すでにブクロ派から脱落して久しく、おのれとブクロ派の未来に絶望して金沢市内のホテルで焼身自殺をはかり(昨九八年四月二十七日)、警察権力に保護≠ウれた元「前進」編集長・山村克こと白井朗。すでに完全に脱け殻と化していながらも警察権力にヒモをつけられたこの男が、突如として「革共同・中核派の危機に際して全同志諸君・全人民に訴える」と題する「告発」の小冊子(二分冊)を発行した。
もちろんその内容たるや、おのれを「政治局会議から排除」したばかりか「六〇歳の夫婦」の「住居を破壊して住む権利を奪う」ことさえした「清水・秋山・高木・天田ら」にたいするうらみ・つらみむきだしの罵詈雑言を書きなぐったものでしかなく、「分派闘争」などとはおよそ無縁のものである。それは、権力の庇護のもとで、権力にそそのかされるままに、白井が知る限りでのブクロ派組織の実態を暴露≠オたものにほかならない。もっとも、白井は一切をおのれに都合よく描きだしているだけではなく、ブクロ官僚どもの醜悪な対立と驚くべき腐敗にかんするわが同盟の暴露の的確さを認めるわけにはいかないという権力の意と白井じしんの姑息な思惑にもとづいて、種々の加工を施してもいる。とはいえ、この加工は見えすいているのであって、かつてブクロ派政治局員であった白井が、オブラートをかぶせながらではあれ、ついにブクロ派の実態についてのわが同盟の分析を事実として認めたのである。
われわれは、白井が、この「告発」において加工しながら書きなぐっている「中核派政治局の実態」なるもの、その真相を、彼の「告発」のインチキ性とともにここに暴露しておくことにする。 伊木喬 |
一、元「前進」編集長による「ドロボー清水」への糾弾 |
「革共同・中核派・政治局員」などといまだに自称する白井朗(山村克)署名の「革共同・中核派の危機に際して全同志諸君・全人民に訴える」と題した二分冊の小冊子が七月一日付で発刊された。その第一分冊は、「ドロボー清水丈夫による『資本論』否認」というサブタイトルつきの「仲山『資本論の研究』批判」と題したものであり、第二分冊は、「ドロボー清水丈夫による反帝・反スタの全面否定」というサブタイトルつきの「自称十九全総批判」と題したものである。(以下、断りなき引用は、この小冊子からのものとする。)〔また七月十五日付で白井朗著『二〇世紀の民族と革命』(社会評論社刊)も発刊された。これの批判は別稿に譲る。〕
白井じしんの言からしても一九九二年末に「政治局から排除」され、それ以後、ブクロ派から追放されている(あらかじめ暴露しておけば、白井は八〇年代にすでに政治局からはおろされている)にもかかわらず、六二年末の「政治局内の本多フラクション」の一員であったことと、六六年の「革共同三回大会選出の全国委員・政治局員」であったという、ただこのことだけにしがみつき、今日、突如としてブクロ派の「政治局員」を自称してたちあらわれたのが、元「前進」編集長であった白井朗である。「革共同・中核派・政治局員」をいまだに自称するこの男は、老いの繰り言°Xしくこう呟いている。
「最初に或る事件を同志の皆さんにお知らせする。一九九四年三月二一日午後九時過ぎ、私たち夫婦は自分のアジトに帰り着いた。ところが驚くべきことに、アジトの部屋はガランドウになっていた。(中略)そしてガランドウになった部屋の机の上に特大のバールがひとつ、寒々と置かれていた。」「信じられないことだが、味方であるはずの清水丈夫・秋山勝行が私兵を送り込んで私たち夫婦の留守のあいだに知的財産を略奪したのだ」と。
このように「革共同・中核派の危機」を「全同志諸君」と「全人民」に訴えるなどと大見得を切ってはいるものの、その出発点は、「私たち夫婦のアジト」の破壊と「知的財産」の略奪にたいする恨みと憎しみでしかない。しかも、「われわれ」とか「私たち」とかと代名詞が使用されてはいるが、その実態は「私たち六〇歳の夫婦」の「闘争」でしかない。これを「分派活動」などと呼ぶのは完全にマンガであるが、ともあれ白井によれば、「分派活動を先におこなったのは清水」なのだそうである。「彼らを打倒することが、中核派再建にとってまず必要である」と主張しているこの御仁は、「清水一派」の「党内民主主義を否認した討論否認」だの、「分派を反レーニン主義だ」とする「スターリン主義的規律」だのを「弾劾」し「本多書記長の精神と理論にたち返る」ことを「誓う」と言う。
だがもちろん、権力の庇護下にある白井は「分派闘争」をやる気など毛頭ないのであって、この小冊子においても、そのほぼすべてが、清水や高木にたいするうらみ・つらみにもとづく罵詈雑言で埋めつくされている。このような老人性の繰り言≠フ類には対応する必要はないが、白井がブクロ派の「危機」などと言いながら書きなぐっているものの内実については、断固として暴露しておかなければならない。 |
白井が暴露≠オたブクロ派の「危機」なるもの |
第一に、白井は、残存ブクロ官僚一派の惨状を、もちろん現実とはズラすかたちで加工して、暴露≠オている。ブクロ派の「十九全総」(九五年秋)において清水丈夫が「議長」に選出されたのは「党規約を無視」している(「議長、議長代行というような職名は規約には存在しない」)などといいながら、白井は、「議長・清水丈夫」が、九二年春に「高血圧を悪化し眼底出血を発病し」、それ以降、「動脈硬化で大脳の活動に障害が起き」、「精神的退化」によって、「もはや政治活動に耐えられる状態ではない」ということを綿々と書きつらねているのだ。しかも、「非合法生活三〇年のボケ」とも重なった清水の「破壊」された「大脳」のゆえに、「政治活動」がおこなえなくなった清水の「代行」として、九二年五月に秋山勝行が「私〔白井〕を排除した功労者として」「賞賛」されつつ「指名」されたこと。だが、この秋山が、「代行の範囲を越えて清水の権力復帰を妨げるほど権力を固めることを恐れた」清水によってその後粛清されたこと。さらに、「自称十九全総で清水議長の議長代行の地位に任命されたのが悪名高い高木徹」であること。等々というようなブクロ派内の人事体制を、白井は、劣等意識まるだしの老人のひがみと、うらみ、つらみをむきだしにして、暴露≠オているのである。 |
そしてさらに白井は、ブクロ派の政治局員を自称するものどもの実態についてもことこまかに暴露≠オている。たとえばこうである。「自称十九全総」で「議長代行」となった高木徹の場合。 |
@「対カクマル戦争開始時に、一九七三年九・一七鴬谷戦闘で大敗北を喫して、責任を問われて政治局から解任された人物。」「敵カクマルの面前でマヌケ千万にも当日の戦術会議を開いているあいだに、カクマルの襲撃を受けて敗北。」
A「(七三年から)約十年たって復帰したのちにも一九八三年には『プラチナ』と呼ばれる事件で指導部の機密文書をすべてカクマルに奪われる失敗を演じた。」
B「この時に彼は或る女性〔ブクロ派の諸戦線担当の女手配師・木下成子〕と浮気をしてホテルから出てきた瞬間をカクマルに写真に撮られて『解放』紙に掲載されたのだが、これについては未だに組織にはなんら報告も釈明もしていない。」
C「六〇年安保闘争以来、党組織のメンバーがながいあいだたいせつにして人間関係を育ててきたシンパを、一瞬にして一〇〇〇名も階級敵に売り渡した事実の深刻な重みに、彼はまったく感受性が働かない。」
D「高木はマルクス主義が人間解放の思想、個の解放の思想であるその原点を、一度たりとも認識したことが無い。……彼はかつて筆者〔白井〕に『一九五九年にブントに入る時にもうこれで勉強から解放されると快哉を叫んで英語辞書を川に投げ捨てた。いい気持だった』と得々と語ったが、反知性主義の面目躍如である。」 |
九二年五月に清水の代行として指名されたが、わずか数ヵ月後に解任された秋山勝行の場合。 |
@「秋山は対カクマル戦争の開始以来二〇年間読書したことのない人間……。」
A「秋山は入管・部落などの七〇年七・七以来のいわゆる諸戦線の理論と政策とについて一番不案内な、無理論の人……。」
B「彼は上記の三つの理論問題について自分自身の見解がゼロで何も理解していないクセに、トップの権力の力を誇示しようとして……。」 |
もちろん、白井によるこのような暴露≠ノは、権力の意を受けるとともに白井じしんのうらみ・つらみもからんでいることによって様ざまな加工がほどこされている。このことについては、後述する。
第二に、これもその真偽のほどはともかくとして、白井は、「一九九〇年以来、私と清水とのあいだに起きた理論的対立」なるものを、ことさら強調している。だがそれは、以下にみるように、ブクロ派の現在の路線とはなんの関係もないものでしかない。
@「私の民族論文の刊行をめぐって」。八七年から八九年にかけて、「私は」「『七・七』を理論的に深化しプロレタリア国際主義を具体的に明確にするために、抑圧民族の民族主義と被抑圧民族の民族主義との区別(前者の反動性と後者の進歩性・革命性)をレーニンの『グルジアのスターリン批判』に習って明確にし、アジアの民族解放闘争・アジア革命のロシア革命〜一九二〇年代にかけての素晴らしい可能性を世界革命の現実性の具体的な内容として明確にするために執筆した」。〔なお、これが小冊子と同時期に社会評論社から発刊された『二〇世紀の民族と革命』の素原稿である。〕
ところが清水は、九〇年夏に、「カクマルの『中核派の民族主義。民族より階級が優越する』『階級・階級』というケチツケにいつのまにか精神的に屈服」し、「私にたいして『民族主義』というカクマルと同じ非難をおこなうにいたった」と、白井はのたまっている。
A一九九〇年春に「前進」に五回にわたって連載された「大激動に向かうソ連」という鳥飼修造署名の論文にたいして、この論文は「従来の革共同・中核派のソ連スターリン主義を根底的に否定する反帝・反スターリン主義の立場を目茶苦茶に崩してしまい、あろうことかスターリン主義を肯定」している、と「私は鋭く批判」した。
だが清水は、この鳥飼論文を清水が黒島善輝を「監督して書かせた」ことから、「私」の批判にたいして「侮辱だ」と「一言のみ見解を述べた」にすぎなかった、と白井はいう。
また白井は、九一年十二月に発行された「古沢俊朗」署名の『ソ連エリツィン体制と第二革命の展望』(前進社刊)も黒島が執筆したものだと暴露≠オつつ、これにたいして「私」が「ソ連崩壊を実質的に何ひとつ分析していず、朝日新聞をズラズラ写した事実の羅列と、軽薄なソ連学者・下斗米伸夫と同じレベル」と批判したが、「ソ連崩壊という歴史的な事件に象の皮膚感覚で事実上崩壊を無視して」いた「清水=黒島」は、この批判をまったく受けつけなかった、とのことである。
Bさらに白井は、『「資本論」の研究』(上巻は八八年十二月、下巻は八九年十二月発行)の著者「仲山良介」もまた黒島であると暴露≠オつつ、その内容を「九二年春の政治局会議で徹底的に批判」したという。清水が「監修」した『「資本論」の研究』は、「黒田=カクマルが宇野弘蔵を批判しているから、負けず劣らず自分たちも宇野弘蔵をやっつけなければならない」ということが、その「政治的動機」であり、したがってその内容は「黒田が宇野経を理解していない」と批判するだけでは不十分であり、そもそも「宇野経済学を批判・否定することが黒田批判の道」とするものでしかなく、それは「黒田=カクマル(への)屈服」である、と批判したなどと大見得を切っているのである。 |
ところで第三に、白井は、一九六二年の三全総直後の学対部員・清水丈夫(当時)が「カクマルに味方」したという秘話≠ノついても仰々しく暴露≠オている。「清水は一九六二年秋革共同三全総ののち黒田寛一が分裂策動を開始したときその忠実な尖兵を果たした。いまや真実を語る秋がきた」などと大仰にかまえつつ、白井は、その内実を次のように明らかにしている。すなわち「三全総の約一ヵ月後清水は、本多書記長はじめ政治局員にたいする黒田の誹謗・中傷の文書を当時彼が責任者だった学生組織にばらまくという姑息な分裂策動をおこなった。彼は革共同の学生組織を黒田派に組織した張本人である。この策動にたいして六二年十月末の政治局会議で本多書記長以下全員の怒りの批判が爆発し、彼は真っ青になって謝罪した。……清水はカクマルの革共同からの分裂の際、真先にカクマルに味方した人間である。これが歴史の真実である」と。
このように、清水憎し≠フ余り、本多延嘉が六二年十月末の段階で「本多フラクション(本多、野島、陶山、北川、白井の五名)」を秘密裡に発足させ、それが「中核派の出発点」となったことまで白井は自己暴露しているわけだ。およそ以上が、白井がことあらためて暴露したブクロ派組織の「危機」という名の惨状にほかならない。 |
二、ブクロ派の中枢分裂を加工を施して暴露 |
今日のブクロ=中核派の「出発点」を築いたとされている一九六二年十月末に結成された「政治局内の本多フラクション」(本多、野島、陶山、北川、白井)の一員であったということを自己の唯一にして最高の勲章≠ニしている白井朗。この男の名で発行された二冊の小冊子において、確かに白井は、「私にたいする謀略・略奪・会議出席阻止」をはかった「清水・秋山・高木・天田」らの「スターリン主義的に変質した指導部」にたいするうらみつらみを書きなぐり、彼らの悪業≠ノついては老人性の繰り言≠フように暴露している。だが、「労働運動路線」という名の大衆運動路線≠提起することによって組織的延命をはかろうとした一九八三年以降残存ブクロ派組織の実質的な「書記長」を務めてきた陶山健一(岸本健一、九七年一月死亡)の名前も出てこなければ、八〇年代末から肝硬変などの内臓失患で入退院をくりかえしていた陶山にかわって、生き残りのブクロ官僚どもを統轄していた吉羽忠のそれもでてこない。
それだけではない。わが同盟の走狗集団解体のためのイデオロギー的=組織的闘いに追いつめられ、労働戦線をはじめあらゆる戦線から追放された残存ブクロ派、この崩壊した組織がなお存在しているかのように社会的にアピールすることを役目としてはいるが、生気がなく憔悴しきって醜態をさらすことしかできないブクロ派のスポークスマン*k小路敏もまったく登場≠オない。また、政治集会のたびに、無内容な発言と、ブクロ派組織の党史≠ノついての無知をさらけだすような発言を繰りかえすことしかできない天田三紀夫にかわって政治集会の基調報告を押しつけられたものの、みずからもまた、「七・七自己批判」についての理論的混乱を続けそれをわが同盟が的確にとらえ批判したことによって、つねに混迷している水谷保孝についても、まったくふれていない。
白井じしんの言からすれば「政治局会議から排除」された九二年末以後の残存ブクロ派のなかで、年老いた藤原慶久や北小路敏にかわって、「反戦共同行動委員会」とか「労組交流センター」などの仮面をつけて残存ブクロ派団子を引きまわす役割についた甘糟義信、金山克己らについて、この小冊子でふれていないのは当然だとしても、白井は、一九八〇年代から九〇年代前半の生きた<uクロ派組織の実態については、まったく暴露していない。たとえ、時期をズラしたりしてゴマカそうとしても、白井が、八〇年代においてすでに政治局から「排除」され、ブクロ派中央から「前進社」に幽閉されていたということは隠しようがないのである。 |
そもそも白井は、昨年四月二十七日に金沢市内のホテルで、ブクロ派と自己の未来に絶望し、未遂に終ったとはいえ焼身自殺をはかり、偽名で宿泊したということが発覚し警察権力に逮捕されたのであった。そこで、警察権力にヒモをつけられネジをまかれたこの男は、権力の意を受けて、ブクロ派の実態とは意図的にズラしたかたちで、それを暴露する役割を担わされたのであろう。すなわち、白井から、白井が知っている限りでのブクロ派の現状をあらいざらい聞いた権力はブクロ官僚どもの対立および失脚、そして脱落・逃亡についてのわが同盟の暴露の的確さと正確さに驚愕し、これをうち消すために、白井に、現実を加工するかたちでの暴露≠指示したにちがいないのである。
とはいえ、その加工は透けて見えるのであり、「前進社」に幽閉されたりしてきたがゆえにいっそう昂じた清水や高木にたいする反発心やひがみをつのらせて、白井が書きなぐっていることのなかに、ことの真相の一端が明らかにされているといってよい。では、その、ことの真相の一端とはなにか? |
正鵠を射たわが同盟の暴露 |
白井の繰り言は、たとえ種々の加工が施されているのだとしても、われわれが暴露してきたブクロ派の中枢分裂を端的に証明するものとなっている。その時期、理論的および実体的根拠については、わが同盟のこれまでの暴露を意識して、姑息なかたちでズラし、またアイマイにするという意図のもとに叙述しているのだとはいえ、白井は、その核心点においては、われわれの暴露の的確さを認めてしまっているのである。
白井によれば、一九九一年末の「ソ連スターリン主義の崩壊の原因」を、「自滅自壊」ではなく、「アメリカ・レーガンの圧迫」に求めるという錯乱した分析は、「政治学の問題」ではなく、「清水の精神分析の問題」であり、また、清水のこの「理論」的混乱と錯乱は、「新聞を読んでいない」し、また「読んでも理解できない」ほどに「動脈硬化(症)」の病状が悪化し、それは「もはや精神分析の次元の問題」なのだそうである。
九二年春のブクロ派政治局会議で、清水が監督して「仲山良介」=黒島善輝に書かせた『「資本論」の研究』を白井が批判したことで、清水が「怒りを激発させ」、その四十日後に、「元来の高血圧を悪化」させ「眼底出血」により倒れ、「生理学的な動脈硬化」により「政治活動に耐えられる状態」ではなくなった、と白井は称している。けれども「前進」のゴミ記事を執筆するぐらいの能力しかもっていない――それもなかなか書けない――ボケ老人の「批判」ごときで、戦争狂いのシミタケが動じるはずはなく、その高血圧症を要因とした動脈硬化症が悪化するわけがない。白井じしんが言っているように、「カクマルへの年来の劣等感コンプレックス」によって、したがって、わが同盟のブクロ派の残存官僚どもにたいする理論的批判にまったく反論できないことこそが、清水を動揺させ、それゆえの動脈硬化症の悪化が彼の脳の神経組織そのものにダメージを与え、持病の被害妄想などの精神的病いを高じさせたのである。
実際、一九九一年八月のゴルバチョフ政権内反ゴルバチョフ派のクーデタの自壊と、帝国主義権力者どもおよびソビエト・ブルジョアどもに全面的にテコ入れされたエリツィン一派による逆クーデタの勝利。このソ連邦の劇的な崩壊に度肝を抜かれただけではなく、わが被害妄想患者はこのソ連情勢についての現実分析をまったくおこなうことなく、エリツィンによる権力の掌握をば、なんと「自由を求める民衆の八月革命」などと全面的に賛美し、「エリツィンをのりこえる第二革命」を、というようなシンボルをうちだした。だがこの驚くべきシンボルのデタラメさをわが同盟に壊滅的に批判され、またしても精神錯乱におちいったのである。
こうして、気息奄々の陶山が頭目へとおしあげられ、この陶山が組織の内部では九一年五月に提起していた「六月の挑戦」(その後「五月テーゼ」などと言いかえているのであるが)などというインチキなシンボルを、ブクロ派は九一年十二月になってから、オズオズと公表するにいたったのであった。ところが白井は、このことを一言も語らない。そもそもこの二分冊の小冊子において陶山の名前が(六二年の「本多フラクション」の一員として以外には)一度も出てこないということ自体が異様であり、この一点だけからしても、白井の今回の暴露≠フ恣意性は明白なのである。それはなぜか? わが同盟の暴露の正しさを認めるわけにはいかないからか、それとも八〇年代以降「政治局」からおろされており、政治局がどうなっているのかを具体的には知らされていないからなのか、おそらくはその両方であろう。
それはともかく、白井がはしなくも暴露したように、「ブント的政治主義者・清水丈夫」は、「七一年以来の対カクマル戦争の長期にわたる過程」で、「黒田=カクマルへの年来の劣等感コンプレックスが頭をもたげた」だけではなく、ブクロ官僚一派を解体するわが同盟の闘争の巨大な前進に脅え、「『前進』編集局員約三〇名の人件費が年間二〇〇〇万円にすぎない」というのに、「非合法態勢と称して清水と高木二人だけで年間八千万円も消費(住居と脈管――車・ガソリン・ドライバーの費用)」している始末。それでもなお「カクマル」の攻撃に脅え、ついに動脈硬化症をも併発し「精神分析の次元」の病いを患ったのだ。
そもそも、清水の精神的病いは、九二年に突然発病したわけではない。わが同盟が、ブクロ派中央武装勢力の拠点を東西四ヵ所にわたって粉砕(七五年十月二十七日)し、同時に「現代戦争テーゼ」なるものにたいして壊滅的な批判をあびせた。このようなわが同盟のイデオロギー的=組織的闘いにうちのめされ、政治的にも軍事的にも完全にたたき伏せられた清水は、ついに失脚し、精神的に錯乱した(一九七九年)のである。この男は、その後、精神病院の入退院をくりかえしていたにもかかわらず、この病いが癒えぬまま、権力内謀略グループに尻をたたかれ、高木一派の<六月クーデタ>(八四年)――「革命的議会主義」を掲げた陶山一派を「杉並都議選決戦」主義と批判し「革命的内乱・内戦」を突如として提起――の路線的助言者として登場(八五年)した(ブクロ版ニセ『共産主義者』第六十四号の磐井喬之署名の駄文)。だが、これをただちにわが同盟が批判するやたちまち精神病院に逃げ込み、権力内謀略グループが鉄道労働者の幹部を襲撃し(八八年三月三日)、その追認をブクロ派に迫るや、またまた復帰≠オて、すでにわが同盟に壊滅的に批判しつくされている「現代戦争テーゼ」なるものを再び持ちだし(八八年)、「朝鮮侵略へのすさまじい衝動」などとがなりたてたのであった。ところが、わが同盟がこのシミタケの役割を暴露し、「朝鮮侵略戦争の切迫」なるものの妄想性を壊滅的に批判したことによって、清水は一挙に精神的病いを高じさせたのである。
このように、清水は、権力内謀略グループにネジをまかれて「JR総連・カクマル解体」などとわめきたてるときは誇大妄想におちいり、わが同盟のイデオロギー的=組織的闘いにうちのめされると被害妄想におちいる。この男の行動形態は、ソ連共産党書記長・スターリンの末期の病名と同じパラノイヤという精神疾患そのものである。シミタケのこの精神疾患は、「対カクマル戦争」なるものの完敗と、それによるブクロ派の組織的崩壊、また、権力内謀略グループの走狗集団としての役割をわが同盟が暴露し、延命のための運動上および組織上の路線をわれわれが壊滅的に批判したことによって必然化したのである。 |
わが同盟に打倒された野島、高木 |
白井の言によれば、一九九五年秋に開催されたとされているブクロ派の「十九全総」なるものは、「出席した人よりも出席しなかった指導者が問題になる会議」ということになる。すなわち、欠席した政治局員は、「一九八七年にモラル的理由によって実質的に脱落」した野島、高血圧症による眼底出血によって倒れた清水の「代行」に指名され(九二年五月)ながら「戦術的には独自性をもって清水の思惑をこえてしまう点に恐怖を感じた」清水によって「クーデタ式に排除」された秋山、そして、「創立以来の政治局員である私」の三人だそうである。けれども白井は、九二年末に政治局から排除された「私」については饒舌だが、秋山については僅か数行明らかにしているにすぎず、そして、野島三郎については先の一言で済ましている。
ここで決定的なことは、野島三郎がすでにブクロ派から脱落していることを認めたということである。わが同盟が暴露してきたように本多延嘉をわれわれが打倒した(一九七五年)あと五ヵ年間にわたってブクロ官僚一派の書記長としてその役割を担ってきた野島三郎は、野島三郎(木下たかあき)直轄のブクロ版『共産主義者』編集局兼中央出版局の秘密アジト(茨城県古河市)を爆砕したわが同盟の闘いによって完全に追いつめられ、一九八〇年三月に「カクマル=現代の悪魔」という断末魔の悲鳴をあげながら、ブクロ派から脱落・逃亡したのであった。
ところが白井は、野島の脱落を「一九八七年」とし、またその理由について「モラル的理由によって」ということ以上は何も言及してはいない。このように彼が、野島が脱落した時期と、その理由を意図的にズラしているのは一九八〇年に公にされた野島一派の意見書(「革共同全国委員会への公開意見書」)を「たった二人の腐敗分子」のものにみせかけるために、この欺瞞的なキャンペーンに激しく動揺しながらもブクロ官僚一派の指導部として北小路や高木とともに加わったという自己の恥ずべき過去を隠蔽するためであろう。
ところで、ブクロ派の「第十九全総」なるものにおいて「清水が何かしたら自分は事の是非は問わず無条件に追随」するようなシミタケの「茶坊主」でしかない「品性下劣な人物」としての高木徹が「議長代行」となった、と白井はいう。その真偽のほどはともかくとして、ブクロ派のルンプロ・学生軍団をわが同盟が一瞬にして軍事的に粉砕した(一九七三年九月十七日の鴬谷戦闘)ことによって、ブクロ派部隊の現場責任者であった高木が「大敗北を喫して、責任を問われて政治局から解任された」こと、また、「約十年後に復帰」したもののその直後に高木が、ブクロ官僚一派の最高機密文書をわが同盟にすべて奪取されたことなどを、白井は、実に素直に認めている。
こうした事実は、わが同盟がその都度、的確に暴露してきたものであった。ブクロ官僚は、彼らの秘密アジトやルンプロ・学生軍団がわが同盟に摘発・粉砕された責任を問われては解任され、そして戦線逃亡し、また、サルベージ・オルグされては復活するというサイクルをくりかえしてきたといえる。
実際、すでに明らかにしてきたような、清水や野島や高木だけではない。わが同盟が二度にわたる慈悲深い鉄槌を下すたびに、ブクロ官僚一派から契約離党しては、大衆運動主義者としての夢が忘れられず、ブクロ派組織に舞い戻り、そしてその路線の観念性をわが同盟が壊滅的に批判するや、またそれを物質的に突きつけられ、反革命スパイ集団の「最高指導部」としての恥多き生涯を閉じた陶山健一(九七年一月十四日)。権力の走狗集団としての役割を担わせられて、ブクロ官僚一派の頭目として権力内謀略グループに担ぎだされては、わが同盟がイデオロギー的批判と彼らの「非公然活動」ならぬ党生活≠フ腐敗した実態を暴露したことによって失脚と脱落をくりかえしてきた北小路敏。
ところが、ブクロ派はこれまで、彼らの軍事拠点や秘密アジトをわが同盟が粉砕し、また、うちだした組織的延命のための路線をイデオロギー的に批判したことに追いつめられて、清水や野島などの官僚どもがダウンしたということを一度として認めたことはない。われわれにイデオロギー的=組織的に打ちのめされ、ブクロ派内の党内闘争のあげく、失脚し、脱落したことを、その理論的必然とともにわが同盟が暴露しても、彼らは沈黙≠もってのりきろうとしてきたのである。白井の暴露≠ヘ、過去二十年間にわたるブクロ官僚どもの居直りとのりきりとそのインチキ性を白日のもとにさらけだすものである。
白井が発行した小冊子をつうじて「告発」されているブクロ官僚一派の中枢は、「指導部の重責に耐えうる健康をもたない」精神疾患を患っている清水と、指導部内で論争の対象となっている『「資本論」の研究』という本すら自分では検討せず、「二年後に読んだら正しいと思うだろう」と、平然とうそぶくような秋山らによって構成されたかと思えば、「秋山がトップの時には、会議で秋山が笑うのを見てから自分も笑うという自主性の欠如した」高木や、「実力も人望も見識もない」書記長・天田らによってなりたっていることになる。
しかも、このような手合とともに、「政治局」の会議に参加していながらも、政治局員として何ひとつ闘争しない「中核派創立以来の政治局員」によって構成されてきたのが、国家権力の走狗集団の中枢にほかならない。そしてまた、たとえ脱落したとはいえ、「同じ組織で三〇年以上もともに活動してきた」同志を、かくも簡単に「告発」することができるほど、ブクロ派組織は総瓦解しているのである。 |
三、「本多書記長」の墓守り白井の末路 |
国家権力の走狗集団の指導部であったにもかかわらず、謀略襲撃などをみずからの「戦果」として追認してきたという自己にとって都合の悪いことには一切口を噤んだまま、残存ブクロ官僚にたいするうらみ・つらみを書き綴った白井朗。「人間の尊厳」や「人格の尊厳」というような、ブルジョア的理念を至高のものと観念しているこの男が、このような立場からブクロ派指導部の崩壊的惨状を暴露したとしても、廃人の清水や吉羽らの残存官僚どもにとってはカエルの面に小便≠ナあり、おそらく彼らは、組織の外にたいしては沈黙をもってのりきろうとするであろう。そして彼らの内部にたいしては「山村の裏切り的戦線逃亡」などと排外主義的に断罪するにちがいない。
「政治局会議を開催する」からといって天田・秋山に呼びだされ、その間に本やノートを略奪されて、それを「ドロボー清水」として女々しく弾劾している白井よ! こうした徒輩を「卑怯・卑劣・姑息・精神の荒廃。愚かしさ・傲慢・自惚れ・恥知らず。無思想・無節操・無責任・モラル喪失……」などと口汚く罵る白井よ! 一九六三年八月十四日に本多、野島、北川、陶山、清水、高木らとともに、同志黒田宅におしかけ、同志黒田を軟禁し、書物や未発表の古い論文原稿・手紙・ノートなどを持ち去ったという自己の犯罪的過去について忘れてはいないはずである。このことに頬被りするなどということは、断じて許すわけにはいかない。そして、ブクロ官僚どもが「カクマルの脳天にバールを」と絶叫しはじめた直後の一九七四年に、黒田宅に放火し、その焼け跡に、包帯を巻いたバールを一本遺棄するという蛮行をはたらいたことを、知らないはずはない。「対カクマル戦」についてゆけずにほどなくブクロ派からズリ落ちたのだとしても、白井よ、お前もまた同罪なのだ。
たしかに本多延嘉が存命中の白井朗ならぬ山村克は、没理論と筆の遅さのゆえに、ポンタにいびられ、あるいは恫喝されながらも、ひたすらポンタに盲従し、ブクロ官僚一派の末席に身をかがめていただけの存在であったかも知れない。またわが同盟が「現代の黒百人組」の頭目・本多に階級的鉄槌をくだしたことによって、盲従すべき対象を喪った白井は、『本多著作選』を編集し、「本多精神」の殉教者≠ニして、ブクロ派組織に身を寄せていただけかも知れない。だが一九五九年八月から一九六九年まで自称「前進」編集長を務め、その後も「前進」の編集にたずさわり、謀略襲撃や謀略ゲリラを追認するために働き、わが同盟と革命的左翼にたいする誹謗・中傷をバラまいてきたという白井の過去が免罪されるわけではない。
「ドロボー清水」にたいして、「左翼スターリン主義に先祖帰りした」などとのたまっているが、その実、白井じしんが思想的には左翼スターリン主義そのものであった。権力のスパイやマキャベリストどもが群棲するブクロ派組織のなかで、ともに革マルコンプレックスに悩まされ続けてきたのが清水と白井である。もっとも両者のブクロ官僚としての生き様≠ヘもちろん異なる。ポンタ亡きあとのシミタケが、精神病院に入退院を繰りかえしつつクラウゼヴィッツの『戦争論』や毛沢東の「持久戦論」などをアンチョコにして、「二重対峙・対カクマル戦」を叫び、謀略追認のためのリーダーシップをとってきたのにたいして、白井は、清水や高木や陶山らの政治動物にたいする劣等感と反発を引きずりつつ、しかし内心は、ソ連分析と経済学についてはオレは中核派の第一人者≠セなどという自負心をもって、本多の位牌を抱いてスパイ集団の片隅で細ぼそと余生を送ってきたのであった。
実際、白井が清水らの残存ブクロ官僚一派の罪状をあげつらう場合の基準は、ほかでもないポンタの遺訓そのものである。すなわち、九四年三月二十一日の私の「知的財産」(「白痴的財産」?)のすべてを奪った清水の「極道以下」の行動は、「人間的な要素、人間らしい匂いがひとかけらもな」いものであり、それは「本多書記長以来のかつての優れた理論と思想とをすべて滅ぼしつつある」行動であるとされる。わがポンタがいかほどの「優れた理論」と「思想」とを持っていたか、ということについては、ここでは問わない。ポンタの「政治力」と時としてみせる彼の政治技術に、つまり、ポンタのケチな人間操縦術に踊らされてきたことから自己脱皮することができなかったポンタの茶坊主よろしく、白井は、「本多書記長」の遺訓を盾に、「ドロボー清水」の「謀略・略奪」を弾劾しているわけだ。白井よ。「略奪という方法自体カクマルが発明したのだ」などと歴史の捏造と偽造に精をだすまえに、一九六三年八月十四日に同志黒田宅へ押し入り書物や原稿やノートを略奪することを反スターリン主義運動において発見≠オたことこそを想起し、反省すべきではないのか。
また、わがポンタの茶坊主は、清水の、いまにはじまったわけではない政治技術主義まる出しの「会議指導」なるものについても、わざわざ本多延嘉のシミタケ批判を引っ張りだすために、「十九全総」冒頭の場面を暴露してみせている。すなわち、白井が「民族主義者」であるという批判を組織内に貫徹するために、清水は「十九全総」の参加者全員に「民族問題」についての作文の提出を求めたそうである。ところが、天田だけがこの作文を未提出だったことを見た高木は、清水に指示されたとおりに、「十九全総」の場で天田をつるしあげたという。こうした清水の政治技術について、ポンタが生前次のように語っていたということを、わが茶坊主はこの小冊子で二度も紹介している。「(清水の会議指導は)いつも仮想敵国をつくってつるしあげている。誰かが誤りを犯していないと会議がなりたたない指導のやり方だ」と。
もちろんポンタが清水にたいしてこのような批判を実際におこなっていたか否かは定かではない。だが、「天才的なオルガナイザー」であったポンタを失ってからすでに四半世紀を迎えようとしているにもかかわらず、白井は、なお「本多書記長」の亡霊に支配され続けている。「独裁者清水」のまえに「自分自身の見解」をなにももたず、「自発性と創意性とを欠如」した高木や秋山らのブクロ派の指導部の惨状を「告発」しているつもりになっているわが「人間の尊厳」主義者は、じつは政治主義者・ポンタの遺訓に呪縛された生ける屍でしかない。「本多書記長の『レーニン主義の継承か、解体か』こそ党の理論の最高の到達地平」などと、臆面もなく語っているように、白井もまた、「独裁者清水」に跪く高木や秋山と同様に、ポンタにその「人格」もろともスポイルされてしまったみじめな存在なのだ。 |
スパイ・白井の戯言 |
九四年三月二十一日の「強盗・略奪」事件にたいする怒り。これを指示した「ドロボー清水」にたいするうらみ・つらみ。そして「精神分析」の対象でしかない「独裁者清水」に盲従するしか能のない高木・秋山・天田らのブクロ官僚にたいするねたみと弱よわしい憎悪。没理論の清水の「監督」のもとに発行された『「資本論」の研究』や『ソ連エリツィン体制と第二革命の展望』の「執筆者」黒島善輝にたいするひがみと反発。シミタケのカクマルの理論と労働運動の組織化≠ノたいするコンプレックスと劣等意識に勝るとも劣らない白井が、わが同盟の過去三十数年にわたるイデオロギー的批判に追いつめられて、その反面において全面展開したのが、小冊子におけるかの繰り言である。「革共同・中核派を愛する」がゆえに白井が「告発」したと称する駄文において白井は、この残存ブクロ官僚にたいする憎しみと嫉妬が入り混った言辞をリフレーンのように綴っている。
そしてその裏面においては、わが革命的プロレタリアートと反スターリン主義運動の名において怒りの鉄槌をふりおろされ、反革命スパイ集団の頭目としての恥多き最後をとげた本多延嘉にたいする隷属と恭順の意があらわされている。「いかなる手段をもってしても革共同・中核派の危機を解決し、本多書記長の精神と理論にたち返り組織を再建する責務を果す」等々というように。「本多書記長の精神」を引き継ぐことを声高に叫んでいる白井の「本多精神」とは、彼を「一度目」に「虐殺」した「カクマル」に向けられるよりも、むしろ「二度目」に「虐殺」した清水・高木を弾劾するための武器として用いられているだけではない。彼の生いたちと「人格」の形成過程において、両親に甘えられずに(謹厳な九大法学部教授の父と奈良女高師出身の高等学校の校長の母のもとで、姉と妹にはさまれて厳格に育てられたといわれている。『共産主義者』第四十一号、土橋論文参照)育てられたこの男は、常に父親の代用品を見いだし、その影響を受け、それに隷属してきたのであった。彼にとって「本多書記長」はそのような存在であったに違いない。
だが、わが同盟と同志黒田にたいするコンプレックスのゆえにブクロ派から逃亡し、金沢市のホテルで焼身自殺しようとして失敗し(九八年四月二十七日)、文字どおり権力に保護され、そこで、清水・高木・天田らにたいする不満を書きつらねた文書を権力に提供したのが白井である。そこにおいて白井は、権力にポンタの位牌を抱いた「革共同第四次分裂」をそそのかされ、甘えの対象をほかならぬ権力にのりかえたのだ。こうして「本多精神」なるものは、今日の白井にとって権力こそがポンタの代用品となっていることを隠蔽するための煙幕として利用されているというわけである。
国家権力の走狗の頭目から、国家権力そのものに父親の代用品を求めはじめた白井朗よ。おまえが反革命スパイ集団のなかで犯してきた反階級的・反革命的な罪業を、そしていま、権力に尻をたたかれて、われわれが暴露したブクロ派の崩壊を、「独裁者清水」らの一部の官僚の問題にスリカエるという新たな反革命的な罪業を、われわれは絶対に許しはしない。
国家権力は今日、走狗として使いものにならなくなったブクロ派や青解派を最終的に使い捨てるために解体的に再編成することをねらっている。いうまでもなく、白井朗が「革共同・中核派の危機を解決」するためにと称して発刊した二冊の小冊子は、このような権力者の悪辣な意図がこめられたものである。こうした意図もろとも、白井の「告発」の内実を徹底的に暴露することが、<謀略粉砕・走狗解体闘争>の前進のために課せられた課題のひとつにほかならない。 |