共産党員モラルモデル考

 (最新見直し2010.03.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 今日、毛沢東の評価は異常に低い。宮顕−不破流の無茶苦茶な批判が蔓延したのか、我らが左翼一般の無能の故かあまりにも無視されすぎている。もっとも毛沢東が万善だったというつもりはない。特に建国後の経済建設を失敗させたこと、文化大革命に失敗したこと、その他毛沢東王朝とも云うべき奥の院を造り晩節を汚したこと等々を考えれば毛沢東批判に根拠がないわけではない。しかし、今日的な嘲笑評価で済ませて良いものではなかろう。れんだいこは、嘲笑する者こそされるに相応しいと思っている。

 考えても見るが良い。レーニンにせよ毛沢東にせよ、艱難辛苦の革命闘争を勝利的にリードした名指導者である。ロシア十月革命にレーニンが居なければ、「革命は時期尚早論」で追いやられ、機会は流産され、恐らく二度とその時節を迎えることはなかったであろう。同じことは毛沢東にも云えるであろう。今日この革命の勝利の意義を否定する向きもあるが、話が通じ合わない連中である。ヨーロッパの最後進国ロシア、アジアの老大国中国が現代において強い影響力を持つようになっているのは、その昔のまがりなりにものかっての革命のお陰ではなかろうか。それは我が国での幕末維新−明治維新にも云える。やれブルジョア革命だの半ブルジョア革命だのと神学論争にふけっているが、その後の日本の歩みを欧米列強に侵食されずに済ませることになった元一日の始まりではなかったか。その意味で、幕末維新−明治維新の果たした役割は世界史的意義を持っており、絶賛されつつ学びあわねばならない史実ではなかろうか。

 こういう見方、観点を基本に据えるべきだと思う。残念ながら、学会ではあるいは今日の左派政党諸派の指導者はこのように見なさず、過小評価させるのが見識だとばかりに吹聴する輩が多すぎる。それは、赤子ごとたらいの水を捨てる愚見ではなかろうか。かく了解したうえで、ロシア十月革命、中国建国革命、幕末維新−明治維新のその後の変質を踏まえるべきではなかろうか。これにネオシオニズムの世界席巻論の観点を加えればな良かろう。

 れんだいこは云いたい。革命闘争を勝利的に完遂させた者には独特の見識がある。恐らく、実戦に通用したこの見識があればこそ闘争を首尾よく運びしめ得たのではなかろうか。この道中で発せられた珠玉の名言を学ばぬ手はない。世間では逆に、革命の時期に至れば至るほど腰が引け、饒舌詭弁を弄するだけの能しか持ち合わせていない者の云いに耳を傾けたがっているように思える。先進国革命だの何だの要するに如何にポーズで誤魔かそうかと詭弁に汲々している者の言辞なぞ、現に先進国革命だの何だのもはや云うことさえ憚られるほどの貧困政治状況しか創り出せない者による革命成功者の誹謗なぞ、これを受け入れる方にも問題があろう。れんだいこは一言、ナンセンスと一瞥するだけの話である。

 以下、革命成功者の諸名言に耳を傾けてみよう。成功裏に事を首尾した者のみが持つコクのある言辞ではなかろうか。

 2010.05.23日 れんだいこ拝


 「我々共産党員はいわば種子であり、人民はいわば土地である。我々は、どこへ行こうと、その地の人民と結びつき、人民の中に根を下ろし、花を咲かせねばならない」(毛沢東・1945.10.17)
 「共産党員は、いつどこにいようと、個人の利益を第一においてはならず、個人の利益を民族と人民大衆の利益に従属させるべきである。従って、私利私欲、サボタージュ、腐敗汚職、売名主義などは、もっとも卑しむべしべきことである。公正無私、積極的努力、克己奉公、黙々と汗を流す精神こそ、尊敬すべきである」(毛沢東・1938.10)
 「共産党員は、胸懐(きょうかい)が広く、忠実、積極的で、革命の利益を第一の生命とし、個人の利益を革命の利益に従属させ、いつどこにいようと、正しい原則を堅持し、全ての正しくない思想と行動に対し、倦むことなく闘争を行い、それによって、党の集団生活を強固にし、党と大衆との結びつきを強化しなければならない。個人よりも、党と大衆とに関心を持ち、自分よりも、他人に関心を持たねばならない。それでこそ共産党員といえるのである」(毛沢東・1937.9)
 「困難な仕事は、我々の前に置かれた荷物のようなものであって、我々に担ぐ勇気があるかないか、問うているのだ。荷物には、軽いのも重いのもある。中には、要領のいい奴がいて、重い荷物を他人に押し付け、自分は軽いのを選んで担ぐものがいる。これは、立派な態度ではない。ある同志はそうではない。楽しみは他人に譲り、荷物は重いものを選んで担ぎ、人に先んじて苦しみ、人に遅れて楽しむ。こう云う同志が、立派な同志である。こういう共産主義者の精神に、我々は学ぶべきである」(毛沢東・1939.12)

(私論.私見)

 これらの名言は、人民に奉仕する共産党員のモラルとモデルを推奨していると窺うべきだろう。革命精神の真髄として承りたい。

 「共産党員は如何なる事柄に対しても、なぜかと問い、自分の頭で綿密に考え、それが実際と合致するかどうか、本当に道理があるかどうかを考えなければならない。絶対に盲従してはならない。絶対に奴隷主義を唱えてはならない」(毛沢東・1942.2)
(私論.私見)
 毛沢東が、党員の党中央盲従主義、党中央の党員奴隷主義をきつく戒めていることが分かり興味深い。素晴らしい造反有理思想ではなかろうか。

 「共産党員は、最も将来の見透しを持ち、最も犠牲精神に富み、最も意志強固であるべきである。更に又、状況を最も虚心に理解し、大衆の多数に依存し、大衆の擁護を得るべきである」(毛沢東・1937.5)
 「遅れた人々に対する共産党員の態度は、彼等を軽視したり、見下したりするのではなく、彼等と団結し、彼等を説得し、彼等を鼓舞して前進させることである」(毛沢東・1938.10)
(私論.私見)
 共産党員は有能であらねばならぬことを教えている。且つ大衆路線を指針させていることが分かる。

 「自分のことばかり考え、他の人のことを考えない本位主義の傾向に反対しなければならない。他の人の困難に眼もくれず、他から自分に所属する要員の転任を求められても、承知しなかったり、劣っている要員を送り込む。『隣をもってがくとなし』他の部門、他の地方、他の人の為に考えない、このような人間を本意主義者という。これは全く共産主義の精神を失っているのである。大局を顧みず、他の部門、他の地方、他の人に全く関心を持たない。これが、本意主義者の特徴である。このような人間に対しては教育を強化して、これはセクト主義の傾向で、発展すると非常に危険だと理解させなければならない」(毛沢東・1942.2)
 「批判は事が行われている時にすべきである。いつでも事が済んでから批判する癖をつけてはならない」(毛沢東・1955.7)
 「幹部の中にある、自ら刻苦奮闘、血と汗を流すことをせずに、予期しない便宜や僥倖に依拠して勝ちを占めようとする心理は、残らず一掃してしまわなければならない」(毛沢東・1945.12)
(私論.私見)
 これを、共産党員の作法論として承るべきであろう。

 毛沢東自身はかってこう語ったことがある。「未来の青年たちは、彼ら自身の価値基準に基づいて、革命の成果を評価するであろう」、「今から千年後には、マルクス、エンゲルス、レーニンさえも含めて、われわれすべてがおそらく馬鹿げて見えるであろう」。
(私論.私見)
 毛沢東らしい言い回しであるように受け止めたい。






(私論.私見)