自治会費問題考

 (最新見直し2007.10.20日)

【芝田進午氏の「学生自治会会費徴収に関する大学による代理徴収問題」論について】
 「革命的マル共連フォーラム」の2005.3.15日付「希流」氏の投稿「芝田進午の証言『実践的唯物論への道』より」

 僕が取上げた問題の一つは、学生自治会の会費徴収の問題です。法政大学においても中核派などのセクトが握っている「自治会」の会費を大学が代理徴収していて、数百万円の学生自治会費を彼らに渡すシステムができていました。なぜ代理徴収するのかが大問題で、代理徴収しないと存在できないような、自分らで自治会費を集める能力がない「自治会」の会費を何で大学が集めるのか。この場合、払わない権利は認められないんですね。授業料などと一緒に同じ伝票になっていますから、学生自治会費だけを払わないシステムや学生がそれを払わない権利は認められない。一方的に強制徴収する。そういう少数の、せいぜい十数人の者たちが牛耳る「自治会」に、大学が全学生から徴収した自治会費を渡すシステムがあるわけです。

 僕は、学部長になる前から、これは筋が通らない、廃止すべきだと主張していました。ところが、法政大学全体として、中核派に対して自治会費を与えることによって「手なずける」のが、大学のいわゆる「過激派」学生対策のポリシーになっていたのです。それを社会学部長の僕と経済学部長の尾形憲さんのところがなかなか承知しないというので、学務担当理事から早く出してくれという圧力がかかってくる。大学全体が、「あの連中は金をやって頭を撫でておけば、少なくとも教授、職員には暴力を振るわない」、しかし、中核派に反対する学生に彼らは公然と暴力を振るう、それに対しては大学側は何もできない、民青系などの学生の安全を保障できない、それら諸君は構内にも入れない、そういう状況が一般化していた。一般の道路を歩いている分には安全だが、大学の構内に入ると安全の心配をせざるを得ないという状況があった。こういう事情から、僕は学部長として、彼らに自治会費を渡すことに反対したのですが、教授会の多数は渡すべきだという態度だった。そのとき、即座に学部長を辞職すればよかったのですが、そのチャンスがなかったので、従来どおり執行せざるをえないことになりました。しかし、どうしてもそれを一般学生に対して説明できませんので、僕は学部長を辞し、さらには法政大学も辞めることにしたのです。

 これにレスが付き、2005.3.17日付「派の字」氏の投稿「芝田進午の証言」は次のように記している。
 私の知っている80年代の社会学部自治会は黒ヘル自治会で、「中核派などのセクトが握っている」とはまったく言えませんでした。70年代には芝田が言うような状況があったのでしょうか?

 芝田氏のこの発言をどう判断すべきだろうか。案外と重要な問題を内包しているように思えるので検討する。

【れんだいこの「芝田見解」批判】
 芝田氏の指摘する「大学による学生自治会会費代理徴収問題」は問題とされる意義はある。但し、芝田氏の説くような「一方的強制徴収システムが問題だ論」は俗耳に入りやすいけれども、果して正論足りうるであろうか。

 ここでは、法政大学のこととて中核派が槍玉に挙げられ、自治会費が同派の活動資金源に流用されていることへの批判が為されている。「僕は学部長として、彼らに自治会費を渡すことに反対したのですが、教授会の多数は渡すべきだという態度だった」と云う。最終的に、「僕は学部長を辞し、さらには法政大学も辞めることにした」とまで云う。芝田氏は実際に1975年、法政大学社会学部の学部長職を辞している。

 芝田発言の真意は奈辺にあるのだろうか、まずはその真意を質さねばならない。芝田氏は、この問題を通じて中核派批判をしているのだろうか。それとも、戦後学生自治会全体に共通する問題であるからして、芝田氏のシンパする民青同にも早稲田の革マル派にもその他諸々の党派にも適用すべき「学生運動問題」として、広く全国的に制度改革しようとしているのだろうか。何せ、学部長を辞しさらには大学まで辞めることにしたというのであるから半端な決意ではない。

 芝田発言は、上記二点のどちらの問題を問題にしているのかが分からない。そういうまどろっこしさがあるままに以下、れんだいこが立論してみる。

 「大学による学生自治会会費代理徴収問題」は、芝田氏の云うが如く違法なのであろうか。れんだいこはそうは思わない。この制度は、戦後最初期の教育行政施策であり、学生自治活性化政策として導入されたものと理解している。それは、当時の政策当局者が、学生に自治会活動を経験させることの有意義を踏まえていたからに他ならない。それは、当時のアメリカン民主主義の賜物であった。当時の政策当局者は、学生個々の任意加盟制にした場合と強制加盟にした場合の功罪を判断し、実務的に「授業料とのセット徴収の方が賢明」としたように推測される。

 この問題に関して、れんだいこの戦後学生運動考察戦後初期から(日共単一系)全学連結成とその発展期には次のように記している。
 戦後学生運動第1期は、敗戦直後から始る。「戦後民主主義」時代のスタートに立って薫風香る自治会活動を基盤として全学連が結成されていった時期である。戦後の学制は、戦前の軍部の介入に対する苦い経験を反省してか格別「大学の自治」を尊重した。同時に学生に対しては、「学生の民主的な社会性の育成」という大学教育の一環として、学生生活の向上や課外活動の充実をはかる目的で「学生自治会」 が用意されることになった。こうして各大学とも、学校側が各種の便宜を与えて、学生全員を自治会に加入させ、自治会費を徴収し、その運営につき学生の自主的運営に任すこととなった。

 こうした制度的措置は、恐らく、この当時の超規的権力であった「GHQ」による、日本国内の残存軍事機構及び勢力の一掃に伴う「アメリカン民主主義」的諸制度の拡充支援策の経過でもたらされたものではないのか。この当時、いわゆるアメリカン民主主義は勝利を謳歌しており、大学自治にも学生自治会にもこれを自由の中で陶冶させるべしと考える度量が有った、ということでもあろう。

 そのことはともかく、こうしてつまり、学生全員加入制による全納徴収会費が自治会執行部に任されることになった。しかし、自治会費は大きな魅力となった。これはこういって良ければ一種の利権であり、この後今日までどの党派が各大学の自治会執行部を押さえるのかをめぐって血眼になっていくことと関連することになる。

 戦後当初の学生運動は、「戦後民主主義」の称揚と既得権化を目指して学園内外の民主主義的改革と学生の基本的権利をめぐっての諸要求運動を担っていくことになった。歌声、フォークダンス、スポーツ、レクリェーションなど趣味的活動から、生活と権利の要求や学習活動、平和と民主主義に関する政治的活動が取り組まれた。

 問題は、このようにして生み出された「大学による学生自治会会費代理徴収」が、芝田氏の云うように悪法なりや否やの見定めにある。れんだいこは、良策ではなかろうかと思っているので、芝田見解と齟齬する。なぜ、良策と思うのか。それは、学生自治会執行部がよしんばそれが党派で塗り固められていたとしても、その活動に資金を要するのが当たり前であるからして、逆に云えば資金があるから活動し得るからして、学生運動事態を敵視しない限りこのこと自体に目くじらする意味は無いと思う。つまり、学生運動を支持する目線からは、「大学による学生自治会会費代理徴収」は有り難い制度であり、それを「個々の学生の自主的納入制」に切り替えることは、学生運動を失速させることに繋がると思うからである。

 このことに関して触れておきたいことがある。一般に日本左派運動はどういう訳か、日共不破式衛生思想的キレイ事云い師運動に捉われすぎているのではないのか。それでもっと自縄自縛し過ぎていやしないか。その際の論理にあるのは、封建思想的士農工商論理による「お金を穢く見る発想」では無かろうか。誰でも運動実践主体になれば分かるが、何事にも「先立つものは金である」。あるいは「金が無いのは首が無いのと同じ」とも云う。これは古今東西よりの真理であろう。にも拘わらず、資金調達に手を染める行為自体を疎ましく思う作法に浸りすぎていやしないか。

 田中角栄政界追放過程で論ぜられたのもこの種の金権批判であり、れんだいこはそれは大いに却って不正な論法であったように思っている。然しながら、ここでは芝田氏だがその他左派風人士の多くも同様にこの悪風に染まっているのではなかろうか。この件に関してはその根は深く、連中がパラダイム転換させない限りれんだいことの議論が噛み合わない。不幸なことである。

 資金を厭う者は理の必然で困窮に導かれ、その挙句に資金調達商人の世話にならざるを得ない。その資金にはヒモが付いている。気がつけば、資金調達商人にリモートコントロールされている我が身、我が党派がそこにある、ということになるのではないのか。これは現実の話であり、今や歴史的資金調達商人が世界中を操っている。

 それというのも、当初に於いて、個人ないし党派が目的意識的資金化の道を軽視したり厭った咎めではないのか。れんだいこはそう思っている。資金の自前調達、個人献金、業界献金、企業献金、企業経営、はたまた何らかの事業化、マルチ商法も含めそのどれも大いに結構なことではないのか。合法的に為しうることには才覚でもって精を出すべきで、但しカネを貰う場合にはヒモ付きを如何にセーブするかその知恵の器量が問われている。資金手当てには別途の精力が注がれるべきで、ここに下手な理屈を付けてはいけない、れんだいこはそう思っている。

 この観点から見れば、昔よりの井戸塀政治家は政治家の鑑(かがみ)であろう。不幸にして井戸塀しか残らなかった政治家に比して角栄的才覚による蓄財も又、それが合法的に調達されたのであればそれも鏡と云うべきであろう。角栄の場合、政治的識見、手法、立法力、交渉力、資金調達力は皆これ学ぶに値するものがあると云うべきだろう。角栄は政治家の傍らでいくつかの事業を経営していたが、誰か迷惑を蒙ったであろうか。手本になりこそすれ金権批判されねばならぬものはないと思っている。「ロッキード社5億円贈収賄事件」は冤罪と思っているので、他の事例で論じてみよ。逐一、れんだいこが反論してみよう。

 話を戻す。芝田見解の如く、「大学による学生自治会会費代理徴収」を問題とすべきだろうか。繰り返すが、それを政策的是であるとして受取り、真に問題にすべきは、「学生自治会の自主自律的運営手法に於ける学生の当事者能力の練磨」ではなかろうか。この方向にこそ知恵を発揮すべし、というふうに捉えるべきではなかろうか。資金手当ては手段であり、次にやってくるのは真に「自由・自主・自律」な自治会活動をどう構築していくべきかであろう。その結果としての党派化自治会はそれは致し方ない。但し、不正選挙による党派の自治会掌握は許されるべきではない、何事も理想通りにはいかないまでもそのように展望すべきではないのか。

 まさにこのことが問われているのにそれを問わずにただ単に、「大学による学生自治会会費代理徴収問題」を論(あげつら)う芝田見解は、学生運動抑圧者の側に立っていることになる。それが証拠に、右派系が同様見解で学生自治会破壊策動に出てくる可能性が強い。それを思えば、芝田氏は学生運動擁護側ではなく、全くの当局側に位置していると云えよう。そのような芝田見解に職を賭け、実際に職を辞したなどとは、左派イデオローグとしてはどこかネジが狂っているとしか評しようがない。それも分からぬようでは、治癒し難き暗愚者と断ぜざるをえない。

 芝田氏と云えば、70年代初頭において「戦闘的唯物論」なる造語で知られる日共系イデオローグの一人であった。その後、確か党内規律の自由化問題で党中央・不破に叱責され、以来急速に党内権威を失速した。その際の論争の是非軍配はともかく、「大学による学生自治会会費代理徴収問題」に見せる芝田氏の態度は、「戦闘的唯物論」の恐ろしき空疎さを証しているように思われる。

 2005.3.17日 れんだいこ拝





(私論.私見)