【認識】論理学

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.1.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは最初の項目である認識論(事象認識の作法、主として分析)について考究する。論理学の対象の最小単位は、事象をどう見るのか、判断するのか、実践に生かすのかということの第一歩としての認識論から始まるということである。論理学の学に至る前提部分である。

 認識学は従来概念論とも呼ばれているが、詳しく見ると、認識論、認識精度論、識別論、概念論、範疇論から構成されていることが分かる。いずれも、素養として言語学と哲学の根本問題が関係してくる。これに文章技術的な命題論が加わる。かく設定するところがれんだいこ実践論理学の学的偉業である。


【認識論】
 認識論とは、従来、一般には感覚との対立として問われる理性的思惟活動のようにみなされているが、そうではないだろう。人間が持っているあらゆる能力(視覚、嗅覚、味覚、聴覚、触覚、察知覚、直感)を、どのように感覚又は思考で把握し、言語で表現するかの第一義的領域の思惟論と云える。つまり、人間の認識活動は感覚を排除するものではない。こう理解すべきだろう。この規定もれんだいこ実践論理学の学的偉業である。なぜそのように自賛するかというと、せねば違いが分からないからである。

 認識は、外観法(体験、経験、観察、実験)から生まれるが、ある一定の力がつくと内観的瞑想法からも生まれる。いずれも分析判断によって更に吟味される。

 認識には、先へ進まなくて良い先入観というのもあるが、これは学にならない。近代哲学の偉大な哲学者の一人イギリスのベーコン(Francis Bacon、1561〜1626年)は、偏見とか、先入見(先入観)とか、幻影による呪縛を「イドラ」と呼んで考察した。それによれば、イドラには次の4種類があるとした。論理学においては、これらを知り排除することが前提になっている。

種族のイドラ  人間という種族に共通する偏見。
洞窟のイドラ  個人の性癖、環境などに由来する、その人独特の偏見。洞窟の中にいて光が入らず、何も見えない例え。
市場のイドラ  噂や言葉の不適切な使用などから来る偏見。市場での風聞に例えている。
劇場のイドラ  権威のあるものを批判せず受け入れてしまうことから発する偏見。劇場での舞台や芝居になぞらえたもの。

 認識論では、1・言語学上の言葉の各意味の定義と文法、2・唯物論と観念論、弁証法と形而上学の根本問題、認識の精度論、3・概念の定義、4・命題の構造分析が問われる。以下、1の言語学は、論理学以前の問題として考察を別の箇所に譲る。2の唯物論と観念論、弁証法と形而上学の根本問題も別の箇所(マルクス主義論の項)に譲り、ここでは認識の精度論を取り上げる。3の概念論も哲学の章で論ずる。4の命題の構造分析では外形構造を取り上げることにする。


【認識の精度論】

 論理学の最初にしておかねばならないこととして【認識の精度】問題がある。これを解析する。【認識の精度問題その一】として、脳髄への客観的反映の直列如何という問題がある。つまり、ストレートに反映するのか屈折して反映するのかという問題である。従来、論理学上この問題の考察は不十分で、直列的な反映論を前提として認識論が展開されているように思われる。しかし、れんだいこは、そのような理解は粗雑だと思っている。今後次のように見直される必要があるだろう。

 認識は、我々の五感(視覚・味覚・嗅覚・聴覚・触覚等々)及び第六感まで含めてキャッチされた情報が一旦脳で咀嚼されて生み出されるものであり決して直列反映模写ではない。なお、この生み出され方に個体差があることも認められ前提とされるべきではなかろうか。

 かくして、我々の事象認識には各人で微妙な食い違いがあり、その個性差を認め合わねばならないという作法が必要であるということになる。その上で、共通認識としての【識別論】、【概念論】が為されるべきであろう。これが【認識の精度問題その二】となるが、この個体差はそれ自身個々の認識の個性としての特殊面と未熟なるが故の屈折による歪みの両面があるのではなかろうか。この歪みに対して、例えて云えば稽古ごとの世界では段級位で上達を目指そうとしている。これが実相なのではなかろうか。残念ながら、この辺りの微妙さに対して学問が追いついていないように思われる。

【認識の精度問題その一】、【認識の精度問題その二】を突き詰めて行くと【認識の精度その三】=真理観問題に至る。いわゆる絶対的真理、相対的真理、その反映としてそもそも共通認識がどの辺りまで得られるのかどうかという哲学上の根本問題が宿されている。これらを論じた後に、初めて論理学の世界に立ち入ることができることになる。

【認識の精度】の考察抜きに論理学を考察することは、論理学上の真偽問題と認識論上での真理問題との混同に繋がる。この指摘の重要性は特殊論理学の項で大いに関係してくる。


【識別論】

【認識の精度】を高めていくことは、不断に事象・事物の識別をしていく過程でもある。この識別過程は、【本質と仮象】、【内実と現象】、【実体と形式】、【質と量】、【次元識別】等々を為すことにある。


【概念論】

 認識活動における【精度・識別】過程を通じて措定された個々の事象・事物の概念が探索され認識把握に向かうことになる。その果実を概念と云う。概念は、哲学史上の観念論的規定によれば、イデアの外化されたものであるからして実相としてのイデアを観ることになり、唯物論的にはそのものずばりの本質規定ということになる。但し、これを形而上学的に観るのか弁証法的に観るのかで流派が分かれている。れんだいこの実践論理学は唯物弁証法の観点に立つ。


【範疇(範疇)(ドイツ語でカテゴリー・Kategorie)】

 「書経(洪範)」の「洪範九疇」の語による井上哲次郎の訳語として「範疇」があるが、認識論の素養としてその意味が踏まえられておかねばならない。れんだいこの理解によると、「同じ性質のものが属する部類、部門、領域に対する総称概念」と解する。

 一般には、「範疇」とは、「実在や思惟の根本形式。概念のうちで最も一般的・基本的な概念」と哲学的に理解されている。アリストテレスは、「事物を述語へと一般化する究極のもの」、「最高類概念」として、実体・量・質・関係・場所・時間・位置・状態・能動・所動の10項目を挙げている。カントは、「経験的認識を得るための悟性の働きの形式」として、量(単一性・数多性・全体性)、質(実在性・否定性・制限性)、関係(実体・原因性・相互性)、様相(可能性・現存性・必然性)の4項12目を挙げている。悟性概念とも言い表わした。

 しかし、さほど難しく云う必要はなかろう。「範疇」とは、「同じ性質のものが属する部類、部門、領域に対する総称概念」であって、「他の質との差を際立たせるために括って纏める一連の等質的概念」とでも表現すれば良いと思われる。


【命題】

 概念を文意化することにより「命題(proposition)」が与えられる。「命題」は、同一概念の下での「定義(definition)」、「公理(tke axiom)」、「仮定(a hypothesis)」、「例外」の各規定から構成される。いわば、これらは論理学上の小道具であると云える。


【命題論(propositio)】
 アリストテレスの「命題論」4章以下で、命題の主語項と述語項からなる構造、命題の質(肯定・否定)、量(全称・特称等)およびこれの組み合わせによる4種(A=全称肯定・I=特称肯定・E=全称否定・O=特称否定)の定言命題間の〈対当〉関係、さらには、複数の定言命題を接続させてできる仮言命題、可能・不可能や必然・偶然といった様相さらにはこれに過去や未来という時制が加わった様相命題などの基本的性質が精緻に考察されている。

 近世においては、様相命題は省略されることが多く、またスッポシシティオ論が項辞論から落ちたことと関連して、ここで主語項および述語項の、〈周延〉についても論じられるようになった。

 こうして従来の論理学では、命題は「判断」と捉えられるため、この部分は「判断論」の範疇に入れられる。が、れんだいこの実践論理学では、命題の外形構造についてはプレ判断論とみなす方が適切ではなかろうかという捉え方から認識論として取り込むことにする。

【命題の外形構造その1、要素命題と複合命題】
 「命題の外形構造」は、「要素命題と複合命題」から成る。これを「命題の外形構造その@」と云う。

要素命題

 文としてそれ以上分解できないような文・最小単位となるような文。否定子と接続詞を含まない単文を要素命題と云う。

「今日は晴れている」

複合命題

 複数の要素命題に分解できる。逆から云うと、要素命題が組み合わさって複合命題ができる。

「今日は晴れていて暖かい」

【命題の外形構造その2、命題の結合関係の種類】

 各命題あるいは命題間は、次の論理的結合子によって繋がっている。

 日本語接続詞  英語接続詞  論理記号
肯定  〜である
否定 negation  〜でない  not
¬p pでない
連言 conjunction  〜かつ―  and
p ∧q pかつq
選言 disjunction  〜または―  or
p ∨q (pまたはq)
 二つの文を結合する事によって二つの文のうち少なくと一方を主張する働き。
条件法  〜ならば―  if
p →q (pならばq)
 条件法記号(→)は2つの文を結合することによって条件文を構成する働きがある。前件pが成立するときに後件qが成立することを主張する。
等値  〜でありかつその時に限り―   if, and only if
p ≡q (pでありかつその時に限りq)




(私論.私見)