脇田憲一氏は、「50年党分裂」時代に徳球系党中央が呼びかけた武装闘争に参加した経験を持つ。日本左派運動が武力闘争に取り組んだ史上初の経験として意義を持っている。結果的には戯画的な運動しか展開できなかったにせよ、この経験から何を総括するのかにつき真剣に議論されてしかるべきであろう。
なぜ議論が封殺されたのか。それは、その後党中央に登壇した宮顕系党中央の逆指導による。宮顕は、「50年党分裂時代の武装闘争」の意義を全否定しており、「武力闘争は党の実権を不法に独占した一派が勝手にやったことで党が正式に採用した方針ではない」として責任回避している。宮顕系党中央の出現以来、「50年党分裂」時代の武装闘争派は冷や飯を食わされてきた。
そういう事情にも規定され、伊藤晃・氏は次のように述べている。
「今日でもこれを肯定的に語る人はほとんどいない。これを研究しようとする人も現れなかった。そこでこの時期の諸事件、そのなかの事実・経験が全体として歴史から抹殺された形になっている。共産党自身、むしろ率先して隠蔽を作為したのである」。 |
この時の武力闘争は、おりから戦われていた朝鮮戦争に対し実力をもってする左派運動であったが、宮顕派の運動はこういう肝心なところを押さえ込み、くだらないことに熱中する。れんだいこは、凡そ意図的とみなしているが、それはともかくその罠から抜け出さねばならないであろう。その手始めは、「武力闘争に従事した当事者たちが口を開くことである。彼らの発言はこれまであまり聞かれなかった」。
かくて、「50年党分裂時代の武装闘争」は「歴史に封印」され、かの時代の武装闘争を検証する者がいない。
けれども史実は消せない。そういう状況の中、脇田氏は、「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」を著し、「50年党分裂時代の武装闘争」の意味と意義の見直しに着手した。「当時の青年たちが抱いていた社会変革の意志の妥当性、それが本当はどういう運動に実現されるべきだったのか」を問おうとしている。
問題となるのは、「人民の抵抗権・武装権問題」である。脇田氏の観点の良さは、凡百の武装批判論に陥ることなく、「50年前後、米軍権力・日本国家権力に大衆的実力で抵抗しょうという情熱が広く存在したとすれば、それほどういう方向へ発展させるべきだったのか」と問うていることに認められる。
実際の武力闘争は企画倒れで、軍事方針は分散的で矮小な行動・組織に具体化されたにすぎなかった。中核自衛隊、独立遊撃隊が組織された。これを地下組織Y機関が指導したが、情勢分析、首尾一貫性、経験から学ぶことがまったくなかった。どうしてこういうことになるのであろうか。そもそも武力闘争とは何であったのか。
しかし、妙なことだが、その軍事方針を国内で指導したのは、志田重男一派であった。志田派は、やがて所感派内でのヘゲモニー争いに興じ、伊藤律派を駆逐していった。
在日朝鮮人活動家は、自らの祖国問題も絡んでいたこともあって積極的に武力闘争に呼応した。彼らの「本気」と日本人の「本気」との質の違いがそうさせ。民戦−在日朝鮮統一民主戦線に結集し、その指導組織ないし行動組織として祖防−祖国防衛委員会、祖国防衛隊を創設し闘った。
日朝共同の闘争として闘われた。日本革命なしに自分の問題は解決しないことを理解して、祖国防衛運動をも日本への米軍支配との闘争、基地反対、再軍備反対、全面講和運動に結合すべきだ、という論理に立っている。朝鮮人の戦闘的であるが「単純素朴」な反抗心(この特徴づけは戦前の共産党が暗に持っていたものを引きついでいる)に発する闘争。
人民が本来持つ抵抗権・武装権の思想である。抵抗権は、枚方・吹田事件などでの裁判闘争で被告・弁護団が主張した憲法上の人民の権利の範囲内にある。それは無罪をかちとるための論証に使われたのである。それはそれで正しいのであるが、著者の言う武装権はさらに積極的な主張である。本書は、大衆的実力闘争への情熱にその思想がどう発現したかを検証している。
軍事行動。本質的には「軍事行動」として武器を使ったのではなく、大衆的示威行動。著者が主張したいのは、まず大衆的情熱のある局面での表現としての武装の正当性であろう。武装の段階、形態はさまざまであり、もたらされる結果にも幅がある。つまり武装はきわめて豊潤な概念なのだが、問題は現実化した武装せる闘争がそのときの人びとの情熱の表現形態としていかに評価しうるかである。人びとが当然のこととしてあれこれの武器を手にとる、この人民の武装を前衛党なるものあるいは官憲による概念化に閉じこめるのではなく、人民が選択の権利を有する、政治運動上の一般的概念として再生させなければならない。
朝鮮戦争のなかで、活動家たちはこの戦争をやめさせなければならないと感じた。そこに自分たちの「力」を戦争に対置したいという情熱が生まれた。この情熱は一個の確信に高められなければならない。自分たちの運動はこれこれの形態で戦われることで戦争をやめさせる力になる、という確信である。当時現実の問題は、アメリカ・日本の支配勢力の有する格段に高い軍事力を正面からにせよ、ゲリラ的形態でにせよ、破砕することではなく、いま朝鮮での対立を解決する唯一の手段は戦争だという説得が民衆に対して効果をあげている事態、つまり民衆の内面に働く権力側の政治的ヘゲモニーを解体・マヒさせることだったであろう。そのための基本要素が、大衆的な実力による抵抗闘争を実在せしめた情熱である。
どのような形態が、その情熱の幅と厚みいっぱいに、人びとを有効な大衆的示威、米軍基地への行動、軍需生産・軍需輸送阻止行動に向かわせることになるであろうか。それが実現したとき、人びとが自分の力を感じ、問題解決の可能性あるいは必然性を意識する、そこに支配勢力のヘゲモニー解体の第一歩がある。こうした行動は非暴力でなされるかもしれないが、参加者がそれぞれに石を握りしめているかもしれない。ここでは各種・各段階の武装は選択肢なのであり、それをめぐる「指導」は、大衆的情熱が種々の運動形態の有効性にかんする大衆自身の理解にまで高まっていく、その過程に介在すべきものである。
人民の武装に対する歴史的評価基準。。著者もまた、この評価基準を適用することで共産党の軍事方針を明確に批判できたのであろう。くり返すが、共産党は、人びとに実在する情熱を観念のなかで軍事の最高の形態、武力革命にまで飛躍させ、空想であるゆえに空白であるその飛躍の過程を埋めるために矮小な武力行動を提起したのである。そこに現れた諸現象を著者は批判的な眼で見つめている。合理性をもたない運動形態を権威主義的に押しっけ、煽動するときの軽躁といいかげんさ、それにふさわしい「幹部」がつぎつぎと現れてくること、大衆の意識のなかでは軍事行動でないものを自分の軍事方針に押し込もうとすること(奥吉野・奥有田水害救援隊を性急に政治化しようとし、さらに党の工作隊=独立遊撃隊構想を持ちこんだのはその例)など。軍事方針は根本がまちがっているのであるが、そのまちがいの歴史的認識は、当事者が当時の諸現象を批判的に認識する、それらの総合を経て到達されるものであろう。
前述したように、著者は右の評価基準で吹田事件を研究した。この事件で人びとに武器を握らせたのは実在した情熱である。その武器を軍事行動でなく大衆的示威行動として生かすことで政治的成功を見たのだ、と著者は言う。
いわば「戦後責任」の拒否によって、共産党は、権力によって捕捉されながら黙秘によって党を守った党員たちを実際上見放した。訴追された人びとは「誤謬とされた方針に生命がけで挑み、起訴されたが、権力に対しては今後もみずからの人生をかけて非妥協的に闘わなければならない」(『運動史研究』第四号七二頁、吉野亨)ことになり、多くが共産党の冷淡な視線の下でその闘いを全うした。本書の著者もその一人である。
武力行動を指示ないし煽動しながら実際の行動に一揆主義等の冷罵を浴せる態度。奥吉野・奥有田に「独立遊撃隊」を作らせながら、数カ月で補給さえ放棄した。この無責任は各地の山村工作隊に共通しているようである。また五二年八月、徳田球一「日本共産党三〇周年記念に際して」なる文章の発表を機として武器の直接行使を引込めたとき、その転換が党員に明示されなかっただけではない。本書に、ある大衆集会で川上貫一が「今後火炎ビンを投げた党員はただちに除名されるだろう」と演説し、その集会防衛のために党の指令で火炎ビンを隠し持って参加していた著者を唖然とさせた話が出てくる。別のある人は、党の指示した行動で被告になったとき、党員弁護士から「君、党はテロをやらないことになっているんだよ」と冷然と言われたという(『運動史研究』第四号七一頁、吉野亨)
共産党にとってはこの責任回避は合理的な行為であった。著者は六全協に際して、武力闘争事件被告であるという理由で党機関要員から外されたという(それでも著者は意気沮喪しなかったのであるが)。
誤謬の訂正の「権限」を党指導部が独占し、当事者を、自己批判の勇気をもつ必要もないもの、誤った方針におどらされたまったく受動的な存在として、冷笑的に扱うことも武力闘争の一つのしめくくりではあった。