「党派の歴史」勉強会、1−1

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.2.14日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2009.4.19日 れんだいこ拝


 「「党派の歴史」勉強会 系譜図・見解比較・解説・参照リンク 」の05・5・23、伊藤一「「党派の歴史」勉強会 1−1「党派の歴史」勉強会開始、および「導入レポート」提出に当たって」。
 第一回に向けたこのレポートは、共産主義運動における党派分岐の特徴的な局面をおおざっぱに概括したものです。図表、系譜なども作成中ですが、これらは、年代を始め、事実の調査・裏付けが必要なところが多いので、少し後になります。今回のレポートは、分岐を大づかみに描いた程度のものです。

 ただ、導入として、50〜60年代の日本の新左翼に比重を置いています。これは、「党派の歴史」――特に、日本の左翼の歴史理解のためには、その後70年代から現在までの諸党派の林立も、新左翼の特徴的な路線とその破綻をめぐる面が大きく、いろいろな党派比較の際に、結局、新左翼の思想性格に関係して立ち返る必要が出るためです。

 また、もう少し一般的には、各党派の特質、比較などを把握するためには、賛否を問わず、「マルクス主義とは何か」についての理解が必要となりますが、新左翼の理論的試みは、ソ連共産党を筆頭とする共産主義運動の官僚主義化などの問題を、マルクス、エンゲルスの「違い」などマルクス主義の根源に立ち入って解き明かそうと試みた点で、マルクス主義の特徴と問題点の核心をつかんでゆくうえでの積極的な手がかりを提供するものにもなっていることがあります。新左翼の「意識性」や「人間変革」についての党派的実践やソ連論は、破綻したとはいえ、それを清算しては先に進めない種類のものでした。こうした意味で、新左翼理論形成に至る国際共産主義運動のアウトラインと、それを背景にした新左翼理論のポイントを提出することを、この導入の課題としました。

 たしかに、非常に簡単とは言えない領域ですが、わかりにくいとすれば、大きい要因は、私がわかりやすく咀嚼できるまでの理解に進んでいないことにあります。なお、ここで提出されている問題について、IEGもしくは私は、基本的な解答は獲得できたと考えていますが、ただ、ここでは、その解答は、展開上不可欠のものを除いて、後に回しています。

 運営については、Mさんの主導に委ねようと思いますが、私の意見では、今回、このレポート読破を前提にしなくとも良いと考えています。今回の論議の後、このレポートに目を通して貰うという順序でも構わないと思います。いずれにしても、第一回の論議と、このレポートとをめぐる意見交換を通じて、その後の進め方を方向付けられればよいという考えです。もちろん、検討して貰えれば、それに関する質問・意見など充分受けられると思います。

 このレポートも、今回、かなりの検討や文書作成(成功して今後使用予定のものも、失敗のものも含めて)の結果、そこから抽出したものですが、論議を通じて、さらに、自分の見解が発展的に是正・訂正されたり整理されて改善される期待しているのです。そのための容赦ない攻防を進めたいと思います。
 ――「党派の歴史」勉強会開始に当たって。導入――
 ソ連評価をめぐる分岐から日本の新左翼形成と破綻 そのアウトライン

                           05・2・23 伊藤一

 ―――今回レポートの提起概要―――――――――――

1,マルクス、エンゲルスは、先行する共産主義・社会主義は「考案」の産物で、考案者の数だけ党派が形成されるが、自らの共産主義は、社会史発展の物質的条件の中に、その実現の要素を発見するものだと述べた。しかし、にもかかわらず、マルクス主義的共産主義運動は、多くの党派分裂を生み出した。

2,その重要要因は、「最初の社会主義革命、最初の社会主義国家」ソ連の評価をめぐるものであった。スターリン派は、これを「社会主義国家」と規定した。トロツキーは官僚主義的な堕落への批判を行ったが、同時に、労働者の国家として「無条件擁護」を唱えた点では、スターリン派と共通面も大きい。それに対して、ソ連を、社会主義をかかげる資本主義に過ぎないと分析する「国家資本主義論」派が対極に位置する。トロツキー派と「国家資本主義論」が、主流派=スターリン派に対する反対派の理論上の両極を形成した。

3,日本では、50年代後半に、スターリン派―日本共産党への批判が強まる過程で、トロツキー派が形成されるが、共産党への反対派の中では、トロツキー派は少数派になった。かわりに、スターリン派に対するトロツキー派の批判、闘いは不充分で、「スターリン派によるマルクス、レーニンの歪曲」を暴くだけでは、ソ連や共産主義運動の深刻な腐敗を克服することは出来ない、という認識が強まって行く。

4,新左翼は、こうした理解から、スターリン以前のマルクス、エンゲルス、レーニンの思想それ自体の点検に向かい、マルクスとエンゲルスとは異質という評価も強まった。革共同は、「後期エンゲルス、レーニン」に、「人間変革」「前衛組織での自己解放」の論理が欠如していると捉え、唯物論の「タダモノ論」的理解を批判する「主体性哲学」や「経済決定論批判」を展開する。そして、その思想に基づく「人間解放の場」「将来社会の萌芽」としての党組織を、レーニンの「政治主義的な前衛組織」に対置する。

 ブントは、経済危機を待って党・労組組織を強化するという従来の階級闘争理解に疑義をもち、その思想を、労働者を職場の労使対立の意識に止める「経済主義」と批判し、党内・党外の労働者大衆が、革命の意識(革命戦略)で共通に武装することを重視した。新左翼は、旧来のマルクス主義が、概して、正面切って扱うまでには行かなかった、これらの「意識性」の面、階級闘争論などに踏み込もうとした。また、ソ連評価をめぐっては、トロツキーの「無条件擁護」でもなく、「国家資本主義論」の全面清算でもない評価の可能性を探って行く。

5,新左翼のこの追求は、党派的実践としては60年代末闘争に破綻し、さらに、連合赤軍の同志殺しや、革共同戦争によって、新左翼理論は、新左翼外部の大衆や活動家のもならず、新左翼自身によっても忌避される傾向となった。しかし、70年代以後のおびただしい党派分裂は、新左翼理論(をめぐる立場など)が直接、間接の役割を果たしている。

 (一)先行する共産主義・社会主義とマルクス主義 

 封建社会うち破って登場した社会は、身分拘束などをとりはらい、自由、平等を実現するはずであった。しかし、実際は、所得格差が拡大して不労所得者が富貴を極め、生産者=労働者は労働強制と貧困の淵に立たされ、周期的恐慌が失業者をあふれさせた。社会主義・共産主義は、これらの社会的災厄、矛盾の根元が(または根元の大きい部分が)資本主義や私的所有制にあるととらえて、資本主義を改革し、あるいは廃絶することが人々の救済や解放ために必要と考えた。資本主義は、私的な生産の自由、自由競争を理念とし、「夜警国家」(国家の干渉を最小にすること)を理想とした。それに対して、社会主義・共産主義は、資本の運動や分配を社会的に規制したり、その全体や一部を国家や社会が没収することによって、資本主義の弊害除去や縮小をめざした。語義的には、社会主義は社会的規制の面、共産主義は生産手段を共有に移す所有面を指している。社会主義、共産主義の上述の性格は、異なる場合と重なる場合とがある(後述)。

 マルクス、エンゲルスが1948年の『共産党宣言』で提出した共産主義は、先行する社会主義・共産主義から多くのものを摂取し受け継いだ。しかし、マルクス、エンゲルスは、次の違いを主張する。先行する社会主義・共産主義は、社会システムの対案、社会改造プランの実現として資本主義の変革を考案した。そのため、それは、計画の優秀さによってすべての人の賛同を得られるはずであり、それが実現の手段であった。しかし、共産主義の条件、内容は、個人の頭脳で案出・考案されるものではなく、社会の発展条件の中に存在する。それは資本主義がつくりだした物質的条件の中にある。資本主義は、一方で、それ自身を再生産・防衛する要素とともに、他方で、その廃絶の要素も日々生み出し成長させている。この双方の要素は、ブルジョア階級とプロレタリア階級との階級対立・階級闘争に反映される。そのため、いきなり全人類を解放する社会計画によってではなく、この階級闘争を通じて、まずプロレタリア階級が自身を解放し、ついで人類全体の解放に進むことによって、共産主義への社会発展を実現できる。―――マルクス、エンゲルスは、このように、社会史発展の方向として共産主義を提起した(この共産主義を、以下、マルクス主義、またはマルクス主義的共産主義などと呼ぶ)。

 マルクス主義的共産主義のこうした特質を根拠に、エンゲルスは『空想から科学へ――社会主義の発展』で、次のような意味のことを述べた。以前の社会主義・共産主義は、考案されたものなので、考案者の数だけ党派・セクトがあり、改造プランとしての優秀性を競い合う党派抗争によって自分をすり減らしてゆくことになる。それに対して、実在の社会の中に共産主義への発展条件を求めるマルクス主義は、そのようなことはない………と。

 しかし、残念ながら、この予言は当たらなかった。マルクス主義は、1975〜76年を境に、『反デューリング論』(あるいはその一部を抜粋した『空想から科学へ』を通じて、欧州を中心とする共産主義・社会主義運動の主流派に成長する。しかし、その後、マルクス主義的共産主義運動は幾度も深刻な分裂を繰り返し、ことに日本では、マルクス主義を掲げる数十の党派を擁し、しかも、その相互が激しく抗争し続ける状況にまでなってきた。

 (二)ロシア革命―ソ連評価をめぐる共産主義運動の分岐

 分裂の大きい引き金となったのは、1917年ロシア革命と、その結果生まれた「最初の社会主義国家」ソ連の評価をめぐる対立である。ロシア革命以前にも国際的規模の大きい分裂があった。1914年〜の帝国主義世界戦争に際して、「祖国擁護」をめぐるカウツキーなど第二インターナショナル(後述)の主流派と、それに反対し「祖国の敗北」をかかげるロシアのボルシェビキ(レーニンなど)(後述)やドイツ社民の少数派ローザ・ルクセンブルグなどのツィンメルワルド左派との分裂である。この分裂で、後者は第二インターから離脱した。その中軸であったロシアのボルシェビキは、ロシア革命を勝利させ、共産主義インターナショナル(=第三インター、コミンテルン)(後述)を結成につながってゆく。

 これは、大きい分裂であったが、しかし、第二インター主流派は、その後、マルクス主義的共産主義運動の自己規定から離れ、社会民主主義(後述)へ移行したため、マルクス主義党派間の分立という性格はなくなった。しかし、ロシア革命後の分裂は、多くが、互いにマルクス主義を主張し、相互に争う性格を持ってきた。ロシア革命によるソ連の誕生は、世界の労働者に「働く者の祖国が現実として誕生した」という尋常ではない感激を与えたという。一方では、資本家の居なくなった「階級のない社会」、資本主義・帝国主義世界に対抗する「平和勢力の砦」という期待は後々まで継続する。しかし他方では、ソ連に進行する所得格差、巨大化する官僚特権や反対派抑圧、ソ連共産党―コミンテルンの国際革命運動への方針への疑問・批判も膨れ上がった。―――こうして、ソ連への肯定的立場と批判派との間で分裂が拡大する。

 ソ連共産党―コミンテルンという、いわゆる「正統派」共産主義運動に対して、反対派は、その指導者の名で「スターリン派」「スターリン主義」などと呼称した。ここでもこの用語を使用する。ただ、「スターリン派」は、自分たちを唯一の共産主義運動ととらえるので「スターリン派」とか「○○派」という自己規定は行わなわず、このように呼ばれることに対して「デマゴギー」などと激しく反発した。

 マルクス主義陣営での反対派のソ連評価は、理論上は二つの性格があり、一つは、ソ連の官僚主義を批判しながらも、労働者の国家として無条件に防衛しなければならないとするトロツキー派であり、もう一つは、ソ連は「社会主義」を名乗っているが、国有企業による資本主義(=国家資本主義)にすぎない、という「国家資本主義論」潮流である。運動の規模や影響力、知名度では前者が圧倒的に大きかった。

 この★後者★前者=トロツキー派形成過程については、共産主義★居運動史でなくとも、少し詳しい歴史解説などではそれなりに触れていることが多い。公約数的な解説をまとめると大体次のようになる。

 トロツキーは、敗北したものの17年革命の前哨戦になったロシアの05年革命で、ソビエト(=労農兵評議会)議長を務めた最も著名な革命家であった。その後、後進国での社会主義一段階革命論など「永続革命論」を唱えて、レーニンなどボルシェヴィキの「労働者農民の民主主義的独裁論」と対立する局面もあるが、17年2月革命後、ケレンスキーの臨時革命政府に対して、ボルシェヴィキ幹部の多くが支持に回った際に、帰国したレーニンとともに、臨時革命政府と対決する方針で(または「社会主義革命戦略」への転換で(◆))で一致し(レーニン「四月テーゼ」))、ボルシェヴィキに加盟する。トロツキーは、革命過程で、赤軍の軍事革命委員会議長をつとめ、レーニンと並ぶロシア革命の指導者として国内外で認知されていた。しかし、革命後間もない1924年にレーニンが死ぬと、スターリンは、トロツキーの追い落としにかかった。その際に、トロツキーが、革命前、ボルシェビキと対立するメンシェビキに一時期居たことが最大限利用された。レーニン、トロツキーともに、西欧革命なしには、ロシア一国だけでは社会主義は勝利できないという「世界革命」論者であったが(◆)、スターリンは、歴史偽造によってレーニンを「一国社会主義」論者に仕立て上げ、トロツキーとレーニンの「違い」を作りだし、レーニンの権威を最大限使ってトロツキーを追い落とした。歴史偽造は、トロツキーの経歴から赤軍議長などの経歴を消し去ることから、レーニンとともに写っている写真の偽造にまで及んでいる。ソ連共産党は、27年にトロツキーを除名し、29年には国外に追放した。30年代にはいると、トロツキストのレッテルによる粛清が大規模に進行する。追放されたトロツキーは、ソ連共産党と対立する別党建設に進むことに反対し続けるが、34年に、別党―別のインターナショナル建設(=第四インター)に踏み切った。トロツキーは、「永続革命論」をかかげるが、これは、先の「一国社会主義建設不可能論―世界革命」の主張と、「後進国二段階革命論批判―一段階革命論」を柱にしている。トロツキーは「過渡的綱領」をかかげて共産主義運動再建をめざす活動を行うが、40年に、スターリン派の刺客によってメキシコで暗殺される。―――こういった解説である。

 (注。「◆」をつけた部分は、通例の解説に対して、私が異論をもっている部分、または若干の疑問をもっている部分)

 実際に、スターリン派によるトロツキー派批判は、拙劣な歴史偽造を多用したもので、それは、スターリン派、すなわち共産主義運動「正統派」の理論内容のおそろしい低さと相即している。まともな政策論争、理論闘争を通じて勝利したとは到底見えない。そのため、もし、レーニンが24年に死ななければ、あるいは、トロツキーが党内闘争の稚拙さ、過度の妥協で敗北しなければ、ソ連やコミンテルンの官僚主義的な腐敗などなかったに違いない、という考えが長く左翼運動に残っていった。―――この捉え方が正しいのかどうか、どこまで正しいのかの検討は、後の課題にしなければならない。

 概していえば、世界各地で、トロツキー派は劣勢で後退した。トロツキー派には、長らく「歴史偽造伝説」のようなものがあった。トロツキー理論が受け入れられないのは、歴史偽造が浸透していて、人々がトロツキーを知らず、あるいはゆがめて捉えているからだという認識である。スターリン派が強力な時代や★スターリン派が支配力を持つ★運動では、反対派の中にこの空気が強かった。特に日本では強力で、80年代に入ってからでさえ、こうした理解を振りかざして、他の党派に「トロツキーを読んでみなさい」と説教し続けた党派が生まれている(中核派から分かれた「試練」派=ボルシェビキ派)。しかし、ロシア革命でレーニンに次ぐ指導者と言われたトロツキーは、ソ連共産党を追放されて以後も、フランスをはじめ欧州共産主義運動で、最も著名な革命家の一人であり、絶大な権威をもっていた。そのトロツキーやトロツキー派が、人民戦線を先験的に提起したはずのフランスや、大きい勢力をつくった中国、ベトナムなどで、スターリン派に勝利できず、後二者では多数派から消滅に近いまでになった事実を、単に、スターリン派の粛清や「歴史偽造」デマのせいにするだけで済むのかどうかは、考えなければならない重大問題である。

 トロツキー派は、スターリン派に対抗する旗主としての名声にもかかわらず、強力な国際反対派の形成には至らなかった。しかし、他方、スターリン派も矛盾を噴出した。スターリンが死んだ1953年から2年後、1955年のソ連20回党大会で「フルシチョフ秘密報告」が行われたが、その内容は、(反対派を別にすれば)世界の労働者にとっての輝かしい指導者、理論神であったはずのスターリンが、数千万人のおぞましい大粛清=大虐殺を繰り広げたと暴露するものであった。このいわゆる「スターリン批判」が世界に与えた衝撃も、ロシア革命の衝撃とともに、今、実感することはかなり難しい。翌56年には、ハンガリー、ポーランドで、ソ連派の政権に反対して決起した労働者を、ソ連軍の戦車が踏みにじり、同種の衝撃を世界に与えた。(この次の時代になるが、スターリン派は、「中ソ対立」を通じて、非和解的な大分裂に陥った)

 (三)トロツキー派の「不充分性」克服を意図した革共同、ブント――新左翼理論の形成
 (1)共産主義運動の誤謬・弱点は、スターリン時代以後だけのものなのか?

 こうしたスターリン派、トロツキー派の国際的党派闘争と、それぞれの弱点や矛盾噴出を一大背景に、1950年代後半の日本に、反コミンテルン系共産主義党派=新左翼党派が誕生する。スターリン派―日本共産党に批判を強めた活動家は、当然にも、それを批判し対抗してきたトロツキーやトロツキー派に着目し、日本のトロツキー派組織(=第四インター(日本支部))も誕生する。しかし、反日共系の多数は、そこに止まらなかった。

 トロツキー派は、スターリン派を批判したものの、組織的脆弱さが顕著で、強力な党組織建設を実現できず、スターリン派に敗北し続けた、という認識や、トロツキー派の政策・理論は、スターリン派との批判が不徹底という認識が強まった。トロツキー派の「労働者国家無条件擁護」論や、党建設にあたっての「社会党加入戦術」に対は、「プロ(=親)スターリニスト」(革共同)という端的な疑問、批判の対象になった。

 しかし、日本の新左翼の特質は、さらに次のところにある。トロツキー派は、基本的に、スターリン派主導の共産主義運動の問題を、“レーニン死後のスターリン派による歪曲”と認識する。すなわち、スターリン台頭以前の共産主義運動を、基本的に正しいものであったと評価する。あるいは、類似する点だが、トロツキーは、スターリン派の綱領(27年のコミンテルン綱領)について、原則領域を問題にする必要はない、時々の状況判断が問題、と強調し、スターリン派の基礎理論への点検・批判に進む姿勢はもたなかった。―――それに対して、日本の新左翼は、“問題はそれほど単純なのか”と疑問を呈する。すなわち、共産主義運動が、これほど、長期にわたり大規模な問題を噴出させているのは、単に、「スターリン以後の歪曲」だけが原因なのではなく、それ以前から、マルクス主義が問題・弱点をもってきたことを意味しているのではないのか、そうであれば、そこまで立ち返って、マルクス主義の思想的再構築を行う必要がある………こうした認識であった。
 (2)黒田寛一―革共同形成の問題意識(その一部)

 ここで出てくる評価が、マルクスとエンゲルスとは思想的に異質であったという認識である。初期マルクスは、『経済学・哲学草稿』での「四つの疎外」(後述)のように、「人間疎外」「人間」の問題をあつかっているが、後期エンゲルスは、『反デューリング論』などで、「経済決定論」(後述)を一面化し、唯物論(ゆいぶつろん)を「タダモノロン」に堕落させた。レーニンもそれを受け継いだ。こうした物質主義が、スターリン派の非人間的な大粛清、官僚主義的な党組織の哲学的基礎になっている―――これが、一つの論理の脈絡であった。後に革共同(革マル派)のイデオローグとなる黒田寛一は、こうした理解から、マルクス主義哲学の再構成を試み、認識論における「単純反映論批判」(後述)や「経済決定論批判」を軸とする、いわゆる「黒田主体性哲学」をつくりあげ、それに基づく党組織建設を提唱した。これは、レーニンからスターリンに引き継がれる党組織を、政治革命の遂行だけで結集する政治主義的な組織であると批判し、党組織は、政治の武器であると同時に、未来の解放社会を先取りする「将来社会の萌芽、共産主義社会の母体」でなければならず、組織員の共産主義的人間への自己変革、自己解放の場でなければならないと性格づけるものである。そして、トロツキー派の組織的脆弱さも、この視点からの批判対象となった。また、革共同は、トロツキーはスターリンに対して「理論で勝って政治・組織で負けた」と認識するが、そこから出てくる結論も、組織的結束を強化する独立した論理の導入であり、上述の、党組織を共同体的に結束させる論理と結びついた。
 (3)ブントの理論的特徴(その一部)

 問題を、“スターリンの歪曲”で解決済みとしない、という認識は、重点は違うが、ブント系も共通する。ブントは、当時、マルクス主義運動で自明の前提とされた階級闘争のあり方に注意を向けた。それは、資本主義の経済危機深化=労働者の生活悪化・資本主義への反発強化、労働者のゼネストを武器とする大衆行動での資本主義打倒、そのために職場・生産点での党細胞建設を基礎とする強力な党建設による準備という「経済危機→政治危機」「職場党細胞建設」「労働運動基盤」という共産主義運動の「常識」の再点検である。それまで漠然と二重写しされてきた問題である「プロレタリアートの階級闘争」と「労働運動」との関係について、ブントは、それをダブらせることがマルクス主義的理解なのかどうかに疑問を向けた。ブントは、レーニンの『なにをなすべきか』などを手引きに、上のような階級闘争観は、19世紀の「古典的資本主義時代」のもので、「経済主義」(後述)的な誤りであり、現在では適合しないと捉え、経済恐慌を前提としない階級闘争、政治闘争激発の条件や、職場党細胞を基礎とする「産別党」ではなく、政治闘争・革命への自覚を基礎とする「地区党」建設などを提唱する。そして、この見地から見ると、トロツキー派は、スターリン派に劣らない「経済主義」と認識され、ブントでは、トロツキー主義継承という課題はほとんど問題にならなくなった。

 ところで、スターリン派の官僚主義をめぐって、革共同の批判と対置(政治主義批判→「人間主義」対置)は、その評価はともかく、意図や構造は理解しやすい。それに対して、ブントでは、この辺が一見すると認識しにくく、また、ブント内でさえ、後にはその問題が後景化する傾向にあったが、しかし、上述の階級闘争観は、ある部面で、党組織の官僚主義・閉鎖性打開への志向と強く連関していた。それは、“革命の全体像(「革命戦略」「革命思想」等々)をめぐって、党員も、党外活動家大衆も共通の認識に武装する必要がある”という認識にかかわっている。これは、“党員(実際は党幹部)は革命意識で、党外大衆は民主主義意識で”という段階論を自明としてきたスターリン派や革共同と異質なところであった。ブントのこの思想は、極度の官僚主義にも、その根本的克服の萌芽も、双方の要素をもち、実際、双方の面が発揮された。この組織内外の段階論克服という問題意識は、構造改革派も、少し違う内容で追求した。この重要問題は、また別に検討しなければならない。

 ―――ブントの場合は、こうした認識に基づく実践的な運動展開に比重が置かれ、この観点によるマルクス主義の理論的な再構成作業に大きい比重が向けられたとは言えない。特に、ブントが、この点で残した問題は、ブントが批判する「経済主義」階級闘争観が、マルクス時代には正しかったが、いまでは誤りになったのか、それとも、「経済主義」階級闘争観はマルクスの時代にあっても誤りであったのか、この点について、マルクス、エンゲルスの理解はどうであったのか―――これらの評価を明快にせずに、漠然と混在させたままにしたことにある。しかし、ブントの思想と実践は、マルクス時代以来の階級闘争をめぐる考え方、実践に、重大な問題を(もしかすると、ブント自身が自覚していた以上の内容を)提出した。
 (4)新左翼思想形成の理論的一支柱――宇野経済学  「科学と党派性」「意識性」をめぐって

 そして、革共同やブントは、日本独特の反コミンテルン系「マルクス経済学」として成長した宇野経済学(後述)と結びついた点でも、マルクス主義再検討、特にエンゲルス、レーニン再検討の色彩を強めていた。宇野理論の問題意識は、「科学」と「党派的イデオロギー」の分離にあり、“スターリン派のように、党派的イデオロギーによって理論的客観性を犯してはならない”という問題意識に貫かれている。宇野は、マルクスの『資本論』自体が、この点にあいまいさを混在させたと批判し、『資本論』から歴史性を抜き取って「純化」する作業を行った。すなわち、『資本論』は、資本主義の歴史的崩壊を論述しているが、科学としての「マルクス経済学」が論証できることは、資本の運動が無限に繰り返されるかのごとく記述することだけで、その崩壊は、「革命政党の主体的な行動」に委ねられる、という論理である。宇野派は、こうした論理で、自らと革命運動との間に一線を引くのだが、しかし、この論理は、新左翼の党派的実践に着目された。

 先に、革共同の党組織観とブントの政治闘争観の、一見、かなり性格の違う二つの面を取り上げたが、実は、この二つは大きい共通性がある。それは、いわゆる「階級闘争の自然発生性への拝跪」(後述)への強烈な批判である。

 マルクス主義は、上述のように、多くの先行する共産主義・社会主義を踏まえて形成された。その先行する共産主義・社会主義は、意識的な社会プランの考案や実施として、すなわち、非常に「意識的な」ものであった。マルクス、エンゲルスは、それを、経済発展の必然性の産物と捉え直した。マルクスの主張などに、意識性の非常に強い提起があるのだが、しかし、マルクス主義を普及させた「マルクス主義の百科全書」と自称するエンゲルスの『反デューリング論』は、「哲学」「経済学」「社会主義」という項目になっていて、階級闘争、労働組合、党などの階級闘争をめぐる領域がない。これは、上述のマルクス主義形成期の傾向を(必ずしも積極的とは言えない性格で)反映したものである。その後、この領域を正面切ってあつかったのは、レーニンの『なにをなすべきか』であった。『なにをなすべきか』という長文の文献は、一読すればわかるように、決して整理されたわかりやすい文章ではない。それは、非常に鋭いところへの切り込みがあるが、未整理部分もあり、重大な論理矛盾もある。これだけでは、「意識性」をめぐる論議は整理されなかった。

 それ以前の階級闘争での「意識性」の理解は、資本主義の経済的危機深化に備えて、党や労組の組織をしっかり強化して準備してゆけばよいと言う程度のものであった。

 それに対して、新左翼は、ソ連共産党などスターリン主義党の「官僚主義的腐敗」に直面して、「意識性」の問題を、意識変革、政治意識、組織論など全域をめぐる問題として再構成する追求に踏み込んだ。その際に、革共同は「人間変革=意識変革」とそのための「将来社会の萌芽」としての組織形成の意識性に、ブントは、(反政府、反資本一般ではなく)革命戦略への意識性に、その重点を置いた。革共同は、“人間変革・組織形成なくして革命的実践はない”という論理に立ち、ブントは、“革命的実践が人間変革をもたらす”という論理にたった。より簡単には、“主体変革による対象変革”なのか“対象変革による主体変革”なのかをめぐる対立である。―――こうした問題は、スターリン派やトロツキー派では「どちらも」ということで漠然と済まされた。そして、新左翼破産後の70年代以後も、やはり、同様のところに戻っている。しかし、良くも悪しくも、こうした問題を突き詰めて考え、しかも、それを党派的実践に適用としたところに、日本の新左翼運動の特質がある。

 新左翼が一度踏み込んだこうした階級闘争観を念頭に置くことが、一見、そこからそれていった新左翼運動破産後の70年代以後の左翼党派を考える際にも重要である。

 (5)ソ連評価・トロツキーソ連論でもなく「国家資本主義論」でもなく ―――困難な隘路の追求

 新左翼のもう一つの特質は、もともと、ソ連「社会主義国家」の性格把握をめぐって、二つの代表的な反対派、トロツキー派と「国家資本主義論」とのどちらの見解にも立たなかったところにある。ソ連の党・国家を礼賛する勢力とともに、それに疑問をもつ左翼的な労働者・活動家も増大してゆくが、彼らの多くにとっては、トロツキー派、「国家資本主義論」ともに、実感にそぐわないところがあった。一方で、トロツキーの「労働者無条件擁護」論に代表されるソ連論の内容は、あまりに現状肯定に見えた。しかし他方で、ソ連(後に中国など)が、帝国主義・資本主義世界の攻撃を浴び、そのただ中で、民族解放革命などに多大な援助をおこなってさらに対立を激化させている状況にあって、ソ連、中国、キューバなどを「資本主義国家に過ぎない」と規定することも、あまりに清算主義的に実感された。

 しかし―――ここに根本問題があるのだが、多くの労働者、活動家が感じたはずのこうした実感に応えるマルクス主義的なソ連論を提出することは、実は、根本的な困難があった。それは、経済的社会構成または生産関係、生産様式についてのマルクス主義の見解にかかわっている。

 マルクス主義は、人類史を、生産力増大にともなって、それぞれの生産力段階に適合する生産関係が交替して行く過程と把握した。マルクスは、『経済学批判』の序言(いわゆる「唯物史観の公式」)の中で、資本主義までに、相継ぐアジア的(=原始共産制)、古代的、封建的、近代ブルジョア的な経済的社会構成があると述べている。この次に共産主義的な社会が加わる。経済的社会構成とは、経済的性格(生産関係、生産様式など)から区分される社会の形、といった程度の意味である。

 この理論を前提とすると、ロシア革命によって、ソ連が資本主義段階を脱しているならば、基本的には、その生産力を増大すれば、さらに、資本主義よりも高い生産力に適合する社会(共産主義)の基盤は強化されることになる。トロツキーはこのように捉えたので、その社会に、官僚主義という病巣が出来たとしても、その身体全体=社会全体は、共産主義への発展過程にあるのだから、それ自体は無条件に防衛しなければならない、と理解した。ソ連を、資本主義を脱し、次の社会段階に踏み込んだ社会と捉えるならば、この論理を打破することは難しい。

 他方、そのため、「国家資本主義論」は、ソ連を、未だ資本主義に過ぎず、従って、防衛の対象でもないと規定した。

 多くの左翼活動家にとって、この二者択一以外の道が実感として求められた。しかし、マルクス主義の経済的社会構成の交替説を前提とすると、ソ連は、基本的に発展的社会なのか(トロツキー)、基本的に資本主義段階でしかないのか(「国家資本主義論」)のどちらかになる。もともと、複雑な社会を、生産関係の性格で基本的な性格付けを与えたところに、マルクス主義の重要な理論内容があったはずである。ソ連の現実は、そのマルクス主義の無効や修正を迫っているのか、それとも、別の解釈があり得るのか………。

 革共同、ブントともに、マルクス主義に立脚しながらこの隘路の打開を追求した。革共同は、トロツキー派の「反帝国主義、労働者国家無条件擁護」のスローガンに対して「反帝国主義、反スターリン主義」を対置し、この立場をはっきり表明した。ブントは、ソ連、中国などを、資本主義世界の中にあり、資本主義と交易することで、資本主義的性格の不断の浸透を受けている社会であり、その打開=世界革命、もしくは主要国の革命なしには、共産主義への発展は保証されない、という評価を行い、「無条件防衛論」は退けた。

 ―――結論的には、両者の追求は成功していない。ブントの見解はあいまいさを残すところに止まり、革共同は、「ソ連論」を誇りにしていたものの、その革共同が、同じ時期に、ソ連に対して、「疎外された労働者国家」「本質は労働者国家ではなく官僚制国家(官僚主義国家?)」などと形容矛盾をもつ規定を行っているのである。

 しかし、今は、次のことだけを指摘しておきたい。それは、革共同、ブントが、トロツキーソ連論とも「国家資本主義論」とも異なる「社会主義国家」規定に踏み込もうとしたこと、その思想をもって党派的実践に進んだことである。それは成功には至らず破綻した。その反動(凄まじい反動)が70年代以後訪れた。革共同(革マル)は、ソ連の規定を「スターリニスト的政治経済体制」なる、そもそも規定といえるのかどうかわけのわからない「規定」に「深めた」。ブントの多くは、トロツキー派的でも、「国家資本主義論」的でもない規定追求の行く先として、毛沢東派の「ソ連=社会帝国主義論」に移行した。この理論は、ソ連に対しては「国家資本主義論」的な批判を適用し、中国に対してはトロツキー派的な(あるいはスターリン派的な)肯定評価を適用するという「振り分け」といえる。こうした不整合性は、新左翼がスターリン派に対して激しく非難してきたものであるが、ブントの多くは、「実践的要請」から、こうしたところに、自己を意識的に追い込んだ。そして、一方では、「国家資本主義論」のマル労同が台頭する。

 しかし、それ以上に、他方では、トロツキー派(第四インター(日本支部))や毛沢東派、社民左派からの党派(「人民の力」派)など、ソ連、中国などを、スターリン派、トロツキー派よりの肯定的理論で捉える潮流が再度台頭した。組織を温存した中核派、ブント(戦旗日向派)は、思想的位置では、トロツキー派的でもなく、「国家資本主義論」的でもないソ連論の立場にあるはずだが(どちらかに移行してはいないので)しかし、その内容はますます不明になっている。―――ただ、いずれにせよ、70年以後の、こうしたソ連、中国評価は、60年代の新左翼による「トロツキーソ連論でもなく、「国家資本主義論」ソ連論でもなく」という追求と、その破綻との関係で見るときに、その性格、内容の様々なバリエーションも理解しやすいものになる。

 (第一回レポート、以上)

◇ 図表などは第一回前におって提出するものがあるかも知れません。

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