「全共闘と民青同のゲバルト問題考」

 (最新見直し2008.6.23日)

【民青同の 「オカシナ」役割】
 この運動に民青同が如何に対置したか。この時の民青同の党指導による 「オカシナ」役割を見て取ることは難しくはない。単に運動を競りあい的に対置したのではない。ただし、私は、個々の運動現場においてトロ系によりテロられた民青同の事実を加減しようとは思わない。実際には相当程度暴力行為が日常化していたと見ている。

 全共闘系の暴力癖は、諸セクトのそれも含めた指導部の規律指導と教育能力の欠如であり、運動に対する不真面目さであり、偏狭さであったし、一部分においては「反共的」でさえあったと思う。史上、運動主体側がこの辺りの規律を厳格にしえない闘争で成功した例はない、と私は見ている。

 ただし、別稿で考察する予定であるが、そういう事を踏まえてもなお見過ごせない民青同による躍起とした全共闘運動つぶしがあったことも事実である。ここに宮顕執行部が牛耳る党に指導され続けた民青同の反動的役割を見て取ることは難しくはない。単に運動の競りあい的に対置したのではない。「突破者」の著者キツネ目の男宮崎氏が明らかにしているあかつき行動隊は誇張でも何でもない。

 今日この時の闘争を指導した川上氏や宮崎氏によって、この時民青同が、「宮顕の直接指令!」により、共産党提供資金で、全国から1万人の民青・学生を動員し、1万本の鉄パイプ、ヘルメットを用意し、 いわゆる“ゲバ民”(鉄パイプ、ゲバ棒で武装したゲバルト民青)を組織し、68年から69年にかけて全国の大学で闘われた全共闘運動に対してゲバルトで対抗した史実とその論理は解明されねばならない課題として残されていると思う。

 それが全共闘運動をも上回る指針・信念に支えられた行動で有ればまだしも、事実は単に全共闘運動潰しであったのではないか、ということを私は疑惑している。先の「4.17スト」においても考察したが、宮顕執行部による党運動は、平時においては運動の必要を説き、いざ実際に運動が昂揚し始めると 運動の盛り揚げに党が指導力を発揮するのではなく、「左」から闘争の鎮静化に乗り出すという癖があり、この時の“ゲバ民”をその好例の史実として考察 してみたい、というのが私の観点となっている。

【全共闘対民青の対立→武装へのメンタリティー解析】
 この全共闘対民青の対立→武装への発展の最初の日のドキュメントについて、いずみ氏による貴重な以下のような資料発掘とコメントがある。これをれんだいこ風に整理しながら検証してみる。

 いずみ氏の「都学連行動隊手記」によると、「ここで紹介する文章は、東大闘争が高揚していた1968年、日本共産党−民主青年同盟系の諸君が『はじめて公然と大衆的に武装した』瞬間を、彼ら自身の側から赤裸々につづったものです」とある。この時の民青同の武装化の背景には次のような事情があったと洞察されている。
 概要「民青同を指導する日本共産党(代々木)は、さまざまな分派闘争をくぐり抜けながらも、60年代後期にほぼ宮顕独裁体制が確立され、その直後から、急速に右旋回、どころか共産主義者としての原則を大胆にかなぐり捨てていった。これに応じて新左翼(反代々木)の側は『日共』と呼び捨てにし、『体制派』の烙印を押しつつあった。この時期新左翼は、70年安保、全共闘運動などの高揚に支えられ、急速にその影響力を大きくしていた。東大においても、68年3月の医学部学生に対する濡れ衣処分を起爆とし、反体制的な意識を急成長させながら闘争の全学化を克ち取りつつあった」。

 民青同の武装化の直前の動きはこうであった。
 意訳概要「新左翼と全共闘運動が結びつき、大きな限界を持ちつつも日本反体制運動史上に残る『権力との目的意識的・恒常的対峙』を追求し、多くの学生をこれに引きつけつつあった。共産党−民青同はこれに危機感を深め、全共闘運動に対し、あくまでも『学園民主化』なる手前味噌なスローガンを対置し、闘争沈静化を願う右派学生をとりこみつつ反撃を伺っていた。同年8月に開かれた民青同系全学連第19回大会で、ついに、闘う部分に対する武装襲撃を公然と宣言した」。

 この時の宣言は次のように文言されていた。
 「反全学連諸派の不正選挙、執行部への不当な居すわり、自治会の暴力的占拠、第二自治会のデッチあげなどの卑劣な策動を軽視することなく、あえてかれらが暴力的手段に訴えるならば『正当防衛権』を行使してこれを粉砕し、彼らの暴力に屈して、逃げ回ったり、主張を曲げたり、あるいは逆上したりする傾向と闘い、彼らがあくまでも暴力をもって攻撃をしかけてくるならば、学友の力を結集し、正当防衛権を断固として行使し、実力をもって粉砕する」。

 そして、この方針が東大でまさに実践へと移されたのが、その2週間後の9.7日。「ついに、黄ヘル部隊が登場します」とある。興味深いことに、この時都学連の指導の下に集まった黄ヘル部隊の隊員の手記なるものが開示されており、この時のメンタリティーがあからさまにされている。いずみ氏のコメントも付けられているが、本文はいずみ氏のサイトで確認することとしてこれを要約して見てみる。

 手記は、全共闘の暴力的封鎖に対して、これをただ手をこまねいて傍観していることも、大学当局のように機動隊に対策を“お願い”することも間違いで、全学連一九回決定にもとづき、全共闘の暴力に対して正当防衛権を行使する」ことを意思統一し、その準備に入ったことを明らかにしている。「正当防衛権の行使」とは、「ヘルメットをかぶり、角材で襲撃してくるものに対して、その防衛のためにこちらもヘルメットも角材も身につける必要があるということを決意することであった」。

 9.7日、この日安田講堂で全共闘系の医学連大会が開かれており、「この大会の力で一気に病院封鎖を貫徹しよう、これは市民主義の枠をのりこえたたたかいだ」という議案書が配られていた。これに対抗して、民青同系
学生・院生・職員600名の「七者協」は、「大学民主化、自治擁護、国家権力の介入反対、病院封鎖阻止」のスローガンを掲げて、病院前で決起集会を開いた。次のようなメンタリティーであった。
 概要「病院封鎖はどうしても阻止しなければならない。もし病院封鎖が強行されたら、患者はどうなる。必ず機動隊が学内にはいってくる。そうはさせてならじという固い決意の下に、全共闘系の医学連大会に対抗した」。

 そこへ、社学同、革マル系の学生120名(150名ともある)がヘルメット・角材を手にして無防備の学生に襲いかかってきた。全員が「暴力反対!帰れ帰れ!」のシュプレヒコールを叫ぶ中で、彼らはいったん引きあげていった。「参加者は緊張につつまれて、集会を続行した」が、このとき、この集会に参加していた都学連行動隊はヘルメットを着用し、参加学生にヘルメットを次々に手渡していった。手記によれば、「われわれは断固として病院を守るんだ。暴力には実力を行使しても絶対に守りぬくんだ」という言葉が私の耳にはいってきたとある。「おう、これが一ヶ月ほど前に開かれた全学連第19回大会の戦闘的、民主的学生運動の実践なのか。中央委の断固阻止ということか」、「ゲバルト経験のない私には、全共闘の暴力をはねのける心強い支えと感じられた」と記している。「東大生もふくめて全員黄色のヘルメットをかぶり、一メートルほどの角材をもった。『全共闘、いつでもこい』ということだ」とある。

 こうして9.7集会は夜になるとその数は1000名になり、病院封鎖を実力で阻止できる防衛隊を組織して集会を続行した。これに対して、いずみ氏の次のような突っ込みが為されている。
 「なんだかんだ言ってるけど、よーするに、都学連『外人』部隊は『あらかじめ』黄ヘルと角材を用意してたってことですよね。一般の参加者には極秘裏に。日共系は、そーゆーやり方を自分たち以外がすると大々的に糾弾するんですけどねぇ...(笑)」。

 この日、東大民主化をたたかう部隊がはじめてヘルメットをかぶった。角材ももった。そんなことを予想もしていなかった院生の中にはとまどいと疑問が生まれた。「いいんですか? 学生は角材をもちはじめましたよ。これはどういうことですか?」との戸惑いが生まれたが、次のように言い聞かせた。
「しかしだ。全共闘の暴力を許さないためにも、機動隊導入−国家権力の介入を阻止するためにも、これは必要なんだ」。
 「私は思った。<ぼさっとしていれば病院封鎖は強行される。機動隊がはいってくる。そうなれば民主的運動は窒息させられてしまうではないか。基本はあくまでも政治的に全共闘を孤立させることだが、ゲバ棒をもってでもそれは阻止しなければならないんだ。われわれのたたかいを新しい質に−−正当防衛権を具体的に行使する段階にひきあげることを情勢が要求しているんだ。それは暴力反対だけで今までいっしょにやれた教官や院生、学生の一部が離れていくことになるかもしれない。しかし、情勢に答えるわれわれのたたかいは新しい質とひろがりをもって進むだろうし、それでなければならないのだ。彼らもまた戦列に戻ってくるだろう。なおも問いかけるF君やK君の顔を見、<わかってもらいたい>と思いながらも、転機のもどかしさを私は感じた」。

 こうして民青同の武装闘争の第一歩が記された。いずみ氏は次のように突っ込みしている。
 「これはまだ、角材だからミテクレほどの威力はない(相対的には『安全』」)んですが、この後、全共闘の武器が鉄パイプへと、ある意味形式主義的に(当時のは重くて使いづらかったらしい)変化していくのに対し、日共−民青黄ヘル部隊の武器はきわめて実践的に、殺傷能力を高めた、釘を打ちつけた樫棒へと進化していきます。それでも『正当防衛権』だったらしいですけどね(笑)」。
 「すばらしすぎます!『情勢に答える』(これ、「応える」だとは思うですが^^;;)結果がヘルメットと角材、とゆーのは、まじめに正しすぎてて(爆笑)。もちろん、実際にその角材が向けられた先は、国家権力でも大学当局でもなかったわけですが...(苦笑)」。

 この全共闘対民青の対立をどう見るかについて、いずみ氏の以下のような記述がある。以下これを掲載する。(いずれ推敲予定なので、暫く借用するのをいづみさんが気づかれたら許せてね。この人はどうも著作権棒振り回す方なので、具合悪いね)
 全共闘運動は、国際的な70年前後の反体制運動の高揚、国内での70年安保闘争の高揚と前後して、学園での闘いを、単なる学園内改良闘争というワクに納めるのではなく、権力総体と、そして自分自身とも闘ってゆく、壮大な闘いでした。そして、特に東大全共闘にとっては、東大とは「搾取・抑圧・差別のための機関」であり、「自分たちがそんな東大の学生として在ること」自体に対する闘いでもありました。「帝大解体」スローガンは、抑圧者として存在する自分たちを解体−解放するためのものでもありました。

 しかし日共にとっては、大学は「政府・支配層の完全な支配が及んではいない場」であり、情勢や力関係によっては「米帝国主義とそれに従属する日本支配に反対する闘いの1拠点となりうる場」でもあったわけです。そしてその「力関係」により、「それまでは教官だけが一方的に運営していた大学自治に、学生や職員も参加させよ」という「大学民主化」こそが学園闘争の目標になります。自分たちは日米反動勢力から抑圧されている被害者であり、闘うべき本当の敵は日米の支配層のみであり、そのための「統一と団結」を乱す輩は「闘いの1拠点となりうる場を破壊する挑発者」ということになるわけです。

 実際問題として、「大学自治」とゆー概念は、当時の教官や日共系学生のみならず、右派やノンポリ学生、のみならず全共闘派学生にとっても、まだ実体を持つ概念として存在していました。そして全共闘は、自らの闘いをさらに突出させていく中でその否定を叫び、他の部分と先鋭的に対立してきたわけです。

 そして、それはまさに「出口のまったくない」闘いだったがために、闘争が長期化する中で展望を分散させ、戦闘性を各党派(いわゆる「三派」=中核・解放・ブントをはじめとする八派連合など)に吸収されて縮小への道を辿ります(もちろん、そのエッセンスは「ノンセクト」とゆー形で学園内に残されてきました。いずみが結集していた東大文理研は、まさに、東大全共闘の末裔です)。

 一方で、その闘いは「出口のまったくない」故に、事態を収拾しようとする教官側からすれば「解決策を見いだせない」、途方に暮れざるを得ないものでした。もちろん彼ら/彼女らは、「大学の自治」(ただしそれは教授会自治)を守りたい観点から、機動隊を導入することにも躊躇せざるを得ない。

 そして、そのために最大限に活用されたのが日共−民青系諸君だったわけです。全共闘のような分散・開放型の組織に比して、彼ら/彼女らの「統一と団結」への宗教的確信は強かったのです。実際に黄ヘル部隊は全国各地で「封鎖解除」のための武装襲撃を繰り返し、それによって大学側に「恩を売る」作戦が行われていきました。

 東大駒場においても、スト「解除」後の、封鎖されていた第八本館に対する日共系学生の襲撃は凄惨を極めました。ピッチングマシンを使っての夜通しの投石、ライフラインの破壊、「捕獲」した全共闘系学生に対する集団リンチの横行など…。もちろんそれは軍事的視点から見れば「アタリマエのこと」を彼ら/彼女らが実践したに過ぎません。しかしそれらは、彼ら/彼女らが学園の「外側」で喧伝してきた自らの政治姿勢とは全く相反するものです。

 そして実際に、日共−民青はこれ以降、その社民的政策を打ち出してゆく際の「共産主義」的粉飾すらも放棄し、体制内反対派として純化していきます。

 また、学園においては彼ら/彼女らは、その当時の思惑に反し、学園全体の「民主化」をそれ以上推進することもできなかったし、学園を運動の拠点とすることもほとんどできていません。日共系全学連は現在、その多くの加盟自治会がノンポリ化し、党中央の指導も虚しくどんどん形骸化をすすめています。

 …と、当時の歴史をいずみなりに消化して分析すれば上記のとーりなのですが、個人的想いとしては、とりわけ、上記の「手記」には、読んでからしばらく後になって、強く印象に残ってしまう体験をしたのです。というのは、
実際に東大で彼ら/彼女らが被っていた黄ヘルを、いずみは89年初頭にこの眼で見ることとなったからです。さすがにそのようになった経緯は一生書くつもりもないのですが、ともかく、東大全共闘が「押収」していたその大量のメットには、「全学連」「学園民主化」「反帝反トロ」(!)などのスローガンが書きなぐられていました。

 既にいずみは運動から逃亡する寸前ではありました。そしてもちろん、上記の手記だって読んでましたし、各戦線の大先輩^^;;からお話を伺うこともあったわけです。でも、しかし、実際にナマで見たその黄色いヘルメットの数々には、本当に言葉を失いました。彼ら/彼女らが当時誇らしげに語っていた「新しい質とひろがり」の実態は、ただ単に当時の全共闘的「時代の空気」に媚びるだけの「いかにもスターリン派的」戦術に過ぎなかったことが、そのメットに書かれたスローガンからひしひしと伝わってきたのです。

 いずみの頭の中では、それまでの4年間に学園で、寮で、「障害者」戦線で、日共−民青系諸君が成してきたことへの多大なる反感が、その大量の黄ヘルとストレートに結びついてしまいました。




(私論.私見)