戦前の女性解放運動との絡み |
(最新見直し2010.11.01日)
【戦前の女性解放運動との絡み】 | |
元のサイトが分からなくなったが、以下、れんだいこが咀嚼して書きつける。 戦前共産党運動の幹部の一人であった福本和夫は三・一五事件後の中間検挙において検挙されたが、「女子学連」との関係が格好のスキャンダルとされた。福本は、共産党の指導理論家だった時期以降、「女子学連」の女子大生を中心に10人近くと「恋愛関係」を結んだとされている(畠山、1930年)。これにつき、山川菊栄は、1930年時点で、共産党検挙の女性党員をめぐるスキャンダラスな報道を批判しつつ、福本和夫個人について次のように批判している。
これによれば、個人責任論に帰しており、共産党自体への批判を避けていることが分かる。しかし、福本的スキャンダルが常態的に存在するとしたら個人責任論では説明つくまい。三年後、山川は、「エロ班」などの報道に接して、今度はさすがに共産党運動に内包される問題として無視できなくなっている。 婦人労働組合に対する共産党の政策を確認する。「評議会の婦人部問題」がある。総同盟を割ってつくられた左翼労働組合の評議会は、創立直後には東京地方評議会と大阪地方評議会にそれぞれ婦人部をもっていた。しかし、総本部に婦人部を設置するか否かという論争が1926年の評議会第二回大会で起こる。婦人部設置に賛成の側は、山川菊栄を中心として、「女性の活動家たちはすべて」。それに対して反対派は、評議会の男性幹部の大部分であった。これには「女性蔑視の気風」が関係していたと思われる。この年の会議では婦人部問題は決着を見なかったが、党全部が福本主義に染まった翌年の大会では、たいした論議もなく婦人部設置は可決されている。「関東婦人同盟の解散問題」がある。関東婦人同盟は、1927年にできた無産婦人同盟で、共産党系の運動に関係しているアクティブな女性活動家が集まっており、この時期一番活発に活動していた団体であった。この関東婦人同盟に対して、共産党は、党中央委員長・渡辺政之輔と佐野学の「絶対命令」で突如解散を命令している。急な解散命令に、関東婦人同盟では「党の直接指揮下にあった人々は誰も反対することができ」ず、「運わるく、そのときは三・一五大検挙のまっさいちゅうであったから、事情を説明したり討論するために婦人同盟員の大衆的な会議を持つことさえも不可能であ」り、「なみだを呑んで、その三月末に関東婦人同盟の『自発的解散』の声明を発表して姿を消した」。さらに三・一五事件は評議会自体の解散も引き起こし、先ほどの評議会総本部の婦人部も消滅することとなった。こうして女性独自の労働運動は「第二次大戦後まで、もはや復活できなかった」。 これには、持ち帰られたばかりの27年テーゼが関係していた。27年テーゼに基づく28年の「日本共産党の当面の政策」には「婦人対策」という一項があり、そこには「現在の婦人同盟は……当時指導方針に根本的誤謬があった為め、……全プロレタリア運動の発展にとって却って有害な作用をもたらそうとしてゐる」と結論づけている。その主な理由として、「コミンテルンは婦人が男子と離れて婦人特有の政治団体又は労働組合を作ることを原則的に禁じてゐる」ことと「小ブルジョア婦人が指導権を握ってゐる」ことを挙げている。婦人だけの組織とならないように「改革せねばならぬ」としている。 福永操は、「つまり、婦人が婦人だけの政治的大衆団体をつくったことが、日本共産党指導部をおこらせた根本理由であった。女どもは、あらゆる運動の戦線で、いつでも、男たちが指導し命令する組織の下部の侍婢として使われる立場にいなくてはならないのであった」と批判している(福永、1982年)。この流れを読めば、単に個々の指導者や党員の意識のみならず、当時の共産主義運動自体が、ある程度、女性差別と親和的であった、と言うことができるのではないだろうか。 関東婦人同盟の解散は、単に当時の共産党の公的な方針が含んでいた女性差別性を示しているだけではなかった。関東婦人同盟の解散はハウスキーパーに結びついている、と福永は言う。つまり関東婦人同盟のような活動場所が消滅した結果、共産党を目指す女子学生出身者は行き場を失った。当時は就職の年齢制限が厳しく、女子大を出た後だと労働者として職場に近づくのは困難であったという。そうした熱意はあるが行き場のない女性に対して「そのようなおんなたちに目をつけて、かたはしからひきぬき、あてがったのがハウスキーパーの仕事であった」。 |
(私論.私見)