安保構改派座談会/考 

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元、栄和4)年.4.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「れんだいこ」でネット検索したら、「安保構改派座談会」に出くわす。その末尾の参考文献のところで、「5)れんだいこ webで膨大な学生運動資料を公開している徳田球一・田中清玄・伊藤律・田中角栄の崇拝者(1950年生まれ)」と紹介されている。このことは承知していたが、中身の本文については読んでいなかった。今これから読み始めることにする。道中で、れんだいこ評を入れておこうと思う。

 2022.4.2日 れんだいこ拝
 案の定、得るものはなく、構造改革派の発生過程とその理論を少し知ることができたという程度のものだった。要するに穏和系であって、第一次ブントの日共に代る前衛党の創出過程の苦吟を共有できず、日共の宮顕の党内壟断過程に為すすべなく屈服を余儀なくされた挙句に離党、その後はほぼ共通して社会民主主義的運動の良き理解者として身すぎ世すぎしながら自己満足するという凡愚の履歴確認となった。それ以上でも以下でもない気がする。

 2022.4.2日 れんだいこ拝


【安保構改派座談会/考】
 「安保構改派座談会まえがき」は次の通り。
 (注)
 当サイトの座談会「 東京教育大学戦後学生運動史」には、60年安保闘争当時、全学連反主流派のリーダーとして活躍された文学部自治会の黒羽純久(くろはよしひさ)氏が出席されておらず、安保世代の方が抜けており、安保闘争当時のことにはほとんど触れられていませんが、この「安保構改派座談会」には黒羽氏が出席して発言されており、あわせて閲覧されれば参考になるかと思われます。この座談会は、もともとSDLのサイトに掲載されていたものであり、当サイトへの転載については、SDLのサイト管理者である須田大春氏の許諾を得ております。なお、SDLの原サイトは@niftyのWebスペースサービス停止により2016年11月10日に閉鎖されています。
(SDLのサイトでの須田大春氏の自己紹介)

 1939年10月 東京生まれ 1962年3月 東京大学工学部精密工学科卒業。学生運動専攻。 1962年4月-1979年1月 会社員(日産自動車勤務)。 (シャシー設計 車軸工場技術課 本社生産技術課 工機設計課に所属) 産業用ロボットを多用した車体生産のコンピュータコントロールを推進 1979年2月-1995年3月 ベンチャービジネス経営者 (ナイス ユニーシステム(USC) ユニーデータ) スカラロボットをはじめ各種産業用自動機のシステム開発に従事。 1995年4月- 在野の学際的研究者をめざす。 (機械 制御 情報 電子の技術分野と数学 物理学 哲学 経済学の橋渡し) 「21世紀のオートメーション パラダイム」をテーマとする。1994-2003 株式会社ユーエスシー監査役(非常勤) 。

 黒羽純久氏は、2008年5月18日午後3時、下咽頭癌のため、小平市上水本町6-5-9-204の自宅で逝去されました。71歳でした。葬儀・告別式は5月22日正午、国分寺市本多4-2-2祥応寺きわだ斎場で、妻富美恵さんを喪主として行われました。氏は、1960年前後の安保闘争の当時、東京教育大学文学部自治会の委員長を務められ、全学連反主流派のリーダー、あるいは全自連の議長として、学生運動を階級闘争一般に解消しようとする主流派に対峙し、「層としての学生運動」の立場で学生運動の本流を守って闘われました。新興出版社刊の「現代の学生運動」(1961)は当時の彼の共著書です。1964年、教育大日本史学科を卒業し、当初は刀江書院、1970年からは共同通信社に勤務されていました。晩年には、「9条改憲阻止の会」で活動され、藤山顕一郎監督のドキュメンタリー映画「We 命尽きるまで」(2008)にも病身をおしてその姿を見せています。筑波移転問題で組まれたバリケードが機動隊導入で陥落寸前になった時には、自ら握ったお握りを大量に持ち込み、学生を激励されたこともあったそうです。
 安保構改派座談会まえがき  2005-2-2  SDL 須田大春

 2004年9月に、60年安保を構造改良派としてたたかった8人のメンバーがあつまって座談会が開かれた。集めたのは山田和明君を中心とする「早稲田の杜の会」で,座談会の目的は「60年安保と早大学生運動」という単行本を出版するので、早稲田以外にもページを割こうと言うところにあった。実際に12月にKKベストブックから刊行された同書には「座談会:60年安保と構改派」として28ページにわたって掲載された。それなりに面白い読み物になっている。
「60年安保と早大学生運動」
平成15年12月4日発行
定価:本体1800円+税
発行所:KKベストブック
106-0041 港区麻布台3-1-5日ノ樹ビル5F
Tel 03-3583-9762
 しかし座談会は4時間近いものであって、掲載に際してほぼ40%にカットされた。小生は、このカット作業に協力したが、残された60%にも残しておきたい話が多いので「パーフェクト版」を作りたいと山田君に提案し、テープを借用した。しかしテープから起こされる段階で20%程度の情報は既に抜け落ちており、再度テープおこしをする元気はなかったので「パーフェクト版」はあきらめ、「プライベート版」に切り替えた。プライベート版については出席メンバーに送付してチェックをお願いした。また、昨年開かれた東大の長尾君の追悼会の席上で、何人かにコピーを配布したところ、インターネットにアップするように薦められた。出席の各氏に「プライベート版は公開を前提にしていませんでしたが、SDLのホームページにアップすることは可能です。ご諒解いただけますでしょうか。インターネットはだれでも見られるものですから、「ここは具合が悪い」というところがあればあらためてご指摘ください。」とお願いしたが格別の指摘はなかったので、遅ればせながらここに公開する。
 安保構改派座談会 2003年9月5日(金)13:00~
 出席者
仙波輝之 早稲田大学政経学部
新聞学科
59年早稲田祭実行委員会副委員長
斎藤驍 駒場/東大教養学部 60年東大教養学部自治会常任委員会議長
61年全自連代表委員
須田大春
(別名:杉野宏)
本郷/東大教養学部 59年東大教養学部自治会副委員長
松本堅太郎
(現姓名:栗山堅太郎)
早稲田大学第一文学部 59年早稲田大学第一文学部学生自治会組織部長
小塚尚男 中大の2部 60年中央大学夜間部自治会委員長
黒羽純久 東京教育大学文学部 58年東京教育大学文学部自治会委員長
59年東京都学生自治会連絡会議議長
61年全自連議長
中島一憲 神戸大学 59年兵庫県学連委員長
山田和明
(別名:佐山順)
早稲田大学第一文学部 59年早稲田大学第一文学部学生自治会委員長
司会 今日は60年安保を全学連反主流派として闘われた皆さんにお集まりいただきました。反主流派は日本共産党系といわれていましたが、その中で私達は主に構改派として行動したわけで、その辺のところについて皆さんのご意見をお伺いしたいと思います。ここ数年小泉首相の構造改革がにわかに注目を浴びていますが、勿論構造改革の中身や質は私たちの考えていたものと大きな開きがありますが、すでに40数年前に構造改良の必要性を訴えていた私たちの主張は現在も生きているのではないでしょうか。学生運動においてどのセクトに属したかということについて、一般的には友人関係とか同郷とか、偶然に仲間になったということが言われていますが、少なくとも構改派に属した人たちは単なる偶然性ではなかったと思いたいのですが、ずばり伺います。どうして構改派に入られたのですか?最初に仙波さんからお願いします。
仙波 このあまり堅苦しいテーマというか、いきなりなぜ構改派に入ったかといわれても返答に困りますが、まず僕の場合、早稲田に入って早稲田の雰囲気の中で政治的というか政治党派には早熟ではなかったと思うんですよね。割合僕は大衆運動、文化運動主義者で、なんというかチャランポランみたいな所もあったから。僕は一浪して政経の新聞学科というところに入ったんですが、当時59年の4月には日米安保改正問題というのは警職法と連動した形ででてきてそこで早稲田大学における学生運動の雰囲気の中で、そのまま流れていったというか、ちょっとしまりのない話しだけど。
司会 反主流派にいった理由は?
仙波 それは一番最初の大学1年の秋に11・27に参加し、自分自身高揚したし、いわゆる社会党、共産党の幹部の人達が規制するような演説をしていて、それに反発を感じたけれども共産党の入党というのはその後なんですよね。すごく喜んだ部分もあってイケイケという気持ちもあったから、それをそのままストレートにいくと多分全学連主流派にいったと思うんですけど、日本の本当にまじめに改革するためには、そのままの直線上ではいかないんじゃないか、そこは一歩ひいて、きちっと理性的に考えようというところがあって、まだ19歳だった僕は日本共産党に入ろうということで反主流派を選択したわけですよね。
司会 じゃあ斎藤さんは?
斎藤 仙波さんとはある意味で対照的なんですが、僕は親父が共産党員だったせいもあって中学生くらいの時からその種の文献を読んでいました。高校時代、その時すでに都立大付属高等学校というのは、生徒会といわず自治会といったんですよ。そういうことで高校生の段階で学生運動に飛び込んだ。ちょうど高校に入ったのが1955年、その年の7月だったと思うんですが、六全協がありましたよね。だから入学した4月から六全協までは、いわゆる所感派の学生運動、それを指導していた香山とか、私を直接指導したのは当時都学連の委員長だった中西という人で、後に東大の経済学部の教授になりましたけれども、中西に指導されて高校生会議であるとか、そういうレベルで実は山田さんとか栗山さんとも知り合いになった。それで六全協がやってきて指導していた中西さんたちがいなくなってしまったんですよ、どういう訳かね。その頃もう一つ思い出があるのは六全協の直後でしたか、あるいは中学3年だったかもしれない、徳田球一が中国で亡くなって、日本共産党の本部で葬式というか偲ぶ儀式があり、その時に一人で行き、徳田の慰霊の前で線香をあげて帰ってきたということがありました。これはある意味で忘れがたい思い出。それで六全協はもちろん決議を読みました、私自身はそれでこれは当然だと。これまでの共産党の運動、火炎瓶も、その逆のフェスティバルもだめだ。それで路線転換、所感派自身が路線転換した後期に僕がちょうど入った時期になるわけです。だからもう火炎瓶はなかった。それで結局僕と付き合っていた東京都の高校生が来なくなったんですよ。沢山いたんですが、たとえば日比谷あるいは早稲田高等学院がありますけれども、変わったところでは都立三商というような、定時制ですけれども、そういう友達と付き合っていたんだけれども、ほとんど仲間も変わったし指導部も変わって、じゃあ六全協の後どうするのかということになってですね、いろんな議論が行われたわけですが、学生運動の転換に入り、その時たまたま私の高校の卒業生の中に後にブントの書記長になった島成郎と高野秀夫と二人いましてね、その二人とお付き合いするようになり、そうこうしているうちに56年、ソ連共産党20回大会があって書記長のリポートが行われた。スターリン批判が本格的になり、その中でスターリン批判をする立場、大別していえばトロツキーに依拠して批判するというグループと、そうではない角度から批判をするというものと、その代表的というのがなんといってもイタリー共産党のトリアッチ当時書記長、それからアメリカ共産党のフォスター、それからイギリスではニューレフト、そういった人たちの批判があってそれで、特に私は高校時代自治会の委員長もやっていましたから、2年の前期ですけれども、大衆運動っていうものにそれなりの経験があって、そういう意味からいって、感動した本はですねイタリー共産党の8回大会、それは当時のソ連共産党20回党大会の直後に直後に近い時期に開かれたんですが、そこでトリアッチがリポートしていて、そのリポートを読んでこれが一番自分に近いと。要するに高校の時から構改派だったわけですな。
司会 なるほど、全学連の2つの大きな組織が、根が一緒だったというのも興味深いですね。構改派の高野さんとブントの島さんは友人関係だったんですよね。しかも同じ高校出身ですよね。
斎藤 もちろん人間関係もありました。ただ情報源が高野さんの側からで、島さんの方からはなかった。いずれにしても56年の全学連は高野秀夫書記長で、島は中央執行委員でした。
須田注記)島の方からのオルグもなかったわけではない。反戦学同(AG)の中村光男・野矢テツヲ・太田勝洪・山下米子などがよくきていた。高野・牧・花松・富館などより熱心だったかもしれない。
司会 まだ日本共産党の影響力下にありましたからね。では次に須田さんお願いします。
須田 斎藤さんと非常に永いこと繋がりがあり、近いところを歩いているわけですけれども、本日は駒場の斎藤さんと本郷の須田さんというところで(笑)それぞれを代表する立場でまるで違う世界から来たような顔をして(笑)、話します。そういう意味では違うのですが、どれ位違うかっていうと、斎藤さんと僕は同じ年の年生まれなんですが、斎藤さんが昭和14年生まれ、僕は1939年生まれ、僕が国際派ですから(笑)生まれ年が違うと理解していただければいいです。斎藤さんが徳球の葬式に行っていたころに、僕は徳球は大嫌いで、ちょうど原水爆禁止の署名をウィーンアピールだったかストックホルムアピールだったか、中学校で署名集めをしました。中学3年生の時でしたが教師に止められて「おまえら、中学生の分際でそういう事をやっちゃいけない」といわれまして、なぜかと聞くと「あいつら、まだ理解力がないからだ」といわれたんですよ。それじゃあと職員室でやったんです。職員室の奴らなら理解力があるんじゃないかと思って(笑)。だから僕は中学3年生の時から、政治運動の第一歩をやったと自分では思っています。それで高校に入り高校1年の時には、斎藤さんは1年生で生意気にも高校生会議を牛耳っておるので、それを僕は笑って見ていた(笑)。2年生になった時に一緒にやろうというふうに決めたんです。斎藤さんの自治委員長を補佐するグループをつくりたいと斎先生という先生がおりまして、その先生が僕と斎藤の仲を取り持って、一緒にやってくれないか、という話があってそこで我々のグループは、といっても僕の方はグループというほどの物ではなかったけど、逆に斎藤さんの方にもグループというものはなくて、それが合体してグループができたんですね。それで斎藤さんが自治委員長になって私が副委員長ということで。それ以来、その時の立場は斎藤さんの親父さんはロシア語の先生で、僕の親父は中国文学、斎藤は社研で僕は中研、中ソ論争(笑)。中ソの話になると話が対立するところへイタリアとかイギリスの話をしていると意見があう、ということでイタリア派というのはその頃結成されました。それで構改派になったのは、中研の一年後輩には島さんからの強烈な働きかけがあってブントに行った子がいるんですが、僕らに対してはあまりなかった。島さんも高野さんも同じように斎先生のかわいい弟子なんですが、その中で島さんに対して斎先生が不信感を抱いて、島・高野・牧、という3人グループで全学連の再建をやったんだけれども、再建をやった3人の中で島と牧・高野というのが別れていった。その別れていった時に斎先生はどちらかというと島さんではなく、まぁ斎先生ばかりじゃないけど、牧さん高野さんのほうに力を入れてきたんです。
司会 なるほど、斎先生、高野、牧ということで繋がっていくんですね。
須田注記)斎正子は都立大付属高校(旧制府立高校)の生物教師。島は旧制最後、高野は留年して新制最初の教え子。日教組や母親大会で活躍。非党員。
須田 どっちにしろシンボル的には島さんとか高野さんではなく、武井さんなんですよ。輝ける全学連委員長初代委員長武井昭夫というのが、大先輩で、だから武井さんの後輩という。
須田注記)6全協後、宮本-武井につながる島がまわりをみまわしたら、中学高校(都立)の同級生高野と大学教養(駒場)の同級生牧がまだ学生だったので、引き合わせて3人で学生運動の再建を始めたということらしい。50年早稲田の文集に牧衷が寄稿している。島が牧・高野と別れていく事情には、牧・高野とちがって自己批判組で、森田といっしょに所感派で活動していたということがあるのだろう。
司会 それでは栗山さんお願いします。
栗山 今御三方のおっしゃる事を聞いて、自分はどうだったかな、と思い返していますが、朝日グラフに広島の原爆の事が載っていたのはいつでしたか。
須田 最初にでたのは52、53年頃かな
須田注記)原爆被害情報は占領軍によって抑えられていた。サンフランシスコでの講和条約批准が1951年9月8日、発効が1952年4月27日。占領軍がいない最初の原爆記念日1952年8月6日にアサヒグラフの特集がくまれた。
栗山 中学3年か高校1年だったと思いますが、戦争は嫌だとか反対だとかいうのは当然だったけれども、こんなに悪いもんかということで思って、それからビキニの水爆実験で久保山さんが亡くなられた、あの辺りから原水爆禁止ということで頑張らなくては、という気持ちがあり、それでウィーンアピールとかの署名を集めだして、それが高等学院の2年生かな、落第した2年生(笑)。その2年目の2年生の時、その頃から山田君なんかと知り合って高校生の運動に参加しはじめたんですね。その時斎藤さんや須田さんなんかと知り合った。
斎藤 須田君なんかはちょっと1年位後になるね。
栗山 それで共産党の中のことなんかあんまり詳しくはわからなかったんですが、大学に入り、それで学生運動なんかを当然やるなぁと思っていましたし、それで文学部に入って最初のクリスマス島水爆実験反対かな、あの闘争はずいぶん盛り上がりまして、早稲田の動員は相当なものだったと思いました。その時はバスでしたか、ちょっと忘れてしまいましたが、大きなデモ隊、イギリス大使館前でやって、その最後部の所に、これが有名な高野秀夫だよとだれかが教えてくれてね、それで高野さんと付き合うようになった。その時に高野さんの所に遊びに行って、斎藤さんの話なんかもしたんだよね。「いやぁあれは僕の弟子だよ」なんて(笑)てかんじでさ、「いやぁそうなんですか」なんてそんな話をしたんだよ。
司会 小塚さんお願いします。
小塚 僕は58年に中大の2部に入ったんですけれどもね、もちろんその前に私は高校時代は民青で、ちょうど僕が高校1年の時に、さっきの第五福竜丸の問題で、学園祭でシュピレッヒコール(寸劇)「原爆許すまじ」なんていうのをやったりしたんだよね。高校時代はあと砂川とかに行ったり、世界青年平和友好祭(日本での)に行ったりして過ごした。とにかく中大に入って中大の夜間部っていうのは妙に学生運動が強かったですね。昼はかなり色んな学生運動の影響を受けて、ほとんど分裂的状態で全学連を脱退していたのに対し、夜間部はちょうど大学闘争の真っ最中、大学当局の自治会費源泉徴収拒否に対し、反対運動を起こしたんですよね。それで57年にストライキをうったんです。僕が58年に入った時に、すでに3役が処分されていまして、処分撤回と自治会費徴収拒否反対という学園闘争がもりあがっていて、その時に私は社研から自治会へ、という関り方をして、まぁ共産党に入ったわけなんですけれども、で、すでにそのころ国際的には六全協が終わってハンガリー事件もあったし、ちょうど58年というのは共産党は6・1事件があった。ただ夜間部の場合、学生運動というのは情報量が乏しいんですよね。学園闘争は強力に闘ったけど、いわゆる中央レベル、政治闘争のレベルになってくると、やっぱりどうしても5時からの学生運動なんですよ。それで学生運動をやって、自治会が済むと、細胞会議とか三役会議なんていうのは、夜中に泊り込みで誰かの家でやったりなんかする。そういう学生運動で、非常に特異なんです。それからもうすでに綱領論争がはじまっていたし、それから6・1事件も起きたし、とにかく共産党の民々路線というものが、これは問題にならないということは私が中大の細胞に入った時、すでにそういう雰囲気というのは全体としてあったんですよね。で、それが単なる民々に対する、なんというか日本独占資本主義復活ではないんだと、もうちょっと、トリアッチのイタリア共産党の8回大会ですか?の報告をかなり読んだりしていったというのは、一つはなんというかな、ブントが出来て、ブントがある意味ではトロツキーに依拠しながらやったのに対して、それに対抗する為には単なる反独占路線の闘いだけでは、大衆運動として民々に対抗できないということで求めていったのはどうもイタリアの構造改革だった。それをねやっぱり、かもし出していったのは、一つは当時、全体はそうではなかったが共産党の千代田地区委員会というのが、委員長が例の中西3兄弟の2番目の中西三洋で、明確ではなかったが、どちらかというとリベラルだったもんですから、中には亡くなった家坂哲男とか名古屋大から全学連中執だった伊藤元男とかいう人たちがいて、そういう影響もあって、やっぱりかなり構造改革への方向性というものがでてきたし、それから学生運動の中にいると黒羽君なんかからもだいぶご教授賜ったという記憶もありますね。
司会 黒羽さんお願いします。
黒羽 構造改革派に入った、というところなんですが、私は54年に高校の3年生、つまり福竜丸、さっき話しにでたウィーンアピール、そういうのを高校3年でやってるわけです。それで、その後、さっきちょっと話しもでた六全協が次の年なんですね。私はもちろん高校の時、社研とか歴研の部長をしながらもちろん民青にも入っていったし、最後の段階で党籍を離脱したはずだったんですけど、六全協の時におかしくなっちゃったんですね。それで私は1年アルバイトをして55年の時は地域細胞に所属していた、させられていたんです。アルバイトをしながら地域細胞で活動をして、杉並区でしたから杉並区立図書館の館長だった安井郁を担いで、原水爆禁止署名運動を今度は地域でやりだしたんですよ。ウィーンアピールの後。それで地域でやりだして地域でどんどん広がっていくわけです。それで要するに全国組織ではなかったんですが、後に全国組織にいくような運動地域であって、その頃はもうウィーンアピールだし、そういう運動をやってて、その後六全協だし。だから六全協っていうのは要するに所感派の敗北だというふうに私なんかは受け取っていましたから。それから56年に大学へ入学して、地域細胞から転籍してくるわけです。その時にはもうはっきり自分は六全協で勝利した国際派の側だっていうふうに勝手に自己認識しているわけですよ。 56年に教育大に入って、その頃教育大の自治会というのは津島薫、この人はもう共産党の中央青年学生対策部員になっていたんですよ、後に信州大学にいった北原龍二君という人が文学部自治委員長、この人も広い意味で構造改革派の立場をとっていた。で、この人のもとで私は一兵卒として運動をやってきたんですが、今度は58年に私が自治会の委員長に変わるわけですよ。間にもう一人入りますけれど。文学部の自治会委員長。それであそこは文学部の自治会が事実上、他の4学部を引っ張る、という格好になってるんですね。その自治会の委員長になったとたんに全学連11回大会があったんです。58年の5月かな、6・1事件の前ですから、それで高野さんを中心にした当時の代議員、全学連大会の代議員でまぁ1割弱だったと思いますが、早稲田、教育大、神戸大くらいで県学連単位でまとまって反対といったのは兵庫県くらいだから、1割には達していなかったと思う。それがはっきり反主流派というふうに新聞にもいわれ、構造改革派という言葉は当時は無かったけれども全学連反主流派という言葉が定着した最初ですよね。その時に私は、ちょっとこれ個人的な経験で恐縮ですけれども、私が自治会の委員長になった時、金助町という言葉を当時使っていたんです。全学連の書記局があった所ですね、島とか森田とか香山とか小野寺とか、それから勿論高野さんもいましたが、実はその金助町との間で微妙な温度差があったんです。それは後にわれわれは総評のスケジュール闘争といいますけれども全学連もかなりスケジュール闘争的な性格が当時あったんです。全学連の書記局と単位自治会との間で温度差が。それに対して私はちょっと違和感を感じてたわけです。私は文学部自治会、共産党員であるけれども文学部自治会の委員長に選ばれて、5学部の事実上のリーダーとしてやらなければいけないんで、共産党の学生対策部の津島薫が厳命するわけですよ。これに従え、金助町の決定に従えと。それで僕はそんなの従えないと、俺達は学生大会開いて決めた方針なんだから、といって私58年に離党するんですよ。だから私6・1会議に出席できなかったんです。しなかったんじゃなくてできなかった。その微妙な温度差が金助町との間に既にあったんです。それは要するに島も森田も香山も全部ひっくるめてなんです。高野さんもそれは含まれているんです。それでそんなことをいっていると共産党中心に進んでいる自治会の運動と自治会の幹部とか乖離したまんまでは困るという説得をそうい中心的な立場では若干なかった池山重朗さんやその他の方に受けて私は復党するわけです。
仙波 ブランクはどのくらいあったんですか?
黒羽 数ヶ月あったかな。6月、7月、8月と重要なところで抜けているわけです。それでその間に私は、こんな乖離を続けているといけないと思って、私自身が教育大の共産党細胞のキャップになるわけです。それで要するに、青学対とか金助町との関係での温度差を埋めようとするわけですよね。なんというか今までの私の話だと一人でに構造改革派になっていくみたいな、むしろやはり反主流派だったんですよね。
司会 それで構造改革派に流れ込んでいったんですね。
黒羽 えぇ。それでもう一つ構造改革派ってことに関していえば、六全協の後ですね、一つ決定的だったのはフルシチョフのスターリン批判であり、ハンガリー動乱、もう一つは六全協後の共産党内には割合、プラハの春じゃないんだけど、そういう自由なリベラルな空気が一瞬漂うんですよ。あのね、トロツキーを読んでもいいし、それこそブハーリン読んでもいいし、サルトル読んでる奴もいる。共産党員の中で。そういう一時自由な雰囲気が蔓延るんですよ。それで、その中で私はトリアッチを、エルコリ・エルコレのころからのトリアッチを引っ張り出して読み、8回大会も読み、ピークの統一線戦術も読みました。そういうもので、スターリン主義と違ってこういった路線が国際共産主義運動の内部にあるんだという理解を持ったわけです。まあそれはイタリア語を中心にしてるわけですけれども。それをもし構造改革派と呼ぶのならば、構造改革派の原点というのは、どうもそういうところにあったように私は受け取るんですよ。もう一つはね、国内の問題で、例えば松下圭一さんの大衆社会論、あるいは井汲卓一さんの経済学だとか、そういうものがあったんですよね。日本人の書いたものの中で。あるいは古くは中西功意見書だとか、まあこれは佐藤昇さんの本ですけれども、そういうことと安東仁兵衛さんたちが現代の理論をはじめようとして、色々な人たちと接触してる、そういうことと国際的な問題と重なって自分はやっぱり全学連反主流派だけではなくて、構造改革派だっていう自意識になっていく。それはどの時期からとはいえませんが。
斎藤 構造改革っていう言葉は当時、使われてはいなかったんですよね。構造的改良というふうにわれわれもいっていたし、それからブントの方も構造的改良派とわれわれを名付けて「われわれの最大の強敵は構造的改良派である。これを打ち倒さない限りわれわれの勝利はありえない」と、これは島の文書だっと思うんだけど、そういう意味で構造改革っていうのは後に社会党に入った江田派の諸君がつくりだした造語なんですよ。
黒羽 そうなんです。それはその通りで、つまり用語問題に一番うるさかった石堂清倫という人が言ったんです。「構造的改革と構造的改良っていうけれども、これは構造的な改良闘争の蓄積であって、あくまでもブルジョア主義的には構造改良と呼ぶべきだ」という規定をするんですよ。それで構造的改良という言葉が定着してブントの方もいわれる通り構造的改良派とわれわれを呼んでいたんです。
司会 では中島さんどうぞ
中島 私は57年に神大に入りましてね、当時原水禁運動がずっと続いていた時ですけれども、その秋の自治会の選挙で御影分校の委員長に立候補して当選したんです。まだノンポリです。それで当時神大自治会の政権を握っていたのが日本共産党神大細胞で、その委員長をやっていたのが石井さんだったんですが、彼から声をかけられまして、一本釣りをされた。まあ学生運動が好きではじめたわけなんだけれども、学生運動を続けるためには当時はとにかく共産党の細胞に入っておかないと権力(笑)がそういう状況だからね。それで、その神戸大学細胞なんですが、当時すでに全学連の8中委、9回大会で層としての学生運動だったりとか確立されて、それを強力に大衆運動として展開していこうとしたのが当時の全学連副委員長の牧さん、高野書記長ですよね。9回大会で石井さんも中執に選ばれて、そこではじめて高野、牧、石井、というリンケージができ、神・早稲田派となっていき、そういう運動をやってる共産党の細胞に入ったわけです。それは時あたかも共産党の58年ですか、7回大会、それから続いては61年の8回大会に向けて綱領論争がはじまっていったわけですね。その中で次第に構造改良路線らしきものが形成されていった。それも元を正せば層としての学生運動論という大衆運動論が基盤になっていると私は理解したわけですが、そういうところから、構造改良派としての私の運動というのは始まった。
斎藤 ブントもある意味で、層としての学生運動を、別の形で代表する存在なんですよ。今、公平にみますとね。トロツキストグループにね、実は厳密に区別すると2派ある。トロツキー教条主義者っていうふうにブントの方でもいっていたけれども、純粋のトロツキストと、大衆運動をベースにしてやらないと党派形成っていうのはできないんだという島のグループと、これがブントですよ。
須田注記)革共系を純トロ、ブントを準トロと呼ぶことを最近知った。なかなかよくできているが,座談会向きではない。我々は洋トロ(4トロ)、ヤマトロ(大和のトロ)と区別したと思う。
黒羽 つまりね、それ私流に言い方を変えると、8中委・9回大会路線、つまり武井以来をね、そういうものを継承するということの正当性を私は頑強に主張してあると。それで大衆運動を党支配の道具に使うという考え方に反対だったから私は離党したんですよ。その道具に使うという考え方が根源的に間違っているんですよ。後にして思えば斎藤さんのいうつまりトロツキー派ですね、二つのトロツキー派ではなく、本当のトロツキー派、つまり革共。逆に右に宮顕派というものがあって、それでこの2つとも層としての学生運動にはあまり縁がないんですよ。それでおっしゃる通り構造改革派もブントも、いわば層としての学生運動に依拠しよう、しつづけて、まぁどっちも最後は違っていくんですが最後まで層としての学生運動に依拠しつづけようとしたのは、つまり構造改革派ってことじゃないですか。
司会 わかりました。皆さんのご意見を伺って今黒羽さんがおっしゃったように片や代々木、片や革共同があって、その中間でわれわれは闘ったと。そのなぜ主流派と反主流派に別れたのか、そこの所を伺います。また安保闘争については、主流派の西部邁さんや加藤尚武さんなどは、安保とかそんなものは問題でない、共産党からわかれたブントをアピールできればよかったと思っていたといっています。その辺の違いを伺いたいのですが。
中島 その前に一言。層としての学生運動論にはわれわれもブントもあったんだといわれるけれども、僕はそれは層としての学生運動論の持っている大衆運動としての自立性ということで考えるならば決してブントはそうではなかった。層としての学生運動、自治会に依拠した学生運動というものを利用しようとしたにすぎないんですよ、彼らはね。
栗山 そうでなければあんな学生運動論成立しないですよね。
斎藤 そうそう、僕はそれを付け加えようと思ったんですが、要するに層としての学生運動というものを抜きにして、党派形成もできなければ運動もできないと、いうことを知っていたという点では構改派とブントは同じだと。ただ決定的な違いは、今中島さんがおっしゃったように、ブントはあくまでも党派形成のマヌーバーとして、という言葉を彼らはしきりに使っていますが、要するに学生運動を利用して、その中で自分達は影響力を伸ばすんだと、そういう意味で学生運動だから。層としての学生運動でわれわれが大事にしたのは民主主義の問題だった。
司会 そこは重要だと思いますね。
斎藤 民主主義っていうのはブルジョア支配の道具であって、そんなものはいくらでも改変できる、利用できる限度で民主主義を考えるというのがブントです。
司会 その民主主義と裏腹に、今度暴力の問題がでてきます。民主主義を否定するがゆえに、暴力を是認するという具合にね、そこがわれわれとの大きな違いではなかったんですか。構造改革とは、民主的に自分達の主張を実現していくという点が基本ですね。
黒羽 それともう一つ付け加えさせてもらうと、私はこれは主流派、反主流派というよりもブントに対してこういう意見を持っているんですよ。ブントの理論っていうのは単純化していえば、政治的な危機を学生運動によってつくりだして、政治権力を打倒して、いずれこのブント中心としたかなんか知らないけれども、権力を獲得してね、その権力によって何事かをやると、いう革命観だね。革命理論とはいいませんよ、革命観がずっと一貫しているというふうに私は思うんですけれども。それで構造的改革っていうのはね、一言でいえばもちろん権力の打倒なり、権力の獲得を目標にするんですが、その前、例えば現在であったって色んな司法制度上の問題があったり、選挙制度上の問題があったり、経済機構の問題があったり、そういうものの中で改良闘争を積み重ねながら多数派を結成していき、その多数派に支えられた権力を構築するんだっていう考え方が根底にあるわけだ。革命観が。この革命観の違いがね、ブントと構造改革派をわけている根源だって私は思う。
司会 私もそう思います。ですから、主流派系の人はその革命観と現実のギャップが生じてきたときに、とことん突っ走るかまったくドロップアウトしてしまうか、の2極化に落ちいらざるを得ないでしょうか。ところが構造改革を学生時代からやってきた人たちは、社会に出てからも連続性があり、運動を続けられる根拠がありますね。もちろん目的である国家については多様な考えがあり、現状の社会主義国家は否定されますが、民主主義的国家を目指すという点では矛盾はないですね。
斎藤 それに加えて、これはあんまりいわれていないことだから、この機会にいわせていただくと、そういうブントの持っている矛盾ですよね、学生運動の代表者だ、というような顔をしながら実はそうではないというその矛盾が極点に達したのが、70年安保だった。70年安保における、火炎瓶であるとか、色々な、今ではもう語り草になっていますが、大衆運動としての学生運動はまさに彼ら、あるいは彼らの後継者によって、自己崩壊をしたわけですよね。学生運動を潰した責任がブントにあるんですよ、そういう意味ではね。そこの事が明確にされないと、正しい学生運動史というのはできない。
司会 そうですね、それは斎藤さんのおっしゃるとおりなんですが、じゃあ、それに対して構改派は多数派になれなかったという点はどう総括しますか。
斎藤 糸口として構造的改良派というのは一つに反主流派として出発したわけですよね。東大学内では私が大学に入った時に細胞そのものが存在しないくらいの極端な敗北ですよ。大衆運動のレベルで主導権を奪還するということはできた。一気にその年のうちに勝負つけちゃたわけですからね。実際には委員長選挙でも勝ってるわけだし、トリプルの3対1ですからね。構造的改革というプログラムをもった党派として、組織的に訓練される、強化される、そういう暇がなかったわけですよ。それですぐに共産党の8回大会でわれわれだけではなく、大人も含めて構改派が惨敗したわけですよね。その惨敗の原因はまた別にありますが、学生運動の場合にはとにかく、学生運動のイニシアティブをとらなければいけないと、これは向うもそう考えている、こっちも即自的にわかることだから。その勝負をほとんどつけられるような状況に至るまでが精一杯だった。自分のところの活動家を本当の意味で鍛えて、新しい構造的改良にふさわしいような集団に自己形成できなかった。その原因はまずわれわれ自身の弱さにあるでしょう、そう考えるべきですよね。だけどもう一つはそういう最初に反主流派を形成した人たちの理論的な弱さ、政治的な弱さ、それも歴史として指摘せざるを得ない。しかもそういう弱さは共産党の中央の中で、党内闘争やってたね、まず8人の中央委員と中央委員候補、この人たちが極めて理論的にも色んな意味で貧しかった。そして、最後は党内闘争そのものを放棄して、春日庄次郎離党ですよ。散々学生が一生懸命やってきて、やっと多数派になったら、指導者の方は晴耕雨読だっていうから、これはもうどうにもならないと。それが一つと、もう一つは、現代の理論グループの持っている問題。これは現代の理論第1次です。現代の理論の巻頭をね長洲一二さんが書いているんです。長洲さんのあれを読むとやっぱり当時は気がつかなかったけれど、完全に解党主義ですよ。共産党を変えるとか、良くするとか、そういう発想は全然ない。だからもう長洲、井汲さんは割とクラシックなところがあるから別として、当時両輪的に学生に対しての影響力、社会的にもあるけれども、影響力があるような人たちと、それを50年の人たちが支えたわけですよね。力石さんとか仁兵衛とかね。武井を除いて。その人たちはもう党内闘争に見切りをつけて、社会党に入ろうと、あるいはもう完全に自分の事ですよ、極端にいうと。要するに自分が都合よく生きられるという方向に行こうと、例えば政策提起集団でいいというようなことをいって、だから本当の意味での政治的な党内闘争、責任を持った党内闘争はやっていなかったわけですよ。それをわれわれは見抜けなかった、まだ若かったから。ただ実際に共産党8回大会どうするかという土壇場になった時にそういうことが見えてくるわけですよ。それで東大の場合には細胞解散した。一切そういう人たちと政治的な関係を持たないと、そういう結論に到達した。
仙波 いや、斎藤理論にちょっと私は反対、異議があるな。
斎藤 いや、だからまず問題提起だから
司会 構造改革が運動体として機能しなかったということと、日本的土壌の中で受け入れられなかったというその辺はどのように思いますか?
仙波 僕はちょっと反対って極端な言い方をしたけれど、もっと主体的に捉えないといけないと思うんですよ。なんというか主体的に捉えることと同時に学生というものが持っている限界、特徴もあるけれども宿命的な限界、というのはあると思うんです。僕は別に自慢するわけじゃないですが、早稲田の場合のぎりぎり7年生までいて、60年安保の後も、それから党内的にも、早稲田は皆さんご存知のように、革共同の中の革マルがずっと伸びていくわけですよ。それは60年安保敗北後に伸びていくわけね。それはもう有名になっちゃって早稲田が拠点になっちゃったんですが、僕なんかの心情からいうと卒業間際までぎりぎり頑張って、頑張りきって一応7年でおさらばしたっていうことがあるわけですよ。そうするとやっぱりなんていうのかな、一つ言いたいのは、学生というのはね、この継承、さっき学生運動がなくなったみたいな話があったけれども継承性っていうのはすごく難しいなと思うわけ。僕自身も若い世代に、1年とか2年とか下の学年に継承したつもりでいるし、継承したからこそしばらくの間は革マルと対峙する形でね、でも革マルはどんどん伸びてくるんですけどね。頑張ったところはあるんだけど、その辺の継承性っていうのはひとつ何派であろうと難しい。特に極端にいうとブントなんていうのは革マル派に継承しちゃったようなもので、自爆してるわけですよね。それで今華やかに神話みたいになっていますが、あれほど政治的に無責任な放棄っていうのは無かったと思うんですよ、早稲田大学レベルでいうとね。だから一つはやっぱり一般論になっちゃうけれども、層としての学生という言葉はいいんだけど、現実具体的にいうと、その連続性というのが無いわけですよやっぱり。皆大学生って4年で卒業するし、頑張っても東大は8年とか10年とか早稲田は8年でおしまいだとかっていう話がありますから、それがどうしてもある。それから今いった話とちょっと同じなんだけれども、構造改革派、まぁ反主流派って形でもってて、反主流という根性といったら悪いけど、もってるものといったら自らテーゼっていうのをつくらないですむ場合があるわけじゃないですか。つまり何かに対してアンチだということでやるわけですから、日本共産党の中の反主流派、全学連の中の反主流派ってことで主流派自体がしっかりしていれば反主流派としてもね、それはもう対峙した形で形は成すけど。じゃあ例えば1961年の8回大会直前、直後、構造改革派はどうだったのか?というと、まあ斎藤さんがおっしゃったようなていたらくだったとは思いますが、学生レベルで例えば早稲田大学でいうと1961年を境にもちろんわれわれ処分されたと同時に離党するわけですが、早稲田大学細胞の約100名の党員のうち、僕は一番若年の細胞員、最後の細胞員として入って、細胞のことをやっていたから知っているんだけれども、要するに9割皆離党したわけですよ。 それで構造改革派に残って、それで早稲田大学内のレベルでいうと、学生運動としては結構しっかり維持してたというのは1年あったのか、2年あったのか、3年あったのか、というレベルでしかないわけ。だからその辺の、なんていうか、構造改革派としての主体的なその問題、っていうのは学生分際だからとかっていうことじゃなくて、やっぱりもう二十代のいいところに来ているわけだから、あの時代ね、その辺はもうちょっと反省というか主体的にこうちょっと総括・・・
司会 だからあくまでも共産党に依拠していたから大衆運動として勝てたんであってね、もし共産党がなければ、構造改革だけで大きな力にはならなかったのではないですか?
斎藤 そうそう、そこも大事なところで実際われわれは反主流派といいながら、やっぱり共産党の存在というものに客観的な意味で助けられてきた。それでやったということは間違いないわけですよ。今、公平に見た場合にね。そして共産党の影響力というのは、われわれが思っているより、はるかに大きくて広いものであるということも自覚が足りなかったな。だから、さっき黒羽さんがいっていた六全協の後にある解放感というものが党内にでてきて、それは非常に自由でしたよ。非常に珍しい現象なんだけれども、少なくとも61年、まあ60年からちょっときな臭くはなってきたけれども、7回大会から8回大会までの間というのは、むしろ春日さんの離党が顕在化し、その直前くらいまでは割と自由だったわけですよ。とにかく世間の人が考えるのと違って。だからそういう意味で、われわれも中央に対して権威性を覚えたこともないし、簡単に共産党の権力をとれるかのように幻想を抱いた。
小塚 例えば構改派としての問題点というと結局2つあるんですよね、今斎藤君も言いましたが、いわゆる日本共産党及びそれに反対した統社同、社革、こういう党派的な全体の構築、これはある意味では社会党の構改派も入ってくるかもしれない。そういう流れと大衆運動としての学生運動の中での反主流派というか構造改革派が、どうなっているのかと、これは一体化しているけれども区別はしなければいけないんではという感じはします。
黒羽 私は党のレベルでの問題点で、意識として斎藤さんにいくつか共鳴する部分があるんですが、私がつくづく8回大会、春日離党の前後でかんじたことは、統社同とか社革とか、こまごました問題はあるんだけれども、それよりも何よりもわれわれは本当に構造改革派としてあの代々木という権威主義的な党と闘って、あいつらの権力をひっくり返すっていう展望を本気で持ってたかということをつくづく思った。というのも私はたまたま代々木のあれをもらって全国オルグに行くんですよ、60年安保が終わった後に。それで全部代々木から、こう、信認状を貰って全部歩くわけですよ。それでちょっと言い方をかえすとさっきの話にもなるんですが全学連11回大会では1割にも満たなかった反主流派が、全学連14回大会では4割近くになっているんですよ。これは明らかに代々木と構造改革派が合体しちゃったうから。例えばわれわれは宣伝カーひとつ、都自連で自主的に調達ができてないんですよ、あるいは全都にまいたビラ、これはあかつき印刷を借りているんですよ。(笑)で、そういう依存関係というか、そういうものがあって学生運動の中で多数派への道を開いていったということですよ。それをひっくり返すと本気に代々木後もまあ党権力って言葉は変だけれども、その党権力を覆して構造改革派の党をつくっていくんだと、いうふうに考えていたかということなんですよ。
須田 その頃の替え歌があってね、斎藤が大っ嫌いな歌なんだけど、「線路の仕事」の替え歌。ブントの退治はきりが無い、で、汽笛の響きで息絶えると、いうところが、代々木の民々ブッ倒さなければブントの退治は終わらないっていうのがあって、その後正確には覚えていないんだけど、結局代々木の民々ブッ倒すのできないわけですよね、で、ブントと一緒に息絶える、というんです(笑)
司会 (笑)その歌ある意味象徴してるよね
須田 全部正確に覚えていれば非常にわかるんですが(笑)その歌が東大細胞の中で非常にはやったんですよ。斎藤はカンカンになって怒っていましたがね。
須田注記)
1 ブントの退治はいつまでも   ブントの退治はきりがない
  代々木の民々ブッ倒さなければ   ブントの退治は終わらない
2 ブントの退治もしまいには   ブントの退治も?????
  代々木の城からオッポリ出されては   ブントと一緒に息絶える
司会 アンチ共産党ということだけで、ブントは存在をアピールできるわけです。ところが共産党の中で構改派というのはそういうアピールがしにくかったんですよね。
黒羽 それがやられていないから、8回大会で反綱領派として、あの時は反党章派だろうけど、離脱するんですが、それは例えば広島県にいたり、大阪にいたり、神戸にいたり、東京にいたり、それから富山にいたり、北九州にいたりね、ところが全然実務的、人的な交流も経験の交換とか、それからパッとコミュニケーションがすぐ交換できるという関係にもなっていないんですよ。それはたまたま現代の理論という雑誌を通じて人脈であったり、あるいは学生の場合は全学連の端くれとしての人脈であったり、そういうことであって、その新しい前衛党を代々木にかわってつくりだすというようなための、さっき斎藤さんが使った言葉でいえば、そういうふうに党員がつくられていく、そういうスクールというのは無いんですよ。
司会 だからどちらかというと構造改革派というのは、理論集団のようなところがあって、頭でっかちといえますよね。
小塚 だからいい意味でも悪い意味でもやっぱり現代の理論ていうのが一つの象徴なんですよ、構造改革っていうと。これは理論的にもそうだろうし、それからなんというか、「時代の雰囲気」みたいなものとしてもそれはあったと思う。
黒羽 だから実際にはっきりしている例えだと、広島県の地区委員会レベルでガサッと動いたわけですよ。そういうのは他にも1、2あるんですよ。あるんですが、それはぜんぜんその面識もなければ交流もないし、その党内闘争の共通性もないんだよね、それが一度にバサッとなんか、なんだっけ、1番最初の社会主義革新運動準備会なんとかっていうにね、ダァーッととりあえず皆集まるんだよ。だけどそこへじゃあ離党した人が皆集まるかっていうと、そうでもないってことが後になってわかるんだよ。
小塚 だいたいそこから出た8人の中央委員が全部違うんだから。春日さんは晴耕雨読だっていうし、内藤さんは党つくるんだっていうし、中野重治とか鈴木市蔵は残るっていうし、だからその人たちの間で、全然議論していないんだよね、集まって。
仙波 政治家っていうのは学者文化人なんだよね、どちらかっていうと
須田 集まって議論するということは、分派であるということで、禁じられていたわけですよね。それを宮本顕治が非常にうまく利用して。
仙波 やっぱり上田・不破のさ、裏切りじゃないけど、移動?移行ていうのはさ、すごい響いている面もあるんじゃないですか?
黒羽 少なくとも私は雲英晃顕と川上徹と、私と3人で最後に会いましたよ、 代々木から出る時に。それで説得したんですよ、川上徹も一緒にいって、そしたら川上徹と雲英晃顕が二人一緒に私に反論したのは、要するに上田耕一郎と不破哲三の路線でやるんだと言ったんですよ。そこでわれわれは、それは分派の禁止があるからね、そうなんだけど、イタリア共産党みたいにいわゆる流派が党内で公然と闘い合うという、そういうものが全然なかったわけですよね。かえって六全協の合体によって、形式上の一体性みたいなものが、ボワッとできちゃってて、ただ分派の禁止だけが残っているという。
斎藤 だけど実際問題としていえば、中央委員会を中央委員、それから候補、それを縛る民主集中制ということはあったけど、党全体を見渡せば、そうではなかったわけで、まだ色々やれたわけですよ。だからわれわれも存在していたということもあるんだけどね。兵庫県なんかも相当強い力を持ち得たわけでしょ?だけど闘争ていうのはどんな政治闘争でもそうだけど、軸になる奴がしっかりしていなきゃそれはどうにもならないんだよ。その軸がいなかったら。じゃあ逆にブントは学生運動党をつくろうとしたわけでしょ?一つはわれわれは50年の先輩を抱えている、更にその戦前からの人もいると、いう状況の中で、とにかくそういう人たちを全部切って、学生だけで新しい党をつくると、こういうふうにはいかなかった。あるいはそういうものに依存していた、先輩にね、その甘さっていうのがはっきりあるよ。だから、それが結局この早稲田とか神戸とか、元々反主流派できていたいわゆる構造的改革派の組織が強かったところですら、党員の意識が全然成長していなかった。それはその後の解体にも結びつくわけですよ。だから自己崩壊したという意味でいうならば、まさにそのブントもわれわれも同じだと言わざるを得ない、結論はね。ただ、そのよってきたるゆえんというのはね、やっぱり相当分析しておかないと、という件については仙波君とはちょっと意見が違うのは、確かに層としての学生運動っていうのは突き詰めて言えば、学生時代に進歩的なことをやればいいんだと、そういうことを学生時代においてだけ、進歩的なことをやると、そういうエネルギーでも、それは層として結集し、一つの民主主義的な方向を目指して決起した場合には、大きな政治的インパクトになると、そこまでは正しいわけですよ。今でも俺はそれは正しいと思っている。だけど同時にわれわれ、少なくとも僕にあった意識は、一般の学生はそれでいいと、だけど指導部である前衛党に属するものにはそんなこと言わせない。学生の時だけ共産党で卒業したらもう官僚になったり、まったく右になったり、そんなことしていいなんていうのは許されないというふうに考え、そういう方向で動いたつもりでしたが、なにせ時間があまりにもなかったですよ。
中島 そういう意味では学生運動を除いて代々木も、たいした運動基盤を持っていないわけですよ。そういう中でセクト的にはかなり厳しいものがあるだろうけど、大衆運動を基盤にしてですね、民主主義を進化させて行こうというような、われわれの運動は代々木を乗っ取るとか、改革するとかいうことによって可能か、というとまったく不可能状態だった。だからそういう戦略さえたたない代々木を離党するわけですよ、8回大会の綱領論争の過程でね。綱領論争の内容そのものよりも、論争を組織すること自体、抑圧されるような状態でしたから。だから脱党せざるを得なかったわけですよ。だからその時にわれわれは、そうしたら何か新しい党派的な結集をすべきなのかどうなのか、といった議論があったと思う。思うけれども、純粋に党派的に結集するということは構改派としてはもっとも構改派らしくない結集・・・
小塚 11回大会で少数派であったということは、いってしまえば牧さん、高野さん、が少数派、結論的にいえば、例えばわれわれ中大2部なんていうのはどちらかといえばアンチ代々木ですから、11回大会の時点ではまだ主流派ですよ。さっき黒羽さんがいったようにね、11回から14回の間に細胞会議で随分と議論して,結局全自連へと向かうわけですよ、それで6対4というところのひとつの要因になっていった。
黒羽 11回大会の時点ではその中大2部が明らかに、丸山君が代表してそういう態度を表明しているんですよ。そのどちらにもちょっと与しずらいと、現状では。それでこれは関西の方では北小路敏がそうだったんですよ。そう(いう)趣旨の発言をしているんだ、大会での席上で。
須田 僕が11回大会に教養学部自治会、入学して2ヶ月目ですか?評議員で出席しているんですが、小川というでっかいのがいてね、文学部のクマさん、あれが行動隊長で、悪い奴らを追い出す組織の一員に選ばれていましてね。それで(笑)ちょうど向かい合ってスクラムを組んでいたわけですよ。そのそちら側の中で、これは何をやっているんだろう、という議論はスクラムを組んでいる人たちの中にはありましたからね。そういう意味ではなんというか、戦術としてね。
司会 疑問はあったけどやむを得なかったと
須田 戦術としてはやむを得なかった。ただその戦術の具合が非常によくなかったのがどこで現れたかというと、僕は11回大会よりはむしろ11回大会から、それから共産党の8回大会の後、いわゆる・・・ありますよね、なんという組織だったか忘れたけれども、その組織で集まった時の最初の会議で、斎藤がブントの批判をするんですよ。そうすると都委員会にいた武井さんなんかのグループね、芝寛とかね、その辺を中心にして、ブーイングがあがるんですよ。要するにここでブントについて悪口をいうことは許さんということです。芝は怒って退場しちゃったんです。だからあの辺でわれわれはブントとどのように違うのかということを、共産党の中へのアピールも全然できていなかった、それまで。学生運動の中では、共産党の中へのアピールはあれでできたんですよ。11回の時でもって。学生運動ではできたんだけど、学生運動以外の舞台で、特に安保闘争の期間を通じて、われわれがアピールすることは、少なくとも共産党に対しては非常に弱かった、共産党と一緒にやっているという感じが非常に強かったから。だから共産党を、いざやめようという時の学生の方は動きが速いからね、みんな入れ替わっちゃっているけど、学生でない人たちというのはブントの人が大勢いたわけですよ、一緒にやめた人の中に。その人たちと、まさか行動を共にするわけにはいかないですよね(笑、そういう問題がそのまま辞める時点になってブントとの対立がああいう格好であらわれてくるとは本当に意外でしたよ、あの瞬間は。
小塚 大衆運動として11回大会以降ですね、安保闘争がかなり盛り上がってきた59年に例えば11・27それから1・16へいくとこの流れの中でのブントの凄まじい一揆主義、街頭闘争、これに対する批判というのは、かなり絶対的に強くなってきたと。一方で反主流派は統一戦線ということで国民共闘の決定に従がおうということになり、60年から61年にさっき黒羽君いっていたように、都自連から全自連、それから更に全学連再建協議会というふうに移るわけですよ。すなわち全学連に別コースをとるわけ。このことは、確かにやってたわれわれとすれば、今更ブント全学連、それから当時はブントだけじゃなくて、革共同もいたわけですが、そこと一緒にやってて実際全国的な学生運動できるのか、ということについての限界が生まれてきたことは事実ですが、しかし明らかにそこから全学連の中における別派と、別の全学連を、という思考が俺は代々木の指導も含めてあったと。ここらへんは黒羽君が(笑)
斎藤 ちょっと待って。あのね、全自連を全学連再建協議会に切り替えようと提案したのは僕だった。それは2つの全学連をつくるという意味ではなく、全自連を固定化すると、まさに2つの全学連になっちゃうと。それで、もうすでに全学連全体をとれる客観的な条件は生まれているから、そういう意味で提起したわけです。はっきり全学連という名前を打ち出して、責任を負うということで、全自連は解散したほうがいいと、この辺は微妙に黒羽さんと意見が違いましたね。
仙波 それはいいんだけど、今の話はどちらにしても、大衆運動、大衆組織レベルの話じゃないですか。僕は黒羽さんに聞きたいのは、その微妙にこう、僕もさっきから聞きたいと思ってたまたまいったから、それはその通りだと思うんだけど、今の話、ちょっと整理すると、僕がなんで聞きたかったか、というと、その辺を注意しなければいけないのは構改派っていう問題があるじゃないですか。構改派の話はさっきずっとしてたじゃないですか。いわば政党、政治、政派の話だから確かに一緒にはなってるんだけど、一緒だけど別個の問題なんだよね、だからその辺を念頭に入れながら黒羽さんに聞きたかったのは都自連ね、全自連だったり作って、それが全学連再建派になったんだかならないんだか知らないけれど、その辺との兼ね合いの中で、じゃあ学生レベルにおける構改派は、全自連レベルというか全国レベルでどうだったのかな、というのは俺はあの頃完全に早稲田の民族派になっちゃってたからね、知らなくもないけど、勝手にしろみたいな話で、早稲田だけ守っていた、みたいな意識があったからね、その辺は聞きたいの。
黒羽 あのね、都自連っていうのは60年安保の前にもうできてるわけですよ。それで、これの最大の眼目は要するに東京でいうと駒場、早稲田、教育大っていうようないわゆる反主流派というか構造改革派の自治会に、その、要するに全学連非加盟校の問い合わせとか、参加申し入れがあったわけですよ、もう端的にいえば、例えば立教大学、慶応大学とか、あるいはわれわれが、えっ?そんな大学、場所はどこだっけ、なんていうくらいのそういうのが、ごごっときたわけですよ。で、それにどういう縛りをかけるかという話をして、それで安保改定阻止国民会議っていうのがあり、それの枠で縛っちゃおう、縛りをかけただけで、全学連非加盟のまんまでも、運動体としてやっていこうというので都自連っていうの。だからあくまで連絡会議っていう名前でつくったわけですよ。それはいわば事実上中心になってそういうふうにつくったわけですよ。それで安保改定阻止国民共闘会議の路線に従うか、従わないかっていうことで4・26のいわゆる装甲車突破と清水谷集会とに別れるわけですよ。初めてそれが組織的に別れて、それが都自連の最初の行動になりますね。
須田注記)4.26の動員数についてweb「れんだいこ」氏は
全学連 10000(うち東大駒場3000は唐牛のアジに従がわず)
都自連 11000
としている。結果として7000:14000だったことになる。
山中明氏は8000:11000で駒場に触れていない。
広谷俊二氏は6000(うち駒場3000):11000。
須田 もっと先に別れたのは羽田の時に別行動をとった、あれが最初なんじゃない?
黒羽 その羽田についてはちょっとややこしいんだけど、1・16については、あれは東京地評や社会党青年部なんていうのが、当日あそこで集会を開くっていうことを前の日までいってたんですよ。だから行くといっていたのが突如なんだかその、警察と自民党となんかとのが、あったんでしょう。いきなり中止になっちまったんだよね。それで、それをブントは知ってブント単独で突っ込んでいったわけですよ。で、われわれも中止になったということを知ったんで、いわば六郷土手の方から羽田空港に行こうとして、止められちゃうんだけど。で、そういう格好で分裂したというだけですね。
1) 日共関係は、小山弘健を引いた日本出版センター「私の証言日本共産党史」1970からの孫引きである。
2) 広谷俊二 「現代日本の学生運動」青木新書1966
3) 山中明 「戦後学生運動史」青木新書1961
4) 日刊労働通信社「全学連の実態」1959
5) れんだいこ webで膨大な学生運動資料を公開している徳田球一・田中清玄・伊藤律・田中角栄の崇拝者(1950年生まれ)





(私論.私見)