尾形私史考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「尾形私史」を確認しておく。

 2017.4.9日 れんだいこ拝


【尾形私史考】
 2016.12.17日、「8 尾形私史」。『私史』 一連の事件。
 (承前)

 そして、様々な組織手段を駆使して労働運動派を弾圧しようとした、一巡の事件が発生する。私にとって、もはや党改革の芽を摘まれたも同然で、組織に留まる必然性は失われたのである。

  私は出獄後、動労千葉の中野委員長に大いなる薫陶を受けて、労働者階級の闘いと存在、労働運動と革命の関係について認識を深めてきた。労働者の眼から社会を見ていく考え方を、少しずつ身に着けることができた。中野氏の一言ひとことは、言葉を濁しながらも、明確にその時の革共同の姿への批判であり、どうしたら組織的停滞を突破できるかの「テーゼ」でもあった。この中野委員長との出会いがあってこそ、労働運動を中心とする大衆運動に、過去の私の闘いを結びつけることで、私の人生に晴れ間が射すと思えたものである。時に配慮にみちたやさしさで、時には。雷鳴のごとき怒りで。(続く)

 2016年12月17日、「8 尾形私史 」。尾形史人氏の『革共同50年私史』 90年代末の構図。
 尾形史人氏の『革共同50年 私史』が刊行されて時間もたった。まずは関連する記事から。

 【注】段落が長いので本来の段落を分割してコピペした。本体の段落相互の間は1行明けにした。

 第Ⅰ部 「七〇年世代」としての私の歩み

 第一〇章 離党へ

   九〇年代も押し詰まった時期に、政治決戦主義者や差別問題を優位におこうとする政治局指導部が多数派を成したと思われ、彼らは動労千葉包囲網を作ろうとする。口先では労働運動重視を掲げながら、労働運動に真剣に取り組むためには組織の在り方の抜本的変革が必要だと考える労働運動派への包囲網をつくろうとした。他方では、動労千葉・中野委員長が革共同の政治局員に抜擢されるなどしていた。そして、労働運動派とそれに反対するグループとの党内闘争が噴出していた。九〇年代後半、党内の現場労働者細胞にあっては、労働運動路線は圧倒的支持を受けていた。むしろ、労働運動への取り組みが不十分であることへの批判が強かった。その先頭に立っていたのが、動労千葉の中野委員長であった。

   しかしながら、政治局指導部には、どちらかというと、労働運動への徹底的取り組みに対し、「革命」をあいまいにする「社会民主主義的堕落」だと捉える意見が、多数派を占めていたと思われた。労働運動を、ただ「戦線」のひとつとしてしか捉えられない一部指導部は「政治決戦」を強調して、労働運動への取り組みを徹底化しようとする者たちを「経済主義」と罵倒した。 必ずしも政治決戦主義に与する者でなくとも、「血債」を強調する立場から労働運動路線を相対化し、中立的な日和見的態度に終始していたグループも存在していた。(続く)

 2016年12月17日8 尾形私史」。『私史』 栗山事件の実相
 以下は栗山スパイ事件の実相を語っている。

 (承前)

   当時政治局員であった水谷保孝氏と岸宏一氏が近年書き下ろした『革共同政治局の敗北』という著作に、九〇年代末期、編集局内部に三人の「スパイフラクション」ができ上がっていたなる一文があるが、それは、実は中野委員長の影響を受けた優れた同志たちであった。

   少なくとも、二名には何の落ち度もなかった「事件」である。それを長期にわたって取り調べ、過去の思想問題にまでさかのぽり、何回も何回も文書を書き直させて、自己批判を迫ったのである。 取り調べで追及されたのは、スパイ問題ではなく、路線や思想上の問越であり、何か取り調べ対象となるようなものではなかった。一部の政治局員が、強引に、さも自己批判に値するような重大問題が発生したかの如く、「事件」をねつ造したのではないだろうか。 組織内の上層指導部に向かっては、明確にスパイ容疑で取り調べていると説明していた。しかし、私の記憶では、党内への公式通達は一度もなかった。両氏が未だにでっち上げ事件を正当化しているとは、ただひたすら驚くばかりである。 この件は、でっち上げられ査問を受けた同志が放免された後、政治局の別の人間が謝罪に来たり、病死する間際の中野委員長がその同志に謝罪のメッセージを送っていた、という事実に照らしても、いかに勝手なでっち上げが、路線闘争として行われたのかが明白である。

   二人の元政治局員は、どちらかというと、相も変わらない政治決戦主義に体重をかけていた入間と思われる。彼らは日頃から、動労千葉の中野委員長の党内での影響力の高まりに不満を漏らし、「地方の一労働組合に過ぎない」などと動労千葉を低める発言をしていた人たちである。 本社内の労働運動派であった三人を追放することは、本社中央での中野委員長の影響力をそぐ意味を持っていたのである。正当な理由がないので、側面からスパイ容疑を掛けた次第である。私は、関東地方委員会委員、またマルクス主義青年労働者同盟・教育労働者委員会のメンバーとして、中野委員長や彼ら三同志に近い立場にあった。身の危険を感じざるを得なかった。九九年、私は自らの生命と存在をかけて革共同から離党した。以上


【尾形私史考】
 2016.12.18日、「8 尾形私史」。私史 水谷・岸両氏の「表明」での関連部分。
 2014年5月3日付けの「資料蒐集」にアップされた両氏の2度目の「表明」には、事件の発端が一部描かれている。前回記事の「尾形私史」で当事者側から一定の記述が有ったので、あらためて事件の発端を振り返るのも意味があるかもしれない。
 http://shiryoshushu.web.fc2.com/077.html

 以下は上記「資料蒐集」から抜き書きした。例によって、段落を新設し、元の段落間は2行明けまたは行間拡大にした。

 2)「荒川=白」説のストーリーについて

 さて、私たちが革共同「50年史」での記述を読んだ後、14年の1月に入って、「荒川碩哉が自分はスパイではないと言っている」という情報が聞こえてきました。その「荒川=白」説を何人かに話しているのが、甘糟義信(前年9月に除名処分。運動場面では滝川宗夫のペンネームを使用。以下では甘糟で表記を統一)であるということでした。そこで、私たちは甘糟と会うことを追求し、水谷が甘糟と、2月24日に会談しました。そこで、荒川が言う「真相」なるものを甘糟の口から詳しく聞いたのです。そして27日にも会談し、荒川の言うストーリーをまちがいないよう再確認しました。その内容は、少々長いですが、会談記録として作成しました。 

 ●資料:甘糟との会談の記録(※27日に甘糟が読んで朱入れした記録文書)

 註:会談内容を文字にしたことにたいして甘糟は非常に躊躇した。そしてこの文書のまま他人に見せないよう要望したので、「この文書をメールに添付して他に回さないことを約束します」という一筆を書いた。しかし、後段で述べるように、荒川と甘糟は相当数の人たちに同じ話をしていたこと、また筆者らとの関係を一方的に断ち切ってきたことから、公表に踏み切ることにした。【 】内は引用者註。 (第1回:2014年2月24日午後2時30分~5時25分、第2回:27日午後1時~3時30分)

 13年末、甘糟が荒川と会った。甘糟の方から連絡をとろうと手を尽くし、それに荒川が応じる形で、会うことになった。【どのような連絡方法をとったのか、荒川の居場所はどこなのか糾したが、不可解なことに甘糟は教えなかった】 荒川が甘糟に対して語ったことを、甘糟の口調で記す。 

 「問題がスパイ問題なので、荒川に断って、話をすべて録音した」。「内調と公調の二重スパイとされているが、まったくのねつ造であることがはっきりした。荒川は白だ。【13年】5月8日に荒川は拘束された。坂木【政治局員、労対議長】、有岡【内田透、東京西部地区委員】、新井(中島)【東海地方委員会議長】、坂井【東京西部地区委員長】が自宅に来た。最初は、自宅に上がり込んで尋問してそのまま自宅に置いておくようだったが、(荒川)みどりが都合が悪いと断ったため、ハワイ(杉並区上高井戸の事務所)に移動した。荒川は、11日に沖縄で尾形【尾形史人。1997年離党】と会う予定だった。みどりには、そのことは告げてあった」。 「11日に沖縄にいる尾形から甘糟に電話があった。『荒川が来ないのだが、どうなったのか?』と。自分は、『荒川のことだから日時をまちがえたのではないか』と答えた。その翌日会う約束をしていた星野暁子が尾形に電話してきた。『党中央から、尾形と会うなと言われた』と。【尾形からその連絡を受けて、】それで、自分としては、荒川が拉致・査問をされているのだろうと考えた」。

 【荒川は星野裁判闘争の重要な一角をしめ、獄中の星野も信頼しており、連れ合いの暁子とも運動上の関係が強かった。星野裁判闘争の性格上、沖縄の位置が大きく、関係者はしばしば沖縄に行っている。沖縄には尾形がいる。5月11日には荒川が沖縄に行って尾形と会い、星野暁子も翌日合流することになっていた。この三人の沖縄での会合が党中央によってつぶされたと受け止めた甘糟は、非常事態が起こったと推定した。荒川が密かに反中央の動きをしていたことを知っていた甘糟は、拉致・査問と察知した。なお、なぜここで党から逃亡した尾形が出てくるのか、筆者らは疑問に思っている】  【以上引用】


 水谷・甘糟両氏のほかに、荒川碩哉氏の拉致に直接関わった人物名が出てくる。さらに妻・みどりさんと、星野暁子さんの固有名詞まで出ている。最後のお2人に関しては当ブログでは基本的に無視してきたのだが…。荒川・尾形・星野の3氏の沖縄での会合が意味するものは何か?請うご期待…。

 【注】尾形氏の「離党」時期は本人の「私史」によれば99年だが「蒐集」では97年。どちらかの記憶違いかだが、ここでは不問にしよう。






(私論.私見)