補足「革共同第二次分裂の際の黒寛-本多同盟考」

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.3.10日

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 ここで、「革共同第二次分裂の際の黒寛-本多同盟考」をものしておく。この件のもやもやに光明を充てた文章に出くわしたことでサイト化した。

 2005.9.28日 れんだいこ拝


【革共同第二次分裂の際の黒寛-本多同盟考】
 「革共同の第二次分裂考」で、「日本トロツキズム運動史/革共同全国委結成される」にこう記した。
 1959.8.31日、革共同第一回大会で、黒寛が「スパイ行為という階級的裏切り」として除名される。本多は、黒寛と行動を共にし離党し、「反帝・反スターリン主義」をテーゼとする革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)を創設する(「革共同第二次分裂」)。黒寛が議長、本多が書記長に就任する。本多は、機関紙「前進」をみずからガリ版で創刊。以後一貫して機関紙の指導にあたる。「この過程は、同時に、黒田による書記局活動の解体、非組織的逃亡、サークル主義的非実践性とのたたかいとしてはじめてかちとられた」とある(「本多延嘉書記長の略歴」)。

 かく黒寛が本多と共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り、西の関西派と分離した。これがいわゆる「革共同第二次分裂」(トロツキズム史では第三次分裂となる)である。以降、西派は「革共同関西派」、黒田派は「革共同全国委員会」に分岐した。全国委の方はトロツキズムと訣別し始め「反帝・反スタ」をスローガンにした。

 その上で、「革共同第二次分裂の際の黒寛-本多同盟考」にこう記した。
 本多の履歴に一片の曇りがあるとすれば、この時の対応ではなかっただろうか。「黒田・大川スパイ問題」は黒寛の公安内通性の馬脚を露した事件であり、これをもって関係を断つべきではなかっただろうか。革共同関西派との抗争は是としても、黒寛との共同性は以降は有り得てはならなかったのではなかろうか。結論的に云えば、この脇の甘さがやがて命取りとなったのではなかろうか。

 その上で、「黒寛・大川スパイ事件を廻る白井朗の内部告発考」にこう記した。これを仮に「白井朗証言」と命名しておく。
 2022年末、「白井朗/ブントと革共同の歴史的関係について」に出くわした。その中で、この時の「黒寛・大川スパイ事件」がより詳しく論ぜられている。それによると何と、通説が「民青情報の警察売り」は大川の直前の動揺によって未遂に終わったとしているところ、例えば「1959年初頭に大川という人物が日本民主青年同盟の情報を警視庁公安部に売ろうと提案し、黒田寛一もそのことを認めていたのではないかという疑いが発覚する(黒田・大川スパイ問題)。これは未遂に終わったが、その後、黒田寛一は革共同から日本共産党の宮本顕治と同類とみなされるようになった。同年8月の革共同第一回大会で黒田寛一は『スパイ行為という階級的裏切り』として革共同から除名された」としている。

 しかし、白井告発は、「そうではない。既遂であり、大川は58年前半までスパイを続け、精神的に消耗して、59年には逃亡するに至る。黒田はこの間、大川から報告を受けて容認していた」ことを明らかにしている。白井氏のこの断定の情報元は分からないが、かく記している。こうなると、当時の同盟委員長・西氏の西京司論文集「日本トロツキズム運動の形成」の中での未遂説明は非常に大甘なことになる。背後事情までは分からないが、事件の真相を徹底的に明らかにして厳しく弾劾せねばならぬところで、わざわざに穏便化せしめてお茶を濁すような事情公開をしていることになる。「白井朗/ブントと革共同の歴史的関係について」は他にも数々の内部告発しているが、「黒寛・大川スパイ事件」の真相を明らかにしただけでも特筆級の重要な役割を果たしていることになる。少なくとも私には驚天動地の驚きだった。

 「白井朗証言」は、「黒寛・大川スパイ事件」が隠蔽され続け、明るみにされてからは「大川主犯説」で報ぜられ、その上で未遂事件とされているいることに対し、「黒寛・大川スパイ事件」が実在であること、「黒寛主犯説」が正しいこと、未遂ではなく既遂事件であることを暴露している。更に、大川がその後も黒寛に報告する関係が暫く続いていたことも暴露し、通説のデタラメを告発証言している。
 2024.3.10日、「黒田・大川スパイ問題をめぐって」に出くわした。これを確認しておく。
 参加者から自己紹介が語られました。最初に、向井拓治さんがあいさつしました。向井さんは、「この墓に来るたびに思うことがある」と切り出し、本多さんが多くの同志たちを結集させ、人を育て、革命への道を実践した優れた人物であったと語るとともに、「その本多さんの唯一の欠点は黒田寛一を信用したことだ」、「いわゆる大川スパイ問題では黒田が主犯だった」と痛切な声を発しました。向井さんは、自己紹介として、いわゆる革共同第二次分裂(1959年8月)について語りました。そして、「私は、黒田・大川スパイ問題が明らかにされたとき、革共同を離党した。その後、復帰する際に本多さんに、離党した理由は黒田のスパイ問題であることを告げ、スパイ問題の主犯は黒田であり、黒田を信用することはできないといった。本多さんはそのことを復党決意書に書いてくれといったが、それは書かないまま復帰した」と語りました。向井さんは、「黒田はスパイ問題が示すように腐りきった人間だった。本多さんは、黒田がスパイ問題を起こし、革命家として多くの問題を抱えていることを承知の上で、そんな黒田を御せる、黒田を変えることができる、と考えていたのだろう。だが、そこに本多さんの唯一ともいえる弱点があった。じつに痛恨の思いにとらわれる」と結びました。

 向井さんが指摘する“黒田・大川スパイ問題”とは、黒田寛一と大川治郎(本名・今泉恒彦、当時は革共同副議長)が1957年後半から翌年春にかけての数か月間にわたって、警視庁公安部に日本共産党・民青の情報を提供したという、恥ずべきスパイ問題のことです。
向井さんが東京工業大学在学時、革共同の第一回大会(1959年8月)を前にしてトロツキー教条主義の西京司派(関西派)と黒田・本多ら探究派との綱領・戦略という立脚点をめぐる党内闘争が激化しました。その際に、西派が黒田・大川スパイ問題(当時は“O問題”とか“大川スパイ問題”あるいは“組織規律問題”といわれていた)を党内闘争の争点として取り上げて探究派を批判したのでした。議長である黒田は大会の代議員権を剝奪され出席することができず、府中の実家に蟄居していました。本多さんを中心とする探究派は、黒田・大川スパイ問題の暴露によって窮地に立たされ、大きな打撃を受けました。そこで本多さんは、大会に向けて執筆した「反スターリニズムのたたかい(田宮テーゼ)」を共同の立脚点に、探究派を率いて西派と組織的に決別=分裂することを決断しました。それ以外にトロツキー教条主義の誤謬と限界をのりこえた反帝・反スターリン主義綱領を貫くことはできないと考え、新たに革共同全国委員会を結成したのでした。

 黒田・大川スパイ問題については、本多さんは大川を除名する一方、小野田猛史(北川登)氏および白井朗(山村克)氏とともに黒田を二カ月にわたって追及しました。
黒田にたいして自己批判・自己変革を求めるという立場をとったのでした。向井さんのことばを借りれば、「黒田を御せる」と考えてのことでしょう。しかし、本多さんと探究派指導部の黒田にたいするそうした対応が正しかったのかどうかは、当時の時点でも、今日的にも、厳しく問われなければならないことでしょう。そのときの政治判断の是非について、その後、誰よりも無念に思っているのは本多さん自身かもしれません。なぜなら、その後、1962年10月から翌年3月の過程で革共同全国委から分裂(革共同第三次分裂)した黒田=カクマルはその結成以降、反革命化を露わにしてきたからです。その反革命化の歴史的かつ思想的原点の一つが黒田・大川スパイ問題にあったことは明らかです。大川と共謀したスパイ問題を自己批判できず、開き直って自己批判を拒否した黒田とその追随者・松崎明をはじめとするカクマル集団――。彼らは必然的に、階級闘争の前進のためにたたかう者を背後から襲撃することに明け暮れたのです。

 
とりわけ1967年10・8羽田闘争への反発を転機として、それ以降、急速に革命運動へのあからさまな敵対物へと転落=純化したのです。それは、同時にまた神秘主義的観念論を組織の根幹にすえた閉鎖的なサークル主義を純化し、現実には資本の軍門に下った経済主義・組合主義を自己目的化するものでした。黒田=カクマルは、ついには警察=カクマル連合(K=K連合)下の白色テロ集団となり、謀略論集団となってきたのです。その原点には黒田・大川スパイ問題とそれへの開き直り=自己批判拒否があることを、あらためて今日、はっきりと確認しなければならないでしょう。なお、向井さん自身の1959年の離党とその後の復帰のいきさつについては、向井拓治「本多革共同の真髄は三全総にある」(『本多延嘉――虐殺死を超えて四五年』2021年12月、白順社刊)に詳しいです。
 上記「黒田・大川スパイ問題をめぐって」は、「黒田・大川スパイ事件」の裏面を内部告発している。これを仮に「向井拓治証言」と命名する。「向井拓治証言」は一つ、大川治郎の本名が今泉恒彦、東京工業大学の在学生にして肩書が革共同副議長であったことを明らかにしている。こうなると、「黒田・大川スパイ問題」は時の革共同議長、副議長という組織のトップの謀(はかりごと)だったことになる。次に、1959.8月の革共同の第1回大会を前に、西派と黒田・本多派の党内闘争が激化し、議長である黒田が「黒田・大川スパイ事件」を認めた為に大会の代議員権を剝奪され出席することができず府中の実家に蟄居していたこと、本多を中心とする探究派がスパイ事件の暴露によって窮地に立たされ、本多の「反スターリニズムのたたかい」(田宮テーゼ)を立脚点に革共同西派と決別し、新たに革共同全国委員会を結成した裏舞台のドロドロの様子を明らかにしている。更に、分裂前のことか分裂後のことか明らかにされていないが、スパイ事件について、本多が大川を除名する一方、小野田猛史(北川登)氏と白井朗(山村克)氏と共に黒田を二カ月にわたって追及し、黒田に対して自己批判・自己変革を求めるという立場をとったことを明らかにしている。

 証言者の向井氏は、「私は、黒田・大川スパイ問題が明らかにされたとき、革共同を離党した」、「黒田はスパイ問題が示すように腐りきった人間だった。本多さんは、黒田がスパイ問題を起こし、革命家として多くの問題を抱えていることを承知の上で、そんな黒田を御せる、黒田を変えることができる、と考えていたのだろう。だが、そこに本多さんの唯一ともいえる弱点があった。じつに痛恨の思いにとらわれる」と批評している。





(私論.私見)