【レポート2】60年代、日本の政治情勢、思想状況
60年代は、共産主義運動をめぐる論争と党派活動とがストレートに照応していた時代といえる。70年代以後は、それが乖離し、左翼党派の主要な動向にとって、理論問題がタテマエかされる傾向が強まっていった。この論争全体は膨大な内容になるが、基本的な枠組み整理を試みた。
(一)「情勢分析派」と「主体形成派」
マルクス主義の理解によれば、政党は、社会の様々な階級・階層の利害・要求を、意識的・政治的に反映する存在である。共産主義政党は、プロレタリアートの利害の反映・表現をめざしている。この両者の関係について、レーニンは、“階級の一部であるとともに、ある程度の自立性をもつ”と共産主義党を表現している。党が、階級の利害や動向と無関係に存在するならば、階級の党ではなくなり、閉鎖的な宗教団体のごときものになる。しかし、反対に、階級そのものであるならば、党は、階級の動向に左右されるだけで、階級の運動を系統的に成長させ、階級が後退する際にも、一緒に破産するのでは、独自の組織を形成する意味もないことになる。この両面があることは、だれも承認するはずだが、その両者の相互関係への理解に踏み込むと、無数の色合いが生まれ、概括的に、どちらの側を重視するのかの特質が現れる。
60年代には、この点をめぐって「情勢分析派」と「主体形成派」という呼び方を耳にしたことがある。「情勢分析派」とはブントや構造改革派、「主体形成派」とは革共同や解放派を指していた。新左翼は、自ら党派性格を明瞭にしていたので、こうした分類の対象になる。反対に、スターリン派は、「あれもこれも」と折衷的に主張するため、こうした党派性格はあまり明瞭にならない。革共同(中核派)は、革共同そのもの(黒田理論)とブントとを接合したような所があり、両面があるが、基本は「主体形成派」の性格である。
「情勢分析派(主義)」とは、情勢の推移に着目し、それに対応する方針や戦略提出に関心をおいた党派性格を指している。「主体形成派(主義)」とは、情勢の推移にかかわらず、組織建設や人間解放などを積み上げることに重点を置く党派性格を指している。―――これは俗称であって、正規の文献にどの程度登場する用語なのか知らないが、しかし、党派性格を見る際には重要な視点の一つであると考えている。
「情勢分析派」としては、ブント、マル戦派、構造改革派、「主体形成派」としては、革共同、解放派が通例上げられる。
スターリン主義主流派は、理論内容が折衷的なので、どちらかの明確な性格を示すとは言えないが、やや「主体形成派」に近い。というのは、スターリン主流派は、情勢の推移で方針を急転換することが少なくないが、それは、情勢分析によるというよりは(その装いをとりながら)党派事情で行うことが大半だからである。つまり、情勢から自己やその方針を厳格に規定するのではない、という消極的意味も含めてであるが。
両者の対比は、60年代末の政治情勢進展過程で端的に現れた。ブント、構造改革派は、この情勢化で、様々な新戦略を打ち出したり(ブントの過渡期世界論、および分解する各派の路線など)、あるいは党派性格の急変(構造改革派の「ブント化」、ブントの様々な党派性格への分岐)を起こしている。他方、“情勢に左右されない主体形成”の性格を強く持つ革共同は、組織を温存し、ブントや構造改革派の破産と反対に、70年代に、組織力で相対的に強力な位置をもっていった。
「情勢分析派」の中でも、情勢のどの領域に重点を置くのかの違いがある。この点も、新左翼ではかなり鮮明であった。類別すると、
ブント……政治情勢・権力動向
マル戦派……経済情勢
構造改革派……「社会」情勢
構造改革派の「社会」情勢には若干の説明がいる。構造改革派は、50〜60年代に、経済分析(国家独占資本主義分析)を最も精力的に行った潮流である。しかし、構造改革派は、伝統的マルクス主義が、経済的下部構造(土台)―政治的上部構造という理解で、経済的土台が自立的な運動法則を持つと捉えることに対して、(下部構造―上部構造ではなく)構造―上部構造と捉え、下部構造=経済的土台の自立的な把握に否定的で、「社会」全体として捉える傾向を持った。また、もう一方で、「政治」に対して、より広い「社会」領域重視を主張した。関心対象を「社会」情勢とした理由はこれらの点である。ただ、「政治」と異なる「社会」の独立した意味を把握することに成功したとは言えない。そのため、「社会」情勢への重点化は、政治情勢重点化に引きずられ、60年代末に、構造改革派左派が一斉に「ブント化」する現象が起こっている。
(注。新左翼系に接近した「構造改革派左派」として、普通は、3派――共労党、フロント、社労同が上げられる。この3派は、いずれも「ブント化」した。しかし、もう一派=統一共産同盟(労闘、労活評)があり、これは、「ブント化」しなかったと言われる)
一見、ブントと構造改革派という、党派性格が非常に違うものに見える両者が、60年代末に、ほとんど区別を失なった秘密は、「情勢分析派」としての共通性と、構造改革派の「社会」把握の弱点・失敗との視点から見てゆくと、構造や必然性が明瞭になると思われる(「社会」把握失敗の意味は非常に大きいが、これは、別に扱いたい)
(二)情勢をめぐる論争
この論争では、資本主義の性格が、20世紀初頭の帝国主義段階から変化したのかしていないのか、変化があるとすればその内容は何か、という、いわゆる「時代規定」をめぐる論争が基礎にあった。
20世紀初頭に、資本主義世界が、産業資本主義から帝国主義段階に入ったというレーニンの『帝国主義論』の内容については、大半の党派が同意し、前提とした。
(5つの標識理解のとんでもない誤解を含めて、レーニン帝国主義が正当に理解されてきたとは思えないが、レーニン帝国主義論の段階規定の承認では、私も積極的に同意できる)
ところが、その後
・ロシア革命
・29恐慌と30年代不況。いわゆる「管理通貨体制」への移行、「国家独占資本主義」形成
・戦後、iMF・ガット体制(国際通貨体制と、貿易自由化協定)
・戦後、多くの植民地諸国の独立
―――などの現象が生まれ、資本主義は変化したのかどうか、資本主義の破局的危機は再度訪れるのかどうか、をめぐる論争が、党派の戦略と関連づけて活発に展開された。
資本主義の変容をめぐって、次の代表的な論議があった。このうち、60年代中葉に、資本主義世界をめぐる論議として、学者・活動家・党派のかなりを捉えた論争は、資本主義の時代規定、危機の有無などをめぐる次の(2)の論争であった。構造改革派と岩田危機論との論争は、先の分類では「情勢分析派」の活動家の一定部分を熱烈に引きつけた。次の(1)の過渡期世界論は、60年代末、ブント内の論争だが、しかし、この考え方は、やはり、60年代末に急増した新左翼活動家の多くを熱烈に捉えた。確か、フロントの機関誌にも「過渡期世界論は否定しきれない」という文面があった。
以下、論争の基本項目。
(1)世界の性格一般
(a)ロシア革命によって、資本主義世界市場の一角が欠落して「体制間矛盾」が形成され、さらに「社会主義国家」の増大や植民地独立によって、資本主義の「全般的危機」が深まっている、という理論。主にスターリン派の主流派。
(b)「労働者国家」の登場によって、帝国主義列強は、帝国主義間対立―帝国主義間戦争を行う余裕が無くなった。経済的土台が上部構造を規定するという関係は、この「現代過渡期世界」では逆転し、政治的・意識的要素が経済を規定する関係が生まれている。ブントの一向過渡期世界論
(注、 (a)のバリエーションには、中国共産党の「中間地帯論」「三つの世界論」がある。)
(2)特に経済面・経済的危機をめぐって。
(c)帝国主義=独占資本主義段階は、「国家独占資本主義段階」に転化した。国独資では、国家の調整によって、恐慌―破局的危機は過去のものになった。主に構造改革派。
(d)戦後IMF・ガット体制によって、第二次帝国主義戦争を引き起こした30年代不況や帝国主義対立は過去のものになり、資本主義諸国の協調体制、あるいは帝国主義諸国の国際反革命体制が形成された。マル線、ブント系の多く、新左翼系活動家の多くが立脚。
(注。上の(c)(d)は、(c)が国内面(国内の経済構造・経済政策)、(d)が国際面(流通面、為替・金融面)を中心とする。両者は、資本主義が変容し、危機が過去のものになったという結論は似ていて、内容もかなり相互浸透している。ただ、構造改革派は主に先進諸国の経済構造や経済政策分析に重点を置き、岩田理論など新左翼系は、国際的な為替・金融面に重点を置く傾向があった。
―――以上の簡単な説明補足
この(a)の「体制間矛盾論」「全般的危機論」は、スターリン派主流派にあっては、例によって現象の羅列としてしか提出しないために、理論内容として注目されるような提起がでているわけではない。典型的な展開の一例として。たとえば、ソ連など「社会主義国家」登場によって、失業のない社会が実際に登場したので、資本主義国家が、不況におちいり失業を生めば、労働者はただちに資本主義否定に進むことになる。そのため、資本主義国家でも、不況・景気循環を許容できなくなり、資本主義も変化を求められることになった、という論理である。
―――しかし、問題は、資本家・政府が、そのように願望したとして、それを実現する条件・基盤が資本主義に存在するのかどうか、存在するとすれば、資本主義のどのような法則なのかの分析・評価に進まなければ、このような論理は、そもそも社会分析たりえない。また、その結果、「全般的危機の深化」によって、資本主義がどのように変わるのか、経済的危機は来るのか来ないのか――こうした内容もスターリン主流派はあいまいに止めた。
構造改革派は、これを「変容」の方向にはっきり理論づける傾向があった。(ただ、スターリン主流派と構造改革派とは、境界線がはっきりしているわけではない。また、構造改革派は「一人一派」ともいわれ、政治党派の数や組織力は小さいが、学者・思想家の数は非常に多かった。そのため、構造改革派という場合に、党派だけを想定することは出来ない)
(b)の国家資本主義論をめぐっては、活発な論争が展開された。
この論議では
、
1,国家資本主義は、帝国主義に変わる「段階」なのか、帝国主義段階の中の「政策」なのかをめぐる論議。
構造改革派系の多くは「段階」規定。それを批判するブント系などは「政策」規定。「段階」か「政策」か―――という論議は、20世紀初頭以後の「帝国主義」を「政策」(にすぎない)と捉えるカウツキーと「段階」と(すなわち、資本主義の性格の根本的変化と)捉えるレーニンとの論争を引いた言葉である。「段階」規定は、帝国主義段階の終了を意味し、帝国主義段階の特徴の多く――「反動と併合」の志向=侵略的性格、国家の暴力装置肥大化、帝国主義間対立・帝国主義間戦争、30年大恐慌のような景気循環などが過去になったという時代規定を大体は意味した。構造改革派は、こうした「時代の変化」に立つ戦略として、経済危機を待機するのではなく、資本主義の平時から、部分的なものを含めて社会の構造改革を積み重ねてゆく方針を提出した。 それに対して、ブントは、「国独資政策」によっても、侵略・反動など帝国主義の根本性格は変わらないと主張した。
2,恐慌、経済的危機は、「国独資」では過去のものになったのかどうか?
構造改革派は、国家が経済過程に介入することによって、資本主義の性格が変容し、景気変動を財政出動や金融政策で調整することが可能になったので、30年代のような爆発的な経済危機は過去のものになったと主張(内容は多種多様)。岩田弘は、『世界資本主義論』で、管理通貨制度による世界の変化をとくとともに、金融・為替危機によって、資本主義世界が危機を迎えることを主張。特に日本が弱い環であることを主張。岩田はマル戦派だが、この主張は、60年代中葉、構造改革派との論争の中で、新左翼系活動家に広く影響を持った。
3,帝国主義間対立、帝国主義間戦争
レーニンの『帝国主義論』は、第一次世界大戦の性格を、国際的な経済分析を基礎に研究し、これは、資本主義列強による植民地の再分割戦争、すなわち、強盗同士の獲物の奪い合いという帝国主義戦争であると論証した。レーニンは、ここから、帝国主義戦争に当たって、帝国主義列強諸国のプロレタリアートは、自国による植民地争奪戦を支持すべきではないと主張し、それぞれの国での「祖国敗北」を掲げた。この点で、第二インターのカウツキーなどの「祖国擁護」と対立し、分岐した。トロツキーは、対立する国のプロレタリアートがそれぞれ「祖国敗北」をかかげるならば、それぞれのプロレタリアートの要求が一致しなくなると捉え、「勝利でもなく敗北でもなく」をかかげた。
第一次大戦後、30年代の世界的不況の中で、先進資本主義諸国は、自国の不況緩和のために、通貨切り下げ競争による輸出振興―その市場獲得のための植民地ブロック化に突き進み、結局、同じ植民地争奪戦争に突入した………と左翼の多くが捉えた。戦後(正確には戦中から)IMF(=国際通貨体制)が形成され、ガット(自由貿易協定。現在はWTOに引き継がれる)とともに、戦前のブロック化を反省し、それを防ぐ国際協調体制が成立したともてはやされた。資本主義世界は、これを「人類の英知」と賞賛したIMF協定(ブレトンウッズ協定)は、ドルを、金Tオンス=36ドルという裏付けで国際基軸通貨とすること、国際収支が悪化した国への短期融資を行って救済し、国際収支悪化→通貨切り下げ競争→ブロック化を防ぐものとされた(この評価には、私は重大な異論があるが、それは別に)
しかし、IMF・ガット体制は、新時代の重大な産物として、資本主義世界だけでなく、新左翼系にも重要な位置に置かれることになった。ブントは、IMF・ガット体制を「国際反革命体制」の経済的基礎と捉えたが、この理解は、左翼の多くに浸透していたように見える。IMF体制は、60年代には、金・ドル交換停止にいたる危機を噴出させていた。こうしたIMF・ガット体制をめぐって、左翼の中には、二つの傾向があったように見える。 IMF・ガット体制を「国際反革命体制」の基礎とする前提にたった場合に、
@、「国際反革命体制」の存在を前提に、それに対する国際的・意識的な戦略構築を追求………ブント過渡期世界論など
A、それが国際体制として重要なものなので、その同様・危機は、資本主義世界の重大な危機を意味する。危機を想定した方針を追求。………マル戦派
―――という傾向である。
新左翼系では、帝国主義の国際協調・反革命的結束という捉え方が支配的で、帝国主義間対立や市場争奪戦を重視することには否定的であった。これは、64〜65年の、米原潜ポラリス寄航をめぐる論争が背景にあるように思われる。60年代中葉、構造改革派、岩田理論など、現代資本主義をめぐる論争が大きい注目を浴びていた時期に、(第二次ブントにまとまる以前の)ブント潮流内で、マル戦系―岩田派と、ML系―渚との間に帝国主義論争があった。渚は、レーニン帝国主義論継承を語り、日米間の帝国主義対立が深化しているので、米国の原理色潜水艦ポラリスが日本に寄港することはないと主張した。しかし、実際は、ポラリスは日本に寄港し、重大な課題として、この寄航をめぐる闘いが展開された。そのため、帝国主義対立を重視する論議は、60年代後半の新左翼の情勢分析の中では、「破産証明済み」として退けられる傾向が強かった。
(ブント過渡期世界論は、労働者国家や職住国革命運動に対する帝国主義の「侵略・反革命」「共同反革命」を強調した。また、中核派は、のちに、「帝国主義間争闘戦」を強調しはじめるが、この時期は、革共同両派ともに、ブント以上に日米同盟を強調している)
(三)「主体形成派」にかかわる論議
この項目はここでは簡単にだけ触れる。
(1)「主体形成派」の「深化」
「主体形成」は、主に「人間変革」「意識変革」や「組織建設」の面に現れる。
(a)主体性哲学
これは、50年代から、梅本主体性論、黒田主体性論を筆頭に、新左翼内で論議されてきた。この問題は別個に。
(b)組織論
この点で、60年代の顕著な作業は、革共同(革マル派)による「組織論」の緻密化であろう。 これは、
1,組織戦術という概念。
2,同盟(この場合は、革共同など)と労組との関係について
a、同盟員としての同盟員
b、同盟員としての組合員
c、組合員としての同盟員
―――のそれぞれの任務、活動などの類別化
3,他党派のりこえの論理
―――などを、あれこれ図式化して「深めて」いる。
(以上は、『日本の反スターリン主義 2』に収録)
もう一つは、解放派の特異な組織論である。これは、革共同的な主体性哲学の立場に立ちながらも、革共同的、レーニン主義的な党組織論が、インテリの指導する党であり、労働者の「知的本源的な階級形成」を妨げるという評価を持って、反官僚主義を徹底することを意図している。解放派については、【レポート3】で。
(2)「主体形成派」と「情勢分析派」
主体性哲学などをめぐる論議は、「主体形成派」内部の問題だけでなく、革共同とブントの間など、両者の間での論議が、興味深い論点が多い。ブント(の一定部分)は、スターリン派の、官僚主義や、人間変革と無縁のブルジョア的俗物思想肯定(飽食の共産主義思想)への批判などから主体性哲学に関心を持った部分は多い。しかし、ブント系は、“人間変革は、闘争の中でこそ実現できるもので、それを切り離して扱えば宗教になる”という批判を強く持ち、党組織を人間変革・人間解放の場と捉えることに、自覚的に反対した。ブントのこの見解は、革共同への批判としては当たっているようにも見える。しかし、ブント自体の、たとえば「体育会系的人間関係温存」などの話を聞くと、「闘争の中での人間変革」もまた疑問になる。実は、理論上も、ブントのこの見解は、非常に鋭い点と弱点とを共存させていると考えられる。この点も追って触れてゆきたい。
(【レポート2】以上)
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