語は「やまとことば」とされているが、この中に「ひらがな」、「カタカナ」が出てこない。本居宣長が記紀から「やまとことば」を發見したことは採用しているが、太安万侶が古事記で表音した「カタカナ語」については何も触れていない。 「カタカナ」を索引してみると、国語大辞典は次のように記している。
「やまとことば」を索引してみると、国語大辞典は次のように記している。
本居宣長は、古事記伝の中で、古事記以前の古代人の言葉の存在をはじめて發見した。太安万侶の古事記は、古代人のことば(声音)則ちカタカナ声音を、漢字に表音した。 日本語の古語としての和語を究極煎じつめると、「日本語は和語であり、和語はわが国のことば.やまとことばであり、やまとことばが最も古い日本語」ということになる。そのやまとことばは、アイヌ語と前後して発生したカタカナ語と思われる。 カタカナ関係で、「倭片仮字反切義解」(やまとかたかなはんせつぎげ)なる著作が表されている。これは、室町前期の語学書で、花山院・長親著(かざんいん ふじわらながちか) 成立年未詳。仮名の本質.沿革.音義.字画などを示し、五十音図について悉曇(しったん)や中国音韻学による知識を適用しながら解説したもの。後世の仮名研究に影響を与えた。 花山院 藤原長親氏の生年不詳。1429(正長 2. 7.10)。南北朝末・室町初期の歌人・学者。法名は明魏(メイギ)、号は耕雲・畊雲、姓は藤原。南朝に仕え従一位・右大臣。両統合体後、1392(南朝元中 9)出家。生年は貞和(1345〜1350)ころ、享年八〇余歳。和歌を宗良(ムネナガ)親王に学び、『新葉和歌集』の撰定に参与。仮名の起源・沿革および五十音の音韻組織などを説いた『倭片仮字反切義解』など。 ----------------------------------------------------------------------------------- 「カタカナ語」は、「カタカムナ文献」では文字ではない。「声音符号」という「記号」文字である。太安万侶は、古事記編纂に当たってカタカナ文字を漢字に書き換えたか、カタカナ文字では表現出来なかった為、やむを得ず漢字を用いたかのどちらかが考えられる。 万葉集の検討に入る。平安時代の歌集「万葉集は、カタカナの言葉と文字をどのように取り扱っているか確認しておく。万葉集より五十年近くも前の古事記に記録されているのが次の若である。「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁」。「やくもたつ いづもやえがき つまごひに やえがきつくる そのやえがきを」と読む。太安万侶は、「上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難、已因訓述者、詞不逮心。全以音連者、事趣更長、是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之内、全以訓録」と述べている。 万葉集の巻頭の歌は次の通り。「籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尓 菜採須児 家告奈 名告紗根 ----以下略 」。これを、新日本古典文学大系では、次の通り訓読させている。 「コ モ ヨ ミ コ モ チ フ ク シ モ ヨ ミ フ ク シ モチ コノヲカニ ハ ツマ スコ イヘノラ ナ ナノラ サ ネ」。これをすれば、新日本古典文学大系では「かごも良いかごを持ち、へらも良いへらを持ち、-----以下略」。これを分析すると、「コ.籠」の表音の漢字を、そのまま、「かご」と表意している。「モチ.母乳.持」を考えると、モチが「持つ」という意味ならば、何故、「母乳」という表現をしたのか。「フクシ」というのも、何故、「布久思」「夫君志」と同音異字にしたのか、この漢字使用者の真意が判断しかねる。 古事記編纂者は、漢字熟知者則ち、漢字族であることを認知せざるを得ない。 【『万葉集』をどうよむか。『万葉集』は成立後200年で、すでによめなくなっていた。それは漢字ばかりで書かれていて、専門家でなければ、その漢字表記を解読できなかったからである。最初にその解読に挑戦したのが、二番目の勅撰和歌集『後撰集』の撰者でもあった「梨壺の五人」といわれる学者、歌人たち。今からおよそ千年前、村上天皇の御代、天暦5年(951)のことである。『万葉集』の時代には、まだ今日のような仮名はなかったので、漢字ばかりで書かれたのである。しかし漢字は外国の文字であり、輸入品であった。その外国文字を自由自在に操るために、万葉人はいろいろな実験をおこなう。『万葉集』の原文はそのような様々な文字実験のかたまりなのであった。 その文字実験とは、たとえば、次のようなものである。
もし、当時に仮名があれば、こんな不自然な書き方はしなくてもよかった。しかし、『万葉集』が書かれたのは、仮名誕生以前。平安時代以降の「かな」をまだ知らなかった万葉人にとって、このような漢字との悪戦苦闘は、異文化との格闘のドラマでもある。 そのドラマを『万葉集』原文にかいま見つつ、難解なその漢字の羅列を、後世の人々がどのように訓み解き、そして今日の『万葉集』が出来上がったかを紹介するとともに、今なお解決に 至らない『万葉集』の訓みの問題点を、表記史の観点から考えたい。 大学院人文科学研究院・助教授 高山 倫明 この一文中の「---平安時代以降の「かな」をまだ知らなかった万葉人にとって、このような漢字との悪戦苦闘は、異文化との格闘のドラマでもある。---」について、一考せざるを得ない点を感じた。「異文化との格闘」という表現は、端無くも、@の「言葉は發言し得るが、文字を全く知らない者。」の立場に立つ言葉であることを暗示していることになる。文字を全く知らなった「カタカナ人」が万一「古事記」を書く立場に立てば、それこそ「異文化との格闘」ということになる。もし漢字族の立場なら、この「異文化との格闘」という言葉は当然不適当である。「漢字」に係わるここにも、民族の問題が伏在しているように感ずる。 このような、「武の上表文」や「太安万侶の古事記序文」のような見事な漢文は、漢字堪能者でない限り出来るワザではない。かくして「カタカナ語」は「漢語」と合い交わることとあいなった次第である。ここで、所謂「異文化との格闘」という一句が特別の意味をもって生きてくる。そこで「カタカナ語」は、古事記においては、表音文字として処理されて来たが、万葉集ではどであろう。
和歌.倭歌は次のように解説されている。漢詩に対して日本の歌。長歌.短歌.尖旋頭歌.片歌など五.七音を基調とした定型詩であるが、歌体の消長に伴って短歌が和歌を意味するようになった。和歌の起源について情報を以下のように取り纏めてみた。 1、表現が固定化し定型化していく歌謡では宮廷歌人柿本人麻呂らの活躍によって8C半ば過ぎ『万葉 集』が成立する。また中国漢詩文の影響を直接に反映した『懐風藻』、最初の歌学書『歌経標式』も編まれる。 2、◇記紀歌謡 『古事記』と『日本書紀』に収められた約190首を記紀歌謡という。古代人の生活全般にわたって素朴な感情が表現されている。口誦性から枕詞、序詞が多用され、反復・対句などの韻律美をもっている。歌体は一定しないが、後の短歌・長歌・片歌・旋頭歌に発達する歌体の原型とみることができる。 3、『国文学通史』 4、そもそも日本の和歌の起源は「歌垣」にあり、和歌は通常「宴(うたげ)」で作られるものであり、和歌を生み出した貴族社会には「歌合わせ」という和歌の競技会もあって、集まって歌を作るのは自然なことだった。この連歌は様々な革新を経た後、17世紀には「俳諧」として農民から商人までを巻き込む文学の一大ジャンルとなって社会に定着した。そのころ指導者(宗匠)として全国を巡っていたのが芭蕉である。「俳句」は、明治になって俳諧が西欧文学の観念のもとに組み替えられた結果できあがった近代の産物である。江戸時代まではこのように社会全体の生活の中に「複数の人間による文学創造」が日常のこととして定着していたため、連はいつでもどこでも、どのような目的であっても、形成される可能性があった。 「歌垣」説は注目に値する。「歌垣」は風土記に出ている一般民衆の歌である。それがまた五.七の基調で歌われている。この基調の五.七調は、何処から生まれ出たか。「歌垣」は古代一般民衆の歌であり、記紀以前の一般民衆とは則ち「カタカナ人」であり、そのカタカナ人の「ウタ」とは、「カタカムナ文献」の八十首の「謡」に他ならない。この八十首の「ウタ」の基調、「五.七の基調」が、記紀、風土記、万葉集、そして現代へと固執されて来ているのである。カタカナの歌の基調は「五.七」である、これは漢詩とは全く異なる。ここに消滅させることの出来なかった、漢詩にも出来ず、表意文字にも出来なかった、民族性の強さを感ずる。 記紀から約五十年、カタカナ歌は、古事記の「表音歌」から万葉集の、「籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尓 菜採須児 家告奈 名告紗根 ----以下略」に見るように、「表意文字」が出現するように、則ち、「モチ」から「持」へ、「オカ」から「岳」へと変化している。これはカタカナ歌をなんとかして、「漢字化」しようと苦闘を始めた状況であろう。この苦闘が、後日(天平勝寶年間、吉備真備造る)「カタカナ文字」を発明させた根本原因であろう。ここで漸く「カタカナ言葉.語」は、自己特有の文字を得て、独立の場所を確立した、ということになるのである。「カタカナ文字」発明の重要性をここに確認する。 「カタカナ文字の発明」 平安時代に、「万葉がな」の簡略化のために、工夫されたというその状況というのは、 1、『古事記』や『万葉集』は、漢字の音訓を巧みに組み合わせた万葉がなであらわされています。万葉がなは、奈良時代に発生しました。貴族や中央の官人の用いる公式文章で漢文とともに、100年あまり社会的に広く用いられました。この万葉がなから、略体化した草がなが発生しました。この草がなを、もっと、くずして作られたものが、今日のひらがなにあたります。 2、日本語学史 奈良時代の日本語が万葉仮名で書かれていること、「かな」といっても見た目はすべて漢字であることは、よく知られている。漢字なのに、なぜ「かな」というのだろうか? 万葉仮名における漢字の用法は多様である。「雑歌」と書いて「ざふか」と読むのは、漢字を向こうの読み方をまね、意味もそのままで用いるのだから「正音」という。「陽炎」と書いて「かぎろひ」と読むのは、漢字の意味に従いながらも、読み方はそれに当たるやまとことばをあてるのだから、「正訓」という。これに対して、意味を無視したものを「借音」「借訓」という。「しが」という地名を「志賀」と書くのは「借音」、「あひみつるかも」を「相見鶴鴨」と書くと、「鶴鴨」の部分が「借訓」である。このほか、「十六」と書いて「しし」と読む暗号のような戯訓(ふざけよみ)など、多様な表記があるが、これらすべてを総称して「万葉仮名」という。漢字の本来の使い方から外れた仮の表記だから「仮名」なのであり、これに対して漢文は「真名(まな)」と呼ばれた。 「仮名」の必要が生じたのは、一つは固有名詞の表記のためである。もともと中国にないものを表すのだから、自前で表記を考えなければならない。その方法は借音と借訓の二つあった。「おしさか」の場合、借音では「意紫沙加」、借訓では「忍坂」となる。借音はあらゆる固有名詞に応用可能な点優れ、借訓は簡潔であることで優れていた。「仮名」が必要になるのは、もう一つは歌の表記のためである。歌は意味が通じればいいというものではなく、音の響きをも楽しむものでもある。このため、歌は一音節一音節漢字をあてはめて表記されることが多かった。しかも、日本語には中国語にない、助詞、助動詞のたぐいが多く、動詞などもしきりに活用する。このため、同じ音はできるだけ同じ漢字で表す習慣が一般化し、どうせ同じ漢字を使うなら、字形を簡単にしたほうがいいということで、漢字を崩したひらがなや字画の一部をとったカタカナが一般化した。こうして漢字で表せるところは漢字、表せないところは仮名という漢字仮名交じり文が成立し、今日にまで続いている。 3、日本語学史 1-1 [文字 音韻]一般に、文字の獲得、表記法の確立は、言語音声の自覚的認識なしにはありえないが、日本語の歴史においては、漢字という外国語の文字によって それが与えられたことが、大きな特徴になる。音韻組織の異なる中国語の文字である漢字を、いわば外来語として借用する漢字の「音」用法だけでなく、意味の翻訳・対応に基づいて、固有日本語を表記する漢字の「訓」用法まで成立させたことは注意していい。また、地名、神名などの固有名を表記する工夫として、漢字を音仮名として用いる「万葉がな」は、和歌の音数律(五拍七拍)とあいまって、音節・拍の自覚を促し、「あめつち」や「いろは歌」に導いた。さらに、仏教における「悉曇学」(古代サンスクリット語学)の学習は、漢詩の「平仄(ヒョウソク)」、漢字音の「反切」とあいまって、音韻・音素的な見方を促し、「五十音図」へと導いた。 4、日本語学史 1-2 [単語分類の萌芽]単語が語形変化しない孤立語的特徴を色濃くもった古代中国語の文章を読みとく中で、具体的には、漢文訓読における「返り点」や現行の送り仮名にあたる「をこと点」を通して、日中の語順の違いや、対応する物がないものとして、活用語尾や助詞助動詞を意識するようになる。大伴家持の「ホトトギスを詠む二首」(万葉集巻19)には「毛能波三箇辞之を欠く」「毛能波弖爾乎六箇辞之を欠く」という注が付いているが、これは「も、の、は、て、に、を」を「辞」と呼んで特別視し、それをあえて使わずに歌作りをしたことを意味している。そして、そうした区別を日本語を書く表記として活用したのが、助詞助動詞や語尾を右寄せに小文字で書く「宣命書(センミョウガキ)」であった。 5、『国語史資料集―図録と解説―』に載っている資料と簡単な解説<1〜48> 1 金石文 最古の日本語資料 原資料 2 古事記 日本語を記そうとした資料 写本 3 日本書紀 日本の正史としての正格漢文 写本 4 祝詞 日本語の形式文 写本 5 宣命 漢字仮名交じり文の先駆け 写本 6/7 万葉集 漢字による日本語韻文の表記 写本 8 仏足石歌 当時のままの表記資料 原資料 9 正倉院仮名文書 当時の仮名のあり方 原資料 10 新訳華厳経音義私記 初期の語彙集 原資料 11 日本霊異記 以上の情報により、カタカナ文字の誕生までの経過が、 1、宣命 漢字仮名交じり文の先駆け 2、万葉集 漢字による日本語韻文の表記 3、仏足石歌 当時のままの表記資料 柿本人麻呂と乞食者 万葉集巻16−3886に、乞食者(ほかいびと)が詠んだ歌がある。乞食者とは、家々をまわって歩き、寿歌(ホギウタ)を歌って食を乞うた芸人であると思われる。ホカイはホク(寿)からきたことばなので、ホギウタを歌う人とでも翻訳すればよいだろうか。…歌人と 我を召すらめや 笛吹きと 我を召すらめや 琴弾きと 我を召すらめや… おしてるや 難波の小江に 廬作り 隠りて居る 芦蟹を 大君召すと 何せむに 我を召すらめや… かもかくも 命(みこと)受けむと 今日今日と 明日香に至り 置くとも 置勿(おきな)に至り つかねども 都久怒(つくぬ)に至り 東の 中の御門ゆ 参り来て…(巻16−3886) これは大君(天皇)に召された芦蟹が難波から大和へやってきた道中を歌ったものだ。難波から峠を越えて大和入りした旅芸人たちは、葛城の山麓笛吹(御所市笛吹)あたりから琴引原(御所市富田)のある国見山山麓など、村々家々を門付けしながら、築坂を越え、飛鳥の都、あるいは藤原の都へと流し歩いていったのではないだろうか。 〔新任弁官抄〕「揖事」-----祝詞作法 公卿弁官作法。只在揖也。恒時持笏事。右手把之。大指與小指在笏之内。中三指在笏外。仍堅〈久〉把之。不令動揺笏。以左手引右袖鰭〈天〉人差指與中指之中引夾〈天〉拳ヲ蔽〈爪〉。人差指舒許令出也。笏スグニ持之。笏端当口程。但長短人当鼻切口也。笏端傾内也。或又傾外持之人有之。是略作法也。尋常如此。欲揖之間。以左右手同把笏〈不顕手〉。笏本引寄前〈天〉。笏上傾外二寸余ニテ。身并笏共傾〈天〉揖ス。笏ヲ平〈爾〉成。笏端不仰不メ程也。一念了起揚也。伏間并起間。不疾不徐也。可得疾徐之中也。又伏〈毛〉起〈毛〉。笏與面之間相去程可同也。不可随伏面近笏也。起事又同。又伏仰之間。頭頸肩脊不可直也。不可屈。又不可反也。是立揖事也。座揖大略准之。但突膝居。以左足置前。右足猶退〈天〉居定。一息シテ揖了。以右足置前也。膝突亀居儀。左右足ヲニカシテ。両足ノ中ニ居。居定〈天〉揖也。去留同揖。 〔新任弁官抄〕「揖事」の引用文献解題----- 『作法故実』(『群書類従』巻百・公事部) 三条実冬(1354-1411)の作という。源氏・藤家・九条流また当家説、あるいは古説・口伝などの作法の違いがうかがえる。群書類従本は、藤原貞幹の本を底本とする。伝本としては宮内庁書陵部本・内閣文庫本がある。前者は、「内外故実」と題して『礼典』第14号(昭和40年10月)に影印されている。また『後三条相国抄』や『後押小路内府抄』(続群書類従巻九百三十四・雑部)も本書とおおよそ同内容である。本書の研究には、川出清彦氏『神社有職』(昭和54年10月)がある。 身滌大祓-----神道大祓全集より 高天原に神留座す。神魯伎神魯美の詔以て。皇御祖神伊邪那岐大神。築紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生座る祓戸の大神等。諸々の枉事罪穢を拂ひ賜へ清め賜へと申す事の由を天津神國津神。八百萬の神等共に聞食せと恐み恐み申す ◎「神道大祓全集」のなかに、「三種太祓 吐普加身依身多女寒言神尊利根陀見波羅伊玉意喜餘目出玉」という一文がある。これは記紀時代の「吐普加身依身多女」という表音文字が残つているのは何ゆえか。注目される。 以上のごとく、カタカナ語は変遷しながら、現代に至っている状況であるが、カタカナ語(カタカナ言葉 .やまとことば)登場以来日本語(国語)として定着するまでを要約してみると、 @古代人はカタカナ言葉を発音していたこと。--- 【三国志」魏書東夷伝倭人の条より---(アイ、イ)。「洛陽伽藍記」より---オイラ】 A漢字登場により、言葉の発音を文字に表現せんと苦心をはじめたこと。--- 古事記上卷より---久羅下那洲多陀用幣流之時【流字以上十字(クラゲナスタダヨエル)以音】 この記紀時代には(クラゲナスタダヨエル)という発音だけで、文字は無かった。 B古事記記載の最初の歌は一首全文が表音文字であること。--- 【夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁】 C万葉集の巻頭の歌は、表音文字に表意文字が登場してきたこと。----- 【コ モ ヨ ミ コ モ チ フ ク シ モ ヨ ミ フ ク シ モチ コノヲカニ ハ ツマ スコ イヘノラ ナ ナノラ サ ネ 「籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尓 菜採須児 家告奈 名告紗根 ----以下略」 D平安時代にカタカナ文字、ひらがな文字発明される。 E〔新任弁官抄〕「揖事」---カタカナ文字登場 【笏スグニ持之---笏上傾外二寸余ニテ---一息シテ揖了---左右足ヲニカシテ。両足ノ中ニ居。】 F現代語登場---身滌大祓-----神道大祓全集より 【高天原に神留座す。神魯伎神魯美の詔以て。皇御祖神伊邪那岐大神。築紫の日向の橘の小戸の 阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生座る祓戸の大神等。諸々の枉事罪穢を拂ひ賜へ清め賜へと申す事の 由を天津神國津神。八百萬の神等共に聞食せと恐み恐み申す。】 G外来語、ローマ字などの登場。 以上の如く、わが【カタカナ語(カタカナ言葉.やまとことば)】は七、八段階程の変化、変遷を経て漸く現在を迎えた訳である。永い間、揉みに揉まれて苦闘の末、出上がったカタカナ語、日本語、国語、そして現在の日常に総べてであると断言してもよい現代語、その【現代語】を、どんなものなのか、「国語大辞典」で、ほんの少しばかり、垣間見てみよう。 【国語大辞典】 冒頭の「あ」を索引したら、足.畔.阿.唖.亞.吾.彼.感動の発音、など多数の漢語が出て来た。このなかの「畔」の項目をみると、あ「畔」---【上代、中古の語。古事記上【離天照大御神之營田之阿【此阿字以音】埋其溝】と、出て来た。なんと、古事記時代の有識者は、古代人が田の「畔」のことを「ア」と発音していたのを、【此阿字以音】と説明しているように、「阿」という漢字を以って表記していたのである。この事から、カタカナ言葉の発音は、多くの異なる意味を内蔵しており、それぞれに、一字一音の漢字を アシ アゼ ワレ カレ当ててる。そしてそれらを、足、畔、吾、彼などと、訓読へと変遷してゆく。「あ」の項の次ぎに、無作為にページをめくり、「わ」の項を目探っていると、「かわら」に出会った。その意味には、瓦、骨、川原、かわら、等があったが、この中の「かわら」が目に止まった。「かわら」『副』---堅いものが触れ合う音を表す語。からから。 古事記中【故、鉤を以ちて其の沈みし処を探れば、<略>訶和羅(カワラ)と鳴りき。】古事記の原文を探ると、古事記.中・応神記【於是伏隱河邊之兵、彼廂此廂、一時共興、矢刺而流。故、到訶和羅之前而沈入。 【訶和羅三以以音】故、以鉤探其沈處者、繋其衣中甲而、訶和羅鳴。故、號其地謂訶和羅前也。】と、出ていた。【訶和羅三以以音】の場合の「カワラ」は地名であり、「訶和羅鳴」の場合は音声である。 ●以上のごとく現代の国語.日本語の中には、国語大辞典を二、三項目を研究しただけで、古代の「カタカナ発声」が、かくも明瞭に生きていることが判明した。複雑な、「日本語」と「カタカナ語」との関係はどうなっているのだろうか。以下の国語大辞典のように、簡単に説明しただけでよいのであろうか。 【かたかな[片仮名]】---(「かた」は完全でないの意で、漢字の一部分をとった文字の意) 【国語を書き表すのに用いる文字】で、四八個を一組とする音節文字。平安初期に、南都仏教の学 僧たちの間で、経文に訓点を加えるために万葉がなを簡略化して用いたところに發すると考えられている。 古事記の語り部「稗田阿礼」が語りついできた「古代語」は、漢字渡来でも抹殺されていない。仮名文字として生きる。片仮名や平仮名の文字を得てから、生き様は益々活溌,多様となる。現代に至ると、漢字などは英語等の外来語に押されて、古代の面影は薄れている。其の上、新語創作という新分野がまた活気づいている。コンピュターの文字入力では、「ひらかなカタカナ文字」なしには全く不可能である。このすざましい活動力は何だろう。何処から来るのだろう。日本語とカタカナ語とはいったいどちらが主体か。年代歴史的にいえば、明らかに「カタカナ語」の方が先發である。それが漢字はじめ、次々に外来語を呑みこみ活用して居ると思われぬでもない。また一方、カタカナ語を文字化してくれた漢字の主体性も動かせない。この二つの立場、どちらに主体性を置くか。ここはとくと、考えてみたい。 |
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古代人の「カタカナ言葉」が、渡来した「漢字」で「漢字化」していたが、間もなく、平安 時代に及んで。カタカナ文字を獲得して混合文となり、近代になり外来語の流入、これも呑み込 んで現代日本語が成立した、と、私は考える。ここに、日本語とカタカナ語の区別の存在を認め ざるを得ない。 ここに、「日本語」と「カタカナ語」との相違を明らかに規定して置かなければならない重要 性を感ずる。私にとって「カタカナ語」は、記紀時代以前からの,上古代人からの「發声語」で あり、それが漢字渡来や外来語の流入を消化して、現代語を成立させた言葉であり、この「カタ カナ語」こそ、最も基本的な、根本的な、民族的な、それこそ「百万人の言葉.語」であると、 認識しているものである。 |
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「やまとことば」は、本居宣長が、古事記の表音文字から引き出した發見である。但し、 「やまとことば」はひらがな和語として見出された。本居は、「カタカナことば」を見染めることができなかった。 『倭片仮字反切義解』の検討(国立国会図書館蔵書より。但し句読點を除外した。) 【風聞 大古之代 未有漢字 君臣百姓老少口々相伝 及乎応神天皇御世 始渡儒経学書契 而 凡国家用文字 有真字有仮名 真字對仮字正也 仮字對真字権也 字名義即物名也 言天下之万 物 本無其名 ケツ 非此字 強設其名作此字 譬視水火精之像作両字(火精象君 為天一 水精象臣 為天ニ) 音実欽 ケツ ケツケツ ヒ ル ツ キ ヒ ル ツ キ (実也 光明誠実矣 欽也 満欽々満也)即是日月焉 乃訓日月曰比流図幾 比流図幾即日月 仮字也 ヒ ル ツ キ ヒ ル ツ キ 日月即是比流図幾真字也(比流者徼也 日光徼万物焉 図幾者亞也 月光亞日光也)都不過於 以義為真字 音為仮名而已 是舊事本紀日本書紀所用男仮字 数多皆是也 亦如古事記万葉集兼用真字仮字 以義與音 相雑筆之 到於天平勝寶年中 右丞相吉備真備公 取所通用于我邦仮字四十五字 省偏旁點畫 作片仮字 ア イ ウ エ ヲ 抑四十字音響及阿伊宇江乎五字 此乃天地自然之倭語焉-----以下省略。】 以上の原文から、私の必要な部分のみを摘出して、私釈を試みる。 【大古之代 未有漢字 君臣百姓老少口々相伝】---漢字渡来以前の上古代には、総べての人々 が、口々に相伝していた。と意訳されるが、相伝の方法は何か。文字はなかった、記号、象形 文字などを除外すれば「言葉」しかないであろう。この「言葉」はどんな言葉を、この藤原長 親は考えているのだろう。 【有真字有仮名 真字對仮字正也 仮字對真字権也 字名義即物名也】---漢字文のなかには真 字有り仮名有りで入り混じるが、真字對仮字は正であり、仮字對真字は権である。文字、名称 ,意義は即ち万物の名称である。 【言天下之万物 本無其名 非此字 強設其名作此字---天下之万物を言うことは、万物は本 来其の名称 は無いのだから、強いて其の名を設けてこの字を創作したのである。 ケツ ケツ 【譬視水火精之像作両字(火精象君 為天一 水精象臣 為天ニ) 音実欽(実也 光明誠実 矣 欽也 ケツケツ 満欽々満也)即是日月焉】---譬えば、水火精之像を視て、水火の二字を作る(火の精は君を象 り、天の第一に為るのである。水の精は臣を象り、天の二番目に為る)。音には実と欽とがあ る(実とは光明の誠実なることをいい、欽とは満ちたり、欠けたり、また満ちたりすることを いう)。即ちこれは日月のことである。 ヒ ル ツ キ ヒ ル ツ キ 【乃訓日月曰比流図幾 比流図幾即日月仮字也】---乃ち日月を訓じて「ヒルツキ」という。 「ヒルツキ」は即ち日月の仮の字である。 ヒ ル ツ キ ヒ ル ツ キ 【日月即是比流図幾真字也(比流者徼也 日光徼万物焉 図幾者亞也 月光亞日光也)】---日 月は即ち是れ比流図幾の真実の字である。(比流は見廻った明らかにすることであり、日光が 万物を明らかにしていることをいうのである。図幾は亞也、第二番目である。則ち月光は日光に 次ぐもの、第二番目である) 【都不過於以義為真字音為仮名而已】---都べて、義を以って真の字を為し、音を仮の名と為 すに過ぎないものなのである。 【是 舊事本紀日本書紀 所用男仮字 数多皆是也 亦如古事記万葉集 兼用真字仮字 以義 與音相雑筆之】---舊事本紀、日本書紀は是を数多用い、古事記、万葉集の如きは、真字仮字 を兼用し、義と音とまじえて書いている。 【到於天平勝寶年中 右丞相吉備真備公 取所通用于我邦仮字四十五字 省偏旁點畫作片仮字】 ---前略 我邦に通用する所の仮字四十五字を取りあげて、偏、旁、點、畫を省略し、片仮字を作る。 ここで熟慮すると、取り上げたのは四十五の「仮字」であり、作り終わったのは「片仮字」と 新しい呼称を与えているが、その「片仮字」を幾字作ったのか、ここでは述べていないと思わ れる。ところが後文で「四十字音響」というのが出てくるが、それが、この片仮字に相当する のではないかと考えられる。 【抑四十字音響 及阿伊宇江乎五字 此乃天地自然之倭語焉】---抑も「四十字音響」は阿伊宇 江乎五字に及んでおり、此れこそが「天地自然之倭語」であるのだ、と確信を以って云い切っ ているようである。ところで、この「四十字音響」とは何だろう。「片仮字四十個の音響」と いう意味だろうか。仮字四十五字を取りあげて作つた片仮字であった筈なのに、「四十字」と はどういうことだろう。後文で弘法大師が作った「四十七伊呂波」と考え合わせると、この吉 備真備公の創作した片仮字は、四十字」であつたのであろう。あとで「四十字音響」というの が出てくるが、それが、この「四十字片仮字」に相当するのではないかと考えられる。 また、【抑四十字音響---此乃天地自然之倭語焉】という一文について熟慮する。 この、四十字音響というのは片仮字の音響であり、それはまた、片仮字の元字である仮字の 音響ということになる。例を述べると、【比流図幾】の如きをいう。これは、真字に対しての 仮字である。これの「片仮字」は「ヒ ル ツ キ」である。この片仮字を、我々は一般に【カタカナ】 と呼称している。【片仮字とは、カタカナ文字のことである】、ということになれば、【抑四十 字音響---此乃天地自然之倭語焉】という一文は「カタカナ文字の音響は---此乃天地自然之倭 語焉」に置き換えられる。即ち【カタカナ言葉は天地自然の倭語である】 という哲理が 導き 出されるのである。これは真に重大な問題である。 ◎以上で、【倭片仮字反切義解】の私釈を終了する。 【カタカナ言葉は天地自然の倭語である】。【花山院 藤原長親】がこれを明らかにした。これは 一大功績と讃えたい。 カタカムナの哲理は、○と十との合体である。即ち、陰陽の相対を丸く納めて存在している 「天地自然」そのものの、○(球形)の姿なのである。二万年程の上古代人が、純粋な感覚で、「天地 自然」から受容したもの、「天地自然」の万物が發している音響、それを感じ取ったもの、そ れを言葉に表現したもの、それが【カタカナ言葉】即ち【倭語】である。そこで、【カタカナ 言葉は天地自然の倭語である】という哲理と一致するのである。 カタカナ言葉の重大性を改めて確信し、認識するものである。と同時に、「カタカムナ文献」 の存在価値をも認めざるを得ないのである。 ◎以上で『倭片仮字反切義解』の検討を終る。 【カタカナ言葉は天地自然の倭語である】ということ、「日本語」はカタカナ言葉という大地 から咲き出た花である、ということ。このように私は結論し規定する。 ◎以上で、【百万人の歴史】の【日本語とカタカナ語】を閉じて、 【日本国とカタカナ国】へ続く |
(私論.私見)