はじめに |
本集会の呼びかけ人の向井拓治です。本日お集りの皆さんにはほんとうにありがとうございます。このようにお集りいただけるとは思っていませんでした。大変嬉しく思っております。ありがとうございます。本多延嘉さんだけでなく、多数の非業の死をとげた仲間たちを追悼して、この会を進めたいと思います。私事ですが、2日前に83歳になりました。見てのとおり、背中が丸く出て、老いぼれ爺になりました。実はこれは病気なのです。昨年2月のある日、前日まで腕立て伏せを一度に16回できていたのが、突如1回もできなくなり、歩くのもおぼつかなくなりました。1か月いろいろ試みましたが、結局3月、かつて私が勤めていた中野総合病院の神経内科にかかり、「重症筋無力症」、つまり自己免疫疾患なのですが、自分が動かそうとする筋肉を自分の抗体で破壊し動かなくなる病気と診断され緊急入院。場合によったら呼吸停止もあって亡くなることもあるから退院も難しい、胸に胸腺腫という腫瘍があるから手術で取らなければならないと東京医科歯科大病院に転院しました。検査に次ぐ検査の結果、免疫抑制剤と筋力増強剤の内服薬で通常の5~6割回復したところで、「歳を考え、手術やステロイド療法はやめて、今の内服薬だけで様子を診ましょう」と5月初めに退院となりました。現状は、頭の重みで頭が前に垂れる、それで背中が丸く出て、歩くときにバランスを崩しやすい。話をしていると口が疲れ、しゃべるのが難しくなり、食事や水を飲むときむせやすい。指も弱くなり、字を書くのが難しい、エトセトラです。自分で動かせる随意筋が全部弱っています。でも、意気は盛んですから、元気にやりましょう。
|
1 杉並区議選を対カクマル復讐戦としてたたかう |
本多延嘉さんがカクマルに虐殺されてもう45年も過ぎました。呼びかけ文に書きましたが、1975年3月14日、あの日、私は北小路敏君とともに本多さんに会うべく指定された場所で待っていました。この会合は、来る4月の杉並区議選への全党的な取り組みを相談するためでした。その前に、この日のドッキングの前提を少し話します。私は前年6月26日の法政大・大会戦に関東の学生・地区委員会の総力を動員した現場責任者で、カクマルとの激突のなかで逮捕・起訴されました。同年12月28日「御用納め」の日に保釈になりました。責任者が1人最初に保釈になった。それは、妻の「嘆願書」で子ども2人を保育所に預け、働きに出ている窮状を訴えたのが功を奏したのでしょう。その年の内に本多さんと会い、「法政大会戦はよくやってくれた。大勝利だ」「杉並区議選の責任者は藤原(慶久)に決めていたが、君が出てきたからには君にやってもらう」「ただし北小路や前進社の連中には絶対に手を出させないでやれ。彼らは今抱えている対カクマル戦の課題が大変だし、選挙が好きだからすぐ杉並にかかわりたくなるからな。君の好きなようにやれ」といわれました。「東京西部地区党は君の留守中、西部を守ったH君に引き続き担当してもらえ」ということでした。以後、月に1度ほどH君とともに本多さんに会って西部地区党も含め指導を受けていました。
|
長谷川英憲君を推し立てた杉並区議選での私の選挙戦略は、1970年からやってきた「共同購入運動」でした。週に1回、区民宅に注文を取りに行き、それを集計して翌日早朝に築地場外に買い出しに行き、その日に配り終える。三里塚の無農薬野菜や、今日ご出席いただいている小長井良浩弁護士のご紹介で静岡のミカンも扱った。私自身が1970年から、その運動の先頭に立ち、注文取りから築地買い出し、配達まで担当し、経験していた。だから、どのようにして区民の中に分け入っていくか、よく承知していました。冬には灯油の配達もやった。1974年冬のことであったか、担当者たちが灯油の配達は重くていやだと「ストライキ」。それなら私一人でやると自分で軽4を運転し、18㍑のタンク2個、これがとっても重いのですが、これを団地四階まで運び上げることもやりました。過激派といわれる私たちがごく普通の区民の中に分け入り、彼らと長谷川英憲支持・投票という積極的な関係を作り上げるには、そういう努力が必要なんです。
|
もちろん、全国から人的支援も仰いだ。選挙前数か月の応援だけでなく、そのまま西部地区に留まってもらった人もいます。よく「杉並は選挙で他の地区から人を獲る」といわれましたが、来てくれた方は、派遣も、選挙後移籍を承諾してくれるのも、多くはその地区での「厄介者」で、カンパ源をもっている人はまずいなかった。そのためカンパ闘争では期待できず、逆に西部地区から10万円支給した。でも、当方はありがたかったのです。私が彼らに求めたのは、共同購入の注文取りをきちんとやり、配達する、選挙について下手なオルグをするな、投票日直前の注文取りのときに初めて「選挙では長谷川を頼みます」といえばよい、ということでした。ですから、1975年の場合は、3月初めに共同購入利用者数と私が回っての区民の反応から「4月の選挙戦は勝てる」と確信するにいたりました。それを本多さんに報告すると、「それなら関東圏を動員し、民衆と交流させ、勝利を経験させよう。この間、対カクマル戦で全党が冷え切っているからな。1週間後に北小路を呼んで3人で話し合おう」と、3月14日のドッキングが組まれたのです。
|
3・14後、選挙公示が近づくとカクマルの杉並革新連盟事務所襲撃(あわや落城)や、支持者ではない一般区民への「糞尿攻撃」(「長谷川に投票しないとこうなるぞ」とあたかも長谷川派の仕打ちかのように偽装、デマ宣伝)がありました。北小路君をはじめ前進社指導部は「選挙戦中止」までいい出す始末でしたが、私は拒否しました。長谷川君は2869票(23位)で堂々勝利したのです。それは、本多さん虐殺への私なりのカクマルへの反撃でした。今日も、そのときに杉並選挙闘争をたたかった同志が何人か参加していて、当時を振り返ることができ、大変嬉しいです。杉並区議選勝利の直後、清水丈夫君、北小路君、向井が集まり、今後3人力を合わせ革共同を盛り立てていこうと誓い合ったものですが、この会合が何だったのか、その後は一度も私には声がかかりませんでした。 |
2 革共同創成期のこと |
本多さんと知り合ったのは1959年1月、私が革共同に加盟したときからです。その前年の秋に反戦学同全国委員会執行部に出て、12月ブント結成にも参加、1959年1月から反戦学同における東京の高校生班を担当していました。革共同の高対の役も果たし、高校生を革共同に次々に獲得した。このことに、反戦学同内ブント指導部だった清水丈夫が気づき、向井を解任、服部信司(東大本郷、後のブント3分解では「革命の通達派」を結成)を後任とした。3月、反戦学生同盟は大会を開き、社会主義学生同盟と改称したが、そこでの最大の問題は実は「向井高対の解任」でした。ブント系(多数)と革共同系(少数)に分裂し、革共同系は「社学同左翼反対派」と名乗り、向井がその責任者となった。
|
ところで、先に革共同に来た高校生は学校で活動するというより、学校をサボり、「府中詣で」(黒田寛一は府中在住)ばかり。黒田からろくなことを教わってこない。「向井は経験主義でダメだ」なんていう。これで私のいうことを聞かず、活動しなくなった連中もいた。そのうち高校生が「日共スターリニストは反革命だから、その情報を権力に売っても問題ない」「レーニンも同じことをやった」なんてとんでもないことをいい出した。黒田から「教わった」ことは間違いない。
|
1959年の夏休み、私が京都の高校生オルグや広島大帰郷センターへのオルグ(広大のブントとの獲り合い)から帰京し学校に出ると、その日、東工大で革共同大会が予定されていて、小野田猛史(大学の1年先輩、ペンネーム北川登)がやって来て、「今日の大会で関西派と分裂だ」という。何が問題なのかと聞くと「大川(治郎)副議長スパイ」問題で関西派が探究派をパージしようとしているという。大川治郎はペンネームで小泉恒彦といい、埼玉県の民青から探究派に来た人物で、共産党の情報をいっぱい持っていた。それを権力に売って金をせしめることをやっていた。小野田は「出てきて反対してくれ」という。私は「なぜそういう大事なことを早く耳に入れてくれないのだ」といって、小野田が再三呼びに来たのも断り、自治会執行委員会室に籠り、大会には出なかった。私は、大川がスパイであるのはもちろん、「黒田もクロ」という意見だった。革共同第2次分裂です。
|
この夏、小野田と絶縁して離党し、大学の山岳部に入り、秋休み、冬休み、春休みは山へ行っていました。ところが困ったことに、私のもとにいた活動家が皆関西派に行ってしまった。小野田猛史への日ごろの反発からです。慌てた小野田は1年生3人をマル学同にオルグして、11月学友会執行部改選にその3人押し込んだ。関西派も3人で、委員長を取った。駆け出しの1年生はどう議論していいか判らない。採決では3対3で動きが取れない。マル学同の3人は困ると私を呼びに来て助けてくれという。執行部会議に、何の資格もない私が出て行って、両者の対立点を聴取し、そして関西派の3人を説得し、マル学同派が勝つようにいつも力を貸していた。こんなことが続くのでは困るので、本多さんに会い、「小野田を東工大担当からはずし、私が関西派の連中を説得し両派を一緒にし、その独立同盟を指導するから認めてくれないか」というと、少し考えて、「きみが指導するなら認めよう」という回答でした。この話は関西派に行った連中が「今さら関西派から抜けられない」と断ってきたことでご破算になった。
|
1960年4月になると、関西派は全自連(全学連に対抗して作られた日共系全国学生組織)と共闘し、全学連の国会デモと一線を画してきたので、デモのたびに全学連デモに行くか全自連デモに行くか、執行委員会のみならず、時には学生大会でも議論せねばならなくなった。それをすべて説得し、東工大は全学連デモに参加した。6月15日も全学連デモに加わったが、南通用門の攻防には静観。機動隊との攻防に勝って全学連部隊が国会構内に入っても、東工大の隊列は外に留まったまま、小野田が躍起になって入れようとしても、現場で開く執行委員会も3対3で結論が出ない。私が執行部の集まっているところに行き、関西派の連中に「この段になって入らないのはおかしいぞ」というと、ようやく国会構内に入った。
|
私の革共同への復帰は1961年6月。このときも本多さんに会い、「復帰したい」というと、「なぜ第2次分裂の際、大会に出てこないで、その後、離れたのだ」と聞くので、自分は黒田クロ説だったと、当時の高校生メンバーの言動とともに話すと、「それを復帰意見書として書いたら」といわれた。当時の黒田の党内人気から「とんでもない」と固辞し、何も書かずに復党した。本多さんはもしかしたら、向井が書いたら黒田と一戦交える気だったかと思う。大川副議長スパイ問題について、大川の日共情報を権力に売ることに黒田議長が合意していたのを、当時本多さんが見抜いていなかったとは思えない。第2次分裂にあたっての本多さんの態度は、関西派がこの問題で黒田はもちろん探究派を十把一からげに一掃しようというのに抵抗したのと、黒田に反省する機会を与えたのだと思うのです。
|
3 本多さんは一人ひとりの人をよく見ていた |
本多さんの人柄について触れましょう。お父さんは郵便局員。本多さんは川越高校から早稲田大学2法へ、1文に変わり新聞会で活躍、大変聡明で、また誠実な人だったと思います。親しい仲間内の集まったところでは、自分で「頭が良いのは俺が一番だ」とぬけぬけといっていましたが。先に触れましたが、東工大の内情についても、小野田が皆の反発を買っていたこともよく分かっていた。人を見る目はしっかりと持っていたと思います。白井朗さん(初代前進編集長)は亡くなる少し前まで「本多の奴はいつも俺をなじってボロクソにいっていたが、なぜだろう。今でも許せない」といっていましたが、本多さんは機関紙『前進』を非常に大切にし、少しの誤りにも我慢がならなかったのと、編集長の白井さんとは探究派以来の仲だからボロクソにいったのだと思います。白井さんをほんとうに許せないのなら編集長から更迭していたでしょう。小野田などは何をいわれてもあっけらかんとしていました。白井さんは小野田のようにはできなかったし、本多さんの真意を最後まで理解できなかった。
|
本多さんの革共同の真髄は3全総(1962年9月)だと思います。改めて今回、3全総報告と宣言を読んで、本多さんの少しカン高い声の烈々たる演説が聞こえてくるようで、胸が熱くなりました。少なくとも、本多さんが考えていたのは何だったのか。3全総は、60年ブンドの解体とその最良の部分を結集し、総会の7割が労働者代議員で構成されていました。本多書記長の報告は、前年の第1回大会以来の米ソ核実験反対闘争、参議院選挙を総括し、また民同がヨーロッパ型労働運動をめざして右旋回していくという労働運動の全体的右傾化の潮流に抗して、職場の深部にねざして、たたかう戦闘的職場労働者大衆に密着し、わが革命的共産主義運動の隊列に加えていく重要性、そのための組織戦術の緻密化と大胆・柔軟な適用、それを保障する強固な細胞を基礎とする産別委員会と地区党組織の確立という課題をはっきりと打ち出した。
|
黒田は、表立っては3全総に賛成し、陰で反対し、後で分かったことですが、3全総の前から密かに分派を作っていました。3全総決定に反対する私的文書を秘密裡に配布するという卑劣な手段に出ました。黒田は、3全総が現実の階級闘争と切り結ぶ革命党として一回りも二回りも大きくかつ柔軟さをもつ党に脱皮していくことに恐怖し、反革命に転落していったのでしょう。黒田は現実の運動にはまったく無知で、彼の思いつき的な言葉を周りがもちあげると嬉しがる、そのようなことができなくなることを恐れたのです。実は、清水君は3全総の前から黒田の一番の先兵だったのを本多さんや木下尊晤(野島三郎)君から厳しく批判されて、黒田派から足を洗って、こちらに来たのです。変ないい方をすれば、清水君は黒田派であった過去を3・14反革命で救われて、今では本多さんのほの字もいおうとはしないという状態です。
|
●3全総を職場で実践 |
私は3全総があった1962年の3月、東工大を卒業して、北陸・富山県の不二越鋼材株式会社(ベアリング、歯切り工具、油圧機器等の製造会社)に入社、富山市の富山工場(8000人)の現場で働きだしていました(不二越はこの他に東富山工場1500人があり、本社支店に500人がいる1万人の企業)。その年の夏のボーナス闘争妥結大会には職員組合代議員として出席し、妥結案を丸一日止めました。全社で有名となりちょっと鼻高に。しかしながら、労働者の組織化の手がかりは見つからず、それどころか、共産党・民青の「向井はトロッキスト」宣伝で、正体を知った会社は名古屋支店への配転攻撃をかけてきました。これは何とかしのぎ、逆に最新機械の職場導入の担当として現場の真っただ中に配転されました。そのときに3全総報告と宣言に触れたのでした。私はこの3全総を踏まえて、私自身の活動様式を変えました。先のボーナス妥結大会での「活躍」を反省し、当面は富山大マル学同の組織化に協力し、その年の秋の大学管理法反対運動で富山大教養自治会を全国で唯一ストライキに決起させることに成功しました。翌1963年1月の「三八豪雪」で来る日も来る日も雪で市内交通がストップする中、毎日、市の東外れの不二越から西はずれの富山大の学生下宿街まで2㌔余を歩いて通い、20数人の支部に育てあげた。富山大のマル学同も黒田のところに代表を派遣したりしていましたが、その後の第3次分裂でカクマルに走ったのは3人でした。
|
この1963年夏より不二越の社青同左派の某君と知り合い、社青同加入戦術で青年部活動家の学習会を始め、多くの青年部活動家と知り合った。結局、社青同の諸君は、将来は組合幹部になるという、「組合日の丸」みたいなところがあって、あるところから先へは踏み出そうとはせず、たたかおうとしない。そうした社青同諸君の変革と獲得は難しいと分かり、青年部無党派活動家に絞り、不二越社会主義研究会という組織を秘密裡に作り、20余人を組織しました。自らも現場200余人の支会の支会長=執行委員となりました。組合は新産別全機不二越支部で、社研は支会長=執行委員3人、常任執行委員1人で最左翼でした。会社は1964年、全国の新聞をにぎわせるような過剰設備投資で創立社長、息子の副社長が退陣、丸紅より社長だった市川忍自らが乗り込んできて合理化攻撃をかけてきました。1965年組合役員改選では会社は総力挙げて向井落としにかかり、1票差で落選。
|
翌66年2月、希望退職募集攻撃となり、組合中枢は事前に秘密合意。それを知った社研は、向井が直属重役に会い、首切り攻撃の実態を確認し、翌朝門前ビラで暴露しました。組合委員長は執行委員会での質問に、「不二越社会主義研究会とはビラを撒いている学生の団体でないか。希望退職募集も知らない」としらを切り、会社が「1200人希望退職募集」――そのときには1万人が8000人に減らされていたのですが――を明らかにし、組合もスト権付与投票にかかると、右派支会長はスト権反対の職場オルグ、社会党は沈黙、私たち不二越社研は毎日職場を終わると集まり、職場の状況と情勢を分析、向井がビラ執筆、富山大マル学同諸君の手で印刷、連日朝の門前ビラまきを展開しました。それは職場で食い入るように読まれたが、スト権は40㌫台で不成立、組合は「スト権なしにはたたかえない」と動かず、希望退職が募集数を上回ったのに、会社は応募者に将来同じ条件で退職させるからと退職届を返し、「応募数に満たないから」と指名解雇へ。不二越社研、共産党・民青は全員、社青同は人員整理に反対に動いた6人のみ解雇となった。今思うと、いろいろな反撃方法を思いつくのですが、当時はそれを突破する道を見いだせず、敗北しました。不二越社研解雇者は富山での再就職は難しく、向井を北陸の組織化に富山に残し、全国に散り、その地のマル青労同に加盟しました。
|
向井は、本多さんから、70年闘争に向けて1969年秋に上京するように指示され、東京中西部地区に配属され、杉並に破防法弾圧下でも耐え発展する組織、地域に根を張った不抜の市民組織を作るようにいわれました。本多さんは、私が都立小石川高、東工大、不二越労働者と、行く先々で組織を作ることに成功してきたのを知っていたのです。私についてだけでなく、本多さんはそれぞれ多様な一人ひとりの人間をよく見ていた、そういう人でした。本多さんの革共同とは3全総であり、三全総に凝縮されているものです。黒田反革命はそれに脅え、それまでのサークル主義から脱皮して、たたかう労働者を獲得して、党が一回りも二回りも大きくなって、日本階級闘争の真っただ中で活躍し革命をやり遂げるということにたいする日和見主義、経済主義であり、それゆえに反革命に転落していったのだと考えます。
|
●最後に一言 |
今日は、本多さん追悼という共通の1点で、多くの方に集まっていただき、長時間にもかかわらず、最後まで残っていただきました。皆さん、いいたいことがいっぱいあり、時間が足りないほどでした。日ごろ、こういった場が少なかった。私も離党してから35年間、思うところを話しすることもなく、自分の中に籠っていました。今日も語り残したことが多くあります。今後も何とかこのような場を作れないかと考える次第です。医師、元革共同東京西部地区委員長(むかい・たくじ) |