高木徹除名考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 何か良く分からないが、検索でヒットしたので転載しておく。

 2017.4.9日 れんだいこ拝


【】
 2013.9.28日付けブログ「[5869] さらに新展開その1」(「高木徹dの除名」の通りすがり氏)
 (http://tree.atbbs.jp/saiken/index.php?n=5869
 最近の動き(13・9・25) ●天田・清水が高木徹を除名に
 (1)

 9月6日、天田が高木徹を本社に呼び出した。そして、高木にたいして「除名に処する」ことを告げた。「党員として再生の見込みがない」ということが、除名の理由である。天田は、「この決定は、清水議長も確認しており、お墨付きを得ている」といった。さらに、高木除名は、党内外に公表する方針である、とほのめかした。天田は、今年の2月段階で、高木をすでに三里塚の地から追い出し、党からの活動費支給を完全に打ち切るとともに、誰とも会うな、家族とも会うなと厳命して、都内のアパート住まいとさせていた。そして、9月6日をもって、7年前までは革共同政治局員であるだけでなく、清水に次ぐ議長代行の位置にあった高木徹を党から最後的に追放したのである。

 1963年のカクマルとの分裂後に結成されたマル学同中核派の初代委員長をつとめ、その後も長く革共同を代表する古参指導部の一人としてあった高木を、天田や清水は、お払い箱にするという扱いにしたのである。齢74となる高木にとっては、復権のかすかな希望も断たれた。かつて九州時代に公認会計士として働いたこともあったが、今や社会への適応力もなく、文字通り路頭に放り出された。除名されたのだから、党に残ったままの妻(婦民所属)ら家族と勝手に会えばいいはずだが、天田や木崎はそれも妨害することであろう。天田および清水が高木にやった仕打ちは、「野垂れ死にしろ」というものである。この高木除名問題は、中央派の内部にびりびりとした緊張と、あらゆる面での意気阻喪を生み出している。
 (2)

 それにしても、「再生の見込みがない」という除名理由は、古今東西の運動史のなかでも、例がない。反中央分派活動をやったというのでもなければ、何らかの反党行為をやったというのでもない。それどころか、高木は、3・14党内リンチを全面的に支持し、それを「労働者の蜂起」として率先して美化してきたのである。懸命になって、動労千葉特化路線に支持を表明し、「観念的血債主義者」批判や「与田一派」批判をして、天田・中野への忠誠を誓ってきたのが高木なのである。除名を公表するかどうかは不明だが、高木除名の公表は、さぞや傑作な声明文となるだろう。
 (3)

 では、天田はなぜ高木を除名にしたのか。天田にとって、高木は「天敵」であった。一番憎い相手であっただろう。 06年3・14党内リンチの支持を政治局が決定したとき、天田は、これで高木を追いつめることができると考えた。天田たちは関西派と結託して、“与田や岸、水谷の存在とその役割を容認してきた”として、清水と高木を追及したのであった。清水は、2度の自己批判書で、ずる賢く自己批判をパスした。自己批判などできず、する意志もない天田や中野らは、清水が政治局を代表して自己批判したのだとして、自分らの固有の責任を隠ぺいし、頬かむりした。だが、その際にも、高木は天田や中野がみとめるような自己批判書を書くことができなかった。高木は、自分の責任を棚上げして、すべて岸、水谷、あるいは平田に責任をおしかぶせ、岸や水谷を罵倒することで、すりぬけようとした。それはあまりにも無責任な態度であり、誰から見ても納得できるものではなかった。浅尾(高杉)スパイ問題でも、高木は責任を追及されたが、すべて他人ごとにした。

 そうした高木をめぐる度々の責任追及と自己批判執筆の繰り返し、その却下という過程が続き、06年11月には、天田と中野は、高木を政治局から更迭し、三里塚の地で「学習せよ」と、事実上の党員資格停止、活動停止に追いやった。これ自体、非常に激しい処分であり、党内での高木の抹殺への道であった。清水も、とくに1994年以来、政治的・組織的にもっとも近い存在であり、盟友でもあったはずの高木を切り捨てた。にもかかわらず、革共同の変質と転落を見抜くことができない高木は、自分の復権の余地があると大錯覚し続けてきた。そして、高木は、今年1月に「宇野理論の根本的批判」と題した11万3000字にのぼる意見書を提出した。それを提出しただけでなく、「これを党の内外に公表させていただきたい。……塩川派や結柴・水谷・岸・岩本、そしてツンドラで脱落した連中(註 昨秋除名された4氏のこと)に対して打撃を与えたいという強い思いがあるからです」と要求したのである。

 高木意見書を受け取った天田は、当然のことながら逆上した。そして、新たな重処分に付すとともに、除名のカウントダウンに入った。そうして、06年11月処分から7年近くたって、天田らは、ついに高木を除名にした。7年間が経過しており、必ずしも単純な経過ではなかったが、この高木除名は、3・14党内リンチの直接の帰結であり、7年前の党内クーデターとその肯定・美化という党的大分裂事態の余震である。天田にとっては、議長代行として目の上のたんこぶであり続け、自らの名ばかりの書記長職をも剥奪するのではないかと戦々恐々としてきたその高木を排除することで、ようやく天田党ができたのである。ぎゃくにいえば、天田にとって、高木除名をやりとげなければ、「党の革命」にならないということなのであった。 詳しくは別途にするが、13年夏季特別号天田論文は、今回の高木除名と表裏一体であり、その二つをもって、天田は自らの手で革共同の歴史を断ち切ったのであり、天田党を宣言したといっていい。
 (4)

 天田夏季特論文から、その本質を示すフレーズを書き出しておこう。 「革命的共産主義運動50年の歴史で最高の勝利は、革共同破壊の工作者・希代のスパイ分子荒川碩哉を、革共同が自らの手で摘発し打倒したことだ。…世界史的偉業であった」 。「5月テーゼは、『闘うアジア人民と連帯し、日本帝国主義のアジア侵略を内乱へ』の戦略的総路線を、労働者階級が労働運動・労働組合のなかで実現する路線、闘いへと大転換した」。「一つは、プロレタリア革命は、労働組合を通して、労働者階級の党と労働組合の相互作用、緊密な関係を通して労働者階級が政治権力を獲得していくものであることをはっきりさせた」。「しかし、90年代国鉄決戦を闘いとる過程は平坦ではなかった。5月テーゼ反対派=血債主義派との激しい組織的・政治的・路線的闘いを不可避とした。……血債主義派の主張は、労働者階級自己解放闘争を蔑視して否定する反マルクス主義の思想として登場した。運動的には、組織建設を後景化させ否定する政治決戦主義に純化していった。…」。「日帝国家権力中枢は、5月テーゼ推進=階級的労働運動推進派と5月テーゼ反対派=血債主義派とが激しく対立している革共同を二つに分裂させ、解体する機会を狙っていた。……2006年の『党の革命』は、関西を先頭に全国の労働者同志の激しい根底的な決起の中で、5月テーゼ反対派=血債主義派の恐るべき腐敗を徹底的に暴き出し、弾劾し打倒し、闘う労働者党員の手で革共同の全国的統一をかちとっていった」。「70年7・7は歴史的分岐点を形成した。このことが5月テーゼ反対派=血債主義派が生まれた思想的遠因となっている。/それは、日本階級闘争に牢固として存在する日共スターリン主義への屈服でもある。第2次帝国主義戦争の戦争責任は帝国主義そのものにあるのだ。このことを徹底的にはっきりさせなければならない」。「党と階級の歴史上、重要なことは、血債主義では民主労総との連帯は築くことはできなかったという事実だ」。「『国鉄決戦の全面的爆発でプロレタリア世界革命の道を切り開こう』という革命戦略のスローガンを真っ向から掲げて闘うことが求められる」。「労働運動のできる党に何としてもなろう。ある意味でこれがすべてである。/党と労働組合の一体的建設は、その中でのみ可能だ」。「沖縄の今日の歴史的な激動を根底において規定しているのは国鉄決戦であり、動労千葉の闘いなのである」 etc。

 天田は、革共同の歴史は、国家権力が階級的労働運動派と「血債主義派」とに分裂させる攻撃との闘いの歴史であり、その「血債主義派」を打倒する党内闘争の歴史であると描くのである。スパイ荒川をそこに位置づけているのである。謀略史観といっていい。そして、天田は、「連帯し内乱へ」の戦略を破棄したこと、労働組合路線=動労千葉特化路線に転換したことを明言したのである。転換した路線はといえば、“労働組合をとれば政治権力をとれる”という路線である、とはっきりと記しているしまつである。あまつさえ、70年7・7を、それが「血債主義派」の遠因とすることで、否定し去っているのである。「7・7自己批判」ということばそのものを消した。華青闘やすべての在日朝鮮人・中国人の存在とそのたたかいをことごとく否定し去ったのである。それは、同時にまた、今日の民主労総を冒涜するものにほかならない。天田は、“第2次帝国主義戦争の戦争責任は、帝国主義に帰すとすればいいのであって、帝国主義国の労働者階級人民には何の責任もない”と言い放つにいたった。これはもう、7・7自己批判以前のレベルであり、ベトナム反戦闘争以前のレベルであり、「血債主義」は自虐史観とほとんど等置されている。その他、いろいろあるが、これは天田党の宣言とみなさなければならない。なお、天田は、夏季特論文で、「血債主義派」問題に熱中するあまり、「党と労働組合の一体的建設」というフレーズをほとんど記していない。 しかし、このことは、田中・辻川と天田の間で、錯綜した組織矛盾があることを反映しているのかもしれない。

 (5)

 天田夏季特論文と高木除名という事態となって、なお中央派内に残ることは何を意味するだろうか。それは、革共同抹殺、プロレタリア革命運動抹殺、共産主義抹殺に加担することしか意味しない。天田が裸の王様であることを見ながら、おべんちゃらをいう臣下たちでしかないということである。腐りきった人間の集団と、その一員になりさがった者たちは、もはや救いようがない。以上
 (補足)

 出典はありません。多くの関係者にメールと言う形で配布されています。

 (注)高木dが追放されて直後に相談・助けを求めた人からの情報がネタになっているようだ。その意味、高木dのその思いほか、後日、日をおいて検討したい。


 2013年08月08日 | 補足・清水dの自己批判ほか

 「清水dの自己批判から① 天田氏などを見下すスタンス

 06年3・14での清水議長の自己批判(?)例によってあまりに長文で、「自己批判」の基本を知らない。「正しい自己批判分の書き方」の「教科書として」「教えを垂れる」姿勢は不変だ。時折、関連事項だけを抜粋する。

 06年3・14での自己批判
 新指導路線への清水の不適合

 ②しかし、清水はこうした新指導路線で進行している積極的な指導体制の根底的変動にたいして、やはり正しく対応しきれてこなかったと反省している。本質的にいえば5月テーゼ以降、しかし一定の過渡期の存在を認めるとしても95年以降、19CC~20CC~第6回大会とすすむなかで、清水は基本的にこれまでの非公然部門基軸の非公然・公然体制から大胆に公然部門基軸の非公然・公然体制(形態は模索)へと移行することを措定し、中野同志をはじめとする労働者細胞の同志を階級的党的に心から信頼するとともに、その中野同志とがっちりとタイアップして労働者同志の存在と意識をしっかりふまえて中野同志を支える本社指導部・公然部門体制を必死で構築しようとしてきた天田同志(および公然部門指導部の同志たち)を心から信頼し、自由に自己を自己権力として展開していくことを百パーセント認め、それを援助し、支持していくこと、すなわち中野同志とともに天田同志の圧倒的な苦闘をみずから同じ立場において認め、百パーセント支持していく立場に立つべきであったということである。

 ところが清水は、天田同志たちの欠陥や足りないところをきびしく点検し、修正を求めていくというようなスタンスを意識的、無意識的にとってしまっていた。そのため本社指導部の自立がなかなかできないことを“なげき”つつ、それをカバーするためということで、より完璧なブレチンや「しかるべく」などを書き提起するというようなことに全力をあげてきたのである。そして、PI・PⅡ時代と違って非公然部門という存在のもっている一定の時間的余裕を活用し、全力で文書作成に死力をつくすというようにしてきた。この非公然部門というかたちで与えられた一定の空間と時間はまさに労働者同志たちの血と汗のうえに成立していると思えばこそ、一時間も無駄にしない精神で文書の作成等に力を入れてきたのである。しかし、ある意味でここにこそ落とし穴があったといえる。

 やはり中野同志と天田同志たちの公然部門での基軸的な自己権力の行使を認め、それを百パーセント支持し、援助するという立場で、さまざまな試行錯誤があっても大きく見守っていくというスタンスなしに、またその彼らの苦闘を心から尊敬し信頼するということなしに、一見「完成された文書」がどんどん提出されてくるのでは、じつはかえって真の自己解放的決起を妨げてしまうということである。また同志的前提的に一体感をもてないから、心をひらいてどんどん本来の討議をしていくこともできないということになってしまうのである。

 2013年08月09日 | 補足・清水dの自己批判ほか  

 「清水氏の自己批判② 感情的・権威主義的に反発 」。

 清水自己批判の一部 8)(激しく感情的に反応) 清水はこの岡田意見書が冒頭から05年の東京都議選闘争を教科書問題で闘ったことの誤りという弾劾からはじまって、徹底的に党中央批判のトーンで展開されていることに激しく感情的に反応してしまったこと(ここには権威主義的な感情がはらまれていることは確か)によって、この意見書のポジティブな本質的エレメントを見失ってしまい、この文書を典型的な経済主義者のものと . . . 。
 清水自己批判の一部
 8)(激しく感情的に反応)

清水はこの岡田意見書が冒頭から05年の東京都議選闘争を教科書問題で闘ったことの誤りという弾劾からはじまって、徹底的に党中央批判のトーンで展開されていることに激しく感情的に反応してしまったこと(ここには権威主義的な感情がはらまれていることは確か)によって、この意見書のポジティブな本質的エレメントを見失ってしまい、この文書を典型的な経済主義者のものと断定してしまった。

 さらにこの「意見書」が兵庫県委員会指導部のコメントがつかないまま送付されてきたことから、最低兵庫県委員会委員長同志もこの意見書の内容に実質的に異論がないのだと推論し、ついにはそのように断定してしまった。

 ここからこのような傾向のグループが基本的に存在しているとほぼ確信してしまった。そしてここからさら怒りにまかせて、こうした傾向・グループというのは断じて許せない、徹底的に批判し組織的に粉砕していくべきだ(もちろん清水の場合、これはイデ闘(注:イデオロギー闘争)を通しての打倒ということで、党からの排除とか除名とかいう手段をまったくイメージしていなかったが)としてしまった。

そしてこうした発想の延長線上で、例の宝塚教科書闘争での「請願書」の文面について、現実の闘いのなかでのあり方やその意義といったことを忘れてしまって、文面のみ読んだだけではなはだしい逸脱として断罪することにのめり込み、宝塚闘争全体の圧倒的勝利の階級的意義をも見失って(または見ようとしないで)、事実上全体的に否定的にとらえてしまうというとんでもないところまで行ってしまった。

 ここでは問題は二つあると思う。ひとつは、…やはり重大な読み違いであるということ。‥‥

 いまひとつは、党中央(または指導部)にたいしてかなり系統的な批判がうちだされ一定のグループが形成されている現実にたいして、どのように組織的に討議を組織すべきかについて清水自身として本当に正しい考え方を歴史的に獲得し体得してきているであろうか、あるいは分派問題でのスターリン主義との決別を本当になしとげ体得してきているであろうかという次元の問題である。  (見出しと段落は当方がつけた。だって、読みにくいよう読みにくいように書くんだから…)

 2013年08月26日 | 補足・清水dの自己批判ほか 

 「清水氏の自己批判③ 議長の提起を承認する会議」。

 先に中野・天田同志の公然部門の自己権力的確立をめぐって政治局会議のあり方の自己批判的分析をしたが、じつはここにこそPI・PⅡにおける政治局会議運営の問題性の思想的根拠があるといえると思う。いかにPI・PⅡ時代が戦争期であり一定の実践的結論を超短期間の会議で一挙に出さなければならないということがあっても、清水が事前に考えぬいてきた一定の方針体系を全面的に展開し次々とその承認を得るというあり方 . . .。
 先に中野・天田同志の公然部門の自己権力的確立をめぐって政治局会議のあり方の自己批判的分析をしたが、じつはここにこそPI・PⅡにおける政治局会議運営の問題性の思想的根拠があるといえると思う。

 いかにPI・PⅡ時代が戦争期であり一定の実践的結論を超短期間の会議で一挙に出さなければならないということがあっても、清水が事前に考えぬいてきた一定の方針体系を全面的に展開し次々とその承認を得るというあり方では、やはり政治局会議・メンバーの自己再生産と自己形成はできず、方針が正しくともひたすら疲労するということが生じてしまうと思う。

 仮に「一定の方針体系の提示」自体が必要であっても、これの承認をもって会議が終わるということはあってはならないのだ。

 何らかのかたちで政治局会議・メンバーのかかえている問題を具体的に出してもらい、きちんと話し込む、悩みを真に共有するということがなければならないと思う。率直にいって、清水が○○(健康上の対策)をしているということが、こうした点で非常にネガに働くことも事実であるが、また清水自体バテバテ、ヘトヘトであったこともあきらかだが、断じて政治局会議を上記のようなあり方で終わらせてはならなかったのである。







(私論.私見)