「党派の歴史」勉強会、2−1

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.2.14日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2009.4.19日 れんだいこ拝


 05・4・6  伊藤一「「党派の歴史」第二回勉強会、レポート」。
 これは、次の部分で構成しています。

 1,主レポート

 【レポート1】
 【レポート2】
 【レポート3】

 2,「党派の系譜」図。およびその説明

 3,諸党派の思想・表

 4,資料。

 「1」の主レポートのうち、2と3が中心ですが、【レポート2】は60年代の思想状況など、【レポート3】が、具体的な60年代の党派形成部分です。
 【レポート2】は、どうしても抽象的な論議に入ってしまうので、場合によっては、【レポート3】から読んでもらう方が入りやすいかも知れません(作製もこの順番なのです)
 「2」は、マル共連の党派系図を使いました。若干の系譜図への補足と説明を加えています(無断改作です)。

 「3」は諸党派の思想比較で、やや立ち入った内容です。これは、私自身の再整理も課題に検討用につくったものです。

 「4」は、革共同分裂についてのマル共連の文書で、これは、そのままです。レポートの中で、若干の評注をつけました。

【レポート1】前回提起の概略と補足訂正。

 前回提起の要点

1,先行する共産主義・資本主義に対するマルクス主義の特徴。
 「考案された社会プラン」と「物質的基礎の発展法則(の反映)」など

2,マルクス主義共産主義運動の最初の大規模な分裂――帝国主義戦争をめぐる第二インターとツィンメルワルト左派(レーニンなど)の分裂。

3,ロシア革命後、ソ連の評価などをめぐる分裂。
 a、肯定的評価=コミンテルン(=第三インター)主流派(いわゆる「スターリン派」)
 b、「労働者国家」だが官僚主義的に堕落=トロツキー派
 c、「社会主義」をなのっているが、実際は資本主義=「国家資本主義論」

4,50年代の日本での反コミンテルン派=新左翼形成。
 トロツキー派を不充分とする新左翼の二大潮流=革共同、ブント形成。
 a、ソ連評価………トロツキー派的「無条件擁護」論でもなく、「国家資本主義論」的全面否定でもない評価を追求。
 b、共産主義運動の「目的意識性」の体系的追求。
  革共同=党組織建設重視(「組織戦術」論など)、人間変革への意識性(党=共産主義的共同体の萌芽規定)、既存左翼を階級闘争の停滞要因と把握(「のりこえ」論=他党派解体論)
  ブント=権力奪取、それに向けた政治闘争への意識性(戦略戦術の党)。危機待機論への批判(「政治過程論」「過渡期世界論―攻撃型階級闘争」など)

 前回提起の欠落部分、補足など

5,上述「3」の関係で。
 共産主義運動分裂の重大要因として、ソ連など「社会主義国家」評価をあげているが、時期的にも重要さの点でも、それと並ぶ重大要因として「『資本論』に無い革命」=ロシア、中国など後進国革命の性格をめぐる分岐(「労農民主独裁論」「永続革命論」「二段階戦略」「農村が都市を包囲する革命」など)への言及が必要。これは、評価の「ねじれ」「混乱」が著しい領域なので、整理して提出したい。

6,前回、Tさんが指摘した第四インターと革共同との関係を含めて、革共同、ブント形成期の整理。
 これは、日本共産党から離党→第四インター形成→その分裂を通じて第四インター(社会党加入戦術)部分と革共同(後に中核派と革マル派)が形成
 日本共産党から除名→ブント―――という関係になる。
 上述のように、革共同は、共産党から第四インターに自ら移行したうえで、第四インターと分裂し「トロツキー主義の批判的摂取」の立場で独自潮流を形成した。
 ブントは、共産党からの自主的な離党ではなく除名され、独自潮流を形成した。

                            (【レポート1】以上)

 【レポート2】60年代、日本の政治情勢、思想状況

 60年代は、共産主義運動をめぐる論争と党派活動とがストレートに照応していた時代といえる。70年代以後は、それが乖離し、左翼党派の主要な動向にとって、理論問題がタテマエかされる傾向が強まっていった。この論争全体は膨大な内容になるが、基本的な枠組み整理を試みた。

 (一)「情勢分析派」と「主体形成派」

 マルクス主義の理解によれば、政党は、社会の様々な階級・階層の利害・要求を、意識的・政治的に反映する存在である。共産主義政党は、プロレタリアートの利害の反映・表現をめざしている。この両者の関係について、レーニンは、“階級の一部であるとともに、ある程度の自立性をもつ”と共産主義党を表現している。党が、階級の利害や動向と無関係に存在するならば、階級の党ではなくなり、閉鎖的な宗教団体のごときものになる。しかし、反対に、階級そのものであるならば、党は、階級の動向に左右されるだけで、階級の運動を系統的に成長させ、階級が後退する際にも、一緒に破産するのでは、独自の組織を形成する意味もないことになる。この両面があることは、だれも承認するはずだが、その両者の相互関係への理解に踏み込むと、無数の色合いが生まれ、概括的に、どちらの側を重視するのかの特質が現れる。

 60年代には、この点をめぐって「情勢分析派」と「主体形成派」という呼び方を耳にしたことがある。「情勢分析派」とはブントや構造改革派、「主体形成派」とは革共同や解放派を指していた。新左翼は、自ら党派性格を明瞭にしていたので、こうした分類の対象になる。反対に、スターリン派は、「あれもこれも」と折衷的に主張するため、こうした党派性格はあまり明瞭にならない。革共同(中核派)は、革共同そのもの(黒田理論)とブントとを接合したような所があり、両面があるが、基本は「主体形成派」の性格である。

 「情勢分析派(主義)」とは、情勢の推移に着目し、それに対応する方針や戦略提出に関心をおいた党派性格を指している。「主体形成派(主義)」とは、情勢の推移にかかわらず、組織建設や人間解放などを積み上げることに重点を置く党派性格を指している。―――これは俗称であって、正規の文献にどの程度登場する用語なのか知らないが、しかし、党派性格を見る際には重要な視点の一つであると考えている。

 「情勢分析派」としては、ブント、マル戦派、構造改革派、「主体形成派」としては、革共同、解放派が通例上げられる。

 スターリン主義主流派は、理論内容が折衷的なので、どちらかの明確な性格を示すとは言えないが、やや「主体形成派」に近い。というのは、スターリン主流派は、情勢の推移で方針を急転換することが少なくないが、それは、情勢分析によるというよりは(その装いをとりながら)党派事情で行うことが大半だからである。つまり、情勢から自己やその方針を厳格に規定するのではない、という消極的意味も含めてであるが。

 両者の対比は、60年代末の政治情勢進展過程で端的に現れた。ブント、構造改革派は、この情勢化で、様々な新戦略を打ち出したり(ブントの過渡期世界論、および分解する各派の路線など)、あるいは党派性格の急変(構造改革派の「ブント化」、ブントの様々な党派性格への分岐)を起こしている。他方、“情勢に左右されない主体形成”の性格を強く持つ革共同は、組織を温存し、ブントや構造改革派の破産と反対に、70年代に、組織力で相対的に強力な位置をもっていった。

 「情勢分析派」の中でも、情勢のどの領域に重点を置くのかの違いがある。この点も、新左翼ではかなり鮮明であった。類別すると、

 ブント……政治情勢・権力動向
 マル戦派……経済情勢
 構造改革派……「社会」情勢
 
 構造改革派の「社会」情勢には若干の説明がいる。構造改革派は、50〜60年代に、経済分析(国家独占資本主義分析)を最も精力的に行った潮流である。しかし、構造改革派は、伝統的マルクス主義が、経済的下部構造(土台)―政治的上部構造という理解で、経済的土台が自立的な運動法則を持つと捉えることに対して、(下部構造―上部構造ではなく)構造―上部構造と捉え、下部構造=経済的土台の自立的な把握に否定的で、「社会」全体として捉える傾向を持った。また、もう一方で、「政治」に対して、より広い「社会」領域重視を主張した。関心対象を「社会」情勢とした理由はこれらの点である。ただ、「政治」と異なる「社会」の独立した意味を把握することに成功したとは言えない。そのため、「社会」情勢への重点化は、政治情勢重点化に引きずられ、60年代末に、構造改革派左派が一斉に「ブント化」する現象が起こっている。

 (注。新左翼系に接近した「構造改革派左派」として、普通は、3派――共労党、フロント、社労同が上げられる。この3派は、いずれも「ブント化」した。しかし、もう一派=統一共産同盟(労闘、労活評)があり、これは、「ブント化」しなかったと言われる)

 一見、ブントと構造改革派という、党派性格が非常に違うものに見える両者が、60年代末に、ほとんど区別を失なった秘密は、「情勢分析派」としての共通性と、構造改革派の「社会」把握の弱点・失敗との視点から見てゆくと、構造や必然性が明瞭になると思われる(「社会」把握失敗の意味は非常に大きいが、これは、別に扱いたい)

 (二)情勢をめぐる論争

 この論争では、資本主義の性格が、20世紀初頭の帝国主義段階から変化したのかしていないのか、変化があるとすればその内容は何か、という、いわゆる「時代規定」をめぐる論争が基礎にあった。

 20世紀初頭に、資本主義世界が、産業資本主義から帝国主義段階に入ったというレーニンの『帝国主義論』の内容については、大半の党派が同意し、前提とした。
 (5つの標識理解のとんでもない誤解を含めて、レーニン帝国主義が正当に理解されてきたとは思えないが、レーニン帝国主義論の段階規定の承認では、私も積極的に同意できる)

 ところが、その後
 ・ロシア革命
 ・29恐慌と30年代不況。いわゆる「管理通貨体制」への移行、「国家独占資本主義」形成
 ・戦後、iMF・ガット体制(国際通貨体制と、貿易自由化協定)
 ・戦後、多くの植民地諸国の独立
 ―――などの現象が生まれ、資本主義は変化したのかどうか、資本主義の破局的危機は再度訪れるのかどうか、をめぐる論争が、党派の戦略と関連づけて活発に展開された。

 資本主義の変容をめぐって、次の代表的な論議があった。このうち、60年代中葉に、資本主義世界をめぐる論議として、学者・活動家・党派のかなりを捉えた論争は、資本主義の時代規定、危機の有無などをめぐる次の(2)の論争であった。構造改革派と岩田危機論との論争は、先の分類では「情勢分析派」の活動家の一定部分を熱烈に引きつけた。次の(1)の過渡期世界論は、60年代末、ブント内の論争だが、しかし、この考え方は、やはり、60年代末に急増した新左翼活動家の多くを熱烈に捉えた。確か、フロントの機関誌にも「過渡期世界論は否定しきれない」という文面があった。

 以下、論争の基本項目。

 (1)世界の性格一般

 (a)ロシア革命によって、資本主義世界市場の一角が欠落して「体制間矛盾」が形成され、さらに「社会主義国家」の増大や植民地独立によって、資本主義の「全般的危機」が深まっている、という理論。主にスターリン派の主流派。
 (b)「労働者国家」の登場によって、帝国主義列強は、帝国主義間対立―帝国主義間戦争を行う余裕が無くなった。経済的土台が上部構造を規定するという関係は、この「現代過渡期世界」では逆転し、政治的・意識的要素が経済を規定する関係が生まれている。ブントの一向過渡期世界論

 (注、 (a)のバリエーションには、中国共産党の「中間地帯論」「三つの世界論」がある。)


 (2)特に経済面・経済的危機をめぐって。

 (c)帝国主義=独占資本主義段階は、「国家独占資本主義段階」に転化した。国独資では、国家の調整によって、恐慌―破局的危機は過去のものになった。主に構造改革派。
 (d)戦後IMF・ガット体制によって、第二次帝国主義戦争を引き起こした30年代不況や帝国主義対立は過去のものになり、資本主義諸国の協調体制、あるいは帝国主義諸国の国際反革命体制が形成された。マル線、ブント系の多く、新左翼系活動家の多くが立脚。

 (注。上の(c)(d)は、(c)が国内面(国内の経済構造・経済政策)、(d)が国際面(流通面、為替・金融面)を中心とする。両者は、資本主義が変容し、危機が過去のものになったという結論は似ていて、内容もかなり相互浸透している。ただ、構造改革派は主に先進諸国の経済構造や経済政策分析に重点を置き、岩田理論など新左翼系は、国際的な為替・金融面に重点を置く傾向があった。

 ―――以上の簡単な説明補足

 この(a)の「体制間矛盾論」「全般的危機論」は、スターリン派主流派にあっては、例によって現象の羅列としてしか提出しないために、理論内容として注目されるような提起がでているわけではない。典型的な展開の一例として。たとえば、ソ連など「社会主義国家」登場によって、失業のない社会が実際に登場したので、資本主義国家が、不況におちいり失業を生めば、労働者はただちに資本主義否定に進むことになる。そのため、資本主義国家でも、不況・景気循環を許容できなくなり、資本主義も変化を求められることになった、という論理である。

 ―――しかし、問題は、資本家・政府が、そのように願望したとして、それを実現する条件・基盤が資本主義に存在するのかどうか、存在するとすれば、資本主義のどのような法則なのかの分析・評価に進まなければ、このような論理は、そもそも社会分析たりえない。また、その結果、「全般的危機の深化」によって、資本主義がどのように変わるのか、経済的危機は来るのか来ないのか――こうした内容もスターリン主流派はあいまいに止めた。

 構造改革派は、これを「変容」の方向にはっきり理論づける傾向があった。(ただ、スターリン主流派と構造改革派とは、境界線がはっきりしているわけではない。また、構造改革派は「一人一派」ともいわれ、政治党派の数や組織力は小さいが、学者・思想家の数は非常に多かった。そのため、構造改革派という場合に、党派だけを想定することは出来ない)
 
 (b)の国家資本主義論をめぐっては、活発な論争が展開された。
 この論議では

 1,国家資本主義は、帝国主義に変わる「段階」なのか、帝国主義段階の中の「政策」なのかをめぐる論議。

 構造改革派系の多くは「段階」規定。それを批判するブント系などは「政策」規定。「段階」か「政策」か―――という論議は、20世紀初頭以後の「帝国主義」を「政策」(にすぎない)と捉えるカウツキーと「段階」と(すなわち、資本主義の性格の根本的変化と)捉えるレーニンとの論争を引いた言葉である。「段階」規定は、帝国主義段階の終了を意味し、帝国主義段階の特徴の多く――「反動と併合」の志向=侵略的性格、国家の暴力装置肥大化、帝国主義間対立・帝国主義間戦争、30年大恐慌のような景気循環などが過去になったという時代規定を大体は意味した。構造改革派は、こうした「時代の変化」に立つ戦略として、経済危機を待機するのではなく、資本主義の平時から、部分的なものを含めて社会の構造改革を積み重ねてゆく方針を提出した。 それに対して、ブントは、「国独資政策」によっても、侵略・反動など帝国主義の根本性格は変わらないと主張した。
 
 2,恐慌、経済的危機は、「国独資」では過去のものになったのかどうか? 
 
 構造改革派は、国家が経済過程に介入することによって、資本主義の性格が変容し、景気変動を財政出動や金融政策で調整することが可能になったので、30年代のような爆発的な経済危機は過去のものになったと主張(内容は多種多様)。岩田弘は、『世界資本主義論』で、管理通貨制度による世界の変化をとくとともに、金融・為替危機によって、資本主義世界が危機を迎えることを主張。特に日本が弱い環であることを主張。岩田はマル戦派だが、この主張は、60年代中葉、構造改革派との論争の中で、新左翼系活動家に広く影響を持った。

 3,帝国主義間対立、帝国主義間戦争

 レーニンの『帝国主義論』は、第一次世界大戦の性格を、国際的な経済分析を基礎に研究し、これは、資本主義列強による植民地の再分割戦争、すなわち、強盗同士の獲物の奪い合いという帝国主義戦争であると論証した。レーニンは、ここから、帝国主義戦争に当たって、帝国主義列強諸国のプロレタリアートは、自国による植民地争奪戦を支持すべきではないと主張し、それぞれの国での「祖国敗北」を掲げた。この点で、第二インターのカウツキーなどの「祖国擁護」と対立し、分岐した。トロツキーは、対立する国のプロレタリアートがそれぞれ「祖国敗北」をかかげるならば、それぞれのプロレタリアートの要求が一致しなくなると捉え、「勝利でもなく敗北でもなく」をかかげた。

 第一次大戦後、30年代の世界的不況の中で、先進資本主義諸国は、自国の不況緩和のために、通貨切り下げ競争による輸出振興―その市場獲得のための植民地ブロック化に突き進み、結局、同じ植民地争奪戦争に突入した………と左翼の多くが捉えた。戦後(正確には戦中から)IMF(=国際通貨体制)が形成され、ガット(自由貿易協定。現在はWTOに引き継がれる)とともに、戦前のブロック化を反省し、それを防ぐ国際協調体制が成立したともてはやされた。資本主義世界は、これを「人類の英知」と賞賛したIMF協定(ブレトンウッズ協定)は、ドルを、金Tオンス=36ドルという裏付けで国際基軸通貨とすること、国際収支が悪化した国への短期融資を行って救済し、国際収支悪化→通貨切り下げ競争→ブロック化を防ぐものとされた(この評価には、私は重大な異論があるが、それは別に)

 しかし、IMF・ガット体制は、新時代の重大な産物として、資本主義世界だけでなく、新左翼系にも重要な位置に置かれることになった。ブントは、IMF・ガット体制を「国際反革命体制」の経済的基礎と捉えたが、この理解は、左翼の多くに浸透していたように見える。IMF体制は、60年代には、金・ドル交換停止にいたる危機を噴出させていた。こうしたIMF・ガット体制をめぐって、左翼の中には、二つの傾向があったように見える。 IMF・ガット体制を「国際反革命体制」の基礎とする前提にたった場合に、
 @、「国際反革命体制」の存在を前提に、それに対する国際的・意識的な戦略構築を追求………ブント過渡期世界論など
 A、それが国際体制として重要なものなので、その同様・危機は、資本主義世界の重大な危機を意味する。危機を想定した方針を追求。………マル戦派
 ―――という傾向である。

 新左翼系では、帝国主義の国際協調・反革命的結束という捉え方が支配的で、帝国主義間対立や市場争奪戦を重視することには否定的であった。これは、64〜65年の、米原潜ポラリス寄航をめぐる論争が背景にあるように思われる。60年代中葉、構造改革派、岩田理論など、現代資本主義をめぐる論争が大きい注目を浴びていた時期に、(第二次ブントにまとまる以前の)ブント潮流内で、マル戦系―岩田派と、ML系―渚との間に帝国主義論争があった。渚は、レーニン帝国主義論継承を語り、日米間の帝国主義対立が深化しているので、米国の原理色潜水艦ポラリスが日本に寄港することはないと主張した。しかし、実際は、ポラリスは日本に寄港し、重大な課題として、この寄航をめぐる闘いが展開された。そのため、帝国主義対立を重視する論議は、60年代後半の新左翼の情勢分析の中では、「破産証明済み」として退けられる傾向が強かった。

 (ブント過渡期世界論は、労働者国家や職住国革命運動に対する帝国主義の「侵略・反革命」「共同反革命」を強調した。また、中核派は、のちに、「帝国主義間争闘戦」を強調しはじめるが、この時期は、革共同両派ともに、ブント以上に日米同盟を強調している)

 (三)「主体形成派」にかかわる論議

 この項目はここでは簡単にだけ触れる。

 (1)「主体形成派」の「深化」

 「主体形成」は、主に「人間変革」「意識変革」や「組織建設」の面に現れる。
 
 (a)主体性哲学

 これは、50年代から、梅本主体性論、黒田主体性論を筆頭に、新左翼内で論議されてきた。この問題は別個に。

 (b)組織論

 この点で、60年代の顕著な作業は、革共同(革マル派)による「組織論」の緻密化であろう。 これは、
 1,組織戦術という概念。
 2,同盟(この場合は、革共同など)と労組との関係について
   a、同盟員としての同盟員
   b、同盟員としての組合員
   c、組合員としての同盟員
   ―――のそれぞれの任務、活動などの類別化
 3,他党派のりこえの論理
 ―――などを、あれこれ図式化して「深めて」いる。
 (以上は、『日本の反スターリン主義 2』に収録)

 もう一つは、解放派の特異な組織論である。これは、革共同的な主体性哲学の立場に立ちながらも、革共同的、レーニン主義的な党組織論が、インテリの指導する党であり、労働者の「知的本源的な階級形成」を妨げるという評価を持って、反官僚主義を徹底することを意図している。解放派については、【レポート3】で。


 (2)「主体形成派」と「情勢分析派」
 
 主体性哲学などをめぐる論議は、「主体形成派」内部の問題だけでなく、革共同とブントの間など、両者の間での論議が、興味深い論点が多い。ブント(の一定部分)は、スターリン派の、官僚主義や、人間変革と無縁のブルジョア的俗物思想肯定(飽食の共産主義思想)への批判などから主体性哲学に関心を持った部分は多い。しかし、ブント系は、“人間変革は、闘争の中でこそ実現できるもので、それを切り離して扱えば宗教になる”という批判を強く持ち、党組織を人間変革・人間解放の場と捉えることに、自覚的に反対した。ブントのこの見解は、革共同への批判としては当たっているようにも見える。しかし、ブント自体の、たとえば「体育会系的人間関係温存」などの話を聞くと、「闘争の中での人間変革」もまた疑問になる。実は、理論上も、ブントのこの見解は、非常に鋭い点と弱点とを共存させていると考えられる。この点も追って触れてゆきたい。

                       (【レポート2】以上)

 【レポート3】60年代日本での党派形成と70年代初頭の分裂再編

 (一)日本共産党。―――61綱領採択。ソ連派、中国派の分離

 60年代は、50年代後半からの綱領論争で、党内の3分の1を占め有力な理論家を多く抱えていた構造改革派の放逐に成功し、宮本顕治主導下で61綱領を採択した。これは、@日本を、米国に半ば占領された従属国と規定。日本の当面する革命の性格を、社会主義革命ではなく、米国から独立する民族民主主義革命であると規定。A暴力革命か平和革命かをめぐる論議では、「敵の出方」論をとる―――などの特徴を持った。

 日本共産党は、60年安保闘争で、「前衛神話崩壊」を言われながらも、いわゆる「愛される共産党」路線=議会路線・民族路線を徹底化し、新左翼系に「歌ってマルクス踊ってレーニン」路線、ズブズブの幅広イズムなどと揶揄されながら、しかし勢力を拡大した。この時期、民主青年同盟は、中卒、高卒で都会に集団就職する青年労働者に組織を広げたと言われ、また、国立大学のほぼ統べてと多くの私学自治会とを制していた。

 綱領論争過程で日共から排除された構造改革派は、イタリア共産党など西欧共産党に近く、中ソを比較すればソ連に近い傾向を持った。それに対して、61綱領の民族路線は、やはり民族路線を強調する毛沢東思想に近く、60年代前半には、日共は中国に接近する。その結果、ソ連派の志賀義夫(?)グループが離党し、ソ連派の日本共産党(日本の声)を形成した。この離党の直接の要因は、部分核実験停止条約をめぐって、日共主流が反対し、志賀派が国会で賛成投票を行ったことにあった。ソ連は、部分核停を、核拡散を防ぐものと賛成し、中国は、部分核停を、米ソの核独占体制であると反対していた。

 しかし、ソ連派が去った日本共産党は66年に中国共産党と決裂し、今度は、中国派が日共から離脱して、いわゆる「山口県委員会」→日本共産党(左派)(=『人民の星』派)を筆頭とする毛沢東派グループを形成する。この潮流は、日本共産党以上に、新左翼=「トロツキスト反革命」規定や、反米愛国の民族主義が強い。赤軍と合同して連合赤軍を形成する日本共産党(革命左派)―京浜安保共闘もこの系譜からでている。

日本資本主義 当面する革命 革命の性格  党組織
共産党主流 半ば対米従属  民族民主革命 敵の出方 民主集中制 
構造改革派  自立 社会主義革命  平和革命・長期革命
破局的危機は来ない
大衆的前衛論
ソ連派 自立論的傾向 社会主義革命?  平和革命       ?
毛沢東派  対米従属  民族独立革命 武力革命 民主集中制
新左翼 自立 社会主義革命 暴力革命
経済的危機間近(マル線、他)
(解放派は別)
民主集中制

 (二)社会党・総評ブロック。社青同

 社会党をめぐる新左翼の動向では、60年代には、社会党・社青同から解放派が形成され(61年)、第四インターは60年代を通じて、社会党加入戦術を採っている(70年頃、分離)。新左翼ではないが、マルクス主義グループとして「社会党強化」をかかげる社会主義協会がある。社会主義協会は、67年に、「社会党変革」への方針転換を主張する太田派と、従来方針継続を主張する向坂派に分裂した(前者が多数派を継承したため、後者は「再建社会主義協会」として再出発した)。太田派内には、さらに、社会党への批判を強め、社会党からの分離をめざす諸グループが生まれ、70年代初頭の、人民の力派や、われわれ共産主義研究会形成に向かう。社青同レベルになると、新左翼諸党派の参入もあり、また「主体と変革」派という社青同党派のような潮流もあった。

 社会党は、「総評の政治委員会」などと揶揄されることもあり、党組織としての実体は非常に脆弱であった。毛沢東が、社会党を「数万の党員で一千万の票をとる不思議な政党」と表したことがある。60年代には、党員数は、おそらく、共産党の30万人ほどに対して、社会党は2万〜5万位ではないかと思うが、実際の組織力量は、この数字の共産党の十分の一といった程度ではない。社会党は、労組幹部と議員を中心とする党で、社会党の党組織として独立して動く党員などほとんどいない。
 (愛知の党員名簿を見たことがあるが、約200名の登録で、ほとんどが幽霊党員で、選挙への動員など全く不可能であった)

 社会党の基盤は、当時の労組ナショナルセンターである総評(日本労働組合総評議会。87年に解散し、現在の「連合」に合流)であった。しかし、当時、資本・経営側が、いわゆる「第二組合」として同盟(日本労働組合総同盟)による総評切り崩しを進め、民間労組では、同盟が多数派になっていた。社会党から民社党が分裂し、社会党―総評、民社党―同盟、というブロックが形成される。
 
 こうした社会党にあって、党の実働部隊として動ける数少ない勢力のなかでの最大部隊が社会主義協会であった。選挙での「人足」などは、ほとんど協会の活動家が行っている。そのため、社会主義協会は、議員などそれほどもたないにもかかわらず、大会代議員の多数を制してゆく。しかし、70年代には、他の社会党員(議員、労組幹部など)が、左派である協会の伸張に脅威を感じ、協会封殺を行った(78年?)。
 
 社会党は、綱領には「反共」をかかげていたが、社会主義革命も語る左派性も持ち、解放派や第四インター、社会主義協会などのマルクス主義勢力が参加している。この点で、同じ「革新勢力」であっても、「一枚岩」の共産党と対照的であった。これには、いろいろな理由がある。
 1,党組織が脆弱で、だれでも入れること。
 2,労組ナショナルセンターとしては左派である総評と直結していること
 3,共産党の対米従属規定―民族主義に対して、相対的に、より階級対立を重視するように見える面を持っていたこと。
 ―――これらの点である。
 特に、「3」は、社会党内から、解放派や社会主義協会などの社会主義組織が形成される根拠であった。共産党は、対米従属規定から、反米闘争を重視し、中小資本経営者味方論をとっていた。そして、票数拡大のためにも、「過激」な労働運動で、敵を増やすことを極度に嫌い、労働運動を押さえる側に回ることが多かった。総評左派の労組活動家は、左翼党派に所属しているかどうかを問わず、資本・経営と対決する労し対立の意識、労働運動への意識が強く、共産党は、自国の資本家との闘いを回避する民族主義であるという批判を強めていった。その結果、社会党・総評の左派的な翼は、共産党以上に「左傾化」し、新左翼と親和的になる傾向を持った。解放派の形成や、社会主義協会の左傾化(社会党批判の強化→別党化)は、この表れである。

 (1)解放派の形成

 61年には、社会党系青年組織である社青同を基盤に、社会党・社青同解放派が形成される。この潮流は、革共同の哲学と類似した哲学、組織観、すなわち、初期マルクス評価、疎外論・主体性論などの哲学と、前衛組織を、政治の道具ではなく直接自己解放の場と位置づける思想に立っている。この点では、「後期エンゲルス」だけでなく「後期マルクス」も、経済学に埋没し(人間の問題を後景化させて)堕落したと批判する点で、さらに徹底している。

 しかし、革共同の閉鎖的組織に反発して、分散主義的組織観に立ち、反レーニン主義を公然と掲げた。解放派は、「労働者党」(=社会党)内に位置して、労働者党内での社民官僚との社民内分派党争を通じて前衛組織を形成するという特異な党組織論を採っている。

 解放派は、レーニン『なにをなすべきか』での自然発生性への拝跪批判→目的意識性強調を批判し、「自然発生性」賛美を主張した。「労働者は知的本源的に階級形成できる。小ブルインテリの指導(=レーニン主義党を指す)は必要ない」、「感性を解放して労働者が現場で闘いたいように闘うことで階級的団結が成長する」、「それを妨げるのは党、労組官僚などである。闘いの中で反官僚闘争を前進させる」、「組織温存は官僚主義につながる。指導部が(逮捕などで)いなくなれば、それだけ新しいメンバーが成長する」―――解放派は、このように、自然発生性を称揚する闘いを繰り広げた。解放派は、実際に、指導部が逮捕されればされるほど、それに続く者が増えると多くが確信していたようで、愛知では、69年11月闘争に、党派部隊を機動隊に突入させてほぼ全員が逮捕された(このとき、続く革マル派は「つぶれて」突入「できず」、続く中核派は、突入を回避した)。70年6月には、解放派の虎の子である労働者部隊約50名が単独でもで総逮捕された。

 解放派は、60年代までの革マル派との「内ゲバ」では、惨敗することが多かったが、ゲバルトに強いのはスターリニストの証拠。スターリン派より遠いほどゲバに弱い、と自己の敗北を「誇って」いた。

 解放派の、こうした「闘いたいように闘い」、組織温存を考えずに突入して逮捕される闘争は、共産党や革共同の組織温存・組織拡大の「セクト主義的ないやらしさ」への反発が強い新左翼系大衆に高い人気があった。60年代末の新左翼運動高揚期には、当事者もつかめないほど、青ヘルメットの数が膨れ上がっている。(ただし、こうした自然発生性強調は、解放派の論理では、「自然発生性を目的意識的に追求する」という自己矛盾に陥っている傾向はあった)

 (2)第四インターの社会党加入戦術と解放派の「労働者党→前衛組織」論

 ところで、60年代には、第四インターも、「社会党加入戦術」によって社会党内にあった。この加入戦術は、新左翼系大衆にとって、きわめて評判が悪かった。60年代の新左翼シンパは、新左翼に、社共既成左翼に代わる斬新なものを求めていた。また、その内容として、ブルジョア政治や日共のご都合主義ではなく、一貫した思想性の期待も強かった。そのため、第四インターの社会党加入戦術は、ブルジョア政治的手法で既成左翼=社会党に埋没するものとし、問題外と捉える者が非常に多かったように見えた。それに比べると、解放派の人気は高かった。同じ社会党内の党派であっても、第四インターと違って、解放派は無条件に「新左翼」の一党派という認識が支配的であったように見える。

 第四インターの社会党加入戦術は、元々、トロツキーが、スターリン派から独立した党建設を決意した際に、「まだ大衆基盤がないので、大衆と結びつくために」ということから、フランスなどで採用した方針である。フランスでは、これがうまくいかないと、次に労農社会党への加入を試みるなど「渡り歩き」の様相があった。それに対して、解放派は、それが正しいかどうかはともかく、「自然発生的な労働者党からの前衛組織建設」を、歴史発展、その意識への反映の構造、それらと組織形成との関係など、社会史的な認識を基礎に体系的な根拠づけをもつものであった。こうした違いがあるために、第四インターの加入戦術は、政治主義的(または政治力学的な、ブルジョア政治的な)利用主義と受け取られたのに対して、解放派の路線は、レーニン主義的な党建設に真っ向から対決する体系だった方針として共感を広く得たものと思われる。

 (注 資料につけたマル共連の「中核派と革マル派 1 革共同の誕生と分裂」(京浜過激派研究会・山崎弘光)は、よく整理されていて参考になる文書である。ただ「加入戦術とは、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である」という捉え方は、トロツキー派の加入戦術については、あまり当たっていないように思われる。トロツキー派は、対象組織、この場合は社会党の組織的切り崩しというよりは、その名前を使った労組への働きかけ、結合などに重点をいていたように見える。………とはいえ、ことなる思想の組織に潜入するということは、その組織に対する切り崩しや陰謀的な活動を生成する条件になることも間違いない。

 付け加えると、この文書では、もう一カ所、「当時の共産主義運動ではトロツキーは反革命的とされ、反革命分子を『トロツキスト』呼ばわりした。」とあるが、左翼の他潮流を「トロツキスト」とレッテル貼りし、「トロツキスト」はすなわち「反革命」であるとして「反革命」規定を行ったという構造であった。「トロツキスト」と呼ばれた部分が、実際の「反革命分子」であったわけではない。ただ、上述部分は、表現ミスに近いものと思う)

 しかし、解放派の組織機構は、それゆえ、かなり複雑になっている。記憶の限りでは、共産主義通信委員会(最高指導機関?)―革命的労働者協会―社会党・社青同解放派―反帝労評・反帝学評―反安保労研(革命的労働者協会の前後に、なんとか同志会という組織もあったかもしれない)という組織があった。

 解放派は「反戦・反合理化・反ファッショ」のスローガンを掲げている。60年代の解放派の運動は、多くの他の党派と逆に、「労働者の自然発生性に徹底して立脚する」という思想を党派運動化したものとして、興味ある実験になっているように見える。

 (3)社会主義協会

 社会主義協会は、戦前の労農派の系譜を引く潮流で、労農派は、本来、社会民主主義的な思想潮流で、ソ連型の「社会主義国家」に反対であった。社会主義協会が始祖とする山川均は、戦後、ソ連に批判的な意見を述べている。このソ連型国家への反発は、一面で、新左翼のソ連批判とも一部重なった。そのため、この労農派のグループには、ソ連=「国家資本主義」規定の日本の代表者の一方で、新左翼に影響のあった対馬忠行も参加している。

 しかし、山川が死去し、向坂逸郎が代表になると、親ソ連的な性格を強めた。これは、いろいろな事情があるかも知れないが、第二次大戦でのソ連の反ファシズム・平和国家としての権威が増大し(これについての評価は別に)、戦後、日本の帰趨が、親米欧の「片面講話」か、ソ連など「社会主義圏」を含む「全面講和」かの対立を強めたことが背景にあると考えられる。当時、「全面講和」の主張は、反動=「逆コース」を突き進もうとする政府・資本家と対抗する最大立脚点となっていた(この評価も別に。この立場に立った、いわゆる「戦後革新勢力」=社共総評を中心とする勢力にいろいろ弱点があったことは自明である。しかし、他方、この時期の「全面講和」の重視など、この点をめぐる対立を全面否定し清算することが妥当とも考えられない)。社会主義協会は、社会党・総評の戦闘的翼を(ある程度自然発生的に)反映する性格を持っていたので、協会派の「親ソ連派」への移行は、戦後、ソ連が「平和勢力の旗主」という権威を持った思想状況の反映であったように思われる。

 社会主義協会は、向坂逸郎を筆頭とする社会党内の理論グループで、社会党をマルクス・レーニン主義の党と見なして(社会党自身はそんなことを言っていないのに(^^;;))、「社会党強化」を自己の課題とした。それに対して、67年に、社会主義協会系の現場労働者を中心に、「社会党変革」への方針転換を迫り、向坂代表は社会主義協会を去って、再建社会主義協会(いわゆる向坂派)を建設する。

 冒頭触れたように、社会党は、党組織としての活動力がないに等しい。そのため、先のように、社会主義協会の活動家が、選挙の実働部隊になり、大会代議員の多数を制してゆくことになる。向坂派は、こうした予定調和的な代議員拡大で社会党を掌握できるのだから、社会党を批判するなどしてその条件を悪化させることなどすべきではない、と捉え、ひたすら、社会党への従順を活動家に要請した。これに不満を持った労組活動家が、主に、太田派として分離した。労組現場では、社会党幹部(労組党員協幹部)のやっているこ=党争収拾のための取引横行などを見れば、社会党党員や議員を批判せざるを得ないからである。それに対して、向坂派は、「太田派による「社会党変革」は中途半端な路線であり、必ず「別党コースに進む」と述べていた。これは、この限りでは当たっていた。

 この太田派の内部には、69年〜70年ころにかけて、社会主義協会が社会党内に位置することに批判的なグループが各地に生まれ、社会主義協会に社会党から分離することを要求する。この要求は入れられず、こうしたグループが、次々に社会主義協会から分離した。この最初のものが神奈川県委員会→「人民の力派」で、次のグループが九州・京都・東京学生フラクションなどの「連帯派」、その次が、われわれの源流である愛知フラクション→共産主義研究会であった。


 …………………

第四インター  労働運動基盤を持つ
        利用対象 

解放派     労働者党
        労働者の然発生的要求表現
        反官僚党争を通じて前衛組織に

協会派(向坂) ML主義党     
        強化対象
 
協会派(太田) ML主義党ではない
        変革対象

(別党コース) 社会民主主義政党

 (4)第一次ブント(安保ブント)分解と第二次ブントの形成・分解

 60年安保の街頭闘争、対国会闘争の先頭に立った結成間もない第一次ブントは、安保闘争の総括をめぐって分解した。プロ通派の一部と戦旗派とが革共同に合流した。なお、第二次ブントの分解過程でも戦旗派という分派が登場する。この潮流は、革共同に合流こそしないものの、戦旗派の二大潮流である日向派(→BUND)と西田派は、それぞれ革マル派、中核派に酷似した性格を形成した(「戦旗派」の共通名称と、革共同よりの性格に、何か意味があるのかどうかは、不勉強にして知らず)。

 他の一部=「革命の旗」派は全国社研→マル労同→社労党(ここからワーカーズが分裂)となるが、この潮流は、新左翼を否定的に捉え、新左翼潮流から離脱する。

 その他のブント系では、「関西ブント」が「政治過程論」を提出し、大衆的な運動展開を行った。しかし、概して、いくつかのサークルなどに分散している状態にあった。「政治過程論」は、政治闘争には独自の法則があるという思想に立つものでそれ以前の左翼に支配的であった思想、すなわち、経済的危機の深化が大衆的な決起を呼び起こすという認識や、その際の基盤は労働運動にあるという認識に真っ向から挑戦している。これは、ブントの党派性格を良く表現している(後述)。

 分散したブント潮流は、66年ブント第6回大会で第二次ブントを形成する部分と、ML同盟(親中国派)とに分かれる。さらに、第二次ブントは68年の第7回大会で、マル戦派が離脱する。 (◆ マル戦派は、第7大会に欠席してブントを離脱し、ブントを名乗らなくなるので、ブント潮流というイメージが薄い。そのため、私は、「第二次ブント」というと7大会ブントを指すように漠然と考えてきた。しかし、最近、年誌編集委のメンバーに聞いたところ、「第二次ブント」は第6回大会以後を指すということであった。
 ◆ マル戦派が7大会を欠席して、7大会派とマル戦派が分離して以後、両者の論争で、マル戦派は7大会派を「統一派」と呼んでいたが、7大会派は、この呼び方に反発していた)

ML派  渚帝国主義論
    (帝国主義間対立を重視→日本に米原潜は来ない→64(または65年)破綻) 帝国主義対立重視論を新左翼から後退させる
     
マル戦派 岩田弘世界資本主義論
     通貨危機→世界危機→新興帝国主義として日本が弱い環  生活と権利の実力防衛→日本資本主義の破綻

7大会派 岩田理論は危機待機主義で経済主義
     攻撃型階級闘争・過渡期世界論・三ブロック階級闘争論 政治闘争・権力闘争の目的意識性重視

 第二次ブントは、69年の「7・6事件」で赤軍派が赤軍として離脱し、のこるブントが、12・18連合ブント、戦旗派、叛旗派、情況派に分裂することで終了する。(戦旗派は「悪魔の第三次ブント建設」を掲げていたこともある)

 (3)革共同第三次分裂

 63年には、革共同が中核派、革マル派に分裂した(革共同第三次分裂)。分裂の直接の争点は、「地区党」(中核派)か「産別党」(革マル派)かの対立である。党組織を形成する際に、基本組織を「職場」に基礎単位を置くか、「地区」に基礎単位を置くのかの組織論の違いがある(「地区」の場合も、居住地区、勤務先地区など種類があるが)。基本組織は、党活動を行う際に所属する組織単位で、この機関の執行委員が、党機構の中で、地区指導部としての権限をもっている。

 階級闘争を職場ごとの労働運動、労組運動を基礎に考える場合は、党組織の基本組織を職場に置くことが適合的に思える。それに対して、選挙活動を重視する場合は、選挙区に対応して党の基本組織を構成することが適合的に思える。この前者を「産別党」、後者を「地区党」などと呼び慣わしていた。前者は、「職場組織」「職場細胞」を基礎とする党組織という性格だが、革共同分裂で「産別党」という言葉になっているのは、全国制を持った職場である当時の国鉄、郵政などが組織機構をめぐる論議の中心になったためと思われる。

 革マル派「産別党」の組織論では、国鉄○○職場組織―国鉄組織(国鉄委員会)―、郵政○○職場組織―郵政組織―――全国組織(党大会)、□□○○職場組織―□□全国組織―――となる。それに対して「地区党」の組織論では、○○地域支部―県組織―全国組織(党大会)という構造になる。ここでは、同じ国鉄職場でも、県単位で、別の基本組織に所属する。

 ところで、実際は、運動の必要上、双方の組織を形成することが普通である。そのため、東京の国鉄メンバーは、東京地区組織と国鉄産別組織の双方に参加することになる。このどちらの組織も、地区指導部と産別指導部を選出することが普通であろう。この場合に、「産別党」では、産別組織―産別指導部の権限が上になり、地区組織は便宜的な機関になる。反対に「地区党」では、地区組織―地区指導部の権限が上になり、産別組織は、その職場運動対策の限定した機能を果たす機関になる。

 革マル派は、階級闘争を「労働運動」を基盤に捉える性格が非常に強い党派である。労働運動を「本来の戦線」という呼び方にもそれが現れている。左翼の党組織は、労働運動が普通に展開されていた70年代頃までは、大体の党派は、「職場・産別組織」重視に引き寄せられる傾向があったが、それでも、革マル派ほど、「産別党」を全面にだした組織はおそらくあまりない。たてまえは「地区党」、実際は「産別党」より、というのが、大体の傾向であったと思われる。当初は、日本共産党もこうした性格であった。

 それに対して、中核派の「地区党」は、この意味で、大体、当時の常識的な内容と思われる。 革マル派によれば、中核派の「地区党」の主張は、長谷川英憲選挙のためであり、中核派の議会主義化の表れとされている。他方、中核派によれば、革マル―黒田寛一は、コミンテルンが地区党かどうかも知らず、自分に質問してきた、などと述べている。日本共産党は、選挙重視になるにつれて、居住区中心の党機構になっているようだ。ただ、話を聞くと、たとえば、○○大学の学生は、その大学組織に入るか、居住地区組織にはいるか、本人の選択に任されているという。

 ところで、この「地区党」「産別党」論議は、ブントの「地区党」の主張も含めると、これだけに止まらない重大な意味を持つと私は捉えている。ブントの「地区党」は、スターリン派や多くの左翼が自明の前提としていた「職場細胞」基盤自体に疑問をなげかけるもので、プロレタリア階級闘争についての根本的な考え方にかかわっていた。すなわち、プロレタリア階級闘争を労働運動と二重写しにすることへの意識的な疑問・批判であった。

 一般に、大半の党派は、「地区党」の面も重視し、「職場」の枠に止まらない広い関心・課題・結びつきなどを党として形成するために必要と考えてきた。しかし、ブントは、それを、単なる機能の一面としてではなく、さらに、階級闘争の根幹にかかわる問題として、とらえつつあった。この点は別途あつかいたい。

 概してまとめると

 革共同(革マル派)………産別党
 革共同(中核派)、その他、スターリン主流派はじめ多くの党派
  ………職場細胞基礎。地区党
 ブント………職場細胞基礎論否定(もしくは疑問)。地区党
 
 という傾向があったと思われる(ブントは、内部の潮流によって差異があったと思われるが)
 思想内容では、黒田寛一を擁する革マル派が、革共同の思想をほぼそのまま継承している。それ に対して、安保ブント崩壊後、革共同にブントの一部が合流した際に革共同に持ち込まれたブント的な思想(政治闘争重視、他党派批判よりも対権力闘争への関心など)が、中核派形成の背景になっている。「地区党」「産別党」の問題は、スターリン派からブントまで関連する共産主義運動の一大核心問題なので、後にまとめて取り上げたい。黒田主体性哲学や、党組織規定(前衛党=自己解放の場、将来社会の萌芽規定)、「組織戦術」「運動組織論」規定などは革マル派に継承され、中核派では、これらの規定は不明瞭になる。しかし、その基本的な考え方は、薄められてはいても継承されている。
                         (【レポート3】以上)


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