水谷 |
「組織論における反スターリン主義の不徹底」ということの第二に、われわれ革共同の党建設論は党派闘争と党内闘争の規定をもたなかったということがある。また同時に統一戦線の本質論を欠如させていたということがある。 |
岸 |
レーニン『なにをなすべきか』の扉には「党派闘争こそが、党に力と生命をあたえる。党は、自身を純化することによってつよくなる」というラッサールのことばが置いてある。しかし、その本文では党派闘争と党内闘争それ自体をテーマにしていない。 |
水谷 |
そうなんだ。ちょっと話を変えるようだが、他党派で三派全学連時代の旧友が年賀状をくれた。そこには「昨年は久し振りに話せてよかった。党派の鎧がなければ、かくも真率な話ができるものを、と返らぬ後悔が――。」と書かれていた。胸が詰まる思いだった。まったく同感だ。一九六〇年代半ばから一九七〇年代初頭にかけてのいわゆる三派・五派・八派時代の他党派のなかには、権力やカクマルにたいしてともにスクラムを組んだ戦友と呼べる人たちが少なくなかった。それがお互いを罵倒し、いがみ合った。あの戦友関係はどうすれば維持・発展できたのだろうか。 |
岸 |
われわれが脱党した後、三派・五派・八派時代の他党派の人々がわれわれをほんとうに温かく迎え入れてくれた。何もいわなくていい、時間がかかっても心の傷を癒せばいい、と激励し支えてくれた。三派・五派・八派時代にお互いに培った人間関係は独特のものがあったのだ、と改めて思ったものだ。 |
水谷 |
マルクスの時代の第一インターナショナル(国際労働者協会)は、それ自体がまだ党とはいえなかったが、マルクス執筆のれっきとした綱領と規約をもつ、新たな党をめざすものだった。組織分裂し十余年の短命ではあったが、革命闘争の激闘の過程をとおして労働運動のセンターという以上に世界革命の本部となっていた。また初期コミンテルン(共産主義インターナショナル)は、ロシア革命の勝利を土台にして世界各地の諸党派・諸勢力が結集し、現代革命の第一線の激しい論争をとおして複合的=単一的な世界革命党をめざすものだった。議長ジノヴィエフが第一回大会(一九一九年三月)の席上、コミンテルは十人十色だ、これが新しい党だ、という趣旨の発言をした。それらは挫折、失敗し、あるいはスターリン主義的に歪曲されていった。けれども、われわれがめざすべき党は第一インターや初期コミンテルンがめざした同じものに重なるべきであり、それぞれの党派が来たるべき党の一分派として自らを位置づけるという考え方が求められるのではないだろうか。 |
岸 |
レーニン『なにをなすべきか』は、創り出すべき党を構成する分派組織論として読むということかな。実際、ボルシェビキは一九一七年ロシア革命の過程でどんどん変わっていった。メンシェビキのコロンタイが結集し、時代遅れとなった古参ボルシェビキを尻目にただ一人、レーニン「四月テーゼ」を熱烈に支持した。一九〇三年のロシア社会民主労働党の第二回大会以来、レーニンと一貫して対立してきたトロツキーがボルシェビキに合流し、混迷する古参ボルシェビキを圧倒してソビエト組織化と武装蜂起を主導した。またレーニンは革命の農業綱領にエス・エルの「土地社会化」綱領を位置づけることで農民革命を鼓舞し、農民の支持を得て初めて蜂起・革命を達成した。だから一九一七年ロシア革命のボルシェビキはもう旧来のそれではなくいうなれば脱ボルシェビキ化した新しい型の党だった。革命的ダイナミズムのなかでの党とは革命的に変貌しうる党なんだ。そうした党だけが革命的蜂起を準備・貫徹してプロレタリア独裁を樹立できるということを、一九一七年ロシア革命は示した。 |
水谷 |
だから、あの三派全学連を想起するとき、あそこにめざすべき党の萌芽があったと思うんだ。旧友のことばを借りれば、「党派の鎧のない、かくも真率な人間的組織関係」を発見し、それを培い、育てていく道はなかったのか、と思うね。
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岸 |
本多さんのことばでいえば、「革命の緊迫化のなかで党―大衆―階級の具体的結合をかちとる」(「七〇年安保闘争と革命的左翼の任務」。後に「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」でも引用)、そのなかでこそ党は創造される。ある固定された党が革命を実現するんじゃない。プロレタリアートの権力獲得のたたかいのなかでそれを可能とする党へと拡大・発展し質量的に変化する党ということじゃないか。清水政治局体制の革共同は、非常に固定化された閉鎖的な組織になってしまい、そうした内的なダイナミズムを喪失していた。それでいて、革共同が唯一正しい、革共同の周りを世界が回っているという革共同中心天動説に陥っていた。 |
水谷 |
そうだったんだよ。党概念の地動説へのコペルニクス的転覆が絶対に必要だね。 |