レトリック

 (最新見直し2006.9.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 言語に関する解説のページ」の「レトリックって何?」、「巧言令色少ナシ仁」その他を参照し、れんだいこ風に咀嚼して私見を書き付けておく。

 レトリックとは、学問的には「修辞法」と表現されているものの総称である。その用法として、諸々の間接的表現、例えば1・比喩(直喩、暗喩あるいは隠喩)、2・擬人法等がある。他にも3・皮肉表現、4・婉曲話法、5・反復法、6・枕詞(まくらのことば)技法等々がある。大過ない場合には「ちょっと凝った言い方」と言い換えても良い。

 レトリックは、1・善用される場合(これを仮に「レト善用系」と云う)と、2・「ウソも方便」のように許容される場合(これを仮に「レトウソも方便系」と云う)と、3・騙しのテクニックとして悪用される場合(これを仮に「レト悪用系」と云う)とがある。1の「レト善用系」は、言語を豊かにしているという効用がある。2「ウソも方便系」的用法の場合は、言語を豊かにするというより許容される表現と云うべきであろう。以上の場合は、「ちょっと凝った言い方」とみなすことができる。3の「レト悪用系」の場合は、意図的に使われているので、これをとやかく批判しても仕方ない。これを聞かされる方が察知して見破らねばならない。

 更に、長大な文章の文意全体が「プロパガンダ用詭弁レトリック」という場合がある。これはかなり高等戦術であるが、やはり察知して見破らねばならない。以下、これを検証する。

 2006.9.10日 れんだいこ拝



【「傷は浅いぞしっかりしろ」考】
 「傷は浅いぞ、しっかりしろ」は、立派なレトリックである。本来なら、「傷は深いぞ、しっかりしろ」と云い為す場合であるが、敢えて「傷は浅い」と云うことで気丈夫にさせようとしている。こういう場合のレトリックはいわば善玉系であり許容されよう。逆に、「傷は深いぞ、頑張っても無駄だ」と云ったとしたらどうなるか。そういうバカな物言いはしないと思うが、実際にはこういう悪玉系的用例も多い。実際よりも大袈裟に、深刻に、エキセントリックに使われる場合が多い。これを見分けることが肝要であり、れんだいこ論理学ではかなり重視している。

 次に、長大な文章の文意全体が「プロパガンダ用レトリック」という場合がある。史上の「ホロコースト600万人虐殺論」、「南京大虐殺50万人事件論」は、れんだいこ研究によれば明らかに「レト悪用系」の例である。が、いわゆる左派は、ホロコースト、南京大虐殺事件の実態精査に向うよりも政治的効用の方に重心を置き過ぎている。これに疑義を差し挟むと途端に、ヒステリックな罵詈雑言を投げかけることが左派の証しとでも勝手に思い込み、日頃の紳士風の物言いをかなぐり捨てて恥じない。れんだいこは、そういう御仁の説教を何度も聞かされてきた。

 学問的研究姿勢で事件を立論する者に対し、自称インテリを自認している者が平然と「議論せぬのが最上対抗策、相手の素性を詮索するのが必要事」なる言辞を弄していたりする。まさに馬鹿馬鹿しい。れんだいこ党が政権取れば、こういう手合いを歴史法廷に引きずり出し、弁証できなければ役職から外し、お前はインテリを自称する資格なしとして肩書きを外し、真の有能者を登用していくことにする。アホな者を上層部に置くと、時流を嗅ぎ取り御身保全に汲々とし始め、必要な議論をそっちのけにしてしまう習性がある。そういう者には特権を与えず、一市井人として棲息して貰おうと思う。それでは困るとして権力にすりより、警察国家に道を開く者を保守反動というのではなかろうか。党派の場合には、これを指導者資質論で考えれば良い。左派党派であろうとも、言辞はどうであれ、執行部免責、万年安泰政権を弄する者は保守反動であろう。

  なお、「プロパガンダ用レトリック」かどうかは慎重に精査せねばならない。分別形成途上の者にとって、自己に不都合な見解だからという理由で安易にレッテルを張ってはならない。事象には「真相は藪の中」という面があり、あるいは「どっちもどっち」という面もあり、見る角度によって「どちらも正解」という面もある。そういう質を持つ事象の場合には、聞き分けする能力が必要であろう。いずれにせよ、反対意見や見識を聞くことも有益であろう。故に、ほとんど常に喧々諤々こそ研究の栄養素と受け止める必要がある。

 善人面で柔和に語りかけてこようとも、研究上の生命であるこの作法を否定する者及びその議論を警戒せよ。これが結論となる。

 2006.9.10日 れんだいこ拝

【「詭弁レトリックの実用例に対するれんだいこの検証」】
 「マルコポーロ廃刊の内幕」なる一文がネットに公開されている。れんだいこが判ずるのに、これは典型的な「詭弁レトリック文」である。故に、この一文を解析することで、「詭弁レトリック」の実際の使われ方を晒してみようと思う。この一文は、阿修羅ホロコースト3」のたけ(tk) 氏の2006.9.9日付投稿「マルコポーロ廃刊の内幕。『事実の検証』を『反ユダヤ主義』と言い換えるレトリック」で紹介されている。

  デイヴィッド・グッドマン/宮澤正典(藤本和子訳)「ユダヤ人陰謀説:日本の中の反ユダヤと親ユダヤ」(講談社、1999.4月)によると、雑誌マルコポーロの廃刊は、西岡論文を奇禍としてユダヤ人権団体が激しく糾弾したためではなく、「発行元編集部の御家騒動が原因だ」と云う風に詐術し、それをさも本当らしく立論しているようである。

 この結論を裏付けるために、「当時の文芸春秋社社長・田中健五とマルコポーロ編集長・花田和凱(はなだかずよし)氏の売らんかな主義」に照準を当て縷縷論証している。そして、結論を次のように云う。
 「ユダヤ人団体による広告停止要請に応える形で起きたように見えた『マルコポーロ』廃刊事件は、じつはこのように、ユダヤ人やホロコーストとはほとんど関係のない文芸春秋社内のお家騒動にすぎなかった。そして文芸春秋が西岡論文の内容に正面から取り組むことは、ついになかった。記者会見で田中健五は、ガス室は本物だと思いますか、という質問に対して「それはあなたと論争できない。私はイスラエルに行ったことがあるけれども、アウシュビッツには行ったことがありませんから」と答え、最後までホロコーストの史実を疑問視しているという印象を強く残したのである。廃刊事件はつまるところ、『ユダヤ人』という題材をいいように利用する、商品になりさがったジャーナリズムの典型が具体化されたものにすぎなかった」。

 しかし、こういうことをいくら述べたところで、マルコポーロ廃刊が西岡論文を奇禍として始まった史実はどうなるものでもない。同誌が政治言論誌である以上、西岡論文に対抗する言論を併載すれば良いことで、廃刊する事態まで追い込む必要はない。こう述べると、廃刊は文芸春秋社の自己決断とでも言い直すのだろうが、同社をそのような判断に追い込んだ史実はどうなるものでもない。つまり、事態を説明するには本筋ではないレトリック詐術で結論を誤魔化しているだけのことになる。こういう使われ方が「詭弁レトリック」の実例である。

 当然に次のように指摘されている。
 「『マルコポーロ廃刊事件は、ユダヤ人やホロコーストとはほとんど関係のない文芸春秋社内のお家騒動にすぎなかった』と結論づける言説は、レトリック(「まっすぐにものを言わない」方法)の典型と言えるのではないだろうか?」。
 「たけ(tk)はユダヤ人がユダヤ人の立場でレトリックを駆使することにはあまり憤慨しない。ヒトが自らの利益のために、レトリックを駆使して、自らの有利なほうに、人びとを誤導していこうという傾向は、誰にでもあるだろう。たけ(tk)が憤慨するのは、そのようなレトリックにころっと騙されて、まことしやかにお説教を垂れる知識人のほうだ」。

 オツムの弱い者はこの程度のレトリック文で誤魔化されてしまう。小泉はんの「自衛隊の居るところが安全地域云々」もその一種であろう。




(私論.私見)