【カタカムナ語とアイヌ語の通底性考】 |
(最新見直し2009.3.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、カタカムナ語とアイヌ語との通底性を確認する。「土蜘蛛正統記」がこれに挑んでいるように見受けられる。おおいに啓発させていただく。 2009.3.19日 れんだいこ拝 |
【カタカムナ語考】 |
日本列島の最古の昔よりいわゆる縄文時代になって、現在のアイヌは北海道の一隅に住むが、アイヌが当時の日本列島の全土に居住していたと思われる。倭人とは、アイヌ人を含む古代日本列島生息人の総称と理解するべきであろう。その頃のアイヌ人の言語を仮にアイヌ語と命名すれば、カタカムナ人のカタカナ語と通底しているように思われる。アイヌ語とカタカナ語の比較をすると、カムイが興味深い。アイヌ語で神を意味するが、カタカムナ語でも「充実した最高のチカラ。あらゆる現象を発現させる根源のチカラ。潜象であるが確かに存在する究極的な本質」という意味になる。 記紀の文字は全文漢字で書かれている。漢字の表意表音(音訓)を当時の日本語に当て嵌めた万葉がなで綴っているところに特徴があるが、一部に漢字の表意では意味の通じない個所がある。これらがカタカナ語に相当する。例えば、魏志倭人伝の「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入る。辞を伝え事を説くに或いは蹲(うずくま)り或いは跪(ひざまづ)き、両手は地に拠り、これが為に恭敬す。対応の声を噫(アイ、イ)と曰い、比するに然諾の如し」の記述がある。ここの「噫(アイ、イ)」がカタカムナ語と思われる。 カタカナの歌の基調は「五.七」である、これは漢詩とは全く異なる。 ここに消滅させることのできなかった、漢詩にもできず、表意文字にもできなかった、民族性の強さを感ずる。 |
【カタカムナ語と万葉仮名の通底考】 | |
漢字を向こうの読み方をまね、意味もそのままで 用いるのだから「正音」という。漢字の意味に従いながらも、 読み方はそれに当たるやまとことばをあてるのを「正訓」という。これに対して、意味を無視した
ものを「借音」、「借訓」という。「しが」という地名を「志賀」と書くのは「借音」、「あひみつるかも」 を「相見鶴鴨」と書くと、「鶴鴨」の部分が「借訓」である。借音はあらゆる固有名詞に応用可能な点優れ、
借訓は簡潔であることで優れていた。このほか、「十六」と書いて「しし」と 読む暗号のような戯訓(ふざけよみ)など、多様な表記がある。これらすべてを総称して「万葉仮名」
という。漢字の本来の使い方から外れた仮の表記だから「仮名」なのであり、これに対して漢文は 「真名(まな)」と呼ばれた。 「仮名」が必要になるのは、もう一つは歌の表記のためである。 歌は意味が通じればいいというものではなく、音の響きをも楽しむものでもある。このため、歌は一音節 一音節漢字をあてはめて表記されることが多かった。しかも、日本語には中国語にない、助詞、助動詞の たぐいが多く、動詞などもしきりに活用する。このため、同じ音はできるだけ同じ漢字で表す習慣が 一般化し、どうせ同じ漢字を使うなら、字形を簡単にしたほうがいいということで、漢字を崩した ひらがなや字画の一部をとったカタカナが一般化した。こうして漢字で表せるところは漢字、表せない ところは仮名という漢字仮名交じり文が成立し、今日にまで続いている。 音韻組織の異なる中国語の文字である漢字を、いわば外来語として借用する漢字の「音」用法 だけでなく、意味の翻訳・対応に基づいて、固有日本語を表記する漢字の「訓」用法まで成立させたこと は注意していい。 さらに、仏教における「悉曇学」(古代サンスクリット語学)の学習は、漢詩 の「平仄(ヒョウソク)」、漢字音の「反切」とあいまって、音韻・音素的な見方を促し、「五十音図」へと 導いた。
|
【万葉仮名のカタカムナ語による翻訳考】 | |||
【カタカナ言葉は天地自然の倭語である】
|
(私論.私見)