野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)といふを遣はす。 |
野分ふうに風が出て肌寒の覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人がお思われになって、靫負の命婦という人を使いとしてお出しになった。 |
夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、やがて眺めおはします。 |
夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深い物思いをしておいでになった。 |
かうやうの折は、御遊びなどせさせ給ひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、 |
以前にこうした月夜は音楽の遊びが行なわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜に詠む歌なども平凡ではなかった。 |
人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現(うつつ)にはなほ劣りけり。 |
彼女の幻は帝のお目に立ち添って少しも消えない。しかしながらどんなに濃い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。 |
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命婦(みょうぶ)、かしこに参で(まかで)着きて、門(かど)引き入るるより、けはひあはれなり。 |
命婦は故大納言家に着いて車が門から中へ引き入れられた刹那からもう言いようのない寂しさが味わわれた。 |
やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐし給ひつる、 |
末亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがな いようにと、りっぱな体裁を保って暮らしていたのであるが、 |
闇に暮れて臥し沈み給へるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎(やへむぐら)にも障(さは)らず差し入りたる。 |
子を失った女主人の無明の日が続くようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの 野分の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさ
し込んだ |
南面(みなみおもて)に下ろして、母君も、とみにえ物(もの)給はず。 |
その南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人はすぐにもものが言えないほどまた も悲しみに胸をいっぱいにしていた。 |
(桐壺の母)「今までとまり侍るがいと憂きを、かかる御使の蓬生()の露分け入り給ふにつけても、いと恥づかしうなむ」とて、げにえ堪ふまじく泣い給ふ。 |
「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅう ございますのに、こうしたお使いが荒ら屋へおいでくださるとまたいっそう自分が恥ずかしくてなりません」と言って、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く。 |
(命婦)「『参りては、いとど心苦しう、心肝(こころぎも)も尽くるやうになむ』と、典侍(ないしのすけ)の奏し給ひしを、 |
「こちらへ上がりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍は陛下へ申し上げていらっしゃいましたが、 |
もの思ひ給へ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたう侍りけれ」とて、ややためらひて、仰せ言伝へ聞こゆ。 |
私のようなあさはかな人間でも ほんとうに悲しさが身にしみます」と言ってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。 |
(命婦)「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひ合はすべき人だになきを、忍びては参り給ひなむや。 |
「当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやく落ち着くとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですがそれもありません。目だたぬようにして時々御所へ来られてはどうですか。 |
若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐし給ふも、心苦しう思さるるを、とく参り給へ』など、はかばかしうもの給はせやらず、 |
若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい」 |
むせかへらせ給ひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかで侍りぬる」とて、御文奉る。 |
「こういうお言葉ですが、涙にむせ返っておいでになって、しかも人に弱さを見せまいと御遠慮をなさらないでもない御様子がお気の毒で、ただおおよそだけを承っただけでまいりました」と言って、また帝のお言づてのほかの御消息を渡した。 |
(桐壺の母)「目も見え侍らぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ」とて、見給ふ。 |
「涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、過分なかたじけない仰せを光明にいたしまして」。未亡人はお文を拝見するのであった。 |
「ほど経ば少しうち紛るることもやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきは わりなきわざになむ。 |
時がたてば少しは寂しさも紛れるであろうかと、そんなことを頼みにして日を送っていても、日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことである。 |
いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、 もろともに育まぬおぼつかなさを、今は、なほ昔の形見になずらへて、ものし給へ」など、こまやかに書かせ給へり。 |
どうしているかとばかり思いやっている小児も、そろった両親に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあなたに、せめてその子の代わりとして面倒を見てやってくれることを頼む。などこまごまと書いておありになった。 |
「宮城野の 露吹きむすぶ 風の音に 小萩がもとを 思ひこそやれ」とあれど、え見給ひ果てず。 |
宮城野の露吹き結ぶ風の音に小萩が上を思ひこそやれという御歌もあったが、未亡人はわき出す涙が妨げて明らかには拝見することができなかった。 |
(桐壺の母)「命長さの、いとつらう思う給へ知らるるに、松の思はむことだに、恥づかしう思う給へはべれば、百敷(ももしき)に行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなむ。 |
「長生きをするからこうした悲しい目にもあうのだと、それが世間の人の前に私をきまり悪くさせることなのでございますから、まして御所へ時々上がることなどは思いもよらぬことでございます。 |
かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひ給へたつまじき。 |
もったいない仰せを伺っているのですが、私が伺候いたしますことは今後も実行はできないでございましょう。 |
若宮は、いかに思ほし知るにか、参り給はむことをのみなむ思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見奉(たてまつ)り侍るなど、うちうちに思う給ふるさまを奏し給へ。 |
若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますもの と見えて、御所へ早くおはいりになりたい御様子をお見せになりますから、私はごもっともだとおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに
申し上げてくださいませ。 |
ゆゆしき身に侍れば、かくておはしますも、忌ま忌ましうかたじけなくなむ」と宣(のたま)ふ。 |
良人も早く亡くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ず くめの私が御いっしょにおりますことは、若宮のために縁起のよろしくないことと恐れ入って
おります」などと言った。 |
(命婦)「宮は大殿籠もりにけり。見たてまつりて、くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらむに、夜更けはべりぬべし」とて急ぐ。 |
そのうち若宮ももうお寝みになった。「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしく御様子も 陛下へ御報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それではあまりおそくなるでございましょう」と言って命婦は帰りを急いだ。 |
(母君)「暮れまどふ心の闇も堪へがたき片端をだに、はるくばかりに聞こえまほしう侍るを、 私にも心のどかにまかで給へ。 |
「子をなくしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせていただきたいのですから、公のお使いでなく、気楽なお気持ちでお休みがてらまたお立ち寄りください。 |
年ごろ、うれしく面だたしきついでにて立ち寄り給ひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、返す返すつれなき命にもはべるかな。 |
以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとは何ということでしょう。返す返す運命が私に長生きさせるのが苦しゅうございます。 |
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生まれし時より、思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、 |
故人のことを申せば、生まれました時から親たちに輝かしい未来の望 みを持たせました子で、父の大納言はいよいよ危篤になりますまで、 |
『ただ、この人の宮仕への本意、必ず遂げさせ奉(たてまつ)れ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、返す返す諌めおかれ侍りしかば、 |
この人を宮中へ差し上げ ようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを捨てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、 |
はかばかしう後見思ふ人もなき交じらひは、なかなかなるべきことと思ひ給へながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、 |
確かな後援者なしの宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましてはただ遺言を守りたいばかりに陛下へ差し上げましたが、 |
身に余るまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥を隠しつつ、交じらひ給ふめりつるを、 |
過分な御寵愛を受けまして、 そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、 |
人の嫉み深く積もり、安からぬこと多くなり添ひはべりつるに、横様なるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひ給へられはべる。 |
皆さんの御嫉妬の積もっていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいた しましたのですから、陛下のあまりに深い御愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛から私は思いもいたします」。 |
これもわりなき心の闇になむ」と、言ひもやらずむせかへり給ふほどに、夜も更けぬ。 |
こんな話をまだ全部も言わないで未亡人は涙でむせ返ってしまったりしているうちにますます深更になった。 |
「主上(うえ)もしかなむ。(主上) 『我が御心ながら、あながちに人目おどろくばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。 |
「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながらあまりに穏やかでないほどの愛しようをしたのも前生の約束で長くはいっしょにおられぬ二人であることを意識せずに感じていたのだ。自分らは恨めしい因縁でつながれていたのだ、 |
世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては、かううち捨てられて、心をさめむ方なきに、 |
自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信を持っていたが、あの人によって負ってならぬ 女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、 |
いとど人悪ろう かたくなになり果つるも、 前の世ゆかしうなむ』と うち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と語りて尽きせず。 |
自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって湿っぽい御様子ばかりをお見せになっています」。どちらも話すことにきりがない。 |
泣く泣く、(命婦)「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と急ぎ参る。 |
命婦は泣く泣く、「もう非常に遅いようですから、復命は今晩のうちにいたしたいと存じますから」と言って、帰る仕度をした。 |
月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声ごゑもよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。 |
落ちぎわに近い月夜の空が澄み切った中を涼しい風が吹き、人の悲しみを促すような虫の声がするのであるから帰りにくい。 |
(命婦)「鈴虫の 声の限りを 尽くしても 長き夜あかず ふる涙かな」。えも乗りやらず。 |
「鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜飽かず降る涙かな」。車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。 |
(母君)「いとどしく 虫の音しげき 浅茅生(あさじふ)に 露置き添ふる 雲の上人 かごとも聞こえつべくなむ」と言はせ給ふ。 |
「いとどしく虫の音しげき浅茅生に露置き添ふる雲の上人 かえって御訪問が恨めしいと申し上げたいほどです」と未亡人は女房に言わせた。 |
をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残し給へりける御装束一領(さうぞくひとくさり)、御髪上げ(みぐしあげ)の調度めく物添へ給ふ。 |
意匠を凝らせた贈り物などする場合でなかったから、故人の形見ということにして、唐衣と裳の一揃えに、髪上げの用具のはいった箱を添えて贈った。 |
若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏(うち)わたりを朝夕に慣らひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出で聞こゆれば、とく参り給はむことをそそのかし聞こゆれど、 |
若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住まいをしなれていて、寂しく 物足らず思われることが多く、お優しい帝の御様子を思ったりして、若宮が早く御所へお帰りになるようにと促すのであるが、 |
「かく忌ま忌ましき身の添ひ奉らむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」。 |
「不幸な自分がごいっしょに上がっていることも、また世間に 批難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛に
も堪えきれる自信がない」 |
思ひ聞こえ給ひて、すがすがともえ参らせ奉り給はぬなりけり。 |
と未亡人は思うので、結局若宮の宮中入りは実行性に乏しかった。 |