中野洋追悼

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.2.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、動労千葉の名指導者・中野洋を確認しておく。

 2010.05.29日 れんだいこ拝


【中野 洋(なかの ひろし)】
 国鉄およびJRの労働運動を担ってきた人物である。1970年ごろより、三里塚闘争を行っていた三里塚芝山連合空港反対同盟を国鉄労働運動から支援して、ジェット燃料輸送阻止闘争を展開した。「動労千葉」の「動労」からの分裂結成にも、関わる。1985年ごろより、国鉄分割民営化阻止闘争を手がける。

 人脈的には、「日本労働組合総連合会」結成に批判的な、日本労働運動左派とのつながりが強かった。また、「動労」の革マル派系活動家との対決から、中核派の機関紙や文献で友好的人物として登場した。中核派の副議長としているサイトもあり、革マル派や関西派などの中核派(中核派中央派)に対する蔑称のひとつである「中野一派」(または「安田一派」)は、中野の名(または筆名の安田)に由来する。


【中野 洋(なかの ひろし)略歴】
 (1940年2月12日 - 2010年3月4日)
 労働運動家、元国鉄千葉動力車労働組合委員長。
1940年2月12日生まれ。
1959年日本国有鉄道に入社する。
1963年国鉄動力車労働組合(動労)千葉地方本部青年部長になる。
1965年、千葉県反戦青年委員会議長となる。
1969年、動労千葉地本千葉支部支部長になる。
1972年3月28日船橋駅構内追突事故が起こり、国鉄当局は運転士の個人責任としたが、原因は信号の停電と過密ダイヤであるとして国鉄当局の責任追及と安全運転確保を求めた船橋事故闘争を展開し、頭角を現す。
1973年9月、動労千葉地方本部書記長となる。
1977年12月から翌1978年にかけて、パイプラインの代替として鉄道を用いて新東京国際空港(現・成田国際空港)への航空燃料を輸送した、いわゆる暫定輸送に対抗して、ジェット燃料貨車輸送阻止・100日間闘争を担った。(成田空港問題
1979年3月30日、動労より分離した「国鉄千葉動力車労働組合」(動労千葉)の結成に参加し自ら書記長となる。
1979年12月、春闘ストライキを理由に、国鉄を解雇となる。
1983年10月、動労千葉委員長になる。
1985年2月より、国鉄分割民営化阻止闘争を担う。
1989年、全国労組交流センターを設立、自ら代表となる。
2001年10月、動労千葉委員長を引退する。その後も「動労千葉」の顧問として活動する。
2010年3月4日肝管癌で死去する。70歳であった。
 著書
 甦る労働組合 社会批評社 1996年3月 ISBN 978-4916117120
 新版 甦る労働組合 編集工房 朔 2008年10月 ISBN 978-4434125539

 共著

  • 大失業時代の労働運動―労働組合の再生と復権 岩井章 社会批評社 1996年3月 ISBN 978-4916117090

 2010/05/24、週刊『前進』(2440号2面1)革命的共産主義者同盟議長 清水丈夫中野洋同志を心から追悼する 動労千葉の労働者と共に第2次国鉄決戦とプロレタリア革命の勝利へ闘うことを誓う 」。
 (一)  
 中野洋同志は偉大な労働者であり、労働運動の最高の指導者であり、不世出の大革命家だった。日本の労働者階級、そして世界の労働者階級にとって本当にかけがえのない存在であった。中野同志は何よりも労働者を愛し、動労千葉の労働者、仲間を愛し、動労千葉という労働組合を限りなく愛してきた。ここに中野同志のマルクス主義、労働運動、革命運動が本物で迫力あるものだった根拠があると思う。中野同志は団結した労働者の無限の力を心から確信していた。実際、中野同志とともに闘ってきた動労千葉(動労総連合)の労働者は、第2次国鉄分割・民営化攻撃と言うべき検修・構内部門全面外注化攻撃、国鉄1047名解雇撤回闘争陣形破壊の大攻撃に対して、中野同志を喪(うしな)った悲しみをのりこえて大ストライキ闘争をもって決起し、組織拡大の力でJR体制を打倒するために立ち上がっている。

 革共同はここに、動労千葉(動労総連合)労働者とともに、また全国の闘う仲間とともに、動労千葉のもとに結集し、動労千葉を守り抜き、強大化し、JR打倒、日帝打倒、世界革命まで闘いぬくことを宣言したい。このことを中野同志の霊の前に固く誓う。
 (二)
 中野同志の成し遂げてきた業績は到底語り尽くせないほど大きい。しかし、あえて一言で言えば、彼は階級的労働運動と革命的共産主義運動の歴史において、一つの革命を成し遂げたということである。

 「労働者階級自己解放闘争としての共産主義(運動)」「労働者階級の解放は労働者自身の事業である」――これはマルクス主義を学んだ人なら誰でも知っていることであるが、実際にこれを実現することは、革命を本当にやり抜くことと等しいくらい大変なことである。中野同志はこれを現実に本当に実現していく闘いを、動労千葉でともに働く労働者とともに理論的、思想的、実践的に切り開いたのである。それは職場生産点で労働組合運動をとおして、資本・権力の労働者支配・分断支配と、絶対反対論と階級的団結論をもって闘い、労働者の自己解放の無限の力を引き出していくこと、そしてそれを労働者自身のマルクス主義の学習の活動と結合し、一体化していくこととして展開された。

 社民的ダラ幹やスターリニスト的ダラ幹の、労働組合と党や共産主義活動を分断し、労働組合は改良の枠内の闘いという形で、労働組合をいやしめていくやり方を打破して、同志中野はこのような闘いを動労千葉労働運動として現実化していった。労働組合自身がマルクス主義を学び、マルクス主義を現実的に武器としつつ、資本・権力と、階級的団結を武器に徹底的に闘い抜く時、その闘いはプロレタリア革命に至る労働者自己解放闘争全体へと発展する力を内在している。これは端的に言って、労働組合の革命論的意義として確認されていった。階級的労働運動論の確立と実践である。

 もちろん、中野同志は、資本家階級が国家権力を掌握し労働者階級を経済的、政治的、社会的に抑圧、支配している資本制社会を革命的に転覆するためには、労働者階級は自己自身の党として革命的共産主義の党を建設することが決定的に必要であることは、マルクス主義者として圧倒的に確認していた。問題は党が労働者階級自身の党として職場生産点に根を下ろし、労働組合運動の白熱的展開の中で、その先頭に立って闘い抜くことをとおして建設されなければならないということであった。つまり、階級的労働運動と革命的共産主義運動は労働者階級自己解放闘争の労働者自身による具体的展開として、限りなく有機的一体的に闘いとられなければならないということである。

 私は、中野同志が動労千葉と動労千葉派の具体的実践的苦闘の中で、闘う労働者とともに生み出し発展させた、この労働組合と党のあり方こそ、わが反帝国主義・反スターリン主義革命運動とその党(革共同、マル青労同、マル学同)が労働者階級の党として、真にプロレタリア革命を成就しうる党として自己形成していく上での決定的なカギをなす、現代の「何をなすべきか」であると確信している。06年の党の革命もまさに、これまでの党にあったゆがみを正し、これを全面的に貫徹する大変革だったのである。
 (三)
 中野同志の偉大な業績は、このような現代の「何をなすべきか」を単に組織論、革命論として明らかにしたことにとどまるものではない。中野同志はこれを現実の動労千葉や動労千葉型労働運動、11月派型労働運動として、決定的に資本・権力と闘いぬき対峙する一つの階級的勢力として形成する先頭に立ち、その闘いを勝利に導いてきたのである。そして、この点で決定的なブレークスルーは、1987年の国鉄分割・民営化攻撃と真っ向から対決し、松崎・動労カクマルの希代の裏切り、国労ダラ幹の裏切り的無為無策という大重圧、そして民間反革命の現代のファシスト・カクマルの度重なる襲撃をはねのけ、断固勝利的に貫徹し、動労千葉1200の階級的団結を堅持することに成功したことである。この力のもとで、1047名解雇撤回闘争の陣形も形成・堅持されてきたということである。

 ここで確認しておくべきことは、1987年に中曽根のもとで強行された国鉄分割・民営化攻撃は、日本での新自由主義攻撃の背骨をなすものとしてあるということである。そして、それは周知のように、けっして完了したり、終了したりしているものではないということである。大恐慌で破綻した新自由主義はボロボロになりながらも、結局、より悪質で、より凶暴な新自由主義攻撃を見境なく強行するしか延命の道はない。実際、動労千葉の闘いと1047名闘争によって、根幹のところで大きな打撃を受けたJRは、今や大恐慌下の不況重圧にあえぎつつ、ライフサイクル攻撃や検修全面外注化攻撃、そして1047名闘争破壊攻撃を内容とする第2次国鉄分割・民営化攻撃にのめり込んできている。そして、そのことの成否は、財政危機にあえぐ日帝ブルジョアジーの公務員360万人の「いったん解雇、選別採用」の大反革命の帰趨(きすう)を決めるものとなってきている。すなわち、中野同志が生涯をかけて守り育てた動労千葉と動労千葉派、11月派の階級的労働運動は、いま再び大恐慌下の日帝との階級決戦の中心軸になってきているのである。

 さらに言えば、大恐慌下の階級決戦を、第2次国鉄決戦勝利の闘いを基軸にして闘い、プロレタリア革命への道を開く突破口とするという路線を、中野同志は、動労千葉(動労総連合)の労働者とともに切り開いてきたのである。中野同志の切り開いた地平をがっちりと固め、今こそ第2次国鉄決戦を、1047名闘争陣形解体策動を徹底的に粉砕して、60年安保、70年安保を超える大闘争として全力で闘いとっていくことが、今日のわれわれの任務となっている。
 (四)
 動労千葉と動労千葉型労働運動のもつ階級性、革命性、吸引性、発展性は、真に階級的に自己解放闘争を開始した労働者階級の団結体のもつ特性としてあると言える。中野同志は、この点からして、全日建運輸連帯労働組合関西地区生コン支部、全国金属機械労働組合港合同との間で3労組共闘を形成し、かの11月集会をかちとるイニシアチブをとった。この11月集会が、年々発展する中で、日本階級闘争において果たしてきた役割の大きさは計り知れない。これは、実に日韓米の3国国際連帯にまで発展して、今日に至っている。これも今、一大開花期を迎えている。そして、この3労組は、今再び6・13の1047名闘争貫徹、第2次国鉄決戦貫徹のための「全国的大運動」の呼びかけ主体となっている。また、動労千葉と動労千葉型労働運動をテコとしての労働学校の開催、そして、それを契機としてのマル青労同、マル学同の再建に向かって、中野同志の懸命な努力には、実に頭が下がる思いである。

 今日の大恐慌下で真に階級的労働運動をプロレタリア革命へと発展させるためには、動労千葉も、革共同も、青年労働者の獲得に成功しなければ将来はない。2000万青年労働者と300万学生は今、資本主義の矛盾の集中的重圧のもとで怒りにあふれている。この力を解き放つ以外、革命の勝利はない。6000万プロレタリアートの決起もできない。
 ここから中野同志を先頭にして、マル青労同1000人、マル学同1000人の具体的目標が戦略的に設定された。さらに動労千葉青年部結成をも視野に入れて、青年学生を組織する闘いが開始された。今日、春闘に見るように、こうした青年労働者・学生のすさまじい力が、日本の階級闘争の大地でのびのびと力強く成長しつつあるのである。とにかく、同志中野の残した足跡の大きさ、その広さは、まことに驚くべきものである。まさに偉大な労働運動家、不世出の大革命家という以外にない。
 (五)
 この追悼文の最後に、今一度次のことを確認したい。

 大恐慌下の革命情勢を、日本の、世界の労働者階級、革共同は、絶対に見逃してはならない。中野同志が切り開いた階級的労働運動と革命的共産主義運動の、職場生産点を土台としての一体的形成を、今こそ爆発的に推進し、巨大な物質力へと発展させよう。第2次国鉄決戦という決定的な水路をゴリゴリと突き進み、大恐慌をプロレタリア革命に転化するために、あらゆる努力をしよう。そして、プロレタリアートの決定的勝利=革命の勝利のために、あらゆる努力、あらゆる創意を働かせよう。どんな階級的困難、階級的攻防の激化も恐れず、プロレタリア革命に向かってまっすぐに突き進もう。反帝・反スターリン主義世界革命の大旗を打ち振り、「革共同綱領草案」がはっきりとさし示す進路と目的をめざして、どこまでも驀進(ばくしん)しよう。

 中野同志は、動労千葉とともに、革共同をこの上なく愛していた。そして、その革共同が09年、「革共同綱領草案」を確立したことについて、中野同志は心から喜んでいた。全日本と全世界の労働者階級、動労千葉と動労千葉派、11月派の全労働者同志たち、そして、革共同、マル青労同、マル学同の全同志たちよ。今こそ偉大な中野同志の切り開いた道を圧倒的に推進し、勝利させ、プロレタリア世界革命を勝利させていこう。これこそが、同志中野への最高最大の追悼ではないだろうか。ともに闘わん。中野同志よ、これを見守ってくれ。




(私論.私見)