6)元凶は清水「党と労働組合の一体的建設」論
「党と労働組合の一体的建設」論とは、辻川が動労水戸での同盟員獲得を通して、労働組合の大衆基盤も一定拡大してきたことを、清水が絶賛し、基本路線に高めたものである。
中央派としては、「新自由主義」の時代においては、党が党員獲得・マル青労同獲得を軸にして組合工作を行い、党員獲得の前進と比例してしか職場闘争や組合への影響力拡大はなしえないという方針である。一言でいえば、党員でなければたたかえない、という発想である。これを14年の政治局1・1アピール前後からしきりに言及し、第7回大会で党の基本路線とした。そして重要なことは、この路線のもう一面の問題意識が、「党員獲得」に力を入れようとしないどころか、組合員の党批判にひるんでいる田中に対する指導的批判の要素を込めるというところにあったことである。そこから辻川動労総連合構想へとストレートにつながっていったのである。したがって、「辻川を使った動労千葉支配」というのは、実はいっときの組織方針の誤りではなく、党政治局全体による第7回大会決定とそれにもとづく基軸路線そのものなのであり、その末路なのだ。
ここには清水と三人組の、元来の致命的な思想的敗北が垣間見える。それは「今の時代は党員しかたたかえない」という驕りである。どこを見ていっているのだろうか。国会前で、経産省や東京電力前で、沖縄で、靖国神社前で、全国各地で、安倍自公政権に対する渾身の怒りで決起している人々の群れが見えないのか。そして動労千葉の労働者自身が、党がどうあろうが自らの生き方をかけてたたかい続けているではないか。革命的共産主義者の矜持とは、これを全面的に支持し、革命的に位置づけ、その先頭でたたかいぬく以外のところにあるわけもない。
現革共同中央派政治局がそれと正反対にうちだした「党と労働組合の一体的建設」論の思想こそ、大衆闘争の現場から目を背け、党員以外は資本との職場闘争も、また政治闘争もできないなどという階級不信の最たるものであり、ついにその矛先を動労千葉の組合員にまで突き立てたものであった。それこそ、党による動労千葉利用主義の極致として断罪されなければならない。
今回の問題の根は極めて深い。一片の自己批判で決着するものではない。
議長・清水丈夫が路線化し、旗を振った党大会決定とそれにもとづいた4年以上にわたる実践のすべてを清算しなければならない。また08年7月テーゼ以来の差別主義・排外主義との対決からの逃亡=敵対を清算しなければならない。だが、こんなことはできるわけがない。仮に11月労働者集会を微増させたとしても、解決できるものでもない。もちろんそれさえもほとんど不可能となってきている。
深刻で犯罪的な辻川問題の元凶は、ほかならぬ清水丈夫その人であることを、中央派の中で何人が認識しているだろうか。現在の‘政治局炎上’という事態にたいしてまるで超然とした位置にいるかのように、清水は装っている。その清水を表に引きずり出し、徹底的に追及し、自己批判を強制することが、はたしてできるだろうか。党内からそのエネルギーが生み出されてくるかどうかに、革共同中央派の存亡がかかっているといえよう。
中央学生組織委員会は「党を若々しく生まれ変わらせる」と力説するのだから、大いにやってみたらどうか。
その前提となるのは、まちがいなく、腐敗・堕落した現政治局の全面的・根底的な打倒である。ここをすりぬけて次はありえない。今のように事態をひたすら外部に漏れないようにし、平静を装っているうちは、中央派の自浄・再生はありえず、労働者階級人民からの不信は拡大するばかりである。
いまひとつ前提となるのは、革共同とは何か、革共同の革命的・戦闘的たたかいの歴史はどのようなものか、その変質と腐敗、誤りの全過程はどのようなものかを、自らの死活をかけて対象化、研究することである。なぜなら、‘おのれは何者なのか’を知らずして、何ごともなしえないからである。
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