血債の思想「7・7自己批判路線」(7・7路線)

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.3.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、中核派の「血債の思想「7・7自己批判路線」(7・7路線)」を確認しておく。

 2007.10.20日 れんだいこ拝


【華青闘告発と中核派の自己批判】
 1969.3月、華僑青年闘争委員会(華青闘)が結成され、日本政府が従来の出入国管理令に替わる新たな出入国管理法の制定の動きに対して、出入国管理法制定阻止運動の中心組織として活動した。他の新左翼党派もこの運動に共闘した。

 1970.7.7日開催予定の「7.7盧溝橋33周年・日帝のアジア再侵略阻止人民大集会」の実行委員会事務局の人選を巡って華青闘と中核派が対立した。中核派は当初実行委員会事務局を構成していたベ平連など3団体を除外し、代わって全国全共闘(全共闘の全国組織)と全国反戦連絡会議(反戦青年委員会の全国組織)を入れるよう要求した。華青闘はこの両団体が入管法反対運動について具体的な活動をしていないことを理由に拒否したが、中核派は実行委員会において、この提案を承認させた。
 7.7日、東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘主催の盧溝橋33周年・日帝のアジア侵略阻止人民集会を開催、4千名(うちべ平連550名)結集した。席上、華青闘が、当事者無視の中核派の行動に反発、「69年入管体制粉砕闘争と65年日韓闘争を通じて、日本階級闘争のなかに被抑圧民族問題を組み込むことを定着させなかった。当事者の意向を無視し、自らの反体制運動の草刈場としてきた新左翼もまたアジア人民に対する抑圧者である」と新左翼を批判し、新左翼各派に対して訣別宣言を出した。この宣言を別名「華青闘告発」とも云う。た。華青闘はこの日をもって解散した。 

 華青闘の新左翼批判の内容は次の通り。猛獣文士氏により「
七・七集会における華青闘代表の発言」がサイトアップされており、これを転載しておく。 
七・七集会における華青闘代表の発言
(中核派機関紙「前進」1970年7月13日3面)
 七・七人民大集会において華僑青年闘争委員会の代表が行った発言の要旨を次に掲載する。これはメモから再生したものなので不正確であることを免れないが、文責はすべて編集局にある。
 本日の集会に参加された抑圧民族としての日本の諸君!

 本日芦溝橋三十三周年にあたって、在日朝鮮人・中国人の闘いが日本の階級闘争を告発しているということを確認しなければならない。芦溝橋三十三周年の問題と、在日朝鮮人・中国人の問題とは密接不可分であり、日本人民はそれを知るべきである。諸君は日帝のもとで抑圧民族として告発されていることを自覚しなければならない。  今日まで植民地戦争に関しては帝国主義の経済的膨張の問題としてのみ分析されがちであったが、しかし日本の侵略戦争を許したものは抑圧民族の排外イデオロギーそのものであった。

 今日、日・朝・中人民が分離されたかたちでマルクス主義が語られており、日本国家権力と日本人民、日本国家権力と中国人民、日本国家権力と朝鮮人民という形での分離が存在し、そういう形で植民地体制が築かれてきたが、それは分離したものではない。日本人民は三者の中でどうするのか。抑圧民族という自己の立場を自覚しそこから脱出しようとするのかそれとも無自覚のまま進むのか。立場は二つに分かれている。

 なぜわれわれは、本日の集会に向けての七・七実行委を退場しなければならなかったのか。闘う部分といわれた日本の新左翼の中にも、明確に排外主義に抗するというイデオロギーが構築されていない。日帝が敗北したとき、ポツダム宣言を天皇制が受けたかたちになり、日本人民がそれを避けられなかったところに、日本人民の排外主義への抵抗思想が築かれなかった原因がある。
 七・七集会を日本の新左翼が担うことは評価するが、それをもって入管体制粉砕闘争を怠ってきたことを免罪することはできない。七月三日の実行委員会に集中的にあらわれたように、七・七集会を全国反戦・全国全共闘の共催に使用とする八派のすべてが、入管闘争の一貫した取りくみを放棄しており六九年入管闘争を党派として総括することができなかった。また各派は、なぜ六五年日韓闘争において、法的地位協定の問題を直視しなかったのか。六九年入管闘争を闘っていたときも入管法を廃棄すればプロレタリア国際主義は実現することになるといった誤った評価が渦巻いていた。しかもそれは大学立法闘争にすりかえられ、十一月闘争の中で霧散し消滅し、今年一月、華青闘の呼びかけによってようやく再編されていったのだ。

 このように、勝手気ままに連帯を言っても、われわれは信用できない。日本階級闘争のなかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったのだ。日韓闘争の敗北のなかに根底的なものがあった。日本階級闘争を担っているという部分にあっても裏切りがあった。日共六全協にあらわれた悪しき政治的利用主義の体質を、われわれは六九年入管闘争のなかに見てしまったのである。今日の日共が排外主義に陥ってしまったのは必然である。

 われわれは、このかん三・五の「三・一朝鮮万才革命五十一周年入管法阻止決起集会」と四・一九の「南朝鮮革命十周年、全軍労闘争連帯、安保粉砕、沖縄闘争勝利、労学窓決起集会」で声明を出し、その内容を諸君らが受けとめ自らの課題として闘っていくことを要求した。四・一九革命に無知でありながら国際闘争を語るようなことでどうするのだ。

 われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか。実践がないかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。われわれはさらに自らの立場で闘いぬくだろう。このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。

 新左翼各派はこれに強い衝撃を受けて次々と自己批判を声明するに至り、マイノリティとの連携を模索するようになった。

 中核派がこれを真剣に受け止め、闘う中国人青年からの糾弾を受けとめるとして自己批判し、「連帯戦略」を形成・深化させていった。これを「プロレタリア国際主義の7・7自己批判路線」と云う。以降、中核派がありとあらゆる反権力的な大衆闘争にコミットしていく契機となった。
 松下知・氏の 「同志横井勝を追悼する」(かけはし2001.3.26号)の該当箇所を確認しておく。
 韓国では朴大統領三選反対闘争が激しく闘われていた。日本政府は出入国管理体制を強化する動きを示していた。いち早く入管体制粉砕の闘いを呼びかけ、東京入管闘を組織した。横井は東京入管闘の代表を務めた。革マル派を除く新左翼八派共闘に、この東京入管闘と全国反戦そして後に全国反軍が加わり、急進主義運動を牽引していった。

 一九七〇年の蘆構橋事件の記念日七月七日、華僑青年闘争委員会とともに、集会を組織しようとする会議の席上で中核派・山森の華青闘への差別発言があり(いわゆる「7・7」問題)、鋭く日本人側の資質が問われた。中核派は自己批判し、アジア人への「血債」を強調し、抑圧民族の自己否定へと転換した。第四インターは被抑圧民族の無条件防衛、統一朝鮮革命・アジア革命を強調した。

 華青闘の告発を受けて、横井はねばり強く何度も会議を続け、華青闘の告発の意味を全体のものとし、一国主義的新左翼党派を変えてアジア人民とともに進もうと努力した。新左翼諸党派での内ゲバが日常的になりつつあった時、もし横井の努力がなかったら、分裂・内ゲバになった可能性は否定できない。その後、沖縄復帰闘争の評価をめぐり、インター・中核派ブロックと返還粉砕派の解放派・ブントなどに分裂していった。明治公園での中核派と解放派の大衆的な内ゲバなどもあり、東京入管闘は機能停止していった」。

【7・7路線と血債の思想】
 「7・7路線の現代的再確立と反帝反スタ世界革命論の深化」の「反スターリン主義を貫く7・7路線と血債の思想」。
 ⑴ 革共同が10・7蜂起に対して、以上のような断固支持と連帯の立場をとることを可能にしたのは、70年決戦過程で確立した「7・7自己批判路線」(7・7路線)、「闘うアジア人民(被抑圧民族人民)と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ」の綱領的路線を堅持してきたからである。

 米帝大没落と戦後世界体制の最後的崩壊の過程は、米帝・帝国主義の中国侵略戦争―世界戦争の過程として進行している。同時にそれは、帝国主義の世界支配の矛盾の集中点としての中東・パレスチナをはじめ、新植民地主義体制の崩壊と民族解放・革命戦争の爆発を不可避的にもたらす。

 帝国主義の侵略戦争・世界戦争を内乱に転化し、プロレタリアートの根底的解放を実現する世界革命は、この民族解放・革命戦争との結合をかちとることによってこそ勝利する。帝国主義国・抑圧国におけるプロレタリアートの革命的蜂起と植民地=新植民地主義体制諸国における民族解放の革命的蜂起の結合によるプロレタリア世界革命=反帝・反スターリン主義世界革命に向かって、総決起すべき時を迎えているのである。7・7路線について、あらためて再確認し、現代的に再確立することが、今日極めて重要な課題になっている。

 ⑵「7・7自己批判」とは、直接には1970年7・7集会(「7・7盧溝橋33周年・日帝のアジア再侵略阻止人民大集会」)を在日朝鮮・中国―アジア人民との共同の闘いとして準備する過程で、華僑青年闘争委員会(華青闘)から革共同の70年決戦に対して「入管闘争の取り組みの不十分性」「抑圧民族としての立場の自覚の欠如」という点で批判がなされ、それに対して差別的言辞をもって応えてしまったことに対する自己批判である。

 革共同は、華青闘からの批判とそれを受けての自己批判を通して、日本プロレタリアート人民であるわれわれが、侵略される側のアジア人民の立場に立ち、彼らの現実の存在と闘いを措定し、学び、連帯していくことを、日本におけるプロレタリア自己解放闘争、革命的共産主義運動の根幹に据えた。ここから「闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ」の綱領的路線が確立され、71年11月決戦に至る革命的内乱的爆発をかちとっていった。


 7・7路線は、単に「被抑圧民族や被差別人民の闘いを重視しよう」というものではない。帝国主義の支配下での「マイノリティー尊重」のような、ブルジョア民主主義の徹底を要求するようなものでは断じてない。それは、プロレタリアートの自己解放闘争は抑圧されたすべての人民を解放する闘争としてのみ成り立つという共産主義の原理を徹底的に貫く路線であり、帝国主義の排外主義、差別主義による人民分断と侵略への動員攻撃との闘いの決定的意義を自覚させるものだった。スターリン主義によってゆがめられ、破壊されてきたプロレタリア国際主義を帝国主義国・抑圧国におけるプロレタリアート人民の中によみがえらせるものであり、反スターリン主義の革命的貫徹そのものでもあった。

 そしてこの7・7路線は「血債の思想」を打ち立てた。それはスターリン主義の裏切り的指導のもとで、日本プロレタリアートが日帝の排外主義と侵略への動員攻撃に敗北し続け、その結果もたらされた2千万アジア人民の犠牲、さらに戦後も侵略と抑圧を許してきてしまったその「血債」を、自らの血を流して日帝を打倒する闘いをもって「弁済」するという立場に立つものだった。

 この7・7路線と「血債の思想」は、すべての被差別・被抑圧人民と連帯し、全人民の解放を自己の解放として闘うことができるプロレタリアートの階級的誇り、帝国主義の排外主義に屈し続けてきたスターリン主義を根底から乗り越えようとする革命的共産主義者としての自覚と歴史的使命感を燃え立たせるものであり、党と階級の力を爆発的に引き出していったのである。

 ⑶7・7路線、「血債の思想」の根底にあるものは、帝国主義の支配を打ち倒す以外に自らの解放を実現することができない階級であるプロレタリアートの革命性に対する無限の信頼である。日本のプロレタリアートは、闘うアジア人民、在日朝鮮・中国—アジア人民と連帯し、日帝の侵略を内乱に転化し、日帝打倒を必ずやり遂げることができる革命の主体である。このことへの揺るぎないマルクス主義的確信である。

 これに対し、かつて革共同の一部指導部に発生した血債主義・糾弾主義は、プロレタリアートの無限の革命性に対するマルクス主義的な確信から出発するのではなく、それへの根本的な不信と絶望から出発するものだった。彼らは「血債の思想」を「帝国主義国の労働者は排外主義・差別主義にまみれており、そのままでは革命の主体にはなれない」という階級不信の思想にねじ曲げ、階級的労働運動路線に敵対した。

 血債主義はカクマル反革命との内戦を経て、労働運動や大衆運動における後退を余儀なくされた過程で党の指導部の一部を占めることになったが、労働者階級の党としての革共同を決定的に再生させる「党の革命」(2006~07年)によって打倒された。この血債主義の打倒は、「7・7路線」を帝国主義国におけるプロレタリアートの自己解放の路線として据え直し、真に貫徹しようとするものだった。事実、反戦闘争を軸とする階級的労働運動とは、何よりも排外主義と闘い、自国帝国主義=日帝の侵略戦争を阻止する闘いとして提起され、実践されてきた。だからこそ、日帝の植民地だった南朝鮮・韓国の民主労総と日本の動労千葉、11月集会に結集する労働者人民とが「瞬時にして」結びつき、激しい排外主義と分断の攻撃が吹き荒れた新自由主義の20年の過程を通して、その階級的・国際的団結をますます強化するという「奇跡」を実現してきたのである。

 10・7蜂起の衝撃とこれに対する米帝(帝国主義)=イスラエルの凶暴な虐殺戦争の展開は、われわれ帝国主義本国の抑圧民族プロレタリアート人民の闘い、その現状について今のままでよいのか、闘う被抑圧民族人民との連帯とはどうあるべきかということを突きつけ、世界のプロレタリアートの革命的意識を一気に覚醒させた。われわれは10・7蜂起―闘うパレスチナ人民と連帯する質をもった反戦闘争、侵略を内乱に転化する反戦闘争を闘い抜くことが、革命的共産主義者とその党の全存在をかけた義務であることを強烈に自覚した。8回大会―31全総路線に、「7・7路線」「闘うアジア人民・被抑圧民族人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ」の綱領的路線を決定的に据えつけて闘うことが明確になったのである。

 「」。
①「血債主義者」の一掃とはなんだったのか?
 その後の長い間の「血債を語るのは血債主義者であり、反党・反革命」としてきた経緯を頬かむりする欺瞞をまずは感ずる。いやそもそも「血債」をめぐる議論以外でもすべてをいっしょくたにして「血債主義者」に仕立て上げてきたように見える。その挙句の果ての「血債の思想」の復権だというのだ。かつて共産党も、不破委員長の時代に、トロツキーや旧ソ連指導部を「復権」し「名誉回復」させた。60年代、70年代に新左翼や全共闘運動に関わった人たちにとっては、開いた口が塞がらない。他方「トロツキスト暴力集団」論や「トロツキスト=帝国主義の手先論」で武装して「民主化棒」を振り回してきた共産党・民青の諸君たちも愕然としていると聞く。その同じ伝ではないのか?
②血債の思想とは何だったのか?
 ここでは当初から、中核派の中でも不一致があったと思える。私は何度か書いても来たが「第2の7・自己批判」と地域入管闘の陣形を欠いた血債論など問題にもならない。(別途、書いてみたい)②そしてまた、70年代~80年代、三里塚と並んで「狭山・入管」は特に新たな若者・青年たちが左翼・中核派に結集する大きな思想的・精神的な核であったことも大事だ。革マルとの内戦に踏み切る学生たちにも譲れぬ一線として「後背の陣」になったと思う。私から言えば、鉄パイプやロケット弾のための「政治思想」として、中核派諸個人を追い込む方便に転落していたと思う。いずれにせよ、巻頭論文ではこの大事な領域で、応える・深める展開はない。
③「7・7路線」という言葉も唐突だ。
 『前進』の過去の記事を検索しても、実はほとんど出てこない。「7・7路線」などというものはありうるのか?「路線=思想」などという等式はありうるのか?路線で思想を代替するなどという言辞が許されるのか? これってスタの論理ではないのか?私自身がこの言葉に違和感があって、無視していたのかもしれないが、いつから「定式化」されたのだろう?そうそう、定式化の中身は??こんなことは60年代ー70年代前半の新左翼界では許されないものだったのではないのか?
④もともと、「7・7の衝撃」とは何だったのか?「血債の思想」とは何だったのか?
 確かに、華青闘の告発を受けて当時の中核派全学連のトップが居直ったことは事実らしい。そして清水氏が「まずい、まずい」と前進社に飛び込んで来たのも事実だろう。つづいて政治局で深刻な議論が重ねられた。その仮の結論が「7・7自己批判」だと聞く。戦後も進んで、在日や華僑が国内政治に登場する可能性や現実性など、私の世界にはなかった。それ自体が唐突だったのだ。
⑤反スタの再構築・再点検
 私が思うに、反スタにせよ、三全総にせよ、血債の思想とはまだまだ程遠い。60年代末の沖縄闘争は、活動家たちには唐突だった。本多さんは「一冊でもいいから関連本を読め」と言った。人によっては「なぜ沖縄に取り組まないのか」と不満を抱えてきた人もいよう。しかし学生や若者たちには…。「砂川・横田などで勝ち取った闘いの成果が、実は沖縄への基地移転でもあった」という事実をも突きつけた。そもそも「本土復帰闘争」にどう向かい合うかなど、遡上にも上っていなかった。(古参中の古参たちは「正確に語れ」と怒るかも知れないが) 「血債の思想とは関係ないことを言うな」、と言われそうだが、私は言い続けよう。よく言われる「地図を逆さまにしたら何が見えるか?」ということ。あえて言えば、東大闘争では「置換可能性」という言葉も生まれていた。思想とは諸個人の感じ方や生き方を規定するものであること。思想的深化や形成は、党派や政治選択には直結しない領域のものであること。ごやまぜにしてはいけない。そして「血債の思想」は既成の反スタの世界認識のあり方や、関りをコペ転するものであったのだと思う。女性解放・障がい者解放…。大江とサイードの往復書簡として知られるもの。「ポストコロニアリズム」という世界認識の切り口。反スタを繰り返せば終わり、ではない。反スタだけが専売特許を取れるわけでもない。「白井朗派≒白井系」の1人として、もっと多くを書きたいのだけれど、いつか、別の機会に譲りたい。

【中核派の「血債の思想/7・7自己批判路線(7・7路線)」考】





(私論.私見)