小野田襄二履歴

 更新日/2020(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「別章【小野田襄二問題考】」をものしておく。

 2008.2.1日 れんだいこ拝


【小野田 襄二(おのだ じょうじ)履歴】
 「ウィキペディア(Wikipedia)小野田襄二(おのだ じょうじ)

 小野田 襄二(おのだ じょうじ)の履歴は次の通り。

 日本の政治運動家、作家、編集者、専門学校講師。元中核派政治局員。学生運動の「ヘルメットにゲバルト棒」スタイルの創始者である。小野田猛史の弟。相対性理論が間違っていることの証明を主張した反相対性理論本『解体新書アインシュタイン』・『相対性理論の誤りを完全解剖する』や、『あなたも解けるフェルマーの定理完全証明』・『自然数解が存在する全構造の解明』を出版した。

 1938(昭和13)年、東京都新宿区に生まれる。
 1958(昭和33).4月、 埼玉大学文理学部理学科物理専攻に入学。入学と同時に勤務評定反対闘争に出合い物理の道を捨て革命運動(学生運動)に邁進する。当時の学生運動では傍流の革共同の隊列に加わる。
 1961.12.15-17日、全学連第18回臨時全国大会で社学同系中執4名を罷免し、委員長―根本 仁・書記長―小野田襄二体制の執行部を選出する。
 1962年9月、単位習得不可能の理由で除籍される。
 1963(昭和38)年、埼玉大学を中退。革共同第三次分裂(中核派と革マル派)の際、思想的には革マル派の最高指導者になった黒田寛一氏の影響を色濃く受けながら、本多延嘉氏の人間に惚れ込んで中核派についた。小野田氏は但し、本多書記長の感性、知性、理論家としては高く評価しながら、実践家、采配家としてのその資質については厳しく疑問視している。本多書記長はその言い方に毒と棘があって、現場で指導しようとすると様々な軋轢が起きたと証言している。「人脈的には本多氏系列だった松崎明(動労東京地本青年部長だったそう)が革マルに付いたのは、そのような本多書記長の資質を見極めた結果だった・・・らしい」の言があるとのこと。「革共同政治局(本多さん)は終始一貫、全学連に対する不干渉主義を貫いていた。 「ドタバタしていいから、とにかく、お前らが自分の発想でやれ」【自立主義】が本多さんの組織観だった」とも証言している。
 1965年春、自治委員総会前日のつるや旅館での作戦会議。
 1965.7.8日、都学連再建第14回大会。 
 1965-67年、革共同中核派学対部長として60-70年安保間の学生運動を指導。三派(中核派・解放派・社学同)全学連創設(再建)に関与する。
 1967年、10.8羽田闘争(第一次羽田闘争)直前、中核派から離脱。 理由の核心は不明であるが後に次のような認識を披歴している。
 概要「ある時期から本多氏の組織観は変わっていった。自らが積極的に現場を指導し仕切るようになった。それが(中核派政治局員として活動していたた私には)耐えがたい事態となった。理論家としての本多氏には陶酔するが、現場で仕切る能力はなかった」。
 「ある時期から本多氏は『革命の現実性』を語るようになった。その路線において積極的に若者を指導し激しく街頭主義的実力闘争を行った結果、中核派は『新左翼界のトッププランナー』としての地位を確立した。しかしこの指導方針で多くの若者が『破産』してしまったのも事実である」。
 離脱後の小野田は、彼を支持する仲間と語らって小規模なグループを結成し「それなり」の活動を続ける。中核派にとってみれば初の分派が結成されたことになる。
 1968.8月、中核から離れた学生を中心に雑誌の企画会議をもち、小野田氏の他、中村、新木、加納の各氏と田中邦之が主要メンバーとなった。「遠くまで行くんだ」の題名については、吉本隆明の詩や福田善之の脚本にも同名のものがあるが、実は白土三平の『カムイ伝』から触発されたものだという。
 1968年10.30日、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)の政治局員にして、1967年の10・8羽田闘争前夜に中核派を離れた小野田襄二を中心とする数人のグループが思想同人誌「遠くまで行くんだ…」を創刊する。その号は、野口成郎の序詩「知られざる人々へ」を冒頭に掲げ、小野田の「倫理的、あまりに倫理的な――日本的党の倫理性の崩壊」、新木正人の「更科日記の少女――日本浪漫派についての試論(一)」、重尾隆四の「フランス『五月革命』の拡散と進行」などを収録している。

 刊行の趣旨は、「戦後を破壊せよ。戦後の情況を破壊せよ」というアジテーションに集約されているが、本音は「全力量をふりしぼって日本の旧来からの政治思想・政治党派を倒さねばならない」という決意表明に表われている(「われわれの闘いの出発にあたって」、創刊号所収)。小野田たちは、誌名から推測される文芸的表現の場ではなく新たな政治党派の建設を意図していたが、誌名はその意図を裏切っている。誌名のアイデアは、吉本隆明の詩「涙が涸れる」に由来している。ときはちょうど「三派全学連」から「全共闘」へ、学生運動の主人公が入れ替わる時期でもあった。党派からの「自立」は、活動家のみならず、周囲にいた多くの潜在的活動家にも新鮮な驚きを与えた。絓秀実によれば、創刊号は、初刷りの2000部を売り切って2000部を増刷し、第2号以後は3000部刷ってほぼ完売したという(『遠くまで行くんだ…』完全復刻版解説、2007)。この雑誌は当時もっとも成功したリトルマガジだった。全国の大型書店や生協に置かれ、基本的に四千部出されたという。「ブント(共産主義者同盟)のなかでは叛旗派に一番読まれていた」という。
 第2号は、1969年2月20日発行と奥付にある。東大安田講堂攻防戦の前に校了になったと見え、「編集後記」にそのことは記されていない。執筆陣はいずれも意気軒高である。小野田は「社会主義社会論の一考察――等量労働交換について」と題した論考で、いまだ実現されていない仮想社会の経済モデルを論じてみせた。また重尾隆四は「吉本隆明試論」(公的媒体に発表された最初期の吉本論)の連載を開始している。
 第3号は、1969年7月20日発行。取り巻く情勢は明らかに後退局面に入っていた。小野田は「情況の重さと私たちが行おうとすることの途方もない困難を前にして、投げ出したくなる気持ちにふと襲われる」と「編集後記」に記している。彼が寄せた論考は「黒田寛一の闘いと敗北(一)――戦後日本マルクス主義論」である。吉本ではなく、かつての師・黒田の再検討が始まっている。
 第4号は、1970年5月15日発行。それまで編集委員/寄稿者たちが署名入りで書いていた「編集後記」がこの号にはない。理由は不明である。
 第5号は、2年間をおいて1972年11月10日に発行された。この間三島由紀夫の割腹自殺があり、赤軍派のハイジャックや武装闘争があり、連合赤軍のあさま山荘攻防戦と私刑殺人事件があった。小野田は巻頭論文として「政治における極北の論理――再出発への宣言」を書いた。むろん連合赤軍の事件を採り上げている。そしてこの論考は吉本隆明への痛烈な批判を含んでおり、・・・ログインして読む
 1969.9月、芝浦工大大宮校舎内で、中核派の学生が襲われ、逃げ損なった結果の転落死事件が発生する。初の内ゲバによる犠牲者を生み出す。襲撃したのが小野田グループだったことから責任が追及され、この事故を機に小野田は学生運動の現場から去り、絶望的な「総括」を試みることになる。その成果が「体験的政治論」に結実する。
 1970.8月、最首悟と小野田襄二り対談「黒田寛一と観念の革命(対談) (戦後とは何か――思想家論による試み(特集))」(現代の眼第11巻第8号、現代評論社 130-143頁)。
 1971年、最首悟、小野田襄二「黒田寛一」(『戦後思想家論』現代の眼編集部編、現代評論社、1970年8月号の対談の再録)。
 1975~1982年個人誌『劫』(1~8号)。
 1986(昭和61)年、高校進学塾ネオセミ、駿台予備校、日本ジャーナリスト専門学校などの講師を勤める。
 2003.6月、「革命的左翼という擬制1958~1975」(白順社)出版。
 2007.11月、一九六八年から七四年の全共闘運動末期に六号出され、当時の新左翼活動家、学生運動家たちに多大な影響を及ぼしたリトルマガジン「遠くまで行くんだ…」(白順社)の完全覆刻版が刊行された。
 雑誌『情況』八月号でも、「新左翼とは何だったのか」という特集が企画され、連合赤軍事件をめぐって大下敦史氏を司会に、小野田氏と青砥幹夫氏の対談が掲載され、この『遠くまで…』の雑誌についての概要にも言及されている。
 2005年、小野田襄二「文献再録 社会主義社会論の一考察」(『カオスとロゴス』第27号122-136頁、ロゴス社)。
 2008.3.30日と6.8日。文京区民センターと駿河台の毎日アート出版ギャラリーにて、二回にわたり覆刻版『遠くまで行くんだ…』の合評会が催された。「ミニ・シンポジウム『遠くまで行くんだ』とそれからの時代」と題されたこの集まりは、当時同人だった小野田、新木、角口の各氏の他、周縁の人々、また覆刻版を刊行した白順社の江村信晴、解説を担当した絓秀実、詩人の近藤洋太、佐々木幹郎といった人たちも顔を合わせた。雑誌近傍にあった周辺の人々を中心とした、十数人ほどのささやかな集まりだったこともあり、出席者全員に発言の機会が与えられた。

 創刊当時の六〇年代末期、新左翼運動も過熱化し、内ゲバによる死亡者まで現れると、闘士たちの間でも、運動そのものに対する疑問の声もあらわれはじめていた。そうした中、『遠くまで…』の存在は「反戦連合の機関誌」的な印象で迎えられ、運動から離れた学生の感性に合致するものがあったという。ただそうした読者の評価とは別に、当の小野田さん本人が「小野田派」とよばれることに違和感をもたれた等、当時の雰囲気を掴む上でも、当事者から興味深い発言を窺うことができた。第一回の合評会では、六号まで出された既刊誌の概要を中心に進められ、第二回では小野田・新木両氏によって新たに覆刻版に加えられた「第七号」を軸に、日本浪曼派と土着、反近代と戦後のサブカルチャーとの関わり、また昭和期における戦争指導者の責任問題から九・一一のテロ事件、今日の環境問題にまで話題が広がった。


 全共闘運動に参加した多くの青年たちが、その後〝革命〟から足を洗い、高度消費社会の実現した八〇年代日本の企業戦士として、今日の退職に至るまで邁進して行った印象があるが、これまでの信念を旨に新たな〝運動〟の形で継続していった人たちもいる。バブル崩壊や戦後日本の価値の転換といった大きな変動もあり、それぞれの同人たちにも一身上の変化があったはずである。参加者たちが、四十年の〝空白〟を全く感じさせないほど、活き活きとしたとした討議を展開させていた。さらに「遠くまで」歩んだ、それぞれの四十年の「物語」を伺いたい衝動にかられた。(Y)(※文藝同人誌『昧爽』第十八号掲載、平成20年11月)
 2008年8月、小野田襄二、青砥幹夫大下敦史完全復刻版『遠くまで行くんだ』――連合赤軍事件をめぐって (特集 新左翼とは何だったのか)」(『情況 第三期』第9巻6号(通号75)153-172頁、情況出版)。
 2021.1.2日深夜、逝去。

【小野田の左派運動批判考】
 小野田の中核派批判その1
 小野田の中核派批判にはキモとなる箇所が2つある。1つはマルクス主義を革命理論として成立させている根源にある恐慌必然論批判である。この問題に対して、小野田は、「マルクス主義が、帝国主義戦争必然論、恐慌必然論を打ちたてるのは恐慌必然論によってのみであり、これによって革命を具体的に展望し得ている」ところ、「恐慌は必然なのか、帝国主義戦争は必然なのか。当為を取り除いた上で必然論を検証せねばならない」と問題をたてる。そのうえで、世界恐慌も帝国主義戦争も、第2次世界大戦を経たあとは期待できなくなったと指摘し、ならばマルクス主義を信奉する革命家は革命をどう展望するのかと問う。1つは全てをスターリン主義のせいにすることであり、もう1つは革命を彼岸化することであったという。戦後の資本主義の蘇生という現実にたいして革共同のたてた理屈は、スターリン主義による革命の裏切り論だった。つまり、革命の敗北は資本主義の生命力によってではなく、革命のスターリン主義的歪曲が、戦後の資本主義の延命を可能ならしめたという解釈であった。小野田は、反スターリン主義理論は、戦後における資本主義の驚異的発展という革命の死活問題から眼をそらしたと云う。革共同の職革は、多かれ少なかれその事の思想的劣性に気づかざるをえなくなった。この負い目の意識が、六五年前後、一時的ではあるが、岩田経済理論などという出来損ないの理論に傾斜するという、世迷い事を生じさせもしたと云う。

 中核派は、世界恐慌待望論の危うさについて懐疑を抱えたまま、とりあえずはスターリン主義にその責任を押しつけてはみたが、そうはいかない事情があった。革命の敗北、階級闘争の敗北によって資本主義を延命させ、繁栄させたという仮説が正しいとしても、資本主義の生命力を認めねばならないのではないのか。このことは、反スターリン主義理論への懐疑をもたらさずにはおかない。革共同の職革は、先進国革命が全て失敗し、後進国においてのみ革命が成功したという冷厳な現実に苦しみつづけた。先進国における革命の敗北が、スターリン主義の裏切りなどによって説明のつかぬこと、反スターリン主義理論などで片がつくものではないことを肌で感じ取っていた。こういう懐疑には出口というものがない。このような時、60年ブントの指導部がやったように、そもそもが革命などというものはじめから幻想だと割り切ることで懐疑をあっけらかんと跨ぎこしてしまえば救われるのだが気質という奴は悲しい。革共同にはできない相談だった。ここからの道は2つに分かれることになる。一つは革命を彼岸化する道であり、もう1つは現実の革命を主観的に引き寄せて血路を切り開いていく行く道である。前者は革命の裏切りに繋がり、後者は革命からの自爆に繋がる。
 小野田の中核派批判その2
 本多書記長の次のような言辞が証言されている。概要「銀座の喫茶店で面談をしたあと、『この柳の数だけ(敵の指導者を)吊さなければならないんだ』。東大安田砦攻防戦のあとにおこなわれた地区委員会の会議では、『機動隊員と組み討ちして落下死するぐらいの覚悟がない』と強調した」。これに対して、「なぜ、学生運動にあそこまでこだわったのかについては不可解だった。爆弾闘争を本気でやろうとしたことに至っては、不可解を通り越して錯乱としか思えなかった」との言がある。小野田は、『革命的左翼という擬制』で、本多書記長を教わることが多かった人物として描くと同時に、「醜い」、「この矮小さ」、「狭さ」という表現をしてその実像を抉り出し等身大の本多書記長の姿を示している。曰く、本多書記長は自身の至らぬ面の輔弼を清水丈夫に求めた。自らの政治資質の欠点を補うものを清水政治局員のなかにみていた。小野田がここでいう清水の「政治の型」とは、党派党争における武断政治能力であった。この発想から清水は3派全学連による統一行動の上に党派闘争を位置づけ、解放派の指導部に対してテロをもって先制している。本多書記長はその現場に居合わせることによってそのことを追認している。小野田によると「本多書記長が仁王のように聳えるようになったのは」67年の杉並都議選あたりからで、このあたりからヒステリックになり、常任活動家への恫喝が始まったという。




(私論.私見)