荒川碩哉問題考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「荒川碩哉問題考」をものしておく。

 2017.4.9日 れんだいこ拝


  「2013.6.17日付け6月17日付け『前進』の声明」。

 http://www.zenshin.org/f_zenshin/f_back_no13/f2588sm.htm#a5_2

 権力のスパイ荒川碩哉を打倒
 この歴史的な地平を強大な労働者党の建設とプロレタリア革命の勝利へ
 スターリン主義のりこえ

 6・9国鉄闘争全国集会は、2010年4・9政治和解=国鉄闘争解体攻撃を根底から粉砕する歴史的な前進を切り開いた。これと一体の戦いとして、プロレタリア革命運動の偉大な勝利がかちとられた。ついに革命的共産主義運動と階級的労働運動の統一的前進が、日帝国家権力との死闘をめぐり新たな歴史的到達地平をかちとった。

 革命的共産主義者同盟は、全世界・全日本の労働者階級に、日帝国家権力の最高中枢が放った希代のスパイ分子・荒川碩哉(ひろや、1947年生まれ)を摘発し、その階級的犯罪の全貌(ぜんぼう)を徹底的に暴き出した勝利を報告する。革共同は階級闘争史にもまれにみる極悪のスパイ分子・荒川を、階級的労働運動の地をはうような不屈の実践を通して摘発し、階級的・原則的な闘いでスパイ行為の全貌を暴き出し粉砕した。

 この日帝権力の最悪の手先は、自らの反革命的所業が暴かれる中で、6月4日、反革命の本性をむきだしにして警察に保護を求めた。この時、自らの家族を含む3人の同志を公安警察に逮捕させ、権力の懐に逃げ込んだのである。だが日帝権力は荒川を使ったスパイ活動が摘発・暴露された闘いに震え上がり、判断停止に陥る中で、3同志の勾留請求もできずに釈放せざるをえなかった。家族まで警察に売って権力の懐に逃げ込んだ荒川の反革命と極悪さに対して、われわれは煮えたぎる怒りを抑えることができない。膨大な告白文書によってすでに基本的な決着はついているとはいえ、荒川を絶対に見つけ出し、その階級的大罪にふさわしい最後の処断を下す決意である。

 今回の弾圧、そして今後のいかなる権力の取り戻し的な弾圧も、まったく無力である。われわれは、敵権力のぶざまな破産した姿を徹底的に全労働者階級の前に暴き出し、それへの怒りを結集して闘う。どのような弾圧も、徹底的に闘い粉砕することで革命的共産主義運動と階級的労働運動の豊かな実りある発展に転化できるのである。こうしたスパイとの闘いはこれまで、何か「革命運動の暗部」のように扱われてきた。だがそれは、スターリン主義による革命運動の歪曲と疎外、帝国主義権力への屈服の結果に他ならない。労働者階級と密接に結合した党が合法・非合法を正しく配置し結合してスパイ攻撃と闘うことは、スターリン主義をのりこえ、レーニンとボルシェヴィキの闘いを現代に継承し革命勝利の道を打ち固めるきわめて崇高な闘いである。労働者階級に依拠し、階級的労働運動を不屈に推進する闘いこそ、党をあいまいさなく階級性をもって打ち鍛える。党は階級によって不断に検証され、そこから党自身の絶えざる変革と強固な団結を形成していく。この闘いがあればどんなスパイ攻撃も必ず粉砕できるし、それは党にとって価値創造的な闘いになるのである。日帝権力とその極悪な手先に対する怒りは、けっして尽きるものではない。この階級的怒りが激しければ激しいほど、それはプロレタリア自己解放の力へと果てしなく融合していく。今回のスパイ荒川の摘発・打倒の闘いの勝利をもって、ついにプロレタリア革命の勝利へ前人未到の挑戦が開始されたのである。

 内調・公調に直結していた

 荒川のスパイ活動の全貌は、すさまじいばかりである。1995年から内閣官房長官の管轄下にある内閣官房内閣情報調査室(内調)に直結し、「特別職員」のような位置づけと役割をもってスパイ活動を開始した。内閣情報調査室は、内閣府、警察庁、防衛省、厚労省、総務省などからの出向者で構成される日帝政治権力の中枢中の中枢である。〔6月7日、安倍内閣は「国家安全保障会議」設置関連法案を閣議決定した。それに連動して内閣情報調査室に「諜報員」を配置し、スパイ専門部を新設しようとしている。荒川こそ、この憎むべき策動の先取りであったのだ。今回のスパイ荒川の打倒は、この国家中枢の戦略的狙いを徹底的に暴き直撃したのだ〕

 荒川が内調のスパイとなった1995年とは、日帝の体制危機の深まりの中で日経連プロジェクト報告「新時代の『日本的経営』」が出され、政治支配・労働者支配の転換が始まった時期だった。荒川のスパイ活動の開始は、これと軌を一にしている。ここで荒川は情報提供と引き換えに毎月多額の「報酬」を受け取ることになった。それは今年まで続き、荒川はその金のすべてを隠匿してきた。こうした中で、さらに2000年から01年にかけて、荒川は公安調査庁(公調)とも直結し、ここからも多額の金銭を受け取ってきた。なんと荒川は内調と公調の二つのルートを同時進行させ、党の内部情報から全国の情報、さらに「新左翼諸党派」、体制内労働運動に至るまで情報網を張り、情報の分析までやってみせ、それを高く売りつけていたのだ。荒川のスパイ活動は、内閣情報調査室とは18年間に7人の担当者が引き継いで行われ、公安調査庁とは13年間に4人の担当者が引き継いで行われた。

 革共同に奥深くスパイを送り込んだ日帝権力中枢の狙いは何か。第一に、戦前から戦後まで、階級政党や労働組合は直接の弾圧でつぶされるよりも、スパイなどによる分裂・分断工作、団結破壊によって自己解体の道をたどるのが常であった。また伝統的に帝国主義権力は、そのために総力を挙げてきた。とくに91年「5月テーゼ」以来、日帝権力は革共同の階級的労働運動路線の基軸となった国鉄闘争の解体に全力を挙げた。そのために革共同と動労千葉の解体と分断、分裂策動にのめりこんだ。国鉄闘争の継続と発展は、日帝権力中枢にとって絶対に看過できるものではなく、この闘いの壊滅に彼らは総力を挙げたのだ。荒川の数々の罪状はそのことをあらためて衝撃的に示している。荒川が新たに公安調査庁のスパイとなった2000年は、国鉄闘争の「4党合意」が行われ、JRの外注化という「第2の分割・民営化」攻撃が本格化した年だった。この時に荒川のスパイ活動に公調ルートが加わり、荒川はより一層「精力的」になった。また、党の内外で「5月テーゼ」に反対し動労千葉に敵対する策動も激化していった。この国鉄闘争破壊策動は、後には10年4・9反革命(国労本部など4者4団体派による解雇撤回闘争の政治和解・終結策動)へと至った。しかし、これらの敵の策動は動労千葉を先頭とする断固たる闘いによって、ことごとく破綻してきた。動労千葉の解雇撤回闘争と外注化阻止・強制出向粉砕の闘いはJR資本と日帝権力を追い詰めている。鉄建公団訴訟控訴審の暴力的打ち切り(5・8結審)や、一審判決を出した白石哲裁判長の突然の更迭(白石事件)など、いまや権力の根幹を揺るがす大闘争となって発展している。

 第二に、権力中枢の狙いは反革命カクマルを分裂させ屈服・転向させたように、革共同をも分裂させることであった。「革共同解体」を叫び警察と有無通じて武装襲撃を繰り返した反革命カクマルは、1980年代に国鉄分割・民営化攻撃の先兵となり、多くの国鉄労働者を自殺や退職に追い込んだ。この過程でカクマル副議長・松崎明(当時の動労委員長)は権力の完全な手先となり、警察や公調とも濃密な関係を結んだ。カクマルは1999年~2000年にJR総連派と中央派に分裂し、今やますます日帝中枢の恥多き手先、JRの外注化の先兵となっている。革共同はこの反革命カクマルとの闘いに勝利して、今日まで闘ってきた。

 「党の革命」が敵の狙い砕く

 第三に、日帝権力中枢は、階級的労働運動路線に敵対する党内の血債主義者の動向をつかんで分析し、それを使って革共同の分裂を必死に策動した。血債主義こそ、労働者階級自己解放の力と闘いを否定し、労働者階級を分断し、党の団結を内側から解体するものである。それは「5月テーゼ」以来の革共同の飛躍を押しとどめ、混乱・崩壊へ落とし込めようとするものである。だからこそ血債主義・労働者蔑視(べっし)との闘いは、権力による革共同解体・分裂策動を粉砕する死闘そのものであった。われわれは06~08年の「党の革命」によってこれに完全勝利し、それによって日帝権力中枢の党破壊策動を完膚なきまでに打ち破ってきたのである。「党の革命」で革共同は、労働者自己解放闘争論で武装した党、動労千葉労働運動を徹底的に実践する党に生まれ変わった。さらに大恐慌論と新自由主義論で武装し、非合法・非公然体制の本格的確立のために総決起していった。

 その後、荒川は「党の革命」に敵対した岸、水谷、石川(死亡)、藤本や、最悪の分裂主義者である塩川一派の塩川(橋本)、茂木、奥田(死亡)、さらに岩本、結柴、新城ら除名分子と陰に陽に結託し、権力の意を体して彼らをそそのかし、党の分裂・解体を策動した。これがすべて粉砕されると次に荒川は、除名分子に連なる反党分子の甘糟、奥村、浅野、本間、広瀬らとともに新たな党破壊工作、動労千葉破壊工作にのめり込んでいったのだ。今なお党破壊のためにうごめいている輩は、己の策動がどれほど権力を利するおぞましい反階級的な犯罪行為であるのかを、今こそ思い知るべきである。

 第四に、日帝権力中枢の狙いは星野奪還闘争の解体であった。荒川は、星野文昭同志と同じく沖縄返還協定批准阻止の渋谷暴動闘争(1971年11月)の被告として長期にわたって獄中にいた。この荒川をスパイに仕立てることで、日帝権力は星野同志をデッチあげで弾圧し、星野同志の闘いを圧殺することに総力を挙げたのである。それは、星野同志の闘いと星野奪還闘争が日帝権力を根底から揺るがす闘いだったからである。そして、何よりも獄中38年の星野同志の存在とその偉大な闘いが、日帝中枢の長年にわたるスパイ策動を粉々に粉砕してきたのである。

 第五に、敵の狙いは革共同の非合法・非公然体制の解体であった。権力は荒川を使ってこの攻撃を狙ったが、われわれはそれを完全に打ち破り、非合法・非公然体制を守り抜いた。レーニン以来、非合法・非公然体制を構築する闘いは、いかにスパイが潜入しようとも党の破壊を許さず、党を守り革命に勝利していく決定的な闘いである。合法・非合法、公然・非公然の闘いを正しく配置し強靱(きょうじん)に推進していくことは、革命情勢の接近下での最も核心的な革命的労働者党の任務である。

 マルクス主義と階級の団結

 さらに11年3・11(東日本大震災と福島原発事故)の経験は、再び党に一層の変革と飛躍を求めた。それは、福島の怒りと結合した労働者階級の決起を確信し、労働組合の団結を基礎に国鉄決戦―階級的労働運動をさらに白熱的に推進しようということであった。また地区党での討議と一致を総括軸にして、党と労働組合の一体的建設を全力で発展させようということであった。この労働者階級の生き生きとした、闘う意欲・情熱と誇りの発揚が、荒川のスパイ活動を摘発し粉砕する大きな力となったのである。そもそも帝国主義権力が放つスパイの活動など、初めから根底的に破産しているのだ。何よりも、スパイにも権力中枢にも、党と階級の真実は絶対に見えないのである。帝国主義権力のどんな弾圧も、スパイを使った破壊策動も、マルクス主義と階級的団結の力で武装していれば、絶対に粉砕できるのである。また、「時代認識と路線」で一致していくための絶えざる闘いは、必ず団結を育む不抜の力となるのである。革共同は、大恐慌と3・11情勢、新自由主義との激突の中で、国家権力のスパイ攻撃との死闘の勝利を通して、プロレタリア革命の現実性を大きく、大胆にたぐり寄せた。われわれはさらにこの死闘戦を闘う中で、労働者階級と真に結合した革命党としての躍動的力を獲得し、前進していく決意である。13年決戦を全力で闘い、国鉄決戦勝利、再稼働阻止・全原発廃炉、星野同志奪還、改憲阻止、安倍政権打倒へ進撃しよう。労働者同志を先頭に、大恐慌下の革命情勢を本物のプロレタリア革命に転化するために、党と労働者階級の団結をかちとり闘おう。


【陳腐過ぎる伊藤律評/考】
 2013年07月20日、「沈黙する荒川氏」が「〈クロ説〉に立てば、二つの沈黙があり得よう」と前置きして、「①  自らの犯罪を恥じて、墓場まで沈黙を守ること。この場合、権力からも逃れて、かつての伊藤律のように生きることだ。とはいえ、伊藤律自体、最終的には…」と述べている。これに一言しておく。荒川問題のシロクロ判定はさておき、伊藤律を評して、「自らの犯罪を恥じて、墓場まで沈黙を守ること」、「かつての伊藤律のように生きることだ。とはいえ、伊藤律自体、最終的には…」なる見地が、れんだいこには陳腐過ぎて許し難い。「れんだいこの伊藤律論」を読んで少しはマシになってくれや。

【「共産党の伊藤律氏スパイ問題」/考】
 2015年02月11日、「共産党の伊藤律氏スパイ問題」。
 共産党の「スパイ問題」や「査問」について改めて「反スタ」の出発点として検証の材料にしたい。古い人にとっては、「原点」にもなる二つの作品を…。

 倉橋由美子の「パルタイ」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E6%A9%8B%E7%94%B1%E7%BE%8E%E5%AD%90

 大島渚の「日本の夜と霧」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%9C%E3%81%A8%E9%9C%A7

 …もっとも今の中核派にとって、あまりに「古すぎる」? 「10・8世代」にとってすら、共産党とは、「歌と踊りと右翼的」なくらいの認識も少なくないから、今の30代~40代の人にはピンと来ないかもしれない。

 少し新しいニュースから

 戦後共産党の政治局員の伊藤律スパイ事件は近年、名誉回復の動きが進んでいるそうだ。伊藤律氏がスパイとして断罪され、亡命先の中国で投獄された事件の発端も、「権力によるささやき」だったらしい。事実とすれば、権力はこうしたささやきで共産党の政治局員を葬り去ることに成功したのだといえよう。権力はこうして内部分裂を起こし、粛清を誘導し、共産党の「権威」を破壊することに成功したのかもしれない。東京の杉原こうじ(緑の党 Greens Japan 脱原発担当)氏のブログから、以下引用。

 杉原浩司(Koji Sugihara) kojis at agate.plala.or.jp
 ■2013.05.19 遅れた追悼 ――伊藤律(日本の被占領期の日本共産党政治局員)について(私の「覚え書き」)
 http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-date-20130519.html

 伊藤律という人は私にとっては長い間、日本の被占領期の日本共産党政治局員というよりも、「革命を売る男」(松本清張)、「生きているユダ」(尾崎秀樹)というものでした。また、GHQによる追放令で1951年に中国に密出国し一時北京機関の一員となった後、同地で消息不明、非業の死を遂げた人ということでしかありませんでした。だから、伊藤律の「生きている」ことを伝える1980年7月31日の時事通信の報道には驚きました。そして、同年9月3日、伊藤律は新聞の報道のとおり29年ぶりに「生きて」成田空港に帰国しました。帰国時は伊藤は67歳で車椅子に乗っていました。伊藤の帰国後、私は改めて『日本共産党の五十年』史(当時としては一番新しい党史)を読んでみました。その五十年史にはやはり「伊藤はスパイである」旨の記述がありました。渡部富哉著の『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房、1993年)という本も読んでみました。同著によって私ははじめて「伊藤スパイ」説は誤りではないか、と考えるようになりました。渡部氏が指摘する「伊藤スパイ」説の誤りを私なりにですがひとつひとつ検証していくと渡部氏の説を首肯せざるをえなかったからです。しかし、私は、この問題についてそれ以上考えることはしませんでした。

 ■「日本の黒い霧」スパイ説に断り書き 伊藤律遺族「文春側の訂正」(東京新聞 2013年4月21日)
      http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013042102000121.html

 作家の松本清張が代表作「日本の黒い霧」で、共産党元幹部の伊藤律を特高警察のスパイだったなどと記述していることについて、遺族から誤りだと指摘された発行元の文芸春秋が、異例の断り書きを入れることが、遺族側への取材で分かった。遺族側は事実上の訂正とみて評価している。 (森本智之)
 http://list.jca.apc.org/public/cml/2013-May/024223.html

 ‥‥クロ説にたってもこうした「疑惑」を克服するためにも、より広範な資料と新たな捜査を重ねて、あらためて「再審」をスパイ対策機関から提訴する、大法廷で審理を重ねることが、スパイの残党や他のスパイの根絶のためにも有効な気がする。「スパイ荒川を人民法廷に引きずり出そう!すべての左翼戦線から広範な声を上げよう!」ではないか?

(私論.私見)
 れんだいこにとって不十分な認識でしかないが、それでも上述の陳腐説よりはマシというヘレベルだな。ここはこれを問うところではないのでこれで止めておく。

 2013.8.4日、「新指導路線の諸側面 中野同志の役割 」、「6 (今の)中核派とは何者か?」。
 「動労千葉への特化」

 という短絡的・無思想の路線。深みも広がりもなく、自律的な発想も許さない路線。こういうレベルの中央と指導体系‥‥。若者たちはせっかく発見して結集した運動に絶望して去っていく。けして人が集まらないのではない。事実上、追い出していくのだ。その失敗の直接の責任者が「学対」の木崎dsや高木dsか。陽の当たる場所に着いたのが不幸の始まりか、それとも中核派にとっての不幸か?

 新指導路線の一側面

 いろいろ言う前にやはり一言。地区委員会の再編が進んだ。地区のキャップは古参の労働者メンバーになり、従来キャップだった若手の常任は「事務局長・書記長」に職責の名を換えた。「労働者の党」の面目の一新だ。これは中野改革と言うべきか天田改革というべきか?天田書記長は、すでに90年頃には出身母体の神奈川建党を上記のように改革している。それからずいぶん経って全党に及んだというべきか。問題は実質だ。長きにわたった上位下達の体質と、相も変わらぬ「(単一)路線の一致」(認識の一致)‥‥。事が起これば労働者(出身)メンバーのキャップは「お上」の理解を得ようと必死に上申する。そして罵倒される。たまに天田dが現場に現れても、「すべての成果は指導の正しさの結果」などとすっとんきょうな報告をして、「違うでしょ」と反論されても「ナンセンス」と恫喝するだけでさっさと席を立ってしまう。06年の関西(兵庫・京都問題)での清水議長の態度そのものでもある。天田dも余りに長く雲の上で霞を食いすぎたのか?それとも、「革命党の最高指導部」には器が足りなかったのか?組合の書記や地区のキャップが本来「身の丈」にあっていたのか?天田dの実績は大きい。20年余の「書記長」としての務めは果たした。対カクマル戦争で「常任の党」に切り替えるとき、「常任」に二の足を踏んだ諸先輩を2段・3段飛び越えて、天田dは神奈川のキャップに躍り出た。その潔さと戦争指導の「実績」は否定すべきものではない。けれども「前衛党の中央指導部」には実質を伴う「カリスマ性」が無条件に求められている。残念だけれど、カリスマ性とは多少の決意や努力で身に付くものではない。「生来の…」と「時代や社会の空気」の中で生れるものだ。「街のカリスマ」だってまあ同じだ。「指導部らしさ」も不可欠だが、中身のない「らしさ」は道徳教育や全柔連でしかない。ならばまた「労働者の党」に復帰した今、もう一度、(かつての中立労連の中井さんのように)「一平卒に戻る」という決断はないのだろうか? お疲れ様でした。

 中野さん(副議長)の功罪(限界?)

 やはり今の中核派は「中野さんの遺言路線」を(忠実にか不忠にか)ひたすら走る以外にないのだろうか? 動労千葉としての中野dの偉業は切りが無い。公表はされなかったけれど「副議長就任」は多くの労働者メンバーに光をもたらした。90年代の「血債主義」と「労働運動路線」にひとまずの決着をつけて登場した中野体制(中野・天田体制)は、けれども(本社や関西の)分厚い官僚体制の前に機能不全に陥った。これを解決しようとしたのが、「党の指導体制」と「交流センターの直轄指導」という二元指導だった。06年の関西の3・14に直面して関西から逃げ出した天田dを迎えて、これを受け入れることを決断し清水dに迫ったその「英断」は、中核派の岐路を決めた。結果、清水dの自己批判と失脚‥‥。中野・天田ラインは「党の革命」とたたえながら、返す刀で後の関西派(塩川派)を切り捨てた。振り返れば、中央にとっての「党の革命」とは、与田関西(蜂起派)を切り捨て、「労働者階級一元論」に転化する一種のクーデタだったといえる。(その功罪は別に、どこかで) けれども「2元指導」の一本化の道は険しかった。中野さんの学習会などで育成された若手学生らによる本社での古参常任の吊るしあげ(紅衛兵運動)にも拘らず、結局、党は変わりえなかった。やはり中野さんは「動労千葉の中野さん」の域を出なかった。理論でも、組織でも、中野さんには中核派副議長としての力は無かったのだ。

 中野d亡き後の動労千葉路線

 やはり1代限りか?「外注化阻止」を動労千葉や国鉄(JR)だけでなく、全党・全労働者階級の決戦と位置付けた13年新年号論文。その惨憺たる結果に呆然とする。 内外の労働者にとっても4大産別の中核的方針に掲げられると、「何が今更の外注化阻止か」という素朴な疑問もある。「体制内労働運動」が外注化阻止を闘った時、これに背を向けてきた過去はどうなる?「一周遅れのトップランナー」というヤユ。労働運動に敗北は付き物だ。あいまいな妥協も常だ。こんな時、中野dなら、組合員を鼓舞し、粛々と撤退することもできた。残念ながら、田中委員長にそんな力を求めるのは無理だ。「送りこみ・2世の限界」としか言えない。中野dの時代、「労運研」と「政研」という2大派閥の抗争とコミットして、そして関川委員長の存在に助けられて、「関川・中野体制」は基礎を築いた。三里塚二期決戦では、多数の懲戒解雇を受けながら闘った。その時の各支部長さんたちや活動家、そして「ほんとに普通の組合員」たち。そんな人々と「時代」に支えられて動労千葉は生きてきた。

 中核派あっての動労千葉

 「動労千葉あっての中核派」とならんで、「中核派あっての動労千葉」であったことも改めて認識したい。75年の「スト権スト」と上尾暴動によるゼネストの崩壊。 動労千葉がストを打つ時、中核派は総武線の各駅に集団で登場し、「スト反対のテロ・暴行」から乗務員を守った。ジェット闘争も然り。ストを止め、粛々と撤収する動労千葉に(?)解放派が「ジェット燃料輸送阻止」のゲリラを仕掛けた時、これを粉砕して動労千葉を守り抜いたのも中核派と戸村さん・他だった。 被解雇者の生活を支える物販では、中核派の「全力」をあげた。国労などが処分に比して小額な資金しか集められ来現状の中で、中核派の存在は大きい。ただだとすれば、「第2、第3の動労千葉を」というスローガンは空しい。あらかじめの力なしにこれ以上の被解雇者を支える労働組合の決戦を構えることなど空論だったことを忘れられない。「動労千葉は一つだけ、象徴的にあればいい」という現実にどう向かいあうべきか?まずは、動労千葉の数々の「妥協」としっかり向き合うことではないのか?


 2013年08月05日、「(今の)中核派とは何者か?、苦境に立つ中核派と中央」。
 清水権現の去就

 失脚したとはいえ、清水権現の威光なしには事態は収まらない。中野さんでは「総括を出せ」という任務に耐えられない。除名された岸d・水谷dそして九州地方委員会(平田派)にとっては、「忠誠が仇」とされてはたまらない。清水dの「自己批判」はまず、相変わらずに長大で、こんなものを「指導的論文・学習文献」にされてはたまらない。「誤るならまずは単刀直入にごめんなさいと言え」だ。とりあえず、〈私・清水と天田ほか大PBの力の差が大きすぎて〉が目に入る。〈批判されて感情に動かされ止まらなくなってしまった〉結果、京都や兵庫の同志たちの提起を踏みにじり、与田に与してしまった‥‥。「反スタとは」一国社会主義論だけだと思っていたけれど、(こういう)組織論の領域もあった‥‥、とか。これだけ真摯で立派な自己批判が書ける、ということに感動する若手と、こんなものは何度も経験したとしらける声と‥‥。ま、このままで終われば、「霊廟」が建ち、権現か秀吉明神か。文革を打倒した中国でも、今でも(檻に入れられた)毛沢東の神格化の力は無視できない。霊廟を誰が握るか?「玉(ぎょく)を誰が握るか?」

 ま、いい。「清水っ出てこい」「こそこそ陰に隠れるな」「パクられたら俺たちが助けるから」という声々。中野さん亡き今、清水dの登場なしには一歩も進めない状況でもある。「清水著作選」の安定的印紙収入と「非非」を体現するための(?)破格のリゾート資金(檻代)‥‥。清水dは同世代の中では「実務?実業の力」が抜きん出ていたらしい。空論ばかりに現を抜かす当時の(超)エリート学生たちの中でリアリストだったということか?まさしくレーニンが徴用したスターリンの偉大さ? 「シミタケ」というかつての愛称は消え、「清水さん」‥‥。そして「出てこい、出てこい、しみったれ」。「進退」を明らかにする、という言葉が今更ながら身にしみる。

 苦境に立つ中核派(とその中央)

 「福島の3・11」に直面して、中核派は脱原発運動にのめりこむ。けれども余りに多くの壁にぶち当たっている。古くから反原発に関わってきた人からは、常に言われ続けてきた。「浜岡から引いた。早く戻ってくれ」。全国の住民や地域の運動から引いたままの中核派。シンパや仲間に「○○のために引け」と言い続けてきた中核派。いまさら何をおめおめと‥‥。歴史を知らず、歴史に責任を持たない若い人たちは良いけれど‥‥経産省前のテント小屋にうまく入り込んだのもつかの間、議論の流れを無視して突然、「(中核派主導の)福島集会」を提起して、「動労千葉のための脱原発の利用」と弾劾されて追い出された。診療所カンパの行方、「子どもネット福島」での公金問題。そして『前進』トップのプロレス見出しで「山本太郎」を叫ぶ。中核派の名を売るために山本氏の足を引っ張った‥‥けれどそんなことも分からない。ふつうなら、「全執行部の総辞職」。けれども中核派には「監査」も「辞任」も「辞書にない」。「水平同盟」結成は、ことの是非や正否をおいて、あまりに「ごく少数派の分裂主義〉だ。同盟員たちは中核派単独の私物であるかの行動。

 「党と同盟の一体化」とでもいうのだろうか?(党と労働組合の一体化!)組織も個人も一層の孤立を強いられる。「孤立して何が起こっているか、見えなくなった」。究極の自暴自棄。中央の心中路線とでもしかいえない。自滅するなら一人でやって! 清水氏の義理の兄弟で「秘書」「伝令」として永く采配を振るってきた高木徹dの失脚。口うるさい奴だったな、と。60年安保世代の多くが一線から身を引き、「団塊の世代」「全共闘世代」も次々に現場から去った。「党の継承」は過去の話だ。中核派にとっても、「昔、戦争があった」という所だ。「美しい中核派の歴史」「党の自虐史観には反対」。

 カネ・カネ

 高収入の現役が去れば、常任や格差に苦しむ若手の「党生活」は維持できない。「どこかにカネが落ちていないか?」。「年金口座」の供出・集中、そしてシェアリングという発想もないわけではない。けれど「財政のガラス張り」と「参画制度」「会計監査」なしには、誰も信頼できない。応じない。「非非の前衛党」とは相いれない。悪名高い戦時共産主義や「99%の貧しさの平等」にしかならない。 「年金口座」の供出・集中、そしてシェアリングという発想もないわけではない。けれど「財政のガラス張り」と「参画制度」「会計監査」なしには、誰も信頼できない。応じない。「非非の前衛党」とは相いれない。悪名高い戦時共産主義や「99%の貧しさの平等」にしかならない。どこの世界も同じことか‥‥。

 迫る「最高指導部の世代交代」 

 清水dもいまや76(?)、天田dは72(?)。長時間の激しい緊張にはもはや耐えられない。何度もダウンし、はっきり言って引退の歳だ。無事に後継者に実権を引き継ぎ、影響力を確保するには、かなりの荒療治が必要だ。「集団指導性」など、「党の一枚岩」の原則を否定し、じっさいに無際限の内紛と分裂を引き起こす。ソ連や中国・北朝鮮のように国家権力を掌握するならいざ知らず、ごく少数派の中核派にあっては、分裂し飛び出して自立する道が豊かに残されている。大量粛清をしてもなお「唯一の前衛党」を維持する意味はある。「党の革命」のように、先制のクーデタをしかけ、危険な因子を片っ端から切り捨てよ。あらゆる手段を使って。別件であれ何であれ。それは「今でしょ!」。時期は前後するけれど、「荒川スパイ事件」はこんな中で起こった。

 甘粕氏の除名の余波  昨年末の甘粕除名問題の余波は治まらない。依然としてくすぶり続けている。連座して(擁護して)ともに除名された中には、労働運動路線にとって欠かせない有為な人材も含まれている。交流センターの旗頭になるべき人材‥‥。その除名された彼らをさらに擁護する核もあり、広い意味での擁護派の代表格の1人が荒川氏だった。声明によれば、彼らもまた荒川氏と「有無通じ」た。便利な言葉だ。何が「有」で何が「無」か。はっきりしてよ。〈シロ説〉に立てば、荒川氏はとんだとばっちりを受けたのかもしれない。「反党分子」なら、反論もできる。「分派結成」なら、それでも「分派禁止だっけ」とつぶやくこともできる。けれど、「スパイ」となると‥‥。中核派は「戦時法廷」を平時に貫く「前衛党」なのだ。〈クロ説〉は、情報公開を正当化できるのか、という素朴な疑問を残している。責任も‥‥。「スパイ天国の中核派(中央)」への疑念はけして小さなことではない。査問・糾問そして排除・除名の疑惑の対象はあまりにも多い。さっさと芋づる式に摘発してウミを出し切らなければ。大手術が必要なのだ。たとえその結果、「誰も残らなかった」としてもだ。いまの中核派とその中央、分析や批判よりも、小説にしたほうが適切かもしれない。佐木隆三やそう今井先輩などに‥‥。「何が私にそうさせた?」 。たぶん、本人も分からないことだらけだ。
 自立と連帯

・中であれ外であれ、「自分の名で語ろう」。自前の旗を持って、登場しよう。その上でこその「党」や運動ではないか。

・「認識の一致」と、安部が推し進める「同じ価値観」「価値観の一致」や「日の丸・君が代」との違いは何か?カクマルの「思想的一致」とどう違うのか?

 少し時間をかけて考えていきたい。違うにせよどうにせよ、むしろ「不一致」をどう扱うのか。「不一致の多様性」「中核派はカクマルと違って、みんな勝手にものを言い、勝手に行動する」。それが〈70年〉でもあったということ…。振り返り、熟慮する価値のある課題なのだと思う。何回、何日かけてもいい‥‥少なくとも「道徳教育批判」の原点にはなりそうだ。

 ・元中核派がいま、時を経て名乗りを上げている。テント小屋や被災地へのトラック部隊でも、「老いてなお元気」だ(テント関係者はすでに何人も亡くなった。「ま、死処を得たり?」)。

・地方では、毎年数百人の〈市民〉が参加する集会の、大事な一角に彼らもいる。「首都・東京」こそ運動の過疎地だ。

・そして、高円寺から始まった巨大なうねり。

・3・11は新たな「生き方」を求める、生活の海の底からの地殻変動を生んでいる。その中身はこれからいよいよ様々な形をとって花咲くことになる。

 「中核派としての生き方」

・現役の中核派として続ける道も無いわけではない。

 ただ、ここでは「上からの指令待ち」は意味がない。あえて言いたいことを飲み込んで、内部からの変革を求める道も無いわけではない。大事なことは「存在が語る」。

・「ぶれない」のもいいが、「女の道は一本道」であれ、「ならぬことはならぬ」であれ、現実にほんろうされるのが運動であり、社会であり、世間だ。闘いに「清廉潔白」を求めるのは共産党だけでいい。

・「豊かで多様な心のポケット」を作り出し、いろんな場面で対応できる「体の隅々までの細胞の力」を蓄えよう。行く先々で千変万化できる適応力が、「いざその時」、役に立ち頼られるに足る自分を作る。いつまでも運動の「パシリ」でいられるわけがない。わずかばかりのサエで、重い課題を背負う時、最悪のダラ官の未来が迫る。

・かつての社会党の問題の一つは、「まともな人間は幹部にならない」、ということにもあった。実は中核派にもそんな側面はある。

・最後に、「やられたらやりかえせ」「倍返し」はいい。ただ、注意と配慮がいる。そのために多くを学びたい。

・「社会主義と何か」。素朴な疑問だけれど、「この社会を何とかしたい」心の現れだ。「外部注入」論もいい、「政治闘争の重視」もいい。けれど、社会に学び社会とともに歩むことを忘れた社会主義って何だ?もっと手間暇かけて「社会」、時には「世間」を学びたい。






(私論.私見)