桐壷(きりつぼ)17節

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.3.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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源氏物語 目次」、「源氏物語の現代語訳:桐壺1」その他を参照する。
2007.10.7日 れんだいこ拝


【1、桐壷(きりつぼ)17節の見出し
1-1 父帝と或る更衣の物語
1-2 更衣が帝の御子誕生(一歳)
1-3 更衣が桐壺姫になる
1-4 若宮の御袴着(三歳)
1-5 桐壷姫の死去
1-6 桐壷姫の葬送
1-7 父の悲しみの日々
1-8 靫負命婦ゆげひのみょうぶの弔問
1-9 命婦帰参
1-10 若宮参内(四歳)
1-11 若宮の読書始め(七歳)
1-12 高麗人の観相、源姓賜る
1-13 先帝の四宮(藤壺)入内
1-14 源氏、藤壺を思慕
1-15 源氏元服(十二歳)
1-16 源氏、左大臣家の娘(葵上)と結婚
1-17 源氏、成人の後

【1、桐壷(きりつぼ)16節のあらすじ
 あらすじは次の通り。
 いつの時代のことだったか、源氏物語の主人公となる光源氏の生母が帝に見初められ、桐壺更衣として宮仕えする。帝の寵愛を受けるが、生母の父は大納言、母は旧家の出で教養もあったが身分が中位であった為、帝の一の妃(きさき)である弘徽殿女御(にょうご)をはじめとする後宮の女御、更衣(こういのイジメを受け悩まされる。やがて体調を悪くして宮下がりする。その後、桐壺が玉のような御子を生む。帝はますます桐壺を愛したが、女たちからの嫌がらせも強まり、それに耐えかねた桐壺は病に伏せるようになる。御子が3歳の頃、生母桐壺が逝去する。帝は深い悲しみに暮れる。母亡き後、養育していた更衣の母も亡くなったため御子は再び参内した。御子7歳の時、美貌はもとより学問、音楽まで神才を見せる御子が政争の種になることを恐れ、帝は御子を臣籍に降し、源氏の姓を与え、光源氏となる。同じ頃、桐壺に生き写しの藤壺の宮が入内した。帝の心は癒され、源氏も藤壺に亡き母の面影を求めた。帝の寵愛を受ける源氏と藤壺を人は「光る君」、「輝く日の宮」と呼び讃えた。光源氏12歳の時、元服を迎える。その後、左大臣家の娘(葵の上)と結婚する。しかし、源氏は四歳年上の妻になじむことができず、ますます藤壺への思慕を強めていく。

1-1、父帝と或る更衣の物語
 いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなきにはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。  いずれの帝の御代であったでせうか、女御(にょうご)、更衣(こうい)が大勢お仕えしているなかで、高い身分の方の女御ではないのに、ひと際(きわ)帝の寵愛を集め羨望されていた更衣の姫がおられた。
はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉(ねた)み給ふ。 入内(じゅだい)するや我こそが帝の寵愛を受けんと夢見ている女御たちは、その更衣を見下しつつ嫉妬(しっと)していた。
同じほど、それより下臈(げろう)の更衣たちは、ましてやすからず。 それより下臈(げろう、下位)の更衣たちはなおさら穏やかでなかった。
朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、 朝夕の宮仕えの際に、女御たちの嫉妬心を掻き立て、怨みを負ったことが積もり重なったせいでせうか、
いと篤(あつ)しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、 その更衣は次第に病気がちになり、憂鬱な様子で里帰りを繁(しげ)くするようになられた。
いよいよあかずあはれなるものに思ほして、 (帝は)そうなればなるほどいっそう不憫に思われ、
人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。 周りのそしりにも耳を貸さずに、世間の語り草になるほどのご寵愛ぶりでございました。
 上達部(かむだちめ)、上人(うえびと)なども、あいなく目を側(そば)めつつ、 大臣や大納言等の殿上人たちは、わざと見ないふりをしつつ、
「いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれ」と、 「大変なご寵愛ぶりだ。唐の国でもこのようなことがあったそうな。世が乱れ、悪い先例となっている」と囁(ささや)き合っていた。
やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、 次第に世間でも困ったことだと知れ渡るようになり、人々の格好の噂の種になって、(玄宗皇帝を魅了した)楊貴妃の例も引き合いに出されるようになった。
いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひ給ふ。 (更衣姫は)居たたまれなかったが、帝のもったいないほどのご寵愛が類稀(たぐいまれ)なものであったので、そのことを頼りにして宮仕えしておられた。
父の大納言は亡くなりて、母北の方なむいにしへの人のよしあるにて、 その頃、更衣の父の大納言が亡くなった。母の北の方は旧家の出で教養もある方だったので、
親(うち)具し、さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにもいたう劣らず、なにごとの儀式をももてなし給ひけれど、 両親が揃っていて、華やかな身分にある方々にも見劣りしない程度に、どのような儀式をも卒なくこなしていたが、
とりたててはかばかしき後見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。 格別の頼りになる後見(経済的援助等の後ろ盾)がなかったので、急用の出費が伴うような折には当てがある訳ではないので心細げであった。

1-2、更衣が帝の御子誕生(一歳)
 先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子(をのこみこ)さへ生まれたまひぬ。  前世でもよほど深い縁(えにし)がおありだったのでせうか、その更衣姫が世にも珍しいほど清らな玉のように美しい男御子(をのこみこ)をお生みなされた。
いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌(かたち)なり。 帝は御子を早く見たいと心がせいて、急ぎ参上させてご覧になるに、若宮は類い稀な品の良いお顔立ちだった。
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲(もうけ)の君と、世にもてかしづき聞こゆれど、 これより先に右大臣の娘の弘徽殿(こきでん)の女御との間に儲(もう)けられた一の宮の皇子(第一皇子)がおられ、後見もしっかりしており、当然のように皇太子になられる君だとみなされて大事に育てられていた。
この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、 その一の宮の皇子も、この御子の輝くばかりの美しさとは比べようもなく、帝は一の宮の皇子を表向き第一に大事にしていたものの、
この君をば、私物(わたくしのもの)に思ほしかしづき給ふこと限りなし。 この若宮に対しては、眼の中に入れても痛くないほどの格別の愛情を注がれ可愛がられた。
初めよりおしなべての上宮仕(うえみやづかへ)し給ふべき際(きわ)にはあらざりき。 この更衣姫は本来であれば、上宮仕え(うえみやづかへ、お側勤め)をしなければならない身分ではなかった。
おぼえいとやむごとなく、上衆(じょうず)めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、 帝がとてもお気に召され、貴人の品格も備わっていたので、帝がむやみにお側近くに引き留められ、お離しになられなかった。
さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参(まう)上(のぼ)らせ給ふ。 管弦の遊びの折々、また由緒ある伝統の催しがある行事の折々に、必ず参上させていた。
 ある時には大殿籠(おおとのごもり)過ぐして、やがてさぶらはせ給ひなど、あながちに御前(おまえ)去らずもてなさせ給ひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、  ある時には寝過ごして、なお引き続きお傍に侍らせ、御前から去らせようとしなかったこともあり、おのずと気の置けない気軽な女房のように見えていた。
この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、 この若宮がお生まれになってからは、一段とご寵愛が深くなり、
「坊にも、ようせずは、この御子の居給ふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。 「ひよっとすると、この稚児が皇太子の御所に入るべきとお考えなのだろうか」と、一の宮の皇子の女御(弘徽殿の女御)が疑念をもつほどだった。
人より先に参り給ひて、やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、 この女御は最初に入内した方で、(帝は)その家柄毛並みの良さゆえに尋常でなく気づかいしており、他に皇女たちも産んでおられたので、
この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう心苦しう思ひ聞こえさせ給ひける。 (帝は)一の宮の女御の苦言には頭が上がらず、他方で煩(わずら)わしく煙たく思っておられた。
かしこき御蔭をば頼みきこえながら、落としめ疵を求め給ふ人は多く、 更衣姫ご自身は帝の庇護のみを頼りにしていましたが、貶めようとして荒さがしをする人が多くいました。
わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞし給ふ。 更衣姫は病弱でそう長くは生きられない質のご様子で、なまじ御寵愛を得たばかりにかえって辛い思いをしていた。

1-3、更衣が桐壺姫になる
 御局(みつぼね)は桐壺なり。  更衣姫が住んでいる御局(部屋)は後宮(淑景舎/しげいしゃ)の東北の一番端にある桐壷だった。(これ以降は更衣姫改め「桐壷姫」と記す)
あまたの御方がたを過ぎさせ給ひて、ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くし給ふも、げにことわりと見えたり。 帝はたくさんの女御たちの部屋を通り過ぎて、ひっきりなしに通うので、女御たちが焼きもちを焼いたのも、無理からぬことであった。
参う上り給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋(うちはし)、渡殿(わたどの)のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、 桐壷姫が御前に参上されるときも、あまりに繁くなりますと、打橋(うちはし)、渡殿(わたどの)などの通り道のあちこちに、よからぬ仕掛けをして、
御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。 送り迎えの女官の着物の裾が汚れたり傷んだりして、尋常ではないようなことがございました。
またある時には、え避(さ)らぬ馬道(めどう)の戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめわづらはせ給ふ時も多かり。 またあるときは、どうしても通らなけれならない馬道(中廊下)の戸が締めて通れないようにし、こちら側とあちら側とで示しあわせて閉じられて、辱しめて困らせることがしばしばあった。
事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、 何かにつけて、数え切れないほどにつらいことばかりが増えていきますので、桐壷姫はすっかり気落ちしていた。
いとどあはれと御覧じて、後涼殿(こうらうでん)にもとよりさぶらひ給ふ更衣の曹司(ざうし)を他に移させ給ひて、上局(うへつぼね)に賜はす。 (帝は)可哀そうに思い、帝の御前にずっと近い後涼殿(こうりょうでん)を空けさせ、元からいて意地悪をしている更衣の女官たちを他の局に移し、桐壷に上局(うへつぼね)を専用の休憩所としてお与えされた。
その恨みましてやらむ方なし。 このことで、他に移された更衣たちの恨みは余計に強くなりました。

1-4、若宮の御袴着(三歳)
 この御子三つになり給ふ年、御袴着(はかまぎ)のこと一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮(くらづかさ)、納殿(をさめどの)の物を尽くして、いみじうせさせ給ふ。  この御子が三歳になった年、御袴着(はかまぎ)の行事が行われ、一の宮の時のそれに劣らず、内蔵寮(くらづかさ)、納殿(おさめどの)の宝物を使い果たすほどに盛大に催された。
それにつけても、世の誹りのみ多かれど、 そのことについても世間の批判が多かったが、
この御子のおよすげもておはする御容貌(かたち)心ばへありがたくめづらしきまで見え給ふを、え嫉(そね)みあへ給はず。 この御子のその後の成長ぶりで、容姿や気品が世に稀なほどに美しかったので、嫉妬や焼きもちを湧かすことができなかった。
ものの心知りたまふ人は、「かかる人も世に出でおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかし給ふ。 世の道理に通じている長老たちが、「かくも美しい御子が本当に居られるものなのだな」と、仰々(ぎょうぎょう)しく驚き感心していた。

1-5、桐壷姫の死去
 その年の夏、御息所(みやすみどころ)、はかなき心地にわづらひて、まかでなむとし給ふを、暇(いとま)さらに許させ給はず。  その年の夏、帝の子を産んだ御息所(みやすみどころ、桐壷姫)が心細さから病気になり、里(さと、実家)へ帰ろうとしたところ、帝はお許しになられなかった。
年ごろ、常の篤(あつ)しさになり給へれば、御目馴れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、 ここ数年来はいつも病気がちだったので、帝はそのことに慣れてしまい、「もう少しここで養生して様子を見なさい」とばかり仰せになって居られた。
日々に重(おも)り給ひて、ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせたてまつり給ふ。 ところが、桐壷姫の病状が日に日に悪くなり、ここ僅か五六日ほどの間に目に見えて弱ってしまったので、母君が泣く泣く帝に上奏して、里帰りさせることになった。
かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出で給ふ。 このような事態のさ中、万一の不慮の失態を用心して、御子を宮中に残したままで、人目につかないように宮を退出されて行かれた。
限りあれば、さのみもえ留めさせ給はず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。 (帝は)宮中の定めがあるため、むやみに引き止めることもできず、見送りすることもできず、言葉で表せないお気持ちであられました。
いとにほひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、 あの匂うような美しい方が、今は顔がひどく痩せこけ、悲しい思いで胸いっぱいになりながら、
言に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものし給ふを御覧ずるに、 何事か声に出すけども弱々しく、消え入りそうな声で語っていた。(帝が)その様子を見て大変不憫に思い、
来し方行く末思し召されず、よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえ給はず、 後先のことを顧みず、様々なことを泣きながら約束しておられましたが、返事はなかった。
まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、 我かの気色にて臥したれば、 目つきはもの憂げで、身(からだ)が弱々しく、意識はもうろうとして臥していたので、
いかさまにと思し召しまどはる。 (帝は)どうしたらよいか分からす戸惑っておられました。
輦車(てぐるま)の宣旨(せんじ)などのたまはせても、また入らせ給ひて、さらにえ許させ給はず。 手車(てぐるま、車の付いた御輿)で桐壷姫を実家に送り届けよという宣旨(せんじ)を出しても、その後すぐに姫の部屋に入ってしまい、そうなると姫と別れがたくなり、里帰りをお許しになられなかった。
「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせ給ひけるを。さりとも、うち捨てては、え行きやらじ」とのたまはするを、 「いずれお迎えが来る人の世の、死ぬ時も一緒と約束したではないか。私を置き去りにしてよそへ行ってはならぬぞ」と(帝が)仰せになるのを、
女もいといみじと、見たてまつりて、「限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり いとかく思ひ給へましかば」と、 桐壷姫も感に堪えぬ様子で帝を見上げて、「お別れせねばなりませぬことはとても悲しいことですが、私は生きたいと強く念じています。必ず元気になって戻って参りますので」と、
息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、 息も絶えだえに申し上げ、更に帝に話したいことがありそうな様子だったが、
いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに、 いかにも苦しそうなので、(帝は)このまま最後まで傍にいて看取ってあげようと思われたが、
「今日始むべき祈りども、さるべき人びとうけたまはれる、今宵より」と、 「今日から祈祷を始めます。祈祷師たちも準備しております。今夜から始まります」と、
聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせ給ふ。 出発を急がせるので、帝は別れがたくお思いになりながらも退出をお許しになられた。
 御胸つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせ給ふ。  (帝は)悲しみで胸がいっぱいになり、片時もまどろみせず、夜を明かしかねて居た。
御使の行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、 お使いの勅使の行き来がほどなく止むと、しきりに気がかりで不安なお気持ちを何度もお漏らしになっておられたが、
「夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはて給ひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。 「夜半過ぎ、お亡くなりになりました」と里方の家人がなきじゃくっていましたので、勅使もどうしようもなく宮中に戻って来た。
聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召しわかれず、籠もりおはします。 桐壷姫が亡くなったことをお聞きになられた帝の御心は乱れに乱れて、部屋に引き籠もってしまわれた。
御子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひ給ふ、例なきことなれば、まかでたまひなむとす。  (帝は)桐壷姫の忘れ形見である若宮を手元で育てたいと思われたが、母の忌中に皇子が宮中に居続けるという前例がなかっので、母の里に退出させることになった。
何事かあらむとも思したらず、さぶらふ人びとの泣きまどひ、主上(うえ)も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつり給へるを、 (若宮は)何があったのか分からず、おつきの侍女たちが泣き騒いでいて、帝のお顔にも涙が流れてばかりいるご様子を見て不思議にお思いになられていた。
よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。 普通でも母との死別は悲しいことでありますのに、こういう形で内裏から出て行かれることになった頑是ない若宮のお姿は言いようもないほど悲しいことでございました。

1-6、桐壷姫の葬送
限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、 しきたりにより、先例の葬儀の方法通りに火葬に付していたところ、
母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣きこがれ給ひて、御送りの女房の車に慕ひ乗り給ひて、 母の北の方が娘と同じ煙になって空に昇ってしまいたいと激しく泣き通され、お見送りの女房の車に一緒にお乗りになられた。
愛宕(をたぎ)といふ所にいといかめしうその作法したるに、おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。 鳥野辺の火葬場の愛宕(をたぎ)という所で厳かにその葬儀を執り行っていたところへ、式の最中にお着きになった時の気持ちは、いかばかりでしたでせう。
「むなしき御骸(から)を見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、 (母君は)「御骸(から)を見れば見るほど、まだ生きているように思われましたが、そんな事を考えても何にもなりませんので、
灰になり給はむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしうのたまひつれど、 灰になってしまったのを見届けたからには、もういないのだ、とすっかり諦めもつきました」と、落ち着いた分別で語っていたが、
車よりも落ちぬべうまろび給へば、さは思ひつかしと、人びともてわづらひ聞こゆ。 車から落ちてしまうのではないかと揺られ転げられておられる様子なので、一緒に死のうとする思いに駆られているのではないかと、見守る人々が心配していた。
内裏(うち)より御使あり。 内裏(だいり、宮中)から葬儀場へとお使いがやって来た。
三位(みつ、さんみ)の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。 桐壷姫に女御の位階である三位(みつ、さんみ)の位階を遺贈されるという宣命をお使いの者が読むに及び、却って母親の悲しみが募った。
女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階(ひときざみ)の位をだにと、贈らせ給ふなりけり。 帝は、桐壺姫を女御と呼ばれることがないままに逝かせたことを残念に思われたので、せめて一階級上の位を差し上げようとお考えになり、お贈りになられた。
これにつけても憎み給ふ人びと多かり。 この件につけても、女御や更衣の人たちにあっては反感し嫉妬する者が多かった。
もの思ひ知り給ふは、様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。 世間の道理に通じている人たちは、桐壺姫の御姿や容貌の美しかったこと、ご性格が穏やかで憎もうにも憎めない御方であったことなどを、今は思い出していた。
さま悪しき御もてなしゆゑこそ、すげなう嫉み給ひしか、 (帝の)度を過ぎたご寵愛のゆえに、女御たちにつれなく妬(ねた)まれたが、
人柄のあはれに情けありし御心を、主上の女房なども恋ひしのびあへり。 桐壺姫の奥ゆかしい思いやりのある優しいご性格のお人柄だったことを、帝つきの女房たちも懐かしく思い出していた。
なくてぞとは、かかる折にやと見えたり。 「亡くなって初めて、その人が恋しく思われる」という歌がございますが、まさにぴったりで、このことを詠ったもののように思われます。

1-7、帝の悲しみの日々
 はかなく日ごろ過ぎて、後のわざなどにもこまかにとぶらはせ給ふ。  いつのまにか日数は過ぎていき、(帝は)後の七日ごとの法要などの折にも細かな心遣いを見せ、お見舞いをお遣わしあそばされた。
ほど経るままに、せむ方なう悲しう思さるるに、御方がたの御宿直(とのい)なども絶えてし給はず、 日が経つほどに、(帝は)どうしようもなく悲しくなり、女御、更衣たちの夜の御宿直(とのい、お相手)勤めも途絶えてしまい、
ただ涙にひちて明かし暮らさせ給へば、見たてまつる人さへ露けき秋なり。 ただ涙にくれて暮らして、見守っている人びとさえ湿っぽい露の秋になった。
「亡きあとまで 人の胸 あくまじかりける 人の御おぼえかな」とぞ、弘徽殿(こきでん)などにはなほ許しなうのたまひける。 「亡くなったあとまで 胸がかきむしられるほどのご寵愛だこと」と弘徽殿の女御は手厳しく言っておられた。
一の宮を見たてまつらせ給ふにも、若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ、 (帝は)皇太子の一の宮とお会いになられた際、桐壺姫が残していった若宮がやけに恋しくなり、
親しき女房、御乳母などを遣はしつつ、ありさまを聞こし召す。 桐壺姫に親しく仕えた女房や乳母などを桐壺姫の里に遣わして若宮のご様子をお尋ねになられておられた。

1-8、靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)の弔問
 野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)といふを遣はす。  台風の季節になり、にわかに肌寒くなった夕暮れ時、(帝は)常にもまして桐壺姫のことを思い出すことが多くなり、靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)という者を里に遣わした。
夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、やがて眺めおはします。 夕方の月夜の美しい時刻に出発させますと、帝はぼんやり月を眺めておられた。
かうやうの折は、御遊びなどせさせ給ひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、 桐壺姫の生前であればこのような折には、管弦の遊びなどをしたもので、桐壺姫は他の者とは趣の違う優れた琴の音を掻き鳴らし、うら悲しい感じの声音で詠う詩歌も抜群の才を見せていた。
人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現(うつつ)にはなほ劣りけり。 そういうことが、人より秀でて美しかった桐壺姫の雰囲気や顔かたちが面影となって帝の身に寄り添うように思い出されました。けれども、闇に映し出される現実(うつつ)のお姿は儚(はかな)いものでございました。
 命婦(みょうぶ)、かしこにで(まかで)着きて、門(かど)引き入るるより、けはひあはれなり。  遣いの命婦(みょうぶ)が桐壺姫の里にお着きになられ、門の中に御車を引き入れますと、邸の様子にあわれを感じられました。
やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐし給ひつる、 桐壺姫の母がやもめ(未亡人)住まいしており、ひとり娘を大事に育てになられ、宮仕えの間におかれては娘が恥ずかしい思いをせぬようあちこちの手入れもし、見苦しくない程度の暮らしぶりをしておられたが、
闇に暮れて臥し沈み給へるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎(やへむぐら)にも障(さは)らず差し入りたる。 娘が亡くなり、悲しみに臥し沈んでいらっしゃる間に、庭の草が伸びて生い茂り、最近の野分の風でいっそう邸内が荒れた感じがしており、月影だけは八重葎(やえむぐら、伸びた草)も障(さわ)らず、さやかに差し込んでいた。
南面(みなみおもて)に下ろして、母君も、とみにえ物(もの)給はず。 南向きの客間に招じられ、命婦も母君も胸がつまって暫くは何もおっしゃることができなかった。
(桐壺の母)「今までとまり侍るがいと憂きを、かかる御使の蓬生()の露分け入り給ふにつけても、いと恥づかしうなむ」とて、げにえ堪ふまじく泣い給ふ。 (桐壺姫の母)「今日まで生き永らえましたが誠に辛い日々でございました。ご立派なご使者が生い茂った草の露を踏み分けてお出で下さいますのは勿体なく、ただ恥じいるばかりでございます」と、耐え難い様子でお泣きされた。
(命婦)「『参りては、いとど心苦しう、心肝(こころぎも)も尽くるやうになむ』と、典侍(ないしのすけ)の奏し給ひしを、 (命婦)「『お見舞いにあがって、いっそう心苦しく、心胆も消え入るばかりでした』と典侍が奏したのを受けて、
もの思ひ給へ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたう侍りけれ」とて、ややためらひて、仰せ言伝へ聞こゆ。 物の情理に疎い私のような者でも感極まりました」と述べ、少し気持ちを落ち着けて、(帝の)言伝をお伝えした。
(命婦)「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、 (命婦)「(帝は)『しばらくは夢かと思い惑っておりましたが、段々に気持ちが鎮まって来ると、夢ではないから覚めようもなく、しかしそうなればそうなったでこの堪えがたい気持ちはどうすればよいのか。
問ひ合はすべき人だになきを、忍びては参り給ひなむや。 話し相手もいないので、貴女がお忍びで来て欲しいのです。
若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐし給ふも、心苦しう思さるるを、とく参り給へ』など、はかばかしうもの給はせやらず、 若宮も待ち遠しく気がかりです。つゆ草深い中に過ごさせているのは心苦しく思います。早く参内させてほしい』などと、はっきりとは仰せにならず、
むせかへらせ給ひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかで侍りぬる」とて、御文奉る。 涙にむせかえりつつ、また心弱くみられるているのではないかと周囲に気がねしているご様子に、お言葉を終わりまでお聞きできずに退出してきました」と言って帝の文をお渡しした。
(桐壺の母)「目も見え侍らぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ」とて、見給ふ。 (桐壺の母)「涙の目でお手紙も見えませんが、恐れ多くも帝の言葉を月明りを借りて拝見させていただきましょう」と言って、ご覧になられた。
「ほど経ば少しうち紛るることもやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきは わりなきわざになむ。 (帝のお手紙には、)「時が経てば少しは気持ちもまぎれるかと思っていましたが、月日が経つにつれて、ますます堪えがたく辛くなっております。
いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、 もろともに育まぬおぼつかなさを、今は、なほ昔の形見になずらへて、ものし給へ」など、こまやかに書かせ給へり。 若宮はどうしているかと案じながらも、貴女とも一緒に育てられないのが気がかりです。今はせめて若宮を形見と見て、一緒においで下さい」などと、細やかな心配りでお書きされておられました。
「宮城野の 露吹きむすぶ 風の音に 小萩がもとを 思ひこそやれ」とあれど、え見給ひ果てず。 「宮城野に吹きむすぶ風の音を聞くにつけ若宮はどうしているか思いやっている」と書いていましたが、涙に曇って最後までは読めなかった。
(桐壺の母)「命長さの、いとつらう思う給へ知らるるに、松の思はむことだに、恥づかしう思う給へはべれば、 (桐壺の母は)「長く生きるのは辛いことだと知りまして、長寿の高砂の松の思いを恥じております身ですので、
百敷(ももしき)に行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなむ。 宮中へ行くことは大変恐れ多く存じます。
かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひ給へたつまじき。 帝の有難いお言葉をたびたび頂きながら自分からは参内するつもりはありません。
若宮は、いかに思ほし知るにか、参り給はむことをのみなむ思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見奉(たてまつ)り侍るなど、うちうちに思う給ふるさまを奏し給へ。 若宮は、どのようにお知りになったのか、すぐにも参りたいと思っているようですが、その自然の情を悲しく感じております、と内々に思っていることをお伝え願いたい。
ゆゆしき身に侍れば、かくておはしますも、忌ま忌ましうかたじけなくなむ」と宣(のたま)ふ。 不幸が重なった身ですので、お忍びでも忌むべく恐れ多いことでございます」と仰った。
 (命婦)「宮は大殿籠もりにけり。見たてまつりて、くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらむに、夜更けはべりぬべし」とて急ぐ。  (命婦は)「若宮は寝てしまいましたようです。お会いした様子を詳しくご報告したいのですが、(帝が)お待ちになっておられますので失礼致します。これ以上長居すると夜が更けてしまいます」と申し上げ帰路を急いだ。
(母君)「暮れまどふ心の闇も堪へがたき片端をだに、はるくばかりに聞こえまほしう侍るを、 私にも心のどかにまかで給へ。 (桐壺姫の母)「娘を失った心の闇に惑う親心は、堪えられないほど悲しいものでございます。せめて次には、お遣いとしてでなく、私ごととしてごゆっくりお出かけくださいませ。
年ごろ、うれしく面だたしきついでにて立ち寄り給ひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、返す返すつれなき命にもはべるかな。 常日頃はうれしい名誉な使者としていらしていたのに、このような事情でお越しいただくのは、返す返すも無情な運命と感じ入っております。
生まれし時より、思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、 (桐壺姫は)生まれた時から、宮仕えに出したいと望みをかけた子でして、故大納言が臨終の間際まで、
『ただ、この人の宮仕への本意、必ず遂げさせ奉(たてまつ)れ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、返す返す諌めおかれ侍りしかば、 『この子の宮仕えの本懐を遂げさせてくださいませ。私が亡くなったからといって、気持ちを折らせてあきらめませぬように』と繰り返し遺言されたので、
はかばかしう後見思ふ人もなき交じらひは、なかなかなるべきことと思ひ給へながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、 頼りになる後見の人がないまま宮仕えさせたのは、大変なことでしたけれど、ただこの遺言だけを守って出仕させましところ、
身に余るまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥を隠しつつ、交じらひ給ふめりつるを、 帝の身にあまる御心ざしはかたじけなく、人並みに扱われない恥ずかしさを押し隠しながら、宮仕えをしていたようですが、
人の嫉み深く積もり、安からぬこと多くなり添ひはべりつるに、横様なるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、 人々の妬みが積もり、安からぬことが多くなり、横死のようになってしまいましたので、
かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひ給へられはべる。 顧みれば帝のご寵愛をありがたく思いますものの、恐れ多い御心をかえって恨めしく思ったりしております。
これもわりなき心の闇になむ」と、言ひもやらずむせかへり給ふほどに、夜も更けぬ。 これも子を思う親の心の闇の惑いでしょうか」と、涙にむせんで話すうちに、夜が更けてしまいました。
主上(うえ)もしかなむ。(主上) 『我が御心ながら、あながちに人目おどろくばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。 (命婦)「帝もそう思っておられます。『自分の心ながら、どうにもならず、人が驚くほどの思いを桐壺姫に寄せたのも、長く続くはずのない仲だったのだろうか、今思うに実に辛い因縁であった。
世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては、かううち捨てられて、心をさめむ方なきに、 人の気持ちをそこなうことはするまいと思っていたが、ただこの女性ゆえに、多くの人の恨みをかい、このようにひとり残されて、気持ちの整理がつかず、
いとど人悪ろう かたくなになり果つるも、 前の世ゆかしうなむ』と うち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と語りて尽きせず。 性格が悪く頑固になったのも、どんな前世の因縁か知りたい』と(帝は)くりかえし涙を流しておられます」と話が尽きなかった。
泣く泣く、(命婦)「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と急ぎ参る。 涙ながらに「夜もすっかり更けました、今宵のうちにご報告を」と命婦は急いで帰った。
月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声ごゑもよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。 山の端に月はかたぶき、空は澄みわたり、風は涼しく、草むらの虫の声は涙を誘い、立ち去り難い風情がありました。
(命婦)「鈴虫の 声の限りを 尽くしても 長き夜あかず ふる涙かな」。えも乗りやらず。 (命婦の歌)「鈴虫が声の限りに鳴きつくす それに誘われわたしの涙も長い夜にも尽きることがありません」。(命婦は)とても車に乗って帰る気になれなかった。
(母君)「いとどしく 虫の音しげき 浅茅生(あさじふ)に 露置き添ふる 雲の上人 かごとも聞こえつべくなむ」と言はせ給ふ。 (桐壺姫の母の歌)「虫が鳴きしきるこの草深い住いに殿上人が来ていっそう涙を流しています。愚痴めいたことも申しました」と侍女に伝言している。
をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残し給へりける御装束一領(さうぞくひとくさり)御髪上げ(みぐしあげ)の調度めく物添へ給ふ。 趣のある物を贈るときでもないので、このような折もあろうかと残しておいた、桐壺の形見の装束一式、御髪あげ道具一式を添えた。
若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏(うち)わたりを朝夕に慣らひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出で聞こゆれば、とく参り給はむことをそそのかし聞こゆれど、 若い侍女たちは、悲しいことは言うまでもありませんでしたが、内裏の生活に朝な夕なと毎日馴れ親しんでいますので、騒々しい内裏の様子に比べ里の生活は物足りなく、帝のご様子なども思い出されて、桐壺の母に若宮とともに早く参上するように申し上げましたが、
「かく忌ま忌ましき身の添ひ奉らむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」。 「このように喪を重ねた者が一緒に参内するのは人聞きが悪いでせう。若宮としばし会えなくなるのは、それも気がかりです」。
思ひ聞こえ給ひて、すがすがともえ参らせ奉り給はぬなりけり。 こう思ってなかなか参内させることもできませんでした。

1-9、命婦帰参
 命婦は、「まだ大殿籠もらせ給はざりける」と、あはれに見たてまつる。  命婦は、「帝はまだお休みになっていないのだ」と、帝がお寝みにならないで命婦の帰りを待っておられたことに、しみじみお労(いたわ)しく思いました。
御前(おまえ)の壺前栽(つぼぜんざい)のいとおもしろき盛りなるを御覧ずるやうにて、忍びやかに心にくき限りの女房四五人さぶらはせ給ひて、御物語せさせ給ふなりけり。 (帝は、)中庭の植込みが秋の花の色とりどりの盛りなのをご覧になりながら、奥ゆかしい女房4、5人をはべらせて、物語りしておいででした。
このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌(ちょうごんか)の御絵、亭子院(ていじのいん)の描かせ給ひて、伊勢、貫之に詠ませ給へる、大和言の葉をも、唐土(もろこし)の詩(うた)をも、ただその筋をぞ、枕言(まくらごと)にせさせ給ふ。 この頃の帝は、玄宗皇帝と楊貴妃の恋を題材にした長恨歌の御絵を、これは亭子院(ていじのいん)がお描きになったもので、伊勢や貫之に歌を書かせたものですが、朝な夕なにご覧じて、大和言葉のものも唐土のものも、その方面の文学芸術ばかりを日常の話題にあそばされておられました。
いとこまやかにありさま問はせ給ふ。あはれなりつること忍びやかに奏す。御返り御覧ずれば、 (帝は)こまやかに桐壺姫の里の様子をお訊きになられました。(命婦は)しみじみと感じられたことを忍びやかにご報告申し上げました。母君からの返信の文をご覧になり、
(母君)「いともかしこきは置き所もはべらず。かかる仰せ言につけても、かきくらす乱り心地になむ。 (桐壺姫の母君)「帝からの恐れ多い御文を頂いて、どうしてよいか分かりません。仰せられた言葉につけても、親の心は闇のなかで乱れています。
『荒き風 ふせぎし蔭の 枯れしより 小萩がうへぞ 静心なき』など」 『荒い風を防いでいた大樹が枯れてしまったのでその下の小さな萩は大丈夫だろうか心配でなりません』」。
やうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと御覧じ許すべし。 この歌のように、いささか礼を欠いた乱筆の調子も、(母君は)娘を失った気持ちの整理ができていないのだからとお許しになる。
いとかうしも見えじと、思し静むれど、さらにえ忍びあへさせ給はず、御覧じ初めし年月のことさへかき集め、よろづに思し続けられて、 (帝は)取り乱した処を見せまいとするが、我慢できずに、初めて桐壺姫と会った時のことなど思いだしている。
「時の間もおぼつかなかりしを かくても月日は経にけり」と、あさましう思し召さる。 「当時は片時も桐壺姫なしではいられなかったのに、しかし月日は無常に過ぎてしまった(よくもこう長い月日を一人で耐えて過ごせたものだ)」と、意外な気持ちでございました。
(帝)「故大納言の遺言あやまたず、宮仕への本意深くものしたりし喜びは、かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ。言ふかひなしや」と 「故大納言の遺言を守り、宮仕えの志を貫いたその甲斐があった、と喜んでもらえるようずっと考えていた。本当に残念だ」と
うちのたまはせて、いとあはれに思しやる。 (帝は、)仰せになって(母君を)思いやられました。
(帝)「かくても、おのづから若宮など生ひ出で給はば、さるべきついでもありなむ。命長くとこそ 思ひ念ぜめ」など宣(のたま)はす。 「このようであっても、若宮が成長すれば、自ずからなにかの折に喜ばしいこともあろう。長生きこそ願わしい」と(帝は)仰せになられました。
かの贈り物御覧ぜさす。 母君の贈り物をお見せになりました。
「亡き人の 住処尋ね出でたり けむしるしの 釵(かんざし)ならましかば」と思ほすもいとかひなし。 「亡き人の住いを探し、そのしるしの釵(かんざし)を持ってきてほしい」と思うのも詮ないことでした。
(帝)「尋ねゆく 幻もがな つてにても 魂のありかを そこと知るべく」。 (帝の歌)「亡き桐壺姫の魂を尋ねる幻術士がいてほしい、その人伝(ひとづて)でも桐壺姫の魂のありかを知りたい」。
絵に描ける楊貴妃の容貌(かたち)は、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。 絵に描かれた楊貴妃の容貌は、すぐれた絵師でも筆に限りがありますので、生きている人間と比べると生気に乏しいものでした。
大液(たいえき)の芙蓉(ふよう)未央(びあう)柳も、げに通ひたりし容貌を、唐(から)めいたる装ひはうるはしうこそありけめ、 大液(たいえき)の芙蓉(ふよう、蓮華)や未央(びあう)の柳のそばに立つ似姿も、唐の衣装を着て凛(りん)として美しいのですが、
なつかしう らうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき。 桐壺姫の優しく可愛らしい姿を思い出すにつれ、花鳥の音や色もとうてい及びません。
朝夕の言種(ことぐさ)に、「翼をならべ、枝を交はさむ」と契らせ給ひしに、かなはざりける命のほどぞ、尽きせず恨めしき。 朝夕の話にも口癖のように「比翼連理」(ひよくれんり)と約束したのに、思うようにならなかった愛する人の運命を思えば、恨めしさが尽きることがありませんでした。
風の音、虫の音につけて、 もののみ悲しう思さるるに、弘徽殿(こきでん)には、久しく上の御局(つぼね)にも参(ま)う上り給はず、 (帝は、)風の音、虫の音につけても物悲しい気持ちで居られましたが、弘徽殿の女御におかれては、は久しく帝の寝所に参上しませんでした。
月のおもしろきに、夜更くるまで遊びをぞし給ふなる。 月のおもしろい夜は、夜更けまで遊ばれておられました。
いとすさまじう、ものしと聞こし召す。 (帝は)それをあてつけがましく不快に感じられておりました。
 このごろの御気色を見たてまつる上人、女房などは、 かたはらいたしと聞きけり。  殿上人や女房たちは帝のご様子をはらはらして見ておりました。
いとおし立ち かどかどしきところものし給ふ御方にて、ことにもあらず思し消ちてもてなし給ふなるべし。 弘徽殿は我の強い棘のあるご性格なので、事あるごとに帝の悲しみなど無視してふるまわれておられました。
月も入りぬ。 月も山の端にかくれました。
 「雲の上も 涙にくるる 秋の月 いかですむらむ 浅茅生の宿」。 (帝の歌)「雲の上の秋の月を見ていますが内裏では涙にくれていますので余計に能く見えません。草深い宿から見る月はどうして澄んでいられるのでせうね」。
 思し召しやりつつ、灯火をかかげ尽くして起きおはします。  (帝は、)桐壺の里を思いやりつつ、灯火を灯して起きておられました。
右近の司の宿直奏(とのまうし)の声聞こゆるは、丑になりぬるなるべし。 右近の司の宿直の声が聞こえましたので、もう丑の刻(午前二時頃)になっているのでせう。
人目を思して、夜の御殿(おとど)に入らせ給ひても、まどろませ給ふこと、かたし。 人目を気にして、寝所に入られましたが、なかなか眠りに就くことが難しかったようです。
朝(あした)に起きさせ給ふとても、「明くるも知らで」と思し出づるにも、なほ朝政(あさまつり)ごとは怠らせ給ひぬべかめり。 翌朝お起きになられましても、「夜が明けるのも知らずに」寝過ごした桐壺とのことを思いだしておられました。この調子では恐らく、朝廷のまつりごとはやはり怠ってしまうでせう。
ものなども聞こし召さず、朝餉(あさがれひ)のけしきばかり触れさせ給ひて、 大床子(だいしょうじ)の御膳(おもの)などは、いと遥かに思し召したれば、 (帝は、)食事も手を付けなかった。朝餉は少し箸をつける程度で、昼の御膳は遠ざけておられましたので、
陪膳(はいぜん)にさぶらふ限りは、心苦しき御気色を見たてまつり嘆く。 給仕する者たちは、帝の心苦しい気色を見て嘆くことしきりでした。
すべて、近うさぶらふ限りは、男女、「いとわりなきわざかな」と言ひ合はせつつ嘆く。 お側近くでお仕えする者たちは男女を問わず、「まことに困ったことだ」と互いに嘆いておりました。
「さるべき契りこそはおはしましけめ。 「前世の契りがあったのでしよう。
そこらの人の誹り、恨みをも憚らせ給はず、この御ことに触れたることをば、道理をも失はせ給ひ、今はた、かく世の中のことをも、思ほし捨てたるやうになりゆくは、いと たいだいしきわざなり」と、 周囲の人々の謗りや恨みも気に留めず、桐壺とのことについては物の道理をもかまわず、亡くなった今になっても、政(まつりごと)も投げやりなご様子なのは、ゆゆしきことだ」と、
 人の朝廷(みかど)の例まで引き出で、ささめき嘆きけり。 人々は唐土の朝廷(みかど)の例を引き合いに出して、ひそひそ嘆息していました。

1-10、若宮参内(四歳)
 月日経て、若宮参り給ひぬ。いとどこの世のものならず清らに およすげ給へれば、いとゆゆしう思したり。  月日を経て、若宮が参内なさった。この世のものとも思われないくらい美しく育っておられて、(帝は)これが為に不吉なことでも起こらねば良いがと不安にお思いになるほどでございました。
明くる年の春、坊定まり給ふにも、いと引き越さまほしう思せど、御後見すべき人もなく、また世のうけひくまじきことなりければ、なかなか危く思し憚りて、 明くる年の春、東宮を決めるときも、一の宮を越して春宮にと思ったが、後見してくれる有力な人もなく、世間も承知しそうにないことから、危ないとお考えになり、かえって危険であると考え直されて、
色にも出ださせ給はずなりぬるを、「さばかり思したれど、限りこそありけれ」と、世人も聞こえ、女御も御心落ちゐ給ひぬ。 おくびにも出さなかったので、「いかに寵愛されても、御心のままにはならない」と、世間の人も噂し、弘徽殿の女御も安心しておられました。
かの御祖母(おんおば)北の方、慰む方なく思し沈みて、おはすらむ所にだに尋ね行かむと願ひ給ひししるしにや、つひに亡せ給ひぬれば、またこれを悲しび思すこと限りなし。 あの祖母の北の方(桐壺姫の母)は、悲しみを晴らす方法もなく気持ちが沈んでおられたが、娘のいる処に早く尋ねて行きたいと願っていたからでせうか、ついに亡くなってしまわれました。帝がこのことをこの上もないほど悲しくお思いになられるておられました。
御子六つになり給ふ年なれば、このたびは思し知りて恋ひ泣き給ふ。 御子は六歳になられていましたので、(まだ幼かった桐壺姫の死の時とは違って)今度はよくお分かりになって、祖母の死を知って慕って泣いておられました。
年ごろ馴れ睦びきこえ給ひつるを、 見たてまつり置く悲しびをなむ、返す返す宣(のたま)ひける。 (祖母は、)長年の間、親しく世話をして可愛がっておられましたので、御子を残して先立つのが悲しいと、何度も語っておられました。

1-11、読書始め(七歳)
 今は内裏(うち)にのみさぶらひ給ふ。  (若宮は、)その後はずっと内裏で暮らしておられました。
七つになり給へば、読書(ふみ)始めなどせさせ給ひて、世に知らず聡う賢くおはすれば、あまり恐ろしきまで御覧ず。 7歳になられましたので、読書始めをさせましたところ、世に類がないほど聡く賢いので、(帝は却って)末恐ろしいとまで思われました。
(帝)「今は誰れも誰れもえ憎み給はじ。母君なくてだにらうたうし給へ」とて、 (帝)「今はもう誰もこの子を憎もうとしないだろう。母君がいないのだから可愛がって欲しい」と、仰せになって、
弘徽殿などにも渡らせ給ふ御供には、やがて御簾の内に入れたてまつり給ふ。 弘徽殿の女御のところに行くときも一緒に連れてゆき、そのまま御簾(みす)の中にもお入れ申しておりました。
いみじき武士(もののふ)、仇敵なりとも、見てはうち笑まれぬべきさまのし給へれば、えさし放ち給はず。 恐ろしげな武士や憎い相手であっても、若宮をひと目見ればつい思わず微笑まずにはいられないような愛らしいところがありましたので、(弘徽殿の女御も)遠ざけることができませんでした。
女皇女(おんなみこ)たち二(ふた)ところ、この御腹におはしませど、なずらひ給ふべきだにぞなかりける。 皇女二人が、この女御の腹から生まれておりましたが、美しさにおいてとても比べ様がありませんでした。
御方々も隠れ給はず、今よりなまめかしう恥づかしげにおはすれば、いとをかしう うちとけぬ 遊び種に、誰れも誰れも思ひきこえ給へり。 他の女御たちも隠れたりせず、こんな小さな頃から、自ずからお色気の気品があり、恥ずかし気にしておられましたので、誰もがすぐ気を許して、遊び相手にしました。誰もがお慕い申し上げておりました風でございます。
わざとの御学問はさるものにて、琴笛の音にも雲居を響かし、すべて言ひ続けば、ことごとしう、 うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。 正式な学問はもちろん、琴・笛の管弦の遊びにおいても宮中を驚かすほど秀でて、その美質の一つ一つを数え上げていったらキリがなく大袈裟なことになるほど、若君は抜群に優れた才能をお持ちになった方であられました。

1-12、高麗人の観相、源姓賜る
 そのころ、高麗人(こまうど)の参れる中に、かしこき相人(そうにん)ありけるを聞こし召して、宮の内に召さむことは、宇多の帝(うだのみかど)の御誡(いましめ)あれば、いみじう忍びて、この御子を鴻臚館(こうろくわん)に遣はしたり。  その頃、朝鮮から来朝した高麗人の中に、評判の人相見がいると聞いて、宮中に招じることは宇多天皇の御遺言で禁じられているので、秘かに御子を高麗人のいる鴻臚館(こうろかん)に遣わせました。
御後見だちて仕うまつる 右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに、 後見人のような立場で仕えている右大弁が自分の子のように思わせてつれて来たのですが、
相人驚きて、あまたたび傾きあやしぶ。 人相見は大層驚いてしきりに首を傾げながら不思議がっておりました。
「国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。 「国の親となって、帝王の位に昇るべき相をお持ちでおられますが、しかしその方面から占うと、国が乱れる恐れがあるやも知れません。
朝廷の重鎮(かため)となりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし」と言ふ。 かといって朝廷の重臣となって天の下の治世を補佐するという面から見れば、そういった相ではないようです」と言う。
弁も、いと才かしこき博士にて、言ひ交はしたることどもなむ、いと興ありける。 右大弁も非常に教養ある博士ですので、お互いに語り合うことがたくさんありました。二人とも話が弾み興に乗っておられました。
文など作り交はして、今日明日帰り去りなむとするに、かくありがたき人に対面したるよろこび、かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに、 漢詩などを作って取り交わしておられ、明日にも帰るという時に、このような会い難い若宮に対面した喜びを詠み、返しに悲しい別れの詩を詠んでいるうちに、
御子もいとあはれなる句を作り給へるを、限りなうめでたてまつりて、いみじき贈り物どもを捧げたてまつる。朝廷よりも多くの物賜はす。 御子も大変心を打つ詩をお作りなされましたので、その詩をお褒めになって、(相人は若宮に)珍しい贈り物を致しました。朝廷からも(相人に)多くの物を下賜されました。
おのづから事広ごりて、漏らさせたまはねど、春宮の祖父大臣など、いかなることにかと思し疑ひてなむありける。 自然とこの第二皇子と人相見との接触のことが広がり、その具体的な内容は漏れてはおりませんでしたが、東宮の祖父大臣などはどのようなことがあったのかとお疑いになっておられました。
帝、かしこき御心に、倭相(やまとそう)を仰せて、思しよりにける筋なれば、今までこの君を親王(みこ)にもなさせたまはざりけるを、 帝は、賢明なお考えで、大和(日本流の)の人相見に見させたところの所見を得ており、帝も既に同じように思われていることだったので、今まで御子を敢えて親王にしておらなかったのですが、
「相人はまことにかしこかりけり」と思して、 「高麗人の人相見はまことに優れていた」とお思いになり、
「無品の親王の外戚の寄せなきにては漂(ただよ)はさじ。 「御子を無位の親王で外戚の権勢のない不安定な身分にはさせたくない。
わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ、行く先も頼もしげなめること」と思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせ給ふ。 わたしの治世もいつまで続くか分からぬから、臣下の地位で朝廷の後見をしてゆくのが先々良く、そうすれば頼もしい人物になるだろう」とお決めになられて、ますます治世の学問に励まさせられました。 
際(きは)ことに賢くて、ただ人にはいと あたらしけれど、親王となり給ひなば、世の疑ひ負ひたまひぬべくものし給へば、 (御子は)実に賢くて、臣下にするには惜しいけれど、親王になったなら世間の人から皇太子に取って代わろうとする皇位簒奪の疑惑を招くことが必定なので、
宿曜(すくえう)の賢き道の人に勘へさせたまふにも、同じさまに申せば、源氏になしたてまつるべく思しおきてたり。 宿曜道(しゅくようどう)で評判の人によく見てもらったところ、同じ見立てだったので、元服後に源姓を賜わらせて、臣下にするのがこの子のために良いとお決めになられたのでございます。

1-13、先帝の四宮(藤壺)入内
 年月に添へて、御息所(みやすみどころ)の御ことを思し忘るる折なし。  (帝は、)年月を経ても、桐壷姫の御息所(みやすみどころ)のことが忘れられませんでした。
「慰むや」と、さるべき人びと参らせ給へど、「なずらひに思さるるだにいとかたき世かな」と、疎ましうのみよろづに思しなりぬるに、 「慰めになるだろう」と、それなりの女たちを参上させましたが、「桐壷姫に比肩できる人は世の中にいないのではないか」と、世をはかなむような気持にもなっていた頃、
先帝の四の宮の、御容貌すぐれ給へる聞こえ高くおはします、母后(ははきさき)世になくかしづき聞こえ給ふを、 先帝の四の宮で、美しいと評判の姫がいまして、母の后がその方をこの上なく大事に育てていると云う。
主上にさぶらふ典侍(ないしのすけ)は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴れたりければ、いはけなくおはしましし時より見たてまつり、今もほの見たてまつりて、 帝にお仕えする典侍(ないしのすけ)は先帝からの人で、この四の宮にも親しく参上して馴染みがあり、幼少の頃から見なれていました。今でもちらっと拝見したところ、
「亡せたまひにし御息所の御容貌に似給へる人を、三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見たてまつりつけぬを、 「亡くなった御息所の容貌に似た人というのは、三代の帝にわたり宮仕えしていましても、一人も見つけることができませんでしたが、この先帝の后の姫君こそ大変よく似てご成長しており、すばらしく美しい器量を備えた方でございます」と奏しましたところ、
后の宮の姫宮こそ、いとようおぼえて生ひ出でさせ給へりけれ。ありがたき御容貌人になむ」と奏しけるに、 この先帝の后の姫君こそ大変よく似てご成長しており、すばらしく美しい器量を備えた方でございます」と奏しましたところ、
「まことにや」と、御心とまりて、ねむごろに聞こえさせ給ひけり。 「本当か」と帝の心にとまって、丁重に礼を尽くして先帝の后の宮へ、姫宮の御入内を申し入れることになりました。
母后、「あな恐ろしや。春宮の女御のいとさがなくて、桐壺の更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう」と、 四の宮の母后は、「ああ、恐ろしい。春宮の女御をそっちのけにして、格下の更衣である桐壷姫をあからさまに寵愛されていたではありませんか。そういう曰くのあるややこしい処との縁談は許されないことです」と
思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡せ給ひぬ。 申し出をご遠慮されていました。結局、きちんと承諾されないうちに、お亡くなりされてしまわれました。
心細きさまにておはしますに、「ただ、わが女皇女たちの同じ列に思ひきこえむ」と、いとねむごろに聞こえさせ給ふ。 (母后を亡くした四の宮は)心細い状態におかれましたが、(帝が)「女御としではなく、自分の娘の皇女たちと同じような扱いでお迎えしたい」と丁重に申し入れたのでございくす。
さぶらふ人びと、御後見たち、御兄の兵部卿(ひょうぶのきょう)の親王など、 お仕えする女房たちや後見の方たちや、兄の兵部卿(ひょうぶのきょう)の親王などは、
「かく心細くておはしまさむよりは、内裏住みせさせ給ひて、御心も慰むべく」など思しなりて、参らせたてまつり給へり。 「このように心細くしているよりは、内裏にお暮らしあそばされたほうが、きっとお心が慰められるのでは」などとお考えになられまして、参内させられたのでございます。
 藤壺と聞こゆ。げに、御容貌ありさま、あやしきまでぞおぼえ給へる。  (この姫君は)藤壺と申し上げる。実に、ご容貌やその姿は不思議なほどに桐壺によく似ておられました。
これは、人の御際まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめ聞こえ給はねば、うけばりて飽かぬことなし。 このお方は、ご身分も相当に高く、そう思って見ているせいか素晴らしさが増し、他の女御・更衣も貶めていじめることはできないので、藤壺は誰に憚ることもなく何の不足もなく自由に振る舞うことができました。
かれは、人の許しきこえざりしに、御心ざし あやにくなりしぞかし。 桐壺姫は周囲の人の了解を得られなかった状況で、帝のご寵愛の度が過ぎたことで御立場が悪くなったのでございました。
思し紛るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなう思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。 (帝は)、かっての桐壺へのご愛情が薄れてしまうというのではありませんでしたが、次第に藤壺の姫に気持ちが移って慰めを得るようになりました。変わりゆく人情の味わい深い本性の為せる技でございました。

1-14、源氏、藤壺を思慕
 源氏は、御あたり去りたまはぬを、ましてしげく渡らせたまふ御方は、え恥ぢあへたまはず。  源氏は、(帝の)傍を離れませんので、(帝が)足しげく通うお方(藤壺の姫)は恥かしがってもいられなくなりました。
いづれの御方も、われ人に劣らむと思いたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うち大人び給へるに、 どの女御たちも自分は他人(ひと)に劣らないと思っておりまして、それぞれに美しかったのですが、若い盛りは過ぎていましたので、
いと若ううつくしげにて、切に隠れたまへど、おのづから漏り見たてまつる。 その中で(藤壺は)すばらしく若く美しく、ひたすら顔を隠しておられましたが、自ずから若君の目に漏れて見えて参りました。
御息所(みやすみどころ)も、影だにおぼえ給はぬを、「いとよう似たまへり」と、典侍(ないしのすけ)の聞こえけるを、 (若宮)は、母の御息所(みやすみどころ、桐壺姫)のことは全く覚えていませんでしたが、「母君に大変似ていますよ」と典侍(ないしのすけ)が言うのを聞いて、
若き御心地にいとあはれと思ひ聞こえ給ひて、常に参らまほしく、 「なづさひ見たてまつらばや」とおぼえ給ふ。 幼な心にもあわれを覚えて、いつも傍に行きたいと思い、「近くで親しくしていたい」と思われるようになりました。
主上も限りなき御思ひどちにて、「な疎(うと)み給ひそ。 あやしくよそへきこえつべき心地なむする。なめしと思さで、らうたくし給へ。 帝は、限りない愛情を二人に寄せていましたので「親しく仲良くしなさい。あなたを見ていると不思議と源氏の母君に見立ててしまいます。失礼と思わずにかわいがってやってください。
つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、かよひて見え給ふも、似げなからずなむ」など聞こえつけたまへれば、 あなたの顔つきや眼差しは源氏の母君によく似ていますので、あなたに母の姿を思い描いても不自然ではないのです」などと(帝が)仰せになりますので、
幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる。 幼な心におかれましても、桜や紅葉の頃にはまずこの宮へ差し上げたいと思うようになり、自分の好意を受けて頂きたいと思うようになられておりました。
こよなう心寄せきこえたまへれば、弘徽殿の女御、またこの宮とも御仲そばそばしきゆゑ、うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。 (源氏が)格別藤壺姫を慕っていますので、弘徽殿の女御は、藤壺姫とも仲が悪く、元の憎しみも重なって、機嫌が悪うございました。
世にたぐひなしと見たてまつり給ひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほ匂はしさはたとへむ方なく、うつくしげなるを、世の人、「光る君」と聞こゆ。 (帝は)世に類いなしとご覧になり、世評も高い藤壺姫の容貌も、やはり若宮の美しさは例えようもなく美しいので、世人は「光る君」と呼ぶようになりました。
藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、「かかやく日の宮」と聞こゆ。 藤壺姫も並んで、(帝の)ご寵愛がそれぞれに厚く、対句のように「輝く日の宮」と呼ばれるようになりました。

1-15、源氏元服(十二歳)
 この君の御童姿(わらわすがた)、いと変へまうく思せど、十二にて御元服し給ふ。  (帝は、)源氏の君の童子姿が非常に愛らしく、いつまでも変えたくないとお思いになっておられましたが、十二歳で元服を迎えることになりました。
居起ち思しいとなみて、限りある事に事を添へさせ給ふ。 (帝は)何かと世話をやき、作法通りの元服式の上に、更にできるだけのことをさせました。
一年(ひととせ)の春宮の御元服、南殿(なでん)にてありし儀式、よそほしかりし御響きに落とさせ給はず。 昨年、春宮(東宮、皇太子)の元服が南殿の紫宸殿で行われましたが、その時の威勢に劣らないようにしました。
所々の饗(きょう)など、内蔵寮(くらづかさ)、穀倉院(こくさういん)など、公事(おほやけごと)に仕うまつれる、おろそかなることもぞと、とりわき仰せ言ありて、清らを尽くして仕うまつれり。 各所での饗宴にも、内蔵寮(くらづかさ)、穀倉院(こくそういん)など公の務めなども、疎(おろそ)かなことがあってはならないと、特に仰せがあって、盛大を極めました。
おはします殿(でん)の東の廂、東向きに椅子立てて、冠者の御座、引入の大臣(おとど)の御座、御前にあり。 清涼殿の東の廂の間に、東向きに(帝の)御座を置き、その前に冠をつける当人の御座、加冠役の引入れの大臣の御座を御前に置きました。
申の時(さるのとき)にて源氏参り給ふ。角髪(みずら)結ひ給へるつらつき、顔のにほひ、さま変へ給はむこと惜しげなり。 儀式は申の時(さるのとき、午後4時)に始められ、源氏が入場しました。角髪(みずら)を結った顔つきや色つやを変えるのは惜しうございました。
大蔵卿、蔵人仕うまつる。いと清らなる御髪を削ぐほど、心苦しげなるを、主上は、「御息所(みやすみどころ)の見ましかば」と、思し出づるに、堪へがたきを、心強く念じかへさせ給ふ。 大蔵卿の蔵人が髪を整える理髪役を務めました。非常に美しい御髪を削いでゆくにつれて、心苦しそうなご様子を見て、帝は「亡き母の御息所(みやすみどころ)が見ていれば(どんなに喜ぶだろうか)」と、お思い出しになり、涙が抑えがたい様子で、ありし日を思い起こしながら黙ってお堪えになっておられました。
かうぶりし給ひて、御休所にまかで給ひて、御衣(おんぞ)奉(たてまつ)り替へて、下りて拝したてまつり給ふさまに、皆人涙落とし給ふ。 元服の加冠が終わって、御休所に下がって装束を召し替え、東庭に下りて拝舞を拝謁なさる様子を見て、一堂は皆な涙を流されました。
帝はた、ましてえ忍びあへ給はず、思し紛るる折もありつる昔のこと、とりかへし悲しく思さる。 帝は帝で、誰にもまして感動をこらえきれないご様子で、時に思い忘れることもあった源氏の母君のことを悲しく思い出されておりました。
いとかうきびはなるほどは、あげ劣りやと疑はしく思されつるを、あさましううつくしげさ添ひ給へり。 まだこんなに幼ければ、髪を結い上げすると見劣りしてしまうのではないかと御心配なさっておられましたが、驚くほどの美しさと品の良さを添えて輝いておりました。
引入(ひきいれ)大臣(おとど)皇女腹(みこばら)にただ一人かしづき給ふ御女、 加冠役の左大臣には、妻の内親王との間に設けた子で、大切に育てていらっしゃる姫君がおられました。
春宮よりも御けしきあるを、思しわづらふことありける、この君に奉らむの御心なりけり。 春宮(東宮)よりご所望があったのですが、躊躇されていたのは、源氏の君に差し上げたいとの心積もりがあったからでございました。
内裏にも、御けしき賜はらせ給へりければ、「さらば、この折の後見なかめるを、添ひ臥し(そいぶし)にも」ともよほさせ給ひければ、さ思したり。 大臣が帝のお気持ちを打診してみたところ、帝から内諾があり、「それならば、元服しても後見する人もいないことなので、添い臥しに娘を嫁入りさせてはどうか」と勧めて下さりましたので、そう決めました。
さぶらひにまかで給ひて、人びと大御酒など参るほど、親王たちの御座の末に源氏着き給へり。 御休所に退出して、人々がお酒をめしあがる頃、源氏は親王たちのお席の末席にお座りになられました。
大臣気色ばみ聞こえ給ふことあれど、もののつつましきほどにて、ともかくもあへしらひ聞こえ給はず。 左大臣がそれとなく娘について仄めかして申し上げるのですが、(源氏は)まだ気恥ずかしい年ごろなので、どのようにするかをはっきりとはお答えになられませんでした。
御前より、内侍(ないし)、宣旨(せんじ)うけたまはり伝へて、大臣参り給ふべき召しあれば、参り給ふ。 内侍(ないし)が帝の仰せを承り、左大臣に御前に参られるよう伝えましたので、大臣は帝の御前へと参上なさりました。
御禄の物、主上の命婦取りて賜ふ。白き大袿(おほうちき)御衣一領(おんぞひとくだり)、例のことなり。 御禄(ねぎらい)の品を帝のお付きの命婦が取り次いで賜わりました。白い大袿(おほうちき)と御衣一領(おんぞひとくだり)でした。慣例のものであった。
御盃のついでに、「いときなき 初元結ひに長き世を 契る心は 結びこめつや」。 酒のお盃を賜る時に、(帝の歌)「若宮が結う初めての元結に 長き世を契る夫婦(めおと)の願いを込めましたか(うまく運べば良いのにね)」。
御心ばへありて、おどろかさせ給ふ。 帝の心遣いに驚かされました。
「結びつる 心も深き 元結ひに 濃き紫の 色し褪せずは」と奏して、長橋より下りて舞踏し給ふ。 「元服の折に約束した心も、深い絆へとなっていくはずです。その濃い紫の色さえ変わらなければ」と返歌を奏上した大臣は、清涼殿の長橋階段を降りて舞踏されました。
左馬寮(ひだりのつかさ)の御馬、蔵人所の鷹据ゑて賜はりたまふ。 (左大臣は、)左馬寮(ひだりのつかさ)の御馬と蔵人所の鷹をとまり木に据えて賜わりました。
御階(みはし)のもとに親王たち上達部(かむだちめ)つらねて、禄ども品々に賜はり給ふ。 御階(みはし、階段の下)に並んだ親王や上達部たちは、それぞれの身分に応じた禄の品々を賜わりました。
その日の御前(おまへ)の折櫃物(をりびつもの)、籠物(こもの)など、右大弁なむ承りて仕うまつらせける。 その日の御前の折櫃物(をりびつもの)や籠物(こもの)などは、右大弁が承って納めたものです。
屯食(とんじき)、禄の唐櫃(からびつ)どもなど、ところせきまで、春宮の御元服の折にも数まされり。なかなか限りもなくいかめしうなむ。 この日の饗宴の席での屯食(とんじき、折り詰め弁当のお料理)、禄の入った唐櫃どもなど、所狭しと並べられて、春宮(東宮)の元服の時より多く、大変盛大でした。

1-16、源氏、左大臣家の娘(葵上)と結婚
 その夜、大臣の御里に源氏の君まかでさせ給ふ。  その夜、左大臣の邸に源氏の君を退出させなされました。
作法世にめづらしきまで、もてかしづき聞こえ給へり。 (大臣は)婿取りの儀式を世にも稀なほど厚く、礼を尽くして源氏の君を迎えました。
いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと思ひ聞こえ給へり。 源氏の若々しくも幼い様を、この上なく美しいと思いなされました。
女君はすこし過ぐし給へるほどに、いと若うおはすれば、似げなく恥づかしと思いたり。 姫君は少し年上でございましたが、婿君が非常にお若くていらっしゃるので、姫君は自分が似合いかどうか恥かしく思っていました。
この大臣の御おぼえいとやむごとなきに、母宮、内裏の一つ后腹になむおはしければ、いづ方につけてもいとはなやかなるに、 左大臣は(帝の)信任が厚く、姫君の母君は帝と同腹の妹君でいらっしゃるので、父方も母方も申し分のないご身分であることに加えて、
この君さへかくおはし添ひぬれば、春宮の御祖父(おほじ)にて、つひに世の中を知り給ふべき右大臣の御勢ひは、ものにもあらず圧され給へり。 源氏の君を婿に迎えましたので、春宮(東宮)の御祖父(おほじ)でゆくゆくは天下を治めるはずの右大臣の勢いを、圧倒するほどの権勢を得たのでした。
御子どもあまた腹々にものし給ふ。 (左大臣には)それぞれの夫人に子がたくさんいました。
宮の御腹は、蔵人少将(くらうどしょうしょう)にていと若うをかしきを、右大臣の、御仲はいと好からねど、え見過ぐし給はで、かしづき給ふ四の君にあはせ給へり。 母君の同腹で蔵人少将(くろうどしょうしょう)がいて、若く美しかったので、仲は良くはなかったのですが、右大臣は見のがすことなく、大事に育てた四の宮に見合わせました。
劣らずもてかしづきたるは、あらまほしき御あはひどもになむ。 (右大臣家では)源氏の君同様この君を大切にして、どちらも理想的な関係でございました。
源氏の君は、主上の常に召しまつはせば、心安く里住みもえし給はず。 源氏の君は、帝がいつもお呼び寄せになるので、気軽に里住まい(私邸で過ごすこと)ができませんでした。
心のうちには、ただ藤壺の御ありさまを、類なしと思ひ聞こえて、 心のうちでは、ただ藤壺姫の御有様を類いなしと思いお慕い申し上げておりました。
「さやうならむ人をこそ見め。似る人なくもおはしけるかな。大殿の君、いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかず」。 「藤壺姫のような女性とこそ結婚したいものだ。似た方もいらっしゃらないのが残念だ。大殿の姫君(葵の君)は、非常に興趣と教養のある女性として大切に育てられている方だと思われるが、少しも私の心が惹かれない」。
おぼえ給ひて、幼きほどの心一つにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける。 と感じられて、藤壺姫のことが幼な心からの思いつめが続いており、とても苦しんでしまうほどに悩んでいらっしゃるのでした。

1-17、源氏、成人の後
 大人になり給ひて後は、ありしやうに御簾の内にも入れ給はず。  元服して大人になってからは、かってのように御簾のなかに入れてもらえませんでした。
御遊びの折々、琴笛の音に聞こえかよひ、ほのかなる御声を慰めにて、内裏住みのみ好ましうおぼえ給ふ。 管弦の遊びの折々、琴笛の音を聞いて心を通わせ、かすかに漏れてくるお声を慰めとするのが、内裏に住む唯一の息抜きであられました。
五六日侍(さぶら)ひ給ひて、大殿に二三日など、絶え絶えにまかで給へど、ただ今は幼き御ほどに、罪なく思しなして、いとなみかしづき聞こえ給ふ。 五六日内裏にいて、大殿邸(里)へは二三日と切れ切れに帰るのでしたが、まだ今はお若い年ごろなので、殊更に咎めだてをされることもなく許されており、左大臣は婿として大切に世話をなされていました。
御方々の人びと、世の中におしなべたらぬを選りととのへすぐりて侍はせ給ふ。 葵の上と源氏に仕える女房たちは、世に優れた人の中からさらに選りすぐった者をお仕えさせていました。
御心につくべき御遊びをし、おほなおほな(あぶなあぶな)思しいたつく。 源氏の心にかなう遊びをし、一生懸命に気をつかってお世話されていました。
 内裏には、もとの淑景舎(しげいさ)を御曹司(みぞうし)にて、母御息所の御方の人びとまかで散らずさぶらはせ給ふ。  御所(内裏)では、桐壺姫が使っていた淑景舎(しげいさ)を源氏の部屋として使い、母御息所の女房たちをやめさせず、そのままお仕えさせました。
里の殿は、修理職(すりしき)、内匠寮(たくみづかさ)に宣旨(せんじ)下りて、二なう改め造らせ給ふ。 (源氏の実家の)里の邸は、修理殿(すりしき)や内匠寮(たくみづかさ)に宣旨(せんじ)が下り、またとないほど立派に改築をされました。
もとの木立、山のたたずまひ、おもしろき所なりけるを、池の心広くしなして、めでたく造りののしる。 元の木立や山のたたずまいの良いのをそのまま残し、池を広くして、見事に賑(にぎ)やかに作りかえました。
「かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや」とのみ、嘆かしう思しわたる。 「このような処で、理想の女(ひと)と住んでみたい」と、胸を痛めながら思い続けておられました。
「光る君といふ名は、高麗人(こまうど)のめで聞こえてつけたてまつりける」とぞ、言ひ伝へたるとなむ。 「光る源氏という名は、高麗人が讃嘆してつけたのだ」と伝えられております。




(私論.私見)