1933年 |
東大阪市(当時の布施市)に生まれる。 |
1946年 |
旧制中学伝習館に入学(福岡県柳川市)。 |
1950年 |
伝習館高校2年の時、50年分裂の直後の日本共産党に入党、国際派に属す。マッカーサーの共産党中央委追放に反対して廣松渉君らとともに高校でビラをまき、停学処分。 |
1954年 |
日本共産党より迫害されていた反戦学生同盟の再建活動に参加。 |
1955年 |
法政大学経済学部に入学。夏、共産党六全協により、反戦学生同盟を大衆的再建。全国執行委員。 |
1958年 |
弁証法研究会に参加。革命的共産主義者同盟に加盟。 |
1959年 |
革命的共産主義者同盟・全国委員会の創設に参加。『前進』編集局長(1969年まで)・政治局員。ペンネームは山村克。60年安保闘争をたたかう。 |
1969年 |
秋、70年安保・沖縄闘争の高揚の中で『前進』編集局長として破防法の個人適用により非合法生活にはいる。 |
1987年 |
~89年、「二〇世紀の民族と革命」(初稿)刊行。
目次 |
第1篇 マルクス・エンゲルスの民族理論(『共産党宣言』と1848年革命の段階;マルクス・アイルランド論の革命的転回) |
第2篇 レーニンの民族理論(ロシア革命勝利以前の時期;ロシア革命の勝利と革命政権・レーニンの民族政策;スルタンガリエフのたたかいの歴史とその意義―東方(アジア)の民族運動とロシア革命
言語共同体規定と民族の永続性―スターリンの「民族消滅論」批判
世界歴史における民族の形成―東アジアと西アジアの先進性とヨーロッパの後進性) |
「20世紀の革命史への照射 世界革命をめざすレーニンの眼はなぜヨーロッパにしか向けられなかったのか! ムスリム民族運動を抑圧した革命ロシア」。 |
「スルタンガリエフはボリシェビキ幹部として最初の粛清の対象となり、1923年の第12回大会の直後に逮捕され処刑された。この粛清こそスターリン主義の起源にほかならない。この偉大なムスリム出身の革命家の抹殺は、中東イスラム世界における世界革命の抹殺であり、ソ連圏内のムスリム諸民族への、ツァーリズム以上の過酷な民族抑圧の復活的な継続を意味するものであった」。 |
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同書に対する革共同・中核派政治局の一部の悪質な妨害に、反帝国主義・反スターリン主義の初心を忘れたと判断し決別。 |
1999年 |
「20世紀の民族と革命―世界革命の挫折とレーニンの民族理論」初稿を抜本的に改稿ののち社会評論社より刊行。社会主義運動の根本的再生にたずさわる。 |
2000年 |
4月、「中核派民主派宣言」(社会批評社)を刊行。 |
2002年 |
12.18日、中核派元幹部で中核派を批判する「中核派民主派宣言」の著者である白井朗(山村克)が何者かに襲われ重傷を負った。 |
2009年 |
「マルクス主義と民族理論―社会主義の挫折と再生」刊行。 |
2009年 |
7月25日、逝去。 |