反中核派の白井朗テロ批判考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元、栄和2)年.8.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2007.10.20日 れんだいこ拝



【白井朗・氏の反論】
 白井朗『前進』の誹謗・中傷に反論する」を転載する。
 人間の心を失った『前進』
 
 人間の心を失った人の文を読むのは悲しい。それがかつての同志であり、いまもなお反帝・反スターリン主義の立場を自称する共産主義者の文であればなおさらである。『前進』五月二二日号(一九五七号)は、「白井朗を絶対に許さない」という雑文をまたもや掲載してその紙面を汚している。次いで六月十九日号(一九六一号)、さらにまた六月二十六日号(一九六二号)とたてつづけに私への誹謗・中傷の読むに耐えない記事を掲載した。記事は全文デマゴギーである。いちばん悲しいのは人間の心がまったく失われていることである。日本共産党の五〇年分裂を経験した或る先輩は、「最近の『前進』を読んでいると三〇年代のスターリン統治下にあるような錯覚に陥いる」と発言された。ここでは先ず『前進』が私にたいして、国家権力に屈服して黙秘権を根本的に否定していると誹謗・中傷している点と、さらにカクマル反革命分子に屈服し中核派組織の秘密を話したと誹謗・中傷している点について反論する。そののちに理論的な問題について、私の見解を述べることにしよう。
 「黙秘権を根本的に否定している」への反論

 『中核派民主派宣言』において、私は詳細に九八年四月に金沢市で失火事件を起こした問題について事実を記載した。『前進』の誹謗・中傷は、この問題について清水丈夫の執筆した内部通達が私の詳細な事実の記述によって完全にその論理が破綻し、維持できなくなったことをとりつくろい、恥の上塗りをしているだけである。私が『中核派民主派宣言』で述べた事実の基本点をもう一度確認しよう。私は次のように述べている。
 「私は一九九八年四月二七日午前零時半頃、当時宿泊していた金沢市のホテルで失火事件を起こした。著作の原稿執筆で自分が思っていたよりもはるかに疲労し、不注意で失敗を犯した。このため、午前二時すぎころ警察に連行(まだ逮捕ではない)された。失火事件は事実なのですべて取り調べに応じて、一旦その件は終了した。しかし翌二八日正午頃、ホテル宿泊が偽名であったため旅館営業法違反で逮捕状が執行された。そして即日検察庁に送置され、、勾留の法的手続きがとられた。勾留は執拗にもう一度、二回目の限度ギリギリ一杯までおこなわれ、漸く五月一三日に略式起訴・罰金刑の判決をうけ罰金を支払って釈放された。このかん私は塾考した末に、すでに失火事件についてはすべて取り調べに応じているために、黙秘は意味がないと判断した。なぜなら失火事件についてはすでに争うべきものは何もないからである。釈放をかちとり、原稿を完成することが、私の階級的任務であると判断したからである」(『中核派民主派宣言』八三〜八四ページ)。
 この文を平静に読めば誰でも私の言わんとすることは判るはずである。私は政治的な階級闘争の事件で黙秘権を否定するなどというようなことは、一言もいってはない。『前進』の誹謗・中傷は、私が普通の刑事事件でも延々と無意味な争いを続けて、何カ月も勾留されることを避けたと言った事実を歪曲して、「白井は黙秘権を根本的に否定した」としている点にある。失火事件を自分自身の失敗で起こしてしまったことは争いようのない事実なのであるから、この問題で万一黙秘した場合には、何カ月も無意味に勾留されることになる、それを避けたのだと、私は言っているのだ。そして政治的な問題についての取り調べはいっさい無かった、ただしこの失火事件の取り調べとは別に、それが終わったのちに公安部が私にたいして情報提供を求めてきたが、それは黙秘権を行使して断固として拒否したと、私は事実をすべて明らかにしているのだ。

 ところがその事実を平明に紹介することをしないで、清水一派は『二〇世紀の民族と革命』に続いて『中核派民主派宣言』を組織内で講読禁止にしておいて、自分たちのデマゴギーがどんな卑劣なかたちであろうと組織内では通るような措置を講じておいて、私の言い分をねじ曲げて、政治的な階級闘争の任務で逮捕された場合においても私が黙秘権を否定したのだというように、一〇〇%のデマゴギーを放っているのである。

 例えば中核派の組織員が交通違反事件で警察に尋問乃至逮捕された場合に、すべて黙秘を通すということが原則的な態度だと主張されているのか? よく考えてみれば判ることである。自分自身は社会から孤立・隔絶した生活を送っていて、社会の常識を失ってしまった清水丈夫、あらゆる現実社会との接触を避け、権力との接触(それがたとえ交通係の警察官であろうと)には気を失うほどに恐怖して、ただ無意味に非合法生活を続けている清水丈夫の意識を、『前進』は忠実に反映しているだけのことである。

 「いやあくまで黙秘権を行使すべきだったのだ。黙秘をするかしないかは、中核派の弁護士を送ろうとしたのだから、指導部と相談してから方針を考えるべきだった」。清水一派はなおもこのように言うかも知れない。『中核派民主派宣言』でも書いたようにA弁護士が電話をかけてきたことは、知っている。しかし私はすでにこの時点で中核派の組織とは同志的な関係をもてない状況になっていた。

 九四年三月の謀略・略奪事件、政治局会議出席阻止事件が清水一派によって引き起こされたのであるから、私はいかなる意味でも中核派のの指導部を親しい同志、人間の心をもった人とは認められないとの態度を採っていた。九四年三月の謀略・略奪事件、政治局会議出席阻止事件について全面的に謝罪し、略奪物を一〇〇%返還しないかぎり、いっさいの関係を絶つと言明し、その旨を伝えてあった。だから弁護士を送ろうなどという行為自体、私からすれば余計なお節介であり、その背後に邪悪な意図が潜んでいることは歴然としている。人の住居に不法にも無断で侵入して一四〇〇冊もの書籍・雑誌、二〇〇冊ものノートを略奪し、住居にはそれ以上安心して住むことを不可能にした清水一派! 人間として住居を奪われることがいかに苦しいことなのか、それは非合法生活者にとっては最も痛切な問題であることは自明である。そういうきびしい苦しみを私たち夫婦に強いておいて、それについて謝罪もしない当の犯人が、弁護士を送って面倒を見るなどということを信用する人は、この世にはいない。

 これで問題はすべて明らかになった。この問題についての『前進』の誹謗・中傷の記事は極端に説得力が無い。白井が刑事事件について警察に喋った(それは当然だと私は元々言明している)という客観的事実に、「逮捕されるや否や、革共同を辞めると転向宣言した」とのデマゴギーをくっつけて、キャンペーンで組織内の恐怖政治を敷くためのものにすぎない。
 「カクマルに屈服した」への反論

 次にカクマルに私が屈服し、組織の情報をすべて話したからケシカランという『前進』のデマゴギーについて。カクマル『解放』紙(五月一日付一六一七号)の記事は、私の家を彼らが訪問したという事実以外はすべてウソである。彼らは一体何をしに来たのか? カクマルの朝倉は私にむかって「いっさいのゲバの始まりは、七〇年八・三海老原事件にある。それ以前は小競り合いはあっても、殺害はなかった。ここから相互の戦争的状態が開始されたのだ。だから八・三を自己批判せよ」と私に執拗にくりかえした。

 それにたいして私は当然にも「八・三事件の前にお前たちは一体何をやったのか? 炎天下で八・六広島に参加するためのカンパを必死で集めて、かなりの金額を集めたところを、お前たちはそれまで涼しいところで休んでいて、突然襲撃してきてカンパを略奪していった。卑劣なことこの上なし。言語道断だ。それを数日くりかえしたではないのか」「なぜ本多書記長を虐殺したのか」と非難した。

 当然議論は堂々めぐりとなり、私は「四〇年間激しい対立をつづけてきたのだから見解が一致するはずがない。早く帰れ」と追い返した。これが真実である。私がカクマル幹部にたいして自己批判したとか、謝罪したなどということは、すべてカクマル反革命分子のデッチアゲである。『解放』紙上でカクマルがあたかも私が彼らにたいして組織内の事実を暴露したかのように書いている「事実」なるものは、すべて私が昨年の小冊子二点と『民主派宣言』で暴露したことを、彼らとの話しの席で新たに暴露したかのように粉飾しているものか、或いはカクマルのスパイ活動によって以前から知っていたことにすぎない。


 それにしてもカクマル朝倉のあの腐って濁った眼は、一体なんと表現したらよいのだろうか?私は六七年間生きてきて、あんなに気持ち悪い眼を見たことはない。腐って濁った眼こそ、人間の心を失った二重人格者の告白である。朝倉が持参した黒田寛一の廣松渉追悼文たるや、廣松が左翼スターリン主義をのりこえることがついにできなかったと一方で言いながら、実質的には全面的な礼賛文であり、廣松渉の表面上は旺盛な執筆=本の生産に完全な劣等感コンプレックスを抱いていて、それに苦しんでいることの表明である。廣松支持者のあいだでも最後の主著と言われている『存在と意味』など亡くなる直前の著作は迫力がないと疑問があるのに、黒田寛一のあの賛美のていたらくは一体何だ。黒田寛一の思想的活力の喪失をまざまざと物語っている。こんな黒田寛一を依然として教祖としておしいただくカクマルに未来はない。それは腐りきった朝倉の眼がよく証明している。カクマルは私の堂々たる批判の前に諦めて私の前から去っていった。これが真実だ。
 カクマルのデマゴギーを一00%信頼する『前進』

 清水丈夫よ、お前さんはいつからカクマル反革命の言い分を信頼するようになったのか?『前進』九九年九月二七日号(一九二六号)の「カクマルデマパンフを断罪する」では「白井は事実を知っているからこういうウソは書くはずがない。ここに書かれていることはウソである。したがってこのパンフは白井の筆ではなく、カクマルの作成によるものである」という三段論法で一貫していた。


 いっさいの文章が私への信頼という基準の上に書かれていた。その点を私が『中核派民主派宣言』で徹底的に暴露し、「スパイ・警察の手先」と私を誹謗・中傷しながら、その実私をウソは言わない人格だと信頼して、私を正しい基準として私に依拠してカクマルの言い分を批判している。『前進』は自家撞着・支離滅裂だと批判した。清水丈夫自身が私をスパイだなどとは本気では思っていない。そのことを私が徹底的に追求して、その心理が文章に正直に表れている点を衝いた。この批判がよほど痛かったとみえて、清水丈夫は今度はカクマルを一〇〇%信頼することに宗旨がえしたというわけである。なんとその見識のないこと、惨めなまでに私の批判にひとつひとつ動揺しているそのありさまよ!

 とりわけ私の『中核派民主派宣言』の刊行によって清水一派が打撃を受けている点は次の二点である。
 第一に私の著作の刊行によって、新左翼の良心的党派や知識人は、清水一派にたいする批判に起ち上がりつつある。清水一派のセクト主義と官僚主義に批判をもって中核派から心ならずも離れざるを得なかった同志たちも新たな意気込みをもって批判を開始しつつある。いまやセクト主義をのりこえて、新左翼の再生の途を歩もうとする新鮮な意思が大きく結集しつつある。六月十九日号、六月二十六日号とまったく無内容な私への誹謗・中傷の記事を、『前進』がたてつづけに掲載せざるを得なかったのは、新左翼の新たな改革の潮流を阻止しようとする惨めなあがきである。

 第二に今回の一連の『前進』記事の最大の特徴は、『中核派民主派宣言』で私が最も力を注いだ清水丈夫の民族解放闘争にたいする全面否定の暴露への完全な沈黙である。清水丈夫の民族解放闘争にたいする身を焦がすような憎悪を暴露し、民族解放闘争を帝国主義国のプロレタリアートの階級闘争より一段も二段も低い次元の運動、いやそもそも反動的な運動とみなしているその思想的な根源は彼の「レイシズム」(人種差別主義の思想)にある。私はこのように徹底的に追及した。この批判に清水一派は完全に沈黙を守り、自分自身はこの批判に答える力がない、批判は正しいと認めてしまっている。

 私の批判が事実であり鋭いから、清水丈夫はその痛みで全身が転倒するばかりに苦しみ到底答えられないのである。そして次に述べるように、朝鮮南北首脳会談の開催という歴史的な事態の展開は、清水一派の破産を白日のもとにつきだしたのである。南北首脳会談の具体的な分析については「反論その二」を読んで頂くことにして、ここでは『前進』の二月一四日号西山論文の卑劣な二枚舌を批判しておこう。私が日本国籍を在日朝鮮人が取得すべきだと主張し、それが日帝入管当局の帰化攻撃と同一だなどというこの西山論文の真っ赤なウソは、誰も信じない。こんなデマゴギーで私を批判しようというのでは、およそ論争の勝敗は最初から明らかだ。

 西山本人も自分自身では信じてはないこんな低劣なデマゴギーを、私の『二〇世紀の民族と革命』にたいする批判の中軸に据えなければならない、という事実こそ、清水一派がいかにプロレタリア国際主義を完全に喪失しているか、逆に証明している証拠である。日帝のかつての被抑圧民族たる朝鮮民族、在日朝鮮人・韓国人を清水一派がいかに蔑視しているのかを、証明していると言わなければならない。

 在日朝鮮人はサンフランシスコ講和条約の発効直前に、一方的に日本国籍を日帝当局によって奪われた。私はこの「一方的に日帝国家権力が日本国籍を奪った」という歴史的な事実を問題にしているのである。在日朝鮮人作家・金石範(キムソッポン)氏は言う。
「日本敗戦後の一九四七年、在日朝鮮人を治安対象として管理、規制すべく外国人登録令が実施されたが(外国人のほとんどが植民地支配から解放された在日朝鮮人、中国人だった)後の韓国籍を含めて当時の在日朝鮮人全体を『朝鮮』と記載したのが始まりであって、いわば日本政府の勝手な表記だった。一九四八年、南・北分断政府樹立後、その一部が『韓国』記載になり、一九六五年の韓国・日本国交正常化によってそれが『国籍』化し、その他が『朝鮮』となって今日に至っている」「日本政府は一九五二年四月、講和条約発効をまえに在日朝鮮人の『日本国籍』を一方的に剥奪して『外国人』とした。勿論民族的感情から在日朝鮮人が『日本国民』として残るかどうかは別として、少なくともその措置は『国籍選択権』を前提にしての当事者である在日朝鮮人の意思に基づくものでなければならない。そしてそれに準ずる何の保障も代替権利もないまま、いわば一文無しで、そうでなくとも朝鮮人にたいするひどい差別社会に放り出されて、日本国籍であれば当然受けるべき諸権利を失った。一例として戦争犠牲者に対する援護法による障害年金、遺族年金、遺族給与金、その他の補償が適用されないことが挙げられる(戦争中の徴兵朝鮮人軍人、軍属は三十七万。強制連行一六〇万、そのうち五万死亡)。その一方で日本政府は『国家百年の大計』として陰に陽に在日朝鮮人に対する帰化政策を協力に押し進めてきたのだった」(『世界』九九年五月号。「再び『在日』にとっての『国籍』について−準統一国籍の制定を」)。
  
 この金石範氏の書き方ですべては明らかになる。植民地として支配されていたがゆえに宗主国・日本の国籍を朝鮮人はもっていた。しかし敗戦国日本は講和条約発効直前に、その国籍を一方的に、在日朝鮮人の意思を予め聞くことなく奪ってしまった。それは当時の在日朝鮮人のあいだでは日本共産党にたいする支持者が圧倒的に多いので、支配階級にとっては不利であるから、国籍を奪って選挙権を剥奪しようとの意思が働いていた。在日朝鮮人にたいして日本社会での政治的発言権をいっさい認めない政策であった。そのために金石範氏が指摘しているように、戦争中「日本人」として戦争に参加した在日朝鮮人の補償をいっさい認めないというおよそ在日朝鮮人を蔑視した理不尽なことが平気で罷り通ったのである。私はこの視点から日帝当局の在日朝鮮人にたいする差別を糾弾しているのであって、入管当局と同じ帰化攻撃に屈服しているのだなどという西山論文のデマゴギーなど論外である。誰もこんなデマゴギーは信じない。

 私は金石範氏が主張するように、朝鮮人の民族性を十全に保持したままの二重国籍が日本でも認められるべきだと考えている。日帝入管当局の民族性剥奪・帝国主義的同化主義の帰化攻撃と私の主張が同じだなどとは、とんでもないデマゴギーである。
ではなぜこんな誰も信じないデマゴギーを西山は書いているのか? それは西山本人が私の『二〇世紀の民族と革命』の批判が到底不可能だと絶望し、論点を一〇〇%ねじ曲げて誹謗・中傷する以外に方策がないからである。『二〇世紀の民族と革命』において、私は自称マルクス主義者がプロレタリア国際主義のもとに主観的にはプロレタリアートの戦列の強化、指導部の一本化ということを望んで、事実上の同化主義に陥りやすいことを指摘し、批判した。私の著作は全三三〇ページ(原稿にして四〇〇字約七〇〇枚)の全文すべては同化主義批判である。この同化主義者には、私はレーニンも含めており、ユダヤ人ブント批判の方法は破産していることを強烈に批判したのである。この私に向かって同化主義だとは一体何を言うのか?

 また中核派がレーニンの一〇〇年前の破産した論理と組織論にもとづいて在日朝鮮人を中核派に組織するにあたって同化主義を基本とした「単一党」論に依拠して、民族問題に無理解・無関心な抑圧民族としての日本人の意識まるだしのままの「階級的指導性」なるものの発揮によって、中核派に接近してきた心ある在日朝鮮人青年を絶望させ、国際主義の党の建設を決定的に阻害してきた犯罪を私は改めて弾劾する。被抑圧民族の民族主義を否定して、階級性、実は日本人の無自覚的な民族性・民族主義をおしつけてきたのだ。

 西山ももし『二〇世紀の民族と革命』を読んだとすればそれは判っているはずだ。だから批判は自分の力に余ると考え、私の主張を一〇〇%ねじ曲げて「民族性と民族解放闘争の無視・蔑視」と誹謗・中傷した。なぜか? 言うまでもなく自分自身が同化主義だからである。こういう誹謗・中傷の仕方、すなわち自分自身がいちばん痛いところを衝かれており、また自分自身では相手の批判が正しいことが判っているために、その相手の批判の内容を、相手そのものが犯した誤りだと図々しくも破廉恥にも歪曲してレッテルを貼る、これはまさにスターリンが発明した論争の方法である。スターリンが一九二二年にグルジア問題でレーニンの批判を浴びた時点で、彼は自分へのレーニンの批判をレーニンその人が犯した誤りであると偽って、レーニンにレッテルを貼ったのである。

 民族解放闘争を私が否定している! 誰もこんなウソは信じない。私は『二〇世紀の民族と革命』でスルタンガリエフらムスリム共産主義者の役割を徹底的に称揚し、もしレーニンがこういう正しい立場にたっていたならば、ロシア革命はまちがいなくアジア革命として世界革命的に発展していただろうと論じているのだ。この論理に打撃を受けているために、清水一派は一八〇度逆のデマゴギーにすがり、スターリン主義の方法に依拠して私への誹謗・中傷をおこなうことに逃避したのである(「反論その2」については別途掲載)。

【「コム・未来」論文】
 元中核派幹部、白井朗氏と角田富夫氏への卑劣なテロ襲撃を糾弾する」を転載する。

  (1)
 昨年12月18日、中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)の元政治局員、白井朗氏宅に数名の暴漢が押し入り、白井氏に全身打撲、肋骨骨折、両腕脱臼、左足骨損傷などの重傷を負わせ逃亡した。続いて一週間後の12月25日、中核派の元幹部、角田富夫氏が東京・中野区の路上で暴漢に襲われ、右眼上裂傷、肋骨骨折の負傷を負った。

 白井氏は、1959年の革共同全国委員会創設以来の幹部で、中核派離脱後は、同派のスターリン主義的偏向を批判する執筆活動を行ってきた。中核派は2001年の「第6回全国大会」特別決議で白井氏を「革共同から逃亡した反革命」と規定、白井氏の「断固たる粉砕」を公言してきた。2001年1月、白井氏宅は何者かによって放火された。角田氏は、「盗聴法に反対する市民連絡会」などの活動に参加するほか、公安調査庁のスパイとして活動してきた宮崎学と中核派との関連の問題に言及、この問題での中核派の態度を批判する言論活動を行ってきた。中核派は、『前進』2002年3月4日号、「反軍闘争に敵対し反階級的転向分子に転落した小西誠」において、小西氏と同じく角田氏に対しても、「政治警察・公調およびスパイ三島(弁護士の三島浩司)と同じ立場に移行」、「革命党に敵対する反革命の共同戦線をつくる役割を果してきている」として、「反革命」規定を公表してきた。

  (2)
 われわれは、白井、角田両氏の思想・立場、あるいはその言説・行動に関して、必ずしも同調するものではない。しかしわれわれは、白井氏と角田氏に対するテロ襲撃事件を、わが国のプロレタリア民衆運動に対する卑劣な分断、運動内部の民主主義への破壊行為として厳しく糾弾する。この度の二つのテロ襲撃事件は、それが同時期に連続的に起こったことと、両氏がこれまで中核派批判を行ってきたことから、同一の政治的目的をもって企図されたものと推断せざるをえない。だが今度の事件に関しては、何者がかかる卑劣な蛮行をなしたかは不明である。未だ「犯行声明」は出されていない。しかし、右に述べた歴史的経緯と中核派が両氏に対して「反革命規定」と「粉砕」を公言してきたことから、中核派は今度の事件に対して自らの態度を表明すべきであろう。中核派は今度の二つの事件に自ら関与しているのかどうか。もし関与していなければ、今度の事件に対していかなる態度をとるのか。賛同するのか、又は反対するのか。公の政治党派として、自らの態度表明がなされることを、われわれは強く要求する。それなしには人々の疑念を晴らすことはできない。

  (3)
 事件が起こった後、国家権力・警察当局は、こともあろうに白井氏宅と角田氏宅への家宅捜索を強行し、住所録、書籍、フロッピー等を持ち去った。また小西誠氏の社会批評社への捜査は同氏の抗議により断行できなかったとはいえ、その他反軍兵士宅への家宅捜索を強行した。われわれは、かかるテロ襲撃事件を口実とした国家権力の不当弾圧行為を厳しく糾弾する。右の事実は、卑劣なテロ襲撃が民衆運動への分断・破壊をもたらすばかりか、支配権力の民衆運動弾圧への恰好の口実を与えていることを如実に物語っている。

  (4)
 わが国の左翼運動内には「党派間の意見対立、党派闘争が存在する以上、内ゲバは当然である」とするエセ「理論」が永らくはびこり、未だにかかる謬論を振りまいている者もいる。今度のテロ襲撃を行った政治党派も同じ類であろう。このようなエセ「理論」はスターリン主義が持ち出してきたものであり、およそマルクス主義とは無縁の代物である。反スターリン主義を標榜する一方でスターリン主義の内ゲバ、テロ襲撃を断行する政治党派を、われわれはマルクス主義的政治党派とみなすことはできない。ましてその「反スターリン主義」など信用できるものではない。政治党派間の意見の対立は、公然と公開でなされるべきであり、広く民衆の審判を受けるべきである。その自信の無い者が自らへの批判者、異論への暴力的抹殺、人民内部の矛盾の敵対矛盾への意図的転化を企図するのである。

  (5)
 この数十年来、わが国の新左翼党派の多くは、反スターリン主義を掲げながら内部粛清と内ゲバによって際限なく分裂に分裂を重ねてきた。そればかりでなく大衆運動にも内ゲバの論理を持ち込み、大衆運動に分断と破壊をもたらしてきた。内ゲバは、こうした新左翼の全党派を巻き込んでいたばかりか、日本共産党を含む日本の左翼運動を覆ってきた「悪業」というべき問題である。その意味で、内ゲバはマルクス主義とプロレタリア解放運動への民衆の信頼を損ね、わが国プロレタリア・民衆運動の発展を大きく阻害してきたことは、厳粛な事実である。

 いまやわれわれはこのような誤りを克服すべき時である。これらの反省の上に立って、昨年らい『検証 内ゲバ』(社会批評社)発刊とシンポジウム開催に見られるように、内ゲバ克服のための協同作業が推進されつつある。われわれはこれらの作業を支持し、心ある人とともに協働してきた。内ゲバを克服するためには、その反人民的な反動的本質を思想的、理論的に批判し、その影響力を打破していかなければならない。同時にまた、内ゲバ党派の民衆運動への介入を排除していくべきである。それなしには、あらゆる民衆運動の民主的運営と発展は阻害され、広範な人々の結集を可能にしていくことはできない。今度のテロ襲撃事件に対して、政治組織や大衆組織のなかから次々に糾弾の声明が発せられている。この環をさらに大きくし、スターリン主義の「宿痾」ともいえる内ゲバ克服と民衆運動の新たな再生をめざそう。  2003年1月「コム・未来」運営委員会


【かけはし論文】
 元中核派幹部・白井朗氏と角田富夫氏へのテロ襲撃を糾弾する」(かけはし2003.1.20号)を転載する。
(1)昨年十二月十八日、中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)の元政治局員で、一九五九年の革共同全国委員会創設以来の指導部だった白井朗氏の自宅(埼玉県春日部市)に、数名の者が押し入って白井氏を襲撃し、白井氏に全身打撲、両腕脱臼、肋骨骨折、右足骨損傷などの重傷を負わせた。

 それから一週間後の十二月二十五日には、同じく中核派の元幹部で、中核派を離脱して盗聴法や住基ネットに反対する市民運動を担っていた角田富夫氏が、自宅近くの東京都中野区の路上で襲撃され、右目上裂傷、肋骨骨折などの重傷を負うという事件が発生した。 白井朗氏は、この間、自らが指導してきた中核派のスターリン主義そのものの実態を批判する執筆活動を続けていた。中核派は二〇〇一年に開催したと称する「第六回全国大会」特別決議で白井氏を「革共同から逃亡した反革命」と規定し、その「断固たる粉砕」を呼号していた。実際、白井氏は二〇〇一年一月に何者かによって自宅に放火されるというテロ襲撃を受けている。

 角田富夫氏は、公安調査庁のスパイとして活動してきた宮崎学を中核派が利用し、自らの組織情報を握られてきた問題を、中核派が隠蔽し、あいまいなままにしてきたことについて明らかにする言論活動を行ってきた。中核派は角田氏についても、小西誠氏らとともに「政治警察・公調およびスパイ三島(弁護士の三島浩司)と同じ立場に移行」し、「革命党に敵対する反革命の共同戦線をつくる役割を果たしている」(「前進」02年3月4日号、「反軍闘争に敵対し反階級的転向分子に転落した小西誠」)と主張していた。

(2)この許すことのできない卑劣きわまる犯罪が何者によってなされたのかについては、いまだ推測の域を出ない。「犯行声明」も出されてはいない。しかしわれわれは、この白井氏、角田氏へのテロ襲撃が同一の政治的目的を持った一連の行為であると断定せざるをえない。

 国家権力・警察当局は、被害者である白井、角田両氏の自宅を不当に家宅捜索し、住所録、書籍、フロッピーなどを押収していった。また小西誠氏の声明によれば、この襲撃事件とはなんの関係もない小西誠氏が経営する(株)社会批評社や、小西氏とともに活動している反軍兵士の自宅にも家宅捜索に押しかけ、社会批評社への捜索は小西氏の抗議によって断念したものの、反軍兵士の自宅については捜索を強行して書籍を押収した、という。

 この点から見ても、今回のテロ襲撃が、労働者・市民運動に対する警察権力の介入と弾圧の口実を与える反動的な犯罪行為であることは明白である。十二月三十日、盗聴法に反対する市民連絡会は、同連絡会のメンバーである角田氏襲撃についての声明を出した。同声明は「今回の凶行は、誠に許し難い卑劣な行為であるとともに、私たち平和を目指すすべての市民に対する挑戦だと考えます」と述べるとともに、「今回の凶行を行った人々とは運動をともにすることをできません」とする断固たる立場を表明している。われわれは、盗聴法に反対する市民連絡会の声明を支持する。

(3)われわれは、日本新左翼運動における「内ゲバ」の犯罪性を当初から指摘し、内ゲバを大衆運動の場から一掃することを一貫して主張してきた。とりわけ革マル派、中核派、解放派などによる殺人を自己目的化するまでに至った内ゲバのエスカレートが、どれだけ大衆運動の発展に打撃を与え、警察権力に弾圧の口実を与えるものであるかを厳しく批判し、内ゲバ党派を共同行動の対象とは見なさない立場を堅持してきた。

 われわれは、一九八四年、中核派の内ゲバ襲撃によって八人の同志が片足切断をふくむ重傷を負った時にも、大衆運動によって彼ら内ゲバ主義者を包囲し、糾弾する闘いを展開してきた。われわれは、中核派から離脱した白井、角田両氏が、かつて中核派の指導的幹部として内ゲバ襲撃のエスカレートに責任を負っていたことに対し、明確な態度表明や自己批判を行っていないことを批判する。白井氏や小西氏による中核派のスターリン主義や内ゲバ主義に対する批判は、重要で積極的な転換ではあるが、対革マル「内ゲバ戦争」との関係で、その思想的根拠に対する批判はいまだ限界を持ったものである。しかしそのことによって、今回の白井、角田両氏に対するテロ襲撃を労働者・市民運動、ならびに革命をめざす闘いに対する敵対以外のなにものでもないとして厳しく批判するわれわれの立場は、なんら変わるものではない。

 中核派は、自らが「反革命」として「粉砕」の対象に挙げていた白井、角田両氏へのテロ襲撃に自ら関与しているのかいないのか、はっきりとした形で表明すべきである。そしてもし関与していないと主張するのであれば、この暴挙に対してどのような態度をとるのか、機関紙上ではっきりと表明すべきである。われわれは白井、角田両氏へのテロ襲撃を断固として糾弾するとともに、この犯罪を実行した組織を大衆運動、共同行動の場から排除するために闘う。スターリン主義そのものに他ならない内ゲバ主義の一切の表現と闘い、それを一掃することに労働者・市民の未来がかかっているのである。同時にわれわれは、今回の事件をも契機とした警察権力による大衆闘争への弾圧・介入の拡大に対して、あらためて警戒を強めることをすべての人びとに呼びかけるものである。(二〇〇三年一月)

 資料  角田富夫さん襲撃事件に関する声明 盗聴法に反対する市民連絡会

 私たちは盗聴法(犯罪捜査のための通信傍受法)に反対する市民のネットワークです。十二月二十五日、私たちのメンバーである角田富夫さんが、自宅近くの路上で何者かに襲撃され、重傷を負いました。私たちはこのような暴力を絶対に許せません。今回の凶行は、犯人グループが本人であることを確認してから襲ってきたこと、所持品を盗られるなどしていないことなどから、単なる物盗りや通り魔の犯行ではありません。日頃の角田さんの活動に対して、意見を異にする者による政治的目的の凶行であることは明らかです。 私たちは、盗聴法という人権に関わる問題に取り組むグループですが、同時に平和を目指しすべての暴力に反対します。今回の凶行は、誠に許し難い卑劣な行為であるとともに、私たち平和を目指すすべての市民に対する挑戦だと考えます。このような凶行を許さないために、以下のような見解を表明します。

 1.暴力は、たとえどんな理由があろうと許されるものではありません。
 2.ことに、意見の相違を暴力で解決することは、あってはならないことです。私たちはそのような行為、考え方を容認することはできません。
 3.そして同時に、暴力によっては問題は何も解決しないこと、憎しみだけが残ることを、犯人グループに訴えたいと思います。
 4.様々な課題が山積する日本の市民運動の現状において、いまは立場の違いを乗り越え、ともに手を携えて取り組んでいく必要があります。今回の凶行は、そのような連携に水を差し、その努力を侮辱するもので、運動に対する妨害以外の何ものでもありません。
 私たちは上記のような立場から、今回の凶行を行った人々とは運動をともにすることはできません。今後も同様の凶行は断じて許されないということを、ここに表明いたします。

 二〇〇二年十二月三十日

 連絡先/日本消費者連盟 電話03-3711-7766、JCA-NET 電話070-5553-5495(小倉)、日本カトリック正義と平和協議会 電話03-5632-4444


【】
 「白井朗氏、角田富夫氏へのテロ襲撃を弾劾する緊急声明のご賛同のお願い」を転載する。

 白井朗氏、角田富夫氏へのテロ襲撃を弾劾する緊急声明のご賛同のお願い

 一、事実経過

 〇二年一二月一八日、埼玉県の白井朗氏宅に数人の男女が押し入り、白井氏を監禁、暴行するという事件が発生しました。白井氏は全身打撲、両腕脱臼、肋骨骨折、右足の骨損傷の重傷を負わされたため、執筆活動に重大な支障を来すこととなりました。また、同年一二月二五日には東京中野区の路上において角田富夫氏が二人組に突然襲われ、顔面を鈍器で殴打され、右目上裂傷、肋骨骨折の負傷をしました。
 両事件については現在のところまだ犯人は特定されていません。また、どこからも「犯行声明」は出されていません。しかし両氏とも、元革共同中核派に所属していたこと、また、白井氏は執筆活動によって現在も中核派を批判し続けており、一方角田氏は、公安調査庁スパイ宮崎学と中核派との関係に関し中核派を批判してきたことから、このふたつのテロ襲撃事件は関連している可能性が否定しきれません。

 二、言論に対する暴力、民主主義の破壊を許しません

 私たちは、このような事件を引き起こした犯人たちに対し、強く抗議します。もちろん私たちは、白井氏・角田氏の思想・行動に必ずしも同調するものではありません。しかし、たとえどのような組織・集団に所属する人物に対しても、テロを行使する権利は誰にもありません。ましてや、現在は一市民として執筆・言論活動を行い、あるいは破防法や住基ネットなどに反対して活動する人々に対して、その言論や活動を圧殺するテロ行為は、許しがたい言論に対する暴力であり、市民運動とその発展を支える民主主義への重大な反対行為と考えます。
 たとえどのような思想・立場に立とうとも、このような卑劣な行動を計画し、実行するような組織・集団は、いかなる市民運動にも大衆的共同行動にも関わる資格はありません。このような組織・集団を私たちは到底許容できません。

 三、テロ襲撃は誰を利するのでしょうか

 このテロ襲撃が誰を利するのかは、事件の直後に明らかとなっています。例をあげれば、警察は被害者・白井氏宅で当日二二時頃に不当な捜索を強行し、同年一二月二七日には元反戦自衛官でもあった小西氏の主宰する社会批評社へも不当な捜索が画策されました。これは小西氏の断固たる抗議により中止されたものの、同日、他の反戦自衛官たちの自宅にも次々と不当な捜索が強行されました。
 今回のテロ襲撃は、これらの反戦自衛官たちにはまったく関係ありません。にもかかわらず、白井・角田両氏へのテロ襲撃を口実として、警察権力はこれらの反戦自衛官たちにまで不当な介入を行い、情報収集を強行していったのです。このようなテロ襲撃は、反戦運動をはじめとする市民運動の破壊を目論む公安権力、ひいては侵略と戦争を行う勢力を利するものです。私たちは、このような権力の不当介入に強く抗議します。
 以上の趣旨から、私たちは全国のすべての心ある人々に、この「緊急声明」へ御賛同くださることを呼びかけます。

 2003年2月15日

○呼びかけ人・賛同人(順不同・敬称略)
尾形憲(法政大学名誉教授)、樋口篤三(日本労働ペンクラブ会員)、生田あい(『検証 内ゲバ』PART2著者)、吉留昭弘(『検証内ゲバ』PART2著者)、いいだもも(『検証 内ゲバ』PART2著者)、蔵田計成(『検証 内ゲバ』PART2著者)、西川享(『検証 内ゲバ』PART2著者)、渡辺一衛(思想の科学研究会会員)、すが秀実(文芸評論家)、津田道夫(評論家・「障害者の教育権を実現する会」事務局員)、来栖宗孝(著述業)、米沢泉美(トランスジェンダー)、片岡顕二(反戦自衛官)、藤尾靖之(反戦自衛官)、佐藤備三(反戦自衛官)、小西誠(社会批評社代表)、きさらぎやよい(編集者)、小林義也(ライター)、富永さとる(西東京市民)、松田健二(社会評論社)、早見慶子(イリオス代表)、noiz(AnarkiismoInformoCentro)、津村洋(『国際主義』編集会議IEG)、伊藤一(『国際主義』編集会議IEG)、山田宏(『国際主義』編集会議IEG)、中井一(大学院生)、北山峻(コム・ネット)、志摩玲介(社会主義研究者)、出口綾子(地球市民アカデミア二期生)、根田悟郎(法政大学生)、まっぺん(ネット掲示板「四トロ二次会」主宰)、井上はるお(『サイバーアクション著者』)、角田裕育(『キツネ目のスパイ宮崎学』著者)、黒目(共産趣味者)、鶴見俊輔(哲学者)、伊藤成彦(中央大学名誉教授)、野添憲治(作家)、武藤功(文芸評論家)、浅田光輝(立正大学名誉教授)、塩川喜信(大学教員)、井之川巨(詩人)、大野明男(名護サボーター事務局長)、針生一郎(和光大学名誉教授)、岩永達郎(「憲法・みどり・農の連帯」共同代表)、岩淵達治、五十嵐良雄(現代教育研究所所長)、池田清彦(山梨大学教授)、倉持庄次郎、松下清雄、中野徹三(社会主義研究者)、興石正(商人)、宮田勝喜、松浦英俊(僧侶)、槌田劭(京都精華大学教員)、野口正路(詩人)、大橋孚(慶応大学名誉教授)、乱鬼龍(川柳人)、柳田真(都労連交流会・たんぽぽ舎)、中正敏(詩人)、永田育夫(文学研究者)、山田洋一(人民新聞)、堀込純一(社会主義研究者)、守田典彦(マルクスの思想と理論研究者)、久野成章(三里塚一坪共有者、中核派によるテロ襲撃被害者)、鈴木康丈(大学院生)、鹿島拾市(ロフトプラスワン襲撃を許さない共同声明・呼びかけ人)、国富建治(新時代社)、田村ゆかり(東京都民)、島田健作(ラディカル・ヒューマニズム研究者)、高田鉄夫(テクニカルライター、検証内ゲバPartU執筆者)、園江光太郎(ライター)、佐藤悟志(政治結社「青狼会」総統)、小池和彦(LENK)、野村修身(工学博士)、れんだいこ(左派運動研究家、サイト「左往来人生学院」主宰)、山本夜羽(マンガ家)、木畑壽信(日本社会学会会員)、木谷公士郎(司法書士)、TAMO2(エンジニア)、渡邉修孝(元自衛官・「パレスチナに献花を」メンバー)、重松朋宏(東京都国立市議会議員)、野木裕子(フリージャーナリスト)、矢部史郎(黒ヘル)、鬼薔薇(家業手伝い)、山根大次郎(失業者)、細木悟 ●他1名

以上の「共同声明」にご賛同してくださる方は、下記のようにお願いします(第二次集約を三月三一日までに行いたいと思います)。

○ご氏名(団体の場合は団体名)
○肩書
★ご意見(コメントをお願いします)

●連絡先 東京都中野区大和町1−12−10 且ミ会批評社気付
     電話 03−3310−9681 ファクス 03−3310−6561
     email shakai@mail3.alpha-net.ne.jp


 元中核派幹部、白井朗氏と角田富夫氏への卑劣なテロ襲撃を糾弾する」を転載する。

  (1)
 昨年12月18日、中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)の元政治局員、白井朗氏宅に数名の暴漢が押し入り、白井氏に全身打撲、肋骨骨折、両腕脱臼、左足骨損傷などの重傷を負わせ逃亡した。
 続いて一週間後の12月25日、中核派の元幹部、角田富夫氏が東京・中野区の路上で暴漢に襲われ、右眼上裂傷、肋骨骨折の負傷を負った。
 白井氏は、1959年の革共同全国委員会創設以来の幹部で、中核派離脱後は、同派のスターリン主義的偏向を批判する執筆活動を行ってきた。
 中核派は2001年の「第6回全国大会」特別決議で白井氏を「革共同から逃亡した反革命」と規定、白井氏の「断固たる粉砕」を公言してきた。
 2001年1月、白井氏宅は何者かによって放火された。
 角田氏は、「盗聴法に反対する市民連絡会」などの活動に参加するほか、公安調査庁のスパイとして活動してきた宮崎学と中核派との関連の問題に言及、この問題での中核派の態度を批判する言論活動を行ってきた。
 中核派は、『前進』2002年3月4日号、「反軍闘争に敵対し反階級的転向分子に転落した小西誠」において、小西氏と同じく角田氏に対しても、「政治警察・公調およびスパイ三島(弁護士の三島浩司)と同じ立場に移行」、「革命党に敵対する反革命の共同戦線をつくる役割を果してきている」として、「反革命」規定を公表してきた。

  (2)
 われわれは、白井、角田両氏の思想・立場、あるいはその言説・行動に関して、必ずしも同調するものではない。しかしわれわれは、白井氏と角田氏に対するテロ襲撃事件を、わが国のプロレタリア民衆運動に対する卑劣な分断、運動内部の民主主義への破壊行為として厳しく糾弾する。
 この度の二つのテロ襲撃事件は、それが同時期に連続的に起こったことと、両氏がこれまで中核派批判を行ってきたことから、同一の政治的目的をもって企図されたものと推断せざるをえない。だが今度の事件に関しては、何者がかかる卑劣な蛮行をなしたかは不明である。未だ「犯行声明」は出されていない。
 しかし、右に述べた歴史的経緯と中核派が両氏に対して「反革命規定」と「粉砕」を公言してきたことから、中核派は今度の事件に対して自らの態度を表明すべきであろう。
 中核派は今度の二つの事件に自ら関与しているのかどうか。もし関与していなければ、今度の事件に対していかなる態度をとるのか。賛同するのか、又は反対するのか。公の政治党派として、自らの態度表明がなされることを、われわれは強く要求する。それなしには人々の疑念を晴らすことはできない。

  (3)
 事件が起こった後、国家権力・警察当局は、こともあろうに白井氏宅と角田氏宅への家宅捜索を強行し、住所録、書籍、フロッピー等を持ち去った。また小西誠氏の社会批評社への捜査は同氏の抗議により断行できなかったとはいえ、その他反軍兵士宅への家宅捜索を強行した。われわれは、かかるテロ襲撃事件を口実とした国家権力の不当弾圧行為を厳しく糾弾する。
 右の事実は、卑劣なテロ襲撃が民衆運動への分断・破壊をもたらすばかりか、支配権力の民衆運動弾圧への恰好の口実を与えていることを如実に物語っている。

  (4)
 わが国の左翼運動内には「党派間の意見対立、党派闘争が存在する以上、内ゲバは当然である」とするエセ「理論」が永らくはびこり、未だにかかる謬論を振りまいている者もいる。今度のテロ襲撃を行った政治党派も同じ類であろう。
 このようなエセ「理論」はスターリン主義が持ち出してきたものであり、およそマルクス主義とは無縁の代物である。反スターリン主義を標榜する一方でスターリン主義の内ゲバ、テロ襲撃を断行する政治党派を、われわれはマルクス主義的政治党派とみなすことはできない。ましてその「反スターリン主義」など信用できるものではない。
 政治党派間の意見の対立は、公然と公開でなされるべきであり、広く民衆の審判を受けるべきである。その自信の無い者が自らへの批判者、異論への暴力的抹殺、人民内部の矛盾の敵対矛盾への意図的転化を企図するのである。

  (5)
 この数十年来、わが国の新左翼党派の多くは、反スターリン主義を掲げながら内部粛清と内ゲバによって際限なく分裂に分裂を重ねてきた。そればかりでなく大衆運動にも内ゲバの論理を持ち込み、大衆運動に分断と破壊をもたらしてきた。内ゲバは、こうした新左翼の全党派を巻き込んでいたばかりか、日本共産党を含む日本の左翼運動を覆ってきた「悪業」というべき問題である。その意味で、内ゲバはマルクス主義とプロレタリア解放運動への民衆の信頼を損ね、わが国プロレタリア・民衆運動の発展を大きく阻害してきたことは、厳粛な事実である。
 いまやわれわれはこのような誤りを克服すべき時である。これらの反省の上に立って、昨年らい『検証 内ゲバ』(社会批評社)発刊とシンポジウム開催に見られるように、内ゲバ克服のための協同作業が推進されつつある。われわれはこれらの作業を支持し、心ある人とともに協働してきた。
 内ゲバを克服するためには、その反人民的な反動的本質を思想的、理論的に批判し、その影響力を打破していかなければならない。同時にまた、内ゲバ党派の民衆運動への介入を排除していくべきである。それなしには、あらゆる民衆運動の民主的運営と発展は阻害され、広範な人々の結集を可能にしていくことはできない。
 今度のテロ襲撃事件に対して、政治組織や大衆組織のなかから次々に糾弾の声明が発せられている。この環をさらに大きくし、スターリン主義の「宿痾」ともいえる内ゲバ克服と民衆運動の新たな再生をめざそう。
                  2003年1月「コム・未来」運営委員会


 世界の中心で、革命をさけぶ」の「マル共連再建から白井朗さんへの追悼と革共同の謝罪」、「白井朗さんへの追悼と革共同の謝罪 革命的共産主義者同盟再建協議会 2010年6月1日」を転載する。
 ぶっこわれていたマル共連BBSを復活させるべく活動中のマル共連BBS再建協議委員会(準)より、関西塩川派:白井朗さんへの追悼と謝罪という記事が紹介されている。また、まっぺんさんの四トロ同窓会二次会でも全文が紹介されている。

 ほんちゃんは、こちら未来第58号

 
昨年7月、革共同全国委員会の創設メンバーの一人であり、『前進』編集局長であった白井朗さん(山村克同志)が逝去された。われわれは、白井さんの死を悼むとともに、革共同が第6回大会(2001年)で白井さんを「反革命」と規定して除名したこと、そしてわれわれもその処分に賛成し、白井さんにたいする組織的なテロルを容認したことを全面的に謝罪する。また、この謝罪が遅きに失し、白井さんの生あるうちに実現できなかったことと、現時点でこれを革共同全体の謝罪となしえていないことを、かさねておわびする。

 「白井問題」の本質はなにか

 われわれは、06年3月14日に、党組織を私物化し財政的な腐敗を深めていた関西地方委員会議長を打倒し、翌07年11月に革共同の腐敗と変質の元凶である清水・安田体制と決別した。われわれは革命的共産主義運動の再生を目ざす理論的実践の重要な柱として革共同の歴史的総括を行ってきた。

 その総括作業のなかで、80年代をとおして清水議長体制の下で党内民主主義が極限的に圧殺され、党が階級との生きた交通を欠落させ、ついには政治局そのものが崩壊していったことを明らかにした。ソ連崩壊、総評解体・連合結成などの情勢に革共同が党としてまともな対応ができなかったのはその結果であった。この政治局の崩壊過程における最大の組織問題であり路線問題が、いわゆる「白井問題」であった。

 われわれが清水・安田体制と決別し、革共同の再建に踏み出していく過程で、白井さんからわれわれにたいして、「3・14決起を支持する」という意志が伝えられた。われわれはこの白井さんの意思表示にたいしてどのように応えていくかを検討し、彼と意見交換を行うことにした。すでにかなり病状が悪化していた白井さんから直接話を聞くことができた。この討論から数カ月後に白井さんは亡くなった。

 われわれは、白井さんの話をもとに独自の調査を重ね、われわれ自身の根底的な反省と自己切開を行ってきた。そのことをとおしてわれわれは、清水丈夫議長が「白井問題」なるものをねつ造することによって、白井さんが提起した重大な路線的かつ実践的な批判を圧殺したことが、革共同政治局の変質とその崩壊を象徴する組織問題であることをつかみとることができた。

 白井さんの提起

 80年代後半から90年代前半にかけて、白井さんが政治局あるいは党組織内部において提起した主要な批判は次の3点であった。
1点目は、1986年の『前進』新年号の政治局アピールに入管問題にかんする記述が欠落していたことを白井さんが指摘したことから始まった。すなわち党内における7・7自己批判、7・7思想の風化にたいする批判である。
2点目は、91年のソ連崩壊にたいする無感動と危機感の欠如にたいする批判である。清水らのスターリン主義にたいする把握は、社会主義論・共産主義論について深化させることを拒否し、いつまでも革共同第3回大会(66年)の「一国社会主義論」批判のレベルにとどまっていたのである。それは国有化と計画経済があれば、スターリン主義権力のままでも社会主義が可能になるというものであり、こうした理解の枠をこえる理論的・実態的解明を党内で行うことを抑圧していたのである。
3点目は、94年に成立した社会党・村山首班内閣にたいして、『前進』が「社会ファシズム」規定を行ったことにたいする批判である。白井さんはそこに、1930年代のドイツ共産党が「社会ファシズム」論のもとで、国家権力とたたかわずに、ナチスと組んで社会民主党を主要打撃の対象としたのと同根の誤りを見た。

 政治局内の路線対立

 政治局内部でこのような深刻な意見の対立が生じたときは、党大会の開催をふくめた全党的な討論に付すべきものだ。ところが清水は白井さんが執筆した民族問題にかんする論文を自分が書いた革共同第3回大会(66年)の第2報告を否定していると見なして、「これは自分にたいする権力闘争だ」と決めつけ、論文の撤回や書き直しを命じ、さらに公表禁止処分にするなどして、白井さんの意見を封殺しようとした。また白井さんが仲山良介の『資本論の研究』を批判したことにたいしても、清水らは、「同書は党決定である」として、その批判を禁じた。

 このようにして清水らは、白井さんが理論的路線的な批判を提起したこと自体について「自己批判」を迫り、彼の意見・思想を放棄させようとしたのである。当時の政治局はその声明の中で「本社での自己批判の作成の環境と待遇は決して悪くなかった。これを強制であったと言うならば、獄中に入れられたらすぐ転向するということではないか」(99年8月)といっている。まさに彼ら自身の口から「本社での自己批判の作成」が、国家権力が監獄でおこなう転向強制と同じものであったことを自己暴露している。

 組織的テロルで反対意見を圧殺

 権力との攻防によって政治局会議の開催が困難になっていたなかで、白井さんは、政治局内の対立を解決するために党内討論を要求していた。

 3千点の物品強奪

 これにたいして清水らは、94年3月、白井さんの意見を受け入れて政治局会議を開催するという返答を手紙でおこなった。しかしそれは政治局会議開催を口実にして、彼を非公然アジトからおびきだすための方便であった。そして清水の指示を受けたメンバーは、白井さんの留守中にあらかじめ作製していた合鍵を使ってアジトに侵入し、3千点におよぶ物品を持ち去った。異変を察知した白井さんが帰宅したときには、すでにがらんどうになったアジトの机の上に大型のバールが1本、これみよがしに置かれていたという。

 清水らはこうした凶行を合理化するために、「党の機密文書の回収」(『共産主義者』123号)のためにやったとか、「党防衛活動」(同書)のためだったと言い訳をしているが、それはまったくのウソである。清水のねらいは民族問題にかんする白井さんの原稿を奪い取って、彼の言論を圧殺することにあったのだ。

 反革命規定とテロル

 しかし、白井さんがこのアジト襲撃の事実を暴露して、公然と革共同批判を開始すると清水ら政治局は、「山村(白井さんのこと)反革命を徹底的に粉砕する」(パンフ『白井問題とは何か』2000年4月15日発行)と白井さんにたいして反革命規定を行い、01年の革共同第6回大会で除名を決定したのである。この決定と前後して、01年1月には白井さんの借家に放火した。このとき着火剤を使用して放火したため、木造の隣家を含めて危く全焼するところであった。

 そして02年12月に清水ら政治局は白井さんを肉体的に殲滅することを決定し、それを実行した。このとき襲撃者たちは、宅配便業者を装って白井さんの住居に突入した。彼らは、内からカギをかけて電話線と電源を切断したうえで、白井さんをうつぶせにし、両腕関節を脱臼させ、右手に集中的ダメージを与え、両脚膝のほとんどすべての靱帯を切断する重傷を負わせた。そして白井さんのノートや手帳などを奪って逃走した。白井さんは、このダメージが終生の「障害」となった。彼は、それをのりこえて、民族問題にかんする第2の著書の刊行に執念を燃やし尽くして斃れたのである。

 革共同の堕落・変質

 ここに見られるような白井さんを肉体的にも抹殺することを狙いとした一連の党内テロルは、革共同を共産主義の党から堕落、変質させるものとなった。清水らはこれらの党内テロルに革命軍を使いながら、大部分の党員にたいしてはその事実を隠蔽し続けた。ここで「党内テロルだから公表しない」という言い訳は成り立たない。反対意見の抹殺が目的だから党内にも秘密にしたのである。革命軍の同志たちは、こうした腐敗した党内テロルの発動に黙って応じることによって、自らを清水ら政治局の私兵へとおとしこめてしまったのである。

 デマの流布

 さらに清水らは白井さんにたいする「反革命」規定や除名処分をもっともらしく見せかけるために、以下のようなデマを党内外に流布した。そのひとつは、98年の金沢市内における失火事件で、警察権力に逮捕された白井さんが「革共同からの脱党を権力に誓って釈放された」というものである。「脱党を権力に誓った」というのは事実無根のデマだ。実際、白井さんは、失火事件以降も革共同の党員として激しい清水批判の党内闘争を継続していた。だから清水らは、このような卑劣なデマを流して白井さんを除名したのだ。

 いまひとつは、上記の失火事件で逮捕された白井さんが、「救援連絡センターの弁護士を拒否してブルジョア弁護士に依頼した」というデマだ。これは事実の歪曲である。真相は、白井さんが獄中にとらわれていることを絶好の機会とばかりに、清水らが自分たちの息のかかった弁護士を送り込んで、弁護士接見を利用して白井さんに屈服を迫ろうとしていたのだ。この見え透いた策謀が白井さんによって拒否されたというだけのことである。権力を利用しようとしていたのは清水らのほうだったのだ。
 みっつめは、白井さんが肉体的テロルを受けたときに「警察に被害届を提出した」というデマだ。

 これは現在でも安田派周辺で「白井=転向者」「白井=権力のスパイ」論を裏づけるものとして語られている。しかしこのような事実も存在しない。これは実際に調べてみればすぐにわかることだ。だから清水らは、決して公式文書にはのせずに、もっぱら口コミでこのデマを流し続けている。

 愚劣な誹謗中傷

 また、白井さんにたいする個人攻撃として、彼が非実践的なインテリゲンツィアであるとか、党内で討論すべき内容を党外の出版物にのせたとか、党の組織防衛上重要な秘密を公表した、などという非難がなされている。この点について、われわれがつかんだ限りのことを明らかにしておく。

 白井さんは党内闘争の初期の段階で、清水によって意見の公表が禁止されたことに抗して、党大会の開催要求をおこなうとともに、党内で彼の文書を回覧することを要求していた。そうした要求がすべて拒否され、清水らが暴力に訴えて白井さんに屈服を強制してきたときも、白井さんは危険を冒して複数の政治局員に直接面談して自らの意見を訴え続けていた。しかしそうした努力が実を結ばなかったために、99年に民族問題にかんする最初の著書『20世紀の民族と革命―世界革命の挫折とレーニンの民族理論』(社会評論社)を刊行した。

 そして09年4月には、死の床から民族問題にかんする第二の著書『マルクス主義と民族理論―社会主義の挫折と再生』(社会評論社)を刊行した。このように、清水体制の抑圧と暴力に抗して、全党を獲得し、プロレタリア階級と人民大衆に訴えるために終生たたかいつづけた白井さんの生きざまをみれば、「非実践的インテリ」であるとか、「党の秘密を暴露した」などというのが愚劣な誹謗中傷に過ぎないことはあきらかだ。

 革共同のスターリン主義への転落

 90年天皇決戦をたたかった革共同は、戦後世界体制の崩壊という歴史的局面において、労働運動に軸足をおいて、革命に向って新たな本格的な前進を開始するために、5月テーゼによる戦略的転換を図った。そこで問われていたのは、先制的内戦戦略にもとづく軍事偏重路線によって党と労働者階級人民との生きた交通が失われてきたことと、とくに80年代後半において革命党の生命線である党内民主主義を圧殺する清水の独裁的な指導体制が形成される中で、革命的共産主義運動の腐敗と破産が進行していたことの総括であった。ところが5月テーゼの提起は、こうした全面的な総括をめぐって真剣な党内討論をまきおこしていくものではなかった。結局5月テーゼ以降の議論が、破産した清水体制の焼き直しでしかない清水・安田体制を、あたかもそれが「レーニン的オーソドキシー」であるかのように美化することで終わったことに根本的な問題があった。

 80年代総括の核心

 われわれが90年代の初頭に総括すべき核心問題は次のようなことであった。
第1に、80年代の中曽根反革命にたいしてプロレタリア階級と人民大衆による階級的反撃を組織するのではなく、「革命的武装闘争(ゲリラ・パルチザン戦争)」をもって代行させた革命軍戦略の誤りである。これによって革共同は労働者階級・人民との生きた交通を急速に失っていった。

第2に、党組織の準軍事組織化によって上意下達の官僚主義がまん延し、革命党の生命である党内民主主義、プロレタリア民主主義が圧殺されていったことである。それは革共同の党的力量が運動面でも理論面でも著しく後退していったことと無関係ではない。

第3に、そうした結果として、国内においては、総評解散・連合結成、国際的にはソ連崩壊とグローバリゼーションの急進展という歴史的転換点において、帝国主義の新自由主義攻撃の全面化とたたかいえず、スターリン主義を真に克服する社会主義・共産主義像を示すことができなかったことである。

 「白井問題」と一体

 以上の問題は、91年5月テーゼによる路線転換の裏面で進行していた「白井問題」の根底的総括と不可分一体のものである。先に述べた白井さんの3点にわたる批判は、本来であれば革命的共産主義運動の内実をより豊かなものにするはずであった。また白井さんの民族問題にかんする二つの著書はマルクス主義の民族理論に一石を投じたものであり、革命的共産主義運動の再生をめざすものにとっては真剣に向き合わなければならないものである。

 そうした一切を閉ざしたのは、清水らによる抑圧的な指導体制の完成にある。反対意見の禁止と排除、分派の実質的禁止、処分としての自己批判による自説の撤回の強制、党の執行機関のメンバーや大会の代議員までのすべてが任命制で決定される。こうして革共同を共産主義者の自発性、創意性を抑圧する機構に変質させたのが、清水・安田体制なのである。

 「白井問題」に即していえば、清水・安田らは政治局内部の重大な意見の対立を、全党員とプロレタリア階級と人民大衆から隠蔽し、そのうえで反対意見の持ち主に「自己批判」を強制して意見の放棄を迫り、最後は肉体的テロルによって追放、抹殺を図ったのだ。このどこに「レーニン主義」や「本多思想」があるのか。これこそスターリン主義への転落そのものではないか。

 謝罪と決意

 もはや清水体制のもとにある「革命的共産主義者同盟」は死んだ。「白井問題」としてあらわれた革共同の汚点、敗北、腐敗、変質を見すえ、えぐりだし、総括と反省を階級の共同財産とすることこそ、革命的共産主義運動を再生する唯一の道だ。まずなによりもわれわれ自身が「白井問題」にたいしていかなる態度で臨んでいたのかを自己切開しなければならない。われわれは当時、白井さんのたたかいを「権力闘争」と規定する清水らのやり方に賛成し、白井さんの主張を「反革共同」としてしかとらえることができなかった。そして清水らによる白井さんへの組織暴力に荷担してしまったのである。

 とくに第6回大会においてわれわれは、白井さんへの「反革命」規定と除名決議に賛成し、知らされなかったこととはいえ、その後の白井さんへの凶悪な党内テロルを容認してしまった。そして清水ら政治局の問題性にたいして、当時のわれわれはほとんど無自覚であり無批判であった。われわれは、このことを共産主義者としての痛苦の念をもって全面的に謝罪するものである。

 今日的にとらえ返すならば、われわれが06年3・14決起で、関西地方委員会指導部の組織暴力を粉砕してこれを打倒したたたかいは、「白井問題」にあらわれた革共同の腐敗と変質をのりこえるたたかいそのものであった。3・14決起によってわれわれは、1920年代のロシア共産党内におけるスターリンにたいするトロツキー・左翼反対派のたたかいの敗北を乗り越え、白井さんによる清水・安田体制にたいする核心的な批判を継承して、社会主義・共産主義を再生する第一歩を踏み出したのである。

 誤った評価や態度

 以上の革命的共産主義運動の今日的前進をかちとっていく立場から、われわれは革命的左翼内部における3・14決起や「白井問題」をめぐる誤った評価や態度について、批判をおこなっておく責任がある。

 ひとつは、3・14決起にたいして「クーデター」や「非組織的」「反革命」などと批判する革共同からの脱落者グループの主張である。きみたちは、3・14決起について非難する前に、自分たちが「白井問題」が起こったとき、どこにいたのかをまず明らかにすべきではないのか。清水の手先として白井さんへの肉体的テロルを組織したり、政治局員として清水の提灯持ちをやっていたのではないか。指導部が党内テロルの挙に出た場合は黙認するが、党員が腐敗した指導部の組織暴力に抵抗したら「非組織的」と非難し、そのような指導部を打倒したら「テロルだ」などとわめくようなやり方は、共産主義者がとるべき態度ではない。

 いまひとつは、革共同のおぞましい過去にふたをしたいと考える人びとである。きみたちの考えがたとえ善意から出たものだとしても、「死んだ革共同」の腐敗や汚点を隠蔽するところに革命的共産主義運動の再生はない。そうではなく、過去および現在の革共同の誤りを、自らのものとして切開することこそ必要なのだ。

 めざすべき党

 帝国主義の新自由主義攻撃とソ連スターリン主義崩壊後の現代世界と対峙し、新しい革命的共産主義運動を興そうではないか。われわれがめざすべき党とは、労働者人民のどのようなたたかいの現場にも存在し、そのたたかいから学び、階級全体の当面の利害と究極的な目標を結合することを瞬時も忘れない、そのような存在である。そのために自覚した先進的な労働者と被差別・被抑圧人民出身の共産主義者と革命的インテリゲンツィアと革命的農民が、自立した共産主義者として、互いの信頼にもとづいて結集する。その結集の原理は、共産主義革命の政治目的での一致にもとづく誓約にある。そのようなものとして、われわれは、階級全体の解放のために、いかなる犠牲もおそれずたたかうことを決意する。そして白井さんへの追悼と謝罪にかけて、その決意を必ず実現することを、固く誓うものである。


 3 白井さんとの再会と2つのテロ」を転載する。

 レーニン的オーソドキシー


 ある時、ふっと分かって来た。本社生活での最後の数年間、私は「レーニン的オーソドキシー」の立場から議論してきたつもりだった。けれども批判してきたその1つ1つは、清水さんや水谷さんのブレティンやテーゼを筆者たちが忠実に引き写したものだった。
私は「オーソドキシー」を素直に、「70年」を準備した「古典的」で「原則的」な大衆闘争への回帰、と理解してしまった。しかし、これこそが「誤り」だったのだ。「古典的」な党活動や、大衆運動の核心に、「レーニン的手法」という魔法の小槌が欠けていた。
 
今、思い出した。私が編集局に移って間もなくのこと。月刊『武装』で、この「レーニン的手法」についての論文が連載されていた。党内闘争、対権力闘争での「レーニン的手法」こそ宝なのだ。レーニンは、党内闘争に勝ち抜くためには手段を選ばなかった。党内民主主義について論ずる時の、諸々の論点の差異は、ただ勝つためという1点で矛盾しない。労農同盟論も、「農民に土地を」のスローガンも、「権力奪取への執念」として見習え。やはり、「信念的信念」こそが鍵だったのだ。
 
うーむ。空港公団の家族の死も、神社仏閣の焼き討ちも、レーニンがやった事そのものだったという事か。レーニンがやった事に比べれば、まだ甘いという事か。
これが「3・14」への、清水さんの総括の核心だったのかもしれない。“本多さんは甘い”それを克服せよ、だろうか。レーニンから何を学ぶべきか、という視点が、全く逆だったという事か‥。参った、参った。
 

 白井朗さんの除名


 01年、中核派の「第6回全国大会」で、政治局員の白井朗さんの除名の特別決議がなされたと聞いた。私も久しぶりに『前進』を読んだ。
白井さんが、「多少、多く本を読んだからといって」、「全責任をとる同志に敬愛の念を持たずに」、本を出そうとした。自己批判から逃げて、権力に投降した……。そんなところだろうか。投降の「証拠」に、「自首して氏名を名乗った」ことがある。けれどもホテルでの出火だ。ここには白井さんの社会への責任という革命家としての姿勢・進退が溢れている。清水さんは人を跳ねても、自分が安全圏に逃げ去るまで数時間、被害者を放置するのを常とするのだろうか? 救援連絡センターから駆け付けた弁護士の選任を拒否して、「ブルジョア弁護士」に頼った、という。中核派のI弁護士を断ったという事か。ブルジョア弁護士とは、北陸の中核派の弁護をしてくれる人の事だ、と後に白井さんに聞いた。
 
「革共同は、分派闘争を否定した事が無い。革共同は、常に分派闘争の歴史だ」、ともある。
 「分派闘争」……なるほど、その通りだと思う。ここに「上からの」を加えれば、スッキリする。中核派は常に、上からの分派闘争の歴史だ。私は、「下からの分派闘争」を知らない。沢山問題は、「鉄パイプ」の後に知らされた。関西支社を占拠し、地方委員を囚にして中央と交渉しようとした……という外形的事実だけが知らされた。田川さんの時も同じだ。
唯一、女性解放問題での「革共同への袂別状」が読み上げられた記憶があるだけだ。
 
 本多さんの時代は、まあそれで良かったのかもしれない。当時の「常任会議」の出席者の多くは20代半ば、この年代の5歳、10歳の差はそのまま、理論・政治力で雲泥の差だ。社会経験などゼロに近い若者たち。疑問や反対が出ても、バシバシ叩けばそれで済む。専制的指導も大らかにやれたはずだ。 唐突な路線転換、上からの軍令的転換、――転換の理由、その構想、清水さん、あなたは1度でも合意の為の説得をした事があるだろうか。 筆者たちにも聞いてみたい。あなた自身は1度でも「上から」でない分派闘争をした事があるのか?あなたは、「上からの分派闘争」の前に、予めあなた自身の内に、それに備える中身を準備した事があるか?あなたが単なる茶坊主でなく、単なる出世主義者でない事を、確信を持って言えるのか?
 
 白井さんとの再会
白井朗さんの『20世紀の民族と革命』(99年刊)と、2つのパンフを読んだ。1度会ってみたい、直接話してみたい。どう転ぶかは会ってからの事でいい。白井さんと会うために動いた途端、全身に震えがやってきた。下腹部からのキリキリした痛みが止まらない。「反革命」の汚名、「権力への投降、スパイ」のレッテル、そしてテロルへの脅威。
私は震えの中で悟った。「私はもう、中核派ではない。私は今、歩み出したのだ」。
 
 白井さんと会えたのは、1週間も後だったろうか。いろんな話をした。白井さんが、民族本の出版をめぐって清水さんと激しく対立した時、敗れて「自己批判」を書いた時、そして天田さんの手紙に引き寄せられて留守にしたアパートを襲われた時……。水谷さんの不可解な言動も、理論戦線の冬眠も、それで辻褄が合う。その時私は、何も知らずに白井派の旗を掲げて最後の闘いをしていた。私はとんだドン・キホーテだったわけだ。とんだお笑い草だ。
 

 2つのテロ


 02年12月、白井さんへの中核派によるテロがあった翌日、私はタクシーの同僚たちと朝食会をしていた。「白井さんがやられた」という電話が入った。やり取りを聞いていた同僚が「新聞に出ているって、大事件なんだ」と怪訝そうだ。私は「脱藩の浪士が藩の追っ手を受けている」とだけ答えて、席を立った。 病院のベッドに横たわる、白井さんの痛々しい姿に目を覆う。けれど為すべき事も山とある。私は為すべき事を為すだけだ。[1] 「鳩」が帰って来た。本社のメンバーがシンパたちに、白井せん滅を語っている。けれど直後には、本社も支社もかん口令が敷かれている。良いも悪いも質問すら許されない。「軍報」が出る気配も無い。なるほど、これが清水=中野体制か。 もう1羽の鳩は、約束の時間に大分遅れてやって来た。私と会っている事を責められて、大分脅かされたらしい。彼の使命は、私に自己批判文を書かせて、逃亡させる事だ。私は健保と生命保険の話をした。「これさえあれば食うには困らない」。「内ゲバには出ないんじゃ」と言う彼に、私は健保の仕組みを説明する。「謝った方がいいよ」と何度も説得されたけど、私は私だ。「もう会えないかもね」と恨みがましい彼の顔。犯人が中核派である事を疑う者は誰もいない。

 白井さんと角田さんへのテロ、その構想は何なのだろうか、私は考え続けた。共通するのは「中枢防衛」、そして共に元・中核派。共に「党内テロ」の延長線上にある。
まず角田さんへのテロ。中核=宮崎関係を清算せよとする角田さん。宮崎スパイ問題を暴露した角田さん。宮崎が提供したのは金だけではあるまい。中枢そのものが、宮崎の掌中に有ったと見たらいい。いつか恐るべき事実が明るみにされるかもしれない。結論は待とう。宮崎学と中核派の問題だ。
 
 白井さんへのテロは、清水さんの「本の出版は俺に対する権力闘争だ」という言葉に象徴される。そして何ともグロテスクな発想の『清水著作選』(97年7月)。亡くなった陶山さんの遺稿集ならいい。それをも差し置いて、生きて現役の清水さんの『著作選』なんて誰だって笑ってしまう。あなたは本多さんや黒寛ではない。
 
 どうやら、文化人類学にいう「劇場国家論」が当てはまりそうだ。中核派の中で、清水さんの神格化運動が起こっているのだ。「全責任を負う唯1無2の革命家」、彼はちまたでは「単ゲバだけの粗暴な人」とみなされている。野島さんはつぶれた。陶山さんは事実上、除名されたまま亡くなった。見渡せば茶坊主か不満分子。今やこの清水さん1人に、全ての難問がのしかかる。全ての矛盾と混乱・怒りに応える、快刀乱麻の快刀であって欲しい、理論も政治も傑出した人であって欲しい。党の中堅の中から、神格化を求める声が集中しているのではないか。しかしまた、神格化そのものへの疑惑も生まれる。無理を承知の神格化なのだ。
 
この時、白井さんの「出版企画」は、「王様は裸だ」と言うに等しい。白井さんはまず、生ける神様に畏敬の念を示し、『清水著作選』の企画を提案し、しかる後に恐る恐る『20世紀の民族と革命』プランの可否を伺えば良かったのだ。この当時の白井さんは、ようやく「政治局」に復帰して間もない。10年近く、「軍事小委員会」の専制的指導から隔絶され、革マル『解放』すらも届いていなかったという。松尾問題すら、知らされていない。党内の情況認識の欠如も、むべなるかな、とも言えようか。
 
右手に万邦無比な『著作選』、左手に党内テロの剣。清水=弁慶の仁王立ち。


[1] 清水=中野体制。2つのテロの特徴。、@鉄パイプを使わない。白井さんは「宅配便」に自宅に踏み込まれ、両手・両足を骨折。角田さんは、砂入りバッグ?で襲われた。A犯行声明を出さない。質問も許さない。統一戦線の会議では「中核派の犯行ではない」とシラを切る。B「不特定の犯人」への弾劾声明の署名者に、撤回を要求して脅迫的「説得」をする。

 白井朗さんの「中核派民主派宣言」について」を転載する。

 最近、白井朗さんの『中核派民主派宣言 新左翼運動の再生』(批評社2000.3.31)という本が発行されました。たった今それを読みとおしたところです。多くを語る余裕はありませんので、かいつまんで意見を述べておきたいと思います。(末尾に、批評社のサイトから書籍の宣伝を転載しておきます。ご検討の上、みなさんのご意見を聞かせていただければ幸いです。)
 白井さんが昨年出版したパンフレットについて、すでに「中核派の勧善懲悪的な相互の罵倒を超えて」(『国際主義』32号 1999年夏)で寸評をしてあります。今度の著作を読んでも、そこで批判した点はやはりそのまま残ります。
 確かに、今回の著作では、「すべての新左翼の党派が、スターリン主義をのりこえることに失敗したことを認識」p.9し、「この四〇年間の反スターリン主義・革命運動の歴史を謙虚にそして厳格に総括し、新たな出発点を築くためにお互いの論議のための共同の場を創りあげること」を呼びかけており、共感できる面があります。いわゆる「内ゲバ」にたいする否定的な総括に接近しようとする志向がみられ、また、マルクスやレーニンを悪い意味で絶対化しない見地が明らかになっており、論点が生じて面白い側面があります。たとえば1921年におけるボルシェビキの分派禁止にたいする批判は同意見ですし、新左翼運動の総括として論争すべき意義を感じるところがいろいろあります。

 しかし、根本的な疑問・批判を何点かにしぼって提示せざるをえません。

 第1に、一方でマルクスやレーニンがその時々に制約や限界を有してきたことを指摘しつつ、そのように理解しない現中核派指導部を批判しています。他方ではエンゲルスの「反デューリング論」に無批判的で、そのエンゲルス理論に依拠して現中核派指導部を批判しています。こうした矛盾がはなはだしいと思います。
 それを最も感じるのは宇野理論に対する評価のところです。白井さんは、「宇野経済学に反対する人は例外なくスターリン主義に転落し、アンチ・マルクス主義に転落する」p.154 と断言し、宇野理論の全面擁護をもって、宇野理論に反する現中核派指導部を断罪しています。
 宇野理論にたいする評価はずいぶん異なりますが、ここでは内容に立ち入りません。問題に感じるのは、マルクスやレーニンにたいして弱点や限界を指摘しながら、宇野理論については「マルクスの批判精神」がなんら発揮されないことです。その意味で一方では相対化、他方では絶対化する矛盾を感じます。

 第2に、組織論的な総括が、中核派の実際のシステムとして、あるいはそれを規定した路線全体から具体的になされていない点です。
 もちろん、「ボリシェビキ自体が分派であり、分派活動はなんら否定されないのが本来のレーニン主義組織論であった」「少数意見が圧殺されることを防ぐためには、少数意見の機関紙掲載の義務的実行と、少数派の横断的団結による分派活動の自由が必須不可欠である。・・・党大会に少数意見を機関紙をつうじて提起する自由と、大会決定には服従するが、次期大会で再び提起する自由が当然与えられるべきである」p.78といった部分はおおいに賛成です。
 しかし、こうした主張は、およそ20年前に中核派から分派宣言した「革共同試練派」が精力的に展開した内容です。そのことに一言もふれない組織総括は誠実ではないし、一つの欺瞞でしょう。
 白井さん自身が中核派の政治局員であり、指導部であったわけですから、規約がどうであり、実際の組織生活をめぐる論争の処理をどうしたのか、主体的・実践的立場からの総括が充分可能なはずです。さらに、今日の白井さんの組織論的認識と正反対であった中核派の組織実践には、それを要求した政治・思想路線があったわけで、その関連の中で総括は具体化され、深められるはずです。
 第3に、そうした総括を妨げるものとして、組織の路線やシステムの問題をたえず個人的資質の問題に転化し、還元してしまう悪しき主体性論を感じます。
 中核派現指導部に対して「頭がオカシクなった」「ボケ」などの差別的言説を含めて勧善懲悪的に断罪するくだりは読んでいても正直気分が悪くなります。このような個人批判に溺れてしまうと、他者を他者として了解し自分自身を対象化する回路が閉鎖され、自分自身がどういう対応をし、どういう問題があり、どう限界を突破していくのか不問になってしまうんだと思います。

 最後に、白井さんは現中核派指導部を批判しつつ、こう語っています。
 「簒奪者のように党内民主主義を否定し、綱領的立脚点のスターリン主義的変質を専制的におこなうことが可能な組織とは一体何なのか? それはまぎれもなく組織論自体においてスターリン主義的なものを、革共同・中核派の創立の出発点において本多書記長以来一貫して明快にえぐりだし得ず、むしろスターリン主義組織論を前提として生きてきたことになる。・・・」p.22
 これは昨年からさらに踏み込んだ率直な表明だと思います。創立時点から具体的総括にわけいって行くはずの問題提示だと思います。本来なら、そうした組織実体を要求した政治的・思想的路線を切開していくものとして。
 以上。「お互いの論議のための共同の場を創りあげること」を願って。 (2000.4.20 津村 洋)


【資料】 中核派民主派宣言 新左翼運動の再生

白井 朗著 四六判 232頁 定価(1800円+税)
2000年3月31日発行
社会批評社
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/shakai.htm

◆初めて書かれた革共同・中核派内部の実態◆

●新左翼最大党派、革共同・中核派の結成以来の現役最高幹部が初めて書いた中核派の実態。
●60年安保・70年安保闘争を闘った中核派が、なぜ軍事主義・官僚主義、セクト主義に変質したのか、と現中核派の変革的再生の途を痛苦に提言する。
●そして、中核派の変革的再生と同時に、日本の新左翼運動の再生の途をも提言する。
[主な内容]
●序 章 革共同・中核派の変革的再生
●第1章 清水丈夫の独裁体制
●第2章 革共同の歴史的総括の視点
●第3章 デマゴギー政治に転落した清水一派とカクマル
●第4章 仲山『資本論の研究』の批判
●第5章 中核派の万年危機論・万年戦争論







(私論.私見)