第3章 70年代・80年代の総括
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困難な時代を総括することは困難である。しかし新しい共産主義を打ち立てるためには70年代、80年代の痛苦な総括が不可欠である。それはかならず階級の自己組織化に役立つものである。たんなる清算主義や「なかったことにする」ではなく、この時代にまともに向き合う必要がある。 |
対カクマル闘争
私にとっても、われわれ全体にとっても、対カクマル闘争を決意し、改めてカクマル認識(「K= K(警察=カクマル)連合)規定、後に 「カクマル=反革命」となる)をもった原点は、71年12月4日である。この日、関西大学のバリケードを襲撃したカクマルが、世にもまれな残虐さで、辻敏明・正田三郎の両同志を虐殺した。参加、現認した活動家全員が心身に深い傷を負った。他方で、カクマルを打倒するだけで人生を終えていいという膨大な活動家を生み出した。当時、われわれは、71年10月から11月にかけて、沖縄闘争の渋谷―日比谷を頂点とした激しい闘いで、2000人以上の逮捕者を出し、戦闘主力を奪われたことに重ねて、国家権力は破防法を発動し、屋内集会すら禁止するという超戒厳体制のもとにおかれていた。そのとき70年闘争から逃亡し、「戦力」を温存したカクマルは、満を持してこの時を待ち受け、革共同攻撃に絞って、準備を重ねてきた兇行を行使したのである。
もうひとつ重要な節目に、72年9月17日、慶應日吉校舎での事態がある。この日、カクマルは青へルをかぶり、社青同解放派の隊列と見せかけて奇襲し、中核派の学生をめったうちにした。それ以前にも、70年8月、法政大学で中核派に変装して中核派学生数人を襲撃したことをはじめとして、72年驚谷で、73年、74年には法政大学に数度にわたって、同様の卑劣な襲撃をかけている。これらも「カクマル=
反革命」規定をおこなう契機となった。
「中核派がカクマルにたいする内ゲバの引き金を引いた」とされる 70年8月3日の海老原問題について真相を語っておく。当時8・6ヒロシマ反核闘争に向けて街頭宣伝をしていた首都圏の中核派の学生たちが、街頭カンパの先々で連日カクマルに襲われ、名簿・金を奪われた。しかも決まってカンパ集約の時だ。この日、池袋の現場に、東京教育大のカクマルNo2と言われていた海老原俊夫が通りかかった。当時の中核派メンバーの怒りは抑えることは困難であったとしても、海老原がその後、死に至ったことにたいする指導部の責任は重い。
私のカクマル認識に今一つ重要な転換をもたらしたのは、74年12月1日のカクマル関西中枢殲滅戦闘の現場に、カクマル指導部が所持していた、『北支の治安戦』(1・2)(防衛庁防衛研究所戦史室編集、朝雲出版社出版)とその研究ノートがあったことである。同書は、日中戦争での旧日本軍と中国軍(国民党軍・紅軍)の間の相互の政治・軍事戦術を主に日本軍の側から分析したものである。当時、日本軍(「皇軍」)は、政略・戦略・謀略を合わせて3略と呼び、中国人民にたいする 「戦争」に主に「謀略」で勝つことを追求していた。そのため自らと中国軍の双方の謀略戦術を集大成したものが本書である。カクマルはこれを丹念にノートにとり研究していた。カクマルの反革命的執念に驚愕するとともに、中国人民を謀略で圧伏できると考えた旧日本軍の浅はかさと同じものをカクマルに見いだすことになった。
その後の考察を通じて、カクマルの「謀略」の主要な手段が、盗聴とスパイ政策の意識的採用であることが次第に判明した。盗聴は権力の手口をまねた電話盗聴であり、スパイ政策は職場やキャンパスに
「クサ」のように埋め込むだけでなく、革共同の基本組織である地区党の中に計画的に潜入させることもあった。われわれが摘発した最大のスパイ、北方正昭は当時大阪の最大の地区党であったH地区党の指導部の1人であった。これを粉砕したことをカクマルが党内闘争や分派闘争であったというのは虚偽である。激しい闘争の中でも
当時のメンバーが命を懸けて実行していた機関紙拡大闘争に、この男が1度も取り組まなかったことにその証左がある。
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「カクマル=反革命」規定
黒田哲学ゆえにカクマルは反革命(に転落した) という考え方に反対である。それなら革マル派は最初から反革命であったことになる。2001年の革共同6回大会では、「黒田哲学を批判しきったから対カクマル闘争は勝利した」と強弁した。現に、第6回大会の報告決定集は、300頁以上が黒田哲学批判に当てられている。黒田哲学ゆえに革マル派は反革命に転落したのではないし、黒田哲学を批判すればカクマルに勝利できるものでもない。革マル派は、本質は小ブル自由主義であって、それが70年安保・沖縄闘争からの逃亡と敵対をもって反革命に転落したととらえるべきである。社会主義を名のり、労働者政党を名のる集団が反革命に転落することは歴史に例が多い。ナチスは、「国家社会主義ドイツ労働者党」という紛らわしい党名を掲げていたし、イタリア・ファシズムは、イタリア社会党のもっとも急進的な分派から発生した。反革命が台頭したとき、革命党が武装して闘うのは当然である。その決断によってわれわれは革命的共産主義運動と階級闘争を守り抜いた。対カクマル闘争を、「やるべきでなかった」とか、「なかったこと」にして見すえない人々に言いたい。70年代前半、われわれと解放派がカクマルに掃滅されていたら、日本の階級闘争はすさまじい閉塞状況に陥ったであろう。当時の早稲田大学の情況を思い浮かべればわかる。30年代から40年代にかけてのスターリン独裁体制やナチス支配下のドイツを考えればわかる。それでも闘う方法はあったというのは言い訳にもならない。
しかし「先制的内戦戦略」という形で、対カクマル「戦争」の延長上に革命があるかのような過大な位置づけを与えたことは間違っていた。対権力の闘いと対カクマル闘争を分離していずれも段階的に防御→対峙→反攻と発展するという考え方は間違いであり、しかも政治的包囲や全人民的反撃をほとんど考慮しない闘い方は最悪であった。階級闘争全体に責任を持つ立場から言うと、対カクマル闘争の戦略化、戦争化は、一種の「内ゲバ革命」論というべきものに行きつく。
以上2点の総括と反省から、われわれは、今日のカクマルですら、共同闘争の一翼を担うことを、彼らの存在ゆえに、拒否したり、排除したりはしない。現に、すでにいろいろな場面で共闘することがある共産党にたいして、われわれは「スターリン主義反革命」という規定を撤回したわけではない。この点では、ナチスと闘うためには、悪魔とさえ手を結ぶと言ったトロツキーの言を学ぶべきである。統一戦線とは紙に書いた政党間の協約によって成立するという考えからは発想しにくいことであろうが、全階級・全人民を結集する統一戦線とはそのようにして形成されるべきである。
対カクマル闘争を「内ゲバ反対論」の立場で批判する人々に言いたい。対カクマル闘争を「内ゲバ」と規定することにあえて反対はしない。革マル派が、革命的共産主義運動の中から発生したこと、および反革命に転落した背景と原因にはわれわれ革共同や中核派の責任もあるからである。60年代の党派間闘争の節操のなさ、例えば64年の7・2事件で早稲田革マル派を攻撃したことなどは明らかにそうであった。階級的正義と運動の大衆性、自立性(あえて言えば「プロレタリア民主主義」)を破壊する党派間闘争が、階級闘争を毒する最大のものであることをわれわれは反省的に確認するものである。そのうえで、「内ゲバ反対」論をとる人々が、カクマルが70年安保・沖縄闘争や当時の大学闘争に敵対し、バリケード破壊集団として登場したこと、国鉄分割・民営化の先兵となったJR総連カクマルの存在を批判しないのはどういうことか?
労働組合だから許されるとか、生き延び方として理解できるなどというのは独善的な弁解である。これは黒田寛一や松崎明の人格や思想とは別のことである。階級闘争には超えてはならない一線があるのである。
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70年代~80年代全体の問題
総括の基本視点としては、20年以上の期間、非合法・非公然体制を維持し、世界革命史上でも激烈な闘い(戦い)を闘いぬいたことを第1に挙げる。この過程で、権力もカクマルも、あらゆる弾圧・攻撃・謀略の手口、手段を出し尽くし、労働者人民がそれを教訓化し、のりこえる経験を蓄積した。そのなかで、われわれは、極限的閉塞、階級の大地からの長期の断絶が新たな抵抗と反撃の芽を大事にする志向と運動を生み出したことに着目する。戦闘と非合法・非公然の経験蓄積を無駄、妨害物としてネガにとらえるのではなく、根底から抉り出し、新たな革命運動の資産とする。そのためには、清算主義と激しい戦闘過程からの逃げとしての総括ではなく、国鉄・三里塚・狭山闘争のもっていた全階級的意義を今日的に明らかにする必要がある。しかしながら、対カクマル、対権力の激烈な闘いのなかで、貫き通した国鉄闘争をはじめとする労働運動へのかかわりの問題性、および沖縄闘争や入管闘争の完全放棄は真摯に総括しなければならない。
他方で、この期間の闘い方の問題点としては、階級闘争・革命運動全体に目が向かない内向きの姿勢、党にたいする物神崇拝的あり方と腐敗した官僚主義、逆にすべてを自分で考えない党依存主義、セクト主義と階級闘争の閉塞状況などを、われわれ自身がつくりだしたものとして総括することが必要である。
70~80年代の「3大テーマ」として以下の3点がある。
(1)現代戦争テーゼ→以下に問題点を述べる
(2)先制的内戦戦略→対カクマル闘争を路線化した問題性(先述)
(3)非合法・非公然体制の問題性→後述
その中で76年に提起された現代戦争テーゼは以下のようなものであった。
「帝国主義が帝国主義であり、スターリン主義がスターリン主義である限り、帝国主義の侵略戦争、帝国主義間戦争、帝国主義とスターリン主義の一部または全部を巻き込んだ国際戦争―世界戦争は不可避であると言わなければならない」(1976
年『前進』新年号無署名論文)。
一読して分かるが、当時、ありうべき戦争を羅列しただけである。 肝心の大国による小国(新植民地主義諸国、従属国)への侵略戦争には重点が置かれていない。すべての戦争は帝国主義とスターリン主義の関与の下に起こるという一種の体制間矛盾論である。ベトナム戦争の終了前後に登場した「ポスト・ベトナム論」の1変種というべきである。このような「世界認識」から、ソ連が崩壊したとき、その要因を「米ソ軍拡競争でのソ連の劣敗」に求めるような内在的分析ゼロの「認識」が出てくる。2001年の革共同第6回大会では、「核心的まとめ」として、新たな「現代戦争テーゼ」が出された。「二九年型世界大恐慌の現実化が始まり、世界経済のブロック化がいよいよ進行してくるなかで、崩壊したスターリン主義圏と残存スターリン主義圏のとりこみをめぐって争いが具体的に激化していくとき、帝国主義対帝国主義の対立は、帝国主義であるかぎり第三次世界大戦へとつきすすむしかない」(「革命的共産主義者同盟第六回全国大会報告・決定集上」p206)
スターリン主義圏への侵略戦争、ないしスターリン主義間の戦争、 新植民地主義諸国への侵略戦争をすべて捨象し、帝国主義間戦争にすべてを集約している。「侵略戦争ない」論はもっとひどくなっている。
以上、新旧の「現代戦争テーゼ」は、現代世界の認識としても、「侵略を内乱へ」の反戦闘争を組織するうえでも、問題がありすぎる。なによりも自国帝国主義の侵略戦争と闘う路線とスピリット(精神、情熱)がない。当時このことを党内で問題にしえなかったこと、および問題にできないような党にしてしまったことにたいする、私自身の反省を明らかにしておきたい。新自由主義の下での現在の戦争を把握するうえで、現代戦争テーゼが帝国主義間戦争を強調していることを批判するとして、帝国主義間戦争、国家間戦争を否定する逆の誤りが生まれている。国家間戦争がなくなったという理解は、米帝を先頭とする帝国主義が、治安問題として「解決」すべき問題を、戦争問題として扱っていることにたいする屈服がある(「対テロ戦争」論)。その結果として、現に展開されている戦争と真の戦争の危機に目が向かないのである。
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1978年1・1アピール
70年代、80年代にわれわれ全体が陥っていた問題を端的に示す論文である。たんに筆者であるN政治局員だけの問題とせず、われわれ全体が陥っていた問題として総括して、教訓化する必要がある。第1の問題は対カクマル闘争を「革命と反革命」、「党対党」の「戦争」と規定していることである。これは悪く言えば、人民大衆は関係がない「戦争」、せいぜい「応援団」、「兵站」という位置づけになる。カクマルを「反革命」と規定するなら、対カクマル闘争を労働者人民自身 の闘いと規定しないとおかしい。逆に言えば、カクマルを本当に反革命としてとらえきっていないことになる。その対カクマル「戦争」について、「計画性を間断なき攻勢として実現する」、「百戦して百勝する軍の武徳」なるものを提起している。「押せ、押せ」一辺倒で、政治的勝利や階級関係全体の変革を課題としない安易な絶対戦争規定である。
対カクマル「戦争」の位置づけとして次に2点を挙げる。
(1)「先制的内戦戦略の突破口をなす戦争」
(2)「権力との戦略的対峙段階を戦取する戦争」
ここで、(1)と(2)は矛盾する。対カクマル闘争が対権力の闘争であると論点をすり替えている。実際は、対カクマル「戦争」を戦うことが先制的内戦戦略の実現過程という位置づけであった。逆に言えば、対カクマル「戦争」の戦争目的や決着点をあいまいにするものであった。事実、PIからPⅡへの移行、転換が総括も位置づけもできないものになった。
さらに対カクマル「戦争」を「個人対個人、党対党、人民対人民の食うか食われるか、殺すか殺されるか、生か死かの、赤色テロリズムと白色テロリズムとの相互絶滅戦争としての絶対戦争」と規定する。権力との対峙関係が完全に吹っ飛び、自立的自己完結的な対カクマル絶対戦争論になってしまった。「人民革命軍・武装遊撃隊の3つの契機」論で「恒常的武装勢力」の必要性を強調し、「人民革命軍・武装遊撃隊」は、「党の軍隊であり、政治的軍隊である」とする。ここでは、武装を党の軍隊建設に集約する結果、政治的課題をそのための水路にしてしまい、労働者人民は単なる動員対象になってしまう。
3大任務の第3の「党のための闘い」について、「武装せる党建設でなければならない」として、その基軸は「革命的軍隊のための闘争」とする。そして、「軍における党のための闘争」、そのための「人づくり =組織づくり」とし、しかもその基軸(「切り口」)は、「戦闘と作戦、建軍、防衛戦争……」とする。これは機能主義きわまる党建設論である。党建設と軍建設を一体としてとらえている。その結果、党建設論が機能主義的なものになる。また、「中央、上級指導部の決定を主体的に把握し……」と、上意下達そのものになっている。「貫徹=人づくり、 組織づくり」などという言い方そのものが、労働者自己解放の思想とはほど遠い。カクマルの黒田寛一は組織づくりに関する考え方として、「報・連・相(ほう・れん・そう)」などと言っていた。これは1982年 に山種証券の山崎富治社長が言い出したことで、「報告・連絡・相談」をちゃんとすることが会社を強くするというブルジョア経営の機能主義丸出しの発想である。しかも90年代以降、このような考えは、企業としても成果が出ないだけでなく、「人の成長の芽を摘む」として顧みられなくなった。そのころから黒田が自慢げに使い出したことに、われわれは驚いたものである。運動や組織が行き詰りだすと、ブルジョア経営(学)から学ぶ(というより、剽窃、乗り移り)の発想が生まれる。その典型が黒田「報・連・相」論である。78年1・1アピールの 「貫徹=人づくり、組織づくり」論はそれと同根の問題をはらんでいたと言わざるをえない。
これが典型的に表れたのが、「党の目的が組織的に貫徹されるためには、党は、中央集権的であること、職業的革命家を骨格的基軸にすることがなくてはならない」とする他方で、支持者、同調者については、「党・軍の内戦的、政治的基盤」の強化に生かすとする提起である。これは、レーニンの「何をなすべきか」の歪小化であり、労働者人民の党と軍による引き回し、「使い捨て思想」である。同じく、「分散化、専門化、分節化」「強力な中央集権制、集中制、結節化」という表現も、いっさいが中央集権制の強化の観点から言われている。分散化や分節化は「党にたいして責任を負う点」からのみいわれ、「部分の全体(中央を媒介した)にたいする責任」の強調もその観点から出ている。また指導について、「1人ひとりが党の立場にたちきり、全体性を体現し、党と自己を一体化させる」「党中央の決定を一身に体現して任務を遂行しなければならない」「党組織、指導部、責任者は、戦争のいっそうの激化を促進する装置として存在している」「一般に、手段の目的化は官僚主義であるが、それは目的ときりはなされたからであり、手段それ自身は徹底して対象化されなくてはならない」。ここには、中央の絶対化、批判や指令に返上や異議を唱えることを認めない。そのうえあらゆる党組織、指導(責任)者が「装置」となるとは!
とんでもない組織論である。スターリンの「伝動ベルト論」と変わらない。党組織論において、「未来社会の萌芽形態」なる黒田・カクマルの規定より、機能主義に純化しているだけに、救いがたい。「唯一で無謬の党」という党物神化を生み出す。指導部絶対化、非合法・非公然指導部の無謬性神話などはその最たるものである。また「通報の権利」についても、「権利」と言っているが、実は義務。中央にたいする報告だけをやって、あとは、上意下達的に命令に無条件に従えということになっていた。中央にたいして意見を言う、あるいは異議を唱えるということはそもそも予定もしていなければ、
認めもしない。このことを今日、痛苦の念をもって総括するものである。
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90年天皇決戦と「5月テーゼ」をめぐって
90年天皇決戦をわれわれは、満身創痍で闘いぬいた。しかし階級闘争にたいする閉塞状況は強まり、軍中心の体制が限界に達した。 そこで大衆運動と党建設に党活動の比重を移すという「5月テーゼ」が出された。清水丈夫政治局員はこれを、「生体反応」と称したが、総括なき便宜主義的転換であった。私は、非合法・非公然体制と逮捕・獄中の20年間を通して、この5月テーゼを数年間も呑み込めずに苦悶した。当時考えたのは、対権力、対カクマルでいずれも決着がついてない中で、成立するのかという疑問であった。2006年3.14以降の中央○○会議で、この疑問を率直にだしたところ、猛烈な反論を食らった。そのすべてが詰まるところ、「中央の提起に従わないのか」ということである。私の疑問は、確かに古い意識、従来の路線の延長上のものであった。しかし大衆運動や「戦争」の現場で、実践的に現場で私のような疑問を持たない方がむしろオカシかったのである。
5月テーゼ下の停滞について、清水丈夫政治局員はその原因を次のように指摘している。
(1)指導部間の不一致
(2)大衆運動能力の驚くべき衰退
(3)労働者党員の困難(孤立、高齢化)
(4)常任、専従の官僚化、手配師化、サラリーマン化
私はこのような指摘にたいして当時も、今も、言いたい。一番歪んできたのは清水丈夫本人ではないか、と。そもそもP1、P2下の党の歪みを対象化していない典型が清水丈夫自身ではないか、と。
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