短歌 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.3.20日
【出雲和歌/須佐之男命】 | ||
(解説) 古事記に登場する日本最古の和歌。和歌から連歌が生まれ、そこから俳句、川柳が生まれる。 |
【倭建命】 | ||||||
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【民のかまど】 | |||||||||||||||||||||||||||
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【主な派生歌】は次の通り。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nintoku.html |
【天智天皇】 | ||||||
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【衣通郎姫】 | |||
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【額田王】 | ||||||
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【大海人皇子】 | ||||||
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【大津皇子】 | ||||||
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大津皇子が恋人の石川郎女に送ったとされる一首。あしひきは枕詞。 |
【笠女郎】 | |||
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【磐姫皇后】 | |||
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【持統天皇の歌】 | ||||||
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持統天皇は第41代の女性天皇。歌人の柿本人麻呂(かきのもとの ひとまろ)を庇護(ひご)したといわれている。 |
【大伴家伝承の歌】 | |||
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【大伴旅人(おおとものたびと)の歌】 | |||||||||
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【大伴坂上郎女()の歌】 | |||||||||
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【大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)の歌】 | ||||||||||||
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【山上憶良(やまのうえのおくら) の歌】 | ||||||
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【柿本人麻呂(かきのもとの ひとまろ) の歌】 | |||
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柿本人麻呂(かきのもとの ひとまろ)は飛鳥時代の歌人で、三十六歌仙の一人。山部赤人とともに歌聖(かせい)と呼ばれる。 |
【山部赤人(やまべの あかひと)の歌】 | ||||||
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山部赤人(やまべの あかひと)は奈良時代の歌人で、三十六歌仙の一人。柿本人麻呂とともに歌聖(かせい)と呼ばれる。 |
【光明皇后()の歌】 | |||
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【御歌】 | |||||||||
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【小野老(おのの おゆ)の歌】 | ||||||
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小野老(おのの おゆ)は奈良時代の貴族、歌人。 |
【兼明(かねあきら)親王の「七重八重花歌」】 | |||
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出典は「後拾遺和歌集」の兼明(かねあきら)親王の句。七重八重花は、実を結ばない花であることを踏まえて詠っている。狩の途中、蓑を借りようとした太田道灌(どうかん)に、土地の娘が無言で山吹の一枝を差し出した逸話にちなむ和歌である。道灌は、古歌の意味が分からず恥をかき、以来歌道に励んだと伝えられている。 |
【河原左大臣の歌】 | |||
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【清原深養父・清少納言の曽祖父の歌】 | ||||||
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藤原家は和歌の学者の家系なのです。彼の和歌は、古今和歌集、後撰和歌集にたくさん選ばれている。彼は琴の名手としても名高く、芸術を愛した人といわれる。紀貫之の友人だったそうです。 |
【藤原兼輔・紫式部の曽祖父の歌】 | ||||||
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清少納言は、一条天皇の皇后定子(ていし)、紫式部は中宮彰子(しょうし)に仕え、王宮で確執した。この歌は、最近のコンピューター解析により、清原深養父の元歌に藤原兼輔が替え歌している様子が判明した。平安時代を代表した清少納言と紫式部の因縁の関係が曽祖父時代からのものであることが明らかとされ、話題を呼んでいる。 |
【**の歌】 | |||
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【儀同三司母の和歌の歌】 | |||
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【僧正遍照(そうじょう へんじょう) の歌】 | |||
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遍照は平安時代の僧・歌人で、六歌仙及び三十六歌仙の一人。桓武天皇の孫でありながら、出家して天台宗の僧侶となった。 |
【安倍仲麿(あべの なかまろ)の歌】 | ||||
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【伊勢大輔(いせの たいふ)の歌】 | |||
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伊勢大輔(いせの たいふ)は平安時代の女流歌人で、三十六歌仙の一人。 |
【猿丸大夫(さるまるだゆう、さるまるのたいふ)の歌】 | |||
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猿丸大夫(さるまるだゆう、さるまるのたいふ)は三十六歌仙の一人。実在を疑う説もある。 |
【()の歌】 | |||
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【藤原家隆(従二位家隆)()の歌】 | |||
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藤原家隆は、新古今和歌集の選者の1人。藤原定家(97番)とは従兄弟であり友人です。この和歌は、後堀川天皇のもとに中宮が入内するとき、屏風に合わせた歌をと依頼されて、詠んだものです。 |
【藤原道長(ふじわらのみちなが)の歌】 | |||
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【藤原道信(ふじわらの)の歌】 | |||
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【藤原忠通(ふじわらの)の歌】 | |||
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【藤原実定(後徳大寺左大臣)(ふじわらの)の歌】 | |||
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藤原実定は、詩歌だけでなく、今様・神楽・管絃の名手で、蔵書家としても知られる才能豊かな人だった。ホトトギス、時鳥、郭公、全部ホトトギスと読む。 |
【藤原敏行(ふじわらの としゆき)の歌】 | ||||
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藤原敏行は平安時代の貴族、歌人・書家で三十六歌仙の一人。家集に『敏行集』がある。 |
【藤原義孝(ふじわらの よしたか)の歌】 | |||
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藤原義孝(ふじわらの よしたか)は、天然痘のために、兄と同日に21歳で亡くなった。美貌であったため、疱瘡の傷痕が顔に残ったことを苦にして自殺したとも言われている。 |
【藤原敦忠(ふじわらの )の歌】 | |||
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【藤原有家(ふじわらの )の歌】 | |||
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【藤原良経(ふじわらの )の歌】 | |||
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【藤原俊成(ふじわらの )の歌】 | |||
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【藤原秀能(ふじわらの )の歌】 | |||
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【藤原兼輔(ふじわらの )の歌】 | |||
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【藤原公任(ふじわらの )の歌】 | |||
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【藤原清輔(ふじわらの )の歌】 | |||
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【右大将道綱母( )の歌】 | |||
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右大将道綱母は藤原兼家の嫁。 |
【権中納言敦忠( )の歌】 | |||
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【曾禰好忠( )の歌】 |
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【源順( )の歌】 |
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【俊恵法師( )の歌】 |
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【能因()の歌】 | |||
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【寂蓮()の歌】 | |||
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【式子内親王の歌】 | |||
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【順徳院()の歌】 | |||
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【菅原道真(すがわらの みちざね)の歌】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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菅原道真は、平安時代の貴族で学者、政治家、歌人として名を残した。九州の大宰府へ左遷された2年後に亡くなりましたが、死後に天変地異が多発したため「天神様」と恐れられました。現在では、学問の神様、受験の神様として親しまれる存在となっている。 |
【崇徳院(すうとくいん)の歌】 | |||
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【小野小町(おのの こまち)の歌】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【和泉式部()の歌】 | ||||||
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【紫式部()の歌】 | |||
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【清少納言()の歌】 | |||
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【藤原俊成女()の歌】 | |||
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【建礼門院右京大夫()の歌】 | |||
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【永福門院()の歌】 | |||
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【慈円()の歌】 | |||
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【宮内卿()の歌】 | |||
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【光厳院()の歌】 | |||
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【大江千里(おおえのちさと) の歌】 | ||||||
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【赤染衛門() の歌】 | |||
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【在原業平(ありわらの なりひら)の歌】 | ||||||||||||
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在原業平(ありわらの なりひら)は平安時代の貴族、歌人で六歌仙および三十六歌仙の一人。古くから美男の代名詞とされ、鷹狩りの名手であったといわれている。 |
【在原行平()の歌】 | |||
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【紀友則(きの)の歌】 | |||
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【紀貫之(きのつらゆき)の歌】 | |||||||||||||||
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紀貫之は、古今和歌集の選者の1人で、『土佐日記』の作者としても有名。古典文学史上、最大の敬意を払われてきた人物とさえ言われている。 |
【壬生忠岑( )の歌】 | |||
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壬生忠岑は、「古今和歌集」の選者の1人です。身分は低いのですが、優れた歌人として、多くの歌人に称賛されているのでした。「あかず」は「飽かず」(飽きない)と「明かず」(夜が明けない)の掛詞。 |
【素性法師( )の歌】 | |||
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素性法師は、三十六歌仙の一人で、僧正遍照の息子。父の命により若くして出家しましたが、和歌の才能があり、出家後も宮廷で重用された。 |
【蝉丸( )の歌】 | |||
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【平兼盛( )の歌】 | |||
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【平忠度( )の歌】 | |||
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【平維盛( )の歌】 | |||
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【藤原定家(ふじわらの さだいえ)の歌】 | ||||||
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【一休宗純禅師】 | |
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【西行法師】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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西行(さいぎょう、佐藤義清)は武門の家に生まれ、鳥羽上皇に仕えるものの、友人の急死により世の無常を知り、23歳の若さで出家し家族を捨て、故郷を捨てた。その後は吉野その他で草庵の生活をしていたと伝えられている。漂白の旅に出るなどし凡そ22,000首の和歌を残している。新古今和歌集には944首が入集するなど、中世を代表する歌人である。西行は、しばしば諸国を旅して多くの和歌を残している。享年73歳。その影響を受けている松尾芭蕉は、西行の歌の題材となった名所旧跡などを訪れている。 |
【清原元輔】 | |||
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【右大将道綱母】 | ||||
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【大田資長(後の大田道灌)】 | ||
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東京都庁の道向にある「新宿中央公園」は、新宿高層ビル群の一角にある貴重な緑地として区民の憩いの場となっている。その一画にある「久遠の像」は江戸城を築城した武将、太田道灌の「山吹伝説」を題材にした作品である。「山吹伝説」は次の通り。 或る日、道灌が鷹狩りに出かけた折、にわか雨にあった。近くの農家に駆け込み蓑を貸してくれと頼んだところ、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は蓑を借りる事ができず、花では雨がしのげぬと怒って帰った。その道灌が、城でこの件を家臣に話したところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間の茅葺きの家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。それを聞いた道灌は不明を恥じ、歌道にいっそう精進するようになったと云う。落語にこの故事をもとにした「道灌」という演目がある。この伝説の地ははっきりは分かっていないが、新宿区内には山吹町の地名が残されていて候補地の一つである。 |
【源実朝(みなもとの さねとも)の歌】 | |||
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源実朝(みなもとの さねとも)は源頼朝の子で、鎌倉幕府・第3代征夷大将軍。満26歳で暗殺された。 |
【四方赤良・よものあから】 | |||||||||
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【**】 |
「今は梅干婆あでも 若いときには色香も深く うぐいす鳴かせた こともある」 |
【頓阿】 | |||
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【後鳥羽院】 | |||
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【伏見院】 | |||
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【右近】 | |||
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【相模】 | |||
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【左京大夫道雅】 | |||
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【中臣宅守】 | |||
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【良寛】 | |||
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【本居宣長】 | |
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(私論.私見)
右近の「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」
嫉妬の有名な恋の短歌三つ目は、相模の「恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ」
左京大夫道雅「今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな」
中臣宅守の「たちかへり 泣けども吾は しるし無み 思ひわぶれて 寝る夜しぞ多き」。
『伊勢物語』より「夏」の和歌
9.暮れがたき 夏の日ぐらし ながむれば そのこととなく 物ぞ悲しき
『伊勢物語』第四十五段「ゆく蛍」
10.彦星に 恋はまさりぬ 天の河 へだつる関を 今はやめてよ
『伊勢物語』第九十五段「彦星」