桐壷

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.3.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「桐壷(きりつぼ)16節」を確認する。「角川文庫 全訳源氏物語(与謝野晶子訳)」の「桐壷(きりつぼ)」その他を参照する。

 2007.10.7日 れんだいこ拝


【1、桐壷(きりつぼ)16節の見出し
1-1 父帝と母桐壺更衣の物語
1-2 御子誕生(一歳)
1-3 若宮の御袴着(三歳)
1-4 母御息所の死去
1-5 故御息所の葬送
1-6 父帝悲しみの日々
1-7 靫負命婦ゆげひのみょうぶの弔問
1-8 命婦帰参
1-9 若宮参内(四歳)
1-10 読書始め(七歳)
1-11 高麗人の観相、源姓賜る
1-12 先帝の四宮(藤壺)入内
1-13 源氏、藤壺を思慕
1-14 源氏元服(十二歳)
1-15 源氏、左大臣家の娘(葵上)と結婚
1-16 源氏、成人の後

【1、桐壷(きりつぼ)16節のあらすじ
 あらすじは次の通り。
 源氏物語の主人公となる光源氏の生母が帝に見初められ、桐壺更衣として宮仕えする。帝の寵愛を受けるが、生母の父は大納言、母は旧家の出で教養もあったが身分が中位であった為、高位の女御(にょうご更衣(こういのイジメを受け悩まされる。体調を悪くして宮下がりする。その後、桐壺が玉のような御子を生む。御子が3歳の頃、生母桐壺が逝去する。父帝の悲しみが綴られる。御子7歳の時、御子が源氏姓を賜り光源氏となる。12歳の元服を迎える。その後、左大臣家の娘(葵上)と結婚する。

1-1、父帝と母桐壺更衣の物語
 いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなきにはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。  どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。
はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉(ねた)み給ふ。 最初から自分こそはという自信と、親 兄弟の勢力に恃む所があって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。
同じほど、それより下臈(げろう)の更衣たちは、ましてやすからず。 その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬の焔を燃やさないわけもなかっ た。
朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、 夜の御殿の宿直所から退る朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見耳に聞いて口惜しがらせた恨みのせいもあったかからだが弱くなって、
いと篤(あつ)しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、 心細くなった更衣は多く実家へ下がっていがちということになると、
いよいよあかずあはれなるものに思ほして、 いよいよ帝はこの人にばかり心をお引かれになるという御様子 で、
人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。 人が何と批評をしようともそれに御遠慮などというものがおできにならない。
 上達部(かむだちめ)上人(うえびと)なども、あいなく目を側(そば)めつつ、「いとまばゆき人の御おぼえなり。 御聖徳を伝 える歴史の上にも暗い影の一所残るようなことにもなりかねない状態になった。高官たちも殿上役人たちも困って、御覚醒になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度を とるほどの御寵愛ぶりであった。
唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれ」と、 唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の女の出現によって乱が醸されたなどと蔭ではいわれる。
やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、 今やこの女性が一天下の煩いだとされるに至った。馬嵬の駅がいつ再現されるかもしれぬ。
いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひ給ふ。 その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気の中でも、ただ 深い御愛情だけをたよりにして暮らしていた。
父の大納言は亡くなりて、母北の方なむいにしへの人のよしあるにて、 父の大納言はもう故人であった。
親(うち)具し、さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにもいたう劣らず、なにごとの儀式をももてなし給ひけれど、 母の未亡人が 生まれのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢カのある派手な家の娘たちにひけをとらせな いよき保護者たりえた。
とりたててはかばかしき後見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。 それでも大官の後援者を持たぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。

1-2、御子誕生(一歳)
 先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子(をのこみこ)さへ生まれたまひぬ。  前生の縁が深かったか、またもないような美しい皇子までがこの人からお生まれになった。
いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌(かたち)なり。 寵姫を母とした御子を早く御覧になりたい思召しから、正規の日数が立つとすぐに更衣母子を 宮中へお招きになった。小皇子はいかなる美なるものよりも美しいお顔をしておいでになった。
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲(もうけ)の君と、世にもてかしづき聞こゆれど、 帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生まれになって、重い外戚が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、
この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物(わたくしのもの)に思ほしかしづき給ふこと限りなし。 第二の皇子の美貌にならぶことがおできにならぬため、それは皇家の長子として大事にあそばされ、これは御自身の愛子として 非常に大事がっておいでになった。
初めよりおしなべての上宮仕(うえみやづかへ)し給ふべき際(きわ)にはあらざりき。 更衣は初めから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった。
おぼえいとやむごとなく、上衆(じょうず)めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、 ただお愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女と言ってよいほどのりっぱな女ではあったが、始終おそばへお置きになろうとして、
さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参(まう)上(のぼ)らせ給ふ。 殿上で音楽その他のお催し 事をあそばす際には、だれよりもまず先にこの人を常の御殿へお呼びになり、
 ある時には大殿籠(おおとのごもり)過ぐして、やがてさぶらはせ給ひなど、あながちに御前(おまえ)去らずもてなさせ給ひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、 またある時はお 引き留めになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができずそのまま昼も侍しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、
この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、 皇子のお生まれになって以後目に立って重々 しくお扱いになったから、
「坊にも、ようせずは、この御子の居給ふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。 東宮にもどうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子の御生母の女御は疑いを持っていた。
人より先に参り給ひて、やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、 この人は帝の最もお若い時に入内した最初の女御 であった。
この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう心苦しう思ひ聞こえさせ給ひける。 この女御がする批難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかった。この女御へ済まないという気も十分に持っておいでになった。
かしこき御蔭をば頼みきこえながら、落としめ疵を求め給ふ人は多く、 帝の深い愛を信じながらも、悪く言う者と、何かの欠点を捜し出そうとする者ばかりの宮中に、
わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞし給ふ。 病身な、そして無カな家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった。
 御局(みつぼね)は桐壺なり。  住んでいる御殿は御所の中の東北の隅のような桐壼であった。
あまたの御方がたを過ぎさせ給ひて、ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くし給ふも、げにことわりと見えたり。 幾つかの女御や更衣たちの御 殿の廊を通い路にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直をする更衣が上がり下がりして 行く桐壼であったから、始終ながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量んでいくのも道理と言わねばならない。
参う上り給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋(うちはし)、渡殿(わたどの)のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。 召されることがあまり続くころは、打ち橋とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪い仕掛けがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾が一度でいたんでしまう ようなことがあったりする。
またある時には、え避(さ)らぬ馬道(めどう)の戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめわづらはせ給ふ時も多かり。 またある時はどうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしが言い合わせて、桐壼の 更衣の通り路をなくして辱しめるようなことなどもしばしばあった。
事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、 数え切れぬほどの苦しみを受けて、更衣が心をめいらせているのを御覧になると
いとどあはれと御覧じて、後涼殿(こうらうでん)にもとよりさぶらひ給ふ更衣の曹司(ざうし)を他に移させ給ひて、上局(うへつぼね)に賜はす。 帝はいっそう憐れを多くお加えになって、清涼殿に続いた後涼殿に住んでいた更衣をほかへお移しになって桐壼の更衣へ休息室としてお与えになった。
その恨みましてやらむ方なし。 移された人の恨みはどの後宮よりもまた深くなった。

1-3、若宮の御袴着(三歳)
 この御子三つになり給ふ年、御袴着(はかまぎ)のこと一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮(くらづかさ)納殿(をさめどの)の物を尽くして、いみじうせさせ給ふ。  第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着の式が行なわれた。前にあった第一の皇子のそ の式に劣らぬような派手な準傭の費用が宮廷から支出された。
それにつけても、世の誹りのみ多かれど、この御子のおよすげもておはする御容貌(かたち)心ばへありがたくめづらしきまで見え給ふを、え嫉(そね)みあへ給はず。 それにつけても世問はいろいろに批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌と聡明さとが類のないものであったから、だれも 皇子を悪く思うことはできなかった。
ものの心知りたまふ人は、「かかる人も世に出でおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかし給ふ。 有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生まれてくるものかと皆驚いていた。

1-4、母御息所の死去
 その年の夏、御息所(みやすみどころ)、はかなき心地にわづらひて、まかでなむとし給ふを、暇(いとま)さらに許させ給はず。  その年の夏のことである。御息所-皇子女 の生母になった更衣はこう呼ばれるのである-はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが帝はお許しにならなかった。
年ごろ、常の篤(あつ)しさになり給へれば、御目馴れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、 どこかからだが悪いということはこの人の常のことに なっていたから、帝はそれほどお驚きにならずに、「もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよい」と言っておいでになるうちに
日々に重(おも)り給ひて、ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせたてまつり給ふ。 しだいに悪くなって、そうなってからほんの五、六日のうちに 病は重体になった。母の未亡人は泣く泣くお暇を願って帰宅させることにした。
かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出で給ふ。 こんな場合にはまたどんな呪詛が行なわれるかもしれない、皇子にまで禍いを及ぼしてはとの心づかいから、 皇子だけを宮中にとどめて、目だたぬように御息所だけが退出するのであった。
限りあれば、さのみもえ留めさせ給はず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。 この上留める ことは不可能であると帝は思召して、更衣が出かけて行くところを見送ることのできぬ御尊貴の御身の物足りなさを堪えがたく悲しんでおいでになった。
いとにほひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものし給ふを御覧ずるに、 はなやかな顔だちの美人が非常に痩せてしまって、心の中には帝とお別れして行く無限の悲しみがあったがロヘは何も出して言うことのできないのがこの人の性質である。あるかないかに弱っているのを御覧になると
来し方行く末思し召されず、よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえ給はず、 帝は過去も未来も真暗になった気があそばすのであった。泣く泣くいろいろな頼もしい将来の約束をあそばされても更衣はお返辞もできないのである。
まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、 我かの気色にて臥したれば、いかさまにと思し召しまどはる。 目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ているのであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心を襲うた。
輦車(てぐるま)の宣旨(せんじ)などのたまはせても、また入らせ給ひて、さらにえ許させ給はず。 更衣が宮中から 輦車で出てよい御許可の宣旨を役人へお下しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると今行くということをお許しにならない。
「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせ給ひけるを。さりとも、うち捨てては、え行きやらじ」とのたまはするを、 「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」と、帝がお言いになると、
女もいといみじと、見たてまつりて、「限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり いとかく思ひ給へましかば」と、 そのお心持ちのよくわかる女も、非常に悲しそうにお顔を見て、「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり 死がそれほど私に迫って来ておりませんのでしたら」。
息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、 これだけのことを息も絶え絶えに言って、なお帝にお言いしたいことがありそうであるが、
いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに、 まったく気カはなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、
「今日始むべき祈りども、さるべき人びとうけたまはれる、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせ給ふ。 今日から始めるはずの祈祷も高僧たちが承っていて、それもぜひ今夜から始め ねばなりませぬというようなことも申し上げて方々から更衣の退出を促すので、別れがたく思召しながらお帰しになった。
 御胸つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせ給ふ。  帝はお胸が悲しみでいっぱいになってお眠りになることが困難であった。
御使の行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、 帰った更衣の家へお出しになる尋ねの使いはすぐ帰って来るはずであるが、それすら返辞を聞くことが待ち遠しいであろうと仰せられた帝であるのに、
「夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはて給ひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。 お使いは、「夜半過ぎにお卒去になりました」と言って、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると力が落ちてそのまま御所へ帰って来た。
聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召しわかれず、籠もりおはします。 更衣の死をお聞きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引きこもっておいでになった。
御子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひ給ふ、例なきことなれば、まかでたまひなむとす。 その中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服中の皇子が、穢れのやかましい宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった。
何事かあらむとも思したらず、さぶらふ人びとの泣きまどひ、主上(うえ)も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつり給へるを、 皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れてばかりいるのだけを不思議にお思いになるふうであった。
よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。 父子の別れというようなことはな んでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心持ちほどお気の毒なものはなかった。

1-5、故御息所の葬送
 限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣きこがれ給ひて、御送りの女房の車に慕ひ乗り給ひて、  どんなに惜しい人でも遺骸は遺骸として扱われねばならぬ、葬儀が行なわれることになって、 母の未亡人は遺骸と同時に火葬の煙になりたいと泣きこがれていた。そして葬送の女房の車にしいて望んでいっしょに乗って、
愛宕(をたぎ)といふ所にいといかめしうその作法したるに、おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。 愛宕の野にいかめしく設けられた式場へ着いた時の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう。
「むなしき御骸(から)を見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、灰になり給はむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしうのたまひつれど、 「死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷いをさますために行く必要があります」と賢そうに言っていたが、
車よりも落ちぬべうまろび給へば、さは思ひつかしと、人びともてわづらひ聞こゆ。 車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った。
内裏(うち)より御使あり。三位(みつ、さんみ)の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。  宮中からお使いが葬場へ来た。更衣に三位を贈られたのである。勅使がその宣命を読んだ時ほど未亡人にとって悲しいことはなかった。
女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階(ひときざみ)の位をだにと、贈らせ給ふなりけり。 三位は女御に相当する位階である。生きていた日 に女御とも言わせなかったことが帝には残り多く思召されて贈位を賜わったのである。
これにつけても憎み給ふ人びと多かり。 こんな ことででも後宮のある人々は反感を持った。
もの思ひ知り給ふは、様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。 同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさ などで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壼の更衣の真価を思い出していた。
さま悪しき御もてなしゆゑこそ、すげなう嫉み給ひしか、人柄のあはれに情けありし御心を、主上の女房なども恋ひしのびあへり。 あまりにひどい御殊寵ぶりであったからその当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていた。優しい同情深い女性であったのを、帝付きの女官たちは皆恋しがっていた。
なくてぞとは、かかる折にやと見えたり。 「なくてぞ人は恋しかりける」とはこうした場合のことであろうと見えた。

1-6、父帝悲しみの日々
 はかなく日ごろ過ぎて、後のわざなどにもこまかにとぶらはせ給ふ。  時は人の悲しみにかかわりもなく過ぎて七日七日の仏事が次々に行なわれる、そのたびに帝からはお弔いの品々が下された。
ほど経るままに、せむ方なう悲しう思さるるに、御方がたの御宿直(とのい)なども絶えてし給はず、ただ涙にひちて明かし暮らさせ給へば、見たてまつる人さへ露けき秋なり。  愛人の死んだのちの日がたっていくにしたがってどうしようもない寂しさばかりを帝はお覚えになるのであって、女御、更衣を宿直に召されることも絶えてしまった。ただ涙の中の御朝 タであって、拝見する人までがしめっぽい心になる秋であった。
「亡きあとまで 人の胸 あくまじかりける 人の御おぼえかな」とぞ、弘徽殿(こきでん)などにはなほ許しなうのたまひける。 「死んでからまでも人の気を悪くさせる御寵愛ぶりね」などと言って、右大臣の娘の弘徽殿の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。
一の宮を見たてまつらせ給ふにも、若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ、親しき女房、御乳母などを遣はしつつ、ありさまを聞こし召す。 帝は一の皇子を御覧になっても更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお覚えになって、親しい女官や、 御自身のお乳母などをその家へおつかわしになって若宮の様子を報告させておいでになった。

1-7、靫負命婦ゆげひのみょうぶの弔問
 野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)といふを遣はす。  野分ふうに風が出て肌寒の覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人がお思われになって、靫負の命婦という人を使いとしてお出しになった。
夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、やがて眺めおはします。 夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深い物思いをしておいでになった。
かうやうの折は、御遊びなどせさせ給ひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、 以前にこうした月夜は音楽の遊びが行なわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜に詠む歌なども平凡ではなかった。
人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現(うつつ)にはなほ劣りけり。 彼女の幻は帝のお目に立ち添って少しも消えない。しかしながらどんなに濃い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。
 命婦(みょうぶ)、かしこにで(まかで)着きて、門(かど)引き入るるより、けはひあはれなり。  命婦は故大納言家に着いて車が門から中へ引き入れられた刹那からもう言いようのない寂しさが味わわれた。
やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐし給ひつる、 末亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがな いようにと、りっぱな体裁を保って暮らしていたのであるが、
闇に暮れて臥し沈み給へるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎(やへむぐら)にも障(さは)らず差し入りたる。 子を失った女主人の無明の日が続くようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの 野分の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさ し込んだ
南面(みなみおもて)に下ろして、母君も、とみにえ物(もの)給はず。 その南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人はすぐにもものが言えないほどまた も悲しみに胸をいっぱいにしていた。
(桐壺の母)「今までとまり侍るがいと憂きを、かかる御使の蓬生(よもぎふの露分け入り給ふにつけても、いと恥づかしうなむ」とて、げにえ堪ふまじく泣い給ふ。 「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅう ございますのに、こうしたお使いが荒ら屋へおいでくださるとまたいっそう自分が恥ずかしくてなりません」と言って、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く。
(命婦)「『参りては、いとど心苦しう、心肝(こころぎも)も尽くるやうになむ』と、典侍(ないしのすけ)の奏し給ひしを、 「こちらへ上がりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍は陛下へ申し上げていらっしゃいましたが、
もの思ひ給へ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたう侍りけれ」とて、ややためらひて、仰せ言伝へ聞こゆ。 私のようなあさはかな人間でも ほんとうに悲しさが身にしみます」と言ってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。
(命婦)「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひ合はすべき人だになきを、忍びては参り給ひなむや。 「当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやく落ち着くとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですがそれもありません。目だたぬようにして時々御所へ来られてはどうですか。
若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐし給ふも、心苦しう思さるるを、とく参り給へ』など、はかばかしうもの給はせやらず、 若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい」
むせかへらせ給ひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかで侍りぬる」とて、御文奉る。 「こういうお言葉ですが、涙にむせ返っておいでになって、しかも人に弱さを見せまいと御遠慮をなさらないでもない御様子がお気の毒で、ただおおよそだけを承っただけでまいりました」と言って、また帝のお言づてのほかの御消息を渡した。
(桐壺の母)「目も見え侍らぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ」とて、見給ふ。 「涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、過分なかたじけない仰せを光明にいたしまして」。未亡人はお文を拝見するのであった。
「ほど経ば少しうち紛るることもやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきは わりなきわざになむ。  時がたてば少しは寂しさも紛れるであろうかと、そんなことを頼みにして日を送っていても、日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことである。
いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、 もろともに育まぬおぼつかなさを、今は、なほ昔の形見になずらへて、ものし給へ」など、こまやかに書かせ給へり。 どうしているかとばかり思いやっている小児も、そろった両親に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあなたに、せめてその子の代わりとして面倒を見てやってくれることを頼む。などこまごまと書いておありになった。
「宮城野の 露吹きむすぶ 風の音に 小萩がもとを 思ひこそやれ」とあれど、え見給ひ果てず。 宮城野の露吹き結ぶ風の音に小萩が上を思ひこそやれという御歌もあったが、未亡人はわき出す涙が妨げて明らかには拝見することができなかった。
(桐壺の母)「命長さの、いとつらう思う給へ知らるるに、松の思はむことだに、恥づかしう思う給へはべれば、百敷(ももしき)に行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなむ。 「長生きをするからこうした悲しい目にもあうのだと、それが世間の人の前に私をきまり悪くさせることなのでございますから、まして御所へ時々上がることなどは思いもよらぬことでございます。
かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひ給へたつまじき。 もったいない仰せを伺っているのですが、私が伺候いたしますことは今後も実行はできないでございましょう。
若宮は、いかに思ほし知るにか、参り給はむことをのみなむ思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見奉(たてまつ)り侍るなど、うちうちに思う給ふるさまを奏し給へ。 若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますもの と見えて、御所へ早くおはいりになりたい御様子をお見せになりますから、私はごもっともだとおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに 申し上げてくださいませ。
ゆゆしき身に侍れば、かくておはしますも、忌ま忌ましうかたじけなくなむ」と宣(のたま)ふ。 良人も早く亡くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ず くめの私が御いっしょにおりますことは、若宮のために縁起のよろしくないことと恐れ入って おります」などと言った。
 (命婦)「宮は大殿籠もりにけり。見たてまつりて、くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらむに、夜更けはべりぬべし」とて急ぐ。 そのうち若宮ももうお寝みになった。「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしく御様子も 陛下へ御報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それではあまりおそくなるでございましょう」と言って命婦は帰りを急いだ。
(母君)「暮れまどふ心の闇も堪へがたき片端をだに、はるくばかりに聞こえまほしう侍るを、 私にも心のどかにまかで給へ。 「子をなくしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせていただきたいのですから、公のお使いでなく、気楽なお気持ちでお休みがてらまたお立ち寄りください。
年ごろ、うれしく面だたしきついでにて立ち寄り給ひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、返す返すつれなき命にもはべるかな。 以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとは何ということでしょう。返す返す運命が私に長生きさせるのが苦しゅうございます。
生まれし時より、思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、 故人のことを申せば、生まれました時から親たちに輝かしい未来の望 みを持たせました子で、父の大納言はいよいよ危篤になりますまで、
『ただ、この人の宮仕への本意、必ず遂げさせ奉(たてまつ)れ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、返す返す諌めおかれ侍りしかば、 この人を宮中へ差し上げ ようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを捨てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、
はかばかしう後見思ふ人もなき交じらひは、なかなかなるべきことと思ひ給へながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、 確かな後援者なしの宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましてはただ遺言を守りたいばかりに陛下へ差し上げましたが、
身に余るまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥を隠しつつ、交じらひ給ふめりつるを、 過分な御寵愛を受けまして、 そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、
人の嫉み深く積もり、安からぬこと多くなり添ひはべりつるに、横様なるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひ給へられはべる。 皆さんの御嫉妬の積もっていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいた しましたのですから、陛下のあまりに深い御愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛から私は思いもいたします」。
これもわりなき心の闇になむ」と、言ひもやらずむせかへり給ふほどに、夜も更けぬ。 こんな話をまだ全部も言わないで未亡人は涙でむせ返ってしまったりしているうちにますます深更になった。
主上(うえ)もしかなむ。(主上) 『我が御心ながら、あながちに人目おどろくばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。 「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながらあまりに穏やかでないほどの愛しようをしたのも前生の約束で長くはいっしょにおられぬ二人であることを意識せずに感じていたのだ。自分らは恨めしい因縁でつながれていたのだ、
世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては、かううち捨てられて、心をさめむ方なきに、 自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信を持っていたが、あの人によって負ってならぬ 女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、
いとど人悪ろう かたくなになり果つるも、 前の世ゆかしうなむ』と うち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と語りて尽きせず。 自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって湿っぽい御様子ばかりをお見せになっています」。どちらも話すことにきりがない。
泣く泣く、(命婦)「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と急ぎ参る。 命婦は泣く泣く、「もう非常に遅いようですから、復命は今晩のうちにいたしたいと存じますから」と言って、帰る仕度をした。
月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声ごゑもよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。 落ちぎわに近い月夜の空が澄み切った中を涼しい風が吹き、人の悲しみを促すような虫の声がするのであるから帰りにくい。
(命婦)「鈴虫の 声の限りを 尽くしても 長き夜あかず ふる涙かな」。えも乗りやらず。 「鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜飽かず降る涙かな」。車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。
(母君)「いとどしく 虫の音しげき 浅茅生(あさじふ)に 露置き添ふる 雲の上人 かごとも聞こえつべくなむ」と言はせ給ふ。 「いとどしく虫の音しげき浅茅生に露置き添ふる雲の上人 かえって御訪問が恨めしいと申し上げたいほどです」と未亡人は女房に言わせた。
をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残し給へりける御装束一領(さうぞくひとくさり)御髪上げ(みぐしあげ)の調度めく物添へ給ふ。 意匠を凝らせた贈り物などする場合でなかったから、故人の形見ということにして、唐衣と裳の一揃えに、髪上げの用具のはいった箱を添えて贈った。
若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏(うち)わたりを朝夕に慣らひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出で聞こゆれば、とく参り給はむことをそそのかし聞こゆれど、  若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住まいをしなれていて、寂しく 物足らず思われることが多く、お優しい帝の御様子を思ったりして、若宮が早く御所へお帰りになるようにと促すのであるが、
「かく忌ま忌ましき身の添ひ奉らむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」。 「不幸な自分がごいっしょに上がっていることも、また世間に 批難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛に も堪えきれる自信がない」
思ひ聞こえ給ひて、すがすがともえ参らせ奉り給はぬなりけり。 と未亡人は思うので、結局若宮の宮中入りは実行性に乏しかった。

1-8、命婦帰参
 命婦は、「まだ大殿籠もらせ給はざりける」と、あはれに見たてまつる。  御所へ帰った命婦は、まだ宵のままで御寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。
御前(おまえ)の壺前栽(つぼぜんざい)のいとおもしろき盛りなるを御覧ずるやうにて、忍びやかに心にくき限りの女房四五人さぶらはせ給ひて、御物語せさせ給ふなりけり。 中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして凡庸でない女房四、五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。
このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌(ちょうごんか)の御絵、亭子院(ていじのいん)の描かせ給ひて、伊勢、貫之に詠ませ給へる、大和言の葉をも、唐土(もろこし)の詩(うた)をも、ただその筋をぞ、枕言(まくらごと)にせさせ給ふ。 このごろ始終帝の御覧になるものは、玄宗皇帝と楊貴妃の恋を題材にした白楽天の長恨歌を、亭子院が絵にあそばして、伊勢や貫之に歌をお詠ませになった巻き物で、そのほか日本文学でも、支那のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。
いとこまやかにありさま問はせ給ふ。あはれなりつること忍びやかに奏す。 帝は命婦にこまごまと大納言家の様子をお聞 きになった。身にしむ思いを得て来たことを命婦は外へ声をはばかりながら申し上げた。
御返り御覧ずれば、(母君)「いともかしこきは置き所もはべらず。かかる仰せ言につけても、かきくらす乱り心地になむ。『荒き風 ふせぎし蔭の 枯れしより 小萩がうへぞ 静心なき』など」 未亡人の御返事を帝は御覧になる。もったいなさをどう始末いたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せを承りましても 愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。 荒き風防ぎし蔭の枯れしより小萩が上ぞしづ心無き というような、
やうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと御覧じ許すべし。 歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのために落ち着かない心で詠んでいるのであるからと寛大に御覧になった。
いとかうしも見えじと、思し静むれど、さらにえ忍びあへさせ給はず、御覧じ初めし年月のことさへかき集め、よろづに思し続けられて、 帝はある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それが御困難であるらしい。はじめて桐壼の更衣の上がって来たころのことなどまでがお心の表面に浮かび上がってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。
「時の間もおぼつかなかりしを かくても月日は経にけり」と、あさましう思し召さる。 その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いにな った。
(帝)「故大納言の遺言あやまたず、宮仕への本意深くものしたりし喜びは、かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ。言ふかひなしや」と 「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人への酬いは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかも皆夢になった」
うちのたまはせて、いとあはれに思しやる。 とお言いになって、未亡人に限りない同情をしておいでになった。
(帝)「かくても、おのづから若宮など生ひ出で給はば、さるべきついでもありなむ。命長くとこそ 思ひ念ぜめ」など宣(のたま)はす。  「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日が来れば、故人に后の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」などという仰せがあった。
かの贈り物御覧ぜさす。 命婦は贈られた物を御前へ並べた。
「亡き人の 住処尋ね出でたり けむしるしの 釵(かんざし)ならましかば」と思ほすもいとかひなし。 これが唐の幻術師が他界の楊 貴妃に逢って得て来た玉の簪であったらと、帝はかいないこともお思いになった。
(帝)「尋ねゆく 幻もがな つてにても 魂のありかを そこと知るべく」。 尋ね行くまぼろしもがなつてにても 魂のありかを そこと知るべく
絵に描ける楊貴妃の容貌(かたち)は、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。 絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現は限りがあって、それほどのすぐれた顔も持っていない。
大液(たいえき)の芙蓉(ふよう)未央(びあう)柳も、げに通ひたりし容貌を、唐(から)めいたる装ひはうるはしうこそありけめ、なつかしう らうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき。 太液の池の蓮花にも、未央宮の柳の趣にもその人は似ていたであろうが、また唐の服装は華美ではあったであろうが、更衣の持った柔らかい美、艶な姿態をそれに思い比べて御覧になると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであった。
朝夕の言種(ことぐさ)に、「翼をならべ、枝を交はさむ」と契らせ給ひしに、かなはざりける命のほどぞ、尽きせず恨めしき。 お二人の間はいつも、天に在っては比翼の鳥、地に生まれれば連理の枝という言葉で永久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。
風の音、虫の音につけて、 もののみ悲しう思さるるに、弘徽殿(こきでん)には、久しく上の御局(つぼね)にもう上り給はず、 秋風の音にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになる時、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿の宿直に もお上がりせずにいて、
月のおもしろきに、夜更くるまで遊びをぞし給ふなる。 今夜の月明に更けるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを
いとすさまじう、ものしと聞こし召す。 帝は不愉快に思召した。
このごろの御気色を見たてまつる上人、女房などは、 かたはらいたしと聞きけり。 このころの帝のお心持ちをよく知っている殿上役人や帝付きの女房なども 皆弘徽殿の楽音に反感を持った。
いとおし立ち かどかどしきところものし給ふ御方にて、ことにもあらず思し消ちてもてなし給ふなるべし。 負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。
月も入りぬ。  月も落ちてしまった。
 「雲の上も 涙にくるる 秋の月 いかですむらむ 浅茅生の宿」。  雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生の宿
思し召しやりつつ、灯火をかかげ尽くして起きおはします。 命婦が御報告した故人の家のことをなお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。
右近の司の宿直奏(とのまうし)の声聞こゆるは、丑になりぬるなるべし。 右近衛府の士官が宿直者の名を披露するのをもってすれば午前二時になったのであろう。
人目を思して、夜の御殿(おとど)に入らせ給ひても、まどろませ給ふこと、かたし。 人目をおはばかりになって御寝室へおはいりになってからも安眠を得たもうことはできなかった。
朝(あした)に起きさせ給ふとても、「明くるも知らで」と思し出づるにも、なほ朝政(あさまつり)ごとは怠らせ給ひぬべかめり。 朝のお目ざめにもまた、夜明けも知らずに語り合った昔の御追憶がお心を占めて、寵姫の在った日も亡いのちも朝の政務はお怠りになることになる。
ものなども聞こし召さず、朝餉(あさがれひ)のけしきばかり触れさせ給ひて、 大床子(だいしょうじ)の御膳(おもの)などは、いと遥かに思し召したれば、 お食欲もない。簡単な御朝食はしる しだけお取りになるが、帝王の御朝餐として用意される大床子のお料理などは召し上がらないものになっていた。
陪膳(はいぜん)にさぶらふ限りは、心苦しき御気色を見たてまつり嘆く。 それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、それらの人は皆この状態を歎いていた。
すべて、近うさぶらふ限りは、男女、「いとわりなきわざかな」と言ひ合はせつつ嘆く。 すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると歎いた。
「さるべき契りこそはおはしましけめ。そこらの人の誹り、恨みをも憚らせ給はず、この御ことに触れたることをば、道理をも失はせ給ひ、今はた、かく世の中のことをも、思ほし捨てたるやうになりゆくは、いと たいだいしきわざなり」と、 よくよく深い前生の御縁で、その当時は世の批難も後宮の恨みの声もお耳には留まらず、その人に関すること だけは正しい判断を失っておしまいになり、また死んだあとではこうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない、国家のためによろしくないことであるといって、
 人の朝廷(みかど)の例まで引き出で、ささめき嘆きけり。 支那の歴朝の例までも引き出して言う人もあった。

1-9、若宮参内(四歳)
 月日経て、若宮参り給ひぬ。いとどこの世のものならず清らに およすげ給へれば、いとゆゆしう思したり。  幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。ごくお小さい時ですらこの世のもの とはお見えにならぬ御美貌の備わった方であったが、今はまたいっそう輝くほどのものに見え た。
明くる年の春、坊定まり給ふにも、いと引き越さまほしう思せど、御後見すべき人もなく、また世のうけひくまじきことなりければ、なかなか危く思し憚りて、 その翌年立太子のことがあった。帝の思召しは第二の皇子にあったが、だれという後見の 人がなく、まただれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、かえってその地位は若宮の前途を危険にするものであるとお思いになって、
色にも出ださせ給はずなりぬるを、「さばかり思したれど、限りこそありけれ」と、世人も聞こえ、女御も御心落ちゐ給ひぬ。 御心中をだれにもお洩らしにならなかった。東宮におなりになったのは第一親王である。この結果を見て、あれほどの御愛子でもやはり太子にはおできにならないのだと世間も言い、弘徽殿の女御も安心した。
かの御祖母(おんおば)北の方、慰む方なく思し沈みて、おはすらむ所にだに尋ね行かむと願ひ給ひししるしにや、つひに亡せ給ひぬれば、またこれを悲しび思すこと限りなし。 その時から宮 の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないと言って一心に御仏の来迎を求めて、とうとう亡くなった。帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみになった。
御子六つになり給ふ年なれば、このたびは思し知りて恋ひ泣き給ふ。 これは皇子が六歳の時のことであるから、今度は母の更衣の死に逢った時とは違い、 皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。
年ごろ馴れ睦びきこえ給ひつるを、 見たてまつり置く悲しびをなむ、返す返す宣(のたま)ひける。 今まで始終お世話を申していた宮とお別れするのが悲しいということばかりを未亡人は言って死んだ。

1-10、読書始め(七歳)
 今は内裏(うち)にのみさぶらひ給ふ。 それから若宮はもう宮中にばかりおいでになることになった。
七つになり給へば、読書(ふみ)始めなどせさせ給ひて、世に知らず聡う賢くおはすれば、あまり恐ろしきまで御覧ず。  七歳の時に書初めの式が行なわれて学問をお始めになったが、皇子の類のない聡明さに帝はお驚きになることが多かった。
(帝)「今は誰れも誰れもえ憎み給はじ。母君なくてだにらうたうし給へ」とて、  「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。母親のないという点だけででもかわいがっておやりなさい」と帝は些言いになって、
弘徽殿などにも渡らせ給ふ御供には、やがて御簾の内に入れたてまつり給ふ。 弘徽殿へ昼間おいでになる時もいっしょにおつれになったりしてそのまま御簾の中にまでもお入れになった。
いみじき武士(もののふ)、仇敵なりとも、見てはうち笑まれぬべきさまのし給へれば、えさし放ち給はず。 どんな強さ一方の武士だっても仇敵だってもこの人を見ては笑みが自然にわくであろうと思われる美しい少童でおありになったから、女御も愛を 覚えずにはいられなかった。
女皇女(おんなみこ)たち二(ふた)ところ、この御腹におはしませど、なずらひ給ふべきだにぞなかりける。 この女御は東宮のほかに姫宮をお二人お生みしていたが、その方々よりも第二の皇子のほうがおきれいであった。
御方々も隠れ給はず、今よりなまめかしう恥づかしげにおはすれば、いとをかしう うちとけぬ 遊び種に、誰れも誰れも思ひきこえ給へり。 姫宮がたもお隠れにならないで賢い遊び相 手としてお扱いになった。
わざとの御学問はさるものにて、琴笛の音にも雲居を響かし、すべて言ひ続けば、ことごとしう、 うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。 学問はもとより音楽の才も豊かであった。言えぼ不自然に聞こえるほどの天才児であった。

1-11、高麗人の観相、源姓賜る
 そのころ、高麗人(こまうど)の参れる中に、かしこき相人(そうにん)ありけるを聞こし召して、宮の内に召さむことは、宇多の帝(うだのみかど)の御誡(いましめ)あれば、いみじう忍びて、この御子を鴻臚館(こうろくわん)に遣はしたり。  その時分に高麗人が来朝した中に、上手な人相見の者が混じっていた。帝はそれをお聞きに なったが、宮中へお呼びになることは亭子院のお誡めがあっておできにならず、だれにも秘密 にして
御後見だちて仕うまつる 右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに、 皇子のお世話役のようになっている右大弁の子のように思わせて、皇子を外人の旅宿する鴻臚館へおやりになった。
相人驚きて、あまたたび傾きあやしぶ。  相人は不審そうに頭をたびたび傾けた。
「国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。 「国の親になって最上の位を得る人相であって、さてそれでよいかと拝見すると、そうなることはこの人の幸福な道でない。
朝廷の重鎮(かため)となりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし」と言ふ。 国家の柱石になって帝王の輔佐をする人として見てもまた違うようです」と言った。
弁も、いと才かしこき博士にて、言ひ交はしたることどもなむ、いと興ありける。 弁も漢学のよくできる官人であったから、筆紙をもってする高麗人との問答には おもしろいものがあった。
文など作り交はして、今日明日帰り去りなむとするに、かくありがたき人に対面したるよろこび、かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに、 詩の贈答もして高麗人はもう日本の旅が終わろうとする期に臨んで 珍しい高貴の相を持つ人に逢ったことは、今さらにこの国を離れがたくすることであるという ような意味の作をした。
御子もいとあはれなる句を作り給へるを、限りなうめでたてまつりて、いみじき贈り物どもを捧げたてまつる。朝廷よりも多くの物賜はす。 若宮も送別の意味を詩にお作りになったが、その詩を非常にほめていろいろなその国の贈り物をしたりした。朝廷からも高麗の相人へ多くの下賜品があった。
おのづから事広ごりて、漏らさせたまはねど、春宮の祖父大臣など、いかなることにかと思し疑ひてなむありける。 その評判から東宮の外戚の右大臣などは第 二の皇子と高麗の相人との関係に疑いを持った。好遇された点が腑に落ちないのである。
帝、かしこき御心に、倭相(やまとそう)を仰せて、思しよりにける筋なれば、今までこの君を親王(みこ)にもなさせたまはざりけるを、 聡明な帝は高麗人の言葉以前に皇子の将来を見通して、幸福な道を選ぼうとしておいでになった。
「相人はまことにかしこかりけり」と思して、 それでほとんど同じことを占った相人に価値をお認めになったのである。
「無品の親王の外戚の寄せなきにては漂(ただよ)はさじ。 四品以下の無品親王などで、心細い皇族としてこの子を置きたくない、
わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ、行く先も頼もしげなめること」と思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせ給ふ。 自分の代もいつ終わるかしれぬのであるか ら、将来に最も頼もしい位置をこの子に設けて置いてやらねばならぬ、臣下の列に入れて国家 の柱石たらしめることがいちばんよいと、こうお決めになって、以前にもましていろいろの勉 強をおさせになった。
際(きは)ことに賢くて、ただ人にはいと あたらしけれど、親王となり給ひなば、世の疑ひ負ひたまひぬべくものし給へば、 大きな天才らしい点の現われてくるのを御覧になると人臣にするのが惜しいというお心になるのであったが、親王にすれば天子に変わろうとする野心を持つような疑いを当然受けそうにお思われになった。
宿曜(すくえう)の賢き道の人に勘へさせたまふにも、同じさまに申せば、源氏になしたてまつるべく思しおきてたり。 上手な運命占いをする者にお尋ねになっても同じよう な答申をするので、元服後は源姓を賜わって源氏の某としようとお決めになった。

1-12、先帝の四宮(藤壺)入内
 年月に添へて、御息所(みやすみどころ)の御ことを思し忘るる折なし。  年月がたっても帝は桐壼の更衣との死別の悲しみをお忘れになることができなかった。
「慰むや」と、さるべき人びと参らせ給へど、「なずらひに思さるるだにいとかたき世かな」と、疎ましうのみよろづに思しなりぬるに、 慰み になるかと思召して美しい評判のある人などを後宮へ召されることもあったが、結果はこの世界には故更衣の美に準ずるだけの人もないのであるという失望をお味わいになっただけである。
先帝の四の宮の、御容貌すぐれ給へる聞こえ高くおはします、母后(ははきさき)世になくかしづき聞こえ給ふを、 そうしたころ、先帝-帝の従兄あるいは叔父君-の第四の内親王でお美しいことをだれも 言う方で、母君のお后が大事にしておいでになる方のことを、
主上にさぶらふ典侍(ないしのすけ)は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴れたりければ、いはけなくおはしましし時より見たてまつり、今もほの見たてまつりて、 帝のおそばに奉仕している典侍は先帝の宮廷にいた人で、后の宮へも親しく出入りしていて、内親王の御幼少時代をも知り、現在でもほのかにお顔を拝見する機会を多く得ていたから、帝へお話しした。
「亡せたまひにし御息所の御容貌に似給へる人を、三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見たてまつりつけぬを、 「お亡れになりました御息所の御容貌に似た方を、三代も宮廷におりました私すらまだ見たことがございませんでしたのに、
后の宮の姫宮こそ、いとようおぼえて生ひ出でさせ給へりけれ。ありがたき御容貌人になむ」と奏しけるに、 后の宮様の内親王様だけがあの方に似ていらっしゃいますこ とにはじめて気がつきました。非常にお美しい方でございます」
「まことにや」と、御心とまりて、ねむごろに聞こえさせ給ひけり。  もしそんなことがあったらと大御心が動いて、先帝の后の宮へ姫宮の御入内のことを懇切に お申し入れになった。
母后、「あな恐ろしや。春宮の女御のいとさがなくて、桐壺の更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう」と、 お后は、そんな恐ろしいこと、東宮のお母様の女御が並みはずれな強い 性格で、桐壷の更衣が露骨ないじめ方をされた例もあるのに、
思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡せ給ひぬ。 と思召して話はそのままになっていた。そのうちお后もお崩れになった。
心細きさまにておはしますに、「ただ、わが女皇女たちの同じ列に思ひきこえむ」と、いとねむごろに聞こえさせ給ふ。 姫宮がお一人で暮らしておいでになるのを帝はお聞 きになって、「女御というよりも自分の娘たちの内親王と同じように思って世話がしたい」となおも熱心に入内をお勧めになった。
さぶらふ人びと、御後見たち、御兄の兵部卿(ひょうぶのきょう)の親王など、 こうしておいでになって、母宮のことばかりを思っ ておいでになるよりは、宮中の御生活にお帰りになったら若いお心の慰みにもなろうと、お付きの女房やお世話係の者が言い、
「かく心細くておはしまさむよりは、内裏住みせさせ給ひて、御心も慰むべく」など思しなりて、参らせたてまつり給へり。 兄君の兵部卿親王もその説に御賛成になって、それで先帝の 第四の内親王は当帝の女御におなりになった。
 藤壺と聞こゆ。げに、御容貌ありさま、あやしきまでぞおぼえ給へる。 御殿は藤壼である。典侍の話のとおりに、姫宮の容貌も身のおとりなしも不思議なまで、桐壼の更衣に似ておいでになった。
これは、人の御際まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめ聞こえ給はねば、うけばりて飽かぬことなし。 この方は御身分に批の打ち所がない。すべてごりっぱなものであって、だれも貶める言葉を知らなかった。
かれは、人の許しきこえざりしに、御心ざし あやにくなりしぞかし。 桐壼の更衣は身分と御愛寵とに比例の取れぬところがあった。
思し紛るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなう思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。 お傷手が新女御の宮で癒されたと もいえないであろうが、自然に昔は昔として忘れられていくようになり、帝にまた楽しい御生活がかえってきた。あれほどのこともやはり永久不変でありえない人間の恋であったのであろう。

1-13、源氏、藤壺を思慕
 源氏の君は、御あたり去りたまはぬを、ましてしげく渡らせたまふ御方は、え恥ぢあへたまはず。  源氏の君-まだ源姓にはなっておられない皇子であるが、やがてそうおなりになる方であるから筆者はこう書く。-はいつも帝のおそばをお離れしないのであるから、自然どの女御の御殿へも従って行く。帝がことにしばしばおいでになる御殿は藤壼であって、お供して源氏のしばしば行く御殿は藤壼である。宮もお馴れになって隠れてばかりはおいでにならなかった。
いづれの御方も、われ人に劣らむと思いたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うち大人び給へるに、 どの後宮でも容貌の自信がなくて入内した者はないのであるから、皆それぞれの美を備えた人たちであったが、もう皆だいぶ年がいっていた。
いと若ううつくしげにて、切に隠れたまへど、おのづから漏り見たてまつる。 その中へ若いお美しい藤壼の宮が出現されて その方は非常に恥ずかしがってなるべく顔を見せぬようにとなすっても、自然に源氏の君が見 ることになる場合もあった。
御息所(みやすみどころ)も、影だにおぼえ給はぬを、「いとよう似たまへり」と、典侍(ないしのすけ)の聞こえけるを、 母の更衣は面影も覚えていないが、よく似ておいでになると典侍が言ったので、
若き御心地にいとあはれと思ひ聞こえ給ひて、常に参らまほしく、 「なづさひ見たてまつらばや」とおぼえ給ふ。 子供心に母に似た人として恋しく、いつも藤壼へ行きたくなって、あの方と親しくなりたいという望みが心にあった。
主上も限りなき御思ひどちにて、「な疎(うと)み給ひそ。 あやしくよそへきこえつべき心地なむする。なめしと思さで、らうたくし給へ。 帝には二人とも最愛の妃であり、最愛の御子であった。「彼を愛しておやりなさい。不思議なほどあなたとこの子の母とは似ているのです。失礼だ と思わずにかわいがってやってください。
つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、かよひて見え給ふも、似げなからずなむ」など聞こえつけたまへれば、 この子の目つき顔つきがまたよく母に似ていますから、この子とあなたとを母と子と見てもよい気がします」など帝がおとりなしになると、
幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる。 子供心にも花や紅葉の美しい枝は、まずこの宮へ差し上げたい、自分の好意を受けていただきたいというこんな態度をとるようになった。
こよなう心寄せきこえたまへれば、弘徽殿の女御、またこの宮とも御仲そばそばしきゆゑ、うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。 現在の弘徽殿の女御の嫉妬の対象は藤壼の宮であったからそちらへ好意を寄せる源氏に、一時忘れられていた旧怨も再燃して憎しみを持つことになった。
世にたぐひなしと見たてまつり給ひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほ匂はしさはたとへむ方なく、うつくしげなるを、世の人、「光る君」と聞こゆ。 女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる幼内 親王方の美を遠くこえた源氏の美貌を世間の人は言い現わすために光の君と言った。
藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、「かかやく日の宮」と聞こゆ。 女御とし て藤壼の宮の御寵愛が並びないものであったから対句のように作って、輝く日の宮と一方を申 していた。

1-14、源氏元服(十二歳)
 この君の御童姿(わらわすがた)、いと変へまうく思せど、十二にて御元服し給ふ。  源氏の君の美しい童形をいつまでも変えたくないように帝は思召したのであったが、いよいよ十二の歳に元服をおさせになることになった。
居起ち思しいとなみて、限りある事に事を添へさせ給ふ。 その式の準備も何も帝御自身でお指図になった。
一年(ひととせ)の春宮の御元服、南殿(なでん)にてありし儀式、よそほしかりし御響きに落とさせ給はず。 前に東宮の御元服の式を紫宸殿であげられた時の派手やかさに落とさず、
所々の饗(きょう)など、内蔵寮(くらづかさ)穀倉院(こくさういん)など、公事(おほやけごと)に仕うまつれる、おろそかなることもぞと、とりわき仰せ言ありて、清らを尽くして仕うまつれり。 その日官人たち が各階級別々にさずかる饗宴の仕度を内蔵寮、穀倉院などでするのはつまり公式の仕度で、それでは十分でないと思召して、特に仰せがあって、それらも華麗をきわめたものにされた。
おはします殿(でん)の東の廂、東向きに椅子立てて、冠者の御座、引入の大臣(おとど)の御座、御前にあり。 清涼殿は東面しているが、お庭の前のお座敷に玉座の椅子がすえられ、元服される皇子の席、 加冠役の大臣の席がそのお前にできていた。
申の時(さるのとき)にて源氏参り給ふ。角髪(みずら)結ひ給へるつらつき、顔のにほひ、さま変へ給はむこと惜しげなり。 午後四時に源氏の君が参った。上で二つに分けて 耳の所で輸にした童形の礼髪を結った源氏の顔つき、少年の美、これを永久に保存しておくこ とが不可能なのであろうかと惜しまれた。
大蔵卿、蔵人仕うまつる。いと清らなる御髪を削ぐほど、心苦しげなるを、主上は、「御息所(みやすみどころ)の見ましかば」と、思し出づるに、堪へがたきを、心強く念じかへさせ給ふ。 理髪の役は大蔵卿である。美しい髪を短く切るのを 惜しく思うふうであった。帝は御息所がこの式を見たならばと、昔をお思い出しになることによって堪えがたくなる悲しみをおさえておいでになった。
かうぶりし給ひて、御休所にまかで給ひて、御衣(おんぞ)奉(たてまつ)り替へて、下りて拝したてまつり給ふさまに、皆人涙落とし給ふ。 加冠が終わって、いったん休息所に下がり、そこで源氏は服を変えて庭上の拝をした。参列の諸員は皆小さい大宮人の美に感激の 涙をこぼしていた。
帝はた、ましてえ忍びあへ給はず、思し紛るる折もありつる昔のこと、とりかへし悲しく思さる。 帝はまして御自制なされがたい御感情があった。藤壼の宮をお得になって 以来、紛れておいでになることもあった昔の哀愁が今一度にお胸へかえって来たのである。
いとかうきびはなるほどは、あげ劣りやと疑はしく思されつるを、あさましううつくしげさ添ひ給へり。 ま だ小さくて大人の頭の形になることは、その人の美を損じさせはしないかという御懸念もおあ りになったのであるが、源氏の君には今驚かれるほどの新彩が加わって見えた。
引入(ひきいれ)大臣(おとど)皇女腹(みこばら)にただ一人かしづき給ふ御女、 加冠の大臣には夫人の内親王との間に生まれた令嬢があった。
春宮よりも御けしきあるを、思しわづらふことありける、この君に奉らむの御心なりけり。 東宮から後宮にとお望みになったのをお受けせずにお返辞を躊躇していたのは、初めから源氏の君の配偶者に擬していたからである。
内裏にも、御けしき賜はらせ給へりければ、「さらば、この折の後見なかめるを、添ひ臥し(そいぶし)にも」ともよほさせ給ひければ、さ思したり。 大臣 は帝の御意向をも伺った。「それでは元服したのちの彼を世話する人もいることであるから、その人をいっしょにさせ ればよい」という仰せであったから、大臣はその実現を期していた。
さぶらひにまかで給ひて、人びと大御酒など参るほど、親王たちの御座の末に源氏着き給へり。 今日の侍所になっている座敷で開かれた酒宴に、親王方の次の席へ源氏は着いた。
大臣気色ばみ聞こえ給ふことあれど、もののつつましきほどにて、ともかくもあへしらひ聞こえ給はず。 娘の件 を大臣がほのめかしても、きわめて若い源氏は何とも返辞をすることができないのであった。
御前より、内侍(ないし)宣旨(せんじ)うけたまはり伝へて、大臣参り給ふべき召しあれば、参り給ふ。 帝のお居間のほうから仰せによって内侍が大臣を呼びに来たので、大臣はすぐに御前へ行った。
御禄の物、主上の命婦取りて賜ふ。白き大袿(おほうちき)御衣一領(おんぞひとくだり)、例のことなり。 加冠役としての下賜品はおそばの命婦が取り次いだ。白い大袿に帝のお召し料のお服が一襲で、 これは昔から定まった品である。
御盃のついでに、「いときなき 初元結ひに長き世を 契る心は 結びこめつや」。 酒杯を賜わる時に、次の歌を仰せられた。いときなき初元結ひに長き世を契る心は結びこめつや 
御心ばへありて、おどろかさせ給ふ。 大臣の女との結婚にまでお言い及ぼしになった御製は大臣を驚かした。
「結びつる 心も深き 元結ひに 濃き紫の 色し褪せずは」と奏して、長橋より下りて舞踏し給ふ。 結びつる心も深き元結ひに濃き紫の色しあせずば と返歌を奏上してから大臣は、清涼殿の正面の階段を下がって拝礼をした。
左馬寮(ひだりのつかさ)の御馬、蔵人所の鷹据ゑて賜はりたまふ。 左馬寮の御馬と 蔵人所の鷹をその時に賜わった。
御階(みはし)のもとに親王たち上達部(かむだちめ)つらねて、禄ども品々に賜はり給ふ。 そのあとで諸員が階前に出て、官等に従ってそれぞれの下賜品を得た。
その日の御前(おまへ)折櫃物(をりびつもの)籠物(こもの)など、右大弁なむ承りて仕うまつらせける。 この日の御饗宴の席の折り詰めのお料理、籠詰めの菓子などは皆右大弁が御命令によって作った物であった。
屯食(とんじき)、禄の唐櫃(からびつ)どもなど、ところせきまで、春宮の御元服の折にも数まされり。なかなか限りもなくいかめしうなむ。 一般の官吏に賜う弁当の数、一般に下賜される絹を入れた箱の多かったことは、東宮の御元服の時以上であった。

1-15、源氏、左大臣家の娘(葵上)と結婚
 その夜、大臣の御里に源氏の君まかでさせ給ふ。  その夜源氏の君は左大臣家へ婿になって行った。
作法世にめづらしきまで、もてかしづき聞こえ給へり。 この儀式にも善美は尽くされたのである。
いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと思ひ聞こえ給へり。 高貴な美少年の婿を大臣はかわいく思った。
女君はすこし過ぐし給へるほどに、いと若うおはすれば、似げなく恥づかしと思いたり。 姫君のほうが少し年上であったから、年下の少年 に配されたことを、不似合いに恥ずかしいことに思っていた。
この大臣の御おぼえいとやむごとなきに、母宮、内裏の一つ后腹になむおはしければ、いづ方につけてもいとはなやかなるに、 この大臣は大きい勢力を持った上に、姫君の母の夫人は帝の御同胞であったから、あくまでもはなやかな家である所へ、
この君さへかくおはし添ひぬれば、春宮の御祖父(おほじ)にて、つひに世の中を知り給ふべき右大臣の御勢ひは、ものにもあらず圧され給へり。 今度また帝の御愛子の源氏を婿に迎えたのであるから、東宮の外祖父で未来の関白と思われている 右大臣の勢カは比較にならぬほど気押されていた。
御子どもあまた腹々にものし給ふ。 左大臣は何人かの妻妾から生まれた子供を幾人も持っていた。
宮の御腹は、蔵人少将(くらうどしょうしょう)にていと若うをかしきを、右大臣の、御仲はいと好からねど、え見過ぐし給はで、かしづき給ふ四の君にあはせ給へり。 内親王腹のは今蔵人少将であって年少の美しい貴公子であるのを左右大臣の仲はよくないのであるが、その蔵人少将をよその者に見ていることができず、大事にしている四女の婿にした。
劣らずもてかしづきたるは、あらまほしき御あはひどもになむ。 これも左大臣が源氏の君をたいせつがるのに劣らず右大臣から大事な婿君としてかしずかれていたのはよい一対のうるわしいことであった。
源氏の君は、主上の常に召しまつはせば、心安く里住みもえし給はず。  源氏の君は帝がおそばを離しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもで きなかった。
心のうちには、ただ藤壺の御ありさまを、類なしと思ひ聞こえて、 源氏の心には藤壼の宮の美が最上のものに思われて
「さやうならむ人をこそ見め。似る人なくもおはしけるかな。大殿の君、いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかず」。 あのような人を自分も妻にしたい、宮のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢は大事にされて育った美しい 貴族の娘とだけはうなずかれるがと、
おぼえ給ひて、幼きほどの心一つにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける。 こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壼の宮のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。

1-16、源氏、成人の後
 大人になり給ひて後は、ありしやうに御簾の内にも入れ給はず。  元服後の源氏はもう藤壼の御殿の御簾の中へは入れていただけなかった。
御遊びの折々、琴笛の音に聞こえかよひ、ほのかなる御声を慰めにて、内裏住みのみ好ましうおぼえ給ふ。 琴や笛の音の中にその方がお弾きになる物の声を求めるとか、今はもう 物越しにより聞かれないほのかなお声を聞くとかが、せめてもの慰めになって宮中の宿直ばかりが好きだった。
五六日侍(さぶら)ひ給ひて、大殿に二三日など、絶え絶えにまかで給へど、ただ今は幼き御ほどに、罪なく思しなして、いとなみかしづき聞こえ給ふ。 五、六日御所にいて、二、三日大臣家へ行くなど絶え絶えの通い方を、まだ 少年期であるからと見て大臣はとがめようとも思わず、相も変わらず婿君のかしずき騒ぎをし ていた。
御方々の人びと、世の中におしなべたらぬを選りととのへすぐりて侍はせ給ふ。 新夫婦付きの女房はことにすぐれた者をもってしたり、気に入りそうな遊びを催したり、
御心につくべき御遊びをし、おほなおほな(あぶなあぶな)思しいたつく。 一所懸命である。
 内裏には、もとの淑景舎(しげいさ)を御曹司(みぞうし)にて、母御息所の御方の人びとまかで散らずさぶらはせ給ふ。  御所では母の更衣のもとの桐壼を源氏の宿直所にお与えになって、御息所に侍していた女房をそのまま使わせておいでになった。
里の殿は、修理職(すりしき)、内匠寮(たくみづかさ)に宣旨(せんじ)下りて、二なう改め造らせ給ふ。 更衣の家のほうは修理の役所、内匠 寮などへ帝がお命じになって、非常なりっぱなものに改築されたのである。
もとの木立、山のたたずまひ、おもしろき所なりけるを、池の心広くしなして、めでたく造りののしる。 もとから築山のあるよい庭のついた家であったが、池なども今度はずっと広くされた。二条の院はこれである。
「かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや」とのみ、嘆かしう思しわたる。 源氏はこんな気に入った家に自分の理想どおりの妻と暮らすことができたらと思って始終歎息をしていた。
「光る君といふ名は、高麗人(こまうど)のめで聞こえてつけたてまつりける」とぞ、言ひ伝へたるとなむ。  光の君という名は前に鴻臚館へ来た高麗人が、源氏の美貌と天才をほめてつけた名だとそのころ言われたそうである。




(私論.私見)