党運動、議員活動の財源調達考
(企業・団体献金一律禁止是非考)

 (最新見直し2010.03.01日)

Re::れんだいこのカンテラ時評666 れんだいこ 2010/02/06
 【日共式企業、団体献金禁止論に疑義あり】

 日共が、政治資金工面法としての企業、団体献金禁止を声高にしているが、本当に有益な理論なのだろうか。一見正義派の主張のようで実は百害あって一利なしなのではなかろうか。かく問いかけたい。小沢キード事件の解析を通じて、情けないことにマスコミはむろん、野党に転落した自民党の野卑なマロ達が日共理論に引きずられていることが見えてきた。ついでに世話を焼いておこうと思う。

 日共理論のウソは数々ある。北方領土問題における千島列島返還論も右翼顔負けの圧巻であるが、公共事業抑制論も然り。何度も食いつかせては引っ込め又出す民主連合政府論も然り。ここでは、もう一つ小沢キード事件に関連したそもそもの観点の相違でしかない企業、団体献金禁止論を槍玉に挙げておく。

 れんだいこが体験するのに、個人献金ほど、つまり身銭を切るほどつらいことはない。一度ならまだ良い。二度三度と請われると、いい加減にして貰いたいと思う。それでいて、外向きにクリーンな政治家として売り出しているのは、少し違うのではないかと思っている。

 個人献金は良い。これを排除するものではない。しかし、個人献金には限界があり、これのみに頼るようでは碌な政治活動ができないのではなかろうか。それでも個人献金オンリーにするという法理は、結果的に政治活動を衰退せしめることになるのではなかろうか。資金を持たない議員は党中央に生殺与奪権を握られ、党中央に拝跪するしかできなくなる。企業、団体献金禁止論は一見キレイごとのようで、実は無責任冷酷な物言いなのではなかろうか。

 れんだいこが体験するのに、業界献金ほど出し易いものはない。大概の業界は、会員料と政治連盟費の二本立てで年度徴収している。このうち会員料は業界団体の経費に充て、政治連盟費は業界的政策の推進に充てる。業界的政策が悪いとみなすのは子供の言で、業界的政策は時の政府の政策に対する提言であったり、訂正であったり、反対の意思表示に使う。これを働きかけるのに最も有効な政党ないしは議員に政治献金し、ひいては政策の実現に期待することになる。これは真っ当な営為であり、これを否定するようでは市場経済の社会的経済活動そのものが成り立たない。

 問題は、業界の政治献金を受け取る政党が、今までのところ自民党オンリーになっていたことにある。最近になって民主党が登場し覚束ないながらも食指を伸ばしているが、これは臆することではなく堂々と受け取るべきではなかろうか。業界の会員は、政治連盟費の使途と効果に関心を持つ。個々の会員の意思としては自民党オンリーにする必要はないのだが、業界献金を堂々と受け取るのが自民党しかなく、他の諸党がキレイ潔癖病に侵されて受け取ろうとしないのだから仕方ない。そういう状況にある。

 業界献金ほど出し易く額も大きいと云うのに勿体ないことである。れんだいこに云わせれば、労働組合本部も業界別になつているのだから一種の業界と看做す。社会党は、数々の労働組合団体から政治献金を受け取る。これはこれで何ら問題ない。ついでに業界献金も貰えるところからは貰えば良いだけのことである。労働組合本部から貰うことは是だが、業界献金は非とする論法が理解できない。それをマジで云うのなら労働組合献金も禁止すれば良い。

 次に、個別企業献金、個別労働組合献金がある。これも業界献金と良く似ており、貰えるものは貰うが良いと思う。但し、特定権益の請負献金的な要素が強まるので、一企業、一労働組合当りの上限額を設定するが良かろう。問題は、こういう献金を堂々と認めた方がよいのではなかろうかというところにある。一企業、一労働組合が、特定権益の請託的なものではなく単純に政党、議員の総活動に対して支援する場合は、上限額設定の上で無条件に認められるようにするべきではなかろうか。

 れんだいこはそのように考えている。政治家がある程度の資産を形成したとして何ら悪くない。良い政治をしてくれれば国民的には却って良い。貧すれば鈍すとなるのが一番良くない。政治を売り言論を売る罠に嵌り易くなる。懐を裕かにすることで、目をかけた落選議員一統の面倒を見れるようになる。これと思うところへ寄付もできるようになる。そういう為の財産だと思えば良い。

 肝心なことは、受け取った方の政党、議員が、これを漏れなく収支報告することにある。当然支出した方も然りである。追って監査報告を受けることになり、ダメなものは翌年度は削られるだろう。政治資金規正法の元々の趣旨はそういうものであったのではなかろうか。収支報告は年次ごとに公開されるべきであり、これをチェックする機関が総務省内に設けられ、記載漏れ政治献金に目を光らせるべきである。不断に指摘され訂正されるべきである。この経緯を経てなお悪質な時、検察特捜部が登場したとしても、それは不偏不党的立場で徹底してやるべきであろう。

 この基準に照らす時、こたびの小沢キード事件、その昔のロッキード事件なぞ大騒ぎするほどのものではないと思う。付言すれば、ロッキード事件に於ける角栄の5億円授受説は冤罪であったと、れんだいこは思っている。ここではこれを問うところではないのではしょる。むしろ、検察が挑むのは、岸政権の日韓疑獄、児玉-中曽根の数々の悪事疑獄、中でもグラマン疑獄などは徹底捜査されるべきであっただろう。その後の例で云えば、リクルート事件、防衛省汚職事件、小泉政権時の数々の不祥事件、中でも郵政民営化疑獄なぞ徹底的に捜査のメスが入るべきであっただろう。

 ここまで書けば、東京地検特捜部の逆対応、それゆえの政治主義的国策捜査ぶりが露わになるであろう。東京地検特捜部は、法の番人としての正義の鉄拳を振るうが、その鉄槌が下されるのはいつも内地主義的利権政治家であり、公共事業利権絡みが狙い撃ちとなる。他方、外地主義的利権即ち軍事防衛費的利権政治家に網がかかることはない。原子力利権は、その導入過程から見ても外地主義的利権に列なっている。こちらの利権にメスが入ることはない。ここに、東京地検特捜部が解体再生されねばならない理由がある。

 もとへ。日共式企業、団体献金禁止論は一見正義なようで胡散臭いのではなかろうか。その理由は、政治実態、経済実態に即しておらず、余りにも机上のキレイごとに過ぎないから。聞くところによると、個人献金オンリーの日共の財政状態は悪く、本部職員、地区専従者への給与額は不当に低い。あるいは遅配しているとも云う。幹部辺りになると優先的に支給されているようだが、これが又臭い話ではなかろうか。本部職員、地区専従者優先、幹部後回しという作法もあると思う。

 一応以上のことを述べ、個人献金、業界献金、企業献金、組合献金いずれも可論、但し、適正な上限額を設け必ず収支報告せよ、収支漏れは罰せられるという風にしたいと思う。中でも税金簒奪の罪は重いとすべしであろう。このやり方には副産物がある。政党、議員の収支報告書を見れば、どういうところと関係が深いのか一目瞭然となる。選挙民は、それを見て支持したり後ずさりするようになる。この方が良いのではなかろうか。

 問題は、誰でも気づくこの在り方をさせないところにある。一方で自民党が企業、業界献金を受け取り、他方で政党交付金さえ受け取らない日共が居て、その他の政党がその真ん中に位置すると云う構図で、それぞれが自画自賛し合う。そういう馴れ合いの中で、せっかくの国会を意義のある質疑ではなく漫談の場にする欺瞞性にある。これを質すことこそが本当の意味での政治責任であり道義的責任なのではなかろうか。れんだいこはそう思う。小さな正義論、すり替え正義論は聞きとうない。

 2010.02.06日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評667 れんだいこ 2010/02/07
 【日本政界における「ガラパゴス化現象」考】

 最近流行りの政治的道義的責任論、企業・団体献金禁止論、公共事業抑制論等々はガラパゴス化現象であり、その理論なのではなかろうか。以下、これを確認したい。

 「ガラパゴス化現象」とは、直接的には、南米エクアドル沖の太平洋上に浮かぶガラパゴス諸島の孤島的進化を指す。それはそれで注目されるべきであろうが、社会学的な意味合いでは評価が変わり、ガラパゴス的進化のように世界標準からかけ離れたところで特殊的に進化し続ける現象を指す。世界標準からかけ離れることが一概に悪いとは云うことにはならないが、狭い視野に基づくタコ壺的営為を揶揄している面もあり、こうなると「井の中の蛙」から脱せよ的裏意味が込められていることになる。いずれにせよ特殊的進化がキーワードである。

 この「ガラパゴス化現象」略して「ガラパゴス」と云う寓意は様々な場面に使われている。「ウィキペディアのガラパゴス化」は、野村総合研究所の「『ガラパゴス化』」する日本」を参照して、パーソナルコンピュータ、携帯電話、デジタルオーディオプレーヤー、デジタルテレビ放送、コンピュータゲーム、カーナビゲーションシステム、IDカードの例に於ける「ガラパゴス」事例を解説している。

 れんだいこは、機械のメカニズムのことは分からないのだが、政治のことなら分かる。「ガラパゴス化現象」は政治の世界でも蔓延していると思う。冒頭の政治的道義的責任論、企業・団体献金禁止論、公共事業抑制論はいずれも日本型「ガラパゴス化現象」に他ならないと思う。それが証拠に、世界標準は日本ほど偏執的にそういう主張をしていない。なぜなら、過度の衛生思想は危険であると弁えているからだと思われる。人の社会的評価は本業のでき不できを問うべきだと心得ているからだと思われる。

 俗に「賢こバカ」と云う言葉がある。過度の衛生理論を唱える論者の大抵は「賢こバカ」なのではなかろうか。この「賢こバカ」が政財官学報司の国家権力中枢六機関を汚染しており、日本をどんどんガラパゴス化へ向かわしめているのではなかろうか。今一度、論の根拠、妥当性を吟味する必要があるのではなかろうか。

 中曽根―小泉式民営化論も然りである。目先の利益性のソロバンを弾き続けた結果、見るも無残に地方が疲弊し、これを再開発するとなると天文学的な再開発費を要することになる。原子力発電も然り。「目先の利益性のソロバン」論理そのものがガラパゴスだったのではなかろうか。今頃気づいても遅いのだが、気づかないとどうしようもないので、まずは気づくべきであろう。

 こうしてみると、今我々に必要なことは、一見正義の美名に隠れたガラパゴス性を見極め、良いものは良い、その中でも漸次改良、悪いものは悪い、その中でも漸次改良と判断して徒にブームの尻馬に乗らないことではなかろうか。「賢こバカ」が世の中を指導すると、世の中が変にギクシャクし始め小難しくなる。そうだ、強権対価式著作権論もこれに当てはまろう。あれをこのまま定向進化させ続けると、終いには著作権士を抱えないとものが言えなくなってしまう。

 我々には、こういう「ガラパゴス化現象」に毅然と立ち向かう新たな知性が要るのではなかろうか。満場一致や一枚岩や抵抗勢力なぞ云い始めたら、臭いと思う習慣を身につけるべきではなかろうか。小沢や朝青竜を止めさせたら世の中が良くなると思っている者は相当にガラパゴス化していることを悟り、勘違い矯正薬を服用すべきだろうふふふ。

 2010.02.07日 れんだいこ拝

【「ガラパゴス現象」とは】
 最近、「ガラパゴス現象」云々と云われるが、その意味は次のように説明されている。「時代を読む新語辞典・ガラパゴス現象」を転載する。

 最近、情報通信系メディアで、「ガラパゴス現象」との表現が頻出している。日本企業の技術やサービスが、日本市場の中だけで高度に発展してしまう様子を言う。その間、世界市場では標準的な技術やサービスが普及。日本企業の技術やサービスが特殊化する。その結果、日本企業の海外進出が難しくなるばかりか、日本市場の危機も招いてしまうというのだ。

 話の前提として、ガラパゴス諸島について振り返りたい。ガラパゴス諸島とは、南米エクアドル沖の太平洋上に浮かぶ群島のこと。大陸と離れた環境なので、ここには独自の進化を遂げた生物(固有種)が数多く存在する。例えばガラパゴスゾウガメやウミイグアナなどは、この地域にしか存在しない。

 ところがこのような固有種は、外界と接触することで危機にさらされる場合がある。実際ガラパゴス諸島でも、人間の流入が原因で固有種の絶滅危機が起こった。例えばガラパゴスゾウガメは、18〜19世紀の乱獲(捕鯨船の食糧確保)などが原因で個体数が激減している。

 絶滅危機への過程は次のように説明できる。まず内界では「特殊進化」が起こる。だがその間、外界では「一般進化」も起こる。そしてある時期に内界と外界が接触。内界の生物は外界に適応できないため、絶滅の「危機」に瀕する。外界の生物の方が数も多く、生存競争に強いからだ。これをまとめると「特殊進化」と「一般進化」のぶつかり合いが「危機」を生む構図となる。

 実はこれと全く同じ構図が、日本の情報通信産業に当てはまる。日本国内で技術やサービスの「特殊進化」が起こる一方で、世界では「一般進化」が起こっているという構図だ。その結果、日本企業は世界市場に進出できないばかりか、日本市場を失いかねない「危機」にも直面する。

 その最たる事例は、携帯電話の市場だろう。

 日本の携帯電話は黎明期から「特殊進化」の道を歩んだ。まず第1世代(アナログ方式)ではHiCAPと呼ばれる独自仕様を採用。第2世代(以後デジタル方式)でもPDCと呼ばれる仕様を採用して、国際標準化を図ったがかなわなかった。そこで2000年代に入ってからは、各社が第3世代で国際標準(W-CDMAなど)を採用した。ところが現状、この国際標準は新しすぎるため、世界での普及率が低い状態にある。

 もっとも日本市場の特殊性は、キャリア(携帯電話事業者)やメーカーにとって深刻な問題ではなかった。日本市場に発展の余地があったからだ。事実、今から約10年前の1998年4月時点で、携帯電話の契約数は約3200万台に過ぎなかった。その後、カメラ、音楽再生、電子マネー、ワンセグなどの独自機能が続々と登場。2008年4月の契約件数は約1億300万台に至っている(電気通信事業者協会調べ)。

ところが世界市場では別の状況が進んでいた。まず世界の多くの地域では、現在でも第2世代の規格であるGSMが一般的である。また端末も、過剰な機能を持たないものが多い。しかもSIMと呼ばれるカードさえ持っていれば、異なるメーカーの端末を自由に取り替えることもできる。日本ではこの使用方法が許されていない。

 この状況が、国内企業にとって徐々に「危機」となりはじめている。世界市場での競争力が育たないばかりか、何らかのきっかけで日本市場を失う可能性すら秘めているからだ。

 日本企業が競争力を持てない様子は、世界市場のシェアを見れば分かる。例えば2007年における出荷台数シェアは、1位のノキア(フィンランド)が38.8%、2位のサムスン(韓国)が14.3%、3位のモトローラ(米国)が14.1%となっている(ストラテジー・アナリスティック調べ)。上位3社の中に、日本企業の名前はない。

 いっぽう、日本市場も安泰とは言い切れない。仮に(是非はともかく)日本市場を海外企業から保護できた場合でも、中長期的には少子高齢化で市場規模が縮小してしまう。また新しいビジネスモデルが流入した場合、そのモデルで戦う海外企業が日本市場のルールを塗り替える可能性もある。いわば「黒船」の到来だ。

 例えばアップルの携帯電話「iPhone」は「黒船」となりうる製品の1つだろう。ご存じの通りiPhoneとは、タッチパネルを介した直感的な操作性などで人気を得ているスマートフォン。去る6月4日には、ソフトバンクが「今年中に日本で販売開始する」とも発表した。

 iPhoneが「黒船」になりうる理由はいくつかある。まずこの製品が、メーカー主導で開発・販売された(される)という点だ。これはキャリア主導の日本的ビジネスモデルと異なる。またこの製品は、プラットホームとしての潜在的可能性も大きい。つまりパソコンやゲーム機のように、サードパーティー製のソフトやコンテンツが数多く流通する可能性がある。これらが一定の成果を収めた場合、携帯市場の枠組みが激変する可能性すらある。

 情報通信産業には、この種のガラパゴス現象がいくつか存在する。例えばカーナビ市場も、最近ガラパゴス化が指摘されている。まずこの市場で圧倒的に先行する日本では、カーステレオと一体化した高機能製品が一般化した。ところが、近年欧州ではPND(personal navigation device)と呼ばれる着脱可能な小型ナビの市場が急拡大しているというのだ。このほか非接触ICカード、デジタル放送などの分野でも、似た状況が起こっている。

 すでに結末をみた例を挙げよう。パソコンの歴史に詳しい人なら「PC-9800シリーズ」を覚えていることだろう。Windowsが席捲する前、NECが販売していた独自規格パソコンのことだ。このシリーズ製品の盛衰が、ガラパゴス現象の行く末を暗示している。

 経緯はこんな感じだ。同シリーズは1982年に登場して以来、圧倒的なソフト資産を武器に寡占的地位を占めた。漢字データをハード上に搭載したため、海外のパソコンに比べて日本語が扱いやすかった。ところが世界では別の進化が起こっていた。80年代の中頃にIBM互換機(現在のパソコンもこの延長線上にある)が普及したのだ。90年代に入るとIBM互換機がソフトによる日本語表示を実現。これにより安価で高性能なIBM互換機が一気に日本市場に流れ込んだ。その結果PC-9800シリーズは、97年に独自規格品の開発を停止するに至った。

 現在国内のパソコン市場で、NECは主要企業の1社という位置付けだ。2007年の販売シェアはNECが20.3%、富士通が18.7%、デル(米国)が14.0%となっている(IDCジャパン調べ)。その一方、世界市場ではHP(米国)が18.8%、デルが14.9%、エイサー(台湾)が7.9%で、日本企業の存在感は薄い(IDC調べ)。ちなみに世界シェア5位の東芝は、80年代の中頃からIBM互換のラップトップを製造していた。

 日本市場の高度なニーズは、情報通信産業が技術力を高めるための修練の場を与えてくれる。だがそれと同時に、世界市場との乖離を生みやすい場にもなる。日本企業は、今後、日本市場と世界市場との間を「橋渡し」できる開発姿勢を学ぶべきなのかも知れない。

 もり・ひろし

 新語ウォッチャー。1968年、鳥取県出身。電気通信大学を卒業後、CSK総合研究所で商品企画などを担当。1998年からフリーライターに。現在は新語・流行語を専門とした執筆活動を展開中。辞書サイト・新聞・メルマガなどで、新語を紹介する記事を執筆している。NPO法人ユナイテッド・フィーチャー・プレス(ufp)理事。


Re::れんだいこのカンテラ時評678 れんだいこ 2010/03/01
 【党運動、議員活動の財源調達考 (企業・団体献金一律禁止是非考)】

 企業・団体献金一律禁止論は本当に正解なのだろうか。れんだいこには解せないので執拗に問うことにする。既にカンテラ時評666「日共式企業、団体献金禁止論に疑義あり」、れんだいこのカンテラ時評667「日本政界における「ガラパゴス化現象」考」で持論を述べたが、その後の政界-マスコミの議論は相変わらずの「キレイ潔癖主義」観点からの企業・団体献金一律禁止論談議に耽っているように思われる。敢えてもう一度ぶって諸賢の判断を仰ぐことにする。同じ論調では意味がないので、少々切り口を変える。課題名を「党運動、議員活動の財源調達考 (企業・団体献金一律禁止是非考)」とする。 

 世に井戸塀政治家論というものがある。政治家の伝統的な在り方として、国事に奔走した挙句、私財を売り尽くし井戸と塀だけ残った云々という政治家評であろう。政治に賭ける情熱、政治家稼業の悲哀、それに対する揶揄を複合的に語っているように思われる。この対極に利権政治家論というものがある。政治を私物化し、己の私腹を肥やす為に政治家稼業を務める者に対する評であるように思われる。

 こういう論は分かり易いが子供騙しの論でしかない。問題は次のことにある。実際には井戸塀政治家でもなく利権政治家でもない、その中間項的政治家ばかりが存在する。絵画の明度論で云えば、井戸塀政治家を白、利権政治家を黒とすれば、その間に無限のグレーゾーンがあるのに似ている。これをリアリズムに於いてどう認めるのか否定するのかが問われているのではなかろうか。

 現代の政治家論は、この観点をすっぽり欠如させたまま企業・団体献金一律禁止論に靡いているように見受けられる。だがしかし、それは愚昧な論ではなかろうか。政治には財力も必要と見抜き、彼及びそのグループが何の為に資産形成を図っているのか、それは容認できる範囲なのか限度を超えているのか、それは族議員型か自己調達型か、彼らが何を廻って権力闘争を担っているのか、その為に財力をどう投入しているのか等々を問い、この視点から政治家を論ずる政治評が必要なのではなかろうか。

 学者の議論というものは往々にして、こういう真剣の政治論、政治家評を避ける傾向が認められる。その代わりに公式的図式的漫画的な井戸塀政治家論、利権私腹政治家論を作り出し、そういう論議にうつつを抜かす習性がある。学者バカと云われるのはその為であろう。政治学者が政治家になり経済学者が経営者になっても、うまく行かないのは所詮、学者的頭脳でしかないからであろう。我々がそういう論を幾ら学んでも役に立たない。否学べば学ぶほど現実遊離し、その分バカになる。学者バカの論を受け売りすると我々も感染する。ネット空間に現れる論にはそういう論者のものが多い。

 以上を踏まえて次のように弁じたい。現代政治家論の特徴として、政治家を品定めするのに彼が手がける政治の質を問うのではなく、つまり本業の善し悪し、出来栄えを問うではなく、その付随事象でしかない資産形成の面で一刀両断する傾向が強い。最近この傾向がとみに強まりつつある気がしてならない。今流行りの企業・団体献金一律禁止論は、この系譜のものであると考えられる。しかし、角を矯めて牛を殺すという論がある。企業・団体献金一律禁止論は、この愚を犯す恐れはないのだろうか。れんだいこは、企業・団体献金一律禁止論に与する輩を一流ではなく二流でもなく三流ないしはそれ以下と見立てている。日共は不治の病に侵されているから論外として、鳩山政権を支える諸党がこの悪夢から早く目覚めることを期待する。自らの首を絞めて正義ぶり恍惚することなかれ。

 日共式の企業・団体献金一律禁止論によれば、政治家は私財を求めぬほど上質とされることになる。この基準は、政治家を評する際の一つの目安でしかないのに、この基準を金棒のように振り回し、有能政治家が真剣政治を執り行う過程での資金調達の非を論い、訴追運動に乗り出す。しかも、その刃がタカ派系に向かうことは稀で、ハト派系政治家の失脚に向けて精を出す。これでは良い政治家、有能政治家、運動体が育たないのは自明ではなかろうか。そう分別すべきではなかろうか。

 それが証拠に日共議員を見よ。なるほど彼らは清貧の士かも知れない。その代わり彼は常に党中央のロボットでしかない。同じ党内でさえ、横の党員同志の政治議論は牽制されている。いわゆる分派禁止論によってである。そういう按配だから日共議員は皆ヒラメの目式にいつも上目遣いしている。公認権も含め、党中央に生殺与奪を握られているからこうなる。それは悪見本でしかなかろう。

 ごく普通に考えれば分かりそうなものだが、政治活動には際限がない。その際限のない政治活動に伴うのは財務である。ここが自立してこそ、彼の政治は誰憚(はばか)ることなく思うところの信念に基づく政治に勤しめることになる。先の郵政造反騒動を見よ。この辺りがしっかりしている造反派だけが生き残った。落選組は陰に陽に彼に世話になった。角栄を見よ。彼ほど財界からの支援を嫌った幹事長-首相はいない。カネも出すが口も出す紐付き政治を嫌ったからである。その代わり彼は刎頚の友・小佐野辺りから用立てていた。しかしながら小佐野に格別大騒ぎせねばならぬほどの利権をもたらした形跡はない。小佐野の経営環境を側面から援助したことぐらいはあったであろう。これが実相である。こう考えれば、どちらを良しとすべきだろうか。れんだいこの結論は申すまでもない。

 現在の議員収入は、給与、党からの支給費、派閥費、政党助成金、パーテイ収入、法人寄付金、個人寄付金から成る。これを有りのままに公開させればよいのではなかろうか。このうち、企業・団体からの寄付金を締めだすとすれば、政治活動は大きく制約されることになるのではなかろうか。議員収入が個人寄付金で成り立つのは理想かもしれない。しかし、理想は理想でしかない。第一今後、個人の懐はますます汲々することが予想されており、ない袖は振れないということになるのではなかろうか。この時勢下で、にも拘わらず個人献金に依拠せよなる論を説く者は愚昧と云うべきではなかろうか。

 手っ取り早いのが企業・団体からの寄付金である。れんだいこは、それで良いのではないかと思っている。個人では出せなくても企業・団体からは出し易い。出す方も決算書に記載することが義務づけられており、監査報告もせねばならず、而して決してムヤミヤタラに出せるものでもない。肝心なことは、政治家の政治資金収支報告書に明記させることであろう。それを見れば、或る政治家の金筋が分かるのだから、却って正体が見えて良いのではなかろうか。

 良くないのは隠すことである。隠さねばならないような賄賂型政治資金を受け取ることである。これが政治を悪くする。これが発覚すれば厳罰に処せられても止むを得ないとすべきではなかろうか。この論で云えば、政治資金不記載が一番悪い。次に故人政治資金記載が悪い。これは姑息な方法であり政治資金規正法の趣意違反であろう。次に悪いのが政治資金不正確記載であろう。これは修正申告で正確を期すべきてあろう。これが犯罪要件を廻る正しい罰則順序であろう。

 れんだいこは、かく考えるのだが、「弁護士阪口徳雄の自由発言」の2010.2.27日付けブログ「企業・団体献金一律禁止に反対する抵抗勢力は亡霊学者や民主党の中にもいた(政治とカネ202)」は逆から批判している。「裏のカネであれば、刑法の賄賂罪や政治資金規正法違反で逮捕されるのに、表のカネであれば許されるなどいうゴマカシ論法をどう説明できるのか」と主張している。れんだいこ的には、この御仁の論は狂っているとしか云いようがない。そもそも彼の頭脳に於いて「裏のカネ」と「表の金」をどう仕切っているのか不明であるが、どちらも記載させれば良いだけの話ではなかろうか。記載しない「裏のカネ」こそ最も罪悪視して摘発することこそ本筋とすべきではなかろうか。記載してもなおイケナイとする論は却って「裏のカネ」を生むことになりはすまいか。従って、「基本的には個人献金が定着するまでは、国費で賄うというスタンスで解決すべきである」などは、妄言の類でしかない。国庫財源の乏しい中、碌な仕事もしない議員に更なる国庫支出を賄う必要は一切ない。

 そもそも政治とは利害関係の異なる集団、階層、階級間の何らかの支配被支配的な合理的な取り決めを秩序とするものであり、これを体制と云う。この体制を廻る凄まじい闘争が政治の根幹であり要諦なのではなかろうか。そこには政治を担う者達の最高パフォーマンスが要求されている。このパフォーマンスには金力が不可避の要件である。俗に云う、カネがないのは首がないのと同じであり、これが欠如すると首が回らないと云う。これは個人でも組織でも同じである。金力を疎かに語る者の論を書生論ないしは駄弁と云う。

 企業・団体献金一律禁止論は、この系譜にある論ではなかろうか。この論の背景には、れんだいこが鑑定するところ、江戸時代の士農工商的意識が介在しているように見える。彼らは、官尊民卑的立場からカネが纏わる商行為を蔑(さげす)み、断固取り締まるべし論に傾く傾向が見られる。その癖、手前たちの給料が天から降ってくるのを当たり前としており、どこから工面されるのか知ろうともしない。何のことはない、彼らが蔑む農工商から生み出される税金に依拠しているというのに、その税金支払いが如何に過酷な状態の中から徴収されているのか知ろうともしない。彼らには有り難うと云う観念が乏しい。

 現代政治論には、この平明な理が疎かにされている。ということは即ち現代政治が相当に下等なものとなっており、何ら本当の意味での政治闘争をしていないことを意味する。キレイごとでお茶を濁し、上澄みを撫でるだけの政治に堕していることを意味する。してみれば、企業・団体献金一律禁止論は彼らにお似合いの論と云うべきかも知れぬ。付言しておけば、こういう論を唱える者が本当にキレイ潔癖であるのかは全く別問題で、却ってイカガワシイ手合いが多い。

 このことは次の視点から見ればもっと説得的である。現代世界を牛耳る国際金融資本勢力は、或る意味で政治の何たるかを熟知している。政治は究極のところ人が担い、相当の資金を要することを踏まえている。だから彼らは政治資金をふんだんに使う。その癖、靡かない勢力の者たちにはカネの問題で失脚を図ろうとする。お銚子者がそのお先棒を担ぐ。彼らの狡知術に乗ってはならない。

 これを敵味方論で云えば、敵がそのように物量作戦で政治に容喙している時、偽善者達の言によれば、こちらの方は素手の徒手空拳で勝負を挑まねばならないことになる。しかしながら、そういう論理論法は無茶苦茶と云うべきではなかろうか。相手は二本足、こちらは片足で相撲を取らさせられる愚に似ている。これでは勝負にならないではないか。そういう意味で、キレイ潔癖ごと政治論は敵方による意図的故意の説教理論、撹乱理論である可能性が強い。これを踏まえずにキレイ潔癖ごと政治論に同調する向きの者が多過ぎる。れんだいこは危険と理解する。

 田中良紹(たなか・よしつぐ)の国会探検」の2010.2.26日付けブログ「『政治とカネ』で沈む日本」は次のように述べている。「星亨や原敬の例に見られるように、この国は明治以来、力のある政治家を『金権政治家』として排除してきた歴史を持つが、戦後もそれが繰り返されている」、「『政治とカネ』の問題は民主主義政治にとってそれほどに重大な問題なのか。騒ぐのは民主主義が成熟していないことの証明である。しかも検察が摘発した『政治とカネ』はほとんどが『でっち上げ』なのである。それに振り回されて国益に関わる重要課題に目を瞑ってきた日本が沈み込んでいくのは当然の話である」。

 こちらの論の方がよほど正確を射ているように思える。企業・団体献金一律禁止論を奇果として本当の政治論確立の絶好機会とすべきではなかろうか。こういう本音を問うところから政治が始まるべきではなかろうか。世の実相から離れた駄弁論議はつまらなさ過ぎよう。

 2010.3.1日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評679 れんだいこ 2010/03/04
 【「政治とカネ問題付録」】

 2010.3.3日、れんだいこは期するところあって二時間ほど遠出の神社詣でをした。車中、国会討論を聞いていた。相変わらず「政治とカネ問題」で、自民党が鳩山と小沢叩きに興じていた。れんだいこ的にはもううんざりだ。隣の妙令の御婦人曰く、喧しいから音楽にしてと云うのを、もう少しもう少しと云いながら聞いていた。

 そこで思った。この程度のやり取りをさせる為に、我々は高い税金払って政治家を養っているのだろうか。国会質疑では、政府の政策や方針を廻って喧々諤々の議論をさせるべきではなかろうか。肝心のこっちの方が疎かで、下世話な話ばかりに耽っている。或る時は興信所まがいのお尋ねあり、或る時はお代官的お白州裁きの感あり。まさに検察との両輪で狙った獲物は逃さずの感あり。当人は至って真面目に興奮しており、れんだいこは空いた口を押えるのに苦労する。云わして貰おう。いっそのこと議員なんか要らない。官僚と業界の労使双方の委員で会を構成し、議論を練り合わせした方がよほど合理的ではなかろうか。

 我々は、議員経費に一体幾ら費やしているのだろう。秘書、地方議会議員まで含めると天文学的な金額になるのではなかろうか。それに選挙費用も嵩む。恐らく毎年数兆円になるだろう。或いは消費税以上かも知れぬ。いっそのこと、国債過重債務問題が見通しつくまで議員職を廃止凍結したらどうだろう。とか考えながら聞いていた。

 しかし、これは現実的でない。実際的なのは、議員身分、選挙、政治資金に絡む諸問題の専門委員会を国会とは別に外郭の委員会を設けて、そこで四六時中議論させたらどうだろう。そこで全議員の政治資金収支報告書を吟味する。悪質なのは委員会が告発するようにする。狙いは、国会を基本的に政策質疑する場と位置づけたいからである。その昔、れんだいこが小、中、高、大の頃、自民党が云えばなるほど、社会党が云えばなるほど、民社党が、公明党が、共産党が云えばなるほどと云うような熱い政策議論が行われていた気がする。あれで良かったのではなかろうか。それを思えば、現在の質疑はお粗末過ぎよう。誰か、そう思わないだろうか。「政治とカネ問題」で、国会を空転させるほど冗費はないのではなかろうか。

 もう一つ云い添えておく。「政治とカネ問題」は、突如天から降ってきたのではない。明らかに狙いがあって政治主義的に登場しているのではなかろうか。それは一つには小沢潰しであろう。かっての政権与党自公グループから見て、最も煙たい手ごわい相手が小沢であり、彼さえ居なくなりゃ後はどうでも御するとして鳴り物入りの小沢パッシングが始まったと思われる。せめて参院選までに引きずりおろしたいのだろう。あの手この手で仕掛けてきそうだ。今は第一ラウンドが終わったところだ。

 「政治とカネ問題」登場にはもう一つ理由がありそうだ。それは、民主連合政権の党是的公約である官僚機構再編、天下り規制パッシングに対して、ならばとして繰り出されているのが「政治とカネ問題」による政治家パッシングではなかろうか。ということはつまり、「政治とカネ問題」は、官僚側の狡知的な抵抗策として政治家のアキレスけん狙いで持ちこまれている騒動なのではなかろうか。政治家対官僚は相互に、「官僚機構再編、天下り規制」と「政治とカネ問題」を綱引きしているのではなかろうか。こう捉えることでなるほどの合点が行く。この辺りを見ずに、「政治とカネ問題」で口角泡を飛ばす正義仮面が登場するとしたら、おめでたい奴と云うべきであろう。

 もっと云えば、実は、「官僚機構再編、天下り規制」、「政治とカネ問題」を廻って、内治派の政治家-官僚-マスコミ-シンクタンク連合と、外治派のそれらが相争っている面もある。こちらが本筋なのだが、これについての言及は別の機会に譲ることにする。ともあれ、国会を充実させよ、政策を争う場にせよ。「政治とカネ問題質疑」は別委員会でやれと提案しておく。

 2010.03.04日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評703 れんだいこ 2010/04/06
 【植草氏の企業献金全面禁止論についてもの申す】

 
植草一秀の『知られざる真実』の2010.4.5日付けブログは、「企業献金全面禁止反対の政党は金権党である」と題して、企業献金禁止論に言及している。れんだいこは、植草氏の論考には日頃学ばせていただくこと頻りなのだが、こたびの論には首肯し難いのでコメントしておく。
 (ttp://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-fad5.html)

 植草氏は、戦後政治を主導してきた自民党の政治手法が「官僚、大資本、米国」に依存し、マスメディアをも含む利権複合体を形成してきたと分析している。この仕組みを「政官業外電の悪徳ペンタゴン」と呼んでいる。ここまでは良い。その上で「企業献金諸悪の根源論」を唱えている。ここがオカシイ。

 ペンタゴン批判と「企業献金諸悪の根源論」は必ずしも一致しない。「企業献金諸悪の根源論」は一見尤もな指摘のようだが同調し難い。政治資金の実際には企業献金、業界献金、団体献金が考えられる。植草氏が企業献金だけを批判しているのか、企業献金、業界献金、団体献金を纏めて企業献金として一括して批判しているのかはっきりしないが、どちらにしてもこの種の論は臭い。

 なぜなら、幾ら企業、業界、団体献金を禁止しても政治にカネがかかる現実までは変えられまい。だとすれば、問題はあくまでカネがかかる政治構造の方にあり、それを踏まえてどう調達しどう政治するのかが問われているのではあるまいか。どうしても企業、業界、団体献金を禁止するのなら、その代わりの政治資金調達対案を出さない限り意味を為さないのではなかろうか。

 植草氏のこたびのブログは、その対案を出さぬ代わりに「みんなの党批判」にすり替えているように見える。「みんなの党批判」はこの脈絡ですべきではないのではなかろうか。れんだいこには、そこが解せない。論旨が直続しないのだ。植草氏は実践的な対案を出さないまま、「政治の刷新にとって、何よりも重要なことは、大資本=企業のための政治を打破し、一般市民=主権者国民のための政治を実現することである」と述べている。これは日共式のキレイ潔癖型衛生論に過ぎない。衛生論というものは概して一見正当なようで、本質的に反動的な害悪理論である場合が多い。これについては後で述べる。

 植草氏は次のように述べている。「企業献金を全面禁止して政治を一般市民のためのものに純化することは、社会主義化を意味しない。日本国憲法の参政権の規定を純粋に解釈するなら、本来、企業献金は成人一人一票の参政権の基礎を歪めるものであり、認められるべきものでないのだ。企業献金を認めないと金持ちしか政治家になれないとの反論があるが、企業献金を全面禁止したうえで、お金持ちでなくても政治家になれる道筋を確保するための制度を検討して導入すればよいだけのことだ」。

 この論調は少々歯切れが悪い。もっと歯に衣を着せずに云うべきだ。企業団体献金を禁止するとならば、残るのは市民一人一人の政治献金しかない。政治は市民一人一人の政治献金によってのみ担われるべきだと主張すれば良い。しかし、自由自律なアトム的市民を想定しての政治論は机上の空論に過ぎない。植草氏が一党一派を立ち上げれば直ぐに分かる話だが、「市民一人一人の政治献金」によって政治活動費が賄われるのかどうか。消費税反対を叫ぶ連中が消費税以上の政治カンパを要求される仕組みの愚劣さを思いやってみれば良い。

 こういう場合、政治家ないしは政治活動を他人ごとにせず、もし自分が担うことになった場合を想定して考えれば良い。先立つものはやはりカネなのだ。自分は評論活動に徹しており政治活動を担わないので知ったことではないというのでは無責任の誹(そし)りをうけよう。政治言論は実際に有効に機能するものでなくては意味を為さない。植草氏が企業団体献金禁止論を声高にする以上、「お金持ちでなくても政治家になれる道筋を確保するための確かな制度」を具体的に提起せねばなるまい。

 植草氏は次のように述べている。「『政治とカネ』の問題が取り上げられ続けてきたが、この問題の根幹に、大企業と政治の癒着、『カネのために政治家になる政治屋』の存在があることを忘れてならない。『脱官僚』以上に、『政治と資本の癒着』、『金権政治家の根絶』が大切なのである。『企業献金全面禁止』に反対する国会議員はすべて、程度の差はあるにせよ『金権政治家』であると見て間違いない」。

 この論調で行くと、田中角栄の場合にはどうなるのだろう。日共と同じように諸悪の元凶論で批判するのだろうか。れんだいこの知るところ、角栄は、紐付きの財界からの政治献金を極力避けた。代わりに調達したのが自前調達の資金であり、刎頚の友・小佐野から借りる場合もあった。あるいは角栄が公共事業振興派であったことにより自ずと潤った業界、企業からの政治資金が集まった。あるいは旧財閥系に対抗する形で勃興しつつあった新興勢力からの政治資金が集まった。それらは強制でも受注見返りでもなかった。角栄を研究して判明することは、角栄政治を支持するいわば企業、業界、団体の自主的な政治カンパであった。ここがボンクラ政治家のそれと一味もふた味も違うところである。角栄は、この資金を潤沢にするシステムを作り上げることにより後顧の憂いなく信念に基づく政治を展開した。先ほど亡くなった佐藤昭が金庫番を務めていた越山会が取り仕切っていたのだが、れんだいこには角栄の政治活動総体が議会制民主主義下の政治家の鑑のように思える。

 こういう場合、その政治資金調達方法だけを採り上げて、企業、業界、団体献金を受けているから政治家失格として、金権政治家のレッテルを貼って批判轟々するべきであろうか。植草氏がイエスと云うのなら、れんだいこの認識と根本的に交わらない。れんだいこは、政治にカネがかかる現実の下で、自己の信ずる政治を貫徹する為に必要な資金を調達する政治家は、そのことだけで批判されるべきではなく、要は彼が資金を手元にどういう政治を執り行ったのかで総合的に評価されるべきだと考える。外国勢力、財界からの紐つき政治資金と自前調達型のそれとは質的に区別されるべきだと考える。

 従って、次のような結論にはならない。「この意味で、『みんなの党』が一般市民=主権者国民の側に立つ政治グループであるのかどうかを判定する基準として、『企業団体献金全面禁止に賛成』であるか否かをぜひ確かめていただきたい。『企業団体献金全面禁止』に反対する政治グループは『金権政党』であるとの基準を置いて、今後の政界再編に向けての動きを観察するべきだ」。

 こういう見立ては、主観的にはどうであれ、実践的には何の役にも立たずむしろ反動的なそれでしかない。「政治に於けるカネ」は政治のダイナミズムを担保するものであり、人が空気を吸って生きているのと同じ意味で必要な政治に於ける血液のようなものである。これを絞ると政治は活力を失う。資金栓を絞るほどなるほどキレイ潔癖かも知れないが、政治家の活動域が狭まり、結果的に却って有害なものになる。それが証拠に政治資金不足で音を上げている政治家、政党、それら予備軍が五万といるではないか。その結果、補助金狙いの政治家、政治活動ばかりになっているではないか。

 問題はあくまで、政治資金をどういう具合に工面するのか、工面した資金を元手にどういう政治を行うのかが問われている。出てくる結論は、個人献金良し、業界献金良し、団体献金良し、企業献金良しではなかろうか。但し、それら全てをガラス張りにせねばなるまい。故人献金なぞあって良い訳がない。政治献金隠しは悪質と認定されねばなるまい。その上で、過度の族議員化を防ぐ手立てとして上限論を設定すれば良かろう。この適正な数値を設定することこそ叡智なのではなかろうか。議論はここに向かわなければならない。この必要な議論に背を向けさせる企業団体献金全面禁止論は、この叡智に対する冒涜であり、適正値考究を妨げる意味で反動的害悪な理論でしかない。

 こういう例は天下り問題にも通底する。一体、天下り全面禁止論は無謀無意味なのではなかろうか。我々が要求しているのは天下り全面禁止論ではなく、官僚の高級制天下りであり、退職金のウグイスの谷渡りの禁止である。その気になれば、有料高速道路の料金底額化と同じで直ぐにでもできるものである。その直ぐできることをやらず、議論を二者択一式に上程し長談議へと誘い、そして結局何もできない。

 さて結論。企業団体献金全面禁止論、天下り全面禁止論、有料高速道路無料化論を二者択一式にせぬ方が良い。できるところから、よりましな、漸次見直しできるような、より具体性実効性のある論を提起し、即実行すべきではなかろうか。我々はそれを望んでいる。饒舌長談議は体に悪い。政治を遊びにしてしまう。

 2010.4.6日 れんだいこ拝

 「植草一秀の『知られざる真実』」の2010.4.12日付けブログ「企業献金全面禁止が日本政治構造を激変させる」を転載しておく。
 「政治とカネ」の問題の本質は、不正なカネが政治家の手に渡り、政策が歪められる点にある。国家予算の規模は100兆円。特別会計を含めれば200兆円にも達する。日本のGDPは2009年度には470兆円にまで減少したから、経済規模の2割、ないし4割の資金が政府の手にゆだねられることになる。国会に予算決定が委ねられているが、実際に決定権を持つのは与党である。与党国会議員はGDPの2割なり4割の資金についての配分権を有することになる。巨大な権力である。

 「政治とカネ」の問題の本質は、特定の利害関係者から政治家にカネが流れ、政府の財政資金配分が歪められてしまうことにある。政府の権限は予算配分だけでなく、許認可といった巨大な行政権限にも及ぶ。

 日本ではこれまで企業献金が容認されてきたが、企業は見返りのない資金を提供しない。見返りのない資金の社外流出は株主の利益に反することから、株主がそのような資金流出を認めることは通常は考えられない。企業が資金を提供するのは、政治家に何らかの便宜を図ってもらうためである。本来的に、企業献金は「賄賂性」を伴うものである。

 この「カネ」が政治家の職務権限に直結しないのであれば、「政治献金」として許容されてきた。政治家個人に対する献金は禁止されたものの、政党支部に対する献金は許容され、政党支部から政治家個人の資金管理団体への寄付が認められているから、実質的には企業から政治家個人への献金が認められてきたのである。

 マスメディアは「政治とカネ」の問題を鳩山由紀夫総理大臣と小沢一郎民主党幹事長の問題であるかのごとくの報道を展開し続けているが、この偏向ぶりには目を覆うばかりである。

 政治資金の取り扱いは透明でなければならないが、鳩山総理の政治資金の問題は、巨額の私財を政治活動に投入してきたとの話であり、「政治とカネ」の問題の本質からは大きくはずれた問題である。

 小沢一郎幹事長の問題については、メディアが憶測で疑惑を生み出してきただけで、検察当局が無謀な家宅捜索を繰り返したにもかかわらず、犯罪の存在を見出すことができなかったのである。

 小沢氏の秘書が逮捕されたが、昨年の三三事変も本年の一一五事変も、犯罪事実は極めて不明確で、検察の起訴事実は、重箱の隅を突くような瑣末なことがらでしかない。このようなことがらで小沢一郎氏を悪者扱するのは極めて不当であり、メディアの報道姿勢はあまりにも偏向していると言わざるを得ない。


 企業献金を認めてきたこれまでの政治において、「政治とカネ」の問題を断ち切ることは実質的に不可能に近かった。検察はまったく摘発してこなかったが、政治家が公共事業の発注を受けている企業からの献金を受け入れていることは日常茶飯事で、内閣改造に伴って閣僚のデータが洗われるるたびに、献金の返還などが繰り返されてきた。

 個人と企業を比較すれば、資金力において企業が圧倒するのは当然である。企業は巨大な資金を政治家に提供する。政治家はこの献金を念頭に政策=財政資金配分や許認可権行使を歪める。これが「金権政治」なのである。

 企業が政治家に支払う「カネ」は巨額であり、この「カネ」を目的に政治家を目指す人間が増加する。こうして与党政治家の大半が「カネ」を目的に政治活動にいそしむ「利権政治屋」に成り下がるようになるのだ。

 「政治とカネ」の問題は、これまでの日本政治の体質の問題であって、個別政治家の問題ではない。個人を問題にするなら、鳩山氏や小沢氏を問題にする前に、徹底的に捜査が求められる政治家が自民党には数十人も存在する。

 こうしたなかで、小沢一郎前民主党代表が提唱し、鳩山由紀夫総理大臣が提案した「企業団体献金全面禁止」は、問題の本質に真正面から斬り込むものである。

 「企業団体献金全面禁止」が実現すれば、政治のありかたは根本から激変する。本来の政治活動に必要な資金は国民が拠出すれば良いのだ。企業がカネを出すと言っても、そのカネの源泉は消費者が支払うカネにある。本当に必要な資金であるなら、国民が負担すれば良いのである。


 鳩山由紀夫総理大臣はマスメディアが調査した内閣支持率が低下したことに関する報道記者の質問に対し、「政治とカネの問題に隠れて、改革が大変大胆に行われているところが見えていない。政権は国民のために一生懸命仕事をしている」と述べたと伝えられている。

 子ども手当創設、高校授業料実質無償化など、「市場原理主義=弱肉強食奨励」の政策から「セーフティネット重視=共生社会追求」への政策方針の大胆な転換を示す政策も本格稼働し始めた。これらの政策を政党に評価することも必要である。


 同時に、「政治とカネ」の問題に対して、根本から問題の本質に対応して迅速に取り組む姿勢を示す必要がある。自民党もみんなの党も企業団体献金全面禁止に賛成しない。両党とも「金権政党」であると言わざるを得ない。

 このなかで、「政治から利権に満ちたカネを完全排除する」ために、企業団体献金全面禁止を断行することを国民に約束し、どの政党が本当の意味で、「政治とカネ」の問題に抜本対応を示しているかを問うことが必要である。

 
民主党が企業団体献金全面禁止に踏み切ることを明言するときに、自民党やみんなの党が反対するなら、この問題に対する基本姿勢の違いを主権者国民は明快に理解することができるはずだ。


 マスメディアは大資本からのスパンサー収入に経営のすべてを依存している。大資本は「カネで政治を買える」から企業団体献金制度を温存したい。マスメディアは大資本と利害を共有しており、鳩山政権の企業献金全面禁止提案をつぶしたいと考えている。


 そのため、報道では小沢氏と鳩山氏の問題だけをたたき、鳩山政権の企業団体献金全面禁止提案を正面から取り上げようとしない。民主党議員のなかにも企業献金全面禁止に反対の議員は存在するだろう。多くの議員がカネの入りを拡大したいと願っているからだ。

 しかし、政治活動は「カネ」を目的に行われるものではない。政治活動は国民に対する奉仕として行われるべきものなのだ。ここは、民主党議員は腹をくくって、企業団体献金全面禁止に進むべきである。日本政治構造を変える核心は企業献金の全面禁止である。鳩山首相はこの点を明確に公約に掲げるべきであり、主権者国民にその重要性を、時間をかけて説明するべきである。


Re::れんだいこのカンテラ時評707 れんだいこ 2010/04/13
 【植草氏の企業献金全面禁止論についてもの申すその2】

 植草氏の2010.4.12日付けブログ企業献金全面禁止が日本政治構造を激変させるを論評しておく。れんだいこは既に「植草氏の企業献金全面禁止論についてもの申す」を発表している。これに対する反論として書かれたものかどうか分からないが再議論しておきたい。

 植草氏は、相変わらず「企業献金全面禁止こそ政治改革の核心」とする立場から種々立論している。聞けば逐一もっともなことのように思える。しかし、そのもっともらしさを集合させた結論が現実遊離しているとしたら逐一吟味し直さねばなるまい。れんだいこは、政治にカネがかかる唯物論的現実があり、これを踏まえながら如何なる処方箋で臨むべきかという問いから処方箋を生み出そうとしている。そういう意味で云うなら、植草氏のそれは机上論なのではなかろうか。

 植草氏曰く、「『企業団体献金全面禁止』が実現すれば、政治のありかたは根本から激変する。本来の政治活動に必要な資金は国民が拠出すれば良いのだ。企業がカネを出すと言っても、そのカネの源泉は消費者が支払うカネにある。本当に必要な資金であるなら、国民が負担すれば良いのである」。

 この論は、植草氏が「本当に必要な資金であるなら、国民が負担すれば良い」と明言されたところに意味がある。これによれば、政治献金国民負担論を唱えていることになる。この論によれば、政治献金国民負担論とは個人献金と政党交付金の二種からなるのであろうか。こう前提して、以下、単刀直入に論ずることにする。

 繰り返すが、企業献金も団体献金も業界献金も組合献金も個人献金も、みんな有り有りルールで良いのではなかろうか。但し、全てをガラス張りで透明化せねばならないとの条件で。改善するとすれば、それぞれに適正と思われる上限枠を設定すべきであろう。この処方箋の方が良いのではなかろうか。企業献金、団体献金、業界献金、組合献金の全面禁止論は、天下りの全面禁止論と同じく二者択一式の永遠の論議にされてしまうのではなかろうか。天下りの高給問題、退職金の谷渡り問題こそ掣肘すべきなのと同じく、企業献金、団体献金、業界献金、組合献金の適正値を求める営為こそ求められているのではなかろうか。

 「企業がカネを出すと言っても、そのカネの源泉は消費者が支払うカネにある」故に「国民が負担すれば良い」などというのは過剰理屈であり、実際局面では企業、団体、業界、組合、個人はそれぞれに質が違うことを弁えるべきではなかろうか。敢えて根本ルーツを訪ねて個人献金限定論へ導くには及ぶまい。今日びは国民負担論の変種と思われる政党交付金がはびこっているが要するに税金給付金であり、ほどほどにしなければならないのではなかろうか。目下、上から下まで給付金と補助金狙いのビジネスが横行し過ぎてやいないか。

 れんだいこが「企業献金も、団体献金も、業界献金も、組合献金も、個人献金全て良し論」になぜ拘るのか。それは、人間の諸活動のうち政治を最も高等な頭脳技であると判ずるが故に、その質を認めて優遇し、政治家を自由自主自律的に活動させたいと思っているからである。人間の諸活動に先立つものはやはりカネであり、このカネの苦労を少なくさせたいと思うからである。政治家好待遇は、良い政治を行う為の代価であればお安いものではなかろうか。ろくな仕事をしないのに、あるいは逆走政治をしているのに好待遇しているから腹が立つだけで、好待遇そのものまで否定する必要はないのではなかろうか。

 ならば、政治家個人に対する献金は禁止し、政党本部ないしは支部献金で処理すれば良いのではないかとの論が成り立つ。政党本部ないしは支部が一括集金し、政治家個人の資金管理団体へ分配する方式が合理的のように思える。しかし、それも理屈に過ぎない。「政党本部ないしは支部献金制」は、やはり政治家の自由自主自律性を弱めることになる。民主集中制だとかの集権制によって党中央に唯々諾々しかできない議員を作ってしまうことになる。それは造反できにくくし政治家の活力を奪う。してみれば政治にとって致命的な欠陥となるのではなかろうか。そういう訳で、合理主義が良いとは限らないのではなかろうか。

 党は党であり、支部は支部であり、議員は議員である。それぞれが必要に応じて資金調達することに何の咎があろうか。我々が留意すべきは、政治家をして自由自主自律的に活動できるように制度保証することではなかろうか。その為にも「企業献金も、団体献金も、業界献金も、組合献金も、個人献金全て良し論」の方がまだしも良いとしたい。政治家を「食える状態」にしておくことが「良い政治」を行わしめる基盤なのではなかろうか。且つ売国奴を失くす有効な処方箋だと思う。却って企業奴隷的業界専属的族議員を失くす処方箋だと思う。他には方法がないのではなかろうか。

 その上で議員定数を見直すのが良かろう。現下の衆参両院は共に約100名ぐらいが確実に多過ぎよう。なお、人口指数のみで計るから都市部変調になり過ぎている。選挙区面積、産業力指数なども考慮し総合的な票差バランスを図るべきだと考える。

 植草氏は云う。「日本ではこれまで企業献金が容認されてきたが、企業は見返りのない資金を提供しない。見返りのない資金の社外流出は株主の利益に反することから、株主がそのような資金流出を認めることは通常は考えられない。企業が資金を提供するのは、政治家に何らかの便宜を図ってもらうためである。本来的に、企業献金は『賄賂性』を伴うものである」。

 これは然りである。しかしながら、「政治献金の一切合財のガラス張り透明化義務」を課すことによりチェックアンドバランスできるのではなかろうか。政治家は選挙で洗礼を受ける身である。選挙の際に政治家の政治資金報告書を公開させること、賄賂やダミー献金を重罰にすることにより政治家の質を維持できるのではなかろうか。政治家が、政治献金によって却って自由自主自律性を失うのなら、そういう無能政治家を選ばねば良いのではなかろうか。そういう意味で、選ぶ側の政治目線を高くして行く必要がある。

 この処方箋によれば今後はこうなる。最近の事例で云えば、政治資金報告書に記載していた小沢民主党幹事長は無罪。労組献金を受け取っていた小林千代美衆院議員は政治資金報告書に記載してさえおれば無罪。故人献金を列ねていた鳩山首相は有罪。政治献金を政治資金報告書に記載せぬまま着服している政治家は重罰を科されることになる。この基準の方が分かり易くて良いのではなかろうか。

 ところがマスコミは逆から騒ぐ。政治献金を政治資金報告書に記載せぬまま着服している政治家に対しては露見せぬ限り騒がず、鳩山の故人献金、マミー献金については笑って許し、小林千代美衆院議員の労組献金に対しては議員辞職を煽り、小沢の政治資金報告書に記載した政治献金には徹底追及で騒ぐ。日共たるや検察とのタイアップで訴追を呼号し道義的責任まで追及すると息巻く。バカバカしくないか。

 植草氏は、「公共事業に纏わる政治とカネ問題」を論じている。「金権政治論」を主張し、「利権政治屋」排斥の弁を振るう。これも日共式の弁で臭い。「公共事業に纏わる政治とカネ問題」は「軍事防衛原子力事業に纏わる政治とカネ問題」とワンセットで騒がないとオカシイ。下手をすると公共事業系政治家のみが裁かれる危険性が強い。公共事業は資産として残るが、軍事防衛原子力事業は使い捨てで残らないと云うのに。原子力事業の場合には将来天文学的なツケを残すと云うのに。逆裁きではなかろうか。これでは世の中が良くならない筈であろう。

 植草氏曰く、概要「企業団体献金全面禁止に賛成しない自民党、みんなの党の両党とも金権政党であると言わざるを得ない」。「民主党議員は腹をくくって、企業団体献金全面禁止に進むべきである。日本政治構造を変える核心は企業献金の全面禁止である。鳩山首相はこの点を明確に公約に掲げるべきであり、主権者国民にその重要性を、時間をかけて説明するべきである」。

 れんだいこは敢えて云う。自民党、みんなの党が企業団体献金全面禁止に賛成しないのは、政治家業の特質を弁えているからではなかろうか。れんだいこは、こちらに軍配を上げたい。植草理論は日共式のものと寸分違わず、その種の企業献金全面禁止論は一見正当なようで、やはり間違っているのではなかろうか。その根底にはどうやら企業活動に対する士農工商的意識に基づく偏見、即ち工商活動に対する蔑視観が介在しているように思えてならない。日共理論で云えばかっての国有化論に繋がるものである。それは歴史的に破産したし、元祖マルクスが唱えていたのは国有化論ではなく戦後日本が具現させていたような親方日の丸式の官民共同ないしは共同事業化論であったと云うのが最新の研究で明らかにされている。この辺りは今一度再確認されねばならないのではなかろうか。

 「企業が資金を提供するのは、政治家に何らかの便宜を図ってもらうためである。本来的に、企業献金は『賄賂性』を伴うものである」辺りの表現が臭い。「企業、団体、業界が資金提供するのは政治家に何らかの便宜を図ってもらうためである」は然りである。しかしながら、「本来的に企業献金は『賄賂性』を伴うものである」とまで敵視するのは云い過ぎではなかろうか。

 政治献金の本質は、政治献金側の意思を通す為に使われることは間違いない。しかしそれは正々堂としたものである場合が多い。隠れて行う賄賂性のものはむしろ少ない。なぜなら、送る側も収支報告せねばならず決算書で監査チェックを受けるからである。決算書では、隠れて行う賄賂性のものが基本的に排除される。なぜなら収支が合わなくなるからである。もしも帳簿改ざん、二重帳簿式賄賂性の政治献金が露見するなら、その時こそ東京地検特捜部の出番とすれば良かろう。

 東京地検特捜部の実際は逆に立ち回る。小沢キード事件のように政治資金報告書に届け出しているものを「天の声」まで詮索し、「政治的思惑と駆け引きで国策摘発捜査」に乗り出してばかりいる。つまり権力の包丁の使い方が違う。この違う方向での権力の使い方にこそ政治の闇がある。この闇こそ切開されねばならぬのに、闇の勢力の手先となって東京地検特捜部が使われていることに不正義がある。その不正義の塊のような東京地検特捜部が正義を唱えて包丁を使うから、政治が大きく歪められている。それが証拠に、れんだいこ処方箋に基づけば、岸や中曽根や小泉や竹中なぞは即逮捕されねばならぬのに今日まで無傷で、畳の上で往生できるよう最後まで政治生命が担保されている。オカシナことではなかろうか。

 結論。企業献金全面禁止論についてはまだまだ議論を尽くさねばならないのではなかろうか。企業献金全面禁止論を強く唱えれば唱えるほど正義とするのは安逸なのではなかろうか。これが云いたい訳である。政治活力は経済活力にも関係し国家の隆盛に関係する。企業献金全面禁止論が政治活力、経済活力、国家の隆盛に繋がる本筋だと云うのであれば問題ないが、逆なら見直しせねばなるまいと思う。次に、この問題に関連させて陳情論について考察する予定である。

 2010.4.12日 れんだいこ拝





(私論.私見)