道浦母都子(歌人)考 |
更新日/2017.4.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
何か良く分からないが、検索でヒットしたので転載しておく。 2017.4.9日 れんだいこ拝 |
道浦 母都子(みちうら もとこ、1947年9月9日 - )は歌人。『未来』選者。 | |
1947(S22).9.9日、敗戦から2年後、和歌山県和歌山市で、道浦母都子が二人姉妹の次女として誕生した。祖父・道浦若八は、部落解放運動にも縁のあった和歌山県議会議員。父は大阪工業大学土木工学科卒の土木技師で、日本窒素(後のチッソ)の関連会社・朝鮮窒素に勤務して鉄道の路線や都市計画の仕事に嬉々として打ち込んだ。ソウルで見合い結婚。、戦後、和歌山に引き揚げ祖父ゆかりの和歌山に居宅をかまえた。中学まで和歌山で暮らした後、父が千里ニュータウン開発に携わることになり大阪に移住。父の書斎には、金日成(朝鮮民主主義人民共和国建国の父)全集が並んでいたという。カチューシャ劇団の芝居をよく見に行っていたという。 母都子は和歌山の小学校を経て中学校を卒業する時期、父親は大阪北部に新しく千里ニュータウンを建設する仕事につくため大阪に職場を移し、母都子も引っ越す。 母都子は大阪府立北野高校への進学を決め、一年生の新学期から通った。 1967年、早稲田大学第一文学部演劇学科に進学。当時はベトナム反戦運動が激しさを増し、大学生になった道浦さんも当然のようにデモに参加。
1967.10.8日、新左翼諸派は、アメリカのベトナム戦争を支持し、沖縄嘉手納基地からB52爆撃機のベトナム出撃などを容認していた佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止闘争を組織。羽田空港に通じる三つの橋に向かった。 京大生の山崎博昭さんが弁天橋で命を落とす。「あれは私だったかもしれない」。山崎さんに自分の運命を重ね合わせ、さらに運動にのめり込んだ。 当時の早稲田大学を支配していた革マル派と激しく対立する中核派に属していたため通学できず、法政大学を拠点にした学生生活を送る身となった。 1968.10.21日、羽田闘争の翌年1968年の国際反戦デーは大揺れに揺れた。世に言う「新宿騒乱事件」だ。新宿騒乱事件に警視庁が騒乱罪を適用してからおよそ1か月後の1968年12月早朝6時、道浦母都子の杉並の下宿に公安警察官が踏込み、道浦は逮捕された。黙秘を貫いた末に起訴猶予となる。逮捕以後、道浦は表現者として少しずつ歩みを始める。 1969.1月、の東大・安田講堂攻防戦は、籠城した学生側の敗北に終わる。夜、突き動かされるようにペンを執った。「1.19 東大安田講堂封鎖解除に投入の機動隊員8000人、警備車700台、ヘリコプター3機、カッター23、エンジン削岩機4、ハシゴ車10、消化器478、催涙ガス弾4000発、学生の投石・鉄棒などトラック6台分」。「炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る」、「明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし」を作句している。 1970年、朝日新聞の発行する週刊誌「朝日ジャーナル」が懸賞論文「私にとっての70年以後」を募集、道浦の書いた論文「わが遠き70年―絶望への出発」が入選する。 1972年、早稲田大学第一文学部演劇学科卒業。卒業後、大阪に帰り、地元の新聞「朝日ファミリーニュース」社の記者として勤務した。 2001年秋、最大の試練に直面する。テレビ出演や雑誌連載など大量の仕事を抱える中で突然、眠れなくなり、食べられなくなった。医師に「3年間は一切仕事をしてはいけない」と言い渡された。「自分がガタガタ壊れていく」感覚、言葉への恐れ。歌が作れなくなった。
「〈言葉失くし声を失くすということの生きる日にあり山茶花の白」。 2度目の離婚をへて、ひとりに戻った。 |
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山﨑博昭の兄、山﨑建夫らが発起人となり、道浦にも呼びかけがあり発起人の列に加わった。山﨑プロジェクトは、こう訴える。
その上で、具体的な目標を、羽田空港に向かう東京都大田区の弁天橋近くでのモニュメント建立と、この50年を振り返る記念誌の刊行の2点を挙げる。 大阪では、山﨑が卒業した大阪府立大手前高校の先輩である山本義隆・元東大全共闘議長による講演会が開かれ、御堂会館の会場に大勢の市民が押し寄せ、立ち見の観客が出た。昨年10月に開かれた東京での集会では、山﨑と同じ高校OGで、作家の下重暁子が「家族という病・国という病」というタイトルで講演した。そのあと、道浦母都子がフラメンコギターをバックに、自作の『無援の抒情』から10首朗読した。道浦がデビュー歌集からの短歌を朗読することは初めてだという。 2017.12.10日、山﨑博昭と京都大学で同期の社会学者、上野千鶴子・東大名誉教授による講演会開催が大阪で計画されている。道浦は、10・8から50年目の来年、ベトナムのホーチミン市の戦争証跡博物館で開催予定の「山﨑博昭プロジェクト」展示のため、ホーチミン市を訪問することを心待ちしている。 |
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今年の新春、道浦さんと「東京の歌の仲間たち」計19人が、合同歌文集『ゆうすげ』を刊行した。20年以上続く東京の「ゆうすげの会」は、現在2カ月に1度の頻度で開かれている。多彩な顔触れが集まっているのは、道浦さんの人柄ゆえで、合同歌文集が出るのは2度目。そのことについて道浦さんはこんなふうに書いている。
この合同歌文集の中に、道浦さんがそれぞれの歌人の「20首詠」の中から1首を選んだ「ゆうすげ抄」という欄がある。道浦さんが選んだ自身の1首は、「終りより愛は生まるるとき寂し笙のようなる海鳴り聞こゆ」。 ▽大阪にも『ゆうすげの会』があり、2か月に1度の活動をしている。 |
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愛への肯定感あふれる歌が収められた第3歌集「ゆうすげ」。
恋の苦しさを詠んだ歌もある。
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第4歌集「風の婚」。
年齢が何度か歌に詠まれている。
40代。子どもを産んでいない道浦さんが、「タイムリミット」を意識する頃でもあった。
「子どもができないまま生きてきたという欠落感を抱えてきました。家にたとえれば『子ども』という名の窓からしか見えない景色があるのに、私はそれを一生見ることがない。命を得て存在するというのはすごいことだと思います。せっかく女性として生まれたのだから、私も命を伝えたかった」 |
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2017年に出版した第9歌集「花高野」。
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艶かしくも、エロスを感じさせる。バリケード時代以後の短歌を引用する。
抱かるることなく過ぎん如月のわれは透きゆく黄水仙まで |
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「花眼(かがん)の記」
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(私論.私見)
炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る
稚き手白き手選びてビラ渡すその手がつかむものを信じて
恋う人は同志なるかと問う友に向かいて重たき頭を振りぬ
お前たちにわかるものかという時代父よ知りたきその青春を
眠られぬ夜を明かして又想う苦しき今を今を生き抜け