吉本隆明の履歴

 (最新見直し2007.8.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、太田龍・氏の履歴を確認しておくことにする。「(ウィキペディア)太田竜」、「太田龍」、「太田龍とは」その他を参照する。

 2006.1.14日 れんだいこ拝


 3.15日、1960―70年代の日本左派運動史上、思想的に大きな影響を与え「戦後思想の巨人」と云われた評論家で詩人の吉本隆明(よしもと・たかあき、音読みして「りゅうめい」と読まれることも多い)氏が肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去した(享年87歳)。長女は漫画家ハルノ宵子、次女は作家よしもとばなな。

 恥ずかしながら、れんだいこは吉本隆明氏の著作を一冊も読んでいない。片言節句を知っているぐらいで妙に縁がなかった。但し、吉本氏が、いわゆる転向論に於いて宮顕の非転向聖像を引き剥がしたこと、日本共産党中央が徳球系から宮顕系に転換した頃から日共批判を露わにし始め、全学連が反日共的な新左翼運動としてのブントを創出し60年安保闘争を牽引するに当たり、その思想的指導者としてブント運動に好意的随伴者であったことにつき高く評価している。とはいえ、転向論につき、れんだいこの転向論研究に照らすと、宮顕批判と云う結果は同じだが論法は真逆なものとなっている。そういうこともあってだろう、どうにも読む気がしなかったと云うのが実際である。そういう拙い関係であるが、吉本氏の逝去に当たり、太田龍に為したと同様の手法で氏の履歴を確認しておく。

 気づいたことは、1970年代後半のロッキード事件につき政論を発表していない。1980年代初頭の中曽根政権、2000年代初頭の小泉政権に対する論評がない。これは左派系且つ新左翼系政治思想家としては不可解なことである。太田龍の切り開いた国際金融資本批判、彼らの信奉するネオシオニズム批判、逆照射で獲得せんとした日本古来の縄文思想の質の高みの称揚、これらが皆無である。そういう意味でどうもしっくりこない。現代思想上の営為に肝心かなめのこれらのテーマに対して無言及の大思想家なんて有り得るだろうか。原発の擁護、オウム真理教に対する安逸な賛辞、これらも気に掛かる。何やら得体の知れない面があるのは確かである。

 2012.3.20日 れんだいこ拝
 戦前の吉本

 1924(大正13).11.25日、東京市月島で誕生。実家は熊本県天草市。

 1937年、12歳の時、東京府立化学工業学校(現 東京都立科学技術高等学校)入学。

 1942年、17歳の時、米沢高等工業学校(現 山形大学工学部)入学。在学時、「武断派」の学生たちから大学に進学すべきか否かで議論が起き、「武断派」の学生たちは「今は国家危急の時だ」と軍隊への入営を、成績上位者で大学受験を許されていた吉本らの学生たち(化学科60人の内、一割の6名)に迫った。 しかし、吉本の「大学にいって専門分野をもっと勉強して、より高い技術を身につけ、お国のために役立てようとすることが、どうして悪いことなんだ」と反論しそれが通り、迷いもあったが戦闘経験のある父のリアルな戦場の話も聞き、東京工業大学に進学したという。

 1943年から宮沢賢治、高村光太郎、小林秀雄、横光利一、保田与重郎 、仏典等の影響下に本格的な詩作をはじめる。

 1945年、東京工業大学に進学。在学中に数学者遠山啓と出会っている。敗戦直後、遠山啓教授が自主講座を開講。「量子論の数学的基礎」を聴講し決定的な衝撃を受けたという。今までに出会った特筆すべき「優れた教育者」として、私塾の今氏乙治と遠山啓の二人をあげている。

 1947年、東京工業大学電気化学科卒業。
 戦後の吉本

 1949年、25歳のとき、「ランボー若しくはカール・マルクスの方法についての諸注」を、「詩文化」に執筆。そこでは、「意識は意識的存在以外の何ものでもないといふマルクスの措定は存在は意識がなければ意識的存在であり得ないといふ逆措定を含む」、「斯かる芸術の本来的意味は、マルクスの所謂唯物史観なるものの本質的原理と激突する。この激突の意味の解析のうちに、僕はあらゆる詩的思想と非詩的思想との一般的逆立の形式を明らかにしたいのだ」と述べている。

 卒業後、中小企業に勤めるが労働組合活動で失職。1949年、東京工業大学大学院特別研究生の試験に合格し、給与を受けながら東京工業大学無機化学教室にもどり稲村耕雄助教授に就く。 
 1950年代の吉本

 1951年、特別研究生前期を終了後、当時インク会社として最大手の東洋インキ製造株式会社青砥工場に就職した。

 1952.8月、詩集「固有時との対話」を自家版として発行。

 1953.9月、詩集「転位のための十篇」を自家版として発行。その第六篇「ちいさな群への挨拶」の一節は「ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる」はよく知られている。これを評価した「荒地」に接近するようになった。

 1954.2月、荒地新人賞を受賞。同人として鮎川信夫らが主宰する「荒地詩集」に参加する。同年6月、現代評論創刊号と12月発行の第2号に「反逆の倫理――マチウ書試論」(改題「マチウ書試論」)を発表。「関係の絶対性」という後に有名になる言葉を初めて使う。この間、詩作を重ね、「固有時との対話」、「転位のための十篇」などで硬質の思想と文体が注目された。戦中戦後の文学者らの戦争責任を追及した。

 1956年、初代全学連委員長の武井昭夫と共同で著した「文学者の戦争責任」(淡路書房)で、戦時中の壺井繁治、岡本潤らの行動を批判。同時に新日本文学会における戦前のプロレタリア文学運動に参加した人物の1950年代当時の行動の是非を厳しく問うた。

 同年、東洋インキ製造株式会社を労働組合運動により退職した。その後は大学時代の恩師・遠山啓の紹介で長井・江崎特許事務所に隔日勤務し、1970年に文筆業で完全に生計を立てることを決心するまでこれを続けた。

 1956年から1960年にかけて、共産党員らの転向問題で評論家の花田清輝氏と論争した。文学者の戦争責任論に端を発し、政治と芸術運動をめぐってなされたその応酬は、最後には吉本の勝利を強く印象づけるような花田の撤退とともに終結した。磯田光一は「吉本隆明論」(1971年、審美社刊)で、「私自身にとって、この論争が戦後文学史上もっとも重要な論争のひとつであったという確信は少しも揺るがない。そこでは『責任』『転向』『政治』『思想』というような最も根本的な概念が、2つの個性の激突を通じて、いやおうなしに問い直される光景」と論じている。

 1958年、戦前の共産主義者たちの転向を論じた「転向論」を現代批評創刊号に発表。共産主義者や日本の知識人(インテリゲンチャ)たちの典型には、1・「高度な近代的要素」と「封建的な要素」が矛盾したまま複雑に抱合した日本の社会が、「知識」を身に付けるにつけ理に合わぬつまらないものに見えてきて一度離れるが、ある時離れたはずのその日本社会に妥当性を見出し、無残に屈伏する(「二段階転向論」)、2・マルクス主義の体系などにより、はじめから現実社会を必要としない思想でオートマチズムにモデリングする(「非転向」=「転向の一形態」)の二つあると論じた。そして宮本顕治を指導部とする日本共産党は、この内の「非転向」に当たり、その論理は原則的サイクルを空転させ、「日本の封建的劣性との対決を回避」しているとして痛烈に批判した。即ち、宮本らの戦時中の「非転向」を価値として認めなかった。この主張は戦時中に反戦を貫き非転向であった共産党員に対して、戦時中の自らの行動と良心の呵責により何も言うことができなかった知識人の風潮の中で、当時斬新であった。

 1959年、「マチウ書試論」、「転向論」等を載せた「芸術的抵抗と挫折」(未來社刊)、「抒情の論理」(未來社)を刊行した。
 1960年代の吉本

 1960.1月、「戦後世代の政治思想」を中央公論に発表。また同誌4月号では共産主義者同盟全学連書記長・島成郎、葉山岳夫らと座談会を行う。60年安保を、先鋭に牽引した全学連主流派に「トロツキストと云われても」積極的に同伴した。その為、同伴知識人第二号と言われた。ちなみに第一号は社会学者の清水幾太郎。

 6月行動委員会を組織し60年安保闘争に積極的に加わる。6.3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加した。6.15日、国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された。この時の様子を、「警官隊の棍棒に追われ、追付かれたものは力いっぱい殴打されている、塀をのりこえるほかに生命を全うして逃げる道がなかった」と述べている。不作為にのりこえた塀の中は警視庁内であり、30数人の学生と共にそこで逮捕された。「重層的な非決定へ」のp.132〜133で 「六・一五事件と私」と題して綴っている。 6.18日、釈放。逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞する。

 60年安保直後、全学連主流派内は、その総括をめぐって混乱状態に陥った。安保ブントが解体状況を露呈し、島は沈黙を守っていた。吉本と島はの関係はその後も密接であり続けた。9月、島の「ノート」(日記)には吉本宅を訪ねた後の感想として「彼の考えは俺とすこぶる共通している」とある。また60年から61年にかけての「ノート」には、「いかにして革命的復活をなしとげるか」として、その成果の一番目に「吉本隆明らの雑誌の発行の目安が付いた」(61年6月25日付け)と記されている。2000.10月の島の死の際には、「沖縄タイムス」の10.22日朝刊に、吉本の「『将たる器』の人」と題する心情あふれる追悼文を書いている。吉本はそこで、「知っている範囲で、谷川雁さんと武井昭夫さんとともに島成郎さんは『将たる器』をもった優れたオルガナイザーだと思ってきた」と述べている。

 1961.6月、「退廃の誘い」と言う論考において、「自立組織が各種各様にある求心的な運動をつづけ、脈絡をつけては、核のほうこうへ繰り込み、また脈絡をルーズにして各種各様の自立的な運動を続けながら徐々に結晶していく」という組織論=運動論を述べている。

 9月、60年安保時のブント書記長であった島成郎がスポンサーを見つけて、「自立の思想」を標榜して雑誌「試行」を創刊(発行部数500部)。最初、谷川雁、村上一郎、吉本隆明の三同人により編集、11号以降は吉本の単独編集で1997.12.19日付発行の74号終刊まで、紆余曲折を伴いつつ36年間継続された。70年後半のピーク時には8000部を超えるまで部数を伸張させた。武井昭夫の回想によれば、「当初、吉本から『試行』発行を吉本、谷川雁、武井昭夫の3人でやらないか」という相談があったという。武井によれば断った理由は、「吉本−花田論争の成り行きをみてきて、吉本さんへの友情はそれとして、かれの考えとはやがて衝突は避けられないだろうという思いから、辞退した」という(武井昭夫対話集「私の戦後ー運動から未来を見る」)。

 吉本は、既成のメディア・ジャーナリズムによらず、ライフワークと目される「言語にとって美とは何か」、「心的現象論」を連載執筆した。その後、国家や家族を原理的に探究した「共同幻想論」や「心的現象論序説」で独自の領域を切り開き、「戦後思想の巨人」と呼ばれた。試行創刊号の吉本筆の編集後記では「試行はここに、いかなる既成の秩序、文化運動からも自立したところで創刊される。(中略) 同人はもちろん、寄稿者も、自己にとってもっとも本質的な、もっとも力をこめた作品を続けるという作業をつづけながら、叙々に結晶するという方策のほかに出発点をもとめないしもとめることにあまり意味を認めない」とその理念を述べている。

 「民主主義の神話 安保闘争の思想的総括」(現代思潮社)。谷川雁、吉本隆明、埴谷雄高、森本和夫、梅本克己、黒田寛一 らが登場している。

 吉本は「自立の思想」、「大衆の原像」という理念を打ち出し既成の左翼運動を徹底して批判した。このスタイルが60年安保闘争で若者たちの理論的な支柱となった。吉本が主張した「自立の思想」―何より国家からの自立を意味する、したがって国家論である「共同幻想論」が構想される―は、「パン」の問題を隠蔽して、あたかも革命的・進歩的であるかのように振舞ういわゆる「知識人」はいかがわしいと変奏され、その後吉本において一貫して主張されることになる。その代表的なものに、1963年、「丸山真男論(増補改稿版)」(一橋新聞部刊)がある。同書で、いわゆる「知識人」のいかがわしさを端的に代表しているのが丸山眞男に象徴される大学教員に他ならないとされ、丸山真男からの「ルサンチマン」との応答を含む激しい論戦が展開された。

 もっとも、吉本の思想に対して、同世代からも疑問をはさむ声も少なくなかった。小熊英二「<民主>と<愛国>」によれば、竹内好は、吉本の論じ方は「非常に文学的とか、あるいは詩的発想」だと述べ、鶴見俊輔は、すべてを「全否定」して純粋さを追求する姿勢に「非常に宗教性を感じる」と指摘し、吉本の「擬制」批判は概要「『すべてのニセモノを倒せ』というスローガンに読み替えられて、学生の純粋好みを結びついた」と評している。

 また、その独特の用語を使用した晦渋な文章は、1960年代後半に学生だった吉田和明によると、「私たちのような並の学生には、とうてい読んでも理解しうるようなナンパな本でもなかった。そして事実解らなかった」と回想されている。やはり当時の大学生だった社会学者の桜井哲夫も、共同幻想論について、「わからないのに無理に飛ばし読みをして、理解できるわずかな部分からのみ、この本を理解しているにすぎなかった」と述べている。それにもかかわらず、吉田によれば、当時の大学では、吉本の著作を「胸にだいじそうにかかえて歩く女子学生、男子学生の姿が流行していた」。吉田はその理由として、学生たちは内容が理解できなくとも、そこにこめられたメタ・メッセージを、「詩でもよむかのように」「心の奥底で感じてしまっていた」からだと述べている。人類学者である山口昌男は、共同幻想論発表当時、同書中の重要概念「対幻想」について、「それは近代の核家族にのみ通用するものではないか」と批判したが、吉本は「チンピラ人類学者」として罵倒を返したのみであった。

 1962年、安保闘争への総括文書である「擬制の終焉」を発表した。「革共全国委が共同をブランキズムとし、市民主義の運動をプチブル運動として、頭のなかに馬糞のようにつめこんだマルクス・エンゲルス・レーニンの言葉の切れつばしを手前味噌にならべたてて、原則的に否定するとき、彼らは資本主義が安定した基盤をもち、労働者階級がたちあがる客観的基盤のない時期 ― いいかえれば前期段階における政治闘争の必然的な過程を理解していないのだ。プチブル急進主義と民主主義しか運動を主導できない段階が、ある意味では必然的過程として存在することを理解できないとき、その原則マルクス主義は、『マルクス主義』主義に転化し、まさに今日、日共がたどっている動脈硬化症状にまで落ちこまざるをえないのである」。

 1963年、「丸山真男論」増補改稿版 (一橋新聞部)、「吉本隆明詩集」(吉本隆明編、思潮社)。

 1964年、「模写と鏡」(春秋社,)。

 1965年、「言語にとって美とはなにか」(勁草書房)を刊行。同年には大江健三郎と江藤淳による「完全責任編集」と銘打った当時の新鋭を各巻に配したアンソロジー「われらの文学」という総題の文学全集全22巻が講談社から発行され、その最終巻は「江藤淳・吉本隆明」であった。

 1965年、「現代詩論大系2 1955-1959上」(思潮社)を編著。編著者は谷川雁、鮎川信夫、吉本隆明、武井昭夫、清岡卓行、鮎川信夫、鶴見俊輔、黒田三郎、中村稔、乾武俊、寺田透、大岡信、関根弘、唐木順三。

 1966年、「高村光太郎」(春秋社)刊行。

 1968年、「共同幻想論」(河出書房新社,)、「情況への発言」(徳間書店)、「模写と鏡 増補版」 (春秋社,)刊行。「吉本隆明詩集 現代詩文庫8」(を思潮社)を刊行。10月、初めての著作集を全集的著作集の形で刊行することになり、「吉本隆明全著作集2初期詩篇1」(勁草書房)を第1回配本として刊行。著作集は1978年まで継続して刊行された。12月、「共同幻想論」(河出書房新社)より刊行した。

 この時代、吉本の論文は大手出版社から普及版として刊行されるほどよく売れ、大衆的な影響力を持つ存在とみなされるようになっていた。吉本の文章は全共闘世代に幅広く読まれた。組織に属さず「大衆の原像」にこだわると同時にそれを阻害するあらゆる権威を批判した「気風(きっぷ)の良さ」が広範に支持を受けた大きな要因と考えられる。いわゆる「ホンネ・ヨゴレシゴト」の保守派と「平和と民主主義」を語るいわゆる「タテマエ・キレイゴト」の戦後民主主義の進歩派がメディアの大枠の議論を二分する状況の中にあって、どちらにも属さず、どちらをも批判する姿勢が共感を呼んだとも考えられる。マルクス主義、スターリン主義の教条主義は否定するがマルクスその人の功績は支持するとする姿勢が受け入れられた。

 原書を読めない為に翻訳書に頼っている吉本に対して、翻訳による誤解や思い込みをアカデミズムの学識者から批判された際、「誤読しか与えないとしたら、まず外国文学者の翻訳の拙さ等を自省すべき」、「現在の欧米のめぼしい文学者や哲学者の本が、全部日本語に翻訳されてわれわれの前におかれたら、(外国文学者の存在価値は)ほとんど無に帰してしまう」、「しんどい難しい手仕事」を怠る中での『キザな語学自慢』の方が問題だ」と反論する歯切れのよさも受けた。

 1970年代の吉本

 
1970年、「自立の思想的拠点」(徳間書店)、「情況」(河出書房新社,)。

 1971年、「心的現象論序説』(北洋社,)、「源実朝」(筑摩書房)。

 1972.5月、「どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集」(鶴見俊輔、磯田光一、江藤淳、小川国夫、竹内好、松原新一、粟津則雄、清岡卓行、島尾敏雄、磯崎新、柄谷行人、筑摩書房)。

 1973年、「敗北の構造 吉本隆明講演集」(弓立社)、「情況への発言 吉本隆明講演集」(徳間書店)。

 1975年、「異端と正系』(現代思潮社)、「詩的乾坤」(国文社)、「書物の解体学」(中央公論社,)、「思想の根源から 吉本隆明対談集」(青土社)、「意識革命宇宙 埴谷雄高対談吉本隆明」(埴谷雄高、吉本隆明、河出書房新社)。

 1976年、「呪縛からの解放」(こぶし書房)、「知の岸辺へ」(弓立社)、「敗北の構造 吉本隆明講演集」(弓立社)、「知の岸辺へ 吉本隆明講演集」(弓立社)。「思想の流儀と原則 吉本隆明対談集」(勁草書房,)、「討議近代詩史」(鮎川信夫、吉本隆明、 大岡信、思潮社)、『近松門左衛門の世界』(中村幸彦、広末保、中村鴈治郎、武智鉄二、桶谷秀昭、郡司正勝、吉本隆明、大東急記念文庫)。「荒地詩集 1954」(荒地同人会編著、田村隆一、北村太郎、伊藤尚志、鮎川信夫、高野喜久雄、衣更着信、黒田三郎、高橋宗近、中江俊夫、吉本隆明、鈴木喜緑、永田助太郎、佐藤木実、野田理一、三好豊一郎、中桐雅夫、木原孝一、高村勝治、加島祥造、北村太郎、R・ホガート、 国文社)。


 1977年、「初期歌謡論」(河出書房新社)。

 1978.9月、「戦後詩史論」(大和書房)。12月、「悲劇の解読」(筑摩書房)。「吉本隆明詩集」(思潮社)。

 フーコーが来日したとき、吉本は蓮實重彦の通訳のもと対談を行っている。フーコーはそのとき二人で往復書簡を行うことを提案し、吉本は「道元とヘーゲル」に関する論考をフーコーに送ったが、議論は以後生産的に展開されえず、人文知における多言語コミュニケーションの難しさを示すにとどまった。

 1978.12月、「ダーウィンを超えて 今西進化論講義」(今西錦司、吉本隆明、朝日出版社)。

 1970年代に谷沢永一との間にかわされた論争では、谷沢の理路整然とした反論に、感情的な言葉を返すのみであり、「吉本の数少ない敗北」とされた。

 1980年代の吉本


 1980.2月、「初源への言葉」(青土社)。6月、「世界認識の方法」(中央公論社)。

 1981年、「最後の親鸞」(春秋社)、「言葉という思想」(弓立社)。7月、「詩の読解」(鮎川信夫,吉本隆明 思潮社)。

 中野孝次らが発起人となって500人以上の文学者の賛同署名を集め、2千万人の署名運動に進展し、翌年には35万人が集会に参加した文学者の反核声明を批判した。「結局アメリカを『戦争挑発の資本主義国』、ソ連を』平和勢力』とすることにしかならない」と反「反核声明」を意思表示した。批判に対して、概要「別に核戦争に賛成しているわけではない、反反核声明に反対しているだけである。それを行っただけで自分がすぐに原爆賛成派、戦争肯定派にしたてあげられていく状況は、誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義を振りかざすものがまかり通る社会ファシズムであり戦前の日本文学報国会の裏返しだ」と応答した。

 このころから著書も、思想家としては異例なほど多数のものを執筆、刊行するようになる。元々、大学等に属さず在野の人であった吉本は、売文家としての意識が強い人であったが、だとしても異常な量である。

 1982.1月、『鮎川信夫論』 (思潮社)。3月、『心的現象論序説 改訂新版』(角川書店)。4月、『空虚としての主題』(福武書店)。『僧としての良寛 吉本隆明講演録』(「修羅」出版部)、『「反核」異論』(深夜叢書社)。文学者の反核運動を批判し、埴谷雄高氏と論争した。『思想読本 親鸞』(吉本隆明編 法藏館)。

 1983.5月、『素人の時代 吉本隆明対談集』(大西巨人、大庭みな子、小川国夫、沢木耕太郎、島尾敏雄、寺山修司、水上勉、角川書店)。7月、『教育学校思想』(日本エディタースクール出版部,)。4月、『最後の親鸞 増補新版』(春秋社)。『教育・学校・思想』(吉本隆明, 山本哲士 日本エディタースクール出版部)。10月、『相対幻論』(栗本慎一郎, 吉本隆明、 冬樹社)。

 1984.10月、『親鸞 不知火よりのことづて』(日本エディタースクール出版部,)。12月、『大衆としての現在 極言私語』(吉本隆明語り、安達史人聴き手 北宋社)、『マス・イメージ論』(福武書店)。

 1985.1月、『隠遁の構造 良寛論』(修羅出版部)、『対幻想 n個の性をめぐって』(春秋社)、『現在における差異』(福武書店)。『現在における差異 吉本隆明対話集』(福武書店)。6月、『死の位相学』(潮出版社, )。9月、『源氏物語論』(大和書房)、『重層的な非決定へ』(大和書房)。10月、『難かしい話題 吉本隆明対談集』(青土社)。11月、『全否定の原理と倫理』(鮎川信夫、吉本隆明 思潮社)。

 1986.1月、『音楽機械論 Electronic dionysos』(トレヴィル)、『遊びと精神医学』(町沢静夫、吉本隆明 創元社)。5月、『さまざまな刺戟 吉本隆明対談集』(青土社)。6月、『思想の流儀と原則 増補』(勁草書房)、『思想の流儀と原則 吉本隆明対談集』増補新装(勁草書房)。7月、『不断革命の時代 吉本隆明対談集』(河出書房新社,)。10月、『〈知〉のパトグラフィー 近代文学から現代をみる』(海鳴社)、『白熱化した言葉 吉本隆明文学思想講演集』(思潮社,)。11月、『都市とエロス 対話』(吉本隆明,出口裕弘、深夜叢書社)。12月、『記号の森の伝説歌 長編詩』(角川書店)、『漱石的主題』(春秋社)。

 1987.8月、『夏を越した映画 戦争・ホラー・SF・アニメ』(潮出版社)。10月、『よろこばしい邂逅 吉本隆明対談集』(青土社)。11月、『超西欧的まで』(弓立社)。12月、『幻の王朝から現代都市へ ハイ・イメージの横断』(河合文化教育研究所)。

 1988.2月、『いま、吉本隆明25時 1987年9月12〜13日東京・品川/寺田倉庫T-33号館で行われた24時間連続講演と討論・全記録』(弓立社) 。6月、『人間と死』(吉本隆明ほか著、春秋社)。10月、『吉本隆明〈太宰治を〉語る シンポジウム津軽・弘前 '88の記録』(吉本隆明ほか著、大和書房)。12月、『吉本隆明全キリスト教論集成』(春秋社)。

 1989.1月、『吉本隆明全天皇制・宗教論集成』(春秋社)。2月、『書物の現在』(吉本隆明ほか著 書肆風の薔薇)。7月、『宮沢賢治』(筑摩書房)、『琉球弧の喚起力と南島論』(吉本隆明ほか著 河出書房新社)。9月、『像としての都市 吉本隆明・都市論集』(弓立社)。『ハイ・イメージ論1.2』(福武書店, 1989年−90年)、『言葉からの触手』(河出書房新社)。

 ロック音楽や漫画、ファッションに時代の感性を探り、サブカルチャーの意味を積極的に掘り起こした「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」を刊行。時代状況への発言は容赦なく、反核運動も原理的に批判した。(「ウィキペディア吉本隆明」)

 1980年代に入ると当時の豊かな消費社会の発生と連動し、テレビや漫画・アニメなどを論じた『マス・イメージ論』や、主に都市論の『ハイ・イメージ論I〜III』を発表。サブカルチャーを評価し、忌野清志郎・坂本龍一・ビートたけしらを評価した。また、『共同幻想論』、『言語にとって美とは何か』、『心的現象論序説』など、代表著作が角川文庫から刊行された。「80年代消費社会」のシンボルとなったコピーライター糸井重里とは対談等も行って親しくなり、現在まで交流が続いている。(糸井は、2008年7月19日に2千人の聴衆を集めた吉本の講演会の協力者となっている)。また、ザ・スターリンというパンクバンドのボーカルであった遠藤ミチロウは吉本隆明に強い影響を受けている。

 このように1980年代当時の消費社会・サブカルチャーの興隆に棹差した流れの中で1984年、女性誌『an・an』誌上に川久保玲のコム・デ・ギャルソンを着て登場。埴谷雄高から「資本主義のぼったくり商品を着ている」と批判を受けるなど、吉本の「転向」が取り沙汰される。吉本は「『進歩』や『左翼』だと思っていたものが、半世紀以上経ってみたら、表看板であるプロレタリアートの解放戦争で、資本主義国におくれをとってしまったことが明瞭になってしまった。この事実を踏まえなければ何もはじまらないというのが『現在』の課題の根底にある」「こういう『現在』の課題を踏まえることは、資本制自体を肯定することとも、資本主義には何も肯定的問題はないということとも全く違う」と応答している。なお同時期、吉本は埴谷雄高の「スターリン主義的左翼文化理念」と異なるだけで、自らを「左翼」であるとしている。

 1986年、チェルノブイリ原発事故から盛り上がった反原発運動も批判、概要「反核が反原発に、そしてエコロジーに収斂するのは、ぞおっとするほど蒙昧だ」とした。(#関わった論争なども参照)。「原発促進派ではありえないが、反原発には反対」とし、概要「文明史の到達点としての原発を否定する左翼、進歩反動たちは、文明史にたいする反動的理念であり、原子力発電所の安全性・地域経済利害・科学技術・文明史の具体的問題を反核・反原発・エコロジーなどと一緒くたにして、原始的自然に退行して一点に凝縮させると、とんでもない蒙昧が生み出される」、「みんな絶対的に正しいことをのどから手が出るほど欲しがっている」、「現在が不安で、自分たちが築いた文明を背負うのに疲れている」とした。

 1988年、忌野清志郎が反原発ソングを歌い、メジャーレコードから発売中止になった件に関して、「サブカルチャーの領域では、清志朗を反原発などというハレンチをロックにして歌ったりしない、しなやかで鋭い最後のアーティストと思っていた」が「買い被りかな?」とした。

 盟友だった作家で評論家の埴谷雄高などとの1980年代の論争では激烈な言葉の応酬が続いた。 

 2000年代の吉本

 2000.6月、『写生の物語』(講談社)。2001.3月、『幸福論』(青春出版社)。6月、『心とは何か』(弓立社,)、『悪人正機 Only is not lonely』(朝日出版社)、『心とは何か 心的現象論入門』(弓立社)、『中学生の教科書 美への渇き』吉本隆明ほか著 四谷ラウンド)。7月、『だいたいで、いいじゃない。』(吉本隆明、大塚英志、文藝春秋)。9月、『今に生きる親鸞』(講談社+α新書)、『柳田国男論・丸山真男論』 (ちくま学芸文庫)、『超「20世紀論」上下』(吉本隆明著、田近伸和聞き手 アスコム)。10月、『<老い>の現在進行形 介護の職人、吉本隆明に会いにいく』(吉本隆明、三好春樹、春秋社)。11月、『食べもの探訪記』(光芒社)、『読書の方法 なにを、どう読むか』(光文社)。

 2001.9.11日のアメリカ同時多発テロに関して、2002年、『超・戦争論』という書物を刊行し、アメリカ対イスラム原理主義は「近代主義的な迷妄」対「原始的な迷妄」の戦いであり、特に「自由」という観点からいえば「両者とも自由にたいして迷妄である」とし、21世紀の課題は国民「国家を開いていく」ことだと述べた。また「地球規模での贈与経済をかんがえなくてはならない」ともしている。また「日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向を指していることは疑念の余地がない。それは断言できる」と述べている。 

 2002.4月、『吉本隆明のメディアを疑え あふれる報道から「真実」を読み取る法』(青春出版社)。6月、『老いの流儀』(日本放送出版協会)。11月、『夏目漱石を読む』(筑摩書房)。12月、『ひきこもれ ひとりの時間をもつということ』(大和書房,)、『超「戦争論」上下』(吉本隆明述 田近伸和聞き手 アスコム)。

 2002年の『超戦争論』においては、先のことは分からないとしながらも、「21世紀の半ばくらいには、(・・・)「資本主義はこの先どうするんだ?」という(・・・)課題が、より本格的な形ででてくる」「世界の資本主義の全体的な行き詰まり、全体的な地盤沈下ということが予測される」「世界の資本主義が全体的に地盤沈下するという、その一番の兆候は何かっていえば、それこそ、G7に集う各先進資本主義国が同時多発的に不況に陥ったときである」、「近代主義経済学とは違った等価交換のあり方を21世紀には模索しなければいけない」と述べている。

 2003.2月、『日々を味わう贅沢 老いの中で見つけたささやかな愉しみ』(青春出版社)。4月、『現代日本の詩歌』(毎日新聞社)。12月、『異形の心的現象 統合失調症と文学の表現世界』(批評社)。

 2003年、『夏目漱石を読む』で小林秀雄賞を、『吉本隆明全詩集』で藤村記念歴程賞を受賞した。

 2004.1月、『「ならずもの国家」異論』(光文社)。2月、『人生とは何か』(弓立社)。4月、『吉本隆明代表詩選』(思潮社)。7月、『漱石の巨きな旅』(日本放送出版協会)。8月、『戦争と平和』(文芸社)。9月、『超恋愛論』(大和書房)。11月、『仏教論集成』(春秋社)。

 2005.1月、『際限のない詩魂 わが出会いの詩人たち』(思潮社)。3月、『吉本隆明「食」を語る』(朝日新聞社)、『中学生のための社会科』(市井文学,)。6月、『幼年論 21世紀の対幻想について』()。7月、『時代病』(ウェイツ)、『時代病』 (吉本隆明,高岡健 ウェイツ)。8月、『子供はぜーんぶわかってる 超「教師論」・超「子供論」』(吉本隆明述、向井吉人、尾崎光弘聞き手、批評社)。9月、『13歳は二度あるか 「現在を生きる自分」を考える』(大和書房)。『歴史としての天皇制』(吉本隆明、網野善彦、川村湊、作品社)。

 2006.1月、『詩学叙説』(思潮社)。3月、『家族のゆくえ』(光文社)、『詩とはなにか 世界を凍らせる言葉』(思潮社, )、『カール・マルクス』(光文社文庫)。5月、『還りのことば 吉本隆明と親鸞という主題』(雲母書房)、『老いの超え方』(朝日新聞社)、『還りのことば』(吉本隆明,芹沢俊介、菅瀬融爾、今津芳文、雲母書房)。7月、『初期ノート』(光文社文庫)。9月、『甦るヴェイユ』(洋泉社)。10月、『思想とはなにか』(春秋社)。11月、『生涯現役』(洋泉社)。

 2007.1月、『思想のアンソロジー』(筑摩書房)。2月、『真贋』(講談社インターナショナル)。6月、『吉本隆明自著を語る』(ロッキング・オン)。9月、『よせやぃ。』(ウェイツ)。

 2008.1月、『日本語のゆくえ』(光文社)、『「情況への発言」全集成1 1962〜1975』(洋泉社MC新書)。3月、『「情況への発言」全集成2 1976〜1983』(洋泉社同)。5月、『「情況への発言」全集成3 1984〜1997』(洋泉社同)。7月、『心的現象論・本論』(文化科学高等研究院出版局)。『 「芸術言語論」への覚書』 (李白社)、『貧困と思想』(青土社)、『日本近代文学の名作』 (新潮文庫)。

 2008年には「試行」上で1997年の終刊まで執筆した『心的現象論・本論』が文化科学高等研究院出版局から出版された。

 また同年には、『蟹工船』が60万部のベストセラーになったことに関連して、情報技術の興隆、格差社会、ワーキングプアについて論じ、「物事や人間を党派に分けて判断するという感じ方が、全般的に崩れ」たことを評価し、しかし同時に「いいものはいいし、悪いものは悪いという原則もなくなった」「この社会に生きることのどこにいいところがあるのか、と言われたら、どこにもないよと言うより仕方がない。もし、もっといい方向を探し出そうとするなら、変化の兆候をよく見極めることが重要」と述べた。

 また同年に、かっての1980年代の埴谷雄高との消費社会に関する論争をふりかえり、現在を、「消費産業(第三次産業)の担い手である通信・情報担当の科学技術により、(1980年代の)情況判断はさらにわたしの思考力を超えて劇的に展開した」「ことに科学的には少しの思いつきを追ったに過ぎないと思えることが莫大な富の権力にむすびつきうるという事態の怖さを見せつけた」「地域の空間と時間の無境界化に対応したり対抗したりする思考や思想も私たちはもっていない」、「情報科学と交通理念は、グローバルな独占支配の手段以外にこれを変更することができない第二の天然自然と化しつつある」と述べた。そして、日本の現状を、「ここ3、4年前から日本国は第二の戦後期(敗戦期)に転化しつつある」、「しかも日本国の(第二の)戦後は完全に戦後を絶たれたと断言してもいい」、「戦後も戦中も戦前も、『未来』と一緒に切断された」と述べている。

 2009年、『詩の力』(新潮文庫)。第19回宮沢賢治賞受賞。

 2012.3.16日、肺炎のため東京都の日本医科大学付属病院で逝去。満87歳没。


【太田龍・氏の歴史観の変化】




(私論.私見)