反感派感想記

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).6.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 今日ふと、れんだいこ処女作「検証学生運動 戦後史の中の学生反乱下巻」の反感派感想記をサイトアップしておこうと思った。そこで本サイトを設ける。

 2009.10.21日 れんだいこ拝


 【チンケなれんだいこ批判考】
 【チンケなれんだいこ批判考

【反感派感想記その1】
 「大学生日記」の2013-05-26 日付ブログ「ちょっと笑ってしまった本」を転載し批評しておく。

(私論.私見) この粗脳批評氏に告ぐ

 「検証学生運動」の著者としては、批評の水準に至っていない2013.5.26日付けブログ「ちょっと笑ってしまった本」(ネタ元「時事解説ディストピア」)に逐一コメントする必要はないのだが、2016年9月現在でもネット検索の「れんだいこ」で割合と早めにヒットするので、そろそろ火の粉を払う程度に「評の評」を返しておく。2015.1.20日ブログ「為にする田中角栄悪評論を斬り捨てておく」の姉妹編として発信しておく。

 この御仁のハンドルネームは「姓は習志野、名は権兵衛」とあるが、N君と仮名しておく。N君は、「2013-05-26 」に「ちょっと笑ってしまった本」と題して「検証学生運動」の批評文を綴りネット公開している。れんだいこ本の批評を書きつけたと云うその一点でのみ評価に値するが、断じてこれ以上ではない。

 気になることとして、A君は「検証学生運動」を読まずに批評していることが見え見えである。なぜそう断言できるか。一つは「検証学生運動」の内容に関わる記述が一切ない。二つ目は、「検証学生運動」を読まずに論評できることばかりを批評している。この二点で、れんだいこには分かる。この御仁は当の本を読まぬままに批評することに何の痛痒も感じない君のようである。この推理が正しいとして以下、評しておく。

 一般に論評する著書を読まずに批評するとはかなり神経が図太いというか質が良くない。A君はこの部類の者である。社会的にはこの種の人品骨柄もんも許容されて然るべきなのだろうが、つき合いしかねる手合いではある。そういう御仁故にと云うべきか、N君は、概要「全共闘世代の連中は日本共産党をバッシングすればそれで万事うまくいくという宗教に凝ってるようで」と云う。この物言いで「日本共産党支持」の立場の者であることが分かる。「宗教に凝ってるよう」との表現で宗教を格下に見て粗雑に扱う日共式科学教に被れていることも分かる。いっぱしのマルクス主義通ぶりを気取っているところも児戯的である。

 これに一言しておく。N君には卒倒すべき言辞になるだろうが、れんだいこ史観、論評では既に確定していることなので伝えておく。日本共産党は宮顕系を党中央にして以来、「日共」に転じている。戦前も然り戦後も然りである。「日共」は、かって我々が憧れ期待していたところの「弱きを助け、強きをくじく」共産党とは違う、共産党の名をつけた偽者であると云う意味を込めた蔑称である。本質は、国際ユダ邪の回し者にして、「左からの突撃隊、咬ませ犬」として飼われている代物でしかない。これの論証は別のサイトでしているので、ここでは繰り返さない。

 日共はそういうものであると云うのに、今現在に於いて、N君はそういう日共を支持していることを公言して得意がっている。愚かと云うより哀れと云うより滑稽である。陸上のトラック競技で云えば周回遅れの御仁である。と云うか逆走して注目を浴びるピエロ気質の者かもしれない。N君が日共を支持するしないは勝手なのだが、マルクス主義通ぶりを気取るとなると放置できない。昔ならマルクス主義に失礼ではないかと考える。今はその段階を終えて、マルクス主義自体に何がしかN君的な者を引き寄せる要素があるのではなかろうかと勘ぐり始めている。この観点については今後もう少し掘り下げて解析してみようと思う。

 付言として、N君の見識を揶揄しておく。N君は、ハンドルネーム「れんだいこ」が気に入らないらしい。「れんだいこ? 筆名にしてももう少しマシなのはなかったのだろうか。思いっきり2ちゃんのハンドルネームじゃないか」と記している。一般にハンドルネームそのものが、わざわざの不快、卑猥イメージものであれば、そういう言もあり得る。しかしながら、「れんだいこ」はそういう不快、卑猥イメージのものではない。こういう場合、ハンドルネーム批判はしない方が賢い。「思いっきり2ちゃん」と云う表現も「2ちゃん」に失礼なのではなかろうか。 

 N君はかくハンドルネーム「れんだいこ」に難癖をつけ、その著述に対して「中身は基本的に共産主義のバッシングであり、本気でマルクス主義を評価しているのかさらさら怪しい御仁である」、「こんなおちゃらけたペンネームの奴が書いた本がリスペクトされる時こそ日本が本気でヤバい状態になった時だと私は思う」と評している。N君が、手前の持論と同調しない論説に出くわすと反マルクス主義と罵る御仁であることが分かる。

 次のようにも述べている。「私は東ドイツのマルクス主義哲学の本をいくつか持っているけれど、シュティーラーとかダヴィドフとか、それなりに拍(れんだいこ注/箔?)のある名前の人間が多い。外国でいえば、パブロ=ネルーダ、ユリウス・フチーク、パブロ・ピカソ。日本の共産党でいえば蔵原惟人とか鯵坂真とか結構立派な名前である」。

 れんだいこは、この言の蔵原惟人に注目する。N君は蔵原惟人をリスペクトの対象として挙げているのだが、ここにこの御仁の学識のお粗末さが露呈している。蔵原はリスペクトされるような人物ではない。れんだいこ推論によれば、蔵原は元は宮顕の上司として、後には宮顕配下の子分として当局のスパイ活動してきた御仁である。長らく日本プロレタリア文学運動の指導者として君臨してきたが、文学を政治に下僕させるいびつな方向への指導を旨としており、結果的に日本プロレタリア文学運動の破壊者でしかなかった。要するに宮顕とコンビを組んで戦前戦後にわたって日本共産党運動を似ても似つかぬ統制的なものに仕上げてきた張本人である。更に云えば、小林多喜二を売った真犯人は蔵原-宮顕コンビではないかと推定できる。そういう御仁をリスペクトの対象としてわざわざに取り上げている辺りに、N君のおぼこさが見える。と云うか、「類は類の友を呼ぶ理」に照らせば、N君と蔵原には相通じる同じ穴のムジナ現象があるのだろう。この後のN君の評論はいいだもも批判、社会党批判に向かっている。いずれも「マルクス主義護教、日本共産党賛美」に終始しており批評に値しないので割愛する。

 れんだいこの総評は要するに、N君の言論が粗雑過ぎ、政治と云う高等な対象を論じるには粗能過ぎるのに、何を血迷うたか言論界に出没してへなちょこ剣を振り回して得意がっているだけとみなす。例えてみれば、囲碁のアマ初段程度の者が天下6段を相手に囲碁論を闘わせ、それならまだしも、ここはこう打つべきだと着手まで指針せしめているような倒錯を感じる。N君程度の者に逐一相手する必要はないのだけれども、冒頭で述べたようにネット検索の「れんだいこ」で割合と早めにヒットするので本稿を発信しておく。因果応報でブーメランが手前の脳天に降ってきたと心得よ。これ以上相手するに及ばない御仁であることが分かるので、これにて撃ち止めする。

 2014.10.28日 2016.9.2日再編集 れんだいこ拝

【「為にする田中角栄悪評論」を斬り捨てておく】
 2015.1.20日、「為にする田中角栄悪評論」を斬り捨てておく

 れんだいこブログの中で「田中角栄の妻及び愛人との絆考」が人気記事ランキング第1位であり最も評価が高いようである。これに比して、角栄に対する為にする悪評が為されている。本稿でこれを質し斬り捨てておく。ネット検索で「政治家愛人伝説、政敵の愛人店を乗っ取った田中角栄」、「竹田恒泰の田中角栄は三木武夫の愛人も世話をしていた」に出くわす。それらが、れんだいこの「田中角栄の妻及び愛人との絆考」以前のものなら許せるが、以降のものであれば容赦する必要はなかろう。

 「政治家愛人伝説 政敵の愛人店を乗っ取った田中角栄」が発表されたのは2012年10月10日頃の週刊FLASH10月23日号である。政治評論家の小林吉弥氏の言として次のような文章が記載されている。

 「クリーンな印象の三木武夫元首相にすら愛人はいました。ただ、その愛人が銀座にクラブを開店させたとき、それを聞きつけた田中角栄が『そりゃ、めでたい』と通い常連になってしまった。そうなると竹下登や小渕恵三など田中派の若手も飲みに来る。いつしかその店は田中派に乗っ取られていたんです。田中と三木の怨恨は知られるところ。政敵の店をまんまと…ですね」。

 この文の内容の真偽を確認しておきたい。問題は、角栄が政敵である三木の愛人が経営するクラブの通い常連になり、仕舞いには田中派常連の店にするようなことが本当にあったのか。「小林吉弥発言」としているが小林吉弥は本当にそのように発言しているのか、これを質したい。れんだいこは、角栄が「クラブへの通い常連」になること自体があり得ないと断言しておく。角栄が飲食接待に顔出しするのは奇妙なほどに和式の料亭であり洋式のクラブへの出入り履歴を知らない。角栄はなるほど飲料としては洋酒ウイスキーのオールドパーを愛飲していた。が、クラブ、スナックに神出鬼没していたとは聞かない。逆に和風料亭出入りなら履歴を相当に残している。

 それを、「小林吉弥発言」は、1、角栄が三木の愛人の経営する店だと承知しておりながら、2、常連になり、3、しまいには田中派行きつけの店にしたと云う。この言に切り返しておく。角栄式義理人情論を踏まえればありえない。要するに為にする角栄悪評である。これを垂れ流す「週刊FLASH10月23日号」の執筆者は伏せられている。卑怯姑息なことよと指弾しておく。なお、小林吉弥が実際に「小林吉弥発言」をしていたとしたら説明責任がある。何を根拠にしているのか明らかにせよ。

 次に、「明治天皇の玄孫」を売りにしている竹田恒泰の「田中角栄は三木武夫の愛人も世話をしていた」を確認しておく。これによると、発表されたのは2014年2月4日頃で、竹田が YouTube上で 「田中角栄元総理は5人の愛人を囲っていたのにもかかわらず三木武夫元首相の愛人の世話もしていたそうです」と伝聞発言している。竹田の論拠は分からないが、「小林吉弥発言」を唯一の根拠にしていたとしたら評論能力のお粗末さを示している。人を評するのに、擁護せねばならぬ者を批判し愚弄する癖がある御仁であると見立てておく。こんな評論で高給暮らしなぞあってたまるものかわ。それなられんだいこの評論能力は億万長者に値しようぞ。世の中大いに間違うとるわい。

 ところで、こういう為にする角栄悪評はどこから生まれるのだろうか。本来なら角栄は近現代史を彩る世界史的な傑物政治家としての日本が誇るべき人物である。それを悪し様に評し立花-日共式に「金権腐敗政治元凶論」で罵り、返す刀で中曽根名宰相論を唱える。こういう見解を生み出す黒幕が国際ユダ邪である。連中はあらゆる方面にテキストを作成しており、この通りに上手に口パクすれば出世登用される道を敷いている。しかしながら、この門を潜ると学んでますます馬鹿になる。以降は口パクの徒にされるから政治的痴呆になる。こういう自称インテリが多い。この連中が大人しければまだしも、力むとなると相手にせずそっとしておく一手である。角栄好評の我々は連中に背を向け、我々の空間を広げつつ語り部になる努力をすべきであろう。


【反感派感想記その2】
 「古本屋通信No802 4月16日 元東大民青さん、回復す」を転載しコメントしておく。
 なお、れんだいこは以前はまともなことも言っていましたが、最近ではユダヤ陰謀論にはまって完全にトンデモ化しています。なんと西岡昌紀(!)の否定論を真面目に信じているらしく、ここまでくるともう治療不可能と思われます。 2014/04/15(火) 18:05:44 | URL | 元東大民青 #-
 
 「元東大民青」なる者がかような言辞を吐いている。手前だけ云いたい放題は世間に通じないだろうからコメントしておく。「れんだいこは以前はまともなことも言っていました」は何を指しているのかな。「最近ではユダヤ陰謀論にはまって完全にトンデモ化しています。なんと西岡昌紀(!)の否定論を真面目に信じているらしく、ここまでくるともう治療不可能と思われます」につき、何か根拠があって罵倒しているのかな。俺はそう思っていると云うぐらいしか響かないのだけれど。仮に今後に於いて、従軍慰安婦事件論の逆転劇のように西岡医師のナチスホロコースト否定論が高く評価されるようになった時には、どう調法にお口を回されるのだろうな。今から気になる。
 れんだいこ氏と宮地健一氏については、私は既に「苦手であるので引用を避ける」と表明しています。前者は最近まったく読んでいませんが、後者はあなたが触れられることもあって、ときどき訪問して部分的に精読します。古本屋通信

 「古本屋通信」なる者がかような言辞を吐いている。「れんだいこ氏と宮地健一氏については、私は既に「苦手であるので引用を避ける」と表明している。前者は最近まったく読んでいません」につき、それは「古本屋通信」の勝手ではあるが、「苦手」、「最近まったく読んでいません」と云われる側には不快感だけ残る書きぶりである。「苦手」な理由、「最近まったく読んでいません」理由をそれなりに述べて云われるのでないと云い得云い勝ちになってしまう。この「云い得云い勝ち」が最近流行り病のように攪拌しつつあるなと思う。

 2014.11.10日 れんだいこ拝
 「古本屋通信No 1277(2015.2.9日)れんだいこさん」を転載しておく。
 私がネット上で古本屋通信を立ち上げたのは2012年7月でしたから、2年半まえなのですが、その前に2年ほど、紙の古本屋通信の時代がありました。ですから 5年前になりますが、そのとき先行する左翼系のウェブサイトを漁りました。記憶は曖昧ですが、党派サイト、組織サイト、リンク集を除くとあまり多くありませんでした。いま使わして貰っているいるのはキンピーサイトと土佐高知の雑記帳さんと、たまに さざ波通信くらいですが,そのほかにもいくつかありました。その代表的なものが、① 夢・共産主義 日本共産党東京都北区議会議員・八百川孝氏のサイト ② 宮地健一さんのサイト ③ れんだいこさんのサイトの 3つでした。①はまもなく更新がストップしました。私が利用・引用する上で ②を敬遠した理由は既に書きました。間違いも含めて情報が詳しすぎるのです。出典が不明だということはありませんでしたが、安心して使うには不安が残りました。結果よほど確証が得られない限り使いませんでした。

 さて ③ですが、私はふるくから精読していました。かなり信頼できる情報だと思いました。ただ一点、この方の日本語には到底ついてイケマセンでした。一例を云うと、民青 (あるいは民青同盟あるいは民主青年同盟 )のことを 「民青同」 と書くのです。私はこういう呼び名は公安筋以外で聞いたことがありません。そのほかでも常識では考えられない稚拙な表現がたくさんありました。私はありがたく参考にはさせていただくが、引用はマッピラだと思いました。

 ところが先日ふとした事かられんだいこさんに辿り着いたら、なんと古本屋通信が引用してあるのです。アリガトさんです。なら今後こちらも自由に利用させていただこう、こう思いました。私は紙の1960年代の学生運動資料をかなり多く持ってっている筈でした。ところがだんだん散逸してしまって、どこに行ったか分からなくなりつつあるのです。それは今や、ネット上では旧民学同新時代派の「ASSERT(アサート)」を除くとれんだいこサイトにしか見当たらないのです。せんじつ川上徹さんのお別れ会がありました。そこに集った人は多分かなりの資料を持っていると思います。然し今これらをネットに乗せることには消極的なように見えました。なら当面れんだいこさんに依拠して必要な資料を整理して公開したい。それが川上さんの弔いの一端にもなるだろうと思ったのです。以下、かなりアト・ランダムに貼って、あとで整理・再編集していくつもりです。

(私論.私見)

 古本屋通信氏が、2015.2.9日頃、れんだいこに対する認識を好意的な方向へ転換したことが分かる。それはとても良いこととして受け止めさせていただく。特に称賛されるべきところは、最近の狭苦しい著作権的主張をされず、「ところが先日ふとした事かられんだいこさんに辿り着いたら、なんと古本屋通信が引用してあるのです。アリガトさんです。なら今後こちらも自由に利用させていただこう、こう思いました」としていることである。この見解はとても気持ちが良いと思う。誰しも寿命があり、鶴亀と違って千年も万年も生きられないのに、互いに著作権壁設けて情報閉塞させ合うなんて芸から早く抜け出さねばならず、古本屋通信氏が抜け出していることを確認して、一度は飲みあっても良いと思った。

 2015.9.9日 れんだいこ拝






(私論.私見)