(一)第一回レポートの範囲について
第一回レポートは、1950年代末、新左翼の二大党派、革共同、ブント形成までを対象とした。しかし、ソ連論の部分で、1970年を境とする変化にまで触れたので、この時期までを範囲としているようにも見える記述になっている。しかし、そうなると、70までの新左翼党派形成が、革共同、ブントの二党派に限られるように誤解される可能性があるので、訂正したい。60年代は、さらに、新左翼党派形成や共産党からの分裂など党派形成があるので、これは、別レポートで改めてあつかうものとした。その概略だけを以下に。
60年代には、新左翼党派のもう一つである社会党・社青同解放派の形成、革共同第三次分裂による中核派、革マル派の形成、新左翼に含めることが多い構造改革派左派(共労党、統社同、社労同など)の形成があった。ブントは60年安保闘争後に四分五裂し、一部が革共同に合流し、また、全国社研(後のマル労同→社労党)を形成し新左翼から離脱(自己規定、客観性格として)するグループもあった。第二次ブントが統一・再建されるが、マル戦派が分離する。また、毛沢東思想と革共同路線を合体させたようなML派が登場した。第二次ブントは、60年代末には赤軍派ば分離し、その後、12・18ブント、戦旗派、叛旗派、情況派などに分裂した。これは、70年代の一層の分裂につながってゆく。トロツキー派=第四インター(日本支部)は、60年代を通じて社会党加入戦術を採用して社会党内にあり、目立たない存在であった。
既成左翼の側では、日本共産党から上述構造改革派の分離(これは50年代末からさみだれ的に)があり、また、中ソ対立、中国「プロレタリア文化大革命」を背景とする日本共産党の政策変化(=中国より姿勢強化から中国共産党との決裂という変化)にともない、ソ連派の分離(「日本の声」)、毛沢東派(「人民の星」など)の分離があった。社会党内の社会主義協会は、向坂派と太田派に分裂し、太田派からは、後に「人民の力」派や共産主義研究会(→IEG)に至る「別党コース」の動きが始まる。
第一回レポートで、新左翼の一部である革共同、ブントの二党派をあつかったのは、50年代後半の形成という時期的なことが理由だが、同時に、この二党派が、スターリン派に対抗する共産主義理論の両極を端的に表現したこともある。この二党派の特徴を把握すると、60年代、70年代に形成される党派の性格も把握しやすくなる。
以上の60年代形成の党派については、別のレポートであつかってゆく。
なお「新左翼」などの語義をめぐって。
「新左翼」の用語は、「既成左翼―新左翼」の対置で使われた。「既成左翼」は、社共、または社共・総評などといわれ、社会党、共産党、総評を指している。総評は、労働組合のナショナルセンター日本労働組合総評議会で、社会党を支持しているが、共産党系も大半は総評系に参加した。新左翼は、労働運動レベルでは、総評加入と反戦青年委員会参加、および双方への参加などがあった。既成左翼と新左翼とを区分する政治性格としては、ソ連・中国などを社会主義国家と認めるのか批判・否定するのかの区分、議会主義か暴力革命・実力闘争かの区分などがある。
類似した用語に「日共系―反日共系」または「代々木系―反代々木系」があった。「代々木」は日本共産党本部の所在地で「日共」と同義。「新左翼」と「反日共系」は重なるが、後者は主にマスコミが使っている。加えると、日本共産党は、「日共」とか「中共」の用語を反共攻撃の誹謗用語であると捉え、当事者は使わない。
「新左翼」は範囲が必ずしも明瞭ではない。いわゆる「三派(中核、ブント、解放)、革マル」を新左翼とすることには異論はないと思われるが、構造改革派左派、第四インター(日本支部)を新左翼に入れるかどうかは見解が分かれるはずである。
この60年代に、既成左翼か新左翼かの重大分界線と受け止められていたのは、ソ連、中国など「社会主義国家」を肯定的に捉えるか批判・否定の対象とするのかにあった。左翼は、ソ連、中国を礼賛するものという強力な既成概念を覆す左翼党派の登場が、日本の社会状況には衝撃的であったために、この指標は大きい位置を持った。この基準から、日本共産党から分かれて対立した党派でも、ソ連派、中国派を新左翼とは呼ばない。
また、60年代末に至る政治攻防での陣形からの評価もある。これは、「社共」「三派・革マル」という陣形や、後の「八派共闘」などがある。この時期、新左翼系の陣営は、「全学連・反戦」「全共闘・反戦」などと自称することが多かった。この面では、毛沢東思想を掲げるML派は、新左翼に入れて捉えることが多い。構造改革派左派も、ソ連評価をめぐる理論性格は既成左翼に近い(=「社会主義国家」規定)が、「三派・革マル」と同じ政治陣形に位置したため、新左翼の一翼と捉えることが多い。第四インター(日本支部)は、理論性格上、革共同、ブントなどより既成左翼的な傾向が強いとしても、スターリン派と対立する位置からみれば新左翼である。しかし、社会党加入戦術を長期に採っていたため、新左翼のイメージが非常に希薄であった(これは、同じ社会党内の潮流でも、解放派と性格が違っていた……後述)。
マル労同→社労党は、新左翼を積極性なしと評価し、新左翼の自己規定を否定するが、共産党から見れば、ソ連、中国などを「資本主義」呼ばわりして攻撃する党派として、新左翼の典型的な一翼となる。既成左翼―新左翼の対抗関係、区分は、70年代以後は変化し、二分法的に捉えることが難しくなってゆく。
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(二)ソ連の評価、「第三の体制」「一国社会主義不可能論」 |
(1)ソ連評価と「第三の体制論」
レポートで、マルクス主義の歴史観に立つと、ソ連の評価が、トロツキー理論か「国家資本主義論」かの二者択一に追い込まれやすいと述べた。すなわち、ソ連を発展過程と捉えるか、そうでないか(=資本主義にすぎないか)の二者択一である。
先にも触れたように、ソ連の性格について、上のいずれかでは納得しにくいという実感は、
@、ソ連★派★は★資本主義とは異質という実感
A、しかし、資本主義でなければ(唯物史観に寄れば)社会主義・共産主義、もしくはそこへの発展過程のはずだが、発展的とは実感しにくい
―――という内容であった。
ここから、ソ連を、資本主義でも社会主義でもない体制と規定する理論が登場する。「官僚主義的集産主義」という呼称がその一つである。これは、トロツキー派から分離した思想潮流が使用した呼称と思うが、より一般的に使われたかもしれない。この用語自体は、「官僚主義」という現象と、「集産主義」という現象を合わせたものに過ぎないので。
「資本主義」でも「社会主義」でもない体制としてソ連(などの「社会主義国家」)を規定する理論を、「資本主義」「社会主義」の二つとは違う体制を想定する理論という意味で「第三の体制論」とも呼ばれてきた。「第三の体制」を想定することは、直接には、マルクス主義の歴史観を逸脱する。実際に、30年代から50年代頃までに「第三の体制論」に移行した潮流はマルクス主義を離れたようである。日本の左翼潮流で「第三の体制」かそれに近いものを想定する理論で、私が知っているものは、どちらも70年代以降であるが、革マル派の「スターリニスト政治経済体制」規定と、ブント(火花派)の規定である。「第三の体制論」は、左翼の党派分岐の中ではあまり位置を持たないが、ソ連評価をめぐってマルクス主義歴史観が陥った困難を、その歴史観訂正を持って打開することをめざした理論なので、唯物史観を点検する素材になっている。 |
(2)「一国社会主義不可能論」と「社会主義国家」「労働者国家」
第一回レポートを読んで、もしかすると、次のところがおかしいのではないかと感じた人が居るかもしれない。それは、ソ連国内にあった時代のトロツキー(派)が「一国社会主義建設不可能論」を唱えながら、工業化、経済計画化などソ連の経済・社会建設に最大の関心を向けていたという部分である。また、レポート文中では、社会主義国家をすべて「 」付きで使用している。あるいは、ソ連について「社会主義国家」「労働者国家」という二つの呼び方を使っている。(なお、私は、単に強調などの意味で「 」を使っている部分も多く、かなりいい加減な基準で「 」を使用してはいる) これは、プロレタリア革命(社会主義革命)によって、資本主義の国家権力を打倒した後に、ただちに共産主義社会(共産主義的生産様式の社会)を実現できるかどうか、という問題と関係している。
マルクスは、資本主義と共産主義との間に、「政治上の過渡期」があり、それは「プロレタリアートの革命的独裁」であると規定した(『ゴータ綱領批判』)。この過渡期が、「プロレタリア独裁国家」「労働者国家」などとも呼ばれる。「労働者国家」の用語は、単に「独裁」の語を略したものと、「独裁」概念への否定的な思想を反映したものとがありそうである。トロツキーが「一国社会主義建設不可能」というときに、生産様式としての(あるいは経済的社会構成、体制としての)の「社会主義社会」は一国では建設不可能、という意味で使っている。すなわち、その前段の「労働者国家」までを一国で実現不可能と捉えていたのではない。
スターリンがトロツキーを追い落として行く際に、この「不可能論」が最大限利用された。レーニンは一国社会主義可能論であり、トロツキーの不可能論とは対立しているという宣伝、および、トロツキーは不可能論を唱えて、ソ連の社会主義建設を意気阻喪させようとしている、といった宣伝である。それに対して、トロツキー(派)は、レーニンも不可能論であったと主張する。
事実はどちらなのか。スターリンの主張は歴史偽造も動員したもので、理論内容としては問題にならない。しかし、トロツキー派の主張も疑問なく支持できるような内容ではない。レーニンは、『プロレタリア革命と背教者カウツキー』などで、たしかに、ロシア一国では革命は勝利できないと述べているが、これは、当時の常識的な状況判断で、絶対的なもの、原理的なものとして述べられているかどうかは検討の余地がある。他方、トロツキーの不可能論は、後進国ロシア一国不可能論なのか、一般的な一国不可能論なのか不明瞭なところがある。
先の段階区分に戻るが、『ゴータ綱領批判』でマルクスが述べたものは、資本主義――過渡期――共産主義(低次段階)・共産主義(高次段階)という区分であった。ところが、この「共産主義(低次段階)」を、第二インターやレーニンは「社会主義」と言い換えている。すなわち資本主義――過渡期――社会主義・共産主義となる。ところが、これは、単に言い換えだけに過ぎないのかどうかの重大問題を内包している。 というのは、上のように、「社会主義・共産主義」という用語を使う思想は、すべてではないが、主要部分が資本主義――(過渡期)社会主義・共産主義という発展区分論に傾斜しているからである。すなわち、「過渡期」の独立した位置を否定したり消極化する理論と、「社会主義」への言い換えが、或る程度重なっている。
この問題は、共産主義運動混迷や、それを打開する課題の半分以上の比重を占める最重大問題と私は考えている。ただ、この論点は後に触れるものとして、この問題は、次回または近い回のレポートで、「社会主義」「共産主義」の用語をめぐる整理からとりかかりたい。
マルクスが自己の思想を表現するときに「共産主義」を使い、後期エンゲルスなど第二インターが「社会主義」をつかい、ロシア革命期にレーニンなどボルシェヴィキが再び「共産主義」にもどすという過程、および、そのような運動・思想の性格付けとしての「共産主義」「社会主義」と関係があるのかどうかが不明瞭にされてきた、上述の、発展区分をめぐる「共産主義低次―共産主義高次」と「社会主義―共産主義」という用法の異同など、この領域はもつれた糸をときほぐす必要がある。これは、マルクス主義を自認する党派に「社会主義」を使う党派と「共産主義」を使う党派があることと、或る程度は関係している。これらも、今後整理して行きたい。
(第一回レポート、補足、以上)
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