2014年5月3日付けの「資料蒐集」にアップされた両氏の2度目の「表明」には、事件の発端が一部描かれている。前回記事の「尾形私史」で当事者側から一定の記述が有ったので、あらためて事件の発端を振り返るのも意味があるかもしれない。
http://shiryoshushu.web.fc2.com/077.html
以下は上記「資料蒐集」から抜き書きした。例によって、段落を新設し、元の段落間は2行明けまたは行間拡大にした。
2)「荒川=白」説のストーリーについて
さて、私たちが革共同「50年史」での記述を読んだ後、14年の1月に入って、「荒川碩哉が自分はスパイではないと言っている」という情報が聞こえてきました。その「荒川=白」説を何人かに話しているのが、甘糟義信(前年9月に除名処分。運動場面では滝川宗夫のペンネームを使用。以下では甘糟で表記を統一)であるということでした。そこで、私たちは甘糟と会うことを追求し、水谷が甘糟と、2月24日に会談しました。そこで、荒川が言う「真相」なるものを甘糟の口から詳しく聞いたのです。そして27日にも会談し、荒川の言うストーリーをまちがいないよう再確認しました。その内容は、少々長いですが、会談記録として作成しました。
●資料:甘糟との会談の記録(※27日に甘糟が読んで朱入れした記録文書)
註:会談内容を文字にしたことにたいして甘糟は非常に躊躇した。そしてこの文書のまま他人に見せないよう要望したので、「この文書をメールに添付して他に回さないことを約束します」という一筆を書いた。しかし、後段で述べるように、荒川と甘糟は相当数の人たちに同じ話をしていたこと、また筆者らとの関係を一方的に断ち切ってきたことから、公表に踏み切ることにした。【 】内は引用者註。 (第1回:2014年2月24日午後2時30分~5時25分、第2回:27日午後1時~3時30分)
13年末、甘糟が荒川と会った。甘糟の方から連絡をとろうと手を尽くし、それに荒川が応じる形で、会うことになった。【どのような連絡方法をとったのか、荒川の居場所はどこなのか糾したが、不可解なことに甘糟は教えなかった】 荒川が甘糟に対して語ったことを、甘糟の口調で記す。
「問題がスパイ問題なので、荒川に断って、話をすべて録音した」。「内調と公調の二重スパイとされているが、まったくのねつ造であることがはっきりした。荒川は白だ。【13年】5月8日に荒川は拘束された。坂木【政治局員、労対議長】、有岡【内田透、東京西部地区委員】、新井(中島)【東海地方委員会議長】、坂井【東京西部地区委員長】が自宅に来た。最初は、自宅に上がり込んで尋問してそのまま自宅に置いておくようだったが、(荒川)みどりが都合が悪いと断ったため、ハワイ(杉並区上高井戸の事務所)に移動した。荒川は、11日に沖縄で尾形【尾形史人。1997年離党】と会う予定だった。みどりには、そのことは告げてあった」。
「11日に沖縄にいる尾形から甘糟に電話があった。『荒川が来ないのだが、どうなったのか?』と。自分は、『荒川のことだから日時をまちがえたのではないか』と答えた。その翌日会う約束をしていた星野暁子が尾形に電話してきた。『党中央から、尾形と会うなと言われた』と。【尾形からその連絡を受けて、】それで、自分としては、荒川が拉致・査問をされているのだろうと考えた」。
【荒川は星野裁判闘争の重要な一角をしめ、獄中の星野も信頼しており、連れ合いの暁子とも運動上の関係が強かった。星野裁判闘争の性格上、沖縄の位置が大きく、関係者はしばしば沖縄に行っている。沖縄には尾形がいる。5月11日には荒川が沖縄に行って尾形と会い、星野暁子も翌日合流することになっていた。この三人の沖縄での会合が党中央によってつぶされたと受け止めた甘糟は、非常事態が起こったと推定した。荒川が密かに反中央の動きをしていたことを知っていた甘糟は、拉致・査問と察知した。なお、なぜここで党から逃亡した尾形が出てくるのか、筆者らは疑問に思っている】 【以上引用】
水谷・甘糟両氏のほかに、荒川碩哉氏の拉致に直接関わった人物名が出てくる。さらに妻・みどりさんと、星野暁子さんの固有名詞まで出ている。最後のお2人に関しては当ブログでは基本的に無視してきたのだが…。荒川・尾形・星野の3氏の沖縄での会合が意味するものは何か?請うご期待…。
【注】尾形氏の「離党」時期は本人の「私史」によれば99年だが「蒐集」では97年。どちらかの記憶違いかだが、ここでは不問にしよう。
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