系譜図(国際的な概略) |
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系譜図(国際、日本の概略) |
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系譜図(ブント) |
1,〈緑文字〉は、ブント以外の組織を指しています。これは、もともと、ブントではないもの、および、ブントと関係しているか、ブントから出ているが、自己規定としても、客観的にも「ブント」とはいえない組織などを含んでいます。後者の代表は、社労党に至る潮流、マル戦派です。
2,〈青文字〉は、ブントと、上述「1」との中間的な組織。つまり「ブント」かどうか微妙な組織です。これは、連合赤軍、および、ML同盟、マル青同のような「ブント系中国派」とでもいうべき潮流が代表です。
3,〈薄赤塗りつぶし〉の5組織(もしくは潮流)――赤軍、12・18路線、戦旗、叛旗、情況の五つは、70年前後に、第二次ブントが分解した最初の分岐を代表した潮流を示すものです。この後、ブントは、より一層の離合集散過程に入りますが、この5潮流は、その基礎となっています。なお、このうち、叛旗派は、70年代前半に解散するので、実質は、4潮流となります。
(なお、参考まで、共産趣味的に、当時耳にした歌の一節を。
「割れた、割れた、ブントが割れた。ならんだ、ならんだ、戦旗、叛旗、情況。赤軍が一番きれいだな」)
4,〈青塗りつぶし〉の組織は、「組織統合による党建設」をかかげて、赫旗派に至る統合を進めた潮流です。
これは、「綱領による統合」あるいは、基礎的な数項目確認での一致による組織拡大をめざすもので、ブントの「分裂の歴史」を転換する意図を持つものでした。
この潮流は、「マルクス主義原則を中心とする簡明な綱領」プラス「労働運動基盤」を特徴としています。
そのため、「戦略」「戦術」の明確化を基礎とする政治闘争・権力闘争を基軸に据え、この点での見解対立が生まれれば組織分裂を躊躇しなかった第一次、第二次ブントと非常に異なる性格をもつものとなっています。
なお、われわれIEG潮流の出発点である72年の共産主義研究会も、ブントを筆頭とする新左翼の「安易な分裂」や「小ブル急進主義的闘争方針」との対決・克服に重大比重を置き、その結果、この「統合」派の思想・方針とほとんど同じものをつくりだしていました(「三点の確認」による統合追求)。―――ただし、ブント系が、この思想を純化して統合を進めたのに対して、共産主義研究会は、75〜76年に、この路線の根本的な総括と転換を開始しました。その際、ブント系の論争や分岐の具体的研究が、大きい位置を占めています。
5,枠外の、〈赤線および赤線囲み〉は、党派組織ではなく、複数党派を含む協議会、実行委員会などを指しています。
ただし、赤赫旗派から建党協へは、黒囲みが赤囲みに変わっています。これは、赤赫旗が建党協に事実上解消したことを示しています。この「解消」は、組織内の人間でさえ認識の異なるあいまいなもので、これは、建党協主流の特徴です。 |
系譜図(日共左派・構造改革派) |
1,〈赤塗りつぶし〉は、毛沢東派の中で、党派組織や公然登場などの点で重要な潮流を示しています。
2,〈赤の太い破線〉は、時代の区分で、この赤線の下(左)の三党派は、70年代以後に登場した毛派の新しい傾向をもつものです。その特徴は、@新左翼系潮流との共闘を避けない、A「穏健派」であること――などです。
それに対して、従来の毛沢東派は、@日共主流派以上に、新左翼=「トロツキスト反革命」規定が強い。Aこの潮流が新左翼系と共闘するのは、主に、軍事的な性格での共通性が見られる場合であった―――という対極の傾向をもっていました。革命左派と赤軍との合流がその一例です。また、(主張内容というレベルも含めて)軍事的性格の強いML同盟、マル青同などの親毛派路線も、似た性格と思えます。
3,〈薄緑の囲み〉=日本共産党(行動派)などは、冗談党派として無視した方が良いかと思います。
4,構造改革派の〈緑塗りつぶし〉は、構造改革派左派を代表する四潮流として強調したものです。
5,70年代登場の三大毛派の比較
労働党 反米 大同団結
労働者党 反ソ(「反ソ社帝」) 路線の厳格化
日本共産党(ML) 反日本独占 統合路線(赫旗に近い)
(毛派には珍しい日帝自立規定) |
中核派と革マル派 |
京浜過激派研究会・山崎弘光 マル共連サイト http://marukyo.cosm.co.jp/chu-maru.html |
60年代の党派 |
基本的見解 |
60年代の党派 |
ソ連およびスターリン主義への見解 |