革マル派の白井逃亡論

 (最新見直し2007.10.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2007.10.20日 れんだいこ拝


 1999.8.9日.「解放第1581号」の「廃人シミタケの断末魔の悲鳴 ブクロ派の惨めな「白井断罪声明」」。
 廃人シミタケの断末魔の悲鳴 ブクロ派の惨めな「白井断罪声明」

 スパイ通信第一九一九号(八月二日付)の第二面に突然=u日帝・権力の手先へと階級移行した反革命分子=白井朗を徹底断罪する」という「革共同声明」なるものが掲載された。もちろん突然≠ネのはスパイ通信の紙上だけでのことである。七月一日付で発行された元「前進」編集長・山村克こと白井の「革共同・中核派の危機に際して全同志諸君・全人民に訴える」と題する「告発」のパンフレットについて、わが同盟が間髪を入れずに的確に暴露し(本紙第一五七九号)それをめぐるイデオロギー闘争を展開していることによって、屋台骨の崩れ落ちたブクロ屋敷は、いまや最後的崩壊の過程に突入してしまっているのだからである。てんやわんやの大騒ぎ≠する気力ももたず、ただただ音もたてずに雪崩のように崩れ落ちつつあるブクロ派組織。その崩壊のすさまじさ(7・23日比谷野音集会における彼らの惨状を見よ、本紙第一五八〇号六面参照)にたえきれずに、一ヵ月近くもたってようやく口を開いたというのが、この「声明」にほかならない。だがその内容と文体からしてシミタケこと清水丈夫――それも廃人と化した――が執筆したであろうこの「声明」は、かつての盟友≠ノよ って丸裸にされてしまったシミタケをはじめとする残存ブクロ官僚どもの茫然自失ぶりを露わにするものでしかないのだ。
 炉心溶融への悲鳴

 彼らブクロ官僚どもの茫然自失ぶりは、何よりもこの「声明」において「日帝・権力の手先へと階級移行した反革命分子」として白井=山村を「徹底断罪」しているにもかかわらず、そしてまた「その前代未聞の反革命策動を完全に粉砕する」といきまいているにもかかわらず、白井が発行した二冊のパンフレットに触れることもできなければ、またこれをめぐるわが同盟のイデオロギー闘争にたいして反論することもできないということにはっきりとしめされている。実際、この「声明」で触れている事実といえるものは、次のひとつのことだけなのである。「白井朗は、昨年四月、金沢で逮捕され、救援連絡センターの差し入れと弁護士接見を拒否し、権力に投降し、全面自供し転向した。そして、権力の手先となった結果、革命家としての品性を完全に喪失し、下劣な反革命的心情を前面化させ、反スターリン主義運動を辱め、混乱を与え、傷つけることを目的とする、絶対に許すことができない反階級的転向分子になり果てた」なぜ白井が金沢くんだりまでいって「逮捕」されることになったのか、どうしてこの元「革共同・中核派・政治局員」が「権力に投降し」「転向」することになったのか、などということはシミタケに聞くだけ野暮というものである。それについてはわが同盟が、これまでに十分すぎるほど懇切丁寧に暴露してある。問題は、「権力の手先」となった白井が刊行したパンフレットが、権力の手先集団<uクロ派の官僚どもを丸裸にしてしまっているにもかかわらず、そのことについてなにひとつ触れようとしないことにある。だが、隠すよりあらわれる≠ニいうように、上の一文には、白井の「告発」によって辱められ・混乱させられ・傷つけられたスパイの頭目・シミタケの動転ぶりがあらわになっているではないか。もちろんそれは、白井の「品性」とか「下劣な心情」とかという問題ではない。シミタケが動転せざるをえないのは、自分の飼い主≠ニ思い込んでいた権力内謀略グループが、白井を手先とし、「一九全総」の資料をさえ与えてブクロ派指導部の崩壊ぶりと残存官僚の腐敗を暴露させた、ということにこそある。実際、白井のパンフレットにある「一九全総の参加者は二十人」という情報≠ヘ、白井じしんは「排除されていた」というのであるからして、知りようがないものであり、どう見ても権力から与えられたものである。そして、まさしく同時に御主人様≠ェ弟分の走狗・青解派の分裂・「相互絶滅戦」を演出しながら、山田茂樹・長田(=荻野)佳比古・相川一郎などの用済みスパイ≠フ処分≠次つぎと強行していること、このこととみずからへの処遇とを重ね合わせないわけにはいかず、おののいているのがシミタケなのだ。いやそれ以上に、この山村の「告発」が、わが同盟のこの間の暴露の的確さを浮き彫りにしてしまっていることにこそ、スパイ集団の頭目・シミタケは怯えざるをえないのである。

 実際、シミタケは「カクマルへの年来のコンプレックス」が高じて「彼の元来の体質である精神的な動脈硬化は、いまや生理学的な動脈硬化の域に入り、もはや改善不可能である」ということ、「これによって大脳の活動に障害が起き高度に組織された機能が破壊され、それによってもはやコントロールされない下級中枢の活動がポジティブな症状としてあらわれる精神的な退化が清水の現状のすべてである」ということ、つまりは半狂人の廃人にすぎないことを白井は明らかにしているではないか。そして一九六二年十月の「政治局内本多フラクション」を構成した官僚ども(本多、野島、陶山、北川、白井)の誰一人として生き残っておらず、「品性下劣」なシミタケの「茶坊主」高木とか、「実力も人望も見識もない清水・高木のエージェント」にすぎない天田とかの、ブクロ派下部からみても二流、三流の徒輩に率いられているのが現存のブクロ派であるということをも明らかにしているではないか。いや何よりもマルクス主義とはまったく無縁なまでのそのイデオロギー的退廃と組織の官僚主義的変質および荒廃を、かのパンフレットは浮き彫りにしているではないか。まさにわが同盟の暴露の正し さとわがブクロ派解体闘争の勝利を実証し立証しているものこそが、かの山村の二冊のパンフレットにほかならないのだ。

 まさにこのゆえにブクロ派の活動家どもは、官僚どもの目を盗んではこのパンフレットをむさぼり読み、そして正鵠をえたわが同盟の暴露に納得してしまっているではないか。大阪や東京の集会では、ブクロ派の活動家どもは、わが同盟のビラと山村パンフのコピーを奪い取るようにうけとっては公園の隅でくいいるように読み耽っている。あるいは、キョロキョロとあたりを見渡しては受け取ったビラとコピーを丁寧に折りたたんでポケットにしまいこんでいる。7・23日比谷野音集会の場においては、しょぼくれたブクロ派活動家どもは、目の前で全学連の仲間が白井のパンフを朗々と読み上げたのにたいして、横を向いて・つまり良く聞こえるように耳をそばだててじっと聞き入っていた。いやいや、下部活動家だけではない。甘糟のような手配師さえもが、組対法の集会のあいだじゅう、発言そっちのけでじっと白井のパンフを読み耽っていたのである(別記事参照)。いまや、ブクロ派の手配師や活動家どものうちにうみだされているのは疑心暗鬼≠ネどというなまやさしいものではない。わが同盟のブクロ派解体闘争の正当性と勝利を、ブクロ官僚どもの腐敗と組織の崩壊とをこそ実感し、ぼろ ぼろぼろとブクロ屋敷からこぼれ落ちつつあるのが現実なのだ。
 ノックアウトになった半狂人シミタケ

 このように、まさにわが同盟の暴露が正鵠をえていることが立証されてしまっていることからして、白井のパンフの内容には触れたくない・触れられたくない、というシミタケの心情がありありとしめされているものが、この「革共同声明」なるものである。実際それは、「反革命分子=白井朗を徹底断罪する」などと大上段に振りかぶってはいるものの、怒りや憤激がひとかけらも感じられないしろものでしかない。それは、次のことに端的にしめされている。「もっとも悪質な反革命分子として労働者階級人民の敵へと転落した」白井の「前代未聞の反革命策動」などといいながらも、シミタケは、それを具体的に暴露するでもなく、「現代世界は二九年型世界大恐慌過程をきりもみ的に転落しつつある。帝国主義は死の苦悶にのたうち……」などというステリオ・タイプ化したみずからのオツムの対象的表現でしかないステリオ・タイプ・テーゼのうちに逃げ込んでしまっている有様なのだ。もちろんこれは見たくないもの・都合の悪いものに直面させられたときに観念的妄想の世界に逃げ込んで精神のバランスをたもつというシミタケの生来のクセのあらわれであり、このようにして彼は自分のオツム を破壊してきたわけなのだ。だがいまや彼の観念的妄想さえもがマンネリ化しており、かつてのように政治主義的な居直りやすりかえを試みるような情熱≠ウえも失っている。直系スパイ分子として「先制的内戦戦略」なるものをガナリたてていたころのように、ぺっぺっと唾をはくのではなく、ダラリとよだれを垂らしたようなだらしない文章となっていることに、それははっきりとしめされている。

 とはいえシミタケはなんとか白井を「断罪」しなければならない。もっとも、白井が暴露している現実の事実には触れるわけにはいかず、「白井朗の主張の反革命性」なるものへとミエミエのすりかえをやるしかないというわけである。すなわち、第一は、非合法・非公然体制の解体と対カクマル戦の中止を要求した、第二は階級闘争の現実からの逃亡と党の死活的政治的組織的闘いからの逃亡の合理化だ、第三は五月テーゼ−一九全総−二〇全総路線にたいする全面的敵対だ、第四は革共同の綱領・理論・路線の全面的否定と敵対だ、以上である。Aでない以上反Aだ、まさにこれがシミタケの「白井朗の徹底断罪」のすべてであるのだから、「彼よりもすぐれた知性」を自称するボケ老人・山村でなくとも「反知性主義に骨の髄まで侵されてしまっている」といいたくなるというものではないか。

 だが「Aでないものは反Aだ」という単純至極なシミタケ的論理をもって「白井の断罪」をおこなおうともまったく無駄なのである。そもそも白井は、「反革命分子だ」「労働者階級の敵だ」「カクマルの尖兵だ」という類のレッテルを何百遍くりかえしても、それでタガがはまるほど、ブクロ屋敷の崩壊と活動家の離反はなまやさしいものではないのだ。わが同盟の走狗解体のイデオロギー的=組織的闘いの貫徹こそが、彼の動揺と精神的瓦解をつくりだしているものなのだからだ。もちろん、「これほどの自己批判書を書いた以上、もう自分は変なことはしない。もし変節したらこの『自己批判書』を人びとに示せば、それで終わりだ」などという、ヤクザの誓約書のようなものをもって「究極の自己批判書」などと称し、こんなものを書かせることが「長期の粘り強い原則的組織的討論」だ、などといっているほどなのであるからして、白井とシミタケのいがみあいなるものは、腐ったメクソと腐ったハナクソとのそれでしかない。頭の先から足の先まで血にまみれた謀略追認集団、その死にぞこない官僚どものいがみあいほどおぞましいものはない。われわれは、走狗集団・ブクロ派の末期にふさわしいその醜悪な全貌を労働者階級の前に暴露しつつ、最後的解体の闘いを断固として遂行するであろう。炉心溶融を開始した走狗集団・中核派を一掃せよ。

 「炉心熔融 ブクロ官僚一派の断末魔  死に体・白井朗(山村克)の嘆き節」を転載しておく。
 予測せしブクロ派の炉心熔融、おお、わが闘いの勝利なり

 脳天より足の先まで血ぬられしおのが身を語らず書くや罪ぞ

 かさねし殺人謀略を追認す足跡かくしは反革命ぞ

 暗黒の腐臭ただよふ集団に留まり居りしミイラ穢らはし

 八十名を殺せし謀略追認を隠し生きのびんとするは許されず

 血したたる追認集団より逃れしも罪深き過去消えざるなり

 殺人鬼の炉心熔融しめさるるシミタケの無残な姿に〔一九九二年四月に高血圧性眼底出血のために死に体〕

 半狂人の敗軍の将に操らるるは生ける屍の群れ

 殺人鬼ふたたびみたび起きあがりしも響きわたるは弔いの鐘

 無能なる「天田」を盾にす半狂乱の走狗集団自死せざるべからず

 ヒトラーばりのデマゴーグ、嘘とほらばらまきて内外を騙したりき

 狼の譬えのごとく「朝鮮戦争を内乱へ!」、唾吐きつ「戦争テーゼ」(一九七六年)捏造せしは出生の秘密の証しなり〔「反帝・反スタ」の地理的分離論(姫岡玲治こと青木昌彦=「プロ通派」の発案)に由来〕

 「先制的内戦戦略」呼号せしは走狗のタガはめとぞ

 八〇年代の走狗操縦のスローガン変わりたり「ナイ・ナイ・ホウ」〔内乱・内戦・蜂起〕に

 待てど暮らせど来たらざるは「朝鮮戦争」、訪れしは走狗の瓦解

 「党建設」の叫び声オクターブ上ぐれば上ぐるほど深まるは集団瓦解なり

 「十九全総」に集まりしは二十名、これ何処より知らされたるや

 「官僚による泥棒」〔一九九四年三月二十一日〕に逢いたる後なれば自ずから明らかならむ

 絶滅寸前の走狗集団ひきいるは「女たらし」の「高木」〔梶村憲一郎〕とは嘘

 コマ無くて鴬谷大会戦〔一九七三年九月十七日〕の敗軍将(高木)ひきずりだされたるは嘘ぞ

 吐露さるるうらみつらみの数々に現指導部〔吉羽忠、水谷、宗像、中野など〕へのねたみ惨めなり

 追認を呑まされたりし旧官僚を粛清するも時すでに遅し

 スパイの巣窟になり果てしブクロ派に残されたるは解散のみ

 本性を隠し隠して組合に既成左翼にもぐらんとす走狗撃て

 殺人謀略追認せしおぞましき過去消えざるなり自死すべし

 延命の隠れみのたる「百万実」に騙されたりし人悔い改めよ

 あはれなり七転八起せしも今七転八倒するは白井朗

 六〇年代は子育て、七〇年代は逃亡、高木いまいずこにあらむ

 八〇年前後の〔ブクロ〕路線のジグザグをえがきだせしは岸本・高木なり

 気違い(シミタケ)に抗し狂いし野島もまた「子の生産」〔一九七八年〕で首になりしとぞ

 〔一九八六年の〕ガサ入れで名簿もち去られ「戦争体制」崩れしも殺人は追認せし

 「耳をそぎ皮をはぐ刑」叫びしも道ふみはずし奈落におちにけり

 権力の手のひらに乗せられ乗りしも二十五年 響く弔いの鐘

 権力の「とばり」のなかに入りにしも尾をだしつ「署名」に狂ひ

 「共同行動」の名のもとに騙し騙され延命するをわれら許すまじ

 愛もなく心貧しく運動に参加せし政治動物の最期や無残

 スターリンの理論統制の元祖に祭りあげられたるはレーニン〔『唯物論と経験批判論』にみられるボグダーノフ批判にたいする白井のやり口〕

 宇野経済学をめぐる「論争」や、珍奇なり断末魔のあがきみせ

 「歴史における個人の役割」の名における〔ポンタの〕貶降やみじめなり

 ムスリムのスルタンガリエフの処刑を死せるレーニンに負わすは犯罪ぞ

 よし「汎イスラーム」でありとても嘆願書の日付は一九二四年九月なればなり〔レーニンの死去は一九二四年一月二十一日〕

 グレコ・ロマーノ・アラビック文明を地球史の軸とみたてるは愚なり

 イスラーム文明の虜になりてレーニンを中傷するは大犯罪

 「果」を「因」に還元するが粛清の論理であるを白井朗は知らずなり

 宗教は「阿片にあらず」とうそぶきてマルクスを刺殺するは愚か者

 いにしへの宗教は規範なるゆえに受け継がれるべき文化なりとぞ

 たふときや普遍宗教〔仏教・キリスト教・イスラーム〕、階級に結びつくとき疎外とぞ

 宗教的自己疎外論ぜしフォイエルバッハ地下で怒るらむ原始社会にうまれたりし祈りの行為肯んずるは社会学なり

 慣習と土着宗教を伝統に祭り上げ美化するは素晴らしや

 地域ごと伝統文化ありとても没階級的に論ずべからず

 流行の文明論に足すくわれて罹りたりハンチントン病に

 ガリエフへの思いつのりて憧れし「イスラーム文明」、火傷の元

 唯物史観放擲したれば神々しく輝きたり「地中海世界」

 経済のグローバル化はアメリカ化、これに抗するは「イスラーム文明」?!

 アッラーの神に祈りしも埒あかぬなりキリスト教との抗争は

 キリスト教帝国〔アメリカとEU〕に、イスラーム国〔イラクやリビア〕・東方正教国〔ユーゴ〕は爆撃さるる

 三つ巴の宗教=民族戦争は文明論では解きえざるなり

 文化もつ民族の自立連合、これ成らず、革命にあらざるなり

 「文化もつ民族」を歴史の主体とみなすはナショナリズム

 世界史を動かす民族精神を説きたるはヘーゲルならむやガリエフにほれこみて、グレコ・ロマーノ・アラビック文明は神の座へ

 民族精神を体現す英雄〔スルタンガリエフ〕に、挫折せし奴憧憬を抱く

 歴史動かす民族に望み託すは挫折者の時代錯誤なり

 階級なき民族を妄想するはマルクス主義からの離陸なり

 位牌抱きて叫びたり、持て!「抑圧民族日本人」「血債の思想」を!

 近代の「民族」を歴史貫通のものとみなす愚に、しばし驚愕せり

 ネーションとエスニックスとを区別せず「民族」をあげつらうはいとおかし

 伝統文化うけつぎし「民族」は歴史を動かす力ならぬなり

 ヤンキーのシステム論に社会学をとりこみて悦に入るやあはれ

 炉心熔融しめしたる断末魔のブクロ派に下せ! 最期の鉄槌を

 崖っぷちにたたされたりしブクロ派にとどめを刺せ! 梵鐘ひびく

 「組対法」に「新ガイドライン」を重ねればいつぞや来し道思わざらむや

 「膝までのインキンたむし」の如くに「民族」物神ひろがりたりき

 1999.9.27日付け「解放第1587号」の9.19日付け亡霊の戯言と繰り言 ブクロ派の崩壊と内部対立を暴露≠オた元ブクロ官僚・白井朗」を転載する。
 すでにブクロ派から脱落して久しく、おのれとブクロ派の未来に絶望して金沢市内のホテルで焼身自殺をはかり(昨九八年四月二十七日)、警察権力に保護≠ウれた元「前進」編集長・山村克こと白井朗。すでに完全に脱け殻と化していながらも警察権力にヒモをつけられたこの男が、突如として「革共同・中核派の危機に際して全同志諸君・全人民に訴える」と題する「告発」の小冊子(二分冊)を発行した。

 もちろんその内容たるや、おのれを「政治局会議から排除」したばかりか「六〇歳の夫婦」の「住居を破壊して住む権利を奪う」ことさえした「清水・秋山・高木・天田ら」にたいするうらみ・つらみむきだしの罵詈雑言を書きなぐったものでしかなく、「分派闘争」などとはおよそ無縁のものである。それは、権力の庇護のもとで、権力にそそのかされるままに、白井が知る限りでのブクロ派組織の実態を暴露≠オたものにほかならない。もっとも、白井は一切をおのれに都合よく描きだしているだけではなく、ブクロ官僚どもの醜悪な対立と驚くべき腐敗にかんするわが同盟の暴露の的確さを認めるわけにはいかないという権力の意と白井じしんの姑息な思惑にもとづいて、種々の加工を施してもいる。とはいえ、この加工は見えすいているのであって、かつてブクロ派政治局員であった白井が、オブラートをかぶせながらではあれ、ついにブクロ派の実態についてのわが同盟の分析を事実として認めたのである。

 われわれは、白井が、この「告発」において加工しながら書きなぐっている「中核派政治局の実態」なるもの、その真相を、彼の「告発」のインチキ性とともにここに暴露しておくことにする。 伊木喬
 一、元「前進」編集長による「ドロボー清水」への糾弾
 「革共同・中核派・政治局員」などといまだに自称する白井朗(山村克)署名の「革共同・中核派の危機に際して全同志諸君・全人民に訴える」と題した二分冊の小冊子が七月一日付で発刊された。その第一分冊は、「ドロボー清水丈夫による『資本論』否認」というサブタイトルつきの「仲山『資本論の研究』批判」と題したものであり、第二分冊は、「ドロボー清水丈夫による反帝・反スタの全面否定」というサブタイトルつきの「自称十九全総批判」と題したものである。(以下、断りなき引用は、この小冊子からのものとする。)〔また七月十五日付で白井朗著『二〇世紀の民族と革命』(社会評論社刊)も発刊された。これの批判は別稿に譲る。〕

 白井じしんの言からしても一九九二年末に「政治局から排除」され、それ以後、ブクロ派から追放されている(あらかじめ暴露しておけば、白井は八〇年代にすでに政治局からはおろされている)にもかかわらず、六二年末の「政治局内の本多フラクション」の一員であったことと、六六年の「革共同三回大会選出の全国委員・政治局員」であったという、ただこのことだけにしがみつき、今日、突如としてブクロ派の「政治局員」を自称してたちあらわれたのが、元「前進」編集長であった白井朗である。「革共同・中核派・政治局員」をいまだに自称するこの男は、老いの繰り言°Xしくこう呟いている。

 「最初に或る事件を同志の皆さんにお知らせする。一九九四年三月二一日午後九時過ぎ、私たち夫婦は自分のアジトに帰り着いた。ところが驚くべきことに、アジトの部屋はガランドウになっていた。(中略)そしてガランドウになった部屋の机の上に特大のバールがひとつ、寒々と置かれていた。」「信じられないことだが、味方であるはずの清水丈夫・秋山勝行が私兵を送り込んで私たち夫婦の留守のあいだに知的財産を略奪したのだ」と。

 このように「革共同・中核派の危機」を「全同志諸君」と「全人民」に訴えるなどと大見得を切ってはいるものの、その出発点は、「私たち夫婦のアジト」の破壊と「知的財産」の略奪にたいする恨みと憎しみでしかない。しかも、「われわれ」とか「私たち」とかと代名詞が使用されてはいるが、その実態は「私たち六〇歳の夫婦」の「闘争」でしかない。これを「分派活動」などと呼ぶのは完全にマンガであるが、ともあれ白井によれば、「分派活動を先におこなったのは清水」なのだそうである。「彼らを打倒することが、中核派再建にとってまず必要である」と主張しているこの御仁は、「清水一派」の「党内民主主義を否認した討論否認」だの、「分派を反レーニン主義だ」とする「スターリン主義的規律」だのを「弾劾」し「本多書記長の精神と理論にたち返る」ことを「誓う」と言う。

 だがもちろん、権力の庇護下にある白井は「分派闘争」をやる気など毛頭ないのであって、この小冊子においても、そのほぼすべてが、清水や高木にたいするうらみ・つらみにもとづく罵詈雑言で埋めつくされている。このような老人性の繰り言≠フ類には対応する必要はないが、白井がブクロ派の「危機」などと言いながら書きなぐっているものの内実については、断固として暴露しておかなければならない。
 白井が暴露≠オたブクロ派の「危機」なるもの
 第一に、白井は、残存ブクロ官僚一派の惨状を、もちろん現実とはズラすかたちで加工して、暴露≠オている。ブクロ派の「十九全総」(九五年秋)において清水丈夫が「議長」に選出されたのは「党規約を無視」している(「議長、議長代行というような職名は規約には存在しない」)などといいながら、白井は、「議長・清水丈夫」が、九二年春に「高血圧を悪化し眼底出血を発病し」、それ以降、「動脈硬化で大脳の活動に障害が起き」、「精神的退化」によって、「もはや政治活動に耐えられる状態ではない」ということを綿々と書きつらねているのだ。しかも、「非合法生活三〇年のボケ」とも重なった清水の「破壊」された「大脳」のゆえに、「政治活動」がおこなえなくなった清水の「代行」として、九二年五月に秋山勝行が「私〔白井〕を排除した功労者として」「賞賛」されつつ「指名」されたこと。だが、この秋山が、「代行の範囲を越えて清水の権力復帰を妨げるほど権力を固めることを恐れた」清水によってその後粛清されたこと。さらに、「自称十九全総で清水議長の議長代行の地位に任命されたのが悪名高い高木徹」であること。等々というようなブクロ派内の人事体制を、白井は、劣等意識まるだしの老人のひがみと、うらみ、つらみをむきだしにして、暴露≠オているのである。
 そしてさらに白井は、ブクロ派の政治局員を自称するものどもの実態についてもことこまかに暴露≠オている。たとえばこうである。「自称十九全総」で「議長代行」となった高木徹の場合。
@「対カクマル戦争開始時に、一九七三年九・一七鴬谷戦闘で大敗北を喫して、責任を問われて政治局から解任された人物。」「敵カクマルの面前でマヌケ千万にも当日の戦術会議を開いているあいだに、カクマルの襲撃を受けて敗北。」
A「(七三年から)約十年たって復帰したのちにも一九八三年には『プラチナ』と呼ばれる事件で指導部の機密文書をすべてカクマルに奪われる失敗を演じた。」
B「この時に彼は或る女性〔ブクロ派の諸戦線担当の女手配師・木下成子〕と浮気をしてホテルから出てきた瞬間をカクマルに写真に撮られて『解放』紙に掲載されたのだが、これについては未だに組織にはなんら報告も釈明もしていない。」
C「六〇年安保闘争以来、党組織のメンバーがながいあいだたいせつにして人間関係を育ててきたシンパを、一瞬にして一〇〇〇名も階級敵に売り渡した事実の深刻な重みに、彼はまったく感受性が働かない。」
D「高木はマルクス主義が人間解放の思想、個の解放の思想であるその原点を、一度たりとも認識したことが無い。……彼はかつて筆者〔白井〕に『一九五九年にブントに入る時にもうこれで勉強から解放されると快哉を叫んで英語辞書を川に投げ捨てた。いい気持だった』と得々と語ったが、反知性主義の面目躍如である。」
 九二年五月に清水の代行として指名されたが、わずか数ヵ月後に解任された秋山勝行の場合。
@「秋山は対カクマル戦争の開始以来二〇年間読書したことのない人間……。」
A「秋山は入管・部落などの七〇年七・七以来のいわゆる諸戦線の理論と政策とについて一番不案内な、無理論の人……。」
B「彼は上記の三つの理論問題について自分自身の見解がゼロで何も理解していないクセに、トップの権力の力を誇示しようとして……。」
 もちろん、白井によるこのような暴露≠ノは、権力の意を受けるとともに白井じしんのうらみ・つらみもからんでいることによって様ざまな加工がほどこされている。このことについては、後述する。

 第二に、これもその真偽のほどはともかくとして、白井は、「一九九〇年以来、私と清水とのあいだに起きた理論的対立」なるものを、ことさら強調している。だがそれは、以下にみるように、ブクロ派の現在の路線とはなんの関係もないものでしかない。

 @「私の民族論文の刊行をめぐって」。八七年から八九年にかけて、「私は」「『七・七』を理論的に深化しプロレタリア国際主義を具体的に明確にするために、抑圧民族の民族主義と被抑圧民族の民族主義との区別(前者の反動性と後者の進歩性・革命性)をレーニンの『グルジアのスターリン批判』に習って明確にし、アジアの民族解放闘争・アジア革命のロシア革命〜一九二〇年代にかけての素晴らしい可能性を世界革命の現実性の具体的な内容として明確にするために執筆した」。〔なお、これが小冊子と同時期に社会評論社から発刊された『二〇世紀の民族と革命』の素原稿である。〕

 ところが清水は、九〇年夏に、「カクマルの『中核派の民族主義。民族より階級が優越する』『階級・階級』というケチツケにいつのまにか精神的に屈服」し、「私にたいして『民族主義』というカクマルと同じ非難をおこなうにいたった」と、白井はのたまっている。

 A一九九〇年春に「前進」に五回にわたって連載された「大激動に向かうソ連」という鳥飼修造署名の論文にたいして、この論文は「従来の革共同・中核派のソ連スターリン主義を根底的に否定する反帝・反スターリン主義の立場を目茶苦茶に崩してしまい、あろうことかスターリン主義を肯定」している、と「私は鋭く批判」した。

 だが清水は、この鳥飼論文を清水が黒島善輝を「監督して書かせた」ことから、「私」の批判にたいして「侮辱だ」と「一言のみ見解を述べた」にすぎなかった、と白井はいう。

 また白井は、九一年十二月に発行された「古沢俊朗」署名の『ソ連エリツィン体制と第二革命の展望』(前進社刊)も黒島が執筆したものだと暴露≠オつつ、これにたいして「私」が「ソ連崩壊を実質的に何ひとつ分析していず、朝日新聞をズラズラ写した事実の羅列と、軽薄なソ連学者・下斗米伸夫と同じレベル」と批判したが、「ソ連崩壊という歴史的な事件に象の皮膚感覚で事実上崩壊を無視して」いた「清水=黒島」は、この批判をまったく受けつけなかった、とのことである。

 Bさらに白井は、『「資本論」の研究』(上巻は八八年十二月、下巻は八九年十二月発行)の著者「仲山良介」もまた黒島であると暴露≠オつつ、その内容を「九二年春の政治局会議で徹底的に批判」したという。清水が「監修」した『「資本論」の研究』は、「黒田=カクマルが宇野弘蔵を批判しているから、負けず劣らず自分たちも宇野弘蔵をやっつけなければならない」ということが、その「政治的動機」であり、したがってその内容は「黒田が宇野経を理解していない」と批判するだけでは不十分であり、そもそも「宇野経済学を批判・否定することが黒田批判の道」とするものでしかなく、それは「黒田=カクマル(への)屈服」である、と批判したなどと大見得を切っているのである。
 ところで第三に、白井は、一九六二年の三全総直後の学対部員・清水丈夫(当時)が「カクマルに味方」したという秘話≠ノついても仰々しく暴露≠オている。「清水は一九六二年秋革共同三全総ののち黒田寛一が分裂策動を開始したときその忠実な尖兵を果たした。いまや真実を語る秋がきた」などと大仰にかまえつつ、白井は、その内実を次のように明らかにしている。すなわち「三全総の約一ヵ月後清水は、本多書記長はじめ政治局員にたいする黒田の誹謗・中傷の文書を当時彼が責任者だった学生組織にばらまくという姑息な分裂策動をおこなった。彼は革共同の学生組織を黒田派に組織した張本人である。この策動にたいして六二年十月末の政治局会議で本多書記長以下全員の怒りの批判が爆発し、彼は真っ青になって謝罪した。……清水はカクマルの革共同からの分裂の際、真先にカクマルに味方した人間である。これが歴史の真実である」と。

 このように、清水憎し≠フ余り、本多延嘉が六二年十月末の段階で「本多フラクション(本多、野島、陶山、北川、白井の五名)」を秘密裡に発足させ、それが「中核派の出発点」となったことまで白井は自己暴露しているわけだ。およそ以上が、白井がことあらためて暴露したブクロ派組織の「危機」という名の惨状にほかならない。
 二、ブクロ派の中枢分裂を加工を施して暴露
 今日のブクロ=中核派の「出発点」を築いたとされている一九六二年十月末に結成された「政治局内の本多フラクション」(本多、野島、陶山、北川、白井)の一員であったということを自己の唯一にして最高の勲章≠ニしている白井朗。この男の名で発行された二冊の小冊子において、確かに白井は、「私にたいする謀略・略奪・会議出席阻止」をはかった「清水・秋山・高木・天田」らの「スターリン主義的に変質した指導部」にたいするうらみつらみを書きなぐり、彼らの悪業≠ノついては老人性の繰り言≠フように暴露している。だが、「労働運動路線」という名の大衆運動路線≠提起することによって組織的延命をはかろうとした一九八三年以降残存ブクロ派組織の実質的な「書記長」を務めてきた陶山健一(岸本健一、九七年一月死亡)の名前も出てこなければ、八〇年代末から肝硬変などの内臓失患で入退院をくりかえしていた陶山にかわって、生き残りのブクロ官僚どもを統轄していた吉羽忠のそれもでてこない。

 それだけではない。わが同盟の走狗集団解体のためのイデオロギー的=組織的闘いに追いつめられ、労働戦線をはじめあらゆる戦線から追放された残存ブクロ派、この崩壊した組織がなお存在しているかのように社会的にアピールすることを役目としてはいるが、生気がなく憔悴しきって醜態をさらすことしかできないブクロ派のスポークスマン*k小路敏もまったく登場≠オない。また、政治集会のたびに、無内容な発言と、ブクロ派組織の党史≠ノついての無知をさらけだすような発言を繰りかえすことしかできない天田三紀夫にかわって政治集会の基調報告を押しつけられたものの、みずからもまた、「七・七自己批判」についての理論的混乱を続けそれをわが同盟が的確にとらえ批判したことによって、つねに混迷している水谷保孝についても、まったくふれていない。

 白井じしんの言からすれば「政治局会議から排除」された九二年末以後の残存ブクロ派のなかで、年老いた藤原慶久や北小路敏にかわって、「反戦共同行動委員会」とか「労組交流センター」などの仮面をつけて残存ブクロ派団子を引きまわす役割についた甘糟義信、金山克己らについて、この小冊子でふれていないのは当然だとしても、白井は、一九八〇年代から九〇年代前半の生きた<uクロ派組織の実態については、まったく暴露していない。たとえ、時期をズラしたりしてゴマカそうとしても、白井が、八〇年代においてすでに政治局から「排除」され、ブクロ派中央から「前進社」に幽閉されていたということは隠しようがないのである。
 そもそも白井は、昨年四月二十七日に金沢市内のホテルで、ブクロ派と自己の未来に絶望し、未遂に終ったとはいえ焼身自殺をはかり、偽名で宿泊したということが発覚し警察権力に逮捕されたのであった。そこで、警察権力にヒモをつけられネジをまかれたこの男は、権力の意を受けて、ブクロ派の実態とは意図的にズラしたかたちで、それを暴露する役割を担わされたのであろう。すなわち、白井から、白井が知っている限りでのブクロ派の現状をあらいざらい聞いた権力はブクロ官僚どもの対立および失脚、そして脱落・逃亡についてのわが同盟の暴露の的確さと正確さに驚愕し、これをうち消すために、白井に、現実を加工するかたちでの暴露≠指示したにちがいないのである。

 とはいえ、その加工は透けて見えるのであり、「前進社」に幽閉されたりしてきたがゆえにいっそう昂じた清水や高木にたいする反発心やひがみをつのらせて、白井が書きなぐっていることのなかに、ことの真相の一端が明らかにされているといってよい。では、その、ことの真相の一端とはなにか?
 正鵠を射たわが同盟の暴露
 白井の繰り言は、たとえ種々の加工が施されているのだとしても、われわれが暴露してきたブクロ派の中枢分裂を端的に証明するものとなっている。その時期、理論的および実体的根拠については、わが同盟のこれまでの暴露を意識して、姑息なかたちでズラし、またアイマイにするという意図のもとに叙述しているのだとはいえ、白井は、その核心点においては、われわれの暴露の的確さを認めてしまっているのである。

 白井によれば、一九九一年末の「ソ連スターリン主義の崩壊の原因」を、「自滅自壊」ではなく、「アメリカ・レーガンの圧迫」に求めるという錯乱した分析は、「政治学の問題」ではなく、「清水の精神分析の問題」であり、また、清水のこの「理論」的混乱と錯乱は、「新聞を読んでいない」し、また「読んでも理解できない」ほどに「動脈硬化(症)」の病状が悪化し、それは「もはや精神分析の次元の問題」なのだそうである。

 九二年春のブクロ派政治局会議で、清水が監督して「仲山良介」=黒島善輝に書かせた『「資本論」の研究』を白井が批判したことで、清水が「怒りを激発させ」、その四十日後に、「元来の高血圧を悪化」させ「眼底出血」により倒れ、「生理学的な動脈硬化」により「政治活動に耐えられる状態」ではなくなった、と白井は称している。けれども「前進」のゴミ記事を執筆するぐらいの能力しかもっていない――それもなかなか書けない――ボケ老人の「批判」ごときで、戦争狂いのシミタケが動じるはずはなく、その高血圧症を要因とした動脈硬化症が悪化するわけがない。白井じしんが言っているように、「カクマルへの年来の劣等感コンプレックス」によって、したがって、わが同盟のブクロ派の残存官僚どもにたいする理論的批判にまったく反論できないことこそが、清水を動揺させ、それゆえの動脈硬化症の悪化が彼の脳の神経組織そのものにダメージを与え、持病の被害妄想などの精神的病いを高じさせたのである。

 実際、一九九一年八月のゴルバチョフ政権内反ゴルバチョフ派のクーデタの自壊と、帝国主義権力者どもおよびソビエト・ブルジョアどもに全面的にテコ入れされたエリツィン一派による逆クーデタの勝利。このソ連邦の劇的な崩壊に度肝を抜かれただけではなく、わが被害妄想患者はこのソ連情勢についての現実分析をまったくおこなうことなく、エリツィンによる権力の掌握をば、なんと「自由を求める民衆の八月革命」などと全面的に賛美し、「エリツィンをのりこえる第二革命」を、というようなシンボルをうちだした。だがこの驚くべきシンボルのデタラメさをわが同盟に壊滅的に批判され、またしても精神錯乱におちいったのである。

 こうして、気息奄々の陶山が頭目へとおしあげられ、この陶山が組織の内部では九一年五月に提起していた「六月の挑戦」(その後「五月テーゼ」などと言いかえているのであるが)などというインチキなシンボルを、ブクロ派は九一年十二月になってから、オズオズと公表するにいたったのであった。ところが白井は、このことを一言も語らない。そもそもこの二分冊の小冊子において陶山の名前が(六二年の「本多フラクション」の一員として以外には)一度も出てこないということ自体が異様であり、この一点だけからしても、白井の今回の暴露≠フ恣意性は明白なのである。それはなぜか? わが同盟の暴露の正しさを認めるわけにはいかないからか、それとも八〇年代以降「政治局」からおろされており、政治局がどうなっているのかを具体的には知らされていないからなのか、おそらくはその両方であろう。

 それはともかく、白井がはしなくも暴露したように、「ブント的政治主義者・清水丈夫」は、「七一年以来の対カクマル戦争の長期にわたる過程」で、「黒田=カクマルへの年来の劣等感コンプレックスが頭をもたげた」だけではなく、ブクロ官僚一派を解体するわが同盟の闘争の巨大な前進に脅え、「『前進』編集局員約三〇名の人件費が年間二〇〇〇万円にすぎない」というのに、「非合法態勢と称して清水と高木二人だけで年間八千万円も消費(住居と脈管――車・ガソリン・ドライバーの費用)」している始末。それでもなお「カクマル」の攻撃に脅え、ついに動脈硬化症をも併発し「精神分析の次元」の病いを患ったのだ。

 そもそも、清水の精神的病いは、九二年に突然発病したわけではない。わが同盟が、ブクロ派中央武装勢力の拠点を東西四ヵ所にわたって粉砕(七五年十月二十七日)し、同時に「現代戦争テーゼ」なるものにたいして壊滅的な批判をあびせた。このようなわが同盟のイデオロギー的=組織的闘いにうちのめされ、政治的にも軍事的にも完全にたたき伏せられた清水は、ついに失脚し、精神的に錯乱した(一九七九年)のである。この男は、その後、精神病院の入退院をくりかえしていたにもかかわらず、この病いが癒えぬまま、権力内謀略グループに尻をたたかれ、高木一派の<六月クーデタ>(八四年)――「革命的議会主義」を掲げた陶山一派を「杉並都議選決戦」主義と批判し「革命的内乱・内戦」を突如として提起――の路線的助言者として登場(八五年)した(ブクロ版ニセ『共産主義者』第六十四号の磐井喬之署名の駄文)。だが、これをただちにわが同盟が批判するやたちまち精神病院に逃げ込み、権力内謀略グループが鉄道労働者の幹部を襲撃し(八八年三月三日)、その追認をブクロ派に迫るや、またまた復帰≠オて、すでにわが同盟に壊滅的に批判しつくされている「現代戦争テーゼ」なるものを再び持ちだし(八八年)、「朝鮮侵略へのすさまじい衝動」などとがなりたてたのであった。ところが、わが同盟がこのシミタケの役割を暴露し、「朝鮮侵略戦争の切迫」なるものの妄想性を壊滅的に批判したことによって、清水は一挙に精神的病いを高じさせたのである。

 このように、清水は、権力内謀略グループにネジをまかれて「JR総連・カクマル解体」などとわめきたてるときは誇大妄想におちいり、わが同盟のイデオロギー的=組織的闘いにうちのめされると被害妄想におちいる。この男の行動形態は、ソ連共産党書記長・スターリンの末期の病名と同じパラノイヤという精神疾患そのものである。シミタケのこの精神疾患は、「対カクマル戦争」なるものの完敗と、それによるブクロ派の組織的崩壊、また、権力内謀略グループの走狗集団としての役割をわが同盟が暴露し、延命のための運動上および組織上の路線をわれわれが壊滅的に批判したことによって必然化したのである。
 わが同盟に打倒された野島、高木
 白井の言によれば、一九九五年秋に開催されたとされているブクロ派の「十九全総」なるものは、「出席した人よりも出席しなかった指導者が問題になる会議」ということになる。すなわち、欠席した政治局員は、「一九八七年にモラル的理由によって実質的に脱落」した野島、高血圧症による眼底出血によって倒れた清水の「代行」に指名され(九二年五月)ながら「戦術的には独自性をもって清水の思惑をこえてしまう点に恐怖を感じた」清水によって「クーデタ式に排除」された秋山、そして、「創立以来の政治局員である私」の三人だそうである。けれども白井は、九二年末に政治局から排除された「私」については饒舌だが、秋山については僅か数行明らかにしているにすぎず、そして、野島三郎については先の一言で済ましている。

 ここで決定的なことは、野島三郎がすでにブクロ派から脱落していることを認めたということである。わが同盟が暴露してきたように本多延嘉をわれわれが打倒した(一九七五年)あと五ヵ年間にわたってブクロ官僚一派の書記長としてその役割を担ってきた野島三郎は、野島三郎(木下たかあき)直轄のブクロ版『共産主義者』編集局兼中央出版局の秘密アジト(茨城県古河市)を爆砕したわが同盟の闘いによって完全に追いつめられ、一九八〇年三月に「カクマル=現代の悪魔」という断末魔の悲鳴をあげながら、ブクロ派から脱落・逃亡したのであった。

 ところが白井は、野島の脱落を「一九八七年」とし、またその理由について「モラル的理由によって」ということ以上は何も言及してはいない。このように彼が、野島が脱落した時期と、その理由を意図的にズラしているのは一九八〇年に公にされた野島一派の意見書(「革共同全国委員会への公開意見書」)を「たった二人の腐敗分子」のものにみせかけるために、この欺瞞的なキャンペーンに激しく動揺しながらもブクロ官僚一派の指導部として北小路や高木とともに加わったという自己の恥ずべき過去を隠蔽するためであろう。

 ところで、ブクロ派の「第十九全総」なるものにおいて「清水が何かしたら自分は事の是非は問わず無条件に追随」するようなシミタケの「茶坊主」でしかない「品性下劣な人物」としての高木徹が「議長代行」となった、と白井はいう。その真偽のほどはともかくとして、ブクロ派のルンプロ・学生軍団をわが同盟が一瞬にして軍事的に粉砕した(一九七三年九月十七日の鴬谷戦闘)ことによって、ブクロ派部隊の現場責任者であった高木が「大敗北を喫して、責任を問われて政治局から解任された」こと、また、「約十年後に復帰」したもののその直後に高木が、ブクロ官僚一派の最高機密文書をわが同盟にすべて奪取されたことなどを、白井は、実に素直に認めている。

 こうした事実は、わが同盟がその都度、的確に暴露してきたものであった。ブクロ官僚は、彼らの秘密アジトやルンプロ・学生軍団がわが同盟に摘発・粉砕された責任を問われては解任され、そして戦線逃亡し、また、サルベージ・オルグされては復活するというサイクルをくりかえしてきたといえる。

 実際、すでに明らかにしてきたような、清水や野島や高木だけではない。わが同盟が二度にわたる慈悲深い鉄槌を下すたびに、ブクロ官僚一派から契約離党しては、大衆運動主義者としての夢が忘れられず、ブクロ派組織に舞い戻り、そしてその路線の観念性をわが同盟が壊滅的に批判するや、またそれを物質的に突きつけられ、反革命スパイ集団の「最高指導部」としての恥多き生涯を閉じた陶山健一(九七年一月十四日)。権力の走狗集団としての役割を担わせられて、ブクロ官僚一派の頭目として権力内謀略グループに担ぎだされては、わが同盟がイデオロギー的批判と彼らの「非公然活動」ならぬ党生活≠フ腐敗した実態を暴露したことによって失脚と脱落をくりかえしてきた北小路敏。

 ところが、ブクロ派はこれまで、彼らの軍事拠点や秘密アジトをわが同盟が粉砕し、また、うちだした組織的延命のための路線をイデオロギー的に批判したことに追いつめられて、清水や野島などの官僚どもがダウンしたということを一度として認めたことはない。われわれにイデオロギー的=組織的に打ちのめされ、ブクロ派内の党内闘争のあげく、失脚し、脱落したことを、その理論的必然とともにわが同盟が暴露しても、彼らは沈黙≠もってのりきろうとしてきたのである。白井の暴露≠ヘ、過去二十年間にわたるブクロ官僚どもの居直りとのりきりとそのインチキ性を白日のもとにさらけだすものである。

 白井が発行した小冊子をつうじて「告発」されているブクロ官僚一派の中枢は、「指導部の重責に耐えうる健康をもたない」精神疾患を患っている清水と、指導部内で論争の対象となっている『「資本論」の研究』という本すら自分では検討せず、「二年後に読んだら正しいと思うだろう」と、平然とうそぶくような秋山らによって構成されたかと思えば、「秋山がトップの時には、会議で秋山が笑うのを見てから自分も笑うという自主性の欠如した」高木や、「実力も人望も見識もない」書記長・天田らによってなりたっていることになる。

 しかも、このような手合とともに、「政治局」の会議に参加していながらも、政治局員として何ひとつ闘争しない「中核派創立以来の政治局員」によって構成されてきたのが、国家権力の走狗集団の中枢にほかならない。そしてまた、たとえ脱落したとはいえ、「同じ組織で三〇年以上もともに活動してきた」同志を、かくも簡単に「告発」することができるほど、ブクロ派組織は総瓦解しているのである。
 三、「本多書記長」の墓守り白井の末路
 国家権力の走狗集団の指導部であったにもかかわらず、謀略襲撃などをみずからの「戦果」として追認してきたという自己にとって都合の悪いことには一切口を噤んだまま、残存ブクロ官僚にたいするうらみ・つらみを書き綴った白井朗。「人間の尊厳」や「人格の尊厳」というような、ブルジョア的理念を至高のものと観念しているこの男が、このような立場からブクロ派指導部の崩壊的惨状を暴露したとしても、廃人の清水や吉羽らの残存官僚どもにとってはカエルの面に小便≠ナあり、おそらく彼らは、組織の外にたいしては沈黙をもってのりきろうとするであろう。そして彼らの内部にたいしては「山村の裏切り的戦線逃亡」などと排外主義的に断罪するにちがいない。

 「政治局会議を開催する」からといって天田・秋山に呼びだされ、その間に本やノートを略奪されて、それを「ドロボー清水」として女々しく弾劾している白井よ! こうした徒輩を「卑怯・卑劣・姑息・精神の荒廃。愚かしさ・傲慢・自惚れ・恥知らず。無思想・無節操・無責任・モラル喪失……」などと口汚く罵る白井よ! 一九六三年八月十四日に本多、野島、北川、陶山、清水、高木らとともに、同志黒田宅におしかけ、同志黒田を軟禁し、書物や未発表の古い論文原稿・手紙・ノートなどを持ち去ったという自己の犯罪的過去について忘れてはいないはずである。このことに頬被りするなどということは、断じて許すわけにはいかない。そして、ブクロ官僚どもが「カクマルの脳天にバールを」と絶叫しはじめた直後の一九七四年に、黒田宅に放火し、その焼け跡に、包帯を巻いたバールを一本遺棄するという蛮行をはたらいたことを、知らないはずはない。「対カクマル戦」についてゆけずにほどなくブクロ派からズリ落ちたのだとしても、白井よ、お前もまた同罪なのだ。

 たしかに本多延嘉が存命中の白井朗ならぬ山村克は、没理論と筆の遅さのゆえに、ポンタにいびられ、あるいは恫喝されながらも、ひたすらポンタに盲従し、ブクロ官僚一派の末席に身をかがめていただけの存在であったかも知れない。またわが同盟が「現代の黒百人組」の頭目・本多に階級的鉄槌をくだしたことによって、盲従すべき対象を喪った白井は、『本多著作選』を編集し、「本多精神」の殉教者≠ニして、ブクロ派組織に身を寄せていただけかも知れない。だが一九五九年八月から一九六九年まで自称「前進」編集長を務め、その後も「前進」の編集にたずさわり、謀略襲撃や謀略ゲリラを追認するために働き、わが同盟と革命的左翼にたいする誹謗・中傷をバラまいてきたという白井の過去が免罪されるわけではない。

 「ドロボー清水」にたいして、「左翼スターリン主義に先祖帰りした」などとのたまっているが、その実、白井じしんが思想的には左翼スターリン主義そのものであった。権力のスパイやマキャベリストどもが群棲するブクロ派組織のなかで、ともに革マルコンプレックスに悩まされ続けてきたのが清水と白井である。もっとも両者のブクロ官僚としての生き様≠ヘもちろん異なる。ポンタ亡きあとのシミタケが、精神病院に入退院を繰りかえしつつクラウゼヴィッツの『戦争論』や毛沢東の「持久戦論」などをアンチョコにして、「二重対峙・対カクマル戦」を叫び、謀略追認のためのリーダーシップをとってきたのにたいして、白井は、清水や高木や陶山らの政治動物にたいする劣等感と反発を引きずりつつ、しかし内心は、ソ連分析と経済学についてはオレは中核派の第一人者≠セなどという自負心をもって、本多の位牌を抱いてスパイ集団の片隅で細ぼそと余生を送ってきたのであった。

 実際、白井が清水らの残存ブクロ官僚一派の罪状をあげつらう場合の基準は、ほかでもないポンタの遺訓そのものである。すなわち、九四年三月二十一日の私の「知的財産」(「白痴的財産」?)のすべてを奪った清水の「極道以下」の行動は、「人間的な要素、人間らしい匂いがひとかけらもな」いものであり、それは「本多書記長以来のかつての優れた理論と思想とをすべて滅ぼしつつある」行動であるとされる。わがポンタがいかほどの「優れた理論」と「思想」とを持っていたか、ということについては、ここでは問わない。ポンタの「政治力」と時としてみせる彼の政治技術に、つまり、ポンタのケチな人間操縦術に踊らされてきたことから自己脱皮することができなかったポンタの茶坊主よろしく、白井は、「本多書記長」の遺訓を盾に、「ドロボー清水」の「謀略・略奪」を弾劾しているわけだ。白井よ。「略奪という方法自体カクマルが発明したのだ」などと歴史の捏造と偽造に精をだすまえに、一九六三年八月十四日に同志黒田宅へ押し入り書物や原稿やノートを略奪することを反スターリン主義運動において発見≠オたことこそを想起し、反省すべきではないのか。

 また、わがポンタの茶坊主は、清水の、いまにはじまったわけではない政治技術主義まる出しの「会議指導」なるものについても、わざわざ本多延嘉のシミタケ批判を引っ張りだすために、「十九全総」冒頭の場面を暴露してみせている。すなわち、白井が「民族主義者」であるという批判を組織内に貫徹するために、清水は「十九全総」の参加者全員に「民族問題」についての作文の提出を求めたそうである。ところが、天田だけがこの作文を未提出だったことを見た高木は、清水に指示されたとおりに、「十九全総」の場で天田をつるしあげたという。こうした清水の政治技術について、ポンタが生前次のように語っていたということを、わが茶坊主はこの小冊子で二度も紹介している。「(清水の会議指導は)いつも仮想敵国をつくってつるしあげている。誰かが誤りを犯していないと会議がなりたたない指導のやり方だ」と。

 もちろんポンタが清水にたいしてこのような批判を実際におこなっていたか否かは定かではない。だが、「天才的なオルガナイザー」であったポンタを失ってからすでに四半世紀を迎えようとしているにもかかわらず、白井は、なお「本多書記長」の亡霊に支配され続けている。「独裁者清水」のまえに「自分自身の見解」をなにももたず、「自発性と創意性とを欠如」した高木や秋山らのブクロ派の指導部の惨状を「告発」しているつもりになっているわが「人間の尊厳」主義者は、じつは政治主義者・ポンタの遺訓に呪縛された生ける屍でしかない。「本多書記長の『レーニン主義の継承か、解体か』こそ党の理論の最高の到達地平」などと、臆面もなく語っているように、白井もまた、「独裁者清水」に跪く高木や秋山と同様に、ポンタにその「人格」もろともスポイルされてしまったみじめな存在なのだ。
 スパイ・白井の戯言
 九四年三月二十一日の「強盗・略奪」事件にたいする怒り。これを指示した「ドロボー清水」にたいするうらみ・つらみ。そして「精神分析」の対象でしかない「独裁者清水」に盲従するしか能のない高木・秋山・天田らのブクロ官僚にたいするねたみと弱よわしい憎悪。没理論の清水の「監督」のもとに発行された『「資本論」の研究』や『ソ連エリツィン体制と第二革命の展望』の「執筆者」黒島善輝にたいするひがみと反発。シミタケのカクマルの理論と労働運動の組織化≠ノたいするコンプレックスと劣等意識に勝るとも劣らない白井が、わが同盟の過去三十数年にわたるイデオロギー的批判に追いつめられて、その反面において全面展開したのが、小冊子におけるかの繰り言である。「革共同・中核派を愛する」がゆえに白井が「告発」したと称する駄文において白井は、この残存ブクロ官僚にたいする憎しみと嫉妬が入り混った言辞をリフレーンのように綴っている。

 そしてその裏面においては、わが革命的プロレタリアートと反スターリン主義運動の名において怒りの鉄槌をふりおろされ、反革命スパイ集団の頭目としての恥多き最後をとげた本多延嘉にたいする隷属と恭順の意があらわされている。「いかなる手段をもってしても革共同・中核派の危機を解決し、本多書記長の精神と理論にたち返り組織を再建する責務を果す」等々というように。「本多書記長の精神」を引き継ぐことを声高に叫んでいる白井の「本多精神」とは、彼を「一度目」に「虐殺」した「カクマル」に向けられるよりも、むしろ「二度目」に「虐殺」した清水・高木を弾劾するための武器として用いられているだけではない。彼の生いたちと「人格」の形成過程において、両親に甘えられずに(謹厳な九大法学部教授の父と奈良女高師出身の高等学校の校長の母のもとで、姉と妹にはさまれて厳格に育てられたといわれている。『共産主義者』第四十一号、土橋論文参照)育てられたこの男は、常に父親の代用品を見いだし、その影響を受け、それに隷属してきたのであった。彼にとって「本多書記長」はそのような存在であったに違いない。

 だが、わが同盟と同志黒田にたいするコンプレックスのゆえにブクロ派から逃亡し、金沢市のホテルで焼身自殺しようとして失敗し(九八年四月二十七日)、文字どおり権力に保護され、そこで、清水・高木・天田らにたいする不満を書きつらねた文書を権力に提供したのが白井である。そこにおいて白井は、権力にポンタの位牌を抱いた「革共同第四次分裂」をそそのかされ、甘えの対象をほかならぬ権力にのりかえたのだ。こうして「本多精神」なるものは、今日の白井にとって権力こそがポンタの代用品となっていることを隠蔽するための煙幕として利用されているというわけである。

 国家権力の走狗の頭目から、国家権力そのものに父親の代用品を求めはじめた白井朗よ。おまえが反革命スパイ集団のなかで犯してきた反階級的・反革命的な罪業を、そしていま、権力に尻をたたかれて、われわれが暴露したブクロ派の崩壊を、「独裁者清水」らの一部の官僚の問題にスリカエるという新たな反革命的な罪業を、われわれは絶対に許しはしない。

 国家権力は今日、走狗として使いものにならなくなったブクロ派や青解派を最終的に使い捨てるために解体的に再編成することをねらっている。いうまでもなく、白井朗が「革共同・中核派の危機を解決」するためにと称して発刊した二冊の小冊子は、このような権力者の悪辣な意図がこめられたものである。こうした意図もろとも、白井の「告発」の内実を徹底的に暴露することが、<謀略粉砕・走狗解体闘争>の前進のために課せられた課題のひとつにほかならない。

 1999.9.27日号「解放第1587号」の「白井朗が第三小冊子≠発行」を転載しておく。
 「スターリン主義に転落した中核派批判」のインチキ性
 元ブクロ派政治局員・山村克こと白井朗が、「ドロボー清水による本多理論の破壊」という副題のついた「スターリン主義に転落した中核派批判」という小冊子を九月一日付で発行した。周知のように、白井が七月一日付で発行した二冊の小冊子にたいして、わが同盟は間髪を入れずに、しかし、懇切・丁寧に、そのインチキ性を暴露した(本紙第一五七九号)。にもかかわらず、今回の三冊目の小冊子は、これには一切答えずに、「戦闘的人士に見捨てられたドロボー清水一派」を、ただ「告発」し、「清水一派」の面々の悪業をただただ暴露するという代物でしかない。

 とはいえ、この三冊目の小冊子もまた、権力の庇護の下で、権力に指示されてのものであり、これまでのブクロ官僚どもによる、謀略的殺人襲撃の追認・革命的左翼が最先頭で展開している大衆闘争の破壊・戦闘的労働者にたいする盗聴・政治ドロなどの反階級的犯罪行為の数々については隠蔽したうえで執筆されている以上、われわれは、この小冊子の欺瞞性を徹底的に暴露しておかなければならない。国家権力の走狗集団として、わが戦闘的・革命的労働者や学生にたいする謀略グループによる襲撃・殺害をばおのれの「戦果」として追認してきたという過去を隠蔽したまま「革共同・中核派の危機」を訴えている元ブクロ官僚を、われわれは絶対に許しはしない。

 ところで、残存ブクロ官僚どもは、白井の三冊目の小冊子にたいして今なお(九月十九日現在)沈黙を決めこんでいる。しかも彼らは、わが同盟にブクロ派の炉心溶融を的確に暴露されても(本紙第一五七九号、第一五八一号)、なにひとつ反論することもできずに、これにたいしても沈黙しているにすぎない。謀略殺人を追認してきた反革命スパイ集団・ブクロ派の最期の最期が、今や到来した。国家権力の走狗・ブクロ派を最後的に解体するために、われわれは、総力をあげて奮闘し、断末魔のブクロ派に最後の断を下さなければならない。
 一、元政治局員が再び暴露した「中核派の腐敗と崩壊」
 「革共同・中核派の危機に際して全同志・全人民に訴える」と題し、白井が執筆した小冊子の第三弾として位置づけられている「スターリン主義に転落した中核派批判」(以下、「第三小冊子」と略し、断りなき引用はこの小冊子からのものとする)なるもの。その特徴は、およそ次の五点であろう。

 まず第一は、権力の庇護下にある白井の「分派闘争」なるものが、「私たち夫婦」の「闘争」でしかないことをわが同盟に暴露されたことを意識して、わざわざ白井の「告発」に「共感」したと称する「戦闘的人士」のコメントを冒頭に列挙しているということである。ブクロ派が一九八〇年代にデッチあげた「三里塚闘争に連帯し動労ジェット闘争を支援する東京実行委員会」なるものの「世話人」になっていた「反軍」の小西誠や、「日蓮宗僧侶」の丸山照雄らの、今やブクロ派の「統一戦線」からもズリ落ちた、血塗られた走狗集団のかつての同伴者どもの白井への「共感の声」ならざるか細い呟(つぶや)きを並べたてていること。また、一九九七年九月にデッチあげた「新安保ガイドラインと有事立法に反対する百万人署名運動」の「事務局長」になりながらも、金山克己らの残存ブクロ官僚の政治主義的な「事務局」の引き廻しに反発し「事務局長」を辞任した「文芸評論家」の中島誠や、「労組交流センター」の「代表運営委員」の佐藤芳夫(元中立労連議長)らのブクロ派中央にたいする不満と泣き言も、勝手に白井への「共感の声」と称して列挙している。

 そして、極めつけは、スパイ通信の題字下の「編集・発行人」が藤掛守こと鞍田洋から「城戸通隆」に代えられたことをもって、「藤掛同志の清水一派の内部からの勇気ある決起」などと手前勝手な評価≠フ開陳。藤掛が残存ブクロ派からとうの昔に脱落し、逃亡していたということは、わが同盟が暴きだしてきたとおりである。この藤掛が「決起」したなどというのは白井の願望でしかなく、事実白井は、藤掛が白井一派≠ノ結集したとはさすがに言えないわけなのだ。

 第二は、「清水一派」に追放された元ブクロ派政治局員としての女々しい泣き言を前の二冊の小冊子以上にくどくどと並べたてているということである。清水丈夫、高木徹、吉羽忠、水谷保孝、黒島善輝などを「無能な党指導部」などと罵倒はしているものの、まったく低水準な老人性の恨みつらみの羅列。残存ブクロ官僚どもが、わが同盟の走狗集団解体の闘いに追いつめられて、組織的延命のために「対カクマル戦」なるものの基本路線をめぐっていかなる対立を生みだしたか、ということについての暴露もなければ、権力の走狗性をおし隠すために、どのような政治的シンボルを掲げて生き延びようとしたかという大衆運動の方針をめぐって生みだされた路線上の対立の暴露もない。

 白井が並べたてていることは、ヤレ清水が「カクマルの白色テロ襲撃」を恐れてブクロ派の「非公然アジト」の内部に「檻を構築しろ」と指示したとか、ヤレ高木が主催していた「非公然の編集会議」が「反革命カクマルの部隊に完全に包囲された」とか、ヤレ野島が「当時の政治局の非公然アジト」の所在地である群馬県館林市で「子供の出生届を提出した」とか、ヤレ吉羽が「革共同からの脱落分子・北川登(小野田猛史)を恫喝した」とか、北小路と「冷蔵庫に入れてあったブリ」を「誰が食ったか」(誰が盗ったか)をめぐって「大論争」をしたとか、……という類の暴露。

 それだけではない。水谷の場合は、ブクロ派の未来を「女占い師」に占ってもらっているとか、黒島の場合は、「権力による中核派破壊の水先案内人」となっている、という類の組織暴露が綿々と書かれている。そして、「私を(党指導部から)排除した無能な党指導部」との対比で、「党を去った有能な同志たち」と称して、ブクロ派から脱落し逃亡したチビ官どもの名前が、彼らの業績≠ネるものとともに羅列されている。残存ブクロ派から逃亡した「中央指導部」は、谷翰一(政治局員、元マル学同委員長)、松尾真(同、元ブクロ派全学連委員長)、今井公雄(中央出版局長、元都職労)、向井拓治(全国委員、元杉並革新連盟事務局長)、田中実(全国委員、元全造船石播分会)等々の面々である、等々。だが、この連中は、現在どうしているのか? 松尾についていえば、京大を「中退」して京都精華大学に「再入学」し、修士課程を卒業して現在同大の講師(非常勤)とのこと。もはや白井にはこのような「転身」は、かなわぬ夢であろうが。

 第三は、この七月に三冊の本(といっても『二〇世紀の民族と革命』――社会評論社刊――と、「仲山『資本論の研究』批判」「自称十九全総批判」という二冊の小冊子であるが)を出版したという僅かばかりの実績≠ナいっぱしの文化人°C取りで、「戦闘的人士はなぜ革共同を見捨てたか」などというあたかもテメエはブクロ派の何様であったのかということを抜きにして客観主義丸出しの評論≠おこなっている、ということである。残存ブクロ派の走狗性を隠蔽するために、「戦闘的人士」なるものを表看板としてデッチあげていた彼らの「党の統一戦線」。しかも、かつてブクロ派の指導部の一員であったという痛みも、反省もないままに、こうした「戦闘的人士」どもが、ブクロ派に愛想も尽き果てて離反していった事実を、それとして暴露しているということ。

 先に「共感の声」として並べたてていた連中以外にも、「破防法裁判闘争を支える会」、「三里塚闘争と連帯し動労ジェット闘争を支援する東京実行委員会」の世話人などを丸山照雄、小西誠とともにやっていた浅田光輝らの離脱。「都議選決戦」だの「区議選決戦」だのといった残存ブクロ派の「革命的議会主義」と称する「杉並選挙闘争」のシンボルとして利用してきた新谷のり子(シンガーソングライター)の離反。こうした、「戦闘的人士」と称されている残存ブクロ派の同伴識者≠竍芸能人≠フ「統一戦線」からの離反・離脱の根拠を、「戦線担当」の三角忠(東京労組交流センター代表)、角田富夫(「破防法に反対する連絡会」代表)らの思想的水準の悪さ(三角の「三鷹・下山・松川」などの戦後の三大鉄道謀略事件を「謀略ではない」といった主張)および「人格」上の問題(角田の二重人格と政治主義)としているのが、白井である。

 第四の特徴は、「革共同・中核派」中央・および地方組織の「危機」なるものを「訴え」ていることである。第四章は「革共同・中核派の再生は可能か」という見出しがつけられてはいるが、そこにおいて白井は、生気も活力も失った〔いまにはじまったわけではない〕残存ブクロ派のチビ官どもの、ボケ老人となった白井の眼からしても見るに堪えない失態≠暴露している。とはいえ、九七年十二月に清水が執筆したとされている「政治局文書」(「労対指導の低迷を打破し、労働者細胞の建設を推し進めよう」という副題のついた「五月テーゼを貫き第三次安保・沖縄闘争と国鉄決戦の爆発を!」)を暴露してはいるものの、その「解説」すらできないのが、かつてのポンタの茶坊主である。そして、「カクマル」の影に脅え、「前進社」からの出社に必死≠ノなってはいるが、それが「パターン化」してしまっている「中核派」の「防衛戦争」の実態。ブクロ派中央が「カクマル『神戸謀略論』」や「盗聴集団=カクマル」というように「カクマル」への批判をおこなおうとしているが、それが「本多精神」のひとカケラもなくなっていることによって頓挫している、というような「暴露」等々。

 さらに、ブクロ派の中央組織だけでなく、地方組織もまた、危機に陥っていると白井はいう。高木徹や深谷邦夫(千葉県委員長)が、自分の子供を東北大に入学させ、ブクロ派の学生活動家にしようと目論んだものの、それがみごとに破産し、その過程で東北地方委員会が組織的大混乱にたたきこまれたこと。北海道、北陸、関西、九州などの地方組織の責任者が国家権力のスパイとなっていたり、警察権力の手の平にのせられていること。〔こうしたことを、権力の庇護のもとにある白井が、権力にそそのかされるままに、「暴露」しているのであるから、マンガであるが。〕

 そして最後に、「私を抹殺しようとする諸君へ」などと、小心者の自己をつくろい、もったいぶった言い方をしているが、その内実は残存ブクロ官僚どもの弱み≠自分は握っているのだ、ということを押しだしていることである。清水・高木・天田・北小路・金山らの自筆のメモや原稿の暴露。そしてポンタの未発表論文を自分は持っているのだ、という清水らにたいする脅し=Bことほど左様に、白井が執筆した第三小冊子は、ブクロ派の組織的惨状や思想的崩壊状況の表層を暴きだしているだけである。そのような組織的崩壊にいたったその根拠――いうまでもなく権力の走狗への転落――について白井は、当然のことながら完全に口をつぐんでいるのだ。
 二、新たな暴露≠フ内実と欺瞞
 ブクロ派を「再生」させるなどという気はさらさらないにもかかわらず、相も変わらず「革共同・中核派の再生」などと謳っている白井執筆の第三小冊子。その欺瞞性は、およそ次の点にある。

 「月刊交流センター」に掲載するために、九七年三月に執筆されたとされている三角忠の「破防法闘争はなぜ勝利したか」という自筆の原稿や、九七年十二月に清水が執筆した、とされている「政治局文書」が暴露されている。だが、九四年三月に「清水、秋山、天田」らによってブクロ派から追放されたことを自認している白井が、これらの原稿や文書をいつ、どのようにして入手したのか、ということについては一切、明らかにしていない。このことは、この小冊子が、白井が追放されたあとに、ブクロ派の内部文書やナマ原稿を入手することができる立場の人物の協力があることを問わず語りにあらわしている。

 走狗・ブクロ派が、第一、第二小冊子を発行した白井にたいして、「権力に投降」し「権力の手先」となった「反革命腐敗分子」(八月二日付の「前進」第一九一九号)として「徹底断罪」していることからするならば、それはおのずと明らかとなる。それだけではない。白井がおのれとブクロ派の未来に絶望して金沢市内のホテルで焼身自殺をはかり(九八年四月二十七日)、警察権力に保護≠ウれ、それを契機として権力にそそのかされて第一、第二小冊子を発行したということを、わが同盟が的確に暴露しているにもかかわらず、しかし、それには一切対応していない。このことだけからでも、白井が、第一、第二小冊子と同様に、警察権力の庇護のもとで第三小冊子を発行したことが、明々白々ではないか。

 完全に権力の懐の中で、権力の意のままにまたもや小冊子を発行した白井。この文字通りのスパイは、今回の第三小冊子においていくつかのことを新たに暴露≠オている。
 @、ブクロ派独自の大衆運動の組織化がまったくできなくなった(無理してやると、首都圏では二〇名足らずの「学生」活動家と、一〇〇名そこそこの五十歳代、六十歳代のルンプロだけの裸の動員で、ブクロ派の崩壊的惨状を大衆的に自己暴露するものとなってしまう)なかで、彼らが「戦闘的人士」を表看板(衝立て)にしてデッチあげた「新安保ガイドラインと有事立法に反対する百万人署名運動」「労組交流センター」などの「事務局長」やら「代表運営委員」といった徒輩が、じつはブクロ派のおだて・だまし・たぶらかしオルグで一度は乗せられたものの、ほとんどは走狗集団の政治的利用主義に反発して、離反していることが明らかにされていること。しかも、このことをブクロ派は徹底的に隠蔽していること。

 A、「最も悪質な反革命分子」として追放された白井の、うらみ・つらみの類であったとしても、残存しているブクロ官僚どもの思想的腐敗と堕落をさらに暴露していること(別表を参照)。すなわち、年老いた残存ブクロ官僚どもは「黒田=カクマルコンプレックス」におちいっている(シミタケ)か、「女たらし」で没理論のまま生きている(高木)か、ボケ老人化し廃人となっていることも自覚できずに組織内で指導部面をしている(北小路)かの、いずれかに陥っている。

 他方、チビ官どもは、謀略の追認集団と化していることからして必然的なことであるが、敵階級のイデオローグを美化したり(金山)、戦後の三大鉄道謀略を否定したり(三角)、ブクロ派と自分の未来を女占い師に占ってもらったり(水谷)という具合に、まったくブクロ派としてのイデオロギー性も党派性も喪失してしまっている。また、権力によるブクロ派弾圧≠フ水先案内人になり下がったり(黒島)、「戦闘的人士」の政治的利用主義の立場におちいったり(角田)、組織指導すらできない無能な「書記長」役しか演じられなくなったり(天田)という有様。残存ブクロ派組織は、このような連中が身を寄せているだけのものにすぎない、ということ。

 B、「二重対峙・対カクマル戦」などということを叫び、「防衛戦争」を絶叫しつつも、それは、まったくの口先だけで「防衛戦争」の態勢は完全に崩れ(パターン化し)、その結果として、前進社に出入りしているチビ官どもは、すべて公安警察の手の平の上にのせられているということ。また、「カクマル批判」をやろうとするや、狭山闘争の「革命的伝統」も、「血債の思想」も、本多の「革命的暴力論」も忘却し、ブクロ派としての党派的イデオロギーすらなくなっていることをさらけだしてしまうということ。

 あらためていうまでもなく、白井が第三小冊子で暴露≠オたこれらの諸点は、わが同盟がすでに暴きだしてきたことのほんの一部に該当するにすぎない。端的に言えば、白井は、三冊にわたる小冊子において、陶山にかんしては「亡くなった優秀な同志たち」の一人としてしかふれていない。廃人と化した清水に代わってボロボロのブクロ派の頭目におしあげられ、延命のために「六月の転換」にふみきった陶山。今日の残存ブクロ派の路線なき路線≠スる「十九全総―二十全総路線」なるものの基本がこの陶山の「六月の転換」にあるということを、陶山本人のボケきった日常生活の全貌とともに、わが同盟は十全に暴きだしてきた。そして白井が第一、第二小冊子を発行した直後にも、あらためて陶山の所業について、白井が陶山についてふれることができない理由(わけ)とともに、ていねいに暴きだしておいた。ところが白井は、この第三小冊子においても、ついに陶山について具体的にふれることができず、わが同盟の暴露への反論≠ウえもなしえないのだ。

 とはいえ、ブクロ派の政治局のはしくれに名を連ねていた男が、わが同盟が暴露してきたことのほんの一部であるとはいえ、その的確さを認め、みずから暴露≠オたものは、ブクロ派の「炉心溶融」とでもいうべき惨状にほかならない。われわれは、ブクロ派解体闘争の完全勝利を、ここに確認することができる。
 三、断末魔のブクロ派に最後の断を下せ!
 ゴマカシと責任逃れに汲々とする白井

 だが、白井朗よ。おまえが「革共同・中核派・政治局員」のはしくれとして、謀略的殺人襲撃を追認してきた、という二十年間の過去(一九七四年から九四年まで)に、完全に頬っ被りして、残存ブクロ官僚どもの「スターリン主義的な腐敗」なるものを暴露したとしても、われわれは決して元「前進」編集長としてのおまえを許しはしない。事実、おまえは、三冊の小冊子で饒舌を弄していながらも、「二重対峙・対カクマル戦」を叫びつつわが革命的・戦闘的労働者や全学連の学生にたいする謀略的殺人襲撃を追認してきたことについては一切、口を噤(つぐ)んでいるではないか。数多くの謀略を追認してきた走狗・ブクロ派の「政治局員」の末席にいたことは消しようのない事実であるにもかかわらず、この血ぬられたブクロ派とは自分だけは無関係であったかのごとくおしだそうというのは、あまりに虫が良すぎるのではないか。

 「スターリン主義に転落した清水」の悪行の数々を暴露しながらも、シミタケの「対カクマル戦」なるものの指導内容についてはまったく言及せずに、逃げまわっている白井。この小心者の魂胆は、まったくミエミエである。この男は、「党組織のスターリン主義化にたいして断固たるたたかいを宣言」しながらも、この「党組織」が「スターリン主義化」ならざる走狗集団と化した最大の路線上の根拠については一切ふれようとしない。だが、権力内謀略グループが仕組んだ謀略的殺人襲撃をおのれの「戦果」であるなどと追認するために、「先制的内戦戦略」とか「革命軍戦略」とかという「戦略」を、白井を含めたブクロ官僚どもは掲げてきたはずである。そしてこの「戦略」によってブクロ派組織を「対カクマル戦争」という名のもとに謀略を追認する集団としての党組織として創り≠セしてきたのだ。にもかかわらず、ブクロ派の「党組織」を、この走狗の「血統書」でしかない「戦略」を抜かして論じているところに、白井の「訴え」のインチキ性が露わになっているのである。

 しかもそれだけではない。白井は、シミタケ一派の「ドロボー(『謀略そして強盗・略奪』)」を弾劾したとしても、現時点のブクロ派残党どもの組織的延命をかけた「大衆運動」路線にたいするなんの批判もおこなっていない。残存ブクロ官僚どもは、またぞろ「米日帝の朝鮮侵略戦争切迫情勢」というデタラメな「情勢分析」をデッチあげ、「米日帝の朝鮮侵略戦争阻止」などという空虚なシンボルを掲げて、姑息な生き残りをめざしている。そしてついに残存ブクロ派は、清水丈夫の署名を冠して「わが革共同は、『安保粉砕・日帝打倒』のスローガンを掲げることに踏みきったのだ。これは過渡的スローガンの提起として画期的だった。」(『清水丈夫選集・第二巻』「序文」二六頁)などと言いはじめた。オオッ。「安保粉砕・日帝打倒」が「過渡的スローガン」だったとは!? これほど亡き本多を愚弄する言辞はあるまい。にもかかわらずポンタの「墓守り」を任ずる白井は、このように本多を足蹴にする残存ブクロ派をなにひとつ批判しようともしない。ここに、白井の「訴え」なるものが、「ドロボー清水一派」にたいする、たんなるうらみ・つらみでしかないということがしめされているのだ。

 シミタケこと清水に追放され、五年もたった今日この時に、「革共同・中核派・政治局員」を名のり、「スターリン主義に転落した中核派批判」などという雑文集を発行した白井朗よ! おまえがやるべきことは、権力にそそのかされて、ブクロ派内で「革共同第四次分裂」をおこなうことでもなければ、そのための残存ブクロ官僚どもの腐敗の一端を小出しスタイルで暴露することでもない。

 謀略的殺人襲撃の追認集団の政治局員としての、決して消すことのできない罪業を日本労働者階級のまえに土下座し、自己批判し、そしてただちに自害することだけが、おまえに残された唯一の選択肢なのだ。さもなくば、炉心溶融をはじめた断末魔のブクロ派残党の官僚とともに、わが革命的プロレタリアートの怒りの鉄槌を受けるしかないであろう。
 第三小冊子≠ノ対応不能の残存ブクロ派

 ところで、このように白井が、廃人となったシミタケ「指導」下のブクロ派組織の総瓦解を九月冒頭から暴露しているにもかかわらず、今日この時(九月十九日)までなにひとつ具体的な対応をなしえないのが、断末魔の残存ブクロ官僚一派である。彼らは、白井が発行した第三小冊子が九月一日ごろから都内の書店に出まわっているにもかかわらず、かの小冊子が発行されてから十三日後に発行されたスパイ通信第一九二五号(九月二十日付)において、白井を断罪するためのただ一片の声明をだせないだけでなく、対外的には完全に沈黙≠決めこんでいる。だがこのことは、ブクロ派の炉心溶融に直面した残存官僚どもの声なき悲鳴≠ノほかならない。

 第一、第二小冊子が発行された直後には、白井の背後で「カクマル」が動いているのではないか、と疑心暗鬼になったシミタケは、白井にたいして「革共同をファシスト・カクマルに売り渡した」などと絶叫し、わが同盟の巨大な影に脅えきった心情をあらわしたのであった。けれども、第三小冊子の発行にたいしては、残存ブクロ官僚どもは、沈黙によるのりきりをはかっている。

 それ自体としては、ブクロ派の元政治局員による現指導部(清水、吉羽、水谷、宗像、中野、天田)へのうらみ・つらみ・ねたみにもとづくブクロ派組織の総瓦解的惨状の暴露であったとしても、これとほぼ同時に開始された権力の走狗・青解派の「相互絶滅戦」というかたちをとった殺人襲撃≠ニ「組織暴露合戦」にわがブクロ官僚どもは、走狗・ブクロ派の親分である国家権力内の謀略グループの狙いを感じとったに違いない。

 青解派・千木良派を装った青解派・山茂派の頭目・山田茂樹への襲撃(6・4)と山茂派の表事務所(「水無月社」)の代表・相川一郎への襲撃・殺戮(7・21)。他方、山茂派を装った千木良派の元幹部・長田(旧姓荻野)佳比古への襲撃・殺戮(7・2)。しかも、この青解両派の相互絶滅戦≠ェ、青解両派それぞれの「非公然組織」=権力のスパイ分子の暴露(千木良派は、山茂派の土肥和彦を、山茂派は千木良派の狭間嘉明を)としておこなわれはじめたこと。こうした事態に直面して、廃人のシミタケは権力内謀略グループの手で始末されはじめた権力の走狗・青解派の相互絶滅戦≠ニいう仮象をとった用済みスパイ集団の処分に、わが身を重ね合わせたのだ。白井の第三小冊子による組織暴露においてはなお、血ぬられた謀略追認集団の罪深い過去が暴露されていないことに脅え、したがって、やがて発行されるかも知れない第四小冊子≠フ内容に脅えているがゆえにこそ、ブクロ派としての態度表明ができないわけなのである。

 しかもそれだけではない。第三小冊子で暴露された残存ブクロ派の総瓦解的惨状は、自殺を図りながら結局はそれを貫徹することすらできなかった死に損ないのボケ老人の暴露≠ナあることからして、いまひとつ迫力に欠けるものではある。とはいえ、その程度の組織暴露であったとしても、権力に「投降」し権力の「手先」(シミタケの言辞)となった白井の暴露が、ほかならぬわが同盟のイデオロギー的=組織的闘いによって最後的解体寸前の走狗集団の惨状の一端を明らかにしているものであること、しかもそこに、この白井を操っている権力の意志を見てとらざるをえないからこそ、残存ブクロ官僚どもは、なにひとつ具体的に反論することができないのである。断末魔にあえぐブクロ派を、われわれは最後的に解体しなければならない。(九月十九日)
 白井の恨み・つらみの対象とされた残存ブクロ官僚
  ――暴露された思想的腐敗と堕落
清水 「黒田=カクマルの本の写経」とそこにしめされる「黒田=カクマルへのコンプレックス」。一片のメモによる官僚主義的な論議の封殺。
高木 本多理論やレーニン帝国主義論を読んだこともない水準。六〇年代は子育て、七〇年代は鴬谷大会戦の敗北を問われて逃亡、こうした事実を知っている「同志」へ「私怨を募らせる」ことしかできない組織的感覚(政治主義的感覚)。
天田 「非公然・非合法活動の重圧に耐えきれずに国外亡命をした小ブル腐敗分子」への「迎合的」な対応にしめされる無能さ。ブクロ派内の組織問題に「書記長」として対応することすらできない指導性=B
北小路 「六〇年安保闘争当時」の「手柄話」しかできないボケ老人ぶり。老人特有の小言しか語れなくなった没思想性。
金山 国家権力の側にたっている人物(高崎宗司)の著書(『検証・日韓会談』)を推薦し、あわてて自己批判するほど、イデオロギー性≠ェない。中核派の「百万人署名運動」の担当として、「事務局」に潜り込んではいるものの、「戦闘的人士」などを恫喝することしかできない思想水準。
三角 戦後の階級闘争のなかでは、あまねく知れわたっている「下山・三鷹・松川」の戦後の三大鉄道謀略事件を「権力者自身がフレームアップした事件ではない」と公言してはばからない階級的立場≠フ持ち主であること。

 「解党=変身への道をまさぐる末期ブクロ派を解体しつくせ!」を転載する。
 昨二〇〇二年、わが革共同革マル派は、国家権力の走狗集団・ブクロ=中核派の残骸を最後的に一掃するためのイデオロギー的=組織的闘いを強力に推進してきた。このわが同盟の闘いに決定的に追いつめられたブクロ派は、もはや、骨組みもバラバラに崩れ消滅寸前のアバラ家と化した。ことここにいたって、残存ブクロ官僚どもは、もはやこれまでという絶望感におしひしがれながら、断末魔のアガキを見せている。

 残存ブクロ派の頭目・シミタケこと清水丈夫は、ブクロ派から脱落したスパイ分子=白井朗と角田富夫をあいついで襲撃する挙にうってでた。このかん、白井・角田・小西誠らの脱落スパイ分子どもは、ブクロ派残党にたいして、「中核派は宮崎学氏問題について態度表明しなければならない」、「態度表明がない場合は、新たな批判(=暴露)を開始する」などと恫喝≠かけ続けてきた。この恫喝に動揺し焦りに駆られたシミタケは、直接的には、白井・角田・小西らの「口封じ」を狙って連続襲撃を強行したのだ。この事態こそは、白井らを背後から操っている国家権力内謀略グループによってスパイたるおのれが<使い捨て処分>に付されることへの恐怖を募らせたシミタケが、自暴自棄のあげくにみずからの手でブクロ派そのものを解体処分することにのりだした、ということを意味するものにほかならない。ここに、われわれは、わが同盟の<謀略粉砕・走狗一掃>の闘いの完全勝利を誇らしく確認することができる(本紙第一七五四号勝田論文参照)。

 ブクロ派最後の議長≠ノなることが確実となったシミタケと無能「書記長」ダメダ(天田三紀夫)に率いられたブクロ派残党は、もはや臨終寸前である。数々の悪行に手を染めてきた権力の走狗にたいしては、われわれは、それにふさわしい死に方を強制するのみである。断末魔の叫びをあげる残存ブクロ派を最後的に解体しつくすために、シミタケによるブクロ派解散宣言≠ニしての意味をもつ「革共同政治局1・1アピール」を壊滅的に批判しつくしてやろうではないか。〔引用は、スパイ通信新年号=第二〇八四号の「1・1アピール」および同第二〇八〇号のダメダ署名「新たな『激動の7ヵ月』へ突入せよ」論文などより〕






(私論.私見)