党史1、 |
更新日/2016.03.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、革マル派の党史を確認しておく。 2008.1.15日 れんだいこ拝 |
【クロカンの履歴その1、】 |
日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(略称:革共同・革マル派、通称:革マル派)(英語: Japan Revolutionary Communist League (Revolutionary Marxist faction))は、革共同系の日本の新左翼党派の一つ。 |
1957年、革共同結成。 |
1958年、革共同第一次分裂(太田派の離脱)。 |
1959年、革共同第二次分裂(黒田・本多派が離脱して革共同全国委員会を結成)。 |
1962年9月、革命的共産主義者同盟全国委員会が第三回革共同全国委総会(三全総)を開催した。三全総では、組織建設の方法や労働運動の戦術を巡って書記長・本多延嘉と議長・黒田寛一が対立した。本多派と黒田派の対立は組織の末端にまで及び、組織は分裂してゆく。 |
1963年2月、革命的共産主義者同盟全国委員会から分裂(革共同第三次分裂)し結成。議長は黒田寛一、副議長は倉川篤。 4月、黒田派が革共同全国委員会から出て行く形で分裂し、「革共同・全国委員会 革命的マルクス主義派」(以下、革マル派)を結成した。革マル派は後に「日本革命的共産主義者同盟・革命的マルクス主義派」と名乗るようになる。残された本多派は、のちに中核派と呼ばれるようになる。一連の分裂は「革共同第三次分裂」と呼ばれる。この分裂では、革共同本体においては、黒田派が少数派で、特に幹部クラスに至っては黒田、松崎明、森茂のみであった。しかし学生組織のマル学同や全学連では、黒田派が圧倒的に強く、本多派の方が組織から出て行く形で「マル学同中核派」を結成した。 |
1963年、革共同第三次分裂(黒田派の離脱)を経て、「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」が結成された。理論的指導者は黒田寛一。公然拠点は解放社。機関紙は月刊『解放』と隔月刊『新世紀』(旧『共産主義者』)。同時に学生組織のマルクス主義学生同盟(マル学同)も分裂し「マル学同革マル派」となった。なお革マル派が離脱した後の革共同全国委員会派は中核派となった。象徴であるヘルメットは、白地に赤いふち入り。前面に黒字で「Z」(「全学連(ZENGAKUREN)」の略)。 結成当初は「日本革命的共産主義者同盟全国委員会」から分裂したため「日本革命的共産主義者同盟全国委員会・革命的マルクス主義派」と名乗っていたが、後に「全国委員会」を外し現在の名称となる。ただし、機関や役職名では、「日本革命的共産主義者同盟全国委員会議長」、「日本革命的共産主義者同盟政治組織局」など、「全国委員会」が含まれている名称や「革マル派」が含まれていない名称も使用されている。俗称として、1960年代は黒田寛一の筆名(山本勝彦)から「Y派」、ヘルメットの文字から「Z」などとも呼ばれた。 |
1970.8.14日、中核派に変装した革マル派活動家30人が法政大学に侵入し、中核派学生十数人を襲撃する。 |
1972.11.8日、早稲田大学の学生だった川口大三郎を集団でリンチし、殺害。 |
1975.3.14日、中核派の最高幹部・本多延嘉を殺害(中核派書記長内ゲバ殺人事件)。 |
1977.2.11日、 革命的労働者協会(革労協)の最高幹部・中原一を殺害(革労協書記長内ゲバ殺人事件)。 |
1985.2.5日、和光大学構内内ゲバ事件が発生(和光大事件)。午後2時過ぎごろ、和光大学構内において、革マル派活動家が中核派活動家を襲撃。竹竿・鉄パイプ等の凶器を用いて暴行を加え、8人に傷害を負わせるなどしたため、凶器集合準備・傷害などの罪で逮捕・起訴される。 |
1986.1.20日、京都大学教養部構内で、中核派の全学連副委員長代行を殺害。 |
1987年、国鉄が民営分割化され、JR東日本などJR各社が誕生した。この移行に際して戦後、日本の労働運動を牽引し、社会党など革新政党を支えてきた最大労組の国労は、分裂・崩壊した。かわって躍り出たのが、かつてストや順法闘争の先頭に立った「鬼の動労」指導者の松崎明(1936~2010)氏。JR東日本労組の委員長としてJR東日本の経営や人事にも影響を与える存在となった。 |
1988.7.1日、京都大学教養部構内内ゲバ事件が発生。6人の中核派活動家が負傷。 |
革マル派は、対立する中核派などからの襲撃事件や、1990年代には神戸連続児童殺傷事件などでも、権力謀略論を主張した。警察側はこれらの陰謀論について、反権力意識の高揚や組織の引き締めなどが目的であるとの見方を示している。ただし黒田寛一の死後、上述した謀略論の展開は内ゲバ関係を除くとほとんど見られなくなった。解放社本社付近には交番・消防署出張所が設置され、警察・消防ともに監視しており、革マル派も解放社本社前に監視カメラを設置するなど対抗している。 |
1991(平成3).10月、革マル派の黒寛が、労対4人組を批判(森、土門、朝倉、西条?)。元全逓労働者土井(DI)の抜擢し、1970年前後から20年以上の活動歴をもつWOB(労対)指導部「四人組」を「組織実践のサボタージュ」とか「厳格な思想闘争の拒否」と断罪し追放することで危機をのりきろうとした。これによりいわゆる賃プロ主義者が台頭する。 |
1992(平成4).3月、春闘集会で、賃プロ主義者DIが三・一提起「解体的再創造」を打ち出す。。以降、賃プロ主義による内部思想闘争ひろがる。これにより自治労を中心に離脱あいつぐ。教労、沖縄、JR総連へと広がる、とある。黒田は93年夏まで実権を握り続ける。 |
1992(平成4).3月、革マル派が、同派の沖縄教労古参幹部の高橋利雄を拉致監禁し、しばらく後に大阪市内で遺体で発見された。 |
1992(平成4).5月、革マル派の政治集会で森、土門、朝倉、山里、西条が公開自己批判する、とある。 |
1992(平成4).7月、革マル派が、同派の沖縄党創設者にしてトップの山里章を拉致する。山里は以降2年以上にわたって監禁され「自殺強要」の死の恐怖にさらされ続けた。 この間、全駐労党トップの仲原忠義が賃プロ主義者に反発して脱退、とある。 |
1993(平成5).7月、拡大全国委員会で黒田議長が賃プロ主義者DIを「粛清」。 |
同年11月、賃プロ主義者が粛清された後、沖縄革マル派の内部抗争が激化し、全面的な対立へと発展し非和解的に進行した。 |
1994.12月、山里がカクマルの監禁から命からがら脱出生還した。これをきっかけに一夜にして沖縄組織の圧倒的多数が革マル派から離反した。 |
同年8月、17回大会で、黒寛が、「一部の革命主義的偏向の克服」。JR総連内革マルの「反党陰謀活動」に対する闘争?、とある。 |
10月―12月 産別委全国代表者会議「X地方組織の建て直し」、X地方とは沖縄か(松崎が仲裁?)、とある。 |
1995(平成7)年、革マル派沖縄県委員会の高橋利雄の拉致・監禁・殺害。山里章の脱落・逃亡により、沖縄県で大きな勢力を誇った革マル派組織は壊滅的状況に陥る。 |
同年10-12月、JR労組幹部(鉄道友愛会議長)宅に電話盗聴。 |
1996(平成8).2月、JR内部で活動する革マル派の実態を告発した『JRの妖怪』の著者である小林峻一の自宅から取材メモやフロッピーディスクなどを盗み出し、その情報をもとに、取材に応じた関係者に対して脅迫や嫌がらせを行う。これに対し、警察は革マル派非公然アジト「大和アジト」を家宅捜索。 |
1996.5.14日 、神奈川県横浜市青葉区新石川の國學院大學たまプラーザキャンパス付近の路上で午後9時ごろ、内ゲバ事件が発生。革マル派活動家の元早稲田大学社会科学部自治会委員長が死亡。6人が負傷。 |
同年8月、国鉄労働組合(国労)本部書記長(当時の企画部長)宅に不法侵入する事件を起こす。 |
同年10月、議長・黒田が辞任し、後任議長に植田琢磨が就任。 |
1997(平成9).6月以降、神戸連続児童殺傷事件は冤罪だとする闘争に乗り出す(米国のCIAによる「謀略的権力犯罪」であると主張)(神戸事件をめぐる革マル派事件)。 |
同年8-10月、早稲田大学学生部長宅盗聴事件。これに対し、警察は革マル派活動家10名人を指名手配。 |
同年9月、神戸連続児童殺傷事件の被疑少年の精神鑑定を行った医師が勤務していた神戸市北区の兵庫県立光風病院に不法侵入し、警察・検事調書の写し等の事件記録のファイル9冊を盗み出す。また、盗聴器を仕掛けるため、被疑少年の両親宅にも忍び込む。 |
1998.1月、革マル派非公然アジト「豊玉アジト」が摘発され、偽造した警察手帳や公安調査官証票などが押収される。 |
同年4.9日、革マル派非公然アジト「浦安アジト」が摘発され、警察無線解読機器などが押収される。これにより、革マル派が警察無線の傍受を行っていた事が発覚する。 |
同年11月、革マル派非公然アジト「厚木アジト」が摘発され、鉄パイプ、鉄棒入り竹刀、サバイバルナイフ、鉈、まきびし等の凶器が押収される。 |
1999.1月、革マル派非公然アジト「荒川アジト」が摘発され、指名手配中の1人を含む非公然活動家4人が逮捕される。また、偽造ナンバープレート、鉄パイプ、まきびし、携帯電話電波妨害用機材などが押収される。 |
同年10.23日、早稲田大学法学部教授宅盗聴事件の電気通信事業法違反容疑で、革マル派非公然アジト「札幌豊平アジト」が摘発され、携帯電話、カセットテープ、文書類などが押収される。また、アジトにいた革マル派非公然活動家の荒井政則が、免状不実記載の疑いで逮捕される。 |
2001.4.7日、神奈川県横浜市青葉区新石川の國學院大學たまプラーザキャンパス構内で午後0時頃、同大学の学生自治会を事実上支配している革マル派の活動家ら数人が、サークルの勧誘をしていた同大学の男子学生を取り囲んで集団で暴行を加え、約10日間の軽傷を負わせたうえ、「なぶり殺しにしてやる」「家に火をつけてやる」などと脅迫。これに対し、神奈川県警察は被疑者を指名手配して捜索を行う。 |
同年6月、革マル派非公然アジト「玉川アジト」が摘発され、非公然活動家2人が逮捕される。翌月には同アジトの名義人だった小学校教諭が、犯人蔵匿罪で逮捕される。 |
同年11月、革マル派非公然アジト「名古屋西アジト」が摘発され、活動家1人が有印私文書偽造・同行使罪等で逮捕される。 |
2001.12.23日~2002.3.21日、國學院大學たまプラーザキャンパス構内で発生した集団暴行事件の被疑者として、革マル派活動家の早水潤二・北條純・福本満および岡田貴行が、傷害と脅迫の疑いで相次いで神奈川県警察に逮捕される。 |
同年12.26日、警視庁と北海道警が、革マル派非公然アジトの札幌市中央区のマンションなど北海道内11カ所を捜索。神戸連続児童殺傷事件の調書窃盗の疑いで指名手配されていた、革マル派非公然活動家の塩田明男ら3人の逃亡犯が、アジトに潜伏していたところを発見され、逮捕される。また、早稲田大学法学部教授宅盗聴事件の電気通信事業法違反容疑で指名手配されていた広田雅明も逮捕され、さらに現場にいた革マル派活動家・住井秀行が犯人蔵匿の現行犯で逮捕される。 |
2003.1.17日、革マル派非公然アジト「貫井アジト」が摘発され、フロッピーディスクなどが押収される。 |
同年3.16日、「革マル派結成40周年・『共産党宣言』155周年記念革共同政治集会」を開催。議長・植田琢磨が「わが党組織建設の新たな段階を切りひらけ!革マル派結成40周年記念集会に際して」と題する記念講演を行う。 |
同年4.24日、革マル派非公然アジト「弥生アジト」が摘発され、パソコン、フロッピーディスク、ビデオテープなどが押収される。 |
同年6.20日、革マル派非公然アジト「福岡城南アジト」が摘発され、パソコン、フロッピーディスク、携帯電話などが押収される。 |
同年7.6日、「弥生アジト」に在室していた活動家2人のうちの1人が、詐欺罪及び有印私文書偽造・同行使罪で逮捕される。 |
同年9-12月、早稲田大学法学部教授宅に対する電話盗聴事件などで指名手配されていた革マル派非公然活動家6人が、東京都千代田区で逮捕される。 |
同年9.12日、「福岡城南アジト」の名義人だった小学校教諭が詐欺罪で逮捕される。 |
同年10.31日、革マル派非公然アジト「沖縄アジト」が摘発され、フロッピーディスク、携帯電話などが押収される。
|
2000年.10.6日、JR九州労の大量脱退事件が発生した。坂入や船戸、田岡といった松崎に続く位置にいるJR総連カクマルの古参メンバーが、JR九州労の北委員長やJR総連の小田委員長、山下書記長と意志統一してJR九州労の大量脱退を推進した。「10.23日付解放1641号」は、九州労脱退の「裏切り者」を「地獄に落せ」と指令する黒田の「短歌」を掲載し、「JR総連組織破壊者を破壊することこそが、わが党に課せられている任務」、「陰謀・策略分子」をうち砕け、「密通分子」を摘発せよ、と指示した。カクマル中央の西条武夫(木下宏)らが黒田の指令を受けて「南雲」(坂入)を拉致・監禁した。11.16日、JR総連は、小田裕司委員長名で埼玉県警に告発状を提出した。カクマルは、これに対して「11.27日付解放1646号」に弾劾声明を掲載し、『進撃』では「JR総連小田委員長は労働者階級の敵である」と批判している。11.27日、JR総連の小田委員長は、革マル派から「告発を取り下げろ」という内容の手紙が届いたとして脅迫容疑で告訴した。カクマルは「12.11日付解放1648号」に「小田裕司君へ」という「海道錨」署名の手紙を掲載した。小田が脅迫されたと言っている手紙で、そこには「最後の勇気をふりしぼって権力に助けを求めている己を打倒することだ。それをしないなら、我々が君を打倒する」と書いてある。小田はこれに対して「身体・生命・自由などに危害を加えると脅迫しています」と告訴状に書いている云々。11.24日、「11.27日付JR総連通信」によると、この日に開催されたJR九州労福岡地本主催のOB会の会場周辺で、革マル派の3名が九州労の北委員長を拉致しようとしたところ、北委員長と大先輩OBとを間違え、「『人違いでした。すみません』と謝り、そそくさと逃げ去った」という。JR総連は、革マル派を「労働者の゛前衛党″を語る労働者の敵・寄生虫=テロ集団『革マル派』」、「『侵入』『暴力』『窃盗』『拉致』『監禁』『盗聴』『盗撮』『尾行』『張り込み』等を繰り返すテロ集団」と弾劾している。 |
12.20日、JR連合の九州労組は、JR総連九州労からの737名の大量脱退について加入届を返却することを決定している。その理由は「拉致された坂入が仕組んだ大量脱退はJR革マル派が仕組んだもぐりこみ戦術だと暴露している以上受け入ればできない」というものだ。これに対して集団脱退した側は、「約束不履行だ」として抗議声明をだしたり、署名運動を行ったり、「約束を守らせる会」なるものまでつくって、JR連合九州労組への加入を求めるという異常な対応を行っている。 革マルに拉致された坂入が行方不明のまま、坂入名で「私を利用し、革マル派を権力に売り渡すJR総連の一部指導部を弾劾する」という自己批判書が革マルの機関紙に掲載され、また様々な所に送付されている。その内容は、「私は拉致・監禁などされていない。党内議論をしているだけだ。私が革マルをJR連合にもぐり込ませるために組合員を九州労から脱退させたり、会社から迫られて革マルとは一線を画すという指導を行ったことを自己批判する。自らの誤りに気づいた私はJR総連の執行部を許すことができない。告訴や捜索願を直ちに取り下げよ」というものだ。この文書が、坂入本人の意志によるものなのか、革マルに強制して書かされたものなのかは知るよしもないが、JR総連は、これに対抗する文書を乱発し、泥沼のような抗争を続けている。 一連の事態から明らかなことは、①坂入を拉致・監禁した側も、それを告訴したJR総連の執行部側も、どちらもゴリゴリの革マルであること、②権力や資本の側からJR総連に対して「革マルと根本的に手を切れ」という圧力がかかるなかで、革マル本体とJR総連革マルの矛盾が激しく なり、JR総連革マルが革マル本体から集団脱党する事態が起きたこと、③JR総連革マルは、松崎を先頭に、権力や資本との癒着をより一層懇願しつつ、革マルのファシズム的体質をそのまま維持して、「JR総連革マル党」「第二革マル」のようなかたちで、必死の生き残りを画策している。 12.9日、沈黙しつづけていた松崎が、JR東労組全支部委員長会議のなかで次のように発言した。
松崎は、これまで組合費などJR総連のカネを革マルに横流ししていたことまで認めた。さらに「革マルの攻撃から会社を守る」と称して、これからもJR東労組役員と会社の癒着・結託体制を維持するためには何でもすると宣言した。返す刀で「われわれの敵は革マルだけではない。われわれの組合を民主化しようと攻撃している弱小組合がある」などと称して国労などを攻撃した。 |
2001年、アメリカ9・11同時多発テロについて「歴史的行為」(「革マル派」機関紙「解放」2001年9月24日号)などと称揚していたが、その後は表面上は暴力性・党派性を隠し、組織拡大に重点を置き、基幹産業の労働組合や学生運動への浸透を図る戦術を採っている。最近は街頭での集会・デモなどの際にも「革マル派」というセクト名は隠して活動していることが多い。 |
2004年、スペイン列車爆破事件やイラク日本人人質事件などについて、ブッシュ米大統領による陰謀であると主張。 |
同年3.25日、革マル派非公然アジト「深川アジト」が摘発され、パソコン、携帯電話などが押収される。 |
同年3.29日、指名手配中の革マル派非公然活動家4人をかくまったとして犯人蔵匿の罪に問われていた、革マル派活動家の住井秀行に対し、札幌地方裁判所が懲役1年6か月・執行猶予4年の判決を言い渡す。
|
2005年、この年の7月7日に発生したロンドン同時爆破事件について、「ブッシュ帝国が米CIAおよびMI6・MI5をも組織して仕組んだ謀略」であると主張。
|
同年11.30日、神戸連続児童殺傷事件の調書窃盗の被疑者として指名手配されていた、革マル派非公然活動家幹部・竹内政行が警視庁に出頭し、窃盗と建造物侵入の容疑で逮捕される。
|
2006.1.6日、2005年10月26日に大阪経済大学で教職員に対する暴行したとして、革マル派の活動拠点となっていた大阪経済大学の自治会室や学生会室などを、大阪府警が家宅捜索。活動家8人を逮捕。
|
同年6.26日、 元議長・黒田寛一が、埼玉県内の病院で死亡(享年78歳)。
|
これより以降は、「党史2、ポストクロカン時代」で確認する。
(私論.私見)